インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

拙を守って田園に帰る

毎朝毎晩、通勤電車に揺られるたびに、人の多さに酔いそうになります。自分もその「人」のひとりであるのですから、全く身勝手なものいいですが、東京都心の、出退勤時の人の多さはちょっと異様ですよね。これでも「ピークオフ」と言いますか、ジムで朝活をするためにかなり早い時間に都心へ出てきているのですが、その時間にしてこの人の多さはどうでしょう。みなさん朝早くから本当にお疲れ様です。

歳を取ったからこうやって「人に酔う」ようになったわけでもなく、実は私、はるか昔の学生時代にも同じようなことを感じていました。とにかく満員電車がイヤでイヤで、会社勤めなんて絶対にしたくないと思って、大学を卒業するとすぐに九州の田舎で農業のまねごとを始めたのでした(専攻の関係で求人が全くなく、就職できなかったというのがホントのところですが)。

なのに、その農業のまねごとも五年ほどしか続かず、結局都会のネオンに吸い寄せられるように東京に戻ってきてしまいました。

都会は確かに便利です。何をするにも選択肢が多くて、心満たしてくれる新規なものも多くて、さらに大好きなアート系のあれこれ(美術や音楽や演劇や映画や……)を楽しむすべも揃っています。いまの仕事にしたって、都会に、特にこの東京に住んでいなければたぶんたどり着くことができなかったでしょう。その意味では都会によって私は生かされていると強く感じています。

なのにこの息が詰まるような感覚はどうしようもありません。特に周囲の人々から感じる「人圧」とでもいうべき圧迫感。ここ数年はその「人圧」を逃れようと、海外の離島の,そのまた離島の、人がほとんど行かないような場所に行き、360度ぐるりと見渡して人影一つ見つけることができないような荒野に立つのが楽しみになりました。別に海外へ行かなくても、日本にだってそんな場所はたくさんあるのでしょうけど。

中国のいわゆる六朝時代、東晋末の詩人に陶淵明という人がいて、有名な「帰園田居」という詩があります。私はこの詩が大好きで、特に最初の一番有名なところは折に触れて思い出します。

少無適俗韻,性本愛丘山。
誤落塵網中,一去三十年。
羈鳥戀舊林,池魚思故淵。
開荒南野際,守拙歸園田。

角川ソフィア文庫の『陶淵明』に載っている、釜屋武志氏の訳文を引きます。

若い時から俗世と調子を合わせることができず、生まれつき丘や山が好きだった。
ふと誤って俗世の網の中に落ちこんで、たちまちのうちに三十年が過ぎ去った。
旅の鳥はもといた林を恋しく思い、池の魚は以前泳いでいた淵をなつかしがる。
それで南の野のあたりに荒地を開拓し、不器用な生き方を守りとおそうと田園に帰ってきた。

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陶淵明 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

特にこの「守拙歸園田(拙を守って田園に帰る)」という部分の、なんと心に響くことか。このフレーズは折に触れ繰り返し自分に語りかけてくるような気がするのです。自分は「拙を守って」いるだろうか、いつか「田園に帰る」べきではないだろうかと。

思えば、学生時代に就職を忌避して、帰農を志したのはまさにこうした思いからでした。それがなぜか「誤落塵網中」してしまい、「一去三十年*1」。おお、そういえばちょうどいまの仕事が雇い止めになるのが、東京に舞い戻って三十年です。陶淵明は「開荒南野際」すべく田園に帰ったわけですが、私は何をしに田園に帰ろうか、帰る田園はあるだろうか、それを最近はよく考えるのです。

*1:諸説あって「十三年」ではないかと主張する方もいるようですが。

ファミマのパスタサラダをシェイクする留学生

今日の学校のお昼休みに、華人留学生数名が、教室で何やらプラスチックの箱のようなものをシャカシャカと音を立てて振っていました。「何ですか、それ?」と聞いてみると「ファミマのパスタサラダです」とのお答え。このパスタサラダは彼らの中でちょっとした流行らしいです。

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蒸し鶏のパスタサラダ |商品情報|ファミリーマート

このサラダにはドレッシングがついているのですが、華人留学生諸君はパッケージを開けてこのドレッシングを投入したのち蓋を閉め、パスタと具材とドレッシングがよく混ざるようにシャカシャカ振っていたというわけです。

「それがそのパスタサラダの正式な食べ方なんですか」と聞いたら「自分で考えました」だって。なるほど、中国語圏の“拌面(和えそば)”系は、牛肉乾麵にしろ炸醬麵にしろ、全体をしっかり混ぜて食べますよね。それに倣って日本のコンビニのパスタサラダも当然のごとくしっかり混ぜて食べていたというわけです。しかも蓋がついているんだから箸などで混ぜず、直接シャカシャカやっちゃえというこの合理主義。さすがは徹底したリアリズムが信条の華人……と唸りました。

私はあまりコンビニのお弁当を買わないので確かなことは分かりませんが、日本人がこのパスタサラダを食べる場合は、たぶん添付のドレッシングを上から全体にかけて、多少「混ぜ混ぜ」しつつ食べ進めるんじゃないかと思います。そもそも日本人ってこういう「初手から全部混ぜちゃう」ってのは少々苦手ではないですかね? でも最近は「和えそば」「混ぜそば」系の食べ物も多いですから、特にお若い方は全く抵抗がないかしら。チョップドサラダみたいなのもあるし、逆におしゃれな感じですよね。

でも私くらいの年代より上の日本人は、けっこうこういう食べ物に抵抗がある方も多いかもしれません。ビビンパにしても、本場では全体をよく混ぜ、混ぜれば混ぜるほどおいしいと言われ、確かにその通りで味のハーモニーが楽しくて、私もいまではそうやって食べますけど、最初はちょっと慣れませんでした。何というか見た目があまり麗しくないですし、初手から味を均一化してしまったら,食べ進める楽しみがなくなってしまうような気がして。

