インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

スマホは「誰かに消費される」ためのツール

以前、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト』という本について文章を書きTwitterにも感想をつけて投稿したら、出版元の方から「この感想を本の帯に使わせていただけませんか」と連絡がありました。そこで「どうぞお使いください」とお返事したところ、先日出来上がったその帯をわざわざ送ってきてくださいました。早川書房さん、ごていねいにありがとうございます。

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感想に書いた通り、この本を読んで私は「よりよい人生とは、人間らしい暮らしのあり方とは」と以前にもまして考えるようになりました。なにしろつい最近までの私は、スマホSNSに心も時間も持って行かれていて、それこそこの本の副題のように「本当に大切なことに集中」できていなかったのです。そういえばこの新しい帯(全面帯)では「本当に大切なことに集中する」という副題のほうが大きく印刷されていますね。たぶん「ミニマリスト」ないしは「ミニマリズム」よりも、よりこの本の本質を突いているからではないかと思います(原題は“Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World”)。

Twitterは現在でも利用しているのですが、自分からつぶやいたり、他の方のつぶやきに乗っかってつぶやくことはなくなりました。ブログの記事を流すのと、そこにいただいたコメントにお返事を返すだけです。その他のSNSは一切やめてしまいました。スマホ自体も使う頻度が減り、特に電話やメッセージアプリはほぼ家族とのやり取りにしか使わなくなりました。特に音声の電話はかかってくるのもかけるのも大の苦手なので、iPhoneのおやすみモードなどを使って、プライベートな時間には一切の通知が来ないようにしました。スマホのアプリも必要なもの以外整理して、もはやホーム画面はこんな感じです。

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こうなると、もうスマホじゃなくてもいいような気さえしますが、ブラウザでの検索はそこそこやりますし、地図機能や移動の経路案内などが便利ですし、それに語学系のアプリは常に使っているので、まあこんなところかなと。

それにしても、スマホSNSというのは、この本でも触れられている通り、徹底してわれわれに何かを消費をさせるように作られている仕組みなんですね。動画視聴やゲームなどはとてもわかりやすい「他律的な消費のされ方」ですが、何かを調べようという自律的な検索だって、よほど気をつけていないとあちこちのリンクに飛んでしまい、「注意経済(アテンション・エコノミー)」に取り込まれてしまいます。それほどネット上には私たちの「注意」を喚起する「経済(お金儲け)」が溢れてる。いまほど私たちの自覚が試されている時代はないんじゃないかと思います。

最近「若者のパソコン離れ」という話をよく聞きます。スマホで何でもできてしまうのでパソコンを使う必然性がなくなってきたとか、貧困化でそもそもパソコンが買えないとか、ちょっと検索すればネット上には様々な分析が見つかります。確かに、私が勤めている学校の留学生諸君にも、キーボードのタイピングができないとか、パソコンのソフトが使えないといった方はけっこういます。その一方で課題のプレゼン資料をスマホだけで作って提出してくる、老眼の私にはちょっと信じられないような留学生もいます。

私自身がスマホの多様な機能をそれほど使いこなしているわけではないので、あまり断定的なことは言えないのですが、基本的に消費のツールであるスマホしか使わず(使えず)、生産のツールたるパソコンを使わない(使えない)というのは、長い目で見るとかなりまずいことになるんじゃないかなと思います。先日読んだこちらの記事では「経済協力開発機構OECD)の調査によれば、日本の16歳〜24歳までの若者のパソコン利用頻度は、OECD加盟国中最低水準だったことが明らかになるなど、若者のパソコン離れが深刻化しています」と書かれていました。

……う〜ん。確かに、学生時代に「やっつけ」で課題の提出をするくらいならスマホでも可能でしょうけど、社会に出て仕事をする段階になってもパソコンが使えないというのはけっこう深刻な問題かもしれません。

フィンランド語 52 …格変化の練習・その6

前回までで単数・複数すべての格(具格・共格・欠格は除く)が出揃ったので、教室でも単語を与えられてすぐにすべての格変化を作る練習がありました。出来上がったら先生の所へ持って行って添削してもらうのですが、やはりどこかしら間違えていることがほとんどです。先生からは格変化のさせ方について詳細な手順表(「アンチョコ」みたいなもの)をもらいました。

でも結局は数をこなすことかなと思って、自分でワークシートを作り、格変化の練習をしています。ただ、ひとりでやっていると正解かどうかをチェックできないので、ネットで色々探してこちらのテンプレートにたどり着きました。ここにあるのは名詞だけですが(フィンランド語は形容詞なども格変化する)、様々な語尾のパターンが載っていてとても助かります。

en.wiktionary.org

当面は個々にある名詞をどんどん格変化させていく練習をしようと思います。この格変化は、これまで学んできた「語幹の求め方」や「kptの変化」などが総動員され、あちこちに落とし穴というかチェックすべきポイントがあるので、けっこう大変です。フィンランド語の母語話者はこれが自然にできちゃうんですから、すごいですね(まあそれが母語話者というものですが)。

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それから、名詞・形容詞・代名詞の連動も練習しました。例えば「tämä pieni kissa(この小さな猫)」だったとしたら……

単数 複数
主格 tämä pieni kissa nämä pienet kissat
属格 tämän pienen kissan näiden pienin kissojen
対格 tämän pienen kissan nämä pienet kissat
分格 tätä pientä kissaa näitä pieniä kissoja
内格 tässä pienessä kissassa issä pienissä kissoissa
出格 tästä pienestä kissasta näistä pienistä kissoista
入格 tähän pieneen kissaan näihin pieniin kissoihin
所格 tällä pienellä kissalla näillä pienillä kissoilla
離格 tältä pieneltä kissalta näiltä pieniltä kissoilta
向格 tälle pienelle kissalle näille pienille kissoille
変格 täksi pieneksi kissaksi näiksi pieniksi kissoiksi
様格 tänä pienenä kissana näinä pieninä kissoina

……と千変万化させていくわけです。あああ、さすが「悪魔の言葉」。まあ実際には、ほとんど使いそうにない表現もありますけど、文法上はこうなるということで、これらを瞬時に作ることができなければならないわけです。

しかもこの代名詞ですが、例えば「tämä(この)/nämä(これらの)」が格によってこれだけ変化していても……

単数 複数
主格 tämä nämä
属格 tämän näiden
対格 tämän nämä
分格 tätä näitä
内格 tässä issä
出格 tästä näistä
入格 tähän näihin
所格 tällä näillä
離格 tältä näiltä
向格 tälle näille
変格 täksi näiksi
様格 tänä näinä

