インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

Twitterをやめてよかった

平日の早朝は、ほとんど毎日ジムに行って体を動かしているのですが、トレーニングのあとにシャワーを浴びて、サウナを利用するのが日課になっています。出勤時間を考えると、サウナ室にいるのがちょうど朝の8時前後になるのですが、サウナ室内で放映されているテレビ番組を見ていて気づいたことがありました。

こちらのサウナのテレビは、日替わりで『スッキリ』と『ビビット』と『どくダネ!』と『羽鳥慎一モーニングショー』が放映されています(なぜかNHKは一度も放映されません)。普段こうしたニュースバラエティをほとんど見ないので知らなかったのですが、こうした番組では最初の5分から10分ほどの時間を、ネットで話題の動画をいくつか流して、コメンテーターと軽いやり取りをして場を暖め(?)、それからその日のメイントピックに入っていくというのが最近の定番のようです。

毎度毎度、変わった癖のあるネコちゃんの萌え姿やら、交通事故で危機一髪の光景やら、命知らず野郎のアドベンチャーやら、街に出没するトホホな困ったちゃんやらの動画が紹介されては、司会者とコメンテーターの他愛ない寸評が続きます。これらの動画はいずれもTwitterなどのSNSに投稿されたネタのようなものらしいのですが……正直、ど〜でもいい情報です。

まあ私は、できるだけ静かで薄暗いサウナでひとり沈思黙考するのが好きだからというのもあるんですけど、この「ど〜でもいい情報」にはほとほとうんざりしています。と同時に、朝のニュースバラエティもネットの投稿で時間を埋めるほどネタに不足しているのか、ここまでくると報道でも論説でもなんでもないじゃないか、と思うのです。

そういえば、他愛ないニュースどころか最近は突発的な事故や災害についてもSNSの投稿画像や映像をニュースに用いることが多いようですね。テレビの凋落が伝えられて久しいですが、これはますます「終わっているなあ」と思わざるを得ません。

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_2.html

……と、ここまで書いてふと考えました。そういう「終わっている」としか思えないメディアの番組を、少なからぬ割合で形作っているSNSの投稿画像や映像が、そも自分にとっては「ど〜でもいい情報」だったんです。なのになぜあんなに時間を費やしてそういうコンテンツに一喜一憂し、つぶやき、書き込み、時間を潰していたのかと。

そういう情報についつい無駄な時間を過ごしてしまうような私は、やはりTwitterをやめてよかった、と改めて思うのです。

わたしの台所

沢村貞子氏の『わたしの台所』を読みました。きっかけは新潮社のビジュアル入門書シリーズ「とんぼの本」の『沢村貞子の献立日記』を読んだからなのですが、このビジュアル本はもちろん、エッセイとして名高いこの『わたしの台所』にはしみじみと共感できる文章がたくさん詰まっていて、たちまち付箋でいっぱいになってしまいました。


わたしの台所 (光文社文庫)


沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)

名脇役として数々のドラマに出演されていた沢村氏は、その一方で二人暮らしの夫のために毎日献立を考え、食事を整える「兼業主婦」でもあったそうです。食事の他にもぬか床や「梅仕事」など、お母様ゆずりの生活の知恵を存分に発揮され、忙しい毎日を切り盛りされていたよし。現代の感覚からすれば、女性ばかりがこんなに家事を担当して夫に尽くすなんて……と、眉をひそめる向きも多いかと思います(私も多少そういう気持ちになりました)が、当の沢村氏はそんな暮らしを心底いとおしんでいたことが文面から伝わってきます。

ことに老境にいたって、身体的な衰えから様々なことが以前と同じように回らなくなるなかでの暮らし、特に食に対する感慨は自分にも大いに重なって共感できる部分が多く、それもまたこの読書体験をより味わい深いものにしてくれました。私はまだ「老境」というには若すぎるというか、早すぎる年代ですが、それでもこのエッセイを十年前や二十年前に読んだとしたら、ここまでの深い味わいを感じることはなかったかもしれません。

うちのこしらえ方、うちの味のおそうざいを、黙って食べている家人の満足そうな顔を見ていると、料理したものは苦労を忘れる。

本当にそうです。私自身は炊事全般、買い物から後片付けまで含めて「苦労」と思ったことはほとんどありませんが、外食や出来合いのものに極力頼らず、長い時間をかけて身についてきた「うちのこしらえ方」が暮らしの楽しみ(より口幅ったい言い方をすれば「しあわせ」の)かなり大きな部分を占めているのだと最近よく思うようになりました。

料理は一秒ごとに不味くなる、という。
自分が台所に立って煮炊きしていると、この言葉が身にしみてよく分かる。

これも、ホント身にしみてよく分かるなあ。おもてなしとかじゃなくて、家族のために日々作っている毎度毎度の食事だからなおさら、出来上がりのそのタイミングで食べてもらいたいと思うんですよね。なのにうちの細君ときたら、食事が出来上がっているのに長々と電話で話したり、風呂上がりの髪を延々乾かしていたり、トイレに籠ったりするんです。しくしく。「すべて、ころあいこそが大事」とおっしゃる沢村氏だったら、同情してくださるかしら。まあ私がタイミングを合わせて作ればいいだけの話ですけど。

また女性として家事全般を一手に引き受けていながら男性にもその素晴らしさを味わってほしいと願う一節や、親は自分のできる範囲で子育てをしたあとはなるだけ早く子離れをして「ひとりで生きる」工夫をすべきといった一節には、いま読んでも、いや、いまだからこそよりその言葉に重みが感じられて、沢村氏の先見の明に驚かされるのです。ご自身はたびたび「老女優」「明治おんな」と自嘲されるのですが、いえいえどうして、当節の「おひとりさま」や「老活」あるいは「終活」に先駆けること何十年、すでにここまで目の開けていた人がいたのですね。

それから、下町の浅草で生まれ育った沢村氏の、お母様の言葉がなんとも心にしみます。まるで落語に出てくる、ちょっと間の抜けた亭主をぴしりとたしなめる気丈な女将さんのような風情なのです。「冥利が悪い」なんて言葉、いまではもうほとんど聞かれなくなっているでしょうね。

沢村氏が愛したという「こざっぱりとした暮らし」。その「こざっぱり」は食事や家事にとどまらず、人付き合いや生き方や人生観にもつながっていたようです。没後は遺志に従って墓所を作らず、夫のお骨とともに海に撒かれたそうですが、私も自分の最期はそのように「こざっぱり」でありたいものだと思います。