カレーもインド料理店の店員さん(たぶんインドかネパールの方)に「よく混ぜて食べてくださいね」と言われて、最初は何となく抵抗がありました。カレーとご飯を少しずつ「混ぜ混ぜ」しながら食べるのが好きだったんです。大昔に見たお芝居のセリフ(たぶん転形劇場だったと思うんですけど,記憶が定かではありません)に「カレーを食べ終わって、ぼそっと一口ほど残った白いご飯がうまいんだよなあ」みたいなのがあって、大いに共感した覚えがあります。

同僚の韓国人は夫が日本育ちの韓国人で、子どもの頃はカレーを混ぜないで食べていたそうです。ところが帰省したか何かの折に韓国の祖母の家に行った際カレーが出て、おばあさんが全部をしっかり混ぜてくれちゃって大泣きしたとか。わはは、こういう食文化の違いは面白いですねえ。そして、日本に留学してもパスタサラダを自分の文化に則ってシャカシャカしちゃう華人留学生に感動した次第です。

ちなみにシャカシャカしている最中のパスタサラダは見た目的にちょっと「アレ」ですが、蓋を開けてみるとなかなか美味しそうでした。明日のお昼はマネしてやってみたいと思います。

北欧風のオープンサンドイッチ

昨年初めてデンマークに行ってから、北欧風のオープンサンドイッチにはまっています。もともとサンドイッチが大好きで、何十年も前に買い求めた坂井宏行氏の『サンドイッチ教則本』に載っていた、コペンハーゲン伝説のオープンサンドイッチ店「オスカー・ダビドセン(Oskar Davidsen)」の世界一長いサンドイッチメニューのエピソードに惹かれ、一度現地でオープンサンドイッチ(スモーブロー)を食べてみたいなとずっと希っていたのです。

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サンドイッチ教則本 1997 (暮しの設計 NO. 136)

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もっともこの「オスカー・ダビドセン」というお店は、この本が出版された当時すでに閉店して本当の「伝説」になってしまっており、実際に行けるわけではありませんでした。それで昨年はコペンハーゲンで別のお店をネットで探して行ったのですが、素朴ながらなかなかおいしくて(特にサーモンが!)、とても印象深い食事になりました。

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北欧風のオープンサンドイッチは、サンドイッチといいながらもパン(黒パンが多い)はほんの申し訳程度が底に敷かれているだけで、ほとんどサラダと言ってもいいような料理です。普通のサンドイッチのように手でつかむことはまずできず、フォークとナイフで食べるしかないという……。でも炭水化物を取り過ぎるとすぐにお腹に直結してしまう中高年にとっても魅力的なので、自分でもよく作っています。

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最近見つけたこちらの本は、デンマークスウェーデンのオープンサンドイッチ店が数多く紹介されていて、ああこれらのお店をもっと早く知っておけばよかったと思いました。次に北欧へ行ったときは、ぜひ訪れてみたいと思います。

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北欧のオープンサンドイッチ: コペンハーゲンとストックホルムの人気店に教わる本場のスモーブローレシピ

ちなみに成就した伝説の「オスカー・ダビドセン」ですが、さっき検索してみたら、なんと先代の娘さんが「Ida Davidsen(アイダ・ダビドセン、かな?)」というお店で家族の味を引き継いでいるようです。おお、これも知りませんでした。こちらもぜひ行ってみたいです。

idadavidsen.dk

セレクトショップにおける言葉の経済性

週一回、東京から横浜まで電車に乗って、フィンランド語の講座に通っています。わざわざ横浜まで通うのはたまたま都心に私のレベルに合ったクラスが開講されていないからですが、行き帰りの30分ほどの車内で予習や復習ができるので、通うのもそんなに苦にはなりません。

教室は駅ビルに入っているカルチャーセンターで開かれていて、授業が終わった後、同じ駅ビルのお店をひやかして帰るのが楽しいです。この駅ビルには「ユナイテッドアローズ」「ナノユニバース」「ビームス」の「御三家」が入っているのです。もっともこれらのお店で服を買うことはまずなくて、結局近くのビックカメラの上にある「ユニクロ」に行っちゃうんですけど。

しかしなんですね、セレクトショップがお好きな方には怒られるかもしれませんが、こういうお店の服って、その品質の割にはお高くありません? いえ、私はそんな「目利き」じゃないので確かなことは言えないのですが、これからの時期に重宝するTシャツなど、セレクトショップでは8000円などという値札がついています。でも同じようなTシャツは、例えばユニクロの「UniqloU」シリーズだったらたった1000円でもとてもお値打ちです。

www.uniqlo.com

材質とか縫製に違いがあるのかもしれませんし、ファストファッションの製品の多くが開発途上国の低賃金労働に支えられている現実もあるので手放しにユニクロを押すのは気が引けるのですが、どう比較しても8倍の差があるのは解せません。比較して……そう、私は御三家の服も買ったことがあるんですが、けっこう高価なのに着てみるとそれほど高品質でもなくて、すぐ「へなへな」に型崩れしたりするものも多いんですよね。

それに御三家って、バーゲンセールの時期になると同じ服が半額とか6割引とか7割引とかになるものも多いじゃないですか。まあそれが期末のクリアランスセールってもんなんですけど、じゃああの定価はいったい何だったのかと思いません? 値引き交渉したらぐわっと値段を下げてくるペルシャの絨毯屋さんかと。

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https://www.irasutoya.com/2017/11/t_67.html

あんまり「disる」のもはしたないのですが、あともうひとつだけ、御三家で苦手なのは店員さんの言葉遣いです。前にも書いたことがありますが、「いらっしゃいませ」がユナイテッドアローズは「しゃっせー」、ビームスにいたっては「せっ」で、言葉の経済性を究めまくりです。これ、例外的な方はもちろんいらっしゃるものの、私は複数の店舗で「観察」した結果、ほぼ同じような傾向があるのを確かめました。社風みたいなものかしら。でも私はあれを店内のあちこちで聞かされるたびに購買意欲がみるみる減退していくのを感じます。