……日本語にすれば単数は全部「これ」で、複数は全部「これら」でしかないんですよね。……あああ。

「マシン」と「フリーウェイト」の違い

ジムとかフィットネスクラブに通ってらっしゃる方はご存知だと思いますが、こうした施設、それも規模の大きな施設にはおおむね三つから四つくらいのエリアがありますよね。筋トレなどを行う「ジム」、水泳などを行う「プール」、ヨガやエアロビクスみたいなのを大勢が一斉に行う「スタジオ」、そしてトレーニング後に汗を流す「スパ」です。

私はもっぱら「ジム」と「スパ」ばかり利用しているのですが、この「ジム」にも私見では特徴が大きく異なると思われる二つのエリアがあります。それが「マシン」エリアと「フリーウェイト」エリアです。ジムといえば奇妙な形をした様々な「マシン(器械)」がずらっと並んでいて、体の部位ごとに鍛えられるようになっています。肩を鍛えるもの、胸を鍛えるもの、背中を鍛えるもの……中には、内股だけを鍛えるものとか、上腕の後ろ側だけを鍛えるものといった特殊なものもあります。あと、ランニングマシンみたいなのもありますね。

十年以上前、とあるフィットネスクラブに通っていたときは、「ジム」の「マシン」のみを使ってトレーニングをしていました。でも、まったくの自己流だったこともあって、一年半ほど通っても運動不足解消という程度でほとんど効果がなく、筋肉もつかなければお腹も凹みませんでした。そのフィットネスクラブにも「フリーウェイト」エリアはあったのですが、当時の私には怖くて異様な(失礼)場所に見えました。

なにせ「もうそれ以上鍛えなくてもよかないですか」と言いたくなるくらい筋骨隆々とした、しかも尋常じゃないほど日焼けした肌の、それもピタピタのタンクトップ or ブカブカのタンクトップ(乳首見えてる)とボクシングのチャンピオンベルトみたいなぶっといベルトをお召しになった方々が「はぁっっっ!」とか「ふんぬっっっ!」などの奇声を上げつつ、これまた尋常じゃないほどのウェイトを持ち上げていらっしゃるのです。そのフィットネスクラブの「主(ぬし)」的な方々が集っていて、とてもじゃないけど近づけない雰囲気でした。

しかも「フリーウェイト」は、単にダンベルやウェイトがずらっと並んでおり、自分でバーなどと組み合わせてウェイトを決め、使うので、素人にはどうやって使ったらいいのか、どのくらいの重さを選べばいいのか、まったく分かりませんでした。フィットネスクラブのスタッフや「フリーウェイト」エリアでトレーニングしている方に聞けば教えてもらえたはずですが、極度に人見知りな私は、前述の異様な(たびたび失礼)雰囲気も相まって、ついに足を踏み入れることはありませんでした。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_49.html

それから随分経って、男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴に悩まされ続けた結果通い始めた「治療院兼ジム」のパーソナルトレーニングで、こうした「フリーウェイト」エリアにある器材の使い方をひとつひとつ教わりました。教わってみて初めて分かったのですが、こうしたウェイトは単に上げ下げすればいい、動かせばいいというものではなく、実に細かい注意すべきポイントや使い方のコツのようなものがたくさんありました。

そしてウェイトトレーニングは、それも私のような中高年のそれは、重さよりもむしろ使い方、つまりフォームが一番大切なのだということも分かりました。正しいフォームで使わなければ、効果が少なく筋トレにもならないのだと。こういうことは、やはりプロに教わらなければ分からないんですね。市販の筋トレ本などでも細かい記述がありますが、個人的にはあれではとてもじゃないけど正しいフォームを理解できないような気がします。トレーナーさんがそばにいて「今はここを意識して、こう動かしてください」と身体の部位に触れてもらいながら教わることが必要なのです。

そうやって正しいフォームを覚えた上で、フィットネスクラブの「マシン」に戻ってみると、面白い発見がありました。「マシン」では、正しいフォームが作りにくいのです。器械の種類にもよりますが、例えば「フリーウェイト」のベンチプレスと同じような荷重を再現する器械では、肩甲骨を寄せ、脇を締め、胸の中心に向かって絞るように押し出す(これ、言語化するのがかなり難しいです……)といった一連の動きがしにくい。それをパーソナルトレーニングのトレーナーさんに言ったら「そうですね、まあ器械は誰でも簡単に使えるよう設計されている反面、細かいフォームの調整はやりにくいかもしれません」というお答えでした。なるほど。

そういう視点でトレーニングの合間に周囲の方を観察してみると、マシンを上手に使って効果的な負荷のかけ方をされている方もいれば、そのマシンで狙うべき筋肉にほとんど負荷がかかっていない方もいます。そう、プロのトレーナーでも何でもない私にさえ、人さまのフォームの良し悪しが分かるようになりました。これはやはりトレーナーさんについてもらいながら「フリーウェイト」で筋トレを続けてきたからだと思います。

SNSなどでのポジティブな発言で人気の Testosterone(テストステロン)氏は、確かその著書で「ボールはともだち(©︎キャプテン翼)」ならぬ「ダンベルはともだち。人間は裏切ることがあるが、ダンベルは裏切らない」という至言を残されていたように記憶していますが、ホント、その通りだなあと思いました。「フリーウェイト」エリアのダンベルやバーベルを使っての筋トレには重力だけが厳然と立ちふさがって逃げ場がないですけど、「マシン」エリアの器械には逃げ道がけっこうある(筋肉に効いていないトレーニングができてしまう)からです。

さよなら通訳業

先日、今年最後の「ミッション・インポッシブル」を終えました。とある理系学会のシンポジウムでの通訳です。私は根っからの文系人間なので、数値や数式や技術用語が飛び交う理系のお仕事はまるっきりの門外漢で(文系のお仕事だってそのほとんどが門外漢ですけど)、ちょっと手に負えないくらい内容が難しいです。でもこのシンポジウムは、もう五年ほど連続してお仕事をいただいています。

この仕事は、とあるエージェント(通訳者の派遣業者)からの「ご指名案件」です。でもこれは極めて珍しいケースで、通訳業界は(ここでは中国語の通訳業界を指します。他の言語の状況はあまりよく知りません)ここ数年「仮案件&リリース」がデフォルトの世界になっており、フリーランスには極めて働きにくい環境になりました。それでは食べていけないので、私は通訳以外の固定業務をなるべく入れて収入を確保しようとする→ますますフリーランスとしての単発の仕事が受けにくくなる……という負のスパイラルに。

この「仮案件&リリース」については、以前に記事を書いたことがあります。「仮案件」とはクライアントが複数のエージェントに「相見積もり」や「入札」という形で通訳業務を委託するため、正式に落札するまで通訳者に日程を仮押さえしてもらう案件のこと。「リリース」とは相見積もりや入札の結果「失注」してしまって、エージェントから「今回のオファーはなかったことに」と通訳者に連絡が入ることです。

