インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

留学生の「日本人化」

教師というお仕事を長くやっていると、いろいろな生徒さんのクラスに遭遇いたします。日本人(日本語母語話者)だけのクラス、華人(中国語母語話者)だけのクラス、日本人と華人の混成クラス、はたまたそれ以外の外国籍の方が多数参加しているクラス……。

面白いのは、それぞれのクラスによって、授業中の雰囲気がずいぶん違うという点です。もちろん、年齢や地域によってもずいぶん異なるとは思います。人生の酸いも甘いも噛み分けたご年配の方が多いクラスは、物怖じせず発言する方が多いような気がします。また例えば「ボケ&ツッコミ」に代表されるコミュニケーション能力が異様に高い(褒めてます)大阪人の方々が多いクラスでも活発なのかなあという気はします。あくまで想像ですが。

だからこれは、主に東京近辺でお若い方々を中心としたクラスでお教えすることが多かった私の観察に過ぎないのですが、総じて日本人のクラスはとても静かで、華人のクラスないしは外国籍の方のクラスはとてもにぎやかな印象があります。

もちろん華人を含めた外国籍の生徒さんにもおとなしくて「引っ込み思案」の方はいらっしゃいます。だから突き詰めて考えれば単にひとりひとりの個性ということになっちゃいます。それでも、外国籍の生徒さん、例えば留学生などのクラスを担当すると、積極的に発言する方、さらには不規則に発言する方の比率が高いと感じる。日本人だけのクラスに比べて、明らかにその割合が高いのです。

私は、こうした日本人のクラスと、外国籍の方のクラス、どちらの授業がやりやすいかといえば、これはもう断然後者に軍配が上がります。にぎやかだったり、あまつさえ不規則に発言されたりするクラスが「やりやすい」とはどういうことか。生徒さんが静かだと、静かすぎると、とっても話がしづらいんです。これは授業でもセミナーでも講習会でもレクチャーでも、何かを人前で話すという体験がおありの方にはおおむね同意していただけるのではないでしょうか。

静かすぎる日本人の生徒さんを前に授業をするのは、まるで山奥にあるさびしい湖の畔に立ってひとり小石を投げ込み続けているようなもの。何を話しても、何を問いかけてもほとんど反応がないというのは、ひどく精神を蝕まれるような気がします。反応を引き出せない自分の技術不足というご批判は甘んじて受けますが、あの一種独特の静けさ、というか反応の薄さは何なんだろうなと思います。

でも、わかっています。静かすぎるお若い日本人の生徒さんたちは、本当は色々と反応したいのです。でも「空気を読む」同調圧力がそれをさせない。ま、誰も彼もが自己主張しすぎるのも疲れますし、日本人の奥ゆかしいところ(?)も私は愛する者ですが、少なくとも「しゃべってナンボ」の語学の授業ではもうすこし心を開いてほしいなと思うのです。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_136.html

ところが面白いのは、来日して間もない留学生のみなさんは「わいわいがやがや」とにぎやかなのに、日本で一年、二年と学んでいるうちに、日本人っぽく空気を読んでおとなしくなって行く人がけっこういることです。とある日本語学校の先生に伺ったお話では、「日本人化」という業界用語があるよし。

もちろん例外もたくさんありますから一般化はできないのですが、留学生がそうやって「日本人化」していくのはなぜなんでしょうね。日本社会で様々な日本人と交流していくうちに「日本人らしさ」を体現していくようになるのでしょうか。

そういえば私は、中国に留学して長く過ごすうちに、ずいぶん中国人的なメンタリティに染まっていったような気がします。もちろん基本はほとんど変わらないけれど、立居振舞いがなんとなく「中国人化」していたようで、日本から遊びに来た知人と久しぶりに会って、驚かれたことを思い出しました。まあそうやって自分が変容していくのも、留学の面白いところではあるんですけど。

qianchong.hatenablog.com

武漢の新型肺炎とネット翻訳

中国の武漢で拡大が続いているとされている新型ウイルス肺炎、日本での報道が加熱してきました。報道に接する私たちは「正しく知り、正しく怖がる」ことが大切だと思うのですが、こうなってくると物事を冷静に判断できない人が増えてくるのは世の常。かつてのSARSの際にも、まるで中国全土が汚染されているかのような報道や周囲の人々の会話に憤ったことを思い出しました。

私が勤めている職場でも、中国人講師が風邪気味でマスクをしていて、申し訳なさそうに、かつ少々冗談めかして「私は大丈夫ですよ、今のところ具合の悪い人とは接触していませんし」と言っていました。みんなで「そんなふうに気を遣われなくていいんですよ」と申し上げましたが、この時期、中国人というだけで色眼鏡で見てくる輩が増える、そういう気配を感じてらっしゃるんだろうなと、ちょっと気の毒に思いました。

一部にいる、事を針小棒大に語り過ぎる人々の発想には心底がっかりします。SARSの頃に比べてネットがさらに進化し、様々な情報を取捨選択しながら物事の本質を見極めるすべが増えているというのに、当の人間のほうはあまり進化していないんだなと。

私自身、ここ数日周囲の方から「武漢のこともありますから、おからだお気をつけになって」と声をかけられます。でもよくよく考えてみれば、私が中国語関係の仕事をしているからといって、いますぐにどうこうという局面にいたるはずはないですよね。

もちろん善意でおっしゃってくださってるのは分かりますし、中国に関係したお仕事だから、来日されている中国人と会うかもしれない、中国に出張するかもしれない、だから「お気をつけて」ということも分かります。なので、人にそう言われても特に気にもしないし、もちろん問題だともまったく思いません。でもふと、ああ、こういうところに色眼鏡の小さな小さな芽はあるのかもしれない、と考えたのでした。

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https://www.irasutoya.com/2019/02/blog-post_11.html

折しも昨日、こんな報道に接しました。箱根のある駄菓子店が店頭に「中国人入店禁止」なる張り紙を出し、差別的だと問題になっているという報道です。

asahichinese-j.com

報道によれば、店主は「感染を避けるため」に翻訳アプリで中国語の張り紙を作成したそうです。張り紙の中国語を読んでみると、多少の違和感はあるもののいちおう文意は伝わります。まあ文章全体は今回の新型ウイルス肺炎にかこつけて中国人への差別意識を露わにしているだけの幼稚で腹立たしい内容ですが、逆に私は、昨今の翻訳アプリがこうした差別的言辞の拡散にも一役買える(?)時代になったのかという感慨も残りました。以前だったら到底実用に堪えないレベルだった機械翻訳が、こうして実用(悪用ですか)に資するレベルになったのだなと。

かつて都内の中国語学校に勤めていたころ、年に数回「黒い街宣車」の襲来にあいました。中国の要人が来日するなどのイベントがあると決まって出没する彼らは、中国語学校に対してもシュプレヒコール(というかヘイトスピーチ)を浴びせていたのです。いわく「中国人は出ていけー」。私たちは「ガン無視」でしたが、学校に在籍している中国人留学生を守ることだけには神経を使っていました。ところがあるときからこのシュプレヒコールに変化があらわれました。「中国人出ていけ―」を中国語で発するようになったのです。