まあセレクトショップというのは、というかブランドというものは、お店全体で作り出すある種の世界観を価値にして売っているところがありますから、それに納得して高くても購入する消費者がいるのは、それはそれで構わないのかも知れません。でもあの「しゃっせー」や「せっ」は明らかにそういう高級な世界観を毀損しているんじゃないかと思うんです。きちっと「いらっしゃいませ」と言った方が高級感が出るんじゃないかな。きちっと言わないのがカッコいいという価値観なのかな。

qianchong.hatenablog.com

容赦なく追い込める

先日ジムでパーソナルトレーニングを受けていたら、トレーナーさんが面白いことをおっしゃっていました。「お客さん(私のこと)だから追い込めるんですよ」。ここのジムは予約不要で、行ったときにたまたま空いているトレーナーさんが指導してくださる(カルテがあってトレーニング内容は引き継がれる)んですけど、周囲にいた他のトレーナーさんたちも「そうそう」とおっしゃっていて、ちょっと驚きました。

どゆこと? と聞いてみると、私はいちおう一所懸命に、というか必死にトレーニングについてくるので、それじゃあということでトレーナーとしても負荷をかけやすいということらしい。つまり指導や指示をしたタスクに真面目に取り組んでくれるから、こっちもやりがいがあるということらしいのです。

確かに、私はもともとかなり非力な人間で、毎回のトレーニングは文字通り青息吐息の状態です。たった一時間のトレーニングなのに、終わる頃には自他共に認める「へろへろ」状態になっていて、階段を上がる際にも足がもつれる始末(ジムは地下一階にあります)。「這々の体」とはまさにこのことです。上半身を集中して鍛えた日など、帰りの電車で腕が上がらず、吊り革がつかめないこともあります。もう一方の手で肘を支えて押し上げ、ようやくつかめるような状態。

でもトレーナーさんはプロなので、そういう私の状態を見極めながら、常に体力や筋力の上限ぎりぎりのところを狙って負荷をかけてくるのが上手です。楽なところに留まってお茶を濁すのではなく、もうちょっと頑張ればさらに体力や筋力がつくというその「いっぱいいっぱい」ちょい手前のところに毎回追い込まれるのです。

ところがお客さんによってはそこまで頑張れない、あるいはそこまで求めていない方もいる。そうなるとトレーナーさんとしても無理矢理押しつけるわけにはいかず「ほどほどのところでいいですよ」と負荷を下げざるを得ない。ホントはそれでは体力も筋力もつきにくいんだけど……と内心忸怩たるものがあるらしいんですね。だけど私にはそんな気遣いはいらないので「安心して容赦なく追い込める」、つまりは指導しやすいと。

この話を聞いて、いやもうこれは語学教師の心境と全く同じじゃないかと、ある種の感動さえ覚えました。語学も一種の身体能力で、筋トレみたいなもの。そして容赦なく追い込める生徒さんにはこちらも燃えるし、そういう生徒さんは上達も速いです。ジムのトレーナーさんたちからは毎回いろいろな気づきをもらっていますが、今回もイイ話、いただきました。どっかの授業で使おうっと。

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https://www.irasutoya.com/2015/01/blog-post_965.html

祝祭ですからね

若い頃、小さな出版社に勤めていました。官庁や企業から注文を取って、社会保険関係の出版物を編集する会社です。年金や健康保険、福利厚生などに関するパンフレットやリーフレット、読み物、広報誌、各種のお知らせ資料などを作っていました。

当時から国民年金の未加入問題は顕在化しており、また公的保険や企業年金の運用が金利の影響でかつてほど順調に行かなくなった影響で、各地の保養施設などの存続が危うくなってきていた時期でした。そんな背景の中で、例えば国民年金について「単なる個人の貯金ではなく『世代間扶養』という考え方に基づいた相互扶助制度なんですよ〜」などといった趣旨の啓蒙的な出版物を数多く世に送り出していました。まあ政府の宣伝のお先棒を担いでいたようなものです。

上司のひとりはそんな状況をよく弁えていて、つねづね政府や企業の批判をしていました。もちろん客先である政府機関や大企業に出向いたときには一切批判はせず、客先から帰ってきて社内で私たち部下にあれこれ語るのです。例えば上述した原資の運用についてもそうですし、かつて日本全国に建てられた福利厚生施設(保養施設)についても「本来なら運用利率が良いときにこんな箱物を作るんじゃなくてきちんと留保しておき、利率が下がった場合にも給付が続けられるようにしておくべきなんだ」と極めて真っ当なことを話していました。その後、財政の悪化からこうした施設がどんどん売却されていったのはみなさまご存じの通りです。

ところがこの上司は、ある週明けの月曜日にこんなことを言っていました。「選挙? んなもん行くわけねえじゃん」。前日の日曜日は統一地方選挙の投票日で、上司が住んでいる街でも首長や議会の選挙があったのですが、なんとこの上司、そうした選挙には一切行っていないと言うのです。「行ったって何も変わらねえし」。若かった私はあきれてしまいました。いや、いまこうやって書いていてもあきれますが。日頃あれだけ政治や行政の不備を批判していながら、ご自身はその程度の感覚で生きていたわけですね。

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https://www.irasutoya.com/2018/08/blog-post_37.html

それから何十年も経った今日でも、各種選挙での投票率を見れば、くだんの上司のような感覚の人がかなりの割合で存在していることが分かります。まあ、なんだかんだいって日本というこの国は、世界でもかなり珍しく豊かで安全で暮らしやすい国ですし(ネットではあれこれネガティブなことをおっしゃる方が多いですが、いや、どう考えても日本は恵まれていますよ、いまのところは)、選挙なんて行っても行かなくてもそんなに変わらなくね? ……という気持ちも分かる気はします。

でも私は、そういう恵まれた国に生きているからこそ、当たり前のように付与されている権利を当たり前に行使することにこだわりたいと思います。これはほとんどまともに選挙というものが(民主的な選挙というものが)行われていない、例えば中国のような国に住んで、その国の人と知り合い、語り合った経験からでもあります。どこかの国で、初めて民主的な選挙というものが実現したとき、人々はまるでお祭りのように着飾って投票に向かった……というようなエピソードを聞いたことがありますが、私はこの話にとても心を動かされるのです。