傘の修繕

中秋節を過ぎて、ようやく朝晩がしのぎやすくなってきましたが、今年の夏もその暑さ、いえ蒸し暑さにほとほと参り果てました。もとよりその人の多さで人々のイライラ感が充満している東京に、あの殺人的な蒸し暑さ。もうここ何年も「これ以上は耐えられない」と思いつつ、なんとかやり過ごしてきましたが、あと五年も十年も毎年やり過ごしていける自信がありません。本気で、どこかへ逃げられないだろうかと考え始めています。

少しでも夏の暑さから逃れようと、今年は流行に乗って(?)「日傘男子デビュー」しました。私、普段着はほとんどがユニクロで十分という人間ですけど、靴や傘などはあまり手を抜かないようにしています。大きなお世話なんですけど、往来で見かけるサラリーマンのみなさんも、スーツのシャツにぱりっと糊が効いているのに革靴がすり減って曇っていたら目も当てられないですし、そこに錆の浮いたビニール傘など持っていたらほとんど泣きそうになります。

それで日傘も、雨天兼用の割合上質なものを買い求めました。薄い色なので、日傘として使っていてもあまり目立ちません。目立たない……そう、「実際暑いんだから人目なんか気にしていられない」と日傘を使い出したものの、やっぱりまだどことなく恥ずかしい気持ちが残っているんです。男性が日傘を差しているってのが物珍しいんじゃないかとか(誰も気にしちゃいないのに)。染み付いた固定観念というのは本当に頑固なものです。


綿100%晴雨兼用折りたたみ傘

ところでこの日傘、使い始めてからほどなくして、某所でビル風か何かの突風を受けたあおりで骨のジョイント部分にある「ハトメ」がひとつ外れてしまいました。えええ、けっこうな値段がしたのになんだよ、と思いながら、糸で応急処置をしようと思うも、これが老眼でどうにもなりません。悲しすぎる……。といって、いまどき傘の修繕なんてやっているところはあるんでしょうか。

傘の修繕で思い出したのですが、子供の頃は日曜日になると朝から傘の修繕をする行商の声が聞こえたものでした。「竿や、竿竹〜」の声は覚えていますが、傘の修繕屋さんはどんな物売りの声だったか、記憶に残っていません。でも確かに毎週のように回ってきていました。それだけ需要があったというか、傘は壊れたら修繕するというのが普通だったのです。コンビニでビニール傘を買い求め、雨の後は道端に打ち捨てられているのを目にする現代では想像もつかないでしょうね。

ともかくネットで「傘 修繕」と検索をかけてみたら、もちろん専門店でもやっていましたが、靴の修理や鍵の複製などをやっている某チェーン店が傘の修繕もやっていることを知りました。職場近くの地下街にも一軒あるのでさっそく仕事の前に寄ってお願いしたら、その日のうちに修繕してくれました。費用は千円ちょっと。

www.minit.co.jp

傘の骨一本に千円も払うなら、コンビニのビニール傘でいいじゃない、と思われるかもしれません。革靴も、年に数回は踵や爪先の張替えに出していますが、それだって数千円はかかります。それでも、使い捨てにするのはどうしても抵抗があるんですよね。もったいない、というのもあるけれど、なんかこう、靴や傘を使い捨てで済ませるのがすごく貧相な感じがして、悲しい気持ちになるのです。そう思いつつ服は安いものばかり着ているので矛盾しているのですが。

イヤーワーム

ふと気がついたら、脳内で特定の音楽がヘビーローテーションしていたってこと、ありませんか? 私はよくあるんですけど、あれには「イヤーワーム(earworm)」という名前がついているそうです。しかも様々な調査で、およそ9割以上の人が日常的に経験していることがわかっているとのこと。

イヤーワーム - Wikipedia

ネットで色々と検索してみると、普段音楽をよく聞く人に多い傾向があるようです。たしかに私もよく音楽を聴きますが、ただよくよく自分を観察してみると、音楽以外がイヤーワームの引き金になっていることも多い。先日はなぜか久保田早紀氏の『異邦人』が脳内で繰り返されていて、その元をたどったら朝に読んだ新聞の記事に「異邦人」という言葉があったからでした。その文字を目にした途端に記憶の引き出しが開いて、音楽が流れ始めるんですね。

youtu.be

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https://www.irasutoya.com/2014/02/blog-post_5766.html

それから、音楽や文字などの「引き金」がなくても起きることがたびたびあって、その時はたいがい自分の「定番イヤーワーム」が脳内に流れています。これも気づいたらその状態になっていることが多く、なぜイヤーワームが「起動」するのかはわからないのです。

もうここ数十年来、定番のイヤーワームになっているのは、なぜかベートーヴェン交響曲第九番、その第三楽章です。ご案内の通り『第九』の第三楽章はとてもゆったりした美しい旋律が特徴なのですが、その主題にあたる旋律がずっと頭の中で鳴り響いているのです。私はあまり器用ではないので、例えば音楽をかけながら仕事をするといった「マルチタスク」が苦手なのですが、なぜかイヤーワームだけは仕事や作業と並行できてしまう。これも不思議な点のひとつです。

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私の場合、このイヤーワームが亢進すると、気づかないうちに歌っていることがあって驚きます。歌うといっても大声を出すわけではないのですが、歯の隙間から細く息を吐きながらメロディを奏でているのです。口笛でもハミングでもない、こういうのはなんと言うのかわかりませんが、とにかく小声で奏でている。なぜなのか、そしてなぜ『第九』の第三楽章なのかは自分でもわかりません。

以前に勤めていた職場で、すでに退職が決まって残務整理をしているときにもこのイヤーワームが出現し、私はその時無意識のうちに歌っていたらしく、同僚から「うるさい!」と一喝されたことがあります。退職が決まって、関係ももうこれっきりと分かったら人はここまで冷たくなるのかと寂しく思うととともに、これまで私のこうした癖にずいぶん我慢してきたんだろうなと申し訳ない気持ちにもなりました。聞こえるか聞こえないかという程度の小声だから、かえって気になるんですね。

イヤーワームを打ち消す方法として、ネットには「5文字程度のアナグラムを作る」というのがありました。なるほど、今度『異邦人』が脳内に鳴り響いたら「包囲陣」とか「印字法」とか「持法院」とかを懸命に考えてみることにします。

サウナのあるところ

ヨーナス・バリヘル、ミカ・ホタイネン共同監督の映画『サウナのあるところ』を観ました。サウナに関するフィンランド映画、という情報のみで映画館へ向かったのですが、静謐な雰囲気の中に深い味わいを残す素敵な作品でした。【以下、一部に映画の具体的な内容の記述があります。】

