インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

なぜ投票に行かないのか・行くのか

昨日は参院選が行われましたが、総務省の発表によると投票率は48.8%で史上二番目の低水準だったそうです。半分以上の有権者が投票に行かないという現実にどう向き合えばいいのか、そして特に若年層の投票率が際立って低いことについて、新聞やネットでは様々な議論が行われています。

教育の問題、マスメディアの問題、格差や貧困の末に政治に絶望しているから、いやなんだかんだ言って日本はまだまだ豊かでゆとりがあるから……。さらにはオーストラリアのように義務投票制にして投票に行かなければ罰金を科すべき、いやシンガポールのように投票に行かなければ選挙人名簿から抹消すべき……。どれも一理あるんですけど、なにかこう腑に落ちません。

なぜ投票に行かないのか

今朝は通勤電車で、このようなツイートに接しました。

このツイートに続くスレッドをすべて読んでみると実に興味深いです。投票の意義を教えられていない、という点ではまさしく教育の問題なのですが、それよりもっと根本的なところで、個々人の投票という小さな行動が国の政治という大きな動向と繋がっている、リンクしているという実感、あるいは信憑が持てないのかもしれない、と思いました。

これに先立つ昨日は、コピーライターの(という肩書きはもう古いですか)糸井重里氏のこんなツイートにも接しました。

このツイートには膨大な数のリプライがついていて、そのほとんどは糸井氏の姿勢を批判するもののようでした。中には糸井氏が投票に行かないという宣言をしていると思った方もいるようですが、そうじゃないですよね。投票には行くんだけれども、やはりその行動が何かの大きな動きに繋がっているという実感が持てない、だからせめてその気持ちも届けたい(でもできない)という気持ちを吐露されたのでしょう。

作家の村上春樹氏は、かつて「僕は生まれてこのかた選挙の投票というものを一度もしたことがない」と公言されていて、これもTwitterなどでは繰り返し批判されています。手元にある『村上朝日堂の逆襲』に収められた「政治の季節」という文章には、こんな記述があります。

どうして選挙の投票をしないのかという彼ら(僕をふくめて)の理由はだいたい同じである。まず第一に選択肢の質があまりにも不毛なこと、第二に現在おこなわれている選挙の内容そのものがかなりうさん臭く、信頼感を抱けないことである。
(中略)
もっとも選挙制度そのものを根本的に否定しているわけではないから、何か明確な争点があって、現在の政党縦割りの図式がなければ、我々は投票に行くことになるだろうと思う。しかしこれまでのところ一度としてそういうケースはなかった。よく棄権が多いのは民主主義の衰退だと言う人がいるけれど、僕に言わせればそういうケースを提供することができなかった社会のシステムそのものの中に民主主義衰退の原因がある。たてまえ論で棄権者のみに責任を押しつけるのは筋違いというものだろう。マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶために投票所まで行けっていわれたって、行かないよ、そんなの。

この文章はもう三十年以上も前に書かれたものですから、村上氏が今でも同じお考えなのかどうかは分かりません。特に今回の選挙のように、改憲勢力憲法改正の発議に必要な3分の2の議席数を参院で確保できるかどうかという状況で「戦略的投票」が呼びかけられたような状況では「マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶ」のも意味のあることでしょう。当時とは時代がまるで違っているのです。

それでも、村上氏のこの文章からも、やはり自分の小さな行動が政治の大きな動きに繋がっているとはとても思えない、だから無力感を覚える(不毛だ)……という気持ちが伝わってきます。「あなたの一票が、世の中を変える」と言われたってそれを信じることができない、そのあまりにも巨大な隔靴掻痒感(?)が投票なんてしても無駄だ、不毛だという考えにつながっていくんですね。

むしろ若い方々にとっては、SNSなどで「バズる」ことのほうがよほど「自分の行動」と「世の中が変わる・動く」ことの直接的なリンクを体感できると思います。Twitterで何千何万というリツイートがつくとか、Instagramの膨大な「いいね」に自分がインフルエンサーになったかような高揚感や全能感を味わうとか、人気のユーチューバーになって実際にお金が儲かるとか……。それに比べて選挙の投票は、まるで大海に小石を一つ投げ込むようなもので、何の反応も手応えもないし、高揚感も全能感もまったくもたらさない。だから「行かないよ、そんなの」と。

かくいう私自身も、こうした隔靴掻痒感や不毛感・徒労感は常に覚えているので、その気持ちは分かるような気がします。それでも私はこれまで覚えている限り(あと、海外の辺鄙な場所に転居していてどうしてもできなかった数回を除いて)投票を棄権したことはありません。若い頃に一度、何を考えたか「白紙投票」をした覚えはありますが。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_88.html

なぜ投票に行くのか

私だって若い頃があって、きょうびの選挙に行かない若い方々や『村上朝日堂の逆襲』を書かれた頃の村上春樹氏のように不毛感にとらわれたこともあったと思います。なぜそれでも棄権しないで来たのかなと改めて考えてみたのですが、どうもうまくその理由が説明できません。大学の時に受講した「一般教養科目」のおかげだとも思えるので、結局は教養・リベラルアーツの大切さってことになるのかもしれません。でも何だかもっと漠然とした、ある意味信仰に近いものなんじゃないかなとも思います。

世の中は自分ひとりでは回っていかない、世界は自分が考えているよりもはるかに巨大で複雑なものだ、誰も見ていなくてもお天道様は見ている、民主主義は人間が仮構したものだけれどその中に住んでいる以上はその仮構されたものにつきあうべきだ……それこそ村上氏から「うさん臭い」と言われそうですけど、そういうものを信じているから投票という行動に繋がるんだと思うんですね。

これって信仰と言うよりもっと卑近な「皮膚感覚」に近いものかもしれません。私は全体としては世界はよりよい方向に進んでいる、進んでいくと楽観していますし、それを積み重ねてきた先人に敬意を表しますし、その先人の努力を無駄にするような行動は何だか「気持ち悪い」んです。投票に行かないのは気持ち悪い。祟るような気がすると言ってもいいかもしれない。

