インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

食品ロスについて

十月一日に施行された「食品ロス削減推進法」を受けて、東京新聞の「考える広場」に三人の専門家が意見を寄せていました。

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お三方のご意見はそれぞれに説得力があるのですが、国や自治体、食品事業者の責務もさることながら、やっぱり問題の根本は私たち消費者の意識にあるのだという思いを新たにしました。同法律には「消費者の役割」として「食品ロスの削減の重要性についての理解と関心を深めるとともに、食品の購入又は調理の方法を改善すること等により食品ロスの削減について自主的に取り組むよう努めるものとする」と謳われており、「教育及び学習の振興、啓発及び知識の普及」を図るとされています。

でもこれ、理念として謳うことはできても、実際に人々の意識にまで根を下ろしてもらうためにはかなりの困難を伴いそうです。ジャーナリストの井出留美氏によれば「食品ロスの半分近くは家庭から出ています」ということで、われわれ消費者の意識が一番のネックなのですが、例えば食品ロスを防ぐためスーパーの棚に欠品があってもよしとする意識が広く共有できるだろうかと考えてみたら……う〜ん、棚に欠品があるのはかなり異様な状態と感じるはずです。私もついついそう感じてしまう。欠品があるのは台風とか地震などの自然災害のときくらいで、平時に欠品があったら「なんだよ、この店は」と不満を覚えるのではないでしょうか。でも、そういう意識から変えていかなければ食品ロスはいつまで経っても減らしていけないんですね。

もうひとつ、食品の賞味期限という問題もあります。これも食品ロスを生む一因になっているのだそうですが、井出氏は「賞味期限ぎりぎりまで商品を棚において売る社会実験」を紹介されています。この実験では食品ロスが10%減ったとのことで、つまり消費者は賞味期限をそこまで気にしていないという結論で興味深いのですが、もし棚に賞味期限の異なる同じ商品が並んでいたら、私たちはどういう行動を取るでしょうか。豆腐とか卵とか肉や魚とか……。

私はスーパーではいつも、賞味期限が迫って値引きになっているものを好んで買い求めます。でも値引きになっていない場合、つまり同じ値段なのに賞味期限が異なっていたらどうします? そういう場合私は賞味期限の短い方から手に取って買います。賞味期限が迫っていて、見た目に「これはちょっと」という場合は、その食材を買うこと自体あきらめちゃいます。要するに「新しい方から買う」ということをしないようにしていて、それは食品ロスを少しでも回避できるかなと思うからなのですが、周囲の知人や同僚に聞いてみたら、ほぼ全員に驚かれるか「それはまた殊勝な」と変な感心のされ方をしました。

つまりみなさん「賞味期限の日付を確かめて、新しい方から買う」ということなのです。「同じ値段だったら、古い方を買うのは損じゃない?」って。そうなのか。確かにスーパーでは、卵や牛乳などのパックを、棚の一番後ろから取ろうとして不自然な姿勢で腕を突っ込んでいる方がけっこう多いです。肉のパックも手前から「発掘」するようにどんどん取り除いていって、一番奥の物を引っ張り出している方も。一度確かめてみたことがあるのですが、すべてのパックが同じ賞味期限でもやっぱり一番奥から取りたがるんですね。

私はこういう行為は単に「はしたない」「みっともない」と思いますけど、こういった自分だけ得をすればよいという発想から脱却して、そういう行為が回り回って食品ロスを生むことになるのだという想像力や自制力を多くの人に持ってもらうのはかなり難しいでしょうね。これはもう世界観とか哲学とか教養、あるいは信仰みたいな領域であって、「教育及び学習の振興、啓発及び知識の普及」だけではなかなか改善には結びつかないのではないかと。

それでもまあ私はなるべく食品ロスを減らす行動を選択していきたいと思います。食品の買い方や食べ方もさらなる工夫が必要ですね。とりあえず上記の記事で魚柄仁之助氏が紹介されていた「塩ワカメと昆布を切ったもので白菜をもんだらいいじゃないですか」ってのをやってみましょう。これ、ネットを検索してみたらほんとに「まるで自分が発明したみたいに周囲に教えていた人」がたくさんいて、思わず笑いました。

「Meck大叔」氏が紹介する「麵線」

留学生の通訳クラスで使う“實況錄音”(吹き込みではなく、実際に華人が話している実況録音)の教材、その多くはYouTubeで見つけたものなのですが、先日も教材になりそうな映像(+音声)を探していて、ものすごく変わったチャンネルを見つけてしまいました。

www.youtube.com

このマスクをした怪しげなおじさん「Meck大叔」氏のチャンネルなのですが、この方は台湾の様々な飲食店、それもどちらかというとB級グルメのような庶民的で飾らない料理が食べられるお店を片っ端からひとりで取材して映像を撮り、もくもくとアップロードし続けてらっしゃるようなのです。

いや、これが臨場感たっぷり。しかも私が大好きな台湾のB級グルメ「蚵仔麵線(オアミソァ)」もたくさん。チャンネル右上の「虫眼鏡マーク」の検索窓に「麵線」と入れてクリックすると、様々な「麵線店」がずらっと並びます。これはたまりません。しかも台北に行ったら必ず食べに立ち寄る、萬華區は龍山寺近くの「陳記」さんも取材されていました。視聴してみると、そのリアルな臨場感に思わず垂涎です。


*2016/12/17/北市 萬華區 萬華陳記腸蚵專業麵線 萬華總店【Meck大叔】

特に注文している時の、店員さんや店の大将とのやり取りがリアルで(実況なんだから当たり前ですが)、そうそう、こんな感じで話すよねえと懐かしさが匂い立ちます。中国語を学ばれている方は、なんと言っているか聴き取ってみてください。何でもない簡単なことを話しているのですが、中国は北方の標準語を学んできた方には最初かなりとっつきにくい会話かもしれず、その意味で挑戦しがいがあると思います。

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▲こちらは、この夏に同店へ行ってきた時の写真です。おいしいです〜。
qianchong.hatenablog.com

キッチンのあり方をめぐって

更新されるたび、いつも読みに行っている社会派ブロガー・紀行文筆家、ちきりん氏のブログ「Chikirinの日記」。昨日の記事はご自宅をリノベーションした際に考えられたという今とこれからの「キッチン」のあり方についてでした。

chikirin.hatenablog.com

コンロの魚焼きグリルなどという「超」使い勝手のわるい代物をいつまで残しているんだというご意見には、思わず「その通り!」と叫んでしまいました。本当にあれは使いにくいです。小さいし、扱いにくいし、激しく汚れるくせに掃除しにくいし。うちのキッチンにもついていますが、入居以来一度も使ったことはありません。魚を焼くときはオーブンを使っています。オーブンシートを使えばくっつかずにきれいに焼けるし、掃除も楽だし。