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www.uplink.co.jp

フィンランド人のサウナ好きは夙に知られていますが、その通りこの映画はほぼ前編がサウナの入浴シーンで綴られています。しかも住宅の家庭用サウナはもちろん、キャンピングカーを改装したサウナ、道端の公衆電話ボックスみたいなサウナ、テントの中に作られたサウナ……ありとあらゆる小さな空間をサウナにし、薪を焚き、石を熱し、お湯をかけて「ロウリュ」をするその「サウナ好きっぷり」に思わず笑みがこぼれました。

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でも映画全体のトーンはどちらかというと重苦しいものです。というのも登場する男性たちが、裸のままで自らの人生、それも挫折あり後悔あり紆余曲折ありの決して順風満帆ではなかった苦い体験を訥々と語っていくのですから。

私は最初、この映画はドキュメンタリーだと認識して映画を観始めたので、男性たちが語るその語り口に少々混乱していました。というのも、明らかにご自身の実体験を語っているようではあるものの、とても饒舌というか、語る内容が豊富というか、とても実況を記録しただけの映像には思えなかったのです。でも、これがもし俳優さんの演技であるとしたら、これはもう真に迫りすぎている……男性たちの表情や涙はとても演技とは思えませんでした。

その疑問は、上映後に行われた舞台挨拶で氷解しました。監督をつとめたお二人と、出演されていた男性たちのうちのお二人、合わせて四人が登壇されたのですが、「どうしてサウナの映画を撮ろうと考えたのですか」という司会者の質問に、ヨーナス・バリヘル監督がご自身のサウナでの体験を紹介していました。

この監督は、タンペレの「Rajaportti sauna(ラヤポルッティ・サウナ)」で、サウナに入っている男性たちが、そばに他人がいるにもかかわらず、結婚や離婚などそれぞれの人生の大切な告白を友人に打ち明ける場面に遭遇したそうです。そこに監督は、サウナの持つ一種の人の心を和らげ解放するような力を感じたとのこと。なるほど、あの「ロウリュ」の蒸気がこもる静かな空間、そして「裸のつきあい」が人間を素直にするというのは私も実体験としてよく分かります。

フィンランドでは、まだまだ「男は黙って……」といった観念、つまり男性は人前で涙や弱みを見せてはいけないという一種の「押し込み」が根強くあるそうで、そんな弱みを見せられない男性が唯一自分を取り戻して素に戻れる場所がサウナなのではないか、それで男性たちに自らの人生を語ってもらう映画を撮ろうと考えた、というわけです。この映画のフィンランド語原題は“Miesten vuoro(男たちの番)”。普段は寡黙な男性たちにスポットライトが当たる出番は、サウナにこそ用意されていたのですね。

ゲストの四人は今回が初来日だそうで、東京のサウナにも入ってきたとのことですが、サウナ室の中にテレビがあってびっくりしたそうです。また、従業員がタオルで熱風を吹きかけるサービス(何故かこれを「ロウリュ」と称したり、あるいは熱波と称したりします。従業員のことを「熱波師」と呼ぶことも)にも。

う〜ん、確かに日本のこうしたサウナとフィンランドのそれとは全く違う施設かもしれません。私もフィンランドの薄暗くて静謐なサウナ室のほうが好きなので、あのテレビや、クラシックや「ど演歌」のBGMなどはいらないかなあと思います。

もう少し静かで、サウナ室内の「人口密度」が低くて、それほど温度は高すぎず、時々焼けた石にお湯をかけつつ、ゆっくりと過ごしながら自分の内面に深く降りていけるようなサウナ。そんなサウナに日本でも入ることができたらいいですね。これはもう、自宅にサウナを作っちゃうしかないですかね。もっともうちは賃貸だから無理ですけど。

母語なのに聴き取れない

華人留学生(出身地は中国・台湾・香港・マカオなど様々)の通訳訓練クラスを担当していると、時々おもしろいことが起こります。華人留学生なのに、つまり中国語が母語や準母語*1であるみなさんなのに、教材の中国語が分からない、あるいは聴き取れないことがあるのです。

その理由としては、まずは音声そのものの質という物理的条件が考えられます。通訳訓練とはいえ、毎回生身の話し手を用意するわけにも行かないので、ほとんどは教材の録音や録画を再生することで「原発言」のかわりにしています。つまりそれだけ「リアリティ」に欠けることは否めません。またヘッドフォンで聴くならまだしも、教室のスピーカーから音を流す場合にはもっと聴きにくくなります。

もうひとつの理由は、中国語自体がとてもグローバルで幅の広い言語であるため、標準語にあたる“普通話”にも地方によって結構なバリエーション(単語の違いから、発音の違い、まれに文章構造の違いなども)があって、自分の出身地域以外の話し方に慣れていない留学生が存外多いという点が挙げられます。

例えば台湾など南の地方出身の留学生は、北京など北の地方に特徴的な“儿化音”の多く入った発音(よく口の中で飴玉を転がすような発音とも言われます)に慣れておらず、聴き取りが難しいとこぼす方がけっこういます。

今日も今日とて、映画『山河故人(邦題:山河ノスタルジア)』の賈樟柯ジャ・ジャンクー)監督が出演したテレビの鼎談番組を教材に使ってみたら、鼎談に登場する北京風発音の色濃いお一人の発言で、軒並み「聴き取れない……」とこぼす方が現れました。

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もちろん聴き取りは単に音の問題だけではありません。そもそも背景知識などの深い理解がなければ聴き取れないことも多く、そのために通訳者は事前に十分に予習をして仕事に望みます(そう理想通りに行かないことも多いですが)。私はいつも「背景知識がリスニングを後押しする」と言っているんですけど、そもそも自分が知らない事象については聴き取れないんですよね。音は耳に入っても、脳が理解できない。

ですから、くだんの生徒さんたちが聴き取れなかったのは、その地方の発言に慣れていなかったことに加えて、事前学習が足りなかったことも原因かもしれません。それにしても、自分の母語のバリエーションなのに、ほとんど脳がフリーズしてしまうほど聴き取れないという現象が起こるのが面白いな、中国語ってやっぱりとてもグローバルな言語なんだなと改めて思った次第です。

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https://www.irasutoya.com/2019/04/blog-post_87.html

教養がないと聴き取れない

母語なのに聴き取れない現象について、あともうひとつだけ考えられる理由があります。中国語の非母語話者である私がこんなことを書くのは大変失礼ではあるのですが、それぞれの“文化水平(教養度)”です。上述の番組では、鼎談に参加しているお三方とも語彙や表現が豊かで、論理的かつ機智とユーモアに富んだ話し方をしています。中国語を学ぶ外国人としての私など「こんな話し方ができたらいいなあ」と憧れるほどの知的な話しぶりで、母語とはいえ、ある程度の教養がないと理解しにくい内容も多い。

中国語は、というか中国語圏の社会は、日本よりははるかに「階級差」のある社会で、その社会各層で用いられる言葉にはけっこうな違いがあります。このあたりは、そうした階級差のあまりない(格差社会と言われて久しいこの国ではあっても)日本の方々には想像しにくいことかもしれません。一部の留学生が聴き取れないとこぼす理由のひとつに、こうした教養の多寡も絡んでいるのではないかと思ったのです。

日本語が聴き取れない?