投票権があるということの意味を、その歴史や背景から考えてみれば、それがどんなに興味を持ちにくい実態であっても(言っちゃった)なおも祝祭的なものとして捉えていけない道理はありません。というわけで私は新聞に折り込まれていた選挙公報を仔細に読み、ネットで検索などもして、誰に投票しようか考えています。うちの区は区議会議員候補だけで75人もいるので、けっこう時間がかかります。でも祝祭ですから面倒くさいなどと言ってはいけないのです。そしてこのあと、ちょっとめかし込んで近所の小学校(投票所)へ細君と一緒に出かけるのです。

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https://www.irasutoya.com/2013/12/blog-post_3442.html

「くっついていればいいじゃん」的な行動原理が実に興味深い

世界各国から集まっている留学生の立ち居振る舞いを見ていると、それぞれの民族性とかお国柄とか、あるいは世代の差のようなものが垣間見えて、とても面白いです。

新学期が始まったこの時期は、学校の教務から様々な書類の提出を求められ、中には例えば保険証とか外国人登録証のコピーを貼ってくださいみたいなものもあります。私たちも例えば証券口座を開くときなど身分証明書のコピーを提出みたいなのを求められますが、いまはほとんどがネット上で手続きでき、スキャナでスキャンした、あるいはスマホで撮影した証明書の画像をブラウザ上で添付、というのが一般的です。

でも学校現場ではまだまだそこまで「進化」していなくて、紙のコピーを証明書の大きさにハサミでチョキチョキ切って、糊づけ……というパターンが多いです。何とかならないのかなと思いますが、まあそれはさておき、先日はその糊づけの方法が面白いなと思いました。私たち日本人(と一般化はできないかもしれませんが)はこういう時たいがい、添付しようとする紙片の裏全面に糊を塗って張りますよね。あるいは四隅にぐるっと糊を塗る(私はこれ)。

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https://www.irasutoya.com/2013/03/blog-post_2552.html
https://www.irasutoya.com/2014/07/blog-post_477.html

でも留学生のみなさんは、洋の東西を問わず、紙片の裏の真ん中一点にちょんと糊をつけて、あるいはせいぜい真ん中にぐるぐるっと糊をつけて、書類に貼り付けるのです。だもんで、中には糊づけが弱くて証明書のコピーがはがれてしまい、私たちが再度糊づけをしてあげたりします。

なるほど、証明書のコピーを添付、ってんだから、要は台紙にくっついていればいい。糊が一点だけでもくっつくことはくっつくんだから、それ以上は「過剰」なんですね。実に合理的というか、リアリスティックというか、省エネというか。私など、後からはがれたらどうしよう的心配が先に立って糊を四隅に塗るのですが、それとは全く違う行動原理の人たちがいるわけです。

いえ、どちらが正しいとか、ましてや、だから日本人の労働生産性が低いんだなどというご大層なことを申し上げたいわけではありません。ただ面白いな、自分の考えがスタンダードではないんだなと改めて思うのでした。

「めっちゃ、ヤバいっす」をめぐって

日頃から、いわゆる「日本語の乱れ」についてはできるだけ寛容でありたいと思っています。私は日本語母語話者ですが、言葉は世につれ人につれ常に変化していくものですから、私の「よし」とする日本語だけが正しいとはとても言えないからです。これはまた、話者が非常に多くて地域差もかなり大きい中国語(の標準語とされる北京語・普通話)を学んで培われたスタンスでもあります。

中国語においても「これが標準!」という主張は、特に学校の現場ではひとりひとりの中国語(母語話者)の先生がお持ちですが、それらは往々にして視野の狭いご意見であることが多く、私はどちらかというとそこには冷ややかな視線を向けてきました(学恩がありながら申し訳ない)。これもやはり言葉は生き物で常に変化していくものだと思うからです。

以前ネットで「日本語の乱れ」について、「けしからん!」と憤慨するのが日本語学者で「おもしろい!」と興奮するのが言語学者……というようなもの言いを目にしました。なるほど、そういう意味では私は言語学者のような立場でありたいのかもしれません。

……ところが。

以前の話ですが学校に、二十歳代の若い先生が赴任してこられました。この方は日本語母語ですが外語も流暢で、主に留学生の通訳や翻訳の授業担当として公募で採用された方です。私はその面接などには関与していなかったので、赴任初日に初めてお目にかかったのですが、その話し方に度肝を抜かれました。

「めっちゃ、ヤバいっす」

私はこの時、自分の身がこわばるのを感じました。そしてその日は、その「めっちゃ、ヤバいっす」をめぐって、終日自分の感情を反芻することになったのです。以下、反芻を再現してみます。

①日本語を学んでいる留学生に相対する教師、それも通訳や翻訳という言葉のプロを養成する教師が、授業ではなく教員室でのおしゃべりとはいえ「めっちゃ、ヤバいっす」を使えるものだろうか。


②いやいや、言葉は常に移り変わっていくものであり、自分とは一回りも二回りも歳の違う若い世代の「めっちゃ、ヤバいっす」もまた、その変化の萌芽として受け入れればよいのではないか。


③だいたい「その日本語はなんだ、なっとらん!」などと言うこと自体(実際にご本人には言っていませんが)、自分が常日頃から嫌悪している年寄りの価値観の強要ではないか。言葉は人格であり、そこに注文をつけるのは一種のパワハラかもしれない。


④いやいや、そこはそれ、その若い先生も教員室での雑談だったからフランクな態度で接してこられたのに相違ない。授業は授業で、もう少しフォーマルな言い方もなさるはず。曲がりなりにも公募で何度かの面接も経て採用された方なのだから。実際、私以外にその場に居合わせた同僚からは「若いね〜、世代の違いだね〜」という感想だけで、「なっとらん!」「けしからん!」的な意見は出なかった。