なんだか締まらない結論になりました。あ、もちろん、日本ほどに豊かで恵まれていて曲がりなりにも民主的な選挙が行われている国とはまったく異なる国の友人がいて、その人たちの存在に教わることが多いというのも理由のひとつだと思いますけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_586.html

英語と数式満載の「理系」資料が出てきたら

通訳クラスで「素数」についての教材を扱いました。通訳者を目指す方はどちらかというと「文系」の方が多く(私もそうです)、数学だの物理だの科学技術だのといった「理系」の内容に疎い、あるいは苦手という方が多いです。でも一方で、実際のお仕事はむしろ理系の内容の方が多い……ということで、そうした「理系アレルギー」を克服するために取り上げています。

もっとも現代の最先端の知見は単純に文系・理系と立て分けできるものでもありませんし、文系の方が感覚的かつ情緒的に話し、理系の方が論理的かつ理性的に話すとも限らないのですが、私個人の経験では、理系の内容は単語の同定が理系に比べて厳しく、曖昧な言い回しや「ごまかし」がきかない、数字や単位の正確さがより一層求められるなどという点で、けっこうな緊張を強いられます。そうした状況に慣れるための訓練になればいいなと思っています。

あともうひとつ、理系の場合に出てくる資料が全部英語ということがままあります。私の英語力はほぼ中学校一年生か二年生程度なので、かつてそういう資料を受け取った時には、底なしの絶望感に襲われました。どうして日本語・中国語間の通訳のお仕事なのに英語の資料が出てくるんですか〜! と思いますけど、理系の方にとっては英語の方が正確に伝わるんでしょうね。だけど自分が話す時はやや自信がない、だからお互い母語で話す、なので通訳者を雇う……と。

そんなこんなを生徒さんにも体験してもらおうと「素数」に関する教材を作りました。台湾の数学者さんが素数の基本的な知識について語っている内容で、そんなに難しいことは出てきません。それでもそもそも「素数」って何? というあたりから予習する必要があります。また画面に出てくる英語の解説や、板書の内容を私がパワポ資料として作成し、これをクライアントから提供された資料のつもりで予習してくださいと渡しました。その一部がこちらです。

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実際のお仕事ではこんなに単純な資料はないですけど、まあ入門編ということで。でも数学が苦手な方(私)にとっては泣きそうになる内容かもしれません。とはいえ泣いていても仕方がないので、辞書を片手にぽつぽつと英語の資料を読み進めます。あと、ネット翻訳も活用して、不完全でもいいのでだいたい何を言っているのかを確認します。普段はネット翻訳なんてとさげすんでいるくせに、こういう時はすがっちゃう。勝手なものですね。

無料で利用できるネット翻訳はいくつもあります。そのうち「Google翻訳」「エキサイト翻訳」「Weblio翻訳」「みらい翻訳」にこの英文を訳してもらったところ、Google翻訳の日本語が一番分かりやすいという結果になりました。しかも、実は数年前にも同じようにGoogle翻訳で訳した時より、訳文の改善が進んでいるように思えます。

Peano axioms
If K is a set such that:O is in K, and for every natural number n, if n is in K, then S(n) is in K, then K contains every natural number.
【数年前】
ペアノの公理
Kはセットである場合ように:OがKであり、nはKである場合、すべての自然数をn、その後S(n)はKである場合、Kはすべての自然数が含まれています。
【今回】
●ペアノ公理
Kが次のように設定されている場合:OがKに含まれ、すべての自然数nに対して、nがKに含まれる場合、S(n)はKに含まれ、Kはすべての自然数を含みます。

Prime number
A prime number (or a prime) is a natural number greater than 1 which has exactly two distinct natural number divisors: 1 and itself.
【数年前】
素数
1とそれ自身:素数(または首相)は、正確に二つの異なる自然数の約数を持つ1より大きい自然数である。
【今回】
素数
素数(または素数)は、1より大きい自然数で、1とそれ自体の2つの異なる自然数の除数を持ちます。

Fundamental theorem of arithmetic
Every natural number greater than 1 can be written as a unique product of prime numbers.
【数年前】
●算術の基本定理
1よりすべての自然数よりは、素数のユニークな製品のように記述することができます。
【今回】
●算術の基本定理
1より大きいすべての自然数は、素数の固有の積として書くことができます。

ちなみに、英語と中国語は言語の構造的に近いものがあるので、英語と日本語のGoogle翻訳よりもより分かりやすいことが多いです。

●皮亞諾公理
如果K是一個集合,使得:O在K中,並且對於每個自然數n,如果n在K中,則S(n)在K中,則K包含每個自然數。
●素數
素數(或素數)是大於1的自然數,它具有兩個不同的自然數除數:1和它本身。
●算術的基本定理
每個大於1的自然數可以寫為素數的唯一乘積。

もちろん、こうやって訳した上で「ペアノの公理」や「算術の基本定理」などについてネットで解説を読み、より理解を深めて行くことは言うまでもありません。

もうひとつ、資料にはこんな「数式」が出てきます。いじわるですね(私が作ったんですけど)。
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こういう数式も、文系人間にとっては「鬼門」です。そもそもこの数式を日本語と中国語でどう読めばいいかさえ分かりません……。実はこういう「数式などの読み方」って、語学の学習者にとって意外なウィークポイントなんですよね。ご専門の方を除いて、普段の生活ではあまり出てこないので。分数や小数やパーセントあたりまでは教科書にも出てきますけど、例えば「累乗」とか「ルート」とか「微積分」とか、あと幾何の「台形」とか「三角錐」とか「円周率」とか……それらを中国語ではどう言うのか。その辺りも、この際一度確認して自分のものにしておきましょう……というのが、この教材のもうひとつの狙いになっています。

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https://www.irasutoya.com/search?q=%E6%95%B0%E5%AD%A6