また調理家電を使い回す現代に合わせて、調理家電を置くスペースを考えてキッチンが設計されるべき、というのも同感です。いまだに加熱方法がガスコンロだけというのは、考えてみれば確かに時代が何十年も止まった感じがしますよね。私も上述のオーブンは奮発して大きめの、電子レンジ兼用のものを買ってもう長い間愛用しています。野菜の下ゆでなどはほぼ全て電子レンジで行い、パンを焼くのも、粉物の生地を発酵させるのも、解凍するのも全部これ。多機能かつ高性能のオーブンレンジはかなり便利です。

またお湯を沸かす電気ケトルでゆで卵も作っちゃいますし、炊飯器はご飯以外にも低温調理にも使います。この3つの調理家電(オーブンレンジ・電気ケトル・炊飯器)でかなりのことができるので、確かにちきりん氏がガスコンロはなくても「なんとかなるかも?」と思われるのもわかるような気がします。そういう意味でも、賃貸情報などでキッチンの仕様が単に「ガスコンロの口数」だけというのは、激しく時代遅れなのかもしれません。

でもその一方で、私はガスコンロでの、焼いたり炒めたり煮たり蒸したり揚げたり……も大好きなので、最低二口、できれば三口のガスコンロもキッチンに必須です。これはもうその人の炊事観(?)の違いですね。私はちきりん氏が家電に求める「放置できること」という価値にはそれほど重きを置いていないのです。忙しい人にとっては、炊事にかかりっきりになる(ガスコンロに張り付いてる)なんて「生産性のかけらもない!」ということになるのでしょうけど、私は炊事自体が人生の楽しみであり、息抜きであり、ストレス解消法なので、ガスコンロの火を操るプロセスがなくなると、寂しいです。

また現代の調理家電がものすごく進歩していることは分かりますが、例えば味噌汁を煮て、沸騰直前をみはからって「煮えばな」をいただくとか、天ぷらを揚げるときに天ぷら生地の沈み具合や油の弾ける音で温度を測って火を調節するとか、こういうのはガスコンロでないとやりにくい。IHクッキングヒーターも持っていてこれも結構便利ですが、火力を臨機応変に調節するとなるとガスコンロにはまだまだかないません。

でもまあこれも炊事観というか料理観というか、その人がどこに価値を置くかで変わってくることですよね。それに昨今のガスコンロも結構進化していて、センサーで温度調節や温度設定ができたり、とろ火が消えたら教えてくれたりと、必ずしもコンロに張り付いていないと調理ができないわけでもないんですよ。

とまれ、ちきりん氏の慧眼にいつもながら敬服したと同時に、やっぱり価値観の違いというものはあるんだなあと思った次第です。でもこれは、ちきりん氏が以前に書かれていた、「自動運転を目指すトヨタとグーグルの違いは、車の運転が好きかそうでないか。ルンバが画期的だったのは、掃除なんてしたくない人のために商品開発したから」というのに通底するお話だと思いました。要するに私は炊事や料理が好きでたまらない人間なんですね。

chikirin.hatenablog.com

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https://www.irasutoya.com/2013/08/blog-post_6291.html

「八年生まで待とう」運動

先日新聞で、「八年生まで待とう」という運動を知りました。アメリカで広がりつつある、子供が八年生(十四歳)になるまでスマートフォンを持たせないようにしよう、という運動だそうです。

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子供がスマホを持つことの是非は日本でも論じられていますが(記事にもある通り、先日も小学生がスマホSNSを通じて知り合った男性による監禁事件が報じられていました)、こうやって具体的なムーブメントとして立ち上がり、それが静かな共感を呼んでいるという点、そしてそれが取りも直さずスマホや各種ネットサービスを生み出してきたアメリカで展開されているという点が興味深いと思いました。

記事によれば、故スティーブ・ジョブズ氏をはじめ、IT業界の名だたる有力者たちがその子供たちにはIT機器の使用を制限しているとのこと。なるほど、先日読んだ『デジタル・ミニマリスト』でも触れられていましたが、IT機器、とりわけスマホやパソコンからつながるネット上のウェブサイトやSNSなどが、「注意経済(アテンション・エコノミー)」と称される仕組みで莫大な利益をあげる一方で、ユーザーが自律的・自発的に思考や想像をめぐらせる力を奪っているという事実。それを一番良く知っているのは、当のIT業界の人々だというわけです。

www.waituntil8th.org
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興味深いと思う一方で「ちょっとズルい」とも思ってしまいました。だって、さんざっぱらIT機器を売って儲けておきながら、その負の側面は伝えない一方で、自分の身内は遠ざけさせていた、というのですから。かなり以前のことですが、某加工食品会社の社員は、自社製品に入っている食品添加物の功罪をよく知っているから自分の家族には自社製品を食べさせない……という話を聞いて憤慨したことを思い出しました。

それでもこうして、何が子供にとって良いのかを自分の頭で真剣に考え、行動に移すというのがアメリカ社会のすごいところだと思います。そして子供や家族が孤立しないよう仲間作りから始めるというのも面白い。こういうやり方は、とりわけ同調圧力の強い日本でも有効かもしれません。

日本でも、子供に携帯電話を持たせる前によく考えようという呼びかけは、当の通信会社からもなされています(例えばこちら)。ただそれは、おおむねセキュリティ関係、つまり防犯とか有害サイトのカットといった側面がほとんどで、上述の記事にもあるような、家族との会話や読書経験を豊かにするため、という視点は少ないのではないかと思います。

それだけにこの「八年生まで待とう」という運動が興味深いなと思った次第です。日本でも、より人生を豊かにするために「スマホは高校生まで待とう」というような運動があってもいいですよね。

『ロシア語だけの青春』からヒントを得た教案

語学学習者としても、また語学の教師としても様々な気づきがあった、黒田龍之助氏の『ロシア語だけの青春』ですが、私が購入した版には帯がついていて、そこにこんな惹句が書かれています。

ひたすら発音、そして暗唱
他のやり方は知らない

なるほど、語学の学習法は畢竟これに尽きると。ロシア語もそうでしょうけど、中国語も日本語母語話者にとってはまず発音が最初の、そして最大の関門で、これを乗り越えないことには音声でのコミュニケーションはまず覚束ないと思います。

そしてハッキリクッキリ大きな声で、ひたすら声に出して単語や文章を身体に叩き込む暗誦も、やっぱり必要。世上よく言われる「語学を何年やっても、ちっとも話せない」というのは、まずもってこの音声によるアウトプットがあまりにも少なすぎるからだと思います。かつて國弘正雄氏がおっしゃった「只管朗読」もそうですけど、朗読と、その結果としての暗誦は語学の王道ではないでしょうか。

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『ロシア語だけの青春』には、ロシア語研究所「ミール」における授業の流れが、簡潔にまとめられています。