⑤しかし、これが企業であったらどうか。新入社員が一回りも二回りも歳の違う上司に向かって(うちの学校には職階はありませんが)「めっちゃ、ヤバいっす」とのたまえば、まず確実に指導が入るはず。


⑥いやいや、だから、学校は会社組織とはまた違うわけで。英語や中国語でも敬語的な表現はあるけれど、そのいっぽうで上司だろうが同僚だろうが互いに「Hi!」的なフランクさだ。学校だから、先生だから「めっちゃ、ヤバいっす」を白眼視するのはいかがなものか。


⑦普段から「絶対に正しい中国語などない。発話者の発した言葉は、それがどんなものであれ訳す義務を負う。そういうプロ意識を持とう」と華人留学生諸君に言っているではないか。それに常日頃「けしからん!」の日本語学者ではなく「おもしろい!」の言語学者的立場でありたいと思っているのではないか。自分だって「〜じゃん」とか「超〜」あたりはすでに身体に馴染んで自分でも使うことがある。であれば「めっちゃ、ヤバいっす」についても特段めっちゃヤバいと思う必要はないのかもしれない。

……いやはや、こんなにも思考が行ったり来たり(たいした思考ではないですが)するとは思いもよらないことでした。私自身はこの、元々大阪弁発祥で、お笑い芸人さんのメディア露出によって広まった「めっちゃ」という言葉はいまだに使えないし、これから使う気もないし、テレビで俳優さんやタレントさんが使っているのを聞くと「イラッ……」とするような人間のですが、みなさまはどう思われるでしょうか。特に語学の先生が、雑談とはいえ「めっちゃ、ヤバいっす」を、それも故意にとか冗談でなどという意図ではなく、ごくごく自然に使うことについて。

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https://www.irasutoya.com/2016/09/blog-post_317.html

無理して知ろうとしない

NHKの『世界ふれあい街歩き』、いつも楽しみに見ているこの番組の先回は、イタリアはシチリア島の都市、パレルモの巻でした。

www.nhk-ondemand.jp

「古代から東ローマ、イスラム、ノルマン、スペインなど支配者が代わった歴史が、異文化に寛容で独特な文化を生んできた」(番組ウェブサイトより)というこの街。終盤近くで様々な民族の人々が一緒に集って歌っているグループに「誰でも受け入れるんですね」と声をかけると、「それはちょっと違う。受け入れるというと努力してるみたいだけど、僕らは無理して知ろうとしない。違いを楽しむだけ」と地元の人が言っていたのが印象に残りました。これはなかなかに深いお言葉ではありませんか。

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いま、日本の私たちには、この「違いを楽しむ」というスタンスがかなり欠けているのではないかと思いました。外国人観光客が繁華街にあふれ、外国人労働者の受け入れも拡大されている中、私たちはこの「無理して知ろうとせず、違いを楽しむ」という肩の力の抜けた達観にはまだまだ至っていません。外国人のみならず、同性婚や選択的夫婦別姓すらその許容までにはまだまだ遠い道のりを感じさせる現状です。そうした多様性を認めても、誰も少しも困りはしないというのに。

でも、そうした多様性の受容を頭ごなしに求めても、頑なな人の心はますます頑なになるだけだとも思います。要はそういうものに慣れていないのです。訓練ができていない、あるいは訓練をするチャンスが少なかった。うちの家族や親戚なども、帰省するたびにあまりにもプリミティブな外国人観・異文化観にうんざりすることが多いのですが、それもまた訓練ができていないと考えればそう不思議ではないのかもしれません。

そういう意味で私は、外国人や異文化を体現している人々と日常的につきあう職場で働いてこられたことを役得だと思っています。そして、語学とは本来そうした訓練ができるものとして教育の中に位置づけられるべきものであるとも強く思います。ことに昨今、小学生から、いや幼児期から早期英語教育だと官民挙げて力を入れつつあるこの国ですが、あまり語学というものを単なる「コミュニケーションのツール」などという狭いカテゴリーに押し込んでしまわないよう望みます。

早期英語教育が(早期中国語教育でも何でもいいのですが)将来就職に有利だからみたいな「ちっこい」目的だけじゃなくて、もっともっと広く深い異文化理解・多様性の受容に視点を置いたものであれば、諸手を挙げて賛成なんですけど……。

文部科学省の平成29年度告示になる「小学校学習指導要領 外国語活動・外国語編」では、「多様性」や「異文化」という言葉が非常に少ないのですが、それでも「一人一人が持続可能な社会の担い手として、その多様性を原動力とし、質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につながる新たな価値を生み出していくこと」とか「日本の文化と異文化との比較により、様々な考え方があることに気付く」などという文言はかろうじて見つけることができます。

現場の先生方にはぜひこの部分を「超拡大解釈」していただき、外語(外国語)学習のベースとしての異文化や多様性への理解、またそもそも言語とは何か、言語の壁を乗り越えるとはどういうことかなどの「言語リテラシー」とでも言うべき基礎的な教養の涵養に力を注いでいただきたいと切に願います。私も私の持ち場で努力しようと思います。

顔を名前をQuizletで一致させる

勤務先の学校では新しい年度が始まって、今年も四十名ほどの新しい留学生が入学してきました。この時期にもっとも苦労するのが、留学生のみなさんのお名前を覚えることです。中国語圏のみならず、世界各国から集まっているのでそれぞれの言語での名前の呼び方があり、本名で正確にお呼びするのは不可能に近いので、授業の初日に「ニックネーム」ないしは「自分を何と読んでもらいたいか」を聞いています。

ファーストネームや元々の愛称を使う方、中国語圏の方でもイングリッシュネームを使う方、漢字の日本語読みを使う方など多種多彩でなかなか楽しいですが、問題はそれらのお名前と顔を一致させること。恥ずかしながら私はこの「人の名前を覚える」のがなぜかとても苦手で、昔から苦労しているのです。

特に中国語圏の若い女性の場合、おぢさんの私にとっては「アイドルグループ状態」。ほとんど同じような雰囲気に見えるのです。いえ、こういう言い方は少々失礼ですよね。よく見ればそれぞれ個性豊かなはずなのですが、ごめんなさい、なかなか顔と名前が一致しません。昨年は入学願書に添付された証明写真をコピーして、顔と名前を一致させようと頑張ってみましたが、そもそも証明写真の写りがご本人とけっこう違っている場合も多くて……。

