インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

それは視野の狭い教育観ではないでしょうか

お正月休みに、ネットで検索している途中でこの番組を見つけ、「無料配信中」の惹句に誘われて視聴してみました。「元大阪市市長の橋下徹氏が新党を立ち上げたらどんな政策を提言するのか」という設定でのトーク番組です。

https://abema.tv/video/episode/89-77_s10_p12abema.tv

特に教育に関する部分について、教員免許をお持ちで、かつて学校の先生も経験された乙武洋匡氏の意見に興味がありました。番組の議論ではいろいろと面白い見解(特に堀潤氏)に接しましたが、こと教育に関する部分については乙武洋匡氏・橋下徹氏ともに、かなり視野が狭いのではないかと思いました。

https://abematimes.com/posts/5496054abematimes.com

世上、「学校の先生なんて、子供ばかり相手にして、民間企業での経験もないから、世間知らずだ」という批判(悪口?)があります。私もかつていくつかの会社で働いた後に教育の世界に入ったので、そういう批判についうなずきたくなる部分もあるのですが、まあこれは「十把一絡げ」のそしりは免れないでしょう。

乙武洋匡氏の主張の骨子は、大学の教職課程をきちんと履修して免許を取るような真面目で、その反面多様な人生経験を経ていない人ばかりが教員になっているからこその教育の硬直化、ということになるのでしょう。でも、本当にそうでしょうか。当たり前のことですが、教育現場も様々ですし、教員にもいろいろな人がいます。学生時代にいろいろ豊かな経験をして、遊びも存分に堪能したうえで、なおかつきちんと努力して教員免許を取った方だって大勢いるんじゃないでしょうか。

まあテレビ番組ですから、乙武氏も多少刺激的な問題提起をされているのだと思いますが、これはちょっと橋下氏の「グレートリセット」的改革観に浸食されすぎだと思います。教育は、特に義務教育段階は、ガラッポンで変えてみて「あら? 失敗しちゃいました」で済まず、取り返しがつきません。だからこそ長い時間をかけて微調整が行われつつ現在の状態に帰着しているのです。時代に合わせて変えていくことは必要ですが、それは漸進的でなければなりません。これは教育というもののある種の宿命だと思います。


英語教育について

この番組で橋下徹氏は、英語教員の免許はどうなっているのかと問い、「俺、中学校、高校、大学で十年、英語習っても何にもしゃべれないもん。教え方がおかしいと思う」と言っています。これ、よくある勘違いのひとつで、あまたの先人が繰り返しその矛盾を指摘していることですが、週に数時間で十年学んでも、それを「語学を十年学んだ」とは言えません。あまりにも大雑把すぎる議論の前提です。

また橋下氏は「最初に“This is a pen.”かなんかが入るけど、あれネイティブの人に聞いたら、まず言わないって言うもんね。日常生活では絶対に使わないと。『これは』っていちいち言わなくても(目の前に見えていて)みんな分かってるわけだから」とも揶揄しています。これも語学を巡る、よくある勘違いのひとつです。

これは、語学を単なるコミュニケーションのツールとして捉えるかどうかという観点です。もちろん語学には「使えてナンボ」という側面もあってそれも重要ではありますが、それはその語学を本当に、今すぐ待ったなしで必要とする人(生活するとか仕事をするとか)の場合です。学校教育、それも初中等の段階では、語学はむしろ母語との世界観の違い(森羅万象の切り取り方の違い)を体感し、母語をより豊かにするために位置づけられるべきものだと私は思います。また異文化や異民族との違いを体感し、より公平でフラットな人間観を育むためのものであるべきだとも。

“This is a pen.”から学ぶのがよいかどうか(学習者の興味を引くかどうか)については議論があってよいと思いますが、畢竟これは文法を理解させようとするための設定なんですよね。子供は文法など気にせずどんどん話せるようになるとか、ネイティブ(スピーカー)は「そんなこと言わない」と言ってるとか、巷には語学に関するずいぶん乱暴な議論があふれていますが、その種の、母語と外語の違いさえも踏まえていないような議論に与してはいけません。語学(第二言語学習)は、もちろん文法だけに偏ってはいけませんが、かといって文法を軽視してもいけないのです。

ただし、「選択制でいいんじゃないの」というこの番組全体の議論、語学に関しては賛成です。小学校低学年から、週に数時間でだらだらと外語(なかんずく英語)を学ぶなど、いちばん非効率(イヤな言葉ですが)なやり方なのです。外語は、必要になった方が、その時から寝食忘れて死に物狂いで、がおすすめです。

数学について

橋下氏はよほど学者や教員がお嫌いなようで、こうもおっしゃっています。「インテリの学者とかはみんな、ああいうのは役に立つ役に立つって言うんだけど、役に立ってるものなんてほとんどないもんね。小学校、中学校、高校とかで勉強で習ったことは」。

それに応えて乙武氏が「サイン・コサイン・タンジェントを使ったことがない」と声を上げると、橋下氏「どこで使うの?サインコサインとか」、鈴木涼美氏「因数分解とかも使わないよね」、サバンナ高橋氏「なんで上底と下底を足させとんねん」、橋下氏「元素記号も使ったことないしさ」……と番組はがぜん盛り上がります。そして最後に「それ(そういう専門的なこと)は選択でいいんじゃないか」と結ぶのです。

でもこれは短見というものではないでしょうか。三角関数因数分解や幾何の公式や元素記号などを学ぶのは、のちのち使うか使わないかではなく、つまり実学のためではなく(人により実学にもなるけど)、そういう知見を学ぶことで抽象的な思考や想像力などが鍛えられ、それが豊かな人格を育むことに寄与するからです。教育は、コインを入れてボタンを押したら商品が出る自販機みたいに単純なものじゃありません。

教養について

橋下氏は上記の議論を受けて「勉強ができている人はそういうのも教養だと言うんだけど、そういう連中をもう取っ払わないといけない」と息巻くのですが、私は世界が新しい方向に向かいつつある今ほど、つまり、格差が広がり、内向きの保守主義が台頭し、AIなどの技術が暮らしを変えつつある今とこれからほど、幅広い教養が必要な時代はないと思っています。

この議論では、「ネットを検索すればわかる(だから専門的な知識をみんな平等に学ぶ必要はない)」というようなことをおっしゃる橋下氏に対して、堀潤氏が真逆の意見をおっしゃっていたのが面白かったです(真逆なので、スルーされちゃったけど)。いわく「僕、大学で教えてるんですけど、学生たちが僕がちょっとなんか言うと先生それ(ネットで)調べればすぐ出てきますっていうんだけど、学生に言うのはインターネットの中に入っていることって全部過去だよ。みんな未来を作るためにここにいるのに、過去を見ておもしろいのって」。

なるほど、私も授業中に「分からない→すぐスマホで検索」とか「だってウィキペディアに書いてありました」という生徒に対して日々「まずは自分の頭で考えてみましょう」と繰り返し伝えているのですが、この堀氏のお話、こんど拝借してみようかな。