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実際今の私は、すでに専門学校などに定職を得て、時間が固定された業務が仕事のほとんどを占めており、先日のような通訳業務はたまにしか受けない(たまにしか受けられない)ような状態になっています。ふだんエージェントからメールで届く「仮案件」オファーは、固定の業務と重なることがほとんどなのですべてご辞退申し上げています。結果、今年私が受けた数少ない通訳業務はすべて「ご指名案件」かクライアントからの「直受け案件」だけでした。

かつて通訳学校に通っているとき、クライアントからの「直受け」は業界のご法度だと教わりました。仕事はすべてエージェント経由で受けること。仕事の現場でもクライアントの担当者にはエージェントの会社名が入った名刺を渡すこと。これは、クライアントと通訳者が「直受け」でダイレクトにつながることを防ぐためです。

いえ、これは決してエージェントの中間マージンを確保することだけが目的ではありません。これによって通訳料金のダンピングを防ぐ、つまり通訳者自身が自分で自分の首を絞めないようにするという側面もあったのだと私は理解しています。また通訳者が数多くのクライアント企業に個人営業をかけるのも大変ですから、派遣会社として仕事を獲得してきてくださるエージェントの存在はとても大きな支えになります。要は「持ちつ持たれつ」ということですよね。

ところがここ数年で、この世界には破綻が訪れつつあります。すでにエージェントからの案件はその99.9%が「仮案件」で、「リリース」になっても、よほどのことがない限り(本番前日にリリースとか。エージェントによって規定は違います)賃金の補償はありません。なかには一斉メールで登録通訳者全員に仕事のオファーを出し、採用者以外には当日まで一切の連絡をよこさないというブラックなエージェントまで登場しました(下記の記事をご参照ください)。「持ちつ持たれつ」だったエージェントと通訳者の信頼関係が失われつつあるのです。

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それでも良質なエージェントは地道に営業を重ねてクライアントから仕事を受注し、通訳者にオファーをくださるのですが、いかんせんそのほとんどすべてが「仮案件」であっては、それに毎回対応していけるフリーランスの通訳者はどんどん減っていくのではないでしょうか。エージェントはエージェントで、クライアントの「相見積もり or 入札」攻撃で苦しんでらっしゃるのは重々承知してはいるのですが。またそのクライアントにしても、厳しい経営環境の中で経費削減などを迫られた結果、そういう発注をせざるを得ないという状況も分からなくはないのですが。

もちろんどの業界にもほんの一握りの「ハイエンド」に属する方々はいらっしゃいますから、そういった方はこんな状態の業界でもきちんと高品質のお仕事をして、それに見合う報酬を得てらっしゃると思います。でも私のようなハイエンドではない二流・三流の通訳者がフリーランスでは食べていくのはかなり難しい……。

そんな私が通訳学校で教えているというのも、生徒さんには失礼な話かもしれません。だから私も最近は、学校でもフリーランスを目指そうなどとはとても言えなくなりました。むしろ企業に職を得て、インハウス(社内通訳者)として活躍したほうがよいかもしれませんよと。業界によっては、優秀な社内通訳者が足りなくて困っているというお話も漏れ伝わってきていることですし。フリーランスを目指すにしても、いきなり会社を辞めちゃうなんてことはしないようにと言ってきました。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_716.html

私は、本当は優秀なフリーランス通訳者が一定数必要だと思っています。AIが急速に進化しつつある現在でも、複雑な交渉や討論の場所ではまだまだ機械は十全に通訳をこなせません。知の最先端でも、学際的な交流でも、あるいは政治や経済の場での国益の確保という点からも、優秀な通訳者は当面必要とされます。でもこの国では「ほぼモノリンガルで社会を回していける」というある意味大変幸福な状態の副作用として、言語を扱う業務に対する評価があまりにも低すぎるのです。

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これまでは、私も存じ上げている数多くの優秀な中国語通訳者が日本社会で活躍してきました。今も活躍を続けている方はいらっしゃいます。でもその後進は育っているのでしょうか。これから育っていくのでしょうか。昨年亡くなった塚本慶一氏もおっしゃっていましたが、現状を鑑みるに、私もかなりネガティブな結論を導き出さざるをえません。

日中間の「パイプ」を育成 塚本慶一教授_人民中国

今回の「ミッション・インポッシブル」では、会議が終わって青息吐息の私に、日本の参加者が「この分野のご専門は長いんですか」とか、台湾の参加者が「とても整った通訳でした」とか、身に余るありがたい言葉をかけてくださいました。そんな言葉に接すると、ついまた頑張ろうなどと思いますけど、でももうこのあたりが潮時かなとも思います。人生百年時代なら、セカンドキャリアも考えなきゃいけないですしね。

そんなことをつらつらと考えていたら、ここ数日はビリー・ジョエルの『さよならハリウッド』が脳内で「ヘビロテ」しています。

So many faces in and out of my life
Some will last, some will just be now and then
Life is a series of hello’s and goodbye’s
I’m afraid it’s time for goodbye again

年が明けたら、登録しているエージェントにご挨拶して、少なくともエージェント経由の通訳業務は「廃業」しようかなと考えています。

あの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い

「レジ袋、いりません」
「その薄いビニール袋も、いりません」

スーパーでお買い物をする際、マイバッグを持参してレジ袋を辞退したのもつかの間、肉や魚のパックを一つ一つ「薄いビニール袋」に入れて下さろうとするレジ係の方との熾烈な「攻防」を繰り広げてきたわけですが。

qianchong.hatenablog.com
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まあ何ですね、いくらレジ袋を辞退したって、マイバッグに詰め込む食品の多くはスチロール製のトレーにラップフィルムがかけられているとか、プラスチックフィルムで包装されているとかで、ちっともプラスチックゴミの削減には貢献できていないよう気はします。が、それでもヨーグルトは紙パックのものを選んで買うとか、野菜はバラ売りのものをそのままマイバッグに入れるとか、自分なりに「努力」してきたわけです。

ところが、先日の東急ストアで特売のブロッコリーひと株158円を「裸」のまま買い物かごに入れた私が対峙したレジ係のおばさんは、強の者でした。私の「レジ袋、いりません」と「その薄いビニール袋も、いりません」攻撃をものともせず、「あらでもブロッコリー崩れちゃいますから〜」とご親切にも「薄いビニール袋」に入れてくれようとするのです。

「いえいえ、大丈夫ですから」
「でも、本当にお野菜がね、崩れちゃいますから〜」
「本当に大丈夫です。ビニール袋、もったいないですので」

というようなやりとりを経たのち、そのレジ係のおばさんは、強情な私に憤慨したかのように、なかばキレ気味な勢いで、すでに手にしていた「薄いビニール袋」をバン!とカウンターに叩きつけ、POS作業に戻って行かれました。

う〜む……マイバッグを持参するという行為はすでにかなり社会的な認知を得てきており、レジには「袋はいりません」の意思表示をするためのカードまで用意されているほどだというのに、あの「薄いビニール袋」におけるこのハードルの高さはいったい?

