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インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「ペラペラ」だなんておこがましくてとても言えない

ことば

もうずいぶん前のことですけど、毎日新聞に「村上春樹さん、村上文学を語る」という特集記事が載っていました。当時はウェブ版に未掲載でしたが、今はネットで一部が読めるようになっています。例えばこちら。

www.47news.jp

この中で村上氏にインタビューした編集者が「外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」と仰っています。外語を学べば、その言語を使う人々と話ができる「実利」があるのはもちろんだけれど、それのみならず母語の世界を広げることにもなるというのがおもしろいと思いました。

そうなんですよね。外語を学ぶ時によく「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」などといった形容が聞かれますが、外語を学ぶことは必ずしも外国人と「かっこよく」コミュニケーションすることだけが目的じゃありません。語学の達人と呼ばれるあまたの先人の言に接してみれば分かることですが、外語を学べば、おのずと視線は母語に向かうようです。さらに言えば、外語学習は実は母語との往還作業であり、母語がベースとなって初めて外語という新たで豊かなフロンティアが開けるものなのです。

だから外語を学べば学ぶほど、母語の豊かさが外語の伸びしろを担保しているのだということが分かります。死ぬまで一生懸命に勉強しても母語で言えること以上に高度なことが言える外語の使い手にはなれないという事実*1の前になんだか謙虚な気持ちになり、したがって「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」とか「バイリンガル」などといった形容を使えなくなります。とてもじゃないけどおこがましくて。

私はこの十数年ほど、仕事でかなりの時間をディクテーション(音声を文字に書き起こすこと)に割いてきました。それは教材作りであったり、台本のない映像(バラエティ番組やインタビューなど)の字幕作成であったり、時に自分の興味からや語学の基礎訓練のためであったりもしましたが、とにかく様々な年齢層、様々な職業の中国語母語話者の発言を一字一句書き起こす作業を続けてきました。

それらの発言は、ほとんどが原稿を読み上げるのではなく、その場でその方が「フリーハンド」で語っているものばかりです。その何百人もの中国語母語話者の発言を書き起こしていて今さらながらに気づいたのは、母語話者であっても、その母語のレベルは様々であるという当たり前の事実でした。日本語が母語の日本人だって、ほれぼれするような言葉の使い手がいる一方で、「美味しい」も「美しい」も「感動した」も「失敗した」も「気持ちいい」も「気持ち悪い」もすべて「ヤバイ」で済ませちゃう方もいる。

もちろん私は日本語母語話者ですから、基本的にはどんな発言であっても自分にとっては外語の貴重な教材になります。ところが、やっぱり外語であっても「しょーもない」発言は「しょーもない」し、含蓄のある発言はすぐさま座右の銘に加えたいくらい含蓄があるのです。いや、本当に当たり前のことなんですけど。

村上春樹氏は「外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」そうですが、もともとの日本語が貧弱であれば、いかに外国語を媒介にしようとも新たな日本語の文体は生まれ得なかったはずです。日本で生まれて日本に暮らしている日本人なら日本語ができて当たり前、でもそれでは今後グローバル化して行く世界に乗り遅れちゃうからまずは英語ペラペラに……とつい浮き足立つ昨今ですけど、まずは自分の母語を充実させる努力が大切だと改めて思ったのでした。

*1:幼少期の母語が移民などの結果失われて、外語が新たな母語になるというケースはあり得るでしょうけど。