いっぽうで、日本語母語話者が日本語に対して「聴き取りが難しい」ということはあまりないんじゃないか……と思ったんですけど、そんなことないか。日本語母語話者だって、教養や背景知識が不足していたら聴き取れない、あるいは方言や訛りなどがあって聴き取れない・聴き取りにくいということはありますよね。よく引き合いに出される東北や九州の方言など、ほとんど聴き取れません。

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あと、これは政治家に多いのですが、いわゆる「言語明瞭・意味不明」系の発言も聴き取れない・理解できないということはたびたび起こります。私は以前、旧民主党のとある重鎮(首相経験者)の通訳をしたことが一度だけありますが、この方などまさにその典型でした。

最近では、先日大臣への就任会見をしたこの方かな。私は動画サイトで全部聞いてみましたけど、さすがに「言語明瞭・意味不明」までは行かないけれど、話の軸があちこちにブレるので聴き取りに苦労しました。お隣で手話通訳をされていた通訳者さんも大変だったのではないかと推察いたします。

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*1:広東語や上海語などが母語の留学生も多いです。

911と癌患者の関係

昨日の東京新聞に「米中枢同時テロ18年」という記事が載っていました。この見出しを見てまず「あれ、以前は『同時多発テロ』という呼称が一般的だったような気がするけど、いつから変わったのかな」と思いました。

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それはともかく、あれから18年ですか。あの時は夜にテレビでフェイ・ウォン王菲)主演のドラマ『ウソコイ』の最終回を見ていて、突然「臨時ニュース」に切り替わったのでびっくりしたことを覚えています。

フェイ・ウォン氏は当時日本でちょっとした流行になっていた(今となっては「ゆめまぼろし」のようですが)C-POPのアーティストの中でもとても人気で、確かこのドラマはそんな氏の日本進出第一弾として企画されていたのでした。しかし視聴率は思ったほど上がらなかったようで、しかも最終回に放送が中断するという上記のハプニングもあって、日本での風向きはちょっと良くなかったかなという印象でした。残念ながらその後はC-POPの人気もいまひとつ盛り上がらず、個人的にはやや“滋味(中国語では、名状しがたいネガティブな感覚を時にこう表現します)”の残る思い出です。

閑話休題

この短い新聞記事を読んでいて、やや腑に落ちない点がありました。それは最後に書かれている「テロ関連のがん患者」のくだりです。この記事だけを何度読んでも、米中枢同時テロと癌患者のつながりがよくわからないのです。そこでネットで「同時多発テロ がん」と検索してみたら、たくさんの記事が見つかりました。例えば、この記事。

news.yahoo.co.jp

なるほど、テロ攻撃によって世界貿易センタービルが崩壊した際、大量に生じた粉塵の中に有害物質が含まれていて、そのため現場にいた生存者のなかで癌を発症する割合が有意に高いという研究結果が発表されたのですね。東京新聞の記事はとても読みやすくて論理的なものが多いのですが、この記事は字数の関係もあったのか、どこか舌足らずで終わってしまったようです。

ま、かくいう私も、あとから読み返してみるとどこか舌足らずな、というか独りよがりな文章を書いていることが多いです。以て自戒といたしましょう。

料理に合わせるノンアルコールの飲み物・その2

中高年にいたって、お酒がほとんど飲めなくなりました。でも食事のときに何か飲み物を料理に合わせたいのです……。かつてビールやワインなどを浴びるほど飲んでいた(それでもほとんど酔わないどころか翌日も快調)頃には、そんなことで頭を悩ますようになるとは夢にも思いませんでした。というか、私はもう、ほぼ一生分のアルコールを飲んでしまったということですか。

昨日書きましたけど、ヘルシンキのレストランで「ノンアルコールのペアリング」を試してみた感想は、美味しいし面白いけれど「やっぱり甘い、甘すぎる」でした。レストラン「ask」の店員さんがおっしゃっていたように、「果実系」は糖分がアルコールになっていないだけ甘さから抜け出すのは難しそうですし、だからといって酸っぱいばかりでは繊細な料理には合いません。

ここは中華料理の知恵にならって「お茶系」を探求すべきかもしれません。日本で中華料理にお茶といったらほとんど烏龍茶(ウーロン茶)一辺倒ですが、華人のみなさんは(地方にもよりますけど)様々なお茶を食事中に楽しんでいます。緑茶・白茶・黄茶青茶・紅茶・黒茶、それに花茶……日本でもお茶は飲みますけど、どちらかというと食後に飲むものという位置づけが色濃いですよね。まあ最近は麦茶やほうじ茶なんかを食事と合わせて飲む方も多いようですが。

ja.wikipedia.org

「ask」で飲んだお茶系の「ノンアルコールドリンク」では冷やしたホワイトミントティーがとても奥深い味で、これはヘルシンキの食料品店で売られていたので、一箱買って帰りました。この「Clipper」のティーバッグシリーズは日本のスーパーでも比較的よく見かけますが、なぜか「White tea with peppermint」はネットショップでも見つからないんですよね(海外のショップにはあります)。

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https://www.hollandandbarrett.com/shop/product/clipper-organic-white-tea-with-natural-peppermint-60015549

しかしまあ、お茶の世界はたしかに奥深いですけど、やっぱり果実系やスパークリング系で、料理の味を損なわないくらいの辛口ノンアルコールドリンクが飲みたいです(ワインへの未練が色濃く残っていますね)。それでスーパーなどのノンアルコール商品売場で色々物色しては試しているのですが、いまのところ「これだ」というのに巡り合っていません。

ノンアルコールビールも、以前に比べればメーカーさんが研究を重ねて随分おいしくなってきているみたいですが、正直に申し上げてあの「ケミカルなお味」がどうにも苦手です。ノンアルコールのスパークリングワインというのもあって、これも試してみましたが、やはりどこか無理をしているというか、不自然な後味が気になります。

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mot-wine.mottox.co.jp

辛口のシードルを模したとおぼしきこちらも、とても美味しいですが、やはり舌に残る甘さがちょっと……。

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allegresse-japan.com

すみません、メーカーや開発者さんの努力をよそに、無い物ねだりが過ぎました。引き続き色々と探してみようと思います。あるいはお茶系・果実系・スパークリング系とは全く違う発想の飲み物を考えるか、ですね。まあ私はコーヒーを食事中に飲むのは抵抗ないので、この際コーヒーでもいいのかもしれません。