学校の同僚である英国人講師は、こうした「薄いビニール袋」のサービスについて、「僕はさっき、ビニール袋いらないと言いましたよね?」と笑顔で、しかし強い語調で詰め寄るのだそうです。私はそこまでの勇気がないので、こうしてモヤモヤした気持ちを抱えながらブログの文章をしたためているというわけです。

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https://www.irasutoya.com/2015/12/blog-post_272.html

グレイヘアと生きる

先日髪を切りに行きまして、白髪染めもやってもらいました。もう十年以上も同じお店に通い、同じ方に切って染めてもらっています。この方は、私が椅子に座ってまったく何も言わなくても「いつものとおりですね」とやってくださる。子供の頃から理髪店に行くのが大嫌いで、どんな髪型にしてほしいのかを説明するのも大の苦手だった私には、本当にありがたいです。

髪を切るのは約一ヶ月に一回で、染めるのは二ヶ月に一回です。もうずいぶん前から白髪が増えてきて、染める直前に切ってもらった髪を見ると、後頭部や側頭部はまだ「ごま塩」状態ですが、頭頂部はかなり「行っちゃってる」。だいたい七割くらいは白髪なんじゃないでしょうか。これまではこの白髪を全部染めてもらっていたのですが、先日はふと思いついて「これを染めないでおくと、どんな感じになりますか?」と聞いてみました。

「そうですねえ。頭の後ろや横と、てっぺんとで、白髪の量がかなり違うので『ふぞろい』な感じになりますかね」
「そうすると、やっぱり染めたほうが?」
「いや、最近はそういう方のための新しい白髪染めもできています」

おお、それは耳寄りな情報です。お店の方いわく、白髪を完全に染めちゃうんじゃなくて、まだ黒い部分とのコントラストを抑える方向でグレーに染めるようなヘアカラー(白髪染め)があるのだそうです。それで帰ってからネットで「白髪 活かす カラー」などのキーワードで検索してみたら、こんなウェブサイトがありました。

www.bestsalonreport.jp

なるほど、ここに紹介されているのは女性のヘアカラーばかりですが、自分の想像を超えたいろいろな選択肢があるんですね。そう思っていた矢先、ぶらっと立ち寄った書店でこの本を見つけました。近藤サト氏の『グレイヘアと生きる』です。おおお、何というシンクロニシティでしょうか。

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グレイヘアと生きる

一読、共感の嵐でした。ほぼ同世代の近藤氏が語っていることが、ひとつひとつ腑に落ちるのです。特に人々の多様性、価値観の多様性という観点。なぜ黒髪が若さ=善きもの、白髪は年寄り=悪しきものと考えねばならないのかと。年相応のあり方があっていいし、染めたい人は染めればいいし、なんならもっと他の色を楽しんでもいい。もとより世界中には様々な髪の色があり、皮膚の色がある。

そんな当たり前のことを自分もわかっているつもりでいながら、例えば私は、自分本来の髪の毛であっても真っ黒に染めさせるなどといういわゆる「ブラック校則」に心の底から憤慨する一方で、当の自分はその「一色に染めあげる」価値観から逃れられていなかったわけです。

この本は主に女性向けに書かれていますので、ファッションやメイクやアクセサリーについてのアドバイスは人によってはあまり関係がないかもしれませんが、中高年の生き方を考える上ではとても示唆に富んでいます。決めました。私も氏に倣って「白髪革命」に加わりたいと思います(もっとも私みたいなオジサンが白髪になるってのは別に女性ほどの勇気もいらないし、周囲もまったく興味ないでしょうけど)。数カ月後がたのしみです。

通訳の訓練「だけ」していれば通訳が上手になるか

今年も残すところあと数週間。年が明けても学校の授業はほぼ1月中旬から始まり、程なく卒業のシーズンを迎えるので、実質的な授業日数はもうそんなに残っていません。2年前の春に入学してきた留学生のみなさんも、就職先や進学先が徐々に決まり始め、より一層学業に身が入る……かと思いきや、必ずしもそうでないのが人の世の常。

もちろん変わらず勉強や訓練を頑張っている方もいますが、その一方でここに来て学習意欲が明らかに減退してしまう方も結構な割合で出てきます。もう進路が決まっちゃったから学校の授業はテキトーでいいや、ということなのかもしれません。逆に進路がぜんぜん決まらないのでこれ以上日本にいることはあきらめて、国に帰ろうと思い始めているのかもしれません。あるいは日本での生活に慣れきってしまって、いわゆる「中だるみ」状態になっているのかも。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post.html

もうひとつ、これは毎年数名から必ず聞かされる「苦情」なのですが、「通訳や翻訳の訓練をもっとやりたいのに、その時間が少なすぎる」というのがあります。それが不満で、だんだん学校に来なくなっちゃう。「私は(通訳や翻訳の訓練以外の)こんなくだらないことをするために入学したんじゃない」というわけです。

確かに、うちの学校は通訳や翻訳の訓練のほかに、ビジネス日本語やプレゼンテーション、歴史や地理や時事問題、さらには法令の基礎知識みたいな「教養系」の授業もたくさんあります。通訳や翻訳の訓練だけやりたいという方にとっては、そういう授業が無駄に思えるんですね。とは言っても、こうしたカリキュラムは入学案内にも載っていて、入試の面接でも説明し、それを理解した上で入学してきているのですから、何をいまさら、という感じではあるのですが。

しかし私はこの「通訳や翻訳が上達するためには、通訳や翻訳の訓練だけやればいい」という考え方に、興味をそそられます。確かに「量は力なり」で、訓練を積めば積むほど技術が上達するはずだという考えは私も否定しません。やらないよりはやったほうがいいし、それもたくさんやったほうがいいに決まっています。でも通訳や翻訳の「訳出(やくしゅつ)」だけ訓練していて、本当に上達するのでしょうか。あるいは、訳出だけを行う(他は一切行わない)などという通訳や翻訳の訓練があり得るのでしょうか。

何をバカなことを、と思われるでしょうか。民間の通訳学校だって、授業時間のほとんどは訳出の訓練を行っています。訳出の数をこなすことなくして何の通訳翻訳訓練ぞ、と言われるかもしれません。しかし私はこれ、どこか短絡的な思考のように思えるのです。

