インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

運命 文在寅自伝

むかしむかし、中国の大学に留学していた頃、寮のルームメイトは韓国人の青年でした。とても真面目で親切な方で、年上の私を気遣って接してくれる*1ものですからこちらが恐縮してしまうほどでした。その縁で同じ留学生寮に住む別の韓国人留学生の部屋に遊びに行ったりもしていました。

あるとき、その韓国人留学生の部屋で「飲み会」をしていて、私が好きな韓国の映画や音楽や食べ物の話などをしてみんなで盛り上がっていたら、とある韓国人留学生がぽつりとこんなことを言いました。「どうしてほかの日本人留学生は、韓国のことをほとんど何も知らないの?」。虚を突かれた思いでした。「知らない……って?」

当時、私が留学していた大学には数百人の日本人留学生がいたのですが、日本人留学生から韓国の話題を振ってくることはほとんどないというのです。あんたは韓国にそれなりに興味があるようだけど、そういう日本人留学生は少ない。それはなぜかという問いでした。

私はたまたま在日韓国人の知人や友人がいて、韓国語をかじったこともあり、韓国の映画や音楽が好きだったというだけなんですけど、そうか、韓国の方々が日本に寄せる興味の度合いほどには日本の我々は韓国に興味を寄せていないのかと思いました。まだ「韓流ドラマ」や「K-POP」などが人気になる前の時代のことです。

何十年も前のこんなやりとりを思い出したのは、文在寅ムン・ジェイン)氏の自伝『運命』を読んだからです。前大統領の朴槿恵(パク・クネ)氏が弾劾された後の選挙で勝利し、大統領に就任した文氏。その後南北首脳会談を二度にわたって実現させ、さらには北朝鮮キム・ジョンウン氏と米国のトランプ氏による会談をお膳立てするなど、大きなニュースが続いています。板門店の遊歩道で行われた、キム・ジョンウン氏との二人だけの対話シーンは非常に印象深いものでした。


運命 文在寅自伝

この自伝を読むと、今に至るこれまでの文在寅氏の歩みには、盧武鉉ノ・ムヒョン)元大統領の存在が大きく関わっていることがわかります。2009年に自ら命を絶った盧武鉉氏。その死に立ち会ったエピソードから筆を起こし、生い立ち、兵役での体験、弁護士としての活動、そして政治家としての仕事が詳述されていきます。

特に盧武鉉大統領に側近として使えた「参与政府」時代の様々な政治的な課題についての記述が半分近くを占めており、政権交代が実現した後のリベラル陣営が直面する光と影について、私たちの国も他山の石となすべき事例がたくさん詰まっているように感じました。ですが、私はやはり、学生運動から人権派弁護士を志すまでの歩みや、一番過酷だと言われる空挺部隊での兵役、さらには盧武鉉氏が自殺を遂げた後の一連の行動を綴った部分に大きく心を動かされました。

……いや、それにしても。国情も歴史的な背景も違うのだから安易で拙速な比較は無用と自らを戒めつつも、そしてまたこれは評伝ではなく自伝なのでそれなりの留保は必要だと思いつつも、一国の指導者という存在における彼我のあまりの違いに、私はこの本を読みながら何度も宙を仰ぎました。

政治家や、その政治家が行う政治については、心砕かれることも多いのが常です。それでも私たちは少しでもそこに希望を見いだしたくて、様々な場所で発言し、発信し、選挙にも行く。少しでも真っ当な政治家が、そして政治が登場してほしいという思いからです。文在寅氏の執政が今後どう展開し、どう評価されていくかは分かりませんが、あの光化門広場での「ろうそく集会」や各地のデモを重ねた末に文在寅氏を登場させた韓国の人々にある種の憧憬を覚えます。いやいや、単に憧れている場合じゃないのですが。

この本には韓国マスコミの負の側面や、政界におけるソウル至上主義のようなものについても疑問が呈されており、この点についても日本と共通する問題の存在を感じました。特にマスコミの報道については、仕事仲間の韓国人によると、韓国の保守マスコミの論調を日本のマスコミが敷衍し、それが韓国に逆輸入されて現政権批判(しかも「ためにする批判」)に使われている節もあるとのこと。

日本版には文在寅氏による日本の読者に向けた序文と、巻末にこの本の出版以降の経緯と背景をまとめた権容奭氏(一橋大学教授)による解説がついています。この解説には、文氏の愛読書からその哲学と政策を読み解く『文在寅の書斎』という本が紹介されているのですが、そこに収録された十二冊の書籍のうち二冊が日本のものなのだそう*2。日本側の政治家に多い夜郎自大で突き放したような態度とは対照的に、幅広く様々な声に耳を傾けようとする姿勢が感じられます。

韓国現政権のこうした背景やその成立の経緯もふくめ、日本人は韓国の現状をあまりにも知らないのではないかと思いました。昨日日経ビジネスオンラインで読んだこちらの記事のように、マスメディアの論調もやや意地悪なスタンスのものが多い。北朝鮮をめぐって様々な問題があることは承知していますが、なんといっても日本はこれらの問題の発端を作った国なのです。私たち一人一人がかの国のことをもっと知り、韓国と手を携え肝胆相照らし合って平和的統一のための努力を共になすべきでしょう。

*1:例えばお酒を飲むときは横を向いて、飲む口元を手で押さえるなど。韓国の方はよくこの動作をされますね。

*2:雨宮処凜氏の『生きさせろ――難民化する若者たち』と塩野七生ローマ人の物語』です。