①基本例文と応用例文の発音
②単語テスト
③口頭露文和訳
④口頭和文露訳
⑤質問と答え
⑥次の単語の発音

きょうび、教科書のテキストを用いた「訳読」は、「そんなことばかりやってるから、ちっとも話せないんだ」などと批判されて分が悪いようですが、私は母語と外語を往還するこの方法はそれなりに理にかなっていると思います。もちろん頭の中に日本語を介在させず、常に頭を「外語モード」にする練習も必要だとは思うのですが、初中級段階では母語の力も借りながら外語の理解を進めるのも効率的ではないでしょうか。

特に「ミール」の授業で注目すべきは③と④の「口頭訳」です。テキストの文章を見て訳すのではなく、音を聞いて音を出す、つまり文字に頼らず音声だけでインプットとアウトプットを行うのです。これはやってみれば分かりますが、とてもしんどくて「泥臭い」作業です。でも、きちんとした構文の外語を正確に聴き取ることができ、正確に発音して話すことができるというのは、考えてみれば基本中の基本。でも、これすらやっていない方がほとんどなのです。

というわけで私、趣味で(というかボケ防止のために)学んでいるフィンランド語でもこれをやっています。具体的には Quzlet に教科書のテキストを一文ずつ日本語とフィンランド語で入れて「口頭日文芬訳」するのです(「
芬」は芬蘭語=フィンランド語)。フィンランド語は格変化が激しいので、例文を覚えても応用がききにくい言語なのですが、決まりきった文章だって言えないよりは言えたほうが千倍マシ。つべこべ言わず自分に課すことにしたのです。

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さらにはこれを、自分が担当している華人留学生の「中日通訳クラス」でも取り入れてみることにしました。これまでは通訳という作業の「当意即妙性」を重視して、訳例は一切配布しないで授業を行ってきたのですが、それをいったん撤回して、授業中にみんなで訳例を検討し、出来上がった訳例を覚えて暗誦してもらうことにしたのです。

プロを養成するための通訳スクールでは、訳例を出しません。それは生徒さんが訳例を唯一の正解だと誤解して「よりよい訳」を検討しなくなるためです。また現場での発言は一回限りのものであり訳例を作っても応用が効かないという観点からも、訳例を配らないのが基本だったのですが、留学生の通訳クラスで学んでいる生徒さんはまだ日本語自体が「発展途上」で、まずは正確な語彙や構文を身体に叩き込むのが先決ではないかと考えました。

その方針をみなさんに伝えたら、意外なほど肯定的な反応が多くて驚きました。みなさん、自分の訳出がまだまだであることは重々承知していて、でもまだ日本語の力がそこまで備わっていなくて、なんとも隔靴掻痒というか内申忸怩たる思いを募らせていたようなのです。

訳例を共有して暗誦を課すということは、ある意味これまでの通訳訓練からいったんダウングレードすることを意味するのですが、現段階ではそれが一番みなさんのレベルに合っているということなのかな。これまでが少々「ハイスペック」過ぎたのかもしれないですね。やはり語学の初中級段階では特に、こういう「泥臭い」練習から逃げてはいけないのです。

同窓会には行きません

先日、同窓会について書かれた興味深い記事を読みました。お笑い芸人の岩井勇気氏(ハライチ)が、にぎやかな場所が好きそうな芸人さんのイメージに反して「大勢の人が集まるパーティーや飲み会はかなり苦手」で、「なるべく行かないようにしているのが同窓会」だというのです。

business.nikkei.com

私もパーティーや飲み会が「かなり苦手」で、同窓会には「なるべく」どころか「絶対に」行かない人間なので、とても共感を覚えました。学生時代は「コンパ」と称して、たぶん週に三回はサークルの仲間とともに安い居酒屋などに繰り出していたものですが、いまや飲み会はおろか、外食すらほとんどしなくなってしまいました。

岩井氏は同窓会というものに対して、いくつかの辛辣な視点を提供されており(詳細は上の記事をご参照ください)、私はそのほとんどに首肯するものですが、私自身が同窓会に絶対行かないのは、学生時代にあまりいい思い出がないからです。本当に身も蓋もない理由ですけど、小学校・中学校・高校と、仲の良い友達はいたものの、いわゆる「いじめられっ子」だったこともあって、あの時代は思い出したくもないというのが正直なところです。

それでも過去に、何度か同窓会に出席したことはあるのですが、そのたびにとても後悔しました。上記の記事でも触れられていますが、自己承認欲求とマウンティングと他愛もない思い出話、それに当時の教室内ヒエラルキーを再認識させられるような居心地の悪さ。もうこれからは行かないとひとり心に誓ったものです。卒業アルバムのたぐいも一切持っていませんし、大学など卒業式にさえ出席していません。

そんなこんなで、私には学生時代から関係が続いている友人はまったくと行っていいほどいません。FacebookなどのSNSがある現代では、ひょんなことから学生時代の友人と連絡がつくこともあるのですが、そんな時でさえ、正直、あまり旧交を温めたいとは思わないのです。

う〜ん、冷淡な人間なのかもしれません。でも私は過去を振り返るより、未来に希望を見出したいのです。過去を振り返れば、それなりの成功体験に縛られて「昔取った杵柄系」になってしまうのも怖い。

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_88.html

というわけで、私は自分が教えている留学生のみなさんにも、卒業したらぜひ前を向いてほしいと思っています。卒業生の中には、折に触れて教員室を訪ねてくださる方や現状報告に来てくださる方がいて、それはそれで嬉しいんですけど、母校なんか忘れていいから、どんどん前に進んでいってほしい。

そしてもし学校で学んだことが何かの役に立ったと思ったら、それを教師への「謝恩」という形で返さなくていいから、自分のあとから進んでくる人たちに伝えてほしいと思います。

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オーバーツーリズム

先日、所用で東京は銀座に行く機会があり、帰りにユニクロでセーターを買おうと思ってGINZA SIXの前にある旗艦店に立ち寄ってみたら、ものすごい数のお客さんでごった返していました。エスカレーターにもエレベーターにも長蛇の列ができており、それに対応する店員さんも半ば「キレ気味」の興奮状態。というわけで、買い物はあきらめて早々に退散しました。

もとより人の多い場所が苦手なので、銀座などという場所にも久しぶりに行きましたが、相変わらず外国人観光客のみなさんが目立ちます。往来で聞こえてくる言語も多種多様ですが、やはり中国語が多いみたい。というか、自分が聞き取れるから多く感じるというバイアスが掛かっているのだとは思いますが。

すでに縮みゆく国である日本によく来てくださるなあと嬉しく思う一方で、いやこれは日本で買うほうが安いからなんじゃないのか、それにいつまでもこんな状態が続くとは限らない(特に来年の巨大スポーツイベントが終わったあとは)などとついネガティブなことを思ってしまいます。

