インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

新聞を読みましょう

通訳学校で、春学期の授業が始まりました。半年間の訓練の最初に行うガイダンスで、いつも「一般常識テスト」を行っています。と言ってもたいしたものではなく、日本と中国語圏の時事や教養に関する語彙について、口頭で簡単に説明してもらうだけです。今春はこの30問でした。

シャドーバンキング/九段線/五毛党/リバランス政策/江宜樺/王毅/服貿・貨貿/BAOSTEEL EMOTION/リコノミクス/岸田文雄/王金平/霧社事件/二二八事件/海瑞罷官論争/梁振英/呉宗憲/大躍進/樣板戲/ジニ係数ビッグデータ/リー・シェンロン(李顕龍)/KANO/李娜陳偉殷ダイバーシティ/微熱山丘/程永華パンチェン・ラマ/小米/胡徳平

ごくごく最近のニュースで流れた言葉もありますし、近現代史*1に関する言葉もありますし、あるいはスポーツやカルチャーに属するもの、少々「カルトクイズ的」、あるいは「オタク的」な言葉もあります。総じて、幅広い分野について日頃からどれだけ広く浅く(ホントは広く深くが理想だけど、限界があるので)関心を向けているか、もし向けていなかったのならこれから意識的に向けるようにしましょうという、まあ自戒も込めての出題なわけです。

通訳の現場に行けば分かりますけど、通訳者が呼ばれるような現場に来ている方々はだいたいがその業界の先端にいる方ばかりで、しかも本当によく勉強されています。そんな中で、その業界に関して一番の門外漢である我々が一番前に出て話を繋がなければいけないんですから、専門知識は逆立ちしても追いつけないにしても、せめて一般常識や時事用語に類する部分だけでも自助努力しておきたいではないですか。

しかもこういう「雑学的」な「オタク的」な幅広い知識って、現場で意外に役立つものなんですよ。ちょっとした話の端々にそういう知識が前提となっている発言が飛び出すんです。そんなときに、日本と中国語圏に関する知識すら「なに?それ」状態だったら、仕事に取り組む姿勢すら疑われてしまいます。「あんた、本当に日中通訳者?」って。

先年亡くなられた英語翻訳者の山岡洋一氏が、『翻訳とは何か』でこんなことを書かれています。私は毎学期、この部分のコピーを生徒さんに配付しています。

(翻訳学校に通う生徒の多くは)講師に教えられた通りにまじめに学習しようとするが、自分で学習しようと考えることはない。


簡単な例をあげよう。大きな書店に行けば,翻訳に関する本はいくつも並んでいる。翻訳書なら小さな書店でも何百点かは並んでいる。翻訳に関心があるのであれば、まして翻訳を学習しようとするのであれば,これらの本を大量に読んでいるのが当然だ。


ところが、翻訳学校の教室ではこのような常識は通用しない。翻訳関する本をいくつかあげて,読んでいるかどうか質問すると,まずほとんど読んでいない。役に立つはずがない入門書を一冊か二冊読んでいるのが精一杯だ。最近読んだ翻訳書をあげるよう求めても、答えはほとんどない。好きな著者の名前をあげられる受講生はほとんどいないし、まして、好きな翻訳者の名前はあげられない。そもそも、翻訳家については名前すら全く知らない。


野球に熱中している少年なら,野球選手の名前はいくらでも知っているし、町のテニス・クラブに通う主婦なら、ウィンブルドンで上位に入る選手の名前はみな知っている。翻訳に関心があり,翻訳を学習しようとしているはずなのに、翻訳家の名前すら知らないのだ。


ここまで受け身の姿勢で、翻訳ができるようになるのだろうか。


山岡洋一翻訳とは何か―職業としての翻訳

通訳学校の開講日にこんな文章を配るなんて、事務方からクレームがつきそうですが、でも山岡氏のこの痛烈な批判、私たちは真摯に受け止めるべきだと思うんです。翻訳や通訳に関心があるなら、翻訳や通訳に関する本を読むべきだし、翻訳や通訳を可能ならしめるための一般常識や教養の涵養にこれつとめるべきだと思うんです。

昨日は春学期の第二回目だったので、懲りずにまた「一般常識テスト」を行いました。二週間前の第一回目で「通訳者は幅広い雑学知識と教養がなきゃ勤まらないですよ〜」とおどしておいたので、この間意識的に新聞を読んだりネットにアンテナを張ったりしてくれたかしら、というのを確かめたかったのです。ホント、いじわるですね。

グレーゾーン事態/メイソウ/ナレンドラ・モディ/亜信会議(CICA)/曹其鏞/張徳江/浦志強/華春瑩/浄網/三江教会堂/若田光一ベンヤミン・ネタニヤフ/パン・ギムン/マララ・ユスフザイ/美味しんぼパラセル諸島

正答率は……一部の方を除いては、あまり芳しくありませんでした。みなさん、新聞を読みましょうね。「紙の新聞オワタ」などと言っている人もいますが、毎朝広げて日本と中国語圏に関する記事があったら片っ端から読むというの、通訳者や翻訳者を目指す方なら必須の日課だと思います。ネットでもいいけど、紙の辞書と同じで、一覧性や教養の広がりという点から、紙の新聞にはまだまだ存在価値があります*2

逆に言うと、既にもうニュース性や速報性などを求める媒体では全くなくなってるんですよね、紙の新聞。でも通訳者や翻訳者に必要な広く浅い知識や一般常識の涵養にはもってこいです。だいたいのとっかかりだけ得て、興味があれば更に他の媒体に当たるから、報道の偏りなども大した問題ではなくなりますし。

生徒さんの中に「これまで新聞取るのもったいないと思ってたけど、月に数千円をけちってる場合じゃないと思った」という方がいて、よかったと思いました。

*1:辛亥革命あたりからこちらの近現代史について語彙を問うと、中国大陸出身の方でもお若い方はほとんど答えられないことがあります。特に文革関係。「黒歴史」だから教わらないのか……でも現在中国社会を動かしている中核にはまだ文革世代も多いから、知っていると役に立つことがあります。

*2:ネットでニュースや記事を読むと、なぜか記憶に残りにくいんですよね。アレはなぜだろう。小さなウインドウの中をスクロールする文章と、大きな視野にばっと入って来る文章とでは、脳への痕跡の残り方が明らかに違うような気がします。私が旧人類だからかもしれないけど。電子書籍も同じ。