インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

無理して知ろうとしない

NHKの『世界ふれあい街歩き』、いつも楽しみに見ているこの番組の先回は、イタリアはシチリア島の都市、パレルモの巻でした。

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「古代から東ローマ、イスラム、ノルマン、スペインなど支配者が代わった歴史が、異文化に寛容で独特な文化を生んできた」(番組ウェブサイトより)というこの街。終盤近くで様々な民族の人々が一緒に集って歌っているグループに「誰でも受け入れるんですね」と声をかけると、「それはちょっと違う。受け入れるというと努力してるみたいだけど、僕らは無理して知ろうとしない。違いを楽しむだけ」と地元の人が言っていたのが印象に残りました。これはなかなかに深いお言葉ではありませんか。

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いま、日本の私たちには、この「違いを楽しむ」というスタンスがかなり欠けているのではないかと思いました。外国人観光客が繁華街にあふれ、外国人労働者の受け入れも拡大されている中、私たちはこの「無理して知ろうとせず、違いを楽しむ」という肩の力の抜けた達観にはまだまだ至っていません。外国人のみならず、同性婚や選択的夫婦別姓すらその許容までにはまだまだ遠い道のりを感じさせる現状です。そうした多様性を認めても、誰も少しも困りはしないというのに。

でも、そうした多様性の受容を頭ごなしに求めても、頑なな人の心はますます頑なになるだけだとも思います。要はそういうものに慣れていないのです。訓練ができていない、あるいは訓練をするチャンスが少なかった。うちの家族や親戚なども、帰省するたびにあまりにもプリミティブな外国人観・異文化観にうんざりすることが多いのですが、それもまた訓練ができていないと考えればそう不思議ではないのかもしれません。

そういう意味で私は、外国人や異文化を体現している人々と日常的につきあう職場で働いてこられたことを役得だと思っています。そして、語学とは本来そうした訓練ができるものとして教育の中に位置づけられるべきものであるとも強く思います。ことに昨今、小学生から、いや幼児期から早期英語教育だと官民挙げて力を入れつつあるこの国ですが、あまり語学というものを単なる「コミュニケーションのツール」などという狭いカテゴリーに押し込んでしまわないよう望みます。

早期英語教育が(早期中国語教育でも何でもいいのですが)将来就職に有利だからみたいな「ちっこい」目的だけじゃなくて、もっともっと広く深い異文化理解・多様性の受容に視点を置いたものであれば、諸手を挙げて賛成なんですけど……。

文部科学省の平成29年度告示になる「小学校学習指導要領 外国語活動・外国語編」では、「多様性」や「異文化」という言葉が非常に少ないのですが、それでも「一人一人が持続可能な社会の担い手として、その多様性を原動力とし、質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につながる新たな価値を生み出していくこと」とか「日本の文化と異文化との比較により、様々な考え方があることに気付く」などという文言はかろうじて見つけることができます。

現場の先生方にはぜひこの部分を「超拡大解釈」していただき、外語(外国語)学習のベースとしての異文化や多様性への理解、またそもそも言語とは何か、言語の壁を乗り越えるとはどういうことかなどの「言語リテラシー」とでも言うべき基礎的な教養の涵養に力を注いでいただきたいと切に願います。私も私の持ち場で努力しようと思います。