……と、昨日はこんな映像ニュースに接しました。チェコの首都プラハで、地元の人々の生活に悪影響を及ぼすほどの「オーバーツーリズム(観光公害)」が問題になっているという話題です。

jp.reuters.com

「オーバーツーリズム」という言葉は、初めて知りました。なるほど、そういえば今夏訪れたエストニアの首都・タリンの旧市街も、まさにこういう感じでした。中心部の広場周辺は、あきらかに街のキャパシティを超えた数の観光客で騒然としていて(それでも雨天だったので少なめだったのかもしれません)、レストランや各種のお店も完全に観光客向け仕様。こういった観光地には近づかないのが信条の自分だったのに、なぜここに来てしまったのか……と激しく後悔しました。

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でもその一方で、私だってその殺到する観光客のひとりであり、上記の映像ニュースでも触れられている「Airbnb(エアビーアンドビー)」などを通した民泊もしょっちゅう利用しているので、なんだか後ろめたい気持ちになりました。そりゃ地元の方々にしてみれば、とても心穏やかに毎日を過ごすことはできないですよね。昨年京都へ行ったときも、タクシーの運転手さんが「正直、ちょっと行き過ぎだと思いますわ」と観光客のあまりの多さに地元住民は疲れ切っている……といったような愚痴をこぼしていましたし。

有名な観光地にぜひ一度行ってみたい、みんなが「いい!」という場所を自分もぜひ訪れてみたい、という人々の願望は消えることはないと思います。でも有名な観光地って、往々にしてそれまで写真や映像なんかでさんざん触れていた光景を確認して「ああ、これこれ」と満足するだけのことも多いんですよね。私はもうトシなので、そういうタイプの旅行はやらない(というか人混みが苦手なのでできない)ようにしよう、と思ったのでした。

Dr.Capital氏が解説するスピッツ

いつも楽しみに視聴している Dr.Capital(ドクター・キャピタル)氏の YouTube動画。久しぶりに更新を確認しに行ったら、なんと私の大好きなスピッツの曲が氏のアレンジで披露されていました。


スピッツ (Spitz) の チェリー (Cherry) - Dr. Capital

この動画でも語られていますが、Dr.Capital氏が初めて日本に留学してきた1996年に発表されたスピッツのシングル曲がこの『チェリー』だったのだそうです。私もその時代時代でスピッツの曲を聞いてきましてたが、1996年当時は中国へ留学したい一心で安アパートに住み、お金をため、公費留学試験のための勉強をしていた時期で感慨深いです。歌詞に出てくる「きっと想像した以上に/騒がしい未来が/僕を待ってる」というのを、そのまま自分の心情に重ねていたのです。

スピッツの楽曲の歌詞は、日本語としてはなんだか煙に巻かれたような奇妙な展開が多いのですが、それだけに聴き手がそれぞれの心情や状況に合わせて自由に想像をふくらませることができる懐の深い詩になっています。それは作り手の作詞意図とは、もしかしたら全く関係ないかもしれない。大きな的外れなのかもしれない。それでもそうしたひとりひとりの「誤読」や「自分勝手な解釈」をも包摂し、旋律とともに深い味わいをもたらしてくれる。それがスピッツの楽曲の、とても大きな魅力だと思うのです。

またこれはとても不思議なのですが、人生の折々にスピッツの楽曲の歌詞がふと心のなかに立ち上がって来ることがあるんですね。例えば『楓』は、細君がくも膜下出血で入院した時自然に脳内でリフレインされていました。歌詞は「さよなら/君の声を抱いて歩いていく/ああ僕のままで/どこまで届くだろう」とか「風が吹いて飛ばされそうな/軽いタマシイで/人と同じような幸せを/信じていたのに」ですから、その時のシチュエーションとしては「縁起でもない」のですが、なぜかやけに励まされる思いがしました。

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J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲(81年デジタル録音)

Dr.Capital氏の解説は、氏のご専門である音楽理論をベースにわかりやすく面白いものばかりなのですが、今回も驚きました。『チェリー』の歌い出し(Aメロ)が『パッヘルベルのカノン』と全く同じ「カノン進行」になっているというのです。なのに言われるまで全く気づかない理由は、スピッツならではの楽曲作りにある……おっと、これ以上はぜひ動画をごらんいただきたいと思います。

この動画を見た日の夜、偶然NHK Eテレで『らららクラシック』を観たら、バッハの特集でカノンの説明をやっていました。何というシンクロ。しかも『ゴールドベルク変奏曲』における驚異的なカノンの配置、つまり3の倍数にあたる変奏で必ず現れるカノンが、徐々に度数を広げていく……という仕掛けについても説明されていました。

私は「無人島に一曲だけ持っていくとしたら」という問いには、グレン・グールド氏が弾くこの『ゴールドベルク変奏曲』を選びます。あ、そこはスピッツのアルバムじゃないんですね。ごめんなさい。ちなみに細君に聞いてみたら「あたしは『六本木心中』」だそうです。

あまり教師に向いてない

うちの学校で、二年間の専門課程を学んでいる留学生のうち、約半数は華人(チャイニーズ)、つまり中国語が母語の留学生です(一部に広東語が母語の留学生も)。ほとんどの学生は、自分の日本語を仕事で使えるレベルにまで持っていって、将来は日本で働くか、日本と関係のある企業や業界で働くことを目指しています。

中国語に“語言環境”という言葉があって、文字通り自分の周囲の言語環境のことなのですが、華人留学生のみなさんはいま、その“語言環境”がとても良い状態にありますよね。なにせ日本社会に暮らしているのですから、学校内はともかく一歩校外に出れば、そこは日本語の大海原。語学学習者にとっては理想的な環境です。

そこで日々、様々な日本語の大波小波に洗われているうちに、日本語のスキルも右肩上がりで上昇……と行きたいところなのですが、実際にはそう理想通りには運びません。日本人(日本語母語話者)だって、海外に留学などで何年も住んでいるのに、英語を始めとするその土地の言葉はからっきし苦手、という方がままいらっしゃいますよね。

私は主にこうした華人留学生の授業を担当しているのですが、同じ時期に入学してきた「非・中国語圏」の留学生と比べて、日本語の上達ぐあいに明らかな差があるように感じます。もちろん個人差はあるものの、おしなべて華人留学生のほうはなかなか日本語が上達しません。教師の教え方が悪いのだというご批判は甘んじて受けますが、それ以上にうちの学校で、華人のみなさんの日本語が上達しにくいのは、ふだんから中国語で喋り倒しているからです。こんなに“語言環境”のよい日本に暮らしているというのに。

そこで教師はあの手この手で教案を考え、工夫し、「日本語を話しましょう」と呼びかけ、励ましています。私も例えば「要約(サマライズ)」の訓練などで、ペアになってお互いに批評し合うときなど、華人留学生を必ず「非・中国語圏」の留学生と組ませて、お互いの共通言語は日本語しかないという状態を作り出し、否が応でも日本語を話さなければならないような状態に追い込みます。