私は憤慨しながらもひそかに感動(?)していました。彼らは考えたのです。「中国人出ていけー」を当の中国人に伝えるためには、中国語で言ったほうが効果があるんじゃないかと。偉い偉い。気づくのがちょっと遅すぎますが。もっとも彼らの中国語は「ちょんこれん、ふいちー(中國人,回去)」みたいな稚拙すぎる発音だったので、果たして伝わったかどうかは怪しく、私は「ウチの学校で発音をやり直しませんか」と、危うくパンフ持って出ていくところでした。

閑話休題

ともあれ、その当時から比べても、精度が上がりつつある現代の機械翻訳は、こうしたヘイトスピーチさえ効率化・有効化する手段になるのだなと思ったのです。精度の上がったヘイト訳文を、読み上げアプリみたいなもので音声化し、拡声器から出力すれば、くだんの「ちょんこれん、ふいちー」より数段まともなシュプレヒコールも可能になるでしょう。

実際、上述の張り紙はネットでまたたく間に拡散され、けさ私が授業で中国人留学生に「こんなの、知ってますか?」と聞いたら、全員が知っていました。それほどの浸透性・拡散性を持つ訳文を機械翻訳で作ることができる時代になった。そしてこの動きはますます進化・深化していくのだろう。私たちはより冷静に物事の判断ができるチャンネルを増やしておかなければ……。箱根の駄菓子店のヘイト張り紙から、そんなことを考えました。

追記

ところで上掲の「朝日新聞」中国語版の記事、見出しが「箱根粗点心店以新型肺炎为由张贴“中国人禁止入店” 遭批判」となっていて、この“粗点心店”という翻訳に台湾の友人が疑問符をつけていました。確かに“粗点心店”というのは私も初耳です。「駄菓子店・駄菓子屋」を訳したみたいですが、朝日新聞はどこから引っ張ってきたのかな。普通は“小零食店”とでもするでしょうか。台湾の方なら、最近ヒットしたドラマ“用九柑仔店”の“柑仔店”と訳すかもしれません。“柑仔店”は、まさしく私が子供の頃入り浸ったあの懐かしい駄菓子屋さん(+日用雑貨店)そのものの風情です。

shows.cts.com.tw

“粗点心店”というのをゲームで知ったという香港人留学生がいたので調べてみたら、確かに「シェンムー3(shenmue3)」というゲームの中で使われているようです。なるほど、朝日新聞はここから引っ張ってきたのかな。“粗点心店”があるなら、どこかに“細点心店”もあるのかしら……冗談です。

h1g.jp

貧むす

深谷かほる氏のマンガ『夜廻り猫』に出てくるたべものには、無性に作りたくなる(それも夜遅くに)ものがいくつもあります。そのうちのひとつ「貧むす」。海老天じゃなくて、天かすが入ったおむすびなので「天むす」ならぬ「貧むす」なんですけど、三つ葉のみじん切りを入れるのが絶妙のバランスで「たいへん。いくつでも食べられる」(細君談)。

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最近「悪魔のおにぎり」というのが流行ってますけど、これは貧むすにヒントを得て作られたのかしら。もうひとつ、主人公の遠藤平蔵と夜廻りを分担しているワカルが作る、ツナマヨのおにぎり。青じそでくるむ、というより下に敷いているだけですが、これもおいしいです。ちょっと食べにくいですが。

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このおにぎりは名前がついていなかったのですが、検索してみたら作者ご自身がこんなツイートをされていました。

「貧むす」と「わかっぺ・ツナ」はいずれも第2巻に出てきます。

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夜廻り猫(2) (ワイドKC)

私、『夜廻り猫』に出てくるキャラクターの中では、このワカルが一番好きです。人の悩みを聞きに勝手に上がりこんで、「そおですよね〜」「わかります〜」と常に肯定して励まし、勝手にご飯を炊き始めるワカル。辛いことがあっても、ご飯を炊いて発泡酒を「プシュ」っと開けたら、なんだか明日も頑張れるような気がするじゃないですか。ああ、こういう存在になれたらいいなあといつも思います。自分自身も、人に対しても。

中国のプラ規制に背中を押されて

昨日の朝、テレビを見ていたら「中国政府が使い捨てプラスチックの規制を強化」というニュースに接しました。

www.newsweekjapan.jp

つい最近まで、資源ごみとしての使用済みプラスチックを各国から輸入していた中国ですけど、それをほぼ停止し、さらには自国内での使用も制限へ……さすが、やると決めたら、かの国は行動が速いです。その実効性まだ分かりませんが、例えばレジ袋の有料化や缶・瓶のデポジット化など、その対策が何十年も前から叫ばれながらほとんど改善できてこなかった日本とは大違い。私たちは深く恥じねばなりません。

私が中国に留学していた時代の流行語に“白色汚染”というのがあって、これは当時爆発的に使用が広がり始めていた白いビニール袋や使い捨て弁当箱などが無秩序に捨てられている問題を表現したものでした。当時天津から北京までの普通列車に乗っていたら、車窓から見える広大な農地に点々と白いビニールやプラスチックが見えて、心が傷んだことを思い出します。

中国の取り組みはまだその緒についたばかりですけど、やるとなったら速い上に、まだけっこう自由市場的な食材の売り買いも残っているお国柄ですから、大きな変化が起こる方向へ進んでいくかもしれません。というか、ぜひ進んでほしいです。台湾も、タピオカミルクティのストローを紙製にするなど、いろいろな変化が起き始めているそうですし、私たちも見習わなければ。

先日YouTubeで教材のネタを探していたら、「一週間使い捨てプラスチックを使わないで暮らしてみた」的な動画を見つけました。


90后挑战一周不用一次性塑料,不用真的有那么难吗?| 二更

とても興味深い内容ですが、「使い捨てプラスチックを避けていたら健康になっちゃう」というのに笑いました。つい頼んじゃう食べ物や飲み物の出前(ウーバーイーツみたいなサービスが日本とは比べ物にならないくらい発達しているのです)、それに自動販売機などのお菓子に手が出ることが減るからだそうです。なるほど。

私もこれまで使っていたマイバッグやマイ箸などに加えて、最近流行りのスープジャーを買ったので、ランチはしばらく下の本を参考にスープジャー持参で行ってみようと思っています。お弁当は買うたびに大量のゴミが出て、その心苦しさにちょっと耐えられなくなってきたところでしたので。まずはひとりひとりが、できるところから、ですよね。

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朝10分でできる スープ弁当

フィンランド語 54 …所有接尾辞

一年半以上かけて学んできた教科書も最後の課までたどりつき、教科書を離れて新しい内容を学びました。「所有接尾辞」です。

これは例えば「minun nimi(私の名前)」のように、名詞に人称代名詞の属格がつく場合に、その名詞にも所有を表す接尾辞がつくというものだそうです(人称代名詞がつかなくても所有接尾辞は使えるそうですが、それはまたいずれ)。「私の」という所有を表す接尾辞は「ni」で、「nimeni」だけで「私の名前」という意味になります。しかもそれに人称代名詞の属格がついてもつかなくてもよいらしく、つまり……

minun nimi
nimeni
minun nimeni

……の三つがいずれも「私の名前」という同じ意味になるわけですね。そして三番目の言い方、つまり「私の、名前私の」みたいになっちゃってるこれが基本なんだそうです。しかもこの所有接尾辞は文脈に応じて全ての格にくっつけることができるそうで、例えば……