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https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_262.html

それでも今年は「これではいけない!」というか「自分が留学生の立場で、先生になかなか名前を覚えてもらえなかったらかなり悲しいはず」と思い直して、上記の証明写真をデータにして、Quizletに取り込んでフラッシュカード化してみました。もちろん公開はせず、自分だけが見ることのできるモードにしています。Quizletは文字や音声だけでなく画像も取り込めるというのが便利です。せっかく有料登録しているんだし、徹底活用しなきゃもったいない……と四十人分せっせとカードを作り、ここ数日間は通勤途中に覚えていました。

そしたら……なんとその数日で名前と顔を完全に一致できてしまいました。まだ覚えてらっしゃらない先生がたに「ほら○○さんですよ」と教えてあげられるくらいです。う〜ん、自分は人の顔と名前を一致させるのが苦手と思い込んでいたのですが、単に努力していなかっただけだということが分かりました。

とてもワガママな電子マネー評

スマホ決済アプリの「LINE Pay」と「PayPay」、それぞれ一万円ずつチャージしてしばらく使ってみました。私はもとよりキャッシュレス化に大賛成で、ほとんど現金を持ち歩かない生活になっており、加えて「新しもの好き」なので試してみたくなったのです。

このふたつのアプリを使ってみて分かったのは、確かに現金を持ち歩いて支払いをするよりははるかに簡便ですが、それでももっと簡便なツールがある以上、やはりどちらも不便ということでした。「もっと簡便なツール」とは非接触式カードの電子マネーである「Suica(あるいはPASMO)」です。

カードを(あるいはSuica内蔵のスマホを)取り出してピッでおしまい、というこの簡便さの前には、スマホでアプリを起動してバーコードを表示させ、お店の人にスキャンしてもらう、あるいはQRコードを撮影して支払金額を入力というのは、ごめんなさい、やっぱりものすごく面倒だと感じます。ここまで便利になったというのに、おのれのワガママぶりには呆れるばかりで、本当に申し訳ない。でも、コンビニなどで上述の一連の流れをやってみればお分かりになるかと思いますが、やっぱりこれは道具としては失敗ですよ。手順が多すぎるんです。

先日など、セブンイレブンで「LINE Payで」と言ったら、「うちはnanacoSuicaしか使えません」と言われました。知らなかった私が悪いんですが、なるほど自社の電子マネーを普及させたいから排除しているんですね(それでもSuicaは排除しきれないみたい)。また別の日にはファミリーマートで「PayPayで」と言ってバーコードを読み込んでもらうも、エラーになって使えませんでした。店員さんも困っていましたが、何度試しても結局原因は分からずじまい。発展途上とはいえ、こういうことが起こるようではやはり選択肢には上りません。

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さらにLINE PayもPayPayも、やたらにメッセージが届くのです。クーポンやら現金還元やら、いろいろお得ではあるんですけど、これも一日に何度も届くので、はっきり申し上げてうるさいです。支払いをするごとに明細が届くのも親切ですし、家計簿ソフトと紐付けられるのも便利ですが、これもそのたびにメッセージが届いてうんざり。いずれも通知を切る方法はあるんでしょうけど、それをユーザーに調べさせる点でもうサービスのありようが「過剰」なんじゃないかと思います。

そこへ行くとSuicaは何の通知も還元もなしという素っ気なさ、あるいはゴーマンさです。でもそのお殿様商売的な「なんにもなさ」がツールとしては非常に心地よい。日常使いのツール・道具とはこうあるべきでしょう。非接触式カードの簡便さと相まって、これこそ究極の電子決済方法だと思います。

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いま私はJR沿線に住んでいないのでPASMOを使わざるを得ないのですが、はやくPASMOスマホオートチャージ対応して頂けたらと心待ちにしています。そしてLINE PayとPayPayは……ごめんなさい、チャージ分の支払いが終わったらもう使わないでしょうね。LINE Payの「割り勘機能」なんかはとても便利だと思うんですけど、私の周囲にいるおじさん・おばさん方にユーザーが非常に少なくて、宝の持ち腐れなんですよね。

留学生の通訳教材に頭を悩ませる

新学期が始まるこの時期。今年も外国人留学生の通訳クラス(私の場合は華人留学生の「中日通訳」)を担当することになるのですが、毎回教材の準備に頭を悩ませています。

ある程度訓練が進んだ生徒なら、ネットに数多ある動画から講演やセミナーや説明会などの映像を選んで教材にすることができるのですが、こうした“實況錄音”は話者の癖がそのまま反映されていて初級段階の生徒には少々難しいので、「吹き込み教材」と呼ばれる市販の通訳教材を使うことになります。

ところがこれらの教材、内容が少々古くてどうにもリアリティに欠けるのです。日本語母語話者が中国語の訓練として使うなら、内容が古かろうが実際にはあり得ない光景だろうが、どんなものでも中国語には変わりはないのでそれなりに勉強になるし「つべこべ言わずに訓練しましょう」とも言えるのですが、華人留学生は中国語の母語話者なので、ちょっとでも「非現実感」があると、とたんに訓練へのモチベーションが下がってしまうみたいなんですね。

まあその気持ちも分からなくはありません。私だって、例えば「日中通訳」の教材に、公衆電話に十円玉を入れながら長距離電話をしている場面などが出てきたら「いったいいつの時代の話ですか」と白けてしまって、著しくやる気を削がれるような気がします。

かてて加えて、日本で出版されている中国語の教材は、そのほとんどが「大陸一辺倒」なかんずく「北京一辺倒」です。中国語はその話者の多さからもなかなかにグローバルな、というか地域差が大きい言語で、標準語である北京語系統の“普通話”にも様々なバリエーションがあります。でも、中国(中華人民共和国)で「標準の中の標準」とされている中国語は北京を中心とする北方の色彩が色濃く出ていて、これが様々な地域から日本に留学に来ている華人留学生の多くにはとても違和感がある……というか、ちょっと吹き出してしまうくらいに滑稽な感じがするのです。