料理に合わせるノンアルコールの飲み物

ヘルシンキでは現代フィンランド料理のお店二軒に行ってみました。いずれも食材に自然素材やオーガニックなどを謳っていて、なおかつ芸術的な盛り付けで小さな料理をいくつも提供するコース、つまり会席料理みたいなスタイルのお店です。どちらもコースに合わせてグラスワインのペアリングコースがあるのですが、特徴的なのは「ノンアルコール」のペアリングもあることです。

悲しいことに、歳を取ってお酒があまり飲めなくなってしまいました。まったく飲めないわけではなくて、むしろ飲むのは今でも好きなのです。でも飲める量がかなり減ってほんの少しのお酒で酔うようになり、さらに翌日の身体が重くてつらいので、自然とお酒から遠ざかるようになりました。それでも食事の時に少しずつ違ったワインを合わせるのは楽しいものです。それでこの二軒では「ノンアルコールのペアリング」を試してみました。

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フィンランド語で「ゼロ」という意味の店名は“zero waste”、つまり廃棄物ゼロを目指すレストランというコンセプトが込められているんだそうです。お店で調達する食材も、生産者と話し合って例えばプラスチックのパッケージやラップフィルムなどを廃するよう努力しているとか。またできるだけ「地産地消」を目指すということで、フィンランドの地元の食材をできるだけ使用してそうです。

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ノンアルコールの飲み物は、例えばトマトとラズベリーのサラダスープには「ラズベリージュースにほんの少しチリを効かせたもの」とか、グリンピースとロメインレタスのサラダに豚の脂身のフレークを散らしたものには「桃の香りのジュースに緑色のシロップを浮かべたもの」とか、白身魚のパプリカソースには「レッドカラントと蜂蜜のジュース」とか、料理の味わいや香りに合わせたソフトドリンクを工夫していました。

メインの羊肉には赤ワインを思わせる真っ赤な「ラズベリージュース」がついてきました。またデザートのキンモクセイ味のアイスクリームにも「リンゴ酢のジュース」が。こうした料理にソフトドリンクというと、日本では烏龍茶一辺倒か、あるいは全然合わないコーラやジンジャエールやオレンジジュースというパターンが多いですが、ペアリングをとことん考えているんだなという努力の跡が見て取れるようでした。

www.restaurantnolla.com

ask

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こちらは一年半ほど前にも行きましたが、ネットで予約したので記録が残っているのか、店員さんが「前にもいらっしゃいましたね」と声をかけてくれました。食前酒がわりに「白ぶどうのジュース」。ワイン用ぶどうのリースリング種で作られているそうです。生食用のぶどう、例えばコンコードとかマスカットなどのジュースはよくありますけど、ワイン用ぶどうのジュースは珍しいですね。でもかなり甘かったですけど。

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その後も料理に合わせて「エルダーフラワーのコーラ」とか「ホワイトミントティー(の冷やしたもの)」とか「フィンランドの湖周辺によく生えている草から作ったお茶」とか、色々と珍しい、凝った飲み物が出てきました。かと思えば「100%りんごジュース」みたいにストレートなものも。

メインの肉料理には、これも「ワイン用ぶどうのメルロー種で作ったジュース」を合わせてくれました。店員さんいわく「ワインはアルコール発酵しているのでぶどうの糖分がアルコールに変わって糖度が落ち、辛口になるんですけど、ジュースの場合は限界があります」とのこと。確かに、料理に合わせるにはちょっと甘いかなと思いました。

デザートも飲み物がついていて、これは「フィンランドの田舎でよく見かける赤い花で作ったジュース」だそうです。たしかにこの花、湖畔やら道路脇やら、とにかくどこにでも咲いている花なんですが、名前が聞き取れませんでした。で、後で調べてみたら、どうやら「ヤナギラン(maitohorsma)」みたい。面白いなと思ってスーパーやデパ地下で探してみたんですが、見つかりませんでした。次回訪れることがあれば、また探してみようと思います。

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restaurantask.com

ノンアルコールのペアリング、それぞれに面白い飲み物ばかりでしたけど、やはりちょっと無理があるかなと思ったものも多かったです。特に、これは好みもあるでしょうけど、甘さの問題。やっぱりある程度以上に甘い飲み物は食事には合わないかなあ……。

動詞の活用ワークシート

以前動詞の「棚卸し」をやったのですが、それを繰り返し練習するためのワークシートみたいなものを作ってみました。一つの動詞をその意味とともに左上に書いて、そのあと……

① 現在形肯定 6個
② 第三不定詞 5個
③ 第四不定詞 1個
④ 現在形否定 6個
⑤ 命令形 4個
⑥ 過去形肯定 6個
⑦ 過去形否定 6個
⑧ 現在完了形肯定 6個
⑨ 現在完了形否定 6個
⑩ 過去完了形肯定 6個
⑪ 過去完了形否定 6個

……の合計58個を作っていくのです。最初はExcelで作ってデータカードみたいな形にしようかなと思ったのですが、やはりここはプリミティブに手を動かすほうがいいなと思って紙のワークシートにしました。

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でもこうやって作ってみると分かりますけど、上述した58個は同じ形のものが多いんですよね。特に⑦過去形否定を作ってしまったら、あとは単数か複数かが違うだけで全部同じことの繰り返しです。というわけで、臨機応変に動詞の形を作るという点だけ見れば、ポイントは以下のように絞ることができます。

① 現在形肯定を作る…… kpt の変化あり。
② ①の三人称複数(vAtの形)の語幹から第三不定詞(−massa / −masta / −maan / −malla / −matta)と第四不定詞 (−minen)を作る。
③ 現在形否定を作る…… en から eivät まで同じ形の語幹がつくだけ。
④ 命令形を作る……③の語幹を使って単数の肯定と否定、複数は kpt の変化なし。
⑤ 過去形肯定を作る…… kpt の変化あり。
⑥ 過去形否定を作る…… kpt の変化なし。en から ei まで(単数)と emme から eivät まで(複数)の違いあり。
⑦ 現在完了形(肯定と否定)、過去完了形(肯定と否定)を作る……⑥と全く同じ。

つまり、動詞の変化をさせるという点だけで考えれば、せっかく作ったワークシートも上半分だけ埋めればじゅうぶんということになります。もちろん実際に話す場合には、例えば過去完了形の否定だったらちゃんと「 en 〜 eivät + ollut / olleet 」をつけられるかどうかが大切なのですが。