……だがしかし。

私は時折「自分は何をやっているんだろう」と思ってしまいます。そんなに日本語を話したくないなら好きにさせればいいんじゃないかと。なぜ我々が、彼らに日本語を話させようと躍起にならなければならないのか。もちろんそれが教師の役割ではあるのですが、義務教育でもない学校の課程で、すでに成人に達している留学生に、常に「日本語を話しましょう」と言い続けるのは虚しいです。語学なんて、やりたい人が、やりたいだけ、やればいい。大人の学びは、誰に強制されるものでもなく、まずは自分から取り組んでいくものです。

私が中国に留学していたときは、すでに三十路も半ばになってからの遅すぎる留学で「背水の陣」だったということもあるけれど、とにかく中国語を話したかった。中国語を話すことこそがカッコよく、クールであり、日本語は話すのも聞くのもとにかくイヤでした。もちろん全く日本語を話さなかったわけではないけれど、せっかく理想的な“語言環境”である中国社会に住むことができているのだから、日本語など話したら損、くらいに思っていました。

それでなくても私たち日本人と、華人は「漢字」という強力な伝達ツールを共有しているので、話さなくたってかなりの部分まで読めてしまう、分かってしまう。かててくわえて最近はインターネットがあり、パソコンやスマホがあり、言葉の壁を乗り越えようと四苦八苦するような状況は劇的に少なくなってきています。ことここまで至ってしまうと、これはもうよほどの決心をして「外語を話そう!」と思わなければ、水はずーっと低きに流れたままでしょう。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_742.html

それでなくても最近の留学生は、私がこの業界に入った数十年前と比べて明らかに様変わりしています。若干の例外を除けば、きょうび日本に留学してくる華人留学生は、その多くが比較的裕福な、あるいは経済的にそれほど心配が必要ない状況の方たちです。「アルバイトはしていません」という方もいます。なかにはこう言ってはなんですが「ご遊学」的なお坊ちゃん・お嬢ちゃんもまま見受けられます。

もともとそれほど「ハングリー」でないところに持ってきて、クラスの半数が同じ中国語という母語を共有しており、なおかつ街には自分の文化圏がルーツである漢字があふれており、ネットのゲームやSNSなどの便利で誘惑たっぷりなツールもふんだんに揃っている……こんな状態で「みなさーん、日本語を話しましょーう!」と声を嗄らしている私はバカなんじゃないの? ……と虚しくなるのです。やっぱ私、あまり教師に向いていないかなと思います。

『台湾、街かどの人形劇』

昨日の東京新聞朝刊に、台湾のドキュメンタリー映画『紅盒子(邦題:台湾、街かどの人形劇)』に関する記事が載っていました。映画のオフィシャルサイトは、こちら

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記事には台湾の伝統的な人形劇である「布袋戲(ポテヒ・ほていぎ)」が「娯楽の多様化を背景に衰退傾向が続く」とあり、オフィシャルサイトにある予告動画でも「これでは伝統が途絶えてしまう」という陳錫煌氏の声が収録されています。

なるほど、むかしむかし台湾に住んでいた頃は、それこそ街かどで何度か「布袋戲」を見かけましたけど、現在では第一人者がそこまでの危機感を露わにするほど、伝統の継承が危ぶまれているのですね。テレビでやってる「霹靂布袋戲」などは盛況ですが、あれはもはや別のジャンルといってもいいほどの「発展ぶり」ですもんね。

確かに、CGなどを駆使して極限までリアルさを追求する映像や、音と光に満ち溢れた様々なパフォーマンスが溢れる現代、人形劇のようにある意味で観客側にも想像の翼を働かせることが求められるジャンルの芸能は「分」が悪いのかもしれません。

いや、これはどの国や地域の伝統芸能にも共通した悩みなのでしょう。本邦でも能楽文楽などは、ある程度の「能動性」が観客に求められることになりますよね。能楽は多少の背景知識があったほうが鑑賞しやすいし、文楽人形遣いの存在を自分の中で捨象する必要がある。そうした敷居を低くする試みは色々と行われていますが、一方で伝統を守る必要から例えば「スーパー歌舞伎」みたいな大胆な方向にはなかなか行けません。

私自身、能楽文楽は大好きですけど、それほど頻繁に鑑賞しているわけではないし(チケットの取りにくさと経済的な理由も……)、「布袋戲」だって台湾で遭遇したときは興味深く見ていましたけど、侯孝賢監督の映画『戯夢人生』(陳錫煌氏のお父様である李天祿氏の半生を追っています)は、ごめんなさい、うっかり熟睡してしまいました。記事は「映画を通じて多くの人に関心を持ってもらい、ファンになってもらいたい」と締めくくられています。この映画、ぜひ見に行ってみようと思います。

追記

ところで、この記事の横に「横浜中華街では孫弟子活躍」という見出しがあって、一読「あっ」と驚きました。陳錫煌氏の孫弟子にあたる日本人が「布袋戲」に取り組んでいるというのですが、この金川量氏を私が中国語を学んでいた学校でお見かけしたことがあったからです。

たしか基礎クラスの学期末に朗読大会みたいなのがあって、そこで「先輩が特別に余興を披露してくれます」ということで登場したのが金川氏ではなかったかと記憶しています。記事にもある通り、氏は京劇を学んでいらして(というか、当時はまだ北京に行かれる前だったと思いますが)、私たちの拙い朗読など吹き飛ばすような、テンションが高くて「日本人離れした」中国語を披露されていました。確か京劇の一節を歌ったか語ったかされたのだと思いますが、記憶が曖昧です。

そうか、その後北京で本格的に京劇を学び、その後は台湾の「布袋戲」を学ばれていたのですね。当時から強烈な「伝統芸能オタク」的雰囲気のあった氏でしたが、ずっと変わらずに好きなものを追い求めていらしたわけです。う〜ん、素晴らしいと思います。

スマホ依存症だった私

先日「朝活」のジムで筋トレをしたあとにサウナに入っていたら、サウナ内に設置されているテレビで朝のワイドショー番組が放送されており、こんな話題を取り上げていました。映画館での映画上映中にスマホをいじる客が迷惑だという話題です。すでに「まとめ」もできていました。

togetter.com

なるほど、二時間前後になる映画の上映時間中も、スマホをチェックしたい気持ちが我慢できないと。でも暗い館内でスマホを立ち上げると、けっこう明るくて鑑賞の邪魔になり、確かにこれは迷惑です。

ワイドショーでは、せっかくお金を払って映画を見ているのに、またどうして……といった意見がある一方で、それほど気にならないという声や、緊急時にスマホが使えないと困るから電波を遮断することもできないといった視点も紹介されていました。私は、これはもう「依存症」として何らかの対策や治療が必要な段階になっていると思います。

私の職場でも、留学生が授業中にスマホをいじるのはごくありふれた日常風景になっていて、たった50分の授業一コマでさえ我慢できずについ……という方はかなり多いです。教師によっては授業の最初に「禁スマホ」を宣言して学生のスマホをひとところに集めて保管しておき、授業後に返すということをやってらっしゃる方もいますが、私は面倒くさいのでノータッチ。