これについては最近、こんなサイトを見つけました。文部科学省の「帰国・外国人児童生徒教育等に関する施策」というもので、この中に「数学用語対訳一覧」というPDFが公開されているのです。外国にルーツを持つ生徒さんへの教育を支援するためのものですが、これは素晴らしい。以下のリンクで入手できます。最初にポルトガル語が出てきますが、下の方に行くと日本語・中国語の対訳に加えて、読み方までまとめられています。若干の間違いと思われる記述もありますが、私たちにとっても役に立つ資料だと思います。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2015/10/06/1235807_022.pdf

フィンランド語 43 …序数の復習

序数について復習しました。序数はものの順番を示すときに使う数詞で、日付とかビルの階数とか「ひとつめ、ふたつめ……」と数える場合に使います。英語や中国語の序数は比較的簡単ですが、フィンランド語の場合は数字が序数になって、さらに格変化を起こすので、非母語話者にとってはかなり複雑に感じられます。

以前、誕生日を言う練習をしました。「何月何日」と言う場合、月は例えば「9月(syyskuu)」なら「syyskuun」と属格にして「9月の」とすればよいのに対して、日は序数なのでまず序数特有の語幹にして、さらに様格にしなければなりませんでした。私は9月24日生まれなのですが、そうすると……

Milloin sinä olet syntynyt ?
いつあなたは生まれましたか(あなたの誕生日は)?
Minä olen syntynyt syyskuun kahdentenakymmenentenäneljäntenä päivänä vuonna tuhatyhdeksänsataakuusikymmentäneljä.
私は1964年の秋の9月24日に生まれました。

……となると。かなり長大です。

qianchong.hatenablog.com

今回は「今日は何月何日ですか?」といういい方を学んだのですが、こちらは序数だけで言えるので(誕生日のように「〜日に」という様格にしなくていいので、比較的簡単に思えます。

Monesko päivä nyt on?
今日(いま)は何日ですか?
Nyt on kahdeskyummenesneljäs päivä syksykuuta.
今日は9月24日です。

なるほど「何月何日」は①月(単数属格)+日(序数)といういい方(syksykuun kahdeskymmenesneljäs päivä)と、②日(序数)+月(単数分格)といういい方(kahdeskymmenesneljäs päivä syksykuuta)の二つがあるということですかね。

練習問題では、エレベーターが「○階から○階へ行く」という表現を練習しました。階数にも序数が使われ、しかも「○階から」は出格、「○階へ」は入格が使われるということですね。序数を復習しておくと……

1 ensimmäinen
2 toinen
3 kolmas
4 neljäs
5 viides
6 kuudes
7 seitsemäs
8 kahdeksas
9 yhdeksäs
10 kymmenes
11 yhdestoista
12 kahdestoista
13 kolmastoista ……

……なのですが、このうち「-nen」で終わる序数は語尾の「nen」を「se」に、「-s」で終わる序数は語尾の「s」を「nte」にします。これで語幹が完成して、さらに格変化させなければならないわけです。例えば「エレベーターが一階から三階へ行きます」なら出格と入格を使って“Hissi menee ensinmäisestä kerroksesta(出格)kolmanteen kerrokseen(入格:kptの変化なし).”になるわけですね。「階(kerros)」も格変化させなければならないというのが大変です。

youtu.be
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Hissi menee kellarista kolmanteen kerrokseen.

中高年の「痛さ」が感慨深い

毎朝ジムで「朝活」をしているのですが、周囲を見回してみると30代から40代、50代とおぼしき「おじさん」方が圧倒的多数を占めています。女性もいらっしゃいますけど、やっぱり朝のこの時間は男性サラリーマンが中心なんですね。こういうところにも、日本社会の特質が現れているように思います。

ジムではみなさんそれぞれのメニューに没頭しているのでお互い没交渉なのですが、マシンのインターバルや、あとロッカールームなどで観察していると、そうしたおじさん方の「生態」が見えてきて面白いです。脱いだウェアをぐちゃーっと床に広げている方あり、スパの湯船に頭までドブンと潜る方あり、全裸でロッカールームを歩き回る方あり。もちろん控えめで折り目正しい方も多いですけど、それだけにこうした「傍若無人系」のおじさんは目立ちます。たぶんご自宅でも同じように過ごされているんだろうな。そして家族から「ちょっとお父さん、やめてよ」などと言われているんだろうな……おっと、大きなお世話でした。妄想で決めつけちゃってごめんなさい。

しかしまあ、自らも紛う方ない「おじさん」である私にとっては、人の振り見て我が振り直せです。ただでさえ世間では「おじさん」「おっさん」というのは疎まれる存在のようですから、身の処し方には気をつけなければいけません。だいたい私自身だって、満員電車内でさまざまな意味で異臭、もとい、異彩を放ってらっしゃる「おじさん」には少々困惑しているんですから、ええ。

先日ネットを検索していたら、偶然こんな記事にたどり着きました。というか、こういう記事は何度も繰り返しネットに登場するのであまり新味はないのですが、この記事にある「痛い若作り」というのにちょっと興味を引かれたのです。

dot.asahi.com

というのも、日頃新聞(紙の)を取っていて、その広告のほとんどが中高年向けのものである点が実に感慨深いのと同時に、その広告に一定の傾向があることに最近気づいたからです。それが取りも直さず「若作り」です。まあ若作りと言って悪ければ「アンチエイジング」とでも言い換えましょうか。全面広告で頭髪のケアあり、膝や腰や肩の薬あり、怪しげな回春系サプリあり……。

ここ数日は新聞の折り込みにサントリーセサミン」の広告が入っていて、これがまた「どストレート」に若作り願望訴求型でした。「ええっ、昭和20年代生まれ!?」とか「同窓会へ行った。クラスでいちばん美人だった子より、いまは私のほうが、若く見える」といったキャッチコピー、あまりにストレートで「エグ」くて、私は思わず笑っちゃいました。