Pöydälläni on kirjasi.
私の机の上にあなたの本がある。

……などということができちゃうと。一つの名詞に、物の名前と状態と所有の意味が込められているわけですね(「si」は「あなたの」を表す所有接尾辞)。便利だけれど、なんだかとても複雑になってきました。そういえば以前会話練習したときに「mielelläni(私は喜んで)」とか「itsellesi(あなた自身は)」というような言い方が出てきましたけど、これらも所有接尾辞だったんですね。

所有接尾辞の基本は、人称ごとに違うこの六つです。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の nsA 彼ら・彼女らの nsA

ただ、格によっていくつか違いがあるので、授業ではそれを学びました。

●単数主格・複数主格・単数属格・単数対格・複数対格
辞書形から活用語幹を求めて所有接尾辞をつけます。

単数主格:Minun ystävä on suomalainen.→ Minun ystäväni on suomalainen.
複数主格:Minun ystävät ovat suomalaisia.→ Minun ystäväni on suomalaisia.
単数属格:Minun ystävän nimi on Pekka.→ Minun ystäväni nimi on Pekka.
単数対格:Minä tapaan minun suomalaisen ystävän.→ Minä tapaan minun suomalaisen ystäväni.
複数対格:Minä tapaan minun suomalaiset ystävät.→ Minä tapaan minun suomalaiset ystäväni.

所有接尾辞をつけると、格は違うのに全部同じ「ystäväni」という形になっちゃうんですね(それでも文の前後でなんの格かはわかります)。またこの場合、kpt変化はしません(逆転はします)。

Minä löysin sinun lompakon kadulta.→ Minä löysin sinun lompakkosi kadulta.
私はあなたの財布を通りで見つけました。

●単数入格・複数入格・複数属格
「n」を取ってから所有接尾辞をつけます。例えば「私の(ni)」なら…

単数入格:taloon → talooni
複数入格:taloihin → taloihini
複数属格:talojen → talojeni

Minä menen elokuviin suomalaisten ystävien kanssa.
→ Minä menen elokuviin minun suomalaisten ystävieni kanssa.
私は私のフィンランド人の友人たちと一緒に映画に行きます。

●単数変格・複数変格
「i」を「e」にしてから以下の所有接尾辞をつけます。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の en 彼ら・彼女らの en

単数変格:taloksi → talokseni
複数変格:taloiksi → taloikseni

●単数分格
そのままつけますが、三人称だけは「①長母音で終わっているときは nsA、②それ以外は An」をつけます。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の nsA・② An 彼ら・彼女らの nsA・② An

kissaa → kissaansa
taloa → taloaan
kirjettä → kirjettään

●その他
そのままつけますが、三人称だけは母音を伸ばして「n」です。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の An・en 彼ら・彼女らの An・en

Minä tykkään kissasta.
→ Minä tykkään minun kissastani.
私は私の猫が好きです。

ただし、文の主語と所有者が同一人物のときは、所有接尾辞のみが使われる、というのがポイントだそう。

Hän tykkää kissasta.
彼は猫が好きです。
Hän tykkää hänen kissastaan.
彼は彼女の猫が好きです。
Hän tykkää kissastaan.
彼は彼の猫が好きです。

三番目の文は「hän(彼)」と「kissastaan(彼の猫)」で「彼」が同一人物なので、「hänen(彼の)」という属格の人称代名詞は入れちゃいけないんですね。う〜ん、複雑です。所有接尾辞は今後もおいおい学んでいくとして、授業ではいくつか作文をしました。

Mikä sinun osoite on?→ Mikä sinun osoitteesi on?
あなたの住所はなんですか?
Minun osoitteeni on 〜.
私の住所は〜です。
Hän on huoneessa.→ Hän on huoneessaan.
彼女は彼女の部屋にいます。
Minun pöydällä ei ole sanakirjaa.
私の机の上に辞書はありません。
Minun pöydälläni ei ole sinun sanakirjaasi.
私の机の上にあなたの辞書はありません。

フィンランド語はこうやって後ろにどんどん要素がくっついていく言語ですが、こうしたくっつき方には順序があるそうです。例えば「私の部屋の中にだって」という場合は……

huoneessanikin
huonee(語幹)+ ssa(格語尾)+ ni(所有接尾辞)+ kin(強調の接尾辞)

……というように、①格語尾、②所有接尾辞、③強調の接尾辞という順番になると。それにしても「私の部屋の中にだって」をたった一つの単語で表せてしまうというのは、すごいですね。

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Montako huonetta sinun asunnossasi on?

娑婆よのう

むかしむかし、熊本の田舎に住んでいた頃、近所のおじさんが急逝したことがありました。私はその知らせを別のおじさんから聞いたのですが、その時におじさんがぼそっとつぶやいた「娑婆(しゃば)よのう……」という言葉をいまでも時々思い出します。

急逝したおじさんは「万年青(おもと:観葉植物の一種)」の栽培家でした。ところが、訃報を知らせてくれたそのおじさんによると、亡くなったその晩のうちに、庭に並んでいた万年青の鉢がごっそり誰かに盗まれてしまったのだそうです。万年青の鉢植えは高値で取引されている一種の芸術品。それをふだんから知っていて、なおかつ亡くなったその晩に盗むという行動に出られるのは、もしかしたら同じ集落の人間だったのかもしれません。

「娑婆」は仏教のことばで、現在では刑期を終えて出所したあとの「自由な世界」という意味合いのほうがポピュラーかもしれませんが、もともとは「苦しみを耐え忍ぶこの世の中」という意味なんだそうです。まるで火事場泥棒のような行為を目にして発せられた「娑婆よのう……」というおじさんの嘆息には、人間の浅ましさや貪欲さを悲しむ気持ちとやり場のない静かな怒りが込められているように思えたのです。

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https://www.irasutoya.com/2017/01/blog-post_109.html

それから幾星霜。私はいまでも、世間における浅ましい行為や貪欲なふるまいを見聞するたびに、あのおじさんの嘆息を思い出します。政治家やビジネスパーソン汚職や横領みたいに分かりやすいものもありますけど、もっと身近なところでもこちらの心が曇ってしまうような浅ましくて貪欲で、ある意味「しょーもない」行為を目撃することがあります。このブログでも何度か書いたことがある、スーパーなどでの「棚の奥に手を突っ込んで是が非でも新しいものを買おうとするおじさん」とか、「ロール状になった薄いビニール袋を『いーとーまきまき』よろしく大量にからめとって持っていくおばさん」とか。

私はランチによく讃岐うどんの「丸亀製麺」を利用するんですけど、あそこでも無料のネギや揚げ玉を「かけうどん」にメガ盛りにしていくサラリーマンが少なからずいて心が萎えます。もうマンガみたいなてんこ盛りで、ネギがトレーにまで散らばっていて、それでも飽き足らないのか小鉢にもどっさり揚げ玉を取っていたりして。あんなにネギを載せたら辛くて逆に美味しくないんじゃないかと思いますが、細君に言ったら「それで不足しがちな野菜を補おうとしているんじゃない?」だって。なるほど、そういう視点がありましたか。でも昨日は、これも無料のおしぼり(不織布みたいなのがビニールパックに入っているやつ)を十枚ばかりごっそり持っていく初老のサラリーマンがいて、またまた萎えました。

