インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

中国の英語不要論

『wisdom』に掲載されていた田中信彦氏のこちらの記事、とても興味深く読みました。中国で「英語不要論」への共感が高まりつつある、というお話です。

wisdom.nec.com

田中氏は、こうした英語不要論の背景にあるものを分かりやすく五つに分類して解説されています。

①国力の増大にともなうナショナリズムの高まり、伝統文化の再評価
②米国を中心とした西側民主主義社会への失望感
③試験地獄、子供の学習負担が重すぎることへの反省機運
④ITによる異言語コミュニケーション手段の進化
⑤「中華文明論」の台頭

どれも実に興味深いです。そして現在の中国の勢いからすればこうした論が台頭してくるのは当たり前だろうなあと思うとともに、「英語を学ぶのは、それが自分たちに有利だからであって、別に英語がなくても困らなくなれば、その必要はない」という、田中氏がおっしゃるところの「極めて実用主義的な発想」も中国らしいなあと。私自身も日々こうした華人(チャイニーズの人々)の透徹したリアリズムに驚嘆し、圧倒されている人間なので、こうしたメンタリティはとてもよく分かります。

それと同時に、①②⑤はまだしも、③と④については日本の私たちも一考に値するのではないかと思いました。このブログでも前々から申し上げていますが、私はいまの日本における「狂奔」とでも言うべき英語教育への傾倒は見直すべき時期に来ていると思います。

具体的には、誰も彼もがひとしなみに、幼少時から、英語教育に少なからぬ時間を費やすことをやめ、英語を含む外語は必要になった人が必要になったときから(しかしその際は寝食を忘れる勢いで)とし、そのぶん母語である日本語の十分な涵養に努めるべき、というものです。周囲に申し上げてもきわめてウケが悪い意見ですが。

ウケが悪い理由は比較的明らかで、私のような意見を実現しようとすると、それはいわゆるエリート教育のようなものを肯定することにつながるからなのだと思います。ただでさえ格差の広がりが問題になっているというのに、その上「グローバルな世界につながることができる英語という手段を全員に与える」といういまの方針にお前は水を差すというのか、というわけです。

でも、実際に英語を手段として「グローバルな世界」とやらを飛び回って活躍する人がどれだけいるでしょうか、あるいはどれだけ必要なのでしょうか。田中氏の論考にもあるように、「中国国内で日常の仕事に英語が必要なケースは多くない。実務上、英語が不可欠な人は大卒以上に限っても10%程度との見方もある」とのこと。日本だって同じようなものではないかと思います。

人口減少に転じたとはいえ、日本はまだ当面は世界でも十指に入る「巨大国家」です(人口が一億人以上いる国は世界でも十あまりしかありません*1)。

外語の習得には膨大な時間が必要です。日本人の大多数が、その人生のかなりの部分を英語(やその他の語学)に捧げてしまっていいのでしょうか。この国には日本語だけを使って行われる、若い人に引き継いでいってもらわなければならない仕事がたくさんあります。全員が英語をはじめとする語学に血道を上げているような余裕はないのです。

英語やその他の外語を使って世界を飛び回る人もある程度は必要ですが、それと同じかそれとは比べものにならないほど多くの人が日本語で仕事をしています。今も、これからも。医療も、介護も、食糧生産も、公共サービスも、建築も、インフラ整備・保守・管理も、治安も……。世界がグローバル化しているからといって、ここ数年で一気にそれが完了するわけでもありません。何十年というスパンで物事を見るべきだし、その間にも私たちは働いて食べて生きていかなければならないのです。

qianchong.hatenablog.com

さらに、これは語学教師としてはタブーに近いものいいかもしれませんが、上掲の④、つまり「ITによる異言語コミュニケーション手段の進化」も正面から見据えるべきだと思います。正直、GoogleやDeepLなどのネットにおける機械翻訳も、その技術や精度は日進月歩です。飛び抜けた精度や言葉の後ろにかくれた意図まで反映させる必要のあるハイエンドな要求にはまだまだ応えられなくても、日常的に例えば外語のニュース記事を読むなどの情報収集レベルであればかなり実用的になってきました。

ということであれば、そしてこれからももっと精度が上がって行くであろうことを考えれば、誰も彼もが外語、なかんずく英語の学習にあたら人生を浪費することはやめて、そのぶんそれぞれの適性にあったそれぞれのやりたいことに邁進していった方がいいのではあるまいか、そう思うのです。

何事にも「向き不向き」はあります。それはどんな分野においても同じであり、それを疑う人はほとんどいないどころか、それぞれの個性に合わせて進む方向を選ぶべきだとの考えに反対する人はほとんどいないのに、こと英語(やその他の外語)に関してだけはその「向き不向き」が一切持ち出されず、一律に学ばされることにだれも異を唱えないというのは、よく考えてみればおかしいではありませんか。『wisdom』のようなメディアを読まれるビジネスパーソンお好みの表現に寄せて申し上げれば、狂奔ともいうべき英語教育への傾倒は、明らかにこの国のリソースを蕩尽しているうえに、きわめてリターンの悪い投資であると言わざるを得ません。

それを指摘しはじめた中国人のみなさんは、やはり透徹したリアリズムの持ち主だと改めて思いました。とはいえ、中国語を生業としている私でさえ「世界共通語として中国語が英語の地位に取って代わる可能性は、現状、ほとんど妄想のレベル」という田中氏のご意見にはまったくもって同感ですけれど。

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https://www.irasutoya.com/2019/01/blog-post_953.html

*1:多い順に中国、インド、アメリカ、インドネシア、ブラジル、パキスタン、ナイジェリア、バングラデシュ、ロシア、日本、メキシコ、フィリピン。