それにきょうびの学生さんは辞書というものを持っていない(語学学校なのに、ほぼ100%持っていません)のでスマホが辞書がわりですから通訳や翻訳の授業では時に使わざるを得ないですし、そもそも義務教育でもないので、学びたい方が学べばいい、授業そっちのけでスマホに興じるのも完全にその方の自由(ただし真面目に学びたい他の学生の邪魔をすることは許しません)だと思っているからです。

授業中どうしてもスマホに手が伸びてしまう留学生をそっと観察してみると、大概はSNSやメッセージアプリの確認に費やしているようです。中には授業中にも関わらずゲームに興じるという剛の者もいますが。上述のワイドショー番組でも紹介されていましたが、「なにか起きていないか気になる」とか「大事な連絡をスルーするのがこわい」などでSNSやメッセージをチェックする、それも頻繁に……という方は多いようです。

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https://www.irasutoya.com/2014/07/blog-post_3699.html

いま私は「という方は多いようです」などと、まるで他人事のように書きましたが、実はこうした「依存症」とも言えるような状態、つい最近までの私にもありました。SNSを一番頻繁に利用していた頃は、まさに一時間に何回も、いえ、もう数分に一度という割合で、スマホやパソコンからチェックをかけてしまうのです。さっき見たばっかりなんだから、さしたる変化などないはずなのに、チェックしたくてたまらなくなる。

しかも、あるSNSをチェックしたら(もちろん変化なし)、別のSNSに行ってチェックし(こちらも変化なし)、新着メールが届いていないかどうか確認し、お気に入りに入っているブログが更新されていないかどうか見に行き、そのブログのリンクから別のサイトへ飛んでニュース(それも、どーでもいいような)を読み、そこからまた面白そうな話題に飛んで……いるうちに、最初にチェックしたSNSに変化がないかどうか気になってまた確認しに……という無限ループです。これを「依存症」と呼ばずしてなんと呼びましょうぞ。

あまつさえ、朝起きた瞬間にスマホを手にとってSNSのタイムラインを確認し、ついには夜中に目が覚めたときにさえ確認するに至って、さすがに「これはまずい」と怖くなりました。それで利用していたSNSのほとんどを退会し、スマホやパソコン以外に興味を向けるよう自分で自分を叱咤しつつ、徐々に「依存症」から抜け出せるようになりました。

そして最近、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する』を読んで、そうした「依存症」を引き起こす原因のひとつが、ネットや、ことにSNSに仕掛けられた「注意経済(アテンション・エコノミー)」の為せる技だとハッキリ悟って、ほぼ「依存症」を克服した次第です。ほぼ、というのは、まだこのブログやTwitterを利用しているからですが、いまではスマホによる「ながら」はほとんどなくなり、自律的に使える時間が増えたという強い実感を持てるまでになりました。

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折しも昨日、「ゲーム依存」に関する初の全国調査が行われたというニュースに接しました。一日のうち、ゲームに費やす時間が長いほど仕事や健康に悪影響を及ぼしている実態が明らかになり、こうした生活にまで影響を及ぼすゲームへの依存は、すでにWHO(世界保健機関)が「ゲーム障害」という病気として認定し、対策を求めているとのこと。

www3.nhk.or.jp

いまやゲームのみならずSNSなども含めたスマホへの依存をきちんと「依存症」であると位置づけ、救援策を考えておくべき段階に至ったのではないでしょうか。上述の映画館でのスマホいじりを我慢できない方々や、自分の周辺にいる留学生を見ている限り、これは後々ものすごく大きな問題になっていくのではないかという予感がします。

ロシア語だけの青春・その2

黒田龍之介氏の『ロシア語だけの青春』を読んで。昨日からの続きです。

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語学教師としての視点から

昨日書いたのは学習者としての視点ですが、教師としての視点にも首肯することしきりでした。

●生徒の発音を笑わない。

これはとても大切で、私も常に気をつけています。日本人もそうですけど、華人留学生もああ見えて(失礼)けっこうシャイで、日本人に発音を笑われるとそれだけで意気消沈しちゃって積極的に話さなくなる危険性があるように思います。

●カードを元に、授業中はこれをシャッフルしながら、アトランダムに生徒を指名する。

いつなんどき自分に当たるかわからないという緊張感を生徒に与えるための方法ですが、私もこれを授業で使っています。黒田氏は「言語学とスラブ語学で有名な大学の先生が採用していたやり方」で「先生ご自身がプラハに留学されていた際に、セルビア語の授業で採用されていた方式」だと紹介されています。私は長谷川良一氏の中国語の授業と同氏の『中国語入門教授法』で知って取り入れました。

●外国語を専攻する大学生は、授業で覚える単語が実用的でないと、不満を漏らす。こんな使えそうもない単語じゃなくて、もっと役に立つ単語を教えてほしいという。その一方で、スラングや流行語は喜んで覚えたがる。だが、なにが使える単語で、なにが使えない単語かは、学習者には判断できない。

私が教えているのは大学ではなく、生徒もその大半は留学生ですが、こうした「不満」はよく聞かれます。いわく、教室で教わる日本語と、バイト先の人や日本人の友達が話している日本語とがかなり違う……などなど。ですが、外語はまずフォーマルできちんとした単語や構文を覚えないと、その先には進めないんですよね。きちんとした正式な言い方ができるからこそ、その先に進んでネイティブのように崩すこともできるのです。外語はあくまでも「フォーマル→カジュアル」と学ぶのが大切だと思います。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_93.html

●大学は見返りを求める場所である(中略)知的好奇心などを綺麗事をいってはいけない。大学で教える者は、現状をしっかりと把握する必要がある。
●人はなんらかの見返りを求めて、外国語を学ぶ。でも。ミールには見返りなんてなかった。

確かに、現在の日本は語学に(ことに英語に)対して過度に「見返り」を求めているような気がします(いや、昔からかしら)。でも見返りを求め始めたら、それは畢竟ギブ・アンド・テイクの世界であり、さらには投資とそのリターンという発想に陥ります。そうなれば、やれ効率だの、手っ取り早くだの、「○週間でペラペラ」だのまではひと続きです。

でも語学って、本来はものすごく「泥臭い」営みだと思うんです。もちろんそれを使って外語が理解できたり、自分の話すことが通じたりする瞬間は「ぱあっ」と世界がひらけたような感じがしますし、通訳や翻訳も華やかなイメージがあるみたいですけど、実際にはとても「泥臭い」、あるいは「辛気臭い」営みなのです。その語学を習得するには膨大な時間と労力が必要です。世上、それは無駄が多いからだ、古いメソッドから抜け出ていないからだなどの甘言は多いですが、一部の天才を除いて、手っ取り早くちゃちゃっと語学を習得することは不可能だと思っています。