無料なんだから、いくら持ってっても自由じゃないか、大きなお世話だと思われるでしょうか。まあそうかも知れません。スーパーでの「棚の奥から新しいものを取る」や、書店での「平積み本は上から二冊目を取る」なども、周囲の仕事仲間に聞いたら「それがなにか? 当たり前でしょ」と返されます。いや、私は別に善人ぶりたいわけじゃないんです。ただそういう浅ましい行為を目にすることで心が萎えちゃうのがとてもイヤなのです。

こういうのを華人に言ったら“管不了(人は人だ、相手にするな)”と一笑に付されるかもしれません。いや、だけど、こういう我執にまみれた、人の心を萎えさせるような行為が一定量を超えて社会に充満すると、何だかとても大きなものを毀損するような気がしているんですけどね。それこそ「娑婆」ですよね。

からだの使い方を「発散」させる

ここのところずっとご無沙汰だった腰痛に襲われてしまいました。年末年始の自堕落な生活に加えて、音声を聞きながらの長時間の採点を何日間も続けていたからじゃないかと思います。ジムのトレーナーさんがおっしゃっていましたが、デスクに向かって座り、長時間パソコンを使い続けることほどからだに悪いことはないとのこと。いつの間にか腰に負担がかかっていたようです。

腰痛予防のためにバランスボールに座り、骨盤を意識して座ってはいるのですが、ふと気がつくと腰が前方に逃げて背筋を曲げるような姿勢になっています。よく電車の中で、足を前に投げ出し、あるいは足を組んで、腰が前にずり落ちるような形で背骨を曲げて座っているお若い方を見かけますが、余計なお世話ながら「大丈夫かしら」と思います。中年以降に腰痛で苦労しなきゃいいんですけど。

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https://www.irasutoya.com/2013/11/blog-post_8579.html

それはさておき、治療のためにいつも通っているジムでマッサージをしてもらいました。今回は左側の腰がまるで鉄板でも埋め込んだかのように固まっていたのでほぐしてもらったのですが、翌日には右側も凝り固まって腰痛が悪化してしまいました。どうやらからだの使い方が悪いため左側の腰が不調を起こし、その左側をかばうようなからだの使い方をしたおかげで右側までバランスを崩したみたいです。

体幹レーニングをしていても、からだの左右で明らかに違いが見られます。片一方では楽にできたり、楽にバランスが取れる動きが、もう片一方ではかなり危うかったり、可動域が狭かったりするのです。

先日読んで大いに触発された平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』では、シンプルな筋トレだけでは見落としがちな感覚の世界であるところの「身体知」に紙幅が大きく割かれており、その中にからだの「左右差」についてこんな記述がありました。

利き手や利き足の使いやすさに頼るのではなく、その使いやすさから出発して利き手や利き足とは反対の手足に意識を向けてその差を感じ取る。そして、使いにくさという違和感を解消すべく左右の調和を図ることで動きは洗練化されてゆく。だからアスリートは、あえて苦手な方の手足を使って投げる、蹴る、箸を使うなどして、身体感覚を深めるように努めるのである。

なるほど、しらずしらずのうちに固定化してしまうからだの使い方を、常に発散させるというか、変な癖がつかないように気を使うわけですね。これは、からだの使い方の偏りが蓄積してたびたび腰痛を発症する自分にも何らかの効果があるかもしれません。

というわけで、ふだん右手でやっている動作を意図的に左手で(あるいはその逆で)やるようにしてみました。例えば歯を磨く時、私はいつも左手に歯ブラシを持つのですが、それを右手に持ちかえてみたのです。そうしたら、びっくりするほどからだが思うように動きませんでした。かなり意識して腕や掌や指の位置を調整しないと、きちんと歯が磨けないのです。

こうした試みを続けていけば、平尾氏のおっしゃる「しなやかなからだ」に少しは近づけて、腰痛になる頻度も減るかもしれません。歯磨きだけでなく、かばんを肩にかけるとか、スマホをポケットに入れるとか……様々な動作を利き手や利き腕以外で試してみようと思います。

ユーチューバーと蔡英文氏の話し方に圧倒される

先日も記事を書いたのですが、私は人前で話すのが苦手です。語学関係の「商売」をしておきながら「話すのが苦手」もないだろうと自分で自分にツッコミを入れたくなりますが、本当に苦手。苦手なだけじゃなくて「下手」だとさえ思います。これでもアナウンス学校やボイストレーニングに通った経験さえあるというのに、いまだに滑舌は悪いし、冗語は多いし、中国語の発音だって“大舌頭(舌足らず)”なのです。謙遜でもなんでもなく、ホントに。あ、アナウンス訓練やボイトレで声量だけは大きくなりましたが。

アナウンサーさんや声優さんみたいな話し方に憧れますが、だからといってそれだけが上手な話し方というわけではないとも思います。話し方のテクニックより、話の内容のほうが大切。とつとつとした話し方であっても、引き込まれるようなお話をされる方はいらっしゃいます。だから「苦手」だと逃げてばかりいないで、せめて話の内容だけでも充実させたいものですが、それすらできているかどうか、心もとない……。

そんな中、先回YouTuberさんの動画を紹介してくれた台湾の友人が、また新たな動画を送ってきてくれました。先般の選挙で台湾の大統領(総統)に再選された蔡英文氏が、若い“網紅(ネット上で人気のある、いわゆる「インフルエンサー」みたいな存在)”お二人に動画配信の「心得」を教わる……という、おもしろい内容です。


【 小英做什麼 EP1 】小英原來不是想當網紅?開設頻道竟然是這個原因⋯!? ft. 魚乾、志祺七七

こうした政治家の動画には、まあ言ってみれば自分のイメージやキャラクターを形作るための「宣伝素材」という側面があります。なのに視聴してみてまず感じるのは、この動画にはそうした「政治家の宣伝」臭がまったくといっていいほどしないことです。これは私が中国語の母語話者ではない(だから話し方から受けるイメージを見極めきれていないかもしれない)ということを差し引いても、日本における同様・同目的の動画と比較してみれば、その差は一目瞭然だと思います。

もちろん、こうした動画は編集を経ていますし、台湾の大統領という立場にある蔡英文氏の公式動画ともなれば少しでもマイナスイメージになるような画面は注意深く排されていることは想像に難くありません。それでも一国のトップである蔡英文氏の話し方の、なんと闊達で親しみやすいことでしょうか。さらに驚くのは、そうした人物を前にした若いYouTuberお二人の話し方がこれまたフランクでまったく物怖じしていないことです。

それでいて、無駄な言葉や非論理的な発言、曖昧な物言いがほとんど入っていない。当意即妙の会話でありながら、これだけ会話の密度が高いというのはすごいと思うんです(しつこいようですが、編集を経ているとはいえ)。日本の政治家で、ここまでの話し方をできる方がいるでしょうか。そして政治家に対してここまでの会話を仕掛けることができるお若い方がいるでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

こうした話し方をされる人に接すると、私などいつも圧倒されて「頭いいんだなあ……」と思います。そう、冗語もなく、曖昧な物言いに堕することもなく、ロジカルに、それでいて愛嬌もある話し方ができるというのは、ひとえに頭の回転が速いんだと思います。そして自らの中にきちんとした考えが育まれており、豊かな教養の背景もあるからこそできる話し方なのではないかと。