現場で通訳や翻訳をなさっている方、あるいは通訳や翻訳の教育に携わったことがある方なら、たぶん同意してくださるのではないかと思うのですが、通訳や翻訳という作業に必要なのは、おそらく通訳や翻訳そのものの技術や語学力だけではありません。もちろんそれらは充分に備わっている必要がありますが、それ以外に広く浅い(広く深ければより良いですが、それはなかなか難しいので)雑学知識や世間知のようなもの、社会の中で様々な人と出会いコミュニケーションしてきた人生経験、文学や芸術や科学などの知識や教養……そういったものが訳出を大いに後押しし、豊かで分厚いものにしてくれる。私はここを軽視すべきではないと思っています。

だからこそ大学などにはリベラルアーツのカリキュラムが設定されているのであり(最近はけっこう疎んじられているとも聞きますが)、うちの学校でも訳出以外の様々な科目を設けて、社会に出た時に少しでも役立つようにとカリキュラムを組んでいるのです。

これは通訳や翻訳に限らず、語学(母語以外の外語を学ぶこと)に話を広げても同じような気がします。現在の日本は幼少時からの「早期英語教育」に傾倒しつつあり、一部には「役に立たなさそう」な文学や哲学なんかよりプログラミングや情報処理能力を高める「論理国語」など実用的な科目を強化すべきだという意見もあるようですが、語学の深い学びを下支えするのは実は豊かな母語であり、その豊かな母語によって醸成される教養なのではないかと私は思います。

フィンランド語 51 …格変化の練習・その5(複数属格)

一冊目の教科書も最後の章に入って、複数属格を学びました。複数属格は、先に学んだ複数分格から作るのですが、その前に単語の辞書形(単数主格)からいきなり作ってしまう特殊なパターンを確認しました。

● i で終わる外来語……単数主格に en をつける。
bussi(バス)→ bussien
vaari(バー)→ baarien

● us, ys, os, es で終わる単語……単数主格に ten をつける。
mies(男)→ miesten
vihannes(野菜)→ vihannesten

これ以外は複数分格から複数属格を作ります。複数分格の語尾によって、それぞれの複数属格ができ上がります。

● jA を jen に。
vanha(古い)→ vanhoja(複数分格)→ vanhojen
laiva(船)→ laivoja(複数分格)→ laivojen

● iA を ien に。
pitkä(長い)→ pitkiä(複数分格)→ pitkien
pöytä(船)→ pöytiä(複数分格)→ pöytien
※この pöytä の複数属格 pöytien は面白くて、属格なのに「kpt」の変化をさせません。これは「kpt」の変化をさせない複数分格がベースになっているからですね(✗pöydien)。他の単語も同様です。

● itA を iden に。
pimeä(暗い)→ pimeitä(複数分格)→ pimeiden
kahvila(喫茶店)→ kahviloita(複数分格)→ kahviloiden
※ ri で終わる「人」を表す言葉(全て外来語だそうです)の複数分格は ri を reitA にという特殊な変化をするので、複数属格はこの itA → iden パターンになります。
naapuri(隣人)→ naapureita(複数分格)→ naapureiden
lääkäri(医師)→ lääkäreitä(複数分格)→ lääkäreiden

基本的にこの3パターンですが、ひとつ例外があって、それは語幹が「le, ne, re, se, te」で終わる場合だそうです。この場合は複数分格を作らず、語幹に ten をつけて e を消します。
ihminen(人間)→ ihmise(語幹)→ ihmisten
pieni(小さい)→ piene(語幹)→ pienten
※ただし、uusi(新しい)のように語幹が複数あるもの( uuse / uute )は複数分格から複数属格を作ります。
uusi → uuse(語幹)→ uusia(複数分格)→ uusien

これでめでたく単数と複数のすべての格が出揃いました(実際にはまだ具格・共格・欠格というのがあるそうですが、文語など特殊な形だそうで、それはまたずっと後で学ぶようです)。

単数主格(辞書形) kirkko 複数主格 kirkot
単数属格(〜の) kirkon 複数属格 kirkkojen
単数対格(〜を) kirkon 複数対格 kirkot
単数分格(〜を) kirkkoa 複数分格 kirkkoja
単数内格(〜の中で) kirkossa 複数内格 kirkoissa
単数出格(〜の中から) kirkosta 複数出格 kirkoista
単数入格(〜の中へ) kirkkoon 複数入格 kirkkoihin
単数所格(〜の表面で) kirkolla 複数所格 kirkoilla
単数離格(〜の表面から) kirkolta 複数離格 kirkoilta
単数向格(〜の表面へ) kirkolle 複数向格 kirkoille
単数変格(〜になる) kirkoksi 複数変格 kirkoiksi
単数様格(〜として) kirkkona 複数様格 kirkkoina

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Yleensä kirkkojen tornit ovat hyviä maamerkkejä.

食品ロスについて

十月一日に施行された「食品ロス削減推進法」を受けて、東京新聞の「考える広場」に三人の専門家が意見を寄せていました。

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お三方のご意見はそれぞれに説得力があるのですが、国や自治体、食品事業者の責務もさることながら、やっぱり問題の根本は私たち消費者の意識にあるのだという思いを新たにしました。同法律には「消費者の役割」として「食品ロスの削減の重要性についての理解と関心を深めるとともに、食品の購入又は調理の方法を改善すること等により食品ロスの削減について自主的に取り組むよう努めるものとする」と謳われており、「教育及び学習の振興、啓発及び知識の普及」を図るとされています。

でもこれ、理念として謳うことはできても、実際に人々の意識にまで根を下ろしてもらうためにはかなりの困難を伴いそうです。ジャーナリストの井出留美氏によれば「食品ロスの半分近くは家庭から出ています」ということで、われわれ消費者の意識が一番のネックなのですが、例えば食品ロスを防ぐためスーパーの棚に欠品があってもよしとする意識が広く共有できるだろうかと考えてみたら……う〜ん、棚に欠品があるのはかなり異様な状態と感じるはずです。私もついついそう感じてしまう。欠品があるのは台風とか地震などの自然災害のときくらいで、平時に欠品があったら「なんだよ、この店は」と不満を覚えるのではないでしょうか。でも、そういう意識から変えていかなければ食品ロスはいつまで経っても減らしていけないんですね。

もうひとつ、食品の賞味期限という問題もあります。これも食品ロスを生む一因になっているのだそうですが、井出氏は「賞味期限ぎりぎりまで商品を棚において売る社会実験」を紹介されています。この実験では食品ロスが10%減ったとのことで、つまり消費者は賞味期限をそこまで気にしていないという結論で興味深いのですが、もし棚に賞味期限の異なる同じ商品が並んでいたら、私たちはどういう行動を取るでしょうか。豆腐とか卵とか肉や魚とか……。