とりあえず今の段階では、動詞の語末のタイプ別( VA とか、STA・LA・NA・RA とか)に「現在形肯定」と「過去形肯定」と「過去分詞」をぱっと作ることができるかどうか……がポイントということでしょうか。答え合わせはこちらの活用辞典を使わせていただいています。とても便利です。

ja.bab.la

不機嫌なSNSについて

何かをはじめる、あるいは何かをやめる。そして、はじめたりやめたりしたその状態を長く保ち続けることができれば「継続は力なり」の「継続」になります。当たり前のことなんですけど、なかなかその力になるほどの継続ができないことのほうが多い。いわゆる三日坊主というやつです。逆に継続して力になってくると、その状態を保たなければ気持ち悪いという心境にいたります。習慣化できた状態とでもいいましょうか。

男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴に絶えきれず、これはもう体を動かすしかないと体幹レーニングや筋トレのパーソナルトレーニングに通いだしてもうすぐ二年になります。最近では週二回程度のパーソナルトレーニングの他に、平日の早朝は「朝活」として職場近くのジムに通っています。最近ではもう、一回でも欠かすとかなり気持ち悪いと思うようになりました。どうやら習慣化は成功したようです。

飲酒も、以前に比べるとかなり減りましたが、全く飲まないというところまでは行っていません。基本的に平日には飲まないというのが定着してきましたけど、あまりに疲れていたり暑かったりすると缶ビールに手が伸びてしまいます。これは酒を飲まないという状態を保たなければ気持ち悪いという心境にはいたっていない、つまりまだ習慣化に成功していないんですね。

SNSは、というより「SNS絶ち」は、だいたい習慣化できたようです。家族や友人との連絡用、つまり純粋なメールアプリとしてしか使っていないLINEとMessengerを除くと、使っているSNSTwitterだけなのですが、これもブログの更新とそのリプライ程度しか使わなくなりました。今ではTwitterで書いたり読んだりしない状態を保つのが心地よくなってきたので、多分このままフェードアウトできると思います。いや、SNSの中毒性というのは思った以上に手強かったです。

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https://www.irasutoya.com/2018/02/sns_12.html

最近はずっと東京の「促イライラ性」とでもいうべきものについて考えているのですが、その流れで書店に平積みになっていた齋藤孝氏の『不機嫌は罪である』を読みました。あわせて齋藤氏が十五年ほど前に書かれた『上機嫌の作法』も読んでみました。この両書はとても似通った内容ですが、最新刊の『不機嫌は罪である』には現代ならではのSNSにおける「新しい不機嫌」について一章が割かれています。

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不機嫌は罪である (角川新書)

齋藤氏いわく「SNSは不機嫌伝達ツールになった」。これは「SNS絶ち」を習慣化しようとしている私にとってはとても腑に落ちる表現でした。確かに、Twitterのタイムラインなど、不機嫌な発言があまりに多いのです。文字数制限のゆえか断言や決めつけや上から目線の発言が多い。もちろんまっとうな意見表明もあるのですが、その多くはいささか「こわもて」であり「自分には正義がある」という雰囲気に満ちています。いや、かつて自分が積極的にツイートしていたときは正にそんな雰囲気でつぶやいていましたから、それを批判する資格などないのですが。

あるいは、そうした断言や決めつけや上から目線や正義の主張でなくても、一種のマウンティングやポジショニングであったり、自己承認欲求が分かりすぎるくらい「だだもれ」であったり……。もともとSNSは、というよりこのブログを含めたほとんどのネット上における書き込みは、それ以前の世界にはあまり存在しなかった極私的な内面世界の発散なんですよね。日記や私小説の公開みたいなもので、ある意味倒錯した行為なんじゃないかと思います。もちろん誰もが自由に発言できるようになったことそれ自体は歓迎すべき変化ではあったのですが。

私は以前からこの「ブログやSNSは本来倒錯した行為」だという感覚から抜けきれず、まずは少しでも独りよがりから脱しようと途中からブログやSNSに書き込む文体を「常体(だ・である)」から「敬体(です・ます)」に変えました。またなるべくネガティブな言辞は書かないこと、批判や批評と悪口は別物であると肝に銘じること、実社会で他人に面と向かって言わないようなことはネットでも書かないことなどを意識してきました。それはそれでうまく機能して、ここ数年は比較的快適にブログやSNSを使ってきたのですが、ここにきて特に、齋藤氏の言葉を借りればSNSの「不機嫌さ」に絶えきれなくなってきたのです。

この本の冒頭にはこんな文章がありました。

現代人は四六時中誰かの不機嫌な言動にさらされ、ちょっとずつ精神を消耗しています。そして自らも、知らず知らずのうちに不機嫌に侵食されてしまっているのです。

う〜ん、この「不機嫌に侵食される」というのはよく分かるなあ。私のような意思の弱い人間は、Twitterのタイムラインをいったん覗いたら、刺激的なツイートに引き寄せられ、そこについたリプライに脈拍数を押し上げられ、その先のリンクを開いて映像を見たり文章を読んだりして、あっという間に時間を費やしてしまいます。有用な情報も多いですが、それを上回る「心騒がされる」情報、本来自分には必要なかった情報も多い。そして「不機嫌」も。そんな空気に長時間さらされていたら、心身も病もうというものです。

齋藤孝氏はSNSをやらないほか、エゴサーチを自分に禁じているそうです。もちろんネット自体は積極的に活用するものの「自分にまつわる情報は避けるよう徹底している」そう。なるほど、著名人の氏ならではですが、著名ではない私たちにも有益だと思います。私も氏に倣って、このブログの更新をTwitterに上げるのを止めて「SNS絶ち」の習慣化をより強化することにしましょうかね。そしてそのぶんの時間で、積ん読になっている本を読むのです。

リアルな「秋の夜長」について

いつも楽しみに読んでいる、東京新聞朝刊の塩村耕氏による「江戸を読む」。今日は「朝夕(ちょうせき)」という言葉が取り上げられていました。江戸時代の日本ではこの「朝夕」が朝晩二回の食事の意味で用いられたのだそうです。一日三食が習慣になったのは江戸時代の中期、元禄の頃だったそうですが、それ以前は一日二食が普通だったんですね。

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私も現在ほぼ一日二食に近い形なので興味深かったのですが、それ以上に面白かったのがかつての人々の時間感覚です。昔は不定時法で、日の出と日の入りを基準にして、昼夜をそれぞれ六等分したものが「一時(いっとき)」でした。つまり夏は昼が長く冬は夜が長かったわけですね。そういえば東京の国立科学博物館でこの不定時法に対応した和時計を見たことがあります。文字盤の「時」を示す表示が手動で調整できるようになっている「割駒式文字盤」が使われているものです(その後自動で調整できるものも登場したようですが)。

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http://db.kahaku.go.jp/exh/mediaDetail?cls=col_z1_01&pkey=1753435&lCls=med_z1_01&lPkey=198056