私はさきほど「話し方のテクニックより、話の内容のほうが大切」などと逃げを打ちましたが、こうした方々は話し方のテクニックが優れている上に、話す内容も充実している……まったくもって敵わないなあと思うのです。こんな言い方は雑駁かもしれませんが、私はこうした話し方に「人間力」みたいなものを感じます。私たちはもっと、こうした「人前で話す訓練」をしなきゃいけないですね。

追記

この動画に、蔡英文氏が飼われている「わんこ」が出てくるんですが、話をしているそばから割り込んできて「邪魔」する……ってのが、何だか猫みたいで可愛いです。これらの「わんこ」たち(三匹飼ってらっしゃるとか)はお役目を終えて引退した元盲導犬なんだそうですよ。

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生ハムのしゃぶしゃぶ

週末に「家飲み」で来客があったので、おつまみにと生ハムのパーティパックを買いました。ところが思いのほかみんな手が伸びずにけっこうな量が余ってしまったので、どうしよう、これ……というわけで、ネットを検索してみましたら、「生ハムのしゃぶしゃぶ」という情報を見つけました。なるほど、生ハムだってようは豚肉の薄切りですからね。

生ハムに塩気があるので、鍋つゆは昆布と若干のコンソメだけです。サラダ用に大量にちぎってあったレタスやルッコラなど(これも余っちゃった)とミニトマト、あと適当にしいたけも入れてみました。ネットの情報によればレモンも入れるみたいですが、防腐剤を使っていないレモンが手に入らなかったのでこれは割愛しました。

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生ハムだから、そんなに火が通っていなくても食べられるよねと思いましたが、あまり早く引き上げるとハムの塩気が強すぎる感じがしました。かといって熱を通しすぎるとパサパサになっちゃう。ちょうどいい頃合いが難しかったですが、くたくたになったレタス類と一緒に食べるととても美味しかったです。

「シメ」はネット情報によるとご飯とチーズでリゾット風にするのがおすすめのようですが、年齢的にちょっと重すぎるので、ラーメンにしてみました。生ハムからいいおダシが出ていて、絶品でした。ちょっともったいないような、贅沢すぎるような気がする「背徳のお鍋」ですが、とても美味しかったです。生ハムを鍋にするなんて、いろんなことを考える人がいるものですね。

機械翻訳は便利だけれど

昨年の夏、フィンランドを旅行した際に泊まった「民泊」のおかみさんからAirbnbのサイトを通してメッセージが届きました。フィンランド語なので、じーっと見つめて「こんな意味かしら」と見当をつけてから、おもむろにGoogle翻訳へ放り込んで文意を確認します。

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ふだんから、自治体や芸能プロダクションなどの公式サイトが英語版や中国語版のコンテンツをGoogle翻訳へ丸投げして、その結果奇妙奇天烈な訳文になっちゃってるのを批判しまくっているというのに、こういうときはちゃっかり活用しちゃう。自分でもちょっと首尾一貫してないんじゃないかなとは思います。

qianchong.hatenablog.com

お返事にもGoogle翻訳を活用します。でも、いきなり日本語で書くとかなり「ハイコンテクスト」な文章になっちゃうので、簡潔な英語で、主語や目的語をくどいほど入れながら書いて、それをフィンランド語に翻訳し、未熟なフィンランド語の知識で分かる限りのチェックを入れて送信。すると、また相手からお返事が来て……。ちゃんとコミュニケーションが成立するんですね。これは楽しい。悔しいけど、楽しいです。

こうした悠長なコミュニケーションであれば、もはやGoogle翻訳をはじめとする機械翻訳は、なんとか実用に耐えるレベルにまでなりました。そしてこれから先は、もっとその精度が上がっていくことでしょう。そんな悠長なことはやってられない音声によるコミュニケーションはまだまだですが、それでも「ポケトーク」や「イリ―」などの通訳機がすでに商業ベースに乗っています。旅行でのちょっとした会話ならほぼ充分に役割を果たせるそうですし、これも精度の向上は時間の問題なのでしょう。人間の音声を認識する部分でかなり手間取っているそうですが、少しずつでも進歩向上していけば、そのうち一気にブレイクスルーが起きる時代が来るのかもしれません。

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こうした現状を背景に「もはや外語学習の意義は失われた」とする主張も、時々目にするようになりました。機械通訳や機械翻訳が高度に発達した未来(それも自分たちが生きているうちの近未来)では、誰もが自分の母語を話すだけで、様々な外語となってアウトプットされるような、そう、『ドラえもん』に出てくる「ほんやくコンニャク」のようなシチュエーションが現実のものになるのだと。

でも私個人は、そうなったあかつきには、つまり誰もが自分の母語の内輪内でしか話さない・話せないようになった世界では、逆に人類の知はもうそこから深まっていかないのではないかと思います。外語を学ぶということは、自分の母語ではできない「森羅万象の切り取り方」を身につけるということであり、その差異を乗り越える営みにこそ知は宿るのではないかと思っているからです。科学的な根拠はなにもないんですけど。

冒頭でご紹介したフィンランドの、民泊のおかみさんとのメールのやりとりは、楽しいけれどもどこか隔靴掻痒感が伴います。当たり前ですよね。Google翻訳という一種のブラックボックスを通してやりとりをしているんですから。外語学習をしたことがある方ならお分かりかと思いますが、実際に自分の身体を駆使して発せられた外語が相手に届き、すぐその反応が帰ってきたときのあの一種の高揚感は、機械翻訳では味わいにくいものです。今後技術が飛躍的に進化して、現在の通訳機がもっと体感的に(例えばウェアラブル端末になって、タイムラグも極限まで短縮されるなど)なったら、そうした高揚感も味わえるようになるのでしょうか。

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分かりません。もしかしたらそうなって、ここに「バベルの塔の神話」以来の、人類の言語問題は集結を迎えるのかも知れません。ただ、外語を学んだものとしては、外語を話している際に特有な「もう一人の自分になった感」が失われるのは残念な気がします。私は中国語や英語を話しているときは、自分の性格が変わってしまうのをとても感じます。また日本語とはかなり異なる語順の中国語や英語で言葉を紡いでいくときのあのダイナミズムにいつも興奮します。

人間は誰しも意識の流れに沿って言葉を紡いでいくはずですが、それが日本語と中国語・英語とではかなり違う「流れ」になる。なのに意識している自分はもちろん同じです。同じ自分が、違う意識の流れで自分を表現するーーそこに外語を自分で操る魅力のほとんどすべてが詰まっているような気がします。そうして体感された「違う意識の流れ」がまた母語に還流して母語を質的に変え、豊かにしていく……そんな気がしているのです。

Google翻訳を通したやりとりは便利だけれど、なぜか空虚に思える部分が残るのは、それぞれがそれぞれの母語の内側に籠もっていて、こうした営みが欠けているからなのかもしれません。

脱・筋トレ思考

先日、通っているジムでたまたま休息時間が重なったお一人から声をかけられました。「ずいぶん筋肉がついてきましたね」。この方はよくジムでお見かけするので私も見知ってはいましたが、お話ししたことはありませんでした。「あ、あの方、またいらしてる」とは思うけれど、それだけ。そう、ジムという場所は基本的に自分一人で自分に向き合う場所ですから、パーソナルトレーニングでトレーナーさんと話す場合を除けば、どなたかとお話しすることはほとんどないんですよね。

