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夢と魅惑の全体主義

夢と魅惑の全体主義
  先日、長春へ出張した際、街の中心街に威風堂々たる姿を見せるいくつかの建築物が目を引いた。いずれも旧満洲国の時代に建てられたもので、頂部に特徴的な瓦屋根を載せている。特に関東軍司令部庁舎として建てられ、現在は吉林省共産党委員会として使われている建物など、いかにも日本の天守閣ふう。

  なるほど、長春を「新京」と呼んだのと同様、建物にも日本趣味を押しつけたのだな、などと半自動的に複雑な気持ちになるのだが*1、この本はそうした常套的な見方を根拠のないものだとして論破する。「軍国主義やファシズムが伝統的な日本趣味を押しつけた」わけではないというのだ。それはむしろ、五族協和という建前を取り繕うための妥協であり、こうした瓦屋根に代表される建築様式は、少数の例外を除いてむしろ「中華ふう」なのだということをていねいに説く。もちろん筆者には、その事実をもって満洲国を正当化する意図などない。ただ、建築史に横たわる頑迷な偏見をただそうとしているだけだ。
  ほかにもヒトラーのドイツやムソリーニのイタリアは、壮大な建築による民心の鼓舞や権力の視覚化を積極的に推し進めたのに対し、日本はむしろ真逆の節約に向かったという話や、モスクワや北京に今もそびえているスターリン・デコ様式の紹介など、建築好きにはわくわくの話題がたくさん入っている。
  惜しむらくは、図版が少なすぎること。版権や新書としてのボリュームの問題もあったのだろうが*2、建物の写真や図面なしにこの本を楽しめる人は、建築の専門家でもない限り、そうはいないと思う。私はネットで写真を検索しながら読んだ。
  井上章一氏の文体は、漢字の使用をかなり意図的に抑え、「まあ、……だが」といった口語的表現が多く用いられる独特のもの。人によって好みが分かれるかもしれないが、論旨はとてもわかりやすい。

*1:そう説明しているガイドさんも多いはず。

*2:すでにして新書としては破格の1300円にもなる分厚さだし。