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こういう折り込みが連日入るということは、それだけ市場があり、こうしたコピーが心に届く客層もあるのでしょう。正直、私だって、フォーエバーヤング的な言辞に心動かされないわけではありません(否定の連続ですね)。でも……世のおじさんが疎まれるのはまさにこういう「ギラギラ」して周りがあまり見えていないところなのでしょう。セサミンの広告はシンプルでおしゃれな作りですけど、その本質は「痛い若作り」や「傍若無人系」のおじさんとどこか通底しているなあと思うのです。

「腰掛け」で仕事してると“緣分”が寄ってこない

先日、通訳学校の生徒さんから「キャリア相談」にのってくれませんかと話を持ちかけられました。教師という仕事をしていると、時々生徒さんからこうした就職や転職や進路などについての相談をされます。その際に一番よく聞かれるのは「センセは学校を卒業したあと、どうやって今の仕事にたどり着かれたんですか」というご質問です。

う〜ん、私の職歴はかなり特殊、というかまったくもって順風満帆な歩みではなかったので、あまり人様のご参考になるような気がしません。とはいえ、別に隠すような悪いこともしていないので、聞かれるまま答えることにしています。

みなさんが私の職歴を聞きたい理由は、そのほとんどが「いま勤めている職場を辞めたい」であり、その先に「通訳や翻訳関係の仕事に転職するにはどうしたらよいか」あるいは「脱サラしてフリーランスで通訳や翻訳の仕事をしていくことは可能か」というご質問が続きます。

しかし、フリーランスにしろ転職にしろ、通訳や翻訳という仕事で食べていくのはそう簡単ではありません。特に、語学のスキルにあまり敬意を払わないこの日本という「国度」にあっては(それはほぼ単一言語で社会を営むことができ、高等教育まで行うことができるという、世界の中でも極めて恵まれた言語環境のゆえでもあります)なおさらです。

私見では通訳や翻訳は極端な「二極化」が進みつつあります。一握りのハイエンドの方々だけはそれなりに稼働できるものの、中間層がごっそりと退場していき、底辺は価格破壊が進むと同時に機械化、AI化が絶賛進行中です。

英語の業界はあまり詳しくありませんが、中国語の業界に限っていえばハイエンドの方々であっても、大学の先生などいくつかのお仕事を掛け持ちされています。いわんや私のような第二線・第三線の人間においてをや。しかも業界では以前にもご紹介した「仮案件&リリース」の嵐が吹き荒れています。通訳学校のような場所で教え、なかば「こんなに輝く未来が!」的な惹句に乗っかっていながらこんなことを言うのはかなり心が痛みますが、正直に申し上げてなかなかに厳しい業界です。もちろん通訳や翻訳の重要性や、業務の意義についてはいささかも薄れていないとは今も思っていますが。

qianchong.hatenablog.com

また「いま勤めている職場を辞めたい」についても、私が私の過去の経験を元に軽々に「イヤなら辞めちゃえば」とも「石の上にも三年でしょ」とも言えません。時代が違いますし、ブラック企業の問題が頻繁に取り上げられる昨今でもありますし。それで結局、相談者にしてみればどうにも煮え切らないであろうお答えをするしかないのですが、一つだけ、これは時代にあまり関係なく心に留めておいてもいいんじゃないかなと思えることをアドバイスしています。

それは「職場の人間関係はバカにできない」ということです。

当たり前のことなんですけど、仕事は一人でやっているわけではありません。それはフリーランスの一匹狼だって同じです。だから、一つの職場で働いているときに、いろいろな人と繋がって協同していることを意識するのはとても大切だと思います。同じ会社の人間だけでなく、取引先の人、出入りの業者さん、メールや電話でしか話したことのない関係各所の人……。

働くということは、ある意味そうした人間関係を構築し、広げていくことです。ときどき「こんな会社、いつでも転職してやる」ってんで、「腰掛け」的に仕事をしている方がいますが、そういう方は往々にして人間関係の構築が手薄に、あるいは功利的に(独りよがりに)なりがちです。「オレの居場所はここじゃない」「今はまだ本気出してないだけ」的な雰囲気は、驚くほど周囲に伝わる。そういう人は職場を通じた人間関係があまり広がっていかないように思います。

いっぽうで、本音では「オレの居場所はここじゃない」と思い「いつか転職してやる」と思っていたとしても、在職している間はとりえあず一所懸命に仕事に身を投じていると、会社内外に健全な(?)人間関係が広がっていきます。そしてその人間関係がいざ転職するときに思いもかけぬ効果をもたらすことがあるのです。「あの会社辞めるんだって? じゃあウチへ来なよ」みたいな分かりやすいものでなくても、何かしら手を差し伸べてくれる人が現れる。華人が好んでよく使う“緣分(緣份:ご縁)”というのは、こういうことなんじゃないかと思います。

やっぱりなんだか「新橋の居酒屋でくだまいてるオヤジ」みたいになってきちゃいました。それに“緣分”を期待するのだって功利的じゃん、と言われれば返す言葉はないんですけど。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_18.html

でも、さっきちょっと数えてみたら、私はこれまで掛け持ちも含めて十回の転職をしてきたのですが、そのうち自分で求職して(求人情報を見るとか、履歴書や職務経歴書を送るとか)得た仕事は二つだけで、あとはすべて“緣分”でお声がけいただいたものでした。その“緣分”に感謝していますし、それは少々口幅ったい言い方になりますけど、曲がりなりにも「腰掛けで仕事はしてこなかった」からかなと思うのです。

「立つ鳥跡を濁しまくり」で、喧嘩同然で辞めた職場も多いのですが、それでも仕事の姿勢をどこかで見ていてくださった方がいたから、今につながっているのかなと。「石の上にも三年」を無条件に信奉しなくてもちろんいいけれど、少なくとも「腰掛け」で職場の人間関係を疎んじた働き方だけはしないほうがいいんじゃないかなと思います(やっぱり新橋のオヤジみたいですね)。

郵便局の「変わらなさ」について

メールや宅配便、あるいはバイク便でほとんどのやりとりを行うようになってからというもの、街の郵便局に行くことはほとんどなくなりました。それでもたまにお仕事の請求書を郵便で送ってくださいというクライアントがいるので、年に何回かは職場近くの郵便局に出向くことになります。