そこはそれ、職業訓練なんですから、ここでも「つべこべ言わずに訓練しましょう」と言えば済むのかもしれません。実際そうおっしゃっている先生方もいらっしゃるようです。まあ現場に出れば、北京出身の方の通訳をすることだってあるのですから、その意味では正しい。でもこうした教材に当の私自身が「そうだよなあ、これは違和感あるよなあ」と思ってしまって授業に身が入らないのです。頭を悩ませるゆえんです。

北京一辺倒ではない、南方のテイストが出た教材を台湾の書店で探して使ってみたこともあるのですが、これもかなり「教科書教科書」していて、華人留学生はあまり楽しくなさそうです。まあこうした教材はどれも外国人(非中国語母語話者)向けに作られたものですから、それを当の中国語母語話者である華人留学生の通訳訓練に使うこと自体、少々無理があるんですね。

というわけで今年も、初級段階では華人留学生の「鬼門」になる人名や地名など固有名詞のクイックレスポンスから初めて、ほんの少しだけ市販教材の「違和感」にも我慢してもらいながら、徐々にネット動画のうちきちんとした話し方をされている華人の映像を探して教材に仕立てていく……という構成になりそうです。

私は研究者ではないので学会のようなものともご縁がなく、こうした作業をもう十数年ひとりで続けているんですけど、他の専門学校や大学などでは華人留学生にどういう授業をされ、どういう教材を使ってらっしゃるんでしょうね。あと、訳出以前にそもそも通訳や翻訳とはどういう営みなのかを理解するための、いわば「通訳翻訳概論」みたいな教材も欲しいです。

通訳翻訳学については多くの書籍や論文が出ていてあれこれ読んでいるのですが、初級段階の華人留学生(日本語学校を卒業したくらいのレベル)には少々難しすぎます。そうした知見をもう少し噛み砕いて、日本語力のさらなるレベルアップと並行して初級の通訳翻訳を学んでいくことができるような教材が欲しいなと思い、実はこの春休みに自分で書いてみました。

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まだ全体としてあまりよくまとまっていないのですが、今年度はこれを使って訓練をしながら、華人留学生の反応を観察してどんどん手を入れていこうと思っています。

う〜ん、結局は「ありもの」に頼りすぎることなく、自分でせっせと手を動かして作っていくしかないんですね。「ずぼら」な私にはちょっと荷が重いんですけど。

語学に全人生を捧げない

単なる思いつきで学び始めたフィンランド語、いまも細々と続けています。「猫の言葉」と呼んだ先達がいるほど「ニーン」とか「ニュット」とか「モイモイ」とかカワイイ発音が多いフィンランド語ですが、一方でその複雑な格変化などから「悪魔の言語」とも形容されるほど非母語話者には習得が難しい言葉であるそう。

確かに格変化がとてつもなくて、いまに至ってもまだ簡単なことしか話せないですが、これらの変化はかなり規則的というか数学的というか、例外がとても少ないので地道に身体にたたき込んでいけば何とかなるような気もしています。それでいまのところは先生の助言に従って、ひたすら単語を覚え、フレーズを覚え、簡単な質問とその答えのペアを覚え……と丸暗記に徹しています。先生いわく、格変化が多い言語であるだけに、その変化の元となる単語を知っていないと変化のさせようもない、とのこと。

単語は全部Quizletに入れて、通勤時にスマホで覚えています。フィンランド語は英語などラテン語系統の言語とはかなり違う語源を持っている単語が多いので、これまでの英語の知識からの類推が効きにくく、なかなか身体に入ってきてくれません(ただ、英語などからの外来語も多く、それはやはり定着が早いです)。それでも繰り返していることで最近は脳の一部にフィンランド語のフィールドができてきたような気がします。こないだは頂き物のお菓子の箱を見た瞬間に「はこ」や「box」ではなく「laatikko(ラーティッコ)」という音が脳内に響いてうれしかったです。

先生は「語学は自宅学習が八割」とおっしゃっていました。なるほど、授業だけで語学を上達させようというのは無理な相談ですよね。ましてや私のように週に一回数時間の授業だけでは。また先生は「語学の勉強は移動時間にするといいですよ。自宅にいるときは別のことをしましょう」とも。なかなかにシニカルなお言葉ですが、これも私、同感です。語学は面白いですし、一生懸命に学ばなければいけないですけど、全生活・全人生を傾けるほどのものでもない。あくまでも暮らしの一部として上手くその居場所を作ってあげるべきです。

もちろん仕事の都合でどうしても短期間に一定程度にまで持って行かなければならない語学学習もあります。その場合はそれこそ寝食を忘れて全生活を語学に捧げる必要がありますが、それ以外の状況なら、あまり語学に胆(きも:魂)を持って行かれないようにした方がいいですね。ともかく、これからも細々とフィンランド語の学習を続けていこうと思います。そして今夏もまたフィンランドに行くのです。もう航空券を買っちゃいました。仕事が入っても不義理を恐れず断るのです!

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▲Maaseudun Tulevaisuus(http://www.maaseuduntulevaisuus.fi/maaseutu/raymond-mies-kaivoi-suomen-muotoisen-järven-metsään-meni-1.132344
Miksi sinä opiskelet suomea? Koska pidän suomen metsistä ja järvistä.