私はスーパーではいつも、賞味期限が迫って値引きになっているものを好んで買い求めます。でも値引きになっていない場合、つまり同じ値段なのに賞味期限が異なっていたらどうします? そういう場合私は賞味期限の短い方から手に取って買います。賞味期限が迫っていて、見た目に「これはちょっと」という場合は、その食材を買うこと自体あきらめちゃいます。要するに「新しい方から買う」ということをしないようにしていて、それは食品ロスを少しでも回避できるかなと思うからなのですが、周囲の知人や同僚に聞いてみたら、ほぼ全員に驚かれるか「それはまた殊勝な」と変な感心のされ方をしました。

つまりみなさん「賞味期限の日付を確かめて、新しい方から買う」ということなのです。「同じ値段だったら、古い方を買うのは損じゃない?」って。そうなのか。確かにスーパーでは、卵や牛乳などのパックを、棚の一番後ろから取ろうとして不自然な姿勢で腕を突っ込んでいる方がけっこう多いです。肉のパックも手前から「発掘」するようにどんどん取り除いていって、一番奥の物を引っ張り出している方も。一度確かめてみたことがあるのですが、すべてのパックが同じ賞味期限でもやっぱり一番奥から取りたがるんですね。

私はこういう行為は単に「はしたない」「みっともない」と思いますけど、こういった自分だけ得をすればよいという発想から脱却して、そういう行為が回り回って食品ロスを生むことになるのだという想像力や自制力を多くの人に持ってもらうのはかなり難しいでしょうね。これはもう世界観とか哲学とか教養、あるいは信仰みたいな領域であって、「教育及び学習の振興、啓発及び知識の普及」だけではなかなか改善には結びつかないのではないかと。

それでもまあ私はなるべく食品ロスを減らす行動を選択していきたいと思います。食品の買い方や食べ方もさらなる工夫が必要ですね。とりあえず上記の記事で魚柄仁之助氏が紹介されていた「塩ワカメと昆布を切ったもので白菜をもんだらいいじゃないですか」ってのをやってみましょう。これ、ネットを検索してみたらほんとに「まるで自分が発明したみたいに周囲に教えていた人」がたくさんいて、思わず笑いました。

「Meck大叔」氏が紹介する「麵線」

留学生の通訳クラスで使う“實況錄音”(吹き込みではなく、実際に華人が話している実況録音)の教材、その多くはYouTubeで見つけたものなのですが、先日も教材になりそうな映像(+音声)を探していて、ものすごく変わったチャンネルを見つけてしまいました。

www.youtube.com

このマスクをした怪しげなおじさん「Meck大叔」氏のチャンネルなのですが、この方は台湾の様々な飲食店、それもどちらかというとB級グルメのような庶民的で飾らない料理が食べられるお店を片っ端からひとりで取材して映像を撮り、もくもくとアップロードし続けてらっしゃるようなのです。

いや、これが臨場感たっぷり。しかも私が大好きな台湾のB級グルメ「蚵仔麵線(オアミソァ)」もたくさん。チャンネル右上の「虫眼鏡マーク」の検索窓に「麵線」と入れてクリックすると、様々な「麵線店」がずらっと並びます。これはたまりません。しかも台北に行ったら必ず食べに立ち寄る、萬華區は龍山寺近くの「陳記」さんも取材されていました。視聴してみると、そのリアルな臨場感に思わず垂涎です。


*2016/12/17/北市 萬華區 萬華陳記腸蚵專業麵線 萬華總店【Meck大叔】

特に注文している時の、店員さんや店の大将とのやり取りがリアルで(実況なんだから当たり前ですが)、そうそう、こんな感じで話すよねえと懐かしさが匂い立ちます。中国語を学ばれている方は、なんと言っているか聴き取ってみてください。何でもない簡単なことを話しているのですが、中国は北方の標準語を学んできた方には最初かなりとっつきにくい会話かもしれず、その意味で挑戦しがいがあると思います。

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▲こちらは、この夏に同店へ行ってきた時の写真です。おいしいです〜。
qianchong.hatenablog.com

キッチンのあり方をめぐって

更新されるたび、いつも読みに行っている社会派ブロガー・紀行文筆家、ちきりん氏のブログ「Chikirinの日記」。昨日の記事はご自宅をリノベーションした際に考えられたという今とこれからの「キッチン」のあり方についてでした。

chikirin.hatenablog.com

コンロの魚焼きグリルなどという「超」使い勝手のわるい代物をいつまで残しているんだというご意見には、思わず「その通り!」と叫んでしまいました。本当にあれは使いにくいです。小さいし、扱いにくいし、激しく汚れるくせに掃除しにくいし。うちのキッチンにもついていますが、入居以来一度も使ったことはありません。魚を焼くときはオーブンを使っています。オーブンシートを使えばくっつかずにきれいに焼けるし、掃除も楽だし。

また調理家電を使い回す現代に合わせて、調理家電を置くスペースを考えてキッチンが設計されるべき、というのも同感です。いまだに加熱方法がガスコンロだけというのは、考えてみれば確かに時代が何十年も止まった感じがしますよね。私も上述のオーブンは奮発して大きめの、電子レンジ兼用のものを買ってもう長い間愛用しています。野菜の下ゆでなどはほぼ全て電子レンジで行い、パンを焼くのも、粉物の生地を発酵させるのも、解凍するのも全部これ。多機能かつ高性能のオーブンレンジはかなり便利です。

またお湯を沸かす電気ケトルでゆで卵も作っちゃいますし、炊飯器はご飯以外にも低温調理にも使います。この3つの調理家電(オーブンレンジ・電気ケトル・炊飯器)でかなりのことができるので、確かにちきりん氏がガスコンロはなくても「なんとかなるかも?」と思われるのもわかるような気がします。そういう意味でも、賃貸情報などでキッチンの仕様が単に「ガスコンロの口数」だけというのは、激しく時代遅れなのかもしれません。

でもその一方で、私はガスコンロでの、焼いたり炒めたり煮たり蒸したり揚げたり……も大好きなので、最低二口、できれば三口のガスコンロもキッチンに必須です。これはもうその人の炊事観(?)の違いですね。私はちきりん氏が家電に求める「放置できること」という価値にはそれほど重きを置いていないのです。忙しい人にとっては、炊事にかかりっきりになる(ガスコンロに張り付いてる)なんて「生産性のかけらもない!」ということになるのでしょうけど、私は炊事自体が人生の楽しみであり、息抜きであり、ストレス解消法なので、ガスコンロの火を操るプロセスがなくなると、寂しいです。

また現代の調理家電がものすごく進歩していることは分かりますが、例えば味噌汁を煮て、沸騰直前をみはからって「煮えばな」をいただくとか、天ぷらを揚げるときに天ぷら生地の沈み具合や油の弾ける音で温度を測って火を調節するとか、こういうのはガスコンロでないとやりにくい。IHクッキングヒーターも持っていてこれも結構便利ですが、火力を臨機応変に調節するとなるとガスコンロにはまだまだかないません。