郵便局ってすごく不思議な空間です。特に私が、これはもう数十年前から興味を持っているのは、局内がどうしてあんなに「ゆるカオス」とでもいうべき状態になっているのかという点です。窓口や制服などのデザインは統一されているのですが、カウンターから壁から天井から、あちこちに手書きのポスターやらPOPやら立体工作物やらが充満していて、特にその小学校の図画工作や夏休みの宿題を思い出させる工作物関係に、いつもしみじみと見入ってしまうのです。

それら工作物は、おおむね郵便局が取り扱う商品の宣伝・販促用であることがほとんどです。暑中見舞い用はがき「かもめ〜る」の季節なら段ボールや発泡スチロールで作られたカモメさんが、お歳暮の季節なら各地の特産物を紹介した様々なポスターに折り紙で作られた雪だるまや羽子板やおせち料理が……ってな感じで、何というのかなあ、中学校の文化祭を彷彿とさせる雰囲気に満ちているのです。

最近はあまり郵便局に行かないのでそれほど詳しくないのですが、以前フリーランスで働いていたときは各種書類の発送や、あと副業的にやっていたAmazonマーケットプレイスの出荷などであちこちの郵便局に行きました。局によっていろいろ差はあるのですが、おおむねどこもこうした手作り感満載の「作品」があふれていたように思います。これはアレですかね、日本郵便の本社営業部から、そうした手仕事で顧客をつかめ! というような指示が全国の郵便局に出されているのかしら。

今日も今日とて郵便局に行きましたら、相変わらずの「ゆるカオス」ぶりな上に、カウンターの上にはこんなものがありました。

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この「期間限定」の「触診キット」が、かなり異彩を放っています。黒いケースと、隣のアヒル(?)のぬいぐるみもカオス感たっぷり。

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あまりしげしげと眺めるのも気が引けたので確認しませんでしたが、これはたぶん「かんぽ生命」の特約を宣伝するための販促ツールなんでしょうね。乳癌のリスクを理解して、もしもの時に備えましょうといった感じの。……って、この写真をわざわざ撮っている時点でじゅうぶんに怪しい人物かもしれません。「かんぽ生命」は今次の不正販売問題で保険商品の営業自粛を始めたそうですが、訪問や勧誘などの積極的な営業はしないものの、こうやって顧客が自ら「参加体験」する形なら大丈夫なのかもしれません。もっとも私はゴム製の乳房がカウンターに置かれていただけでけっこうたまげましたが。

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https://www.irasutoya.com/2015/04/25282.html

郵便局では請求書を普通郵便で送って切手代82円を支払いました。ふだん現金をほとんど使わない生活なので「Suicaとかカードで支払いできないですよね」と聞いてみたんですけど、「そういうのにはまだ対応してないんです」と局員さんからすまなそうに言われました。なんかこう……いろいろと変わらないなあ、と思ったのでした。

「つるっつる」をめぐって

先日、学校の教員室に中国人留学生の男性(二十歳くらい)が課題のレポートを提出に来たんですけど、その彼が帰ったあとに同僚の教員がこんな声をあげていました。「脚がつるっつる〜!」

なるほど、蒸し暑くなってきたこの時期、留学生のみなさんはより快適なショートパンツ姿に移行しつつあるのですが、その彼に「臑毛(すねげ)」がほとんどないので、思わずそう叫んでしまったよし。日本の男子には臑毛の濃い人が多いですから、くだんの中国人留学生の脚が際だって見えたわけですね。それで私が「確かに中国の、それも北方の男性は臑毛の薄い人が多いように思います」と言ったら、「えええ、そうなの?」「どうして?」と矢継ぎ早に聞かれて、こちらも返答に困りました。

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https://www.pakutaso.com/20180746193post-16780.html「ぱくたそフリー素材」さんから。

別に統計などの根拠があるわけじゃなく個人的な感想ですが、中国の北方、つまり北京とか、それより北の「東北三省」などの男性は臑毛など体毛の薄い方が多いみたいです。かつて中国の天津(個々も北方に属します)に留学していたときも、その後会社で中国人の同僚と一緒に仕事をしていたときも、確かに北方出身の中国人男子は「つるっつる」な方が多かった記憶があります。

これはたぶん人種的な体質の特徴ということになるのでしょう。試みにネットを検索してみたら、Wikipediaの「モンゴロイド」の項にこんな記述がありました。

モンゴロイドは、寒冷地域に適合した体質として、比較的体格が大きく、凹凸の少ない顔立ち、蒙古襞(もうこひだ、目頭の襞)、体毛が少ないこと(特に男性のひげの少なさ)などの特徴を持っている。

へええ、「新モンゴロイド」の特徴なんですね。寒冷地方に適合するなら体毛が濃い方がよさそうな気もしますが*1、確かにこの項に載っている区分地図を見ると、中国大陸に多い人種と日本列島に多い人種は異なっているようです。というか、日本列島では様々な特徴を持つ人種が入り交じっているらしい。ただこの地図では中国大陸のほとんどが「新モンゴロイド」に区分されているので、臑毛の薄い人が中国北方に特徴的に多いという説明にはならないのですが。

臑毛もヒゲも濃い私は、だから北方系じゃなくて絶対に南方系ですね。ええ、見てくれからして自分でも南方系だと思いますもの。中国や台湾に行って中国語をしゃべっていると、たいてい「東南アジア系の華人」と認識されます。日本人的な面立ちでもないということですかね。沖縄の方に「沖縄にはアンタみたいな顔の人がいっぱいいるさ〜」と言われたこともあります。

ちなみに華人のみなさんに「日本人男性の見分け方」を教わったことが何度かあります。みなさんによれば「日本人男性かどうかは『もみあげ』を見れば分かる」というのです。もみあげの下あたりが青々としていたら日本人だと。なるほど、これも新モンゴロイドと違ってヒゲなどの体毛が濃いから、もみあげも濃いし、もみあげの下の剃っている部分も青々としていがち……ということなのかな。