それでなくても機械翻訳(通訳)技術の発展で、「語学なんて学ばなくてもいい時代がくる」などと喧伝され始めているこの時代。ますますそうした「泥臭い」営みには否定的な意見ばかりが寄せられることになるのでしょう。でも私は「語学に王道なし」はこれからも揺るがないと思いますし、いっそ AI などの技術がが発達して実用的な機械翻訳が普及したあかつきには、その時こそ「見返り」を求めない本来の泥臭くも楽しい語学を、静かにかつ思う存分楽しめる時代が来るんじゃないかと、へんな期待を抱いています。

●わたしは、オフィスのようにきれいな大学に身を置くと、居場所がなくて落ち着かなくなってしまう。なんだか嘘っぽい。わたしには、ミールのちょっと怪しい空間こそが、非常にリアルだった。きれいで整った空間で外国語を学ぶのって、どのくらいリアルなんだろ。

「ミール・ロシア語研究所」は代々木の雑居ビルの一フロアにあったそうですが、それよりは規模は大きいものの、私の通った日中学院も似たような「怪しさ」に満ちた空間でした。

初めて見学に行った時の印象も強烈で、窓には直射日光避けなのか投石避けなのかわからない桟が嵌っていて中の様子は伺えないし(実際、隣が日中友好会館なので、黒塗りの街宣車がよく出没するのです)、教室に入ってみれば黒板の上に墨痕淋漓と簡体字でスローガンのようなものが書かれているし、先生も生徒もみんなお互いのことを「ぴんそん」だの「りんむー」だのと呼び合っているし、昨日も書いたようにみんな大声で発音練習しているし……と怪しさ満点でした。

まあ建物の怪しさという点では、これものちに私も講座をいくつか担当させていただいた、神田の東方学会ビルに入っている日中友好協会東京都連合会の中国語教室とか、今はもう閉校してしまった新橋駅前のニュー新橋ビルに入っていた朝日中国文化学院のほうが数倍怪しかったですが。ともあれ、私は日中学院に何年間か通ううち中国語熱が嵩じて、サラリーマンを辞めて中国に留学することになり、帰国後はここで事務局や教師の職を得たものの、いろいろと問題を起こして結局は退職することになってしまいました。

たぶんもう一生日中学院に行くことはない(というか、行けない)と思いますが、黒田氏が書かれている「ミール」の雰囲気と、日中学院のそれはとても似通っているように思われるのです。実際には私は「ミール」に行ったことがないんですから、本当のところはわからないんですけどね。ひょっとしたら今でも、日中学院にはそんな雰囲気の一部が残っているかもしれません。

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▲日中学院の教師だった頃。帰国する留学生が「一緒に写真を撮ってください」と肩を組んで来ました。こういうフレンドリーさが華人(チャイニーズ)のすてきなところです。

ロシア語だけの青春

黒田龍之助氏の『ロシア語だけの青春』を読みました。一読、次々に付箋を貼りたくなるくだりが続出、でもページの先を早くめくりたくて、小さな付箋紙を貼り付けるのももどかしく思いながら、一気に読み終えてしまいました。いや〜、これは語学好きにはたまらない一冊です。とくに一時期ある語学に「ハマって」しまい、なおかつそれを仕事でも使うようになり、さらには教える立場にまでなってしまったような人間にとっては。

文字通りそうした道を歩まれてきた黒田氏は、東京は代々木にあったロシア語の学校「ミール」(2013年に閉校)に通い、学校を通して仕事をするようになり、その後そこで教鞭まで取るようになります。この本は、その学校「ミール」での教学方法や、先生とクラスメートたちの思い出を中心に綴った作品で、氏と引き比べるのも僭越ながら私も中国語で同じような道をたどってきたので、なおさら読後感もひとしおだったのです。

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ロシア語だけの青春: ミールに通った日々

語学学習者の視点から

付箋を貼った箇所から、語学学習者として心に残った点をいくつか。私にはこれらの記述が、まるで語学に関するアフォリズム箴言)のように読めます。

●ただひとつ、生徒が不自然なまでに大声で発音することが、印象的だった。

大声は、語学の初級段階においてはとりわけ大切だと思います。私は最初に通った中国語学校の先生が毎回授業に遅刻してくるのに腹を立ててそこをやめ、飯田橋にある日中学院の授業を見学に行ったのですが、その時の光景は今でも忘れられません。もう故人となられたP老師のもと、生徒さんたちがものすごい大声で“課文(教科書のテキスト)”を音読していたのです。

●発音はネイティブに習うより、日本人の専門家から指導されたほうがいい。

これは中国語も同じだと思います。もちろんネイティブでも外国人に中国語を教えるメソッドをきちんと学ばれた方は別ですが、日本語母語話者の特質に留意しながら中国語の発音を教えることができる方は存外少ないのです。

●一定以上の時間を継続して確保できなければ、外国語学習はできない。
●昔の芸事というものは、ほとんど毎日だったらしい。(中略)毎日同じお師匠さんの所へ通って、同じことを習うのである。「身につける」というのは、そういう訓練を通してのみ実現できる。

私が日中学院で通ったのは、夜間の週三回クラスでした。会社に勤めながら週に三日も学校へ通うのはかなり大変でしたが、他の日に残業や早出をして時間を稼ぎ、ほとんど休まずに通っていました。その意味では、現在学んでいるフィンランド語は週に一回なので、少々物足りなさを感じています。でも東京近辺で、週に二回、三回と開講している講座がないんですよね。

●国内で充分な外国語運用能力を身につけないまま、現地に留学した人の外国語は、一見すると流暢だが、実は自信がなくて弱々しい。

これも語学関係者にはよく知られている話です。さらに言えば、きちんとした母語の基礎がないまま留学するのも危うい。この意味で幼少時から海外へ移住して英語を学ばせるという親御さんの「もくろみ」はかなりリスキーだと思います。もちろん、日本語なんてすっ飛ばして「英語の人」になっちゃっていい、というならいいんですけど。
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●外国語学習についていえば、暗唱は欠かせない。というか、暗唱してこなかった学習者の外国語は、底が浅いのだ。
●話せるようにならないのは、訳読が悪いのではない。その後に暗唱しないからである。

これは耳の痛いお話。中国語では私、暗唱を死ぬほど行ってきましたけど(それでも楽しかった)、フィンランド語は語形変化が激しいために例文を暗唱しても役に立たないことが多いと聞かされていて、決まり文句以外はあまり熱心に暗唱を行ってきませんでした。でも型に嵌った例文だって、アウトプットできれば上等ですよね。はい、教科書の暗唱、今日から始めます。

●数詞がきちんと使いこなせるかどうかは、学習者のレベルを判断する時に有効。

これはもっと耳の痛いお話。そう、確かに数字は語学の意外な盲点なんですよね。中国語はそれほど複雑ではないけれど、英語は位取りが日本語と違うからけっこうまごつきますし、フィンランド語に至っては数詞もどんどん格変化するのでかなり難しいです。黒田氏は「ミール」で最初に生まれ年を聞かれてまごついたというエピソードを書かれていますが、氏と同じ年の生まれの私もフィンランド語で誕生日を“Minä olen syntynyt syyskuun kahdentenakymmenentenäneljäntenä päivänä vuonna tuhatyhdeksänsataakuusikymmentäneljä”とすぐに言える自信がありません。