この時代の時間感覚(間隔)に従えば、「時」を表す文字盤が等間隔で並ぶ(つまり現在の時計と同じ)のは夏と冬が交互に入れ替わる春分秋分だけで、夏は昼間の「時」の間隔が広くなり、逆に冬は夜間の「時」の間隔が広くなります。そして塩村氏によれば「殊に秋の彼岸を過ぎると、夜と昼の長さが逆転し、急に夜の時間進行が遅くなったように感じられる。その感覚を秋の夜長という」とのこと。なるほど、私たちはなんとなく「日が伸びたねえ」とか「夜が長くなったねえ」などと時候の挨拶的な会話を交わしますが、昔の人々はそれをもっとリアルに感じていた・感じられたんですね。

そういえば、むかし九州の熊本で農業の真似事をしていた頃は、日の出とともに目覚めてその日の作業をはじめ、日の入りとともに仕事を終えて焼酎など飲んでいました。畑には照明もないから、日が暮れると自然に作業終了となっちゃう。塩村氏も「くやしいことに時計に支配される現代人には真似るのが難しい」と書かれていますが、たしかに等間隔で「時」を割った世界に生きている私たちにはすでにリアルに感じ取ることが難しい世界があるのです。

不定時法と割駒式文字盤については、こちらのサイトの解説がとても面白くわかりやすいものでした。リンクを張っておきます。

www.543life.com

「開いててよかった」から離れて

この夏、フィンランドでなかば「暮らすように」旅をしていて印象深かったのは、かの地のお店の営業時間が短いことでした。いえ、短いというより普通といったほうがいいのかもしれません。要するに「9時−5時」であったり週末や休日には閉まっているというだけであったりするのですから。でもその普通のことが、日本の、特に東京に暮らす私にとって印象深く思える――ことほどさように、私たちの働き方や暮らし方はかなり特殊なのかもしれないと思ったのです。

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フィンランドにもあちこちにコンビニ(キオスキ)やスーパーがあって、その品揃えや利便性は日本とさほど変わりません。ただコンビニであっても終夜営業というところはほとんどなく(皆無ではないよう)、早朝や深夜などは当然のように開いていませんでした。スーパーも平日はおおむね朝の9時か10時ごろから開き、深夜遅くまで営業しているところは一部のみでした。休日になるとこの営業時間がもっと短くなります。

お店では、たいがい入り口などに営業時間の表示がしてあって、「ma−pe 10:00−17:00 / la 10:00−15:00」などと書かれています。「ma」は「maanantai(月曜日)」、「pe」は「perjantai(金曜日)」、「la」は「lauantai(土曜日)」で、だいたい週末は営業時間が短くなるか、お休みのところが多いようでした。飲食店は逆に週末に長く営業して平日は午後や夜だけとか、色々なパターンを見かけましたが、日本の私たちからすると総じていずこも営業時間が短いなあという印象。でもこれが人間の、本来の働き方のような気もします。

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もうずいぶん前のことですけど、コンビニエンスストア最大手のセブンイレブンで、加盟店のオーナーが人手不足や過労などを理由に営業時間の短縮を申し出るも断られ、それでも短縮を強行して本部側と争いになっているというニュースがありました。結局本部側も現状を一部認めて、営業時間の見直しや無人店舗の導入など改善に乗り出したようですが、私自身は(コンビニが登場する以前の社会を知っているからということもあるでしょうけど)24時間営業なんてしなくていいんじゃないかと思っています。

セブンイレブンの社長・永松文彦氏は雑誌のインタビューに答えて、深夜のコンビニ利用客は全体の1~2割ほどだが、病院や警察、深夜営業の従業員など深夜にしか買い物ができない人にとって24時間営業は大切だと述べています。でも一方で、コンビニ利用客の年齢層が高齢者にシフトしつつあり、その点でも深夜営業や24時間営業の必要性は低下しているという調査もあります。これは意外でした。コンビニといえば若い方々というイメージでしたけど、変わりつつあるんですね。

www.nippon.com

私はフィンランドで、ついつい日本の、それも東京の生活感覚でいたために、コンビニやスーパーなどお店が開いていなくて、あるいは公共交通機関が動いていないか極端に少なくて「困ったなあ」と思った場面がありました。土日はますますその傾向が強まって、予定が狂ってしまったことも。でも冷静に考えれば、いつでもどこでも誰かが自分のためにサービスを提供してくれるという状態のほうが異様なんですよね。そしてあらかじめ「そういうものだ」との意識さえあれば、特段不便だとも思わない(すぐに慣れちゃう)自分にも気づきました。

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また先日は、稽古用の浴衣を買おうと思って、ネットの呉服屋さんで注文したのですが、それがちょうど金曜日の夕方でした。その後そのネットショップから一向に連絡メールが来ないので、私は「なんだよ、このお店は……」と少々不満に思ってしまったのですが、サイトで営業時間を確認してみると、土日や祝祭日はお休みと書いてありました。つまり注文したのが金曜の夜だったので、返事は週明けになるわけです(実際、月曜日の午前中にメールが来ました)。

そりゃそうですよね。Amazonなど大手ネットショップはすぐにレスポンスがありますが、個人営業や中小企業などのサイトは、いくらネットショップだからと言ってもスタッフだってお休みしなきゃなりません。Amazonみたいな対応に慣れちゃってそれがデフォルトになっちゃってますけど、それはもともとかなり特殊な状態なんですよね。くだんの呉服屋さんのようなまっとうな、「人間味」のある営業スタイルを想像できなかったくらい、私も昔懐かしい(というより忌むべき?)「24時間戦えますか」的マインドに染まっていたわけです。

かつてフリーランスで翻訳の仕事をしていた頃は、金曜日の夕方に原稿を送ってきて「月曜日の朝イチで納品をお願いします」というクライアントに、内心「翻訳者には週末や休日がないとでも?」などと憤慨していたというのに。いやはや、まことにお恥ずかしい限りです。

知らぬはオヤジばかりなり

先日の東京新聞朝刊「本音のコラム」で、斎藤美奈子氏が「知らぬはオヤジばかりなり」と書かれていました。小学館の『週刊ポスト』が「韓国なんていらない」という特集を組み、「怒りを抑えられない『韓国人の病理』」などの差別を助長する記事の掲載で批判が集まっている件をはじめとして、大手マスコミが嫌韓報道に血道を上げる現状を異常だと指摘し、その元凶に「嫌韓感情を煽る政治家と文化に疎いオヤジ系のメディア」を挙げています。