それともうひとつ「日本人男性は、顔などに小さなほくろが多いからすぐに分かる」と言っていた人もいました。えええ、そうかなあ。日本人にだって新モンゴロイド系の方はいるでしょうから、一概には言えないような。でも確かに、新モンゴロイド系の中国北方の男子にはあまりほくろがないような気もしてきました。今度じっくり観察してみよう……って、留学生のみなさんから怪訝な眼で見られるかもしれませんが。

*1:Wikipediaの「新モンゴロイド」の項には「氷着を防ぐため体毛は少なく頭髪が直毛である」との記述がありました。

スマホがあってもお困りの外国人観光客はいるみたい

日ごろ東京都心のターミナル駅新宿駅や渋谷駅の周辺を移動していることが多いのですが、駅の改札や地下通路の周辺地図などの前で、スマホやガイドブックを片手に困っているご様子の外国人観光客をしばしば見かけます。

私もこれでなかなかの小心者なので時と場合によりますが、そういう方々に声をかけることがあります。「めいあいへるぷゆう?(May I help you?)」とか「しゅぃやおばんぢゅーま?(需要幫助嗎?)」とか。たいていは地下街で迷っちゃったとか、どの地下鉄に乗ればいいのかわからないとか、あるいはこの店に行きたいんだけど……といった「お困り」のようです。

私も海外を旅行する時は同じようにスマホを片手にあれこれ検索しながら歩き回っているので、お困りの気持ちがよく分かります。方向音痴ではないけれど、やはり土地勘のない場所では自分がどこにいるのかさえわからなくなってしまうことがあるんですよね。あるいは向かっている方向が正しいのかどうか判断できないことが。

ただ少々解せないのは、みなさんスマホを持っていて、例えばGoogleMapみたいなアプリも使っているのに、それでも迷っちゃうという点です。GoogleMapの、とりわけルート案内機能はかなりの優れもので、単に道順だけでなく公共交通機関の時刻なども教えてくれます。私はこれで台湾や北欧などの初めて降り立った街でもほとんど問題なく歩き回れているのですが、なぜみなさんお困り状態に陥ってしまうのかと。

先日は新宿の地下街で「バスタ新宿新宿駅南口にあるバスターミナル)」に行きたいんだけど……という欧米系のご夫婦に遭遇しました。あれこれ迷って京王新線新宿駅のはずれの方まで来てしまっていて、ちょうど私は新宿駅南口に行く途中だったので「バスタ新宿」までご案内しました。歩きながら「地下街が複雑でしょ?」と聞いたら「そうそう、本当に!」とおっしゃっていました。地下街にいたからGoogleMapが使えなかったのかな? あるいは多くの外国人観光客から指摘されている日本の貧弱なフリーWi-Fi環境ゆえに検索できなかったのかな?

また別の日には、表参道で中国人(北京からとおっしゃっていました)観光客のご一家に遭遇しました。駅の改札に切符を入れても出られないので困っていたのですが、どうやら30円ほど料金が足りず、精算機での清算が必要なご様子。それで私が精算機のそばで説明して差し上げた(たまたま改札には駅員さんが不在でした)のですが、精算機の操作もまた複雑で、どこに切符を入れればいいのかひとしきり混乱しました……。

まあ確かに、あの精算機は分かりやすいとは言えないですね。東京の地下鉄の、東京メトロ都営地下鉄の区別も外国人観光客には分かりにくい。それでも精算機は一応多言語対応になっているし、落ち着いて対処すればそれほど混乱しないんじゃないかな? と思うのですが、やはりこれも初めての場所ではいつも以上に混乱して、お困り状態に陥ってしまうのかもしれません。

さらにこの中国人のご家族は、南青山の某ブランドショップに行きたいとのことで、ご自分のスマホのGoogleMapでその場所を示されました。これもたまたま私が向かう方向と同じだったので、その店の近くまで一緒に歩いて「あそこですよ」とお教えして別れたのですが、あとから私は「GoogleMapで場所が分かっているのに、どうしてお困り状態に陥るのかな?」と思ってしまいました。このご家族はさらに「ここから銀座は近いの?」とか「浅草まで歩いて行ける?」とか色々と質問をしてこられたのですが、う〜ん、正直スマホがあってGoogleMapがあれば一目瞭然なのにな……とやや不可解な思いをしました。

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https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_216.html

その時にふと考えたのですが、ひょっとするといくら便利なスマホがあっても、やはり使いこなせないとか、方向感覚がわからないとか、距離感がつかめないとか、そういう方は多いのかもしれません。私自身は、方向感覚というか空間認識というか、そういうのは比較的強い方なのでよく分からないのですが、人によりそういう方面にめっきり弱いということはあり得るのだなと。

だからって、じゃあこれ以上どうすればいいのかという妙案はちょっと思いつきません。特に東京の公共交通機関の複雑怪奇さは日本の方にだって手強いと思いますし。ただ日本がもう少しキャッシュレスのインフラ整備に力を入れるべきだとは思います。例えばフィンランドなど公共交通機関共通の切符をスマホアプリから買えるサービスが普及しています。一回限りのチケットも、一日券も、お好みの日数だけ乗り放題のチケットも、その場でスマホからカード決済で買えて、スマホ画面のQRコードがチケットになるのです。

日本はプリペイド接触式カード(Suicaなど)が普及していてこれはこれで私は大変便利なシステムだと思いますし、外国人観光客にもお勧めしたいですけど、その購入の仕方はまだちょっと面倒です。訪日外国人向けのSuicaも発売されていますが、販売場所が限られているのがちょっと痛い。かなり広範な場所で買えるようにしないと、あまり便利ではないように思います。

https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190221.pdf

www.watch.impress.co.jp

それと、GoogleMapがあっても目的地へたどり着けないタイプの方については……これはもう仕方がないですね。人には色々と向き不向きがあります。私も自分が不向きなことは人様に色々と助けてもらっていますから、これからもお困り状態とお見受けした外国人観光客にはできるだけ声をかけてみようと思います。