「落とし穴満載感」ハンパない通訳者のお仕事

シンクロニシティ」という現象をご存じでしょうか。Wikipediaには「複数の出来事が意味的関連を呈しながら非因果的に同時に起きること」と何やら難しいことが書かれていますが、要するに特に意図したわけでもないのに暮らしの中で起こる奇妙な符合のことです。何の気なしに誰かのことを思い出したその日に街でその人にばったり出会うとか、映画で出てきたケーキが美味しそうだなあと思っていたらその日の夜に家族がそのケーキを買って帰ってきたとか。

例があまりヴィヴィッドじゃありませんが、私はこのシンクロニシティをよく体験します。特によく起こるのは語学の勉強をしているときで、真面目に一生懸命語学に取り組んでいるときほど、さっき教科書に出てきた表現のシチュエーションそのままの状況が起こるとか、あまり頻繁に使われないマイナーな表現なのにたまたまそれを学んだ日に誰かが使っているのを聞くとか。

どうしてそういうことが起こるのかはよく分かりませんし、単なる偶然だとも思うのですが、私はこれ、真面目に勉強している時のご褒美だと思うことにしています。シンクロニシティが起これば起こるほど、神様が「よしよし、よくやっているな」と褒めてくれているのだと。

先日も通訳業務の最中にこのシンクロニシティを経験しました。とある企業(日本と台湾)のトップが料亭で会談する席でのことです。会食、それも酒宴での会話ですから、タスクとしてはそれほど難度が高いわけではない……はずなのですが、油断は禁物です。双方のトップともかなりの教養人で、どんな話が飛び出すか全く見当もつかないからです。

両社の業績や最近の政治経済の状況などについては予習が可能ですが、それ以外の雑談が怖い。酒宴によっては単に馬鹿話で盛り上がるだけ(失礼)で、こっちも話の内容を通訳しているというより、何でもいいからとにかく面白いことを言って場を盛り上げるほとんど幇間のような状態になることも多いのですが、この日本企業と台湾企業のトップ同士は博覧強記というか“博大精深”というか、もうここ五年ほどずっとご依頼いただいているのですが、常に油断がなりません。

案の定今回も、東南アジアでのビジネスの話はもちろん、ジビエの話になって鴨、家鴨、鵞鳥、犬、アルマジロからハクビシンまで話が広がり、そこからSARSの話題になったと思ったら、一転元号が改まる話になり、紙幣が新しくなる話になり、清の康熙帝乾隆帝の話になったと思ったら、明の朱元璋に飛び、唐の玄宗皇帝と楊貴妃西安の華清池で湯浴み……そして白居易(白楽天)の「長恨歌」まで登場しました。

この白居易の「長恨歌」、私は漢籍の素養などほとんど無きに等しい人間ですが、偶然にもいま、白居易の詩歌を解説した入門書を読んでいるところでした。日本の能楽には源氏物語など平安期以降の文学が色濃く影響を落としていますが、その源氏物語はまた「長恨歌」など中国の古典の影響を受けている……ということで、ちょっとかじってみようかなと手に取っていたのです。

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白楽天 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 (角川ソフィア文庫)

この入門書には「長恨歌」は出てきませんが、大まかな背景だけは書いてあって印象に残っていました。それを読んだ直後に通訳業務で登場したので、その偶然、シンクロニシティに驚いたのでした。今回の通訳業務自体は、その話題の多岐にわたったことゆえところどころ「ぐだぐだ」に陥りかけて反省点も多いのですが、多少は通訳の神様が助け船を出してくれたのかなと思っています。

しかし……比較的タスクの軽いとされる酒宴の通訳にして、この「落とし穴満載感」はどうでしょう。求人広告で「通訳するだけ! 商品知識は必要ありません!」という惹句があったり、クライアントさんに悪気のない口調で「通訳者さんって楽でいいよね。口先でチョロちょろっとしゃべって高い日当もらえるんだから」と言われたりするこの職業ですが、ごくごく控えめに申し上げて「ふ・ざ・け・る・な」ではありませんか。この仕事の実情について、もっと理解が広まればいいなと常に思っています。

qianchong.hatenablog.com
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校則をなくしちゃった中学校

先日、服装に関する校則についてエントリを書いたんですけど、昨日はネットで偶然こんな記事を読みました。

news.yahoo.co.jp

これはすばらしい取り組みだと思います。数々の校則を「そもそも、これ、いる?」とみんなで考えていった結果、校則そのものがなくなってしまったと。校則ってのはその多くが「〜しなさい」と指示するものなんですけど、それは裏を返せば「〜してはダメ」を事細かに列挙しているんですよね。でも校則で「ダメ」と言い続けることは、結局ものを考えない人間を育てることにつながる。それは生徒だけではなくて、教職員もものを考えないようになっていくんです。

教育の現場って、もともと惰性というか慣性というか、それまでのありようをなかなか変えない・変えられない側面があって、それはまあ良い点もある(例えば毎年教育方針がコロコロ変わったら、生徒も教師も大混乱します)けど、当然悪い点もありますよね。その悪い点の筆頭が「何事も前例踏襲で、ものを考えなくなること」だと思います。

四月のこの時期は、うちの学校も多くの留学生を迎えて「オリエンテーション」が様々行われます。留学という在留資格を得て一時的に日本に住むことを許可されている身分ですから、法律上様々な規定や縛りがあって、それを伝えて遵守させるのはもちろん必要です。時に権利や生命に関する重要な項目もありますから。ただ、それに加えてうちの学校には独自の校則が数多くあり、オリエンテーションではそれらをまとめたまるで保険の約款のような冊子を配って説明しています。

それらは長い経験の中から数々のトラブルを経て積み重なってきたものなので、一気にそうした決まりをやめちゃうというわけには行かないでしょう。でも私は密かに、こんな「約款」配っても誰も読まないんじゃないか……と思うのです。そして何とか減らしていけないかなとも。

理想論ですけど、トラブルが起きたときになぜそうなってしまったのか、再発を防止するにはどういう共通認識を持つべきか、その都度話し合って考えることが大切で、畢竟教育現場って、その「辛気くさい営み」の繰り返しこそが大切なような気がします。先生方は常に忙しくされていて、教材や教案の準備で大わらわなのでそんな悠長なことは言ってられない(私も自転車操業どころか一輪車操業状態です)と思いますけど、なんとか自立と自律を促すやり方はないかなと常日頃から思っています。

その意味でも冒頭の世田谷区立桜丘中学校の試みは、傾聴に値すると思いました。

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https://www.irasutoya.com/2016/11/blog-post_659.html