その方からは「ベンチプレスなんかも、最初の頃に比べてずいぶんウェイトが上がったんじゃないですか?」とも言われました。私はともかく非力なので、もとより人と比べてどうこうとは思わないようにしようと思ってきたんですけど、見ている方は見ているんですね。素直にうれしかったです。筋トレは、やればやっただけ動かせるウェイトの数値が上がっていきます。つまり成果が目に見える。いままでできていたあれこれが徐々にできなくなっていく私のような中高年にとって、これはこたえられない魅力です。

そんななかで読んだ、平尾剛氏の『脱・筋トレ思考』には、ご自身もラグビー選手として筋トレに取り組んでこられた経験を踏まえてこんなことが書かれていました。

スポーツ界において非科学的で根性論的な指導が当たり前だった時代に、突如として筋トレという鍛錬法が導入された。私がそうだったように、努力が可視化できるこの方法におそらく幾多の選手が飛びついたのは想像に難くない。これまで曖昧にしか捉えられなかった上達の軌跡が目に見えるかたちで示されるのだから、楽しくないわけがない。

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脱・筋トレ思考

たしかにそうなのです。筋トレは数値が上がる、見た目にも筋肉がつくという非常に分かりやすいレベルアップの指標がもたらされるので「ハマる」んですね。と同時に筋トレは、一朝一夕には効果があらわれないというストイックさをも兼ね備えています。長期間にわたる自己抑制も必要……。というわけで昨今では筋トレを運動選手のみならずビジネスパーソンにまで結びつけて、「エリートは筋トレをやっている」的な書籍まで多数出版されています。

私自身は、男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴と腰痛に悩まされた末に「少しは身体をうごかさなきゃ」と始めた筋トレなので、運動選手が行うそれとはずいぶん違うのですが、それでも多少なりとも筋肉がつき、身体の不調が大幅に改善され、さらに数値が上がる楽しさにハマって今日にいたります。ところが、平尾氏のこの本はそんな筋トレに大きな疑問を投げかけているのです。

その理由は多岐にわたるのですが、ごくごく簡単にまとめると、身体を様々なパーツに分け、そのパーツを単純に鍛えて筋肉をつける筋トレは「全身協調性」や「感覚世界への想像力」をないがしろにする、あるいは損なう可能性があり、身体パフォーマンスの向上にはむしろ弊害があるということ。この本ではそうした人間の身体を単純に捉える思考を「筋トレ思考」と名づけ、そこからの脱却という理路をできるだけ明確に言語化しようと努力されています。

複雑性がその本質であるからだをしなやかに練り上げていくためには、その方法もまた複雑になる。筋トレというシンプルなトレーニングだけでは、しなやかなからだはけっして手に入らない。むしろしなやかさを損なう方向に働くことはすでにみた通りである。感覚世界における適切なふるまい方ができなくなるというこの落とし穴は、今一度声を大にして言っておきたい。

終章で発せられているこの警鐘は傾聴に値すると思います。と同時に、この本で警鐘が発せられているその主たる対象は運動選手・アスリートであって、私のような「へたりかけ」の中高年ではないのだろうなという感想も残りました。

本書の後半で大きく紙幅を費やされている「身体知」というテーマについても、その多くは競技や試合におけるアスリートのパフォーマンス向上に主眼が注がれています。その例えとして繰り返し用いられるのは「人混みで人にぶつからずに歩く」という私たちにも身近な場面での身体知なのですが、その先はかなり専門的なアスリート向けの理論が中心です。もう少しスポーツから離れたところでの、アスリートではない私たちのようなものにも具体的なアドバイスがあったらいいなと思いました。

とはいえ、この本の前半には、どうしても筋トレを免れない人に向けての提案がいくつかなされています。

・メニューごとに設定された正しいフォームにこだわらず「ラクに」持ち上げる
・短期的に成果を求めない
・筋トレ後は、その種目における専門的な動きを取り入れる
・筋トレによる筋肉増量中は練習でも試合でも全力でプレーしない(怪我をしやすいから)
・からだの内側から聴こえる「声」に耳を傾ける

3つ目と4つ目の項目からも分かるように、これも基本的にはアスリートに向けての提案ではあるものの、アスリートではない私たちにもある種の示唆を与えてくれます。私はここのところ、ウェイトの数字が上がるというその単純な一面だけに着目しすぎていたような気がします。もっとからだ全体を俯瞰したところからジムでのトレーニングを見直してみようと思いました。

「式」が苦手です

昨日は成人式が全国各地で行われたんですって? 私は成人式というものに出たことがないので実感としてよくわからないのですが、二十歳を迎える方々にとってはけっこう大切なイベントなんですね。私の実家がある北九州市は「ド派手」な衣装に身を包む方々がどっと現れる成人式で有名だそうで、毎年ニュースになっています。

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私個人の感覚からすると、正直に申し上げて悪趣味の極みですけど、家族から伝え聞いたところによるとみなさんこの日のために頑張ってお金をためるんだそうです。そしてこういうパフォーマンスで盛り上がりはするけれど、会場で行われている成人式を妨害したりは絶対にしないんだとか。外見とはうらはらに、みなさん心優しい人たちみたい。まあ好きなことに自分のお金と情熱を注ぎ込んでるんですから、周りがとやかく言わなくてもいいですよね。

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北九州市に実家はありますが、私自身は彼の地で育ったわけではないのでもちろんこの成人式を体験していません。というか、冒頭にも書いたように、成人式自体に参加したことがないんです。二十歳のときは確か大学一年生だったと思いますけど、当時住んでいた自治体からは何もお知らせがなかったように思います。成人式自体をやっていない自治体だったのか、お知らせは来たけれど無視したのか、いまとなっては思い出せません。

でもたぶん後者だと思います。私は「式」と名のつくイベントがとても苦手で、成人式はもちろん、大学の卒業式にも出ていませんし、友人知人の結婚式に出たのも数えるほどしかなく、自分の結婚式さえやっていません。苦手というだけで、特になにかイデオロギーがあるわけでもないんですけど、ああいう堅苦しい儀式はどうにも馴染めません。つまらない挨拶を聞くのも(自分が話すのも)、何度も立ったり座ったりお辞儀したりするのも……。

そういえば「式次第」って、すべての項目に「一、」とついていますよね。あれは序数ではなく、「ひとつ、なになに」「ひとつ、なになに」といずれの項目も重要だよという意味が込められているからだそうですが、私はこれもなんだか一斉に唱和させられる「社訓」みたいで気持ち悪いです。……と、けさネットを検索していたら、こんなツイートを見つけました。

共感するとともに、ちょっと驚きました。私は成人式に参加しないことに何の心理的葛藤もありませんでしたが、現在ではここまで同調圧力が高まっているんですね。私もお若い方に申し上げたいです。イヤな式には参加しなくてもいいんですよ、何の問題もないですよと。

優れたユーチューバーの話し方

語学講師や通訳者といった「人前で話す職業」に長年就いているというのに、いまだに人前で話すのが苦手です。そう言うと周囲の方からは「またまた〜」と突っ込まれるのですが、いや、これは謙遜とかそういうものではなくて、本当に苦手ですし、授業や会議などの「本番前」はいつも緊張します。

それでも長年やってきたことですから、いったん始まってしまえば落ち着きますし、決められた時間内でなんとかまとめる「勘」のようなものも備わって来たようには思います。でも、たまに自分が話しているところを撮影して見返してみると、とにかく「なっちゃいない」。滑舌は悪いし、冗語(「えー」とか「あの」などの不必要な言葉)は多いし、視線が泳いでいるし、頭を掻いたりしているし、そも話自体がロジカルでもないし……人前で話すのは本当に難しいなといつも思うのです。