でもまあこれも炊事観というか料理観というか、その人がどこに価値を置くかで変わってくることですよね。それに昨今のガスコンロも結構進化していて、センサーで温度調節や温度設定ができたり、とろ火が消えたら教えてくれたりと、必ずしもコンロに張り付いていないと調理ができないわけでもないんですよ。

とまれ、ちきりん氏の慧眼にいつもながら敬服したと同時に、やっぱり価値観の違いというものはあるんだなあと思った次第です。でもこれは、ちきりん氏が以前に書かれていた、「自動運転を目指すトヨタとグーグルの違いは、車の運転が好きかそうでないか。ルンバが画期的だったのは、掃除なんてしたくない人のために商品開発したから」というのに通底するお話だと思いました。要するに私は炊事や料理が好きでたまらない人間なんですね。

chikirin.hatenablog.com

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https://www.irasutoya.com/2013/08/blog-post_6291.html

「八年生まで待とう」運動

先日新聞で、「八年生まで待とう」という運動を知りました。アメリカで広がりつつある、子供が八年生(十四歳)になるまでスマートフォンを持たせないようにしよう、という運動だそうです。

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子供がスマホを持つことの是非は日本でも論じられていますが(記事にもある通り、先日も小学生がスマホSNSを通じて知り合った男性による監禁事件が報じられていました)、こうやって具体的なムーブメントとして立ち上がり、それが静かな共感を呼んでいるという点、そしてそれが取りも直さずスマホや各種ネットサービスを生み出してきたアメリカで展開されているという点が興味深いと思いました。

記事によれば、故スティーブ・ジョブズ氏をはじめ、IT業界の名だたる有力者たちがその子供たちにはIT機器の使用を制限しているとのこと。なるほど、先日読んだ『デジタル・ミニマリスト』でも触れられていましたが、IT機器、とりわけスマホやパソコンからつながるネット上のウェブサイトやSNSなどが、「注意経済(アテンション・エコノミー)」と称される仕組みで莫大な利益をあげる一方で、ユーザーが自律的・自発的に思考や想像をめぐらせる力を奪っているという事実。それを一番良く知っているのは、当のIT業界の人々だというわけです。

www.waituntil8th.org
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興味深いと思う一方で「ちょっとズルい」とも思ってしまいました。だって、さんざっぱらIT機器を売って儲けておきながら、その負の側面は伝えない一方で、自分の身内は遠ざけさせていた、というのですから。かなり以前のことですが、某加工食品会社の社員は、自社製品に入っている食品添加物の功罪をよく知っているから自分の家族には自社製品を食べさせない……という話を聞いて憤慨したことを思い出しました。

それでもこうして、何が子供にとって良いのかを自分の頭で真剣に考え、行動に移すというのがアメリカ社会のすごいところだと思います。そして子供や家族が孤立しないよう仲間作りから始めるというのも面白い。こういうやり方は、とりわけ同調圧力の強い日本でも有効かもしれません。

日本でも、子供に携帯電話を持たせる前によく考えようという呼びかけは、当の通信会社からもなされています(例えばこちら)。ただそれは、おおむねセキュリティ関係、つまり防犯とか有害サイトのカットといった側面がほとんどで、上述の記事にもあるような、家族との会話や読書経験を豊かにするため、という視点は少ないのではないかと思います。

それだけにこの「八年生まで待とう」という運動が興味深いなと思った次第です。日本でも、より人生を豊かにするために「スマホは高校生まで待とう」というような運動があってもいいですよね。

『ロシア語だけの青春』からヒントを得た教案

語学学習者としても、また語学の教師としても様々な気づきがあった、黒田龍之助氏の『ロシア語だけの青春』ですが、私が購入した版には帯がついていて、そこにこんな惹句が書かれています。

ひたすら発音、そして暗唱
他のやり方は知らない

なるほど、語学の学習法は畢竟これに尽きると。ロシア語もそうでしょうけど、中国語も日本語母語話者にとってはまず発音が最初の、そして最大の関門で、これを乗り越えないことには音声でのコミュニケーションはまず覚束ないと思います。

そしてハッキリクッキリ大きな声で、ひたすら声に出して単語や文章を身体に叩き込む暗誦も、やっぱり必要。世上よく言われる「語学を何年やっても、ちっとも話せない」というのは、まずもってこの音声によるアウトプットがあまりにも少なすぎるからだと思います。かつて國弘正雄氏がおっしゃった「只管朗読」もそうですけど、朗読と、その結果としての暗誦は語学の王道ではないでしょうか。

qianchong.hatenablog.com
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『ロシア語だけの青春』には、ロシア語研究所「ミール」における授業の流れが、簡潔にまとめられています。

①基本例文と応用例文の発音
②単語テスト
③口頭露文和訳
④口頭和文露訳
⑤質問と答え
⑥次の単語の発音

きょうび、教科書のテキストを用いた「訳読」は、「そんなことばかりやってるから、ちっとも話せないんだ」などと批判されて分が悪いようですが、私は母語と外語を往還するこの方法はそれなりに理にかなっていると思います。もちろん頭の中に日本語を介在させず、常に頭を「外語モード」にする練習も必要だとは思うのですが、初中級段階では母語の力も借りながら外語の理解を進めるのも効率的ではないでしょうか。

特に「ミール」の授業で注目すべきは③と④の「口頭訳」です。テキストの文章を見て訳すのではなく、音を聞いて音を出す、つまり文字に頼らず音声だけでインプットとアウトプットを行うのです。これはやってみれば分かりますが、とてもしんどくて「泥臭い」作業です。でも、きちんとした構文の外語を正確に聴き取ることができ、正確に発音して話すことができるというのは、考えてみれば基本中の基本。でも、これすらやっていない方がほとんどなのです。

というわけで私、趣味で(というかボケ防止のために)学んでいるフィンランド語でもこれをやっています。具体的には Quzlet に教科書のテキストを一文ずつ日本語とフィンランド語で入れて「口頭日文芬訳」するのです(「
芬」は芬蘭語=フィンランド語)。フィンランド語は格変化が激しいので、例文を覚えても応用がききにくい言語なのですが、決まりきった文章だって言えないよりは言えたほうが千倍マシ。つべこべ言わず自分に課すことにしたのです。

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さらにはこれを、自分が担当している華人留学生の「中日通訳クラス」でも取り入れてみることにしました。これまでは通訳という作業の「当意即妙性」を重視して、訳例は一切配布しないで授業を行ってきたのですが、それをいったん撤回して、授業中にみんなで訳例を検討し、出来上がった訳例を覚えて暗誦してもらうことにしたのです。

