インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

日本語教師が外語を学ぶ必要について

人工知能(AI)や情報通信技術(ICT)は日本語教師の仕事をうばうのか。

そんな問いをテーマの一つに掲げた日本語教育関係のセミナーに出席してきました。もとより日本語教師ではない私は少々場違いではあったのですが「日本語教育とAI、ICT」というテーマが面白そうだったので申し込んだら参加させて下さったのです。AIが登場しICTが飛躍的進化を遂げつつある現在における日本語教育の意義についてのお話はとても興味深いものでした。
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http://www.irasutoya.com/

AIがある種の仕事を人間からうばうかも知れない、というのはずいぶん「ナマ」なテーマではありますが、講演者のお一人はこんな提起をされていました。AIは今後も進化を続けるだろうけれど、①データ化できる、②明確に操作手順(アルゴリズム)を設定できる、③高速に処理できる……の三つを満たしにくい仕事はAIが手を出しにくい領域であり、そこで今後も日本語教師が果たせるがあるのではないか、と。

この件については、私も自分の仕事に関連して想像を巡らせてみたことがあります。例えば、AIによる機械音声翻訳(通訳)が今とは比較にならないほど正確・精確になったら、通訳者や翻訳者の仕事はうばわれてしまうのでしょうか。日本語のみならず外語を学ぶことそのものも陳腐化するのでしょうか。仮にそうなって日本語学習人口が激減したら、日本語教師の仕事はなくなるのでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

私自身は、外語を学ぶ意義のひとつは「母語との往還を通して、母語では描ききれない(切り取れない、分節化できない)世界を自覚し、自分の思考に質的な変化を起こすこと」だと考えます。ですから、完璧な機械音声翻訳が完成して、人類が外語を学ぶ意義を失ったら、人類の知はそれ以上深まらなくなるのではないかと想像しています。

だって、そうなった世界では、人々は異文化や異言語を少しも意識することなく、ただ自らが操ることのできる範囲の母語を話せばいいのですから。そのようにして、異言語や異文化に対する興味も警戒も共感も反感も怖れも憧れも、単に母語の内輪での振幅に押し込められてしまった世界で、知は深められていくのでしょうか。

人類は絶えず異言語や異文化に目を向け、興味を持ち、それを知りたいと思う欲求こそが学びを起動させ、そこから得られた洞察が人類の「知的コンテンツ」となって蓄積されてきました。異なる者との接触の中で、多様性の中で思考も鍛えられてきたのではないでしょうか。この点で「神がバベルの塔を破壊し、人々の言語をバラバラにした」という神話の意味は本当に深いと思います。私は、バラバラになった差異の中にこそ、知を起動させる何かが宿っているような気がするのです。

外語を学ぶ際に、母語でも表現できないような高度で複雑なことは外語ではもっと表現できない、というようなことが言われます。これは逆に言えば、母語の豊かさが外語の伸びしろを担保しているとも言えるでしょう。だとしたら、日本語を学ぶ留学生が最終的に受け取る利益は、実は日本語能力だけではなく、それ以上に母語能力の更なる涵養となって現れると考えることもできます。

母語と日本語との往還を通じて、母語の質的な変化を起こし、知を深める。日本語学習をそのようなものだと捉え直すならば、非日本語母語話者が日本語を学ぶという意義は失われないわけで、その意味ではどれほど機械音声翻訳が進化しても日本語教師の仕事はなくならないと言えるのではないか(絶対数は減るかもしれないけれど)。セミナーの発表を聞きながら、そんなことを夢想していました。

そして、これからの日本語教師は、たとえ直接法(日本語で日本語を教える)の教師であっても、最低ひとつの外語を学ぶべきだとも思いました。外語を学ぶことで、自らが教える日本語もより客観的に捉えることができる。AIがその内側に膨大なビックデータをブラックボックスとして抱え、人々のコミュニケーションが母語の内側に収斂していくような時代がくるのだとしたら、なおさらだと思います。