私はYouTubeなど動画サイトが大好きで、語学の教材探しも兼ねてよく視聴するのですが、いわゆる「ユーチューバー」と呼ばれる方々の中には、ほれぼれとするような話し方をされている方がいます。日本語母語話者にはあまりお見かけしないのですが、中国語母語話者には上手な方が多いなと思います。もっともこれは、日本語が自分の母語だから日本語母語話者への評価が辛くなっているのかもしれませんし、そもそも私は中国語の動画を渉猟していることが多いのでサンプル数が少なすぎるからかもしれません。

ただ、中国語圏の“公眾人物(有名人・著名人)”には、人前でよどみなく堂々と話す方がけっこう多く、ああ、私もあんなふうに中国語が話せたらいいなといつも思っています。私は台湾の芸能人の発言を字幕にしたり通訳したりといったお仕事が多かったのですが、たとえそれが若いアイドルさんであっても、インタビューなどでの話し方が堂々としているのにいつも驚嘆していました。「若いアイドル」というカテゴライズで語っちゃうのもちょっと失礼ではありますけど。

先日は台湾の友人がこんな動画を紹介してくれました。“阿滴英文”という英語学習チャンネルの動画です。


三點就放學! 回家都在玩? 芬蘭學生怎麼看台灣的教育制度?

ネットで調べてみましたら、この“阿滴”さんは都省瑞氏で、台湾生まれですが幼い頃シンガポールで暮らしていたそうです。英語と中国語でこうした動画を配信する人気のユーチューバーなのですが、ヘルシンキの街頭で話しながらインタビューしていくだけのこの映像、「だけ」とはいいながら上手だなあと思います。比べるのもおこがましいですが、もし自分が同じことをやったとして、果たしてこんなふうに話せるだろうかと。

カメラ目線のアイコンタクトを取りながらも自然に話していますし、この動画は「自撮り棒」を使って撮っているのかな? それにしてはあまりブレたり揺れたりしていませんよね。英語も中国語も当然流暢ですけど、無駄な言葉がほとんどありません。だけど原稿を読み上げているわけでもない。この方に限らず、中国語圏の話上手な方はおしなべてこうした「立て板に水」のスタイルが多いです。立て板に水ではありますけど、聞き手を置いてけぼりにするような事務的な話し方でもありません。とてもロジカルで、かつユーモアもあって、聞いていて心地いい。どうやったらこんな話し方ができるようになるんでしょうね。

こうした動画は、よく観察してみると結構手が込んでいます。背景に小さくBGMが流れていますし、もちろん映像も編集してテンポよくつないでいます。字幕やテロップも入っていますし、街頭での撮影なのに会話がきちんと聞こえるように音声面にもこだわってる。単に撮って流すだけじゃないんですよね。YouTubeなどの動画サイトにはこうした自撮りの映像がごまんとあふれていますけど、人気のある映像は、コンテンツそのものが優れているだけではなく、それを下支えしている話し方や撮影の技術がしっかりしているのだなと気づかされます。細かいところに気を配り、動画の後ろで人には見えない努力を重ねているんですね。

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中国には恩がある

私、中国は「大好きだけれど大嫌い」です。「愛憎相半ばする」という言葉がありますけど、中国に留学していた当時から今に至るまで、ずっとそんな感情を抱いて過ごしてきました。中国に留学する前は単に「大好き♥」だったので、やはりこれはかの地に長く暮らしてみてはじめて芽生えた感情です。

Wikipediaの「憎悪」の項には「愛憎相半ばする」について「人は、子供のころは、ある対象に対して愛ばかりを感じたり、反対に憎しみばかりを感じるが(心理学用語で言う「スプリッティング」な状態)、大人になると成長してアンビバレントになり、同じ対象Aに対して、愛情を感じつつも、同時に憎しみを感じる、という状態にもなる」と書かれていました。なるほど、私は中国で多少は「大人」になったわけですね。

しかし「中国が好き」あるいは「中国が嫌い」という言い方は、あまりにも粗雑であるかもしれません。そこで用いられる「中国」は中国という国のことなのか、中国政府のことなのか(それもいつの時代の)、中国文明なのか、中国人なのか、あるいは中国的な世界観なのか、あるいはそれらの具体的にどういった部分についての思いなのか……それを明らかにしないまま中国が好き、あるいは嫌いと言っても、そして人と議論をしてもあまり意味がないように思います。

たまに実家に帰省などすると、家族や親戚の一部から「中国関係の仕事をしているんだって?」に続いて中国への批判的な言葉を聞かされることがあります。それは例えば、現在の香港情勢に絡んでであったり、ウイグル族チベット族への弾圧に憤ってであったり、あるいはもっとプリミティブな予断と偏見であったりするのですが、そんなときにどう返したり対応したりすればいいものかと、いつも戸惑います。

語ろうと思えば、そして予断や偏見や誤解を正そうとすればできるし、やればいいんですけど、いつも徒労感が先に立って苦笑いしながら「いや、中国といっても色々あるからね……」とお茶を濁してしまう。そんな不甲斐ない自分にも腹が立つというか、割り切れない思いを抱いてしまうのです。

今朝の東京新聞に、中国出身の文学者・劉燕子氏へのインタビュー記事が掲載されていました。全文、背筋を正される思いで読みましたが、日本人へ伝えたいこととして「民主主義の貴重さ、一票の尊さ」を考えてほしいということ、そしてこんなことを話されています。

日中は一衣帯水で友好といいますが、本当の友人なら困った人を助けてほしい。前の戦争の贖罪意識に陥って物が言えない人が多いのは知っています。でも不正義に黙っていたら、この罪がさらに加わるのではないでしょうか。

これは痛烈な批判だと思いました。特に私の年代より上の世代の一部には、こうした思考停止に陥っている方は多いようにも感じます。私自身は「友好」だの「一衣帯水」だのという言葉に酔う心性はもうありませんけど、だからといってプリミティブなヘイトにも当然くみしません。私は私の「持ち場」でできることがないかといつも考えています。

私は中国政府の奨学金をいただいて留学の夢をかなえました。それは現在の仕事や暮らしにも深く結びついています。だから中国には恩があります。その恩をどうやって返すか。そのひとつとして、奉職しているいくつかの学校の授業では、教材に様々な立場の華人が発言している実際の音声や映像を使うことを続けてきました。

教室には中国大陸(中華人民共和国)出身・台湾(中華民国)出身の人、さらに中国にルーツを持つ東南アジア出身の人など、様々な華人がいます。せっかくそうした華人圏から離れたいわば「第三者的」な位置にある日本にいるのですから、様々な立場からの発言や主張に接して、よりフラットで公正な視線で自他共に見つめ直してもらえたらいいなと(僭越ながらも)思っているのです。私の「持ち場」ではそういうことができるのではないかと。

政治的な発言もありますし、時には自分が教えられてきた歴史観や価値観とは異なる発言もある。時には学生さんから「センセは台湾が好きなんでしょ」と言われたり、「中国のこうした主張はちょっと……」といった反発や忌避を引き起こすこともあります。そう、これだけネットが発達した現代でも、人間が取捨選択して取り込む情報にはけっこう偏りがあるんですね。そこを意図的に撹拌しようと思っているのです。