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嫌韓感情を煽る政治家」は老若男女いずれにもいますし、政治家以外の老若男女にも(残念ながら)あまねく一定数が存在します。一方の「文化に疎いオヤジ系のメディア」は『週刊ポスト』に代表される週刊誌をよく読んでいるような、まさに「オヤジ」たちの価値観なり世界観なりものの見方考え方なりを反映したくくり方だと思います。

でもコラム冒頭の「知らぬはオヤジばかりなり」と合わせて読んでみれば、政治家にせよ、出版人・放送人にせよ「三度目の韓流ブーム」の現状を知りもしないで視野の狭い嫌韓感情を拡散しているのは「オヤジ」たちだというカテゴライズの上での批判が読み取れます。そしてその対極にいるのは市民、なかんずく「オンナコドモ」であると。

斎藤氏があえて「オンナコドモ」とカタカナ書きの呼称をご自身をも含む人々の総称として使われたのは、もちろん「オヤジ」たちの旧態依然たる価値観を揶揄してのことですよね。総じて軽んじた、上から目線で使われることの多い「女子供」。それを使う「オヤジ」たちよりも、よほどフラットで公平な価値観を「オンナコドモ」は持っているぞと。

私自身はその「オヤジ」ど真ん中に属する人間なのですが、斎藤氏が挙げているK-POPも韓国グルメも韓国文学も大好きなので(オルチャンやコスメにはちょっと疎いけど)、一読、一緒にしないでほしいなあと思いました。でも一方で、たしかにこの国は(韓国もそうかも知れませんが)固陋な「オヤジ」、あるいは「オヤジ的価値観」が依然のさばっているなとも思うのです。

上述の『週刊ポスト』を私も読んでみました。週刊誌なんて買ったのは本当に十何年かぶりでしたが、改めてその「オヤジ」目線に驚きました。というか、一種の嫌悪感さえ抱いてしまいました。率直に申し上げて気持ち悪い。くだんの特集もさることながら、巻頭や巻末のセクシーグラビア、ゴシップとスポーツと“黒社会”、ゼニカネに、中高年男性の身体の悩み……私はこの雑誌を混雑した電車内で開く蛮勇は持ち合わせていません。

こうした固陋な、旧態依然たる、昭和の価値観を今に引きずる「オヤジ」がのさばる社会は、いずれその高齢化と引退によって変わっていくのでしょうか。そう願いたいところですけど、じゃあその後に控える私たちや、さらに若い世代の人々、特に男性に期待できるかというと、やや心もとないです。

家事や育児ひとつとっても、日本の男性の参加率は各種の調査で軒並み先進国最低レベルだそうですし、政治や行政における女性の参画も、日本はかなり立ち遅れています。もちろん、若い世代の方々の中には胸のすくようなフラットで公平な感覚を持っている方もいます(私の周囲にもいて、とても眩しく仰ぎ見ています)が、その一方で「オヤジ」的価値観をしっかり受け継ぎ、再生産しているような方もけっこういる。

私の友人の、そのまた友人の話ですけど、彼女の夫はこの典型的な「オヤジ的価値観」の体現者で、共稼ぎなのに家事は一切担当しないそうです。先日など、彼女が仕事で遅くなり、それでも夕飯を作ったものの、後片付けまで手が回らずに寝てしまった由。そしたら夜中に夫に起こされたそうです。夫いわく「まだ洗い物が残ってるよ」。

う〜ん。これが一般的な状況だとは思いませんけど、似たような話は他にも聞きますし、ネットで上でもよく見つかります。こういう話を見聞きするにつけ、「オヤジ」的価値観の一掃はなかなか難しいのではないかと思うのです。どうやったら、この体たらくから脱出できるんでしょうね。

「エレガントで、丁寧で常に笑顔」な日本人

最近、都営地下鉄に乗ると、車内のスクリーンで「都営交通」の宣伝映像を見かけることがあります。著名な国際的写真家グループである「マグナム・フォト」に所属する写真家、ゲオルギィ・ピンカソフ氏の写真と、氏へのインタビューをもとにしたスクリプトが投影されるものです。

project-toei.jp
youtu.be

この国の人はデリケートだと思います。親切で、丁寧ですね。弱いものを守る精神があります。それはとても感じます。人はとてもオープンで、素直ですね。そういう意味では、日本の社会を羨ましく思います。ここにいると自分自身も変わり始めて日本人のようにエレガントで、丁寧で常に笑顔ですね。

う〜ん、どうかなあ。あまりネガティブなことは書きたくないですけど、ここまで称賛されると、私などはちょっと引いてしまいます。ピンカソフ氏ご自身にそんな意図はまったくないであろうことは十分に想像できますが、毎日人々のイライラが充満したような電車に乗って通勤している身としては、ちょっと素直には受け止められないのです。

いえ、たしかに私たちは「デリケート」なんです。だからこそあの殺人的な混み具合の電車内においてさえ、ほとんど息を殺すようにしてその不快さに耐え、だれも不満を口にしません。その意味では「親切で、丁寧」でもあるのかもしれません。だけどそんな自己抑制に耐えきれなくなって、思わず暴力を振るっちゃう方が絶えない(だからこんな「人をぶっちゃだめなんだよ」という広告さえ作られる)のもまた私たちの実情なのです。その意味では「オープンで、素直」とはとても言えないじゃないですか。ましてや「羨ましく思」われるなんて。あ、オープンで素直だから思わず「人をぶっちゃ」うのか……。

ごめんなさい、嫌味が過ぎました。そうは言っても私は、日本のある種の「秩序」をとても好ましく思っているのです。行列や電車の乗降口に並ぶ律儀さ、赤信号をきちんと守ろうとする従順さ、大地震の翌日でも会社に向かおうとするバカ真面目さ……日本人に「公徳心」が失われて久しいなどとおっしゃる向きもあろうかと思いますが、諸外国と引き比べてみれば日本のそれはかなり高いレベルでなお維持されていると思います。それは認めざるを得ない。

だからピンカソフ氏の称賛を、多少は面映ゆく思いながらも素直に受け止めればよいのですが、やはり私は最初にこの広告に接した時、どうしても「どうかなあ」という思いを抑えきれませんでした。それは最後の「日本人のようにエレガントで、丁寧で常に笑顔」という一節にとどめを刺されます。私は今の日本人に(というより東京の日本人に限定したほうがいいのかもしれませんが)何より乏しいのが「エレガントさ」であり、なにより「笑顔」であると思うからです。

……と、ここまで書いて改めて思いました。エレガントさと笑顔に欠けているのは、自分なのです。ピンカソフ氏は日本で自分自身が「日本人のようにエレガントで、丁寧で常に笑顔」に変わるのを感じたそうですが、同じ環境に身を置いていながら彼我のこの差は一体どうしたことなのでしょうか。

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