「話し方の訓練」をしているのかな

昨日は台湾の某テレビドラマに関連した「ファンミーティング」のお仕事でした。ドラマに出演している俳優さんたちが来日して、ファンとの“互動*1”をしたり、フォトセッションをしたり、握手会をしたり……。これまでにも何度もこうしたお仕事をしてきましたが、なにせ華やかなエンタテインメントの世界のこと、いつも「私みたいなおじさんが舞台に出ていっていいのかしら」という不安が抑えきれません。

でもそこはそれ、ファンのみなさんの眼は舞台上の俳優さんやエンタテイナー性抜群の司会者さんにくぎづけなので、通訳者などまったく気になさらないはず(文楽や歌舞伎の黒子のようなものです)……と心に念じて舞台に出ます。それにまあ、ファンミーティング自体はとてもポップな雰囲気で、みんなで一緒に盛り上がろうという感じなので、こういうお仕事を初めて頂いた十年ほど前はともかく、今ではあまり緊張しなくなりました。

それよりもっと緊張するのは、イベントに先立って行われるメディア取材です。こちらは囲み取材や一対一のインタビューなどがあって、かなり細かい質問も出されるので、予習が欠かせません(まあどんなお仕事でも予習が八割・九割ですけど)。今回も全部で三十時間ほどあるドラマ全編を見て、ネットであれこれの情報を集めて本番に臨みました。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_648.html

こうしたインタビュー通訳、先程パソコンのハードディスクを検索してみたら、最初に担当したのはもう十四〜五年ほども前のことでした。時が経つのは本当に早いです。またご本人を目の前にしてのインタビューの他に、芸能ニュースやバラエティ番組などでの発言を字幕にする仕事もずいぶんやりましたが、そのたびに感じるのは、台湾の俳優さんたち、それも年若いアイドルのみなさんが、いずれもかなりきちんとした話し方をされることです。

イベントの舞台上やバラエティ番組でのトークなどでは結構くだけたカジュアルな物言いをしていても、いざメディア取材とかインタビューの席になると、みなさんかなりきちんとした……というか、真面目なというか、ある意味「優等生的」というか、でもだからといって上っ面だけの薄っぺらい感じも少なく、あまり言いよどむこともごまかすこともなく、真正面から堂々と話されるのです。

もちろん、日本という「アウェイ」の外国に来ての発言だから多分に「よそ行き」のテイストは加わっているのかもしれません。通訳を介した会話だから、ふだんのノリが幾分かは抑制されるということもあるでしょう。例えば台湾の芸能ニュースで、台湾メディアの取材を受けている時の話し方を観察すると、「ホーム」での安心感もあるのか、多少はカジュアルな話し方に針が振れているような印象を持ちます。それでも基本、アイドルであろうと硬派の俳優であろうと、みなさんかなりロジカルにハッキリと自分の考えを述べるのです。

翻って日本のアイドルや俳優はどうかというと、このあたりの「訓練」、つまり話し方の訓練をあまりされていないような感じがします。もちろん個人差はありますが、なにかこうフィーリングというかその場のノリで感覚的なことを話し、あまりロジカルではない印象を持つのです。これはエンタテインメントの世界だけでなく、例えば野球やサッカーなどの選手に対するインタビューでも感じることです。

ただ、これも上述の状況とは逆に日本という「ホーム」での取材だから、多分にカジュアルになっているのかもしれません。日本のみなさんとて、海外で海外メディアの取材を受けるときにはそれなりに「よそ行き」になるのかもしれません。またここには主語が曖昧で、かつはっきりと言い切ることをどちらかというと避けたがる日本語の特徴が現れているのかもしれません。そこが英語同様に主語と動詞を先に出して「旗幟鮮明」にしたがる中国語との違いなのかもしれません。

さらに言えば、私にとって中国語は畢竟外語なので、そのぶんバイアスがかかっていることも考えられます。私は日本の映画やドラマに出てくる俳優さんの演技がとにかくリアリティがないので常々「毒を吐いている」のですが、これもまた自分が日本語の母語話者であるがゆえに、評価が厳しくなっている可能性がありますよね。

だから日本人はこう、華人はこう、と雑駁に決めつけることはできないのですが、かなり軽いノリのアイドルでも、正式なインタビューとなると「キリッ」とした面持ちで堂々とロジカルなことを述べる、述べることができるのはなぜなのかなといつも感じているのです。これはまた、常日頃華人留学生と接していても感じることです。小中学校や高校などで、こうした話し方の練習、あるいは意見表明の訓練を重ねているのかな? こんど留学生のみなさんにじっくり「インタビュー」してみたいと思います。

*1:interaction を意味する中国語です。ファンとの交流くらいのニュアンスです。

あの「薄いビニール袋」を何とか避けたい

通訳クラスで、フランスの留学生と話していたら、「どうして日本のお店は包装が過剰なのか」という話題になりました。そのフランス人留学生は「日本のパンも大好き」なんだそうですが、日本のパン屋さんでの、パンを一個一個袋に入れて、それをまたビニール袋に入れて……みたいなサービスが異様に映るみたいです。「フランスでも包装はするけど、薄い紙にくるくるっと巻くだけとか、中にはバゲット一本買ってそのまま持って帰る人もいます」とのことでした。

へええ。そういえば、子どもの頃に絵を習っていた先生はイタリアやフランスでの生活が長かったのですが、「長いフランスパンを買って、それをステッキがわりにして家まで返る」というジョークとも実話ともつかないような話をしてくれたことを思い出しました。「家に帰ったら、地面についていた部分をちょこっとナイフで切って捨てて、あとはそのまま食べちゃう」って。

それはさておき、留学生の観察通り日本のお店の包装は確かにちと過剰ですね。「おもてなし」といえば聞こえはいいですが、単に資源の無駄遣いのような気もします。雨の日には紙袋にビニールまでかぶせてくれるデパートなど高級店だけでなく、普通のお店でも黙っているとどんどんパッケージングが昂進していきます。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_781.html