それがはたして恩返しになるかどうかは分かりませんが、よりフラットな視線を獲得した華人が増えて、その結果まっとうな批判精神が広まっていったらいいなと思っています。それは長い目で見れば中国にとってもよいことなのではないかと。少なくとも批判、それも善意の批判は、単なるヘイトや悪口とは違って、相手のことをより深く考えるからですよね。

それからもうひとつ。私には知り合いの中国人がたくさんいます。いくら政治や社会の現状が深刻でも、私が単細胞的な「嫌中・反中」あるいはヘイトスピーカーにならないでいられるのは、そうしたひとりひとりの知り合いの顔が浮かぶからです。実際に知らないから、人と人とのつきあいがないから、頭の悪すぎる行動につながっちゃう。私たちはもっと「かの国」を知り、そこの人々とつきあってみるべきだと思います。

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いまからもううんざり

予想はしていましたが、年が明けたらことさらに「オリンピック」を盛り上げようとする声喧しくて、もう本当にうんざりです。ふだんからテレビはあまり見ないのですが、その少ない視聴時間でも「多いな」と感じるんですから、これから先、「本番」が近づくにつれて、もっとやかましくなっていくんでしょうか。

先日は職場の新年挨拶会なるものがあった(賀詞交換会みたいなものです)のですが、立食パーティーのテーブルに並んでいたビール瓶にまで「2020」とか「Olympic」とか、大会のロゴマークなんかがついていて、またまたうんざり。こうやって耳からも目からもお祭り騒ぎの言葉を注ぎ込まれていくことになるんでしょう。他の都市にお住まいの方はまだマシかもしれませんが、東京に住み、都心に通勤している者としては暗然たる気持ちに襲われます。

そんな中、雑誌『世界』の2020年2月号では「オリンピックへの抵抗」という特集が組まれていました。バルセロナ五輪への出場経験がある元サッカー選手で政治学者・社会学者のジュールズ・ボイコフ氏は、五輪を推進する人々は社会的強者の立場からオリンピックを捉えているのに対し、自分は「その負の影響を受ける社会的弱者の立場から理解しようと試みるもの」とした上で、そも今回の東京五輪は開催する必要があったのかとシンプルにこう問います。

IOC会長の)バッハは、オリンピックが日本に結束をもたらすと言いました。でも、彼に訊きたい。日本にはいま、結束力が欠如しているのか、オリンピックで結束感を生まねばならない分断があるのか、と。

本当に、そうですよね。安倍首相は「復興五輪」という言い方を使い、「東日本大震災の被災地の復興を後押しするとともに、復興を成し遂げつつある被災地の姿を世界に向けて発信する」としていますが、五輪で結束を目指すことに巨額の予算をつぎ込むより、大震災や原発事故からの復興と事後処理にこそお金を使うべきです。

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世界 2020年 02 月号 [雑誌]

『ブラックボランティア』や『電通大利権〜東京五輪で搾取される国民』などで以前から今回の五輪に関する問題を指摘し続けてこられた著述家の本間龍氏は、東京オリンピックパラリンピック組織委員会の無責任ぶりを、公開質問状とその回答を紹介する形で告発しています。その内容は、これまでの著書で明らかにされてきた体質とまったく変わっておらず、むしろその「変わらなさ」がより鮮明になっています。

特に、殺人的な酷暑の中でボランティアや観客が熱中症にかかった場合の責任の所在、つまり具体的に誰がどのように責任を取るのかについては、繰り返し質しても一向に明確にならないという点が本当に度し難いと思いました。マラソン競歩は酷暑を理由に札幌に(IOCの決定を受けてしぶしぶ)移した、つまり危ないということは組織委員会も重々承知しているはずなのね。

これだけ酷暑問題が叫ばれているのに、その対応責任者の名前を出さないのは、万一の場合の責任を不明確にしようとしているとしか考えられない。組織委は五輪終了後、残務処理が終われば解散してしまうのだ。組織が解散すれば、当然責任追及は困難になる。今回の回答で、組織委側はまさにその「逃げ切り」を狙っていることが、一層明確になったのではないか。

この無責任な「逃げ切り」は五輪のみならず、「桜を見る会」でも「モリカケ」でも原発事故でも同じように繰り返されてきたこの国の常套手段です。本当に腹立たしい。なのに私の周囲でも無邪気に「チケットの抽選、当たった?」とか「○○のチケット、取れちゃった」と喜んでいる方や、「ボランティアに参加します。語学枠で使ってもらえるといいんだけど」と言う外国籍の講師がいたりして、何とも複雑な気分になります。

平尾剛氏と尾崎正峰氏の対談も読み応えがありました。平尾氏は元ラグビー日本代表で、以前から「五輪がスポーツをダメにする」と主張されてきた方で、特に五輪にまつわる商業主義や勝利至上主義を批判されています。

スポーツと競争は切り離せませんが、全員が一つの頂きを目指して競い合う状態は異常です。(中略)目先の勝利に振り回されて、スポーツの本質にあるクリエイティビティが喪われている。

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これは運動選手・アスリートこそ率先して考えなければならない問題だと思います。なのに、メディアに登場するトップアスリートたちは「金メダルを目指して」とか「金しか考えていません」みたいなことばかりおっしゃる。さらには「日本を背負って」「日の丸を胸に」のようなことも。

対談では「アスリートの社会的な意味が問われる」と問題提起されています。身体の可能性を極限まで追求したアスリートだからこそ、社会に貢献できるという考え方はとても新鮮です。「ニッポンスゴイ」的な国威発揚ではないところで、ましてや個人的な栄誉のためではないところで社会に関わるのが本当のアスリートのあるべき姿ではないかと。私は「なでしこジャパン」とか「侍ジャパン」などといった物言いが大嫌いなのですが、そうやってアスリートを国威発揚・国民統合的なシンボルとしてひとまとめに持ち上げるのは、アスリートにも、そしてスポーツ文化に対しても失礼ではないでしょうか。

事ここに至って、今回の五輪が中止になることはないでしょうけど、といって、この特集でも指摘されている「もはや回避できないのであれば、よりマシなものにしよう」という気持ちにもなれません。尾崎氏はこう語っています。

今から中止というのは政治的に困難でしょう。といって「どうせやるなら」派にもなりたくない私たちにできることは、ここまで起こったこと、これから起こることを、記憶し、記録して、後で検証できる形で残すことだと思います。

「これから起こること」については、私も東京都内に住み、都心に通勤している当事者ですから、これからも注視していきたいと思います。尾崎氏はこうも語っています。

(五輪招致への立候補を取り下げた都市に)対して東京では、メリットが誇大に強調され、開催による自分たちの生活への影響などの情報が明示されないまま、また、開催費用が際限なく膨れ上がることなど海外で問題視されていた点が広く問われることもなく、何となく話が進んでしまった。

五輪開催にともなう混乱、特に公共交通機関のそれや都心の人混みについては、私もかなり心配です。今だって都心の繁華街は尋常じゃないほどの混雑ぶりを呈しているというのに。今年の夏、私はどこかへ「避難」しようと今から計画しているのですが、都民としてちょっとその混乱っぷりを目に焼きつけておきたいとも思います。……ああ、私もどこか五輪に変な期待をしちゃってる。