この項は、明日に続きます。

Windowsが世界標準になったことは人類の不幸だった

先日読んだこちらの記事。「PCよりMacの方が社員の生産性や満足度が高い」という内容で、思わず「その通り!」と叫んでしまいました。gigazine.net

私はパソコンの黎明期から(というか、その前のワープロ専用機から)PC、つまりWindows(一番最初はMS-DOS)を搭載したもの仕事で使い、やや遅れてMacも使いはじめ今に至っています。ほとんどの期間、PCとMacを同時並行で使い続けてきたのですが、その中で強く感じて来たのは「Windowsが世界標準になったことは、人類の不幸だった」という点です。

いや、Macだって最初の頃はずいぶん神経をすり減らされました。特に私が必要としていたマルチリンガル環境の構築においては、入力・出力ともに今から考えればとんでもないほどの労力が必要とされたものです。それでもMacはどんどん改良を重ね、使いやすい機械に成長していきました。現在ではほとんど自分の身体の一部と言っていいほどの使い勝手の良さに、ちょっとした幸福感を覚えるほどです。

それに引き換えWindowsのダメっぷりはどうでしょう。歴史に名を残す(悪い意味で)Vistaの教訓を活かしたのかどうかもあやしく、現在のWindows10に至ってもその使い勝手の悪さと、デザインの不在と、余計なおせっかいの多さに、あまり変化はないように思えます(カスタマイズできるとはいえ)。

パソコンはOSとハードで成り立っており、ハードが多数の企業によって提供されているという点がWindowsMacでは根本的に違うので、同列に論じるのは不公平かもしれませんが、誕生から三十年有余年を経てまだこのダメっぷりには驚かされます。どんな製品でも三十年経てばそれなりに洗練されるものではないですか。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_962.html

現在の職場では一律にWindows機が支給されており、音声や画像や動画を頻繁に使う私はほとんど仕事にならないので、個人のMacBookを持ち込んで使っています。本来なら個人の持ち出しなどありえないのですが、目の前に学生がいるので、悠長に改善を待っている暇はないのです。

仕事なんだから与えられた環境の範囲内でやればよいのだと、一時は支給されたWindows機だけで授業やその他の事務作業をやろうと試みたこともありました。でも、あまりの非効率さと生産性の悪さに、すぐ自分のMacBookに戻ってしまいました。

様々な国籍の非常勤の先生方からも「なぜこの学校はWindowsにこだわってるんですか?」とご自分のMacBookを開きながら聞かれる始末。いや、ホントになぜなんでしょうね。かつては「MacではマイクロソフトのOfficeなどが使えないから取引先との連携で支障が出る」などと言われたものですが、それから何十年も経っていまやそんな化石じみた懸念を呈する人は一人もいなくなったというのに、なぜ?

それでも私は学校に訴え続け、ついに来春からMacを支給してもらえることになりました。組織というのは、特に大きな組織になるほど変わりにくいものですが、ここまでくるのに約三年かかりました。ようやく仕事上の無駄なイライラから少しは開放されそうです。コスト的にはMacのほうがお高いですが、生産性や満足度の向上はそのコストを回収してあまりあるのではないかと思います。

英語でおもてなしってホントに必要?

通勤途中の地下街に「みずほ銀行」のATMコーナーがありまして、そこにはTVモニターも設置されており、同銀行のCMがエンドレスで放映されています。先日通りかかった時に流れていたCMは、こちら。

来年の東京オリパラを見据えて、お寿司屋さんの大将が英会話の勉強に取り組んでいるという設定です。「(海外に)興味なくたって、来年向こうから来ちまうんだから、仕方ねえじゃねえか。そうなったからには、これぞ江戸前っつうのを見せてやんねぇと。見とけよ〜、本番はペラッペラだかんな〜」。わははは、本当にこういう大将がいそうですが、お寿司屋さんに限らず、急増する外国人観光客を「英語でおもてなし」しようと考える方はきっと多いんでしょうね。

しかし、自分がその外国人観光客の立場だったら嬉しいかなと考えてみるに、これは少々「微妙」です。せっかく異国情緒あふれる日本まで旅してきたのに、しかもその国の伝統的な食べ物を出すお店に入ったのに、英語で「ペラッペラ」と色々説明されちゃったら旅情など吹っ飛んでしまいません? え? そんなことない?

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https://www.irasutoya.com/2014/05/blog-post_8123.html

いまや「リンガ・フランカ」たる英語と、自分の母語である日本語を同列には論じられませんが、私は外国へ旅行してその土地のレストランに入って、日本語で応対されたら著しくがっかりしますねえ。観光地などでも片言の日本語で「ヤスイヨ、ヤスイヨ」などと話しかけられることがありますけど、あれほど憤ろしいものはありません。なんでお金を費やしてわざわざ日本から遠く離れた場所までやってきて、奇妙な日本語を聞かされなきゃならんのかと。ま、観光地ってのはそういう場所ですから行かなきゃいいんですけど(実際、私は観光名所にはできるだけ行かないようにしています)。

以前にも書いたことがありますが、こういった「おもてなし」の発想は、いまから半世紀以上前の1964年、前回の東京オリンピックが開催された時に展開され、その後も続けられてきた「グッドウィル・ガイド(善意通訳普及運動)」と同根のものです。そのボランティア精神やよし。もちろん参加されている方の誠意や熱意を疑うものでもありません。でも私は、なぜここで逆に海外の方に日本語を話してもらおう、学んでもらおうという発想にならないのかな、と思うのです。

これは言語学者鈴木孝夫氏らが主張されてきたことですけど、日本に行ったら簡単な日本語くらい話せないとね、とか、日本のお寿司屋さんで日本語で注文してみたいな、とか、そういうふうに思ってもらえる方向にヒト・モノ・カネのリソースを割けないものでしょうか。あと「ガイジンさん=英語」という思い込みも、よく考えてみれば少々雑駁にすぎるのではないかと。

私だって、例えばヨーロッパに行けば結局英語でのコミュニケーションに頼らざるを得ないんですから、あまり御大層なことは言えません。それでも、英語がほぼ通じない田舎の食堂などで、現地の言葉を急ごしらえで覚えて注文して、それが通じた時の感動は深く胸に刻まれています。全国民こぞってオリパラのために英語を学ぼう! もいいですけど、どうせならそこからもう一歩進んで、日本語を覚えてもらおう!そのために英語を媒介として使う……というような、日本語愛に満ちた運動こそ広がってほしいなと「みずほ銀行」のCMを見て思いました。

なにせ日本語は、話者の数が世界でも十本の指に入る「巨大言語」なんですから、もっと自信を持っていいんじゃないかと。もっともその話者のほとんどがこの島国にギュッと凝縮されているというのがまた面白くも悩ましいところではあるのですが。