プロを養成するための通訳スクールでは、訳例を出しません。それは生徒さんが訳例を唯一の正解だと誤解して「よりよい訳」を検討しなくなるためです。また現場での発言は一回限りのものであり訳例を作っても応用が効かないという観点からも、訳例を配らないのが基本だったのですが、留学生の通訳クラスで学んでいる生徒さんはまだ日本語自体が「発展途上」で、まずは正確な語彙や構文を身体に叩き込むのが先決ではないかと考えました。

その方針をみなさんに伝えたら、意外なほど肯定的な反応が多くて驚きました。みなさん、自分の訳出がまだまだであることは重々承知していて、でもまだ日本語の力がそこまで備わっていなくて、なんとも隔靴掻痒というか内申忸怩たる思いを募らせていたようなのです。

訳例を共有して暗誦を課すということは、ある意味これまでの通訳訓練からいったんダウングレードすることを意味するのですが、現段階ではそれが一番みなさんのレベルに合っているということなのかな。これまでが少々「ハイスペック」過ぎたのかもしれないですね。やはり語学の初中級段階では特に、こういう「泥臭い」練習から逃げてはいけないのです。

同窓会には行きません

先日、同窓会について書かれた興味深い記事を読みました。お笑い芸人の岩井勇気氏(ハライチ)が、にぎやかな場所が好きそうな芸人さんのイメージに反して「大勢の人が集まるパーティーや飲み会はかなり苦手」で、「なるべく行かないようにしているのが同窓会」だというのです。

business.nikkei.com

私もパーティーや飲み会が「かなり苦手」で、同窓会には「なるべく」どころか「絶対に」行かない人間なので、とても共感を覚えました。学生時代は「コンパ」と称して、たぶん週に三回はサークルの仲間とともに安い居酒屋などに繰り出していたものですが、いまや飲み会はおろか、外食すらほとんどしなくなってしまいました。

岩井氏は同窓会というものに対して、いくつかの辛辣な視点を提供されており(詳細は上の記事をご参照ください)、私はそのほとんどに首肯するものですが、私自身が同窓会に絶対行かないのは、学生時代にあまりいい思い出がないからです。本当に身も蓋もない理由ですけど、小学校・中学校・高校と、仲の良い友達はいたものの、いわゆる「いじめられっ子」だったこともあって、あの時代は思い出したくもないというのが正直なところです。

それでも過去に、何度か同窓会に出席したことはあるのですが、そのたびにとても後悔しました。上記の記事でも触れられていますが、自己承認欲求とマウンティングと他愛もない思い出話、それに当時の教室内ヒエラルキーを再認識させられるような居心地の悪さ。もうこれからは行かないとひとり心に誓ったものです。卒業アルバムのたぐいも一切持っていませんし、大学など卒業式にさえ出席していません。

そんなこんなで、私には学生時代から関係が続いている友人はまったくと行っていいほどいません。FacebookなどのSNSがある現代では、ひょんなことから学生時代の友人と連絡がつくこともあるのですが、そんな時でさえ、正直、あまり旧交を温めたいとは思わないのです。

う〜ん、冷淡な人間なのかもしれません。でも私は過去を振り返るより、未来に希望を見出したいのです。過去を振り返れば、それなりの成功体験に縛られて「昔取った杵柄系」になってしまうのも怖い。

qianchong.hatenablog.com

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_88.html

というわけで、私は自分が教えている留学生のみなさんにも、卒業したらぜひ前を向いてほしいと思っています。卒業生の中には、折に触れて教員室を訪ねてくださる方や現状報告に来てくださる方がいて、それはそれで嬉しいんですけど、母校なんか忘れていいから、どんどん前に進んでいってほしい。

そしてもし学校で学んだことが何かの役に立ったと思ったら、それを教師への「謝恩」という形で返さなくていいから、自分のあとから進んでくる人たちに伝えてほしいと思います。

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オーバーツーリズム

先日、所用で東京は銀座に行く機会があり、帰りにユニクロでセーターを買おうと思ってGINZA SIXの前にある旗艦店に立ち寄ってみたら、ものすごい数のお客さんでごった返していました。エスカレーターにもエレベーターにも長蛇の列ができており、それに対応する店員さんも半ば「キレ気味」の興奮状態。というわけで、買い物はあきらめて早々に退散しました。

もとより人の多い場所が苦手なので、銀座などという場所にも久しぶりに行きましたが、相変わらず外国人観光客のみなさんが目立ちます。往来で聞こえてくる言語も多種多様ですが、やはり中国語が多いみたい。というか、自分が聞き取れるから多く感じるというバイアスが掛かっているのだとは思いますが。

すでに縮みゆく国である日本によく来てくださるなあと嬉しく思う一方で、いやこれは日本で買うほうが安いからなんじゃないのか、それにいつまでもこんな状態が続くとは限らない(特に来年の巨大スポーツイベントが終わったあとは)などとついネガティブなことを思ってしまいます。

……と、昨日はこんな映像ニュースに接しました。チェコの首都プラハで、地元の人々の生活に悪影響を及ぼすほどの「オーバーツーリズム(観光公害)」が問題になっているという話題です。

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「オーバーツーリズム」という言葉は、初めて知りました。なるほど、そういえば今夏訪れたエストニアの首都・タリンの旧市街も、まさにこういう感じでした。中心部の広場周辺は、あきらかに街のキャパシティを超えた数の観光客で騒然としていて(それでも雨天だったので少なめだったのかもしれません)、レストランや各種のお店も完全に観光客向け仕様。こういった観光地には近づかないのが信条の自分だったのに、なぜここに来てしまったのか……と激しく後悔しました。

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でもその一方で、私だってその殺到する観光客のひとりであり、上記の映像ニュースでも触れられている「Airbnb(エアビーアンドビー)」などを通した民泊もしょっちゅう利用しているので、なんだか後ろめたい気持ちになりました。そりゃ地元の方々にしてみれば、とても心穏やかに毎日を過ごすことはできないですよね。昨年京都へ行ったときも、タクシーの運転手さんが「正直、ちょっと行き過ぎだと思いますわ」と観光客のあまりの多さに地元住民は疲れ切っている……といったような愚痴をこぼしていましたし。

有名な観光地にぜひ一度行ってみたい、みんなが「いい!」という場所を自分もぜひ訪れてみたい、という人々の願望は消えることはないと思います。でも有名な観光地って、往々にしてそれまで写真や映像なんかでさんざん触れていた光景を確認して「ああ、これこれ」と満足するだけのことも多いんですよね。私はもうトシなので、そういうタイプの旅行はやらない(というか人混みが苦手なのでできない)ようにしよう、と思ったのでした。