行きつけのスーパーでも、肉や魚のトレーをはじめ、バラ売りの野菜や、冷蔵物の加工食品類(パック詰めされている豆腐とか練り物とか)など、ひとつひとつあの薄い半透明のビニール袋に入れてくれます。たぶん水分が漏れるとか湿り気があるとかの食品すべてにそういう対応をするというコンセプトなんでしょうけど、あれは実に「もったいない」と思います。

というわけで、レジでそういうサービスは不要である旨を伝えるんですけど、これがまた難しい。「その薄いビニール袋はいりませ……」と告げる間もなく、レジの店員さんはとにかく目にもとまらぬ速さの超絶技巧で薄いビニール袋を取り出し、次から次へとばんばか放り込んでいくのですから。

「レジ袋」なら言葉が短いですし、エコバックを掲げて見せたり、レジにある「レジ袋不要カード」を買い物かごに入れておけば事足りるんですけど、言葉としても長い「薄いビニール袋」が意外に難しい。行きつけのスーパーでは「レジ袋不要カード」を提示してもあの「薄いビニール袋サービス」はしてくれちゃいますし、しかもレジの店員さんは、その忙しい作業の中でも次々に薄いビニール袋を細長い棒状にたくし上げる加工をしており、より短い時間で食品を放り込めるよう虎視眈々と待ち構えているので、こちらも気が抜けません。

かといって「とにかく一切のビニール類は要りません!」と最初に宣言しちゃうのも、なんかこう「イデオロギッシュ」な感じがしてヤなんですよね。「じゃあ」ってんで一個一個「テープ貼りますね」攻撃されちゃうのも面倒だし。あああ、なんかこう、過剰な包装を一発で避ける妙案はないかしら。だって毎日のことですからね。

そういう意味では、最近増えてきた「セルフレジ」に期待をしています。自分の好きなように持って帰れますし。早く技術が進化して、買い物かごに入れたまま一括で値段を読み取れるようになったらいいな。そうすれば買い物かごにあらかじめエコバッグをかぶせておいて、そこに品物を入れていき、最後に一括清算(しかもキャッシュレスで)! とっても気持ちいいと思うんですけど。でもそうなると、それを実現するためのタグやなんかが大量に必要で、これはこれで資源の無駄遣いになるかな?

日本語はメチャクチャだけれど英語はバッチリ

ネットで調べ物をしていたら、おもしろいCM映像に出くわしました。外語学習教材「ロゼッタストーン」の宣伝です。

youtu.be

昔懐かしい「ガングロ」あるいは「ヤマンバ」の「ギャル」がお二人登場してこんなことをしゃべります。

それメンディーじゃねぇ?
卍メンブレ。もうケツカッチンだからソクサリするわ。
(電話がかかってくる)
Sorry, I’m in the middle of something. Call me back later.

このあと、「日本語はメチャクチャ 英語はバッチリ」というナレーションが入って、要するにこの「ギャル」お二人は、ロゼッタストーン・ラーニングセンターに通っていて英語が堪能だったという設定です。

「メンディー」はたぶん「面倒」のことだろうなと想像しました。「卍(まんじ)」は一時期流行りましたね。「ケツカッチン」はもうかなり昔の言葉ですし、「ソクサリ」は「即立ち去る」なんでしょう。「メンブレ」だけ分からなかったのでネットで調べたら「メンタルがブレイクする」ってことで「精神的につらい」なんだそう。

www.weblio.jp

あ、いやいや、そういう若者言葉(?)がおもしろかったんじゃなくて、日本語は滅茶苦茶だけれども英語は流暢という設定が興味深いと思ったのです。

外語は母語以上に伸びることはない、つまり母語でも言えないような複雑で高度なことは外語ではもっと言えない、というのが一般的な認識だと思いますが、最初母語だった言葉を外語が上回って、外語が母語(に近い状態)になるというケースはあり得ます。例えば幼少時に言語環境が変わって、母語をすっかり忘れてしまうとか。

ただこのCMのお二人のようにティーンエージャー、あるいは成人してから「逆転」するというのはなかなか難しいと思います。が、それでも絶対に不可能だとは言い切れないかもしれませんね。昨今は英語の早期教育をという声が朝野をあげてかまびすしいですし、そのために一家揃って海外移住という方もいらっしゃるようですから。

ただそうやって「逆転」ないしは「転換」に成功するのは非常にレアなケースで、むしろ多くの場合は母語も外語も中途半端で虻蜂取らずの「セミリンガル(ダブルリミテッド)」と呼ばれる状態に陥る危険があります。またそもそも、そういった言語の逆転や転換がはたしてご本人にとって、あるいは家族にとって幸せなことなのかどうかという点も一考に値すると思います(大きなお世話かもしれませんが)。

上掲のCMは「日本語はメチャクチャ」だけれど「英語はバッチリ」という状態にプラスの評価を与えているわけですけど(でなければ宣伝になりませんね)、この設定自体に、日本語母語話者の外語(とりわけ英語)コンプレックスと、背後に見え隠れする「セミリンガル」の危険とが感じられて、実に怖いCMだなあと思いました。

そして母語より外語が洗練されているという状態を肯定的に捉える視点、つまり侵略や植民地支配やグローバリゼーションなどの中で元々使われてきたその民族の母語よりも英語のほうが優勢になってしまった国々のことも思い出しました。日本もそうなってほしい、そうなっても構わないという発想がこのCMにも感じられて、その点でも怖いなあと思ったのです。

早期英語教育で幼少時から英語をたたき込めば「グローバル社会で活躍する人材になれる」……そう親御さんもご本人も考えるのかもしれません。でもそれは最悪「虻蜂取らず」になるし、ならなくても単に「英語の人」を作り出す可能性が大きいんじゃないかなと思います。まあ日本語を捨てて「英語の人」になっちゃっても勿論いいんですけど、私が親だったらそれはちょっと寂しく感じますねえ。

qianchong.hatenablog.com

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おいしすぎて、おいしくない。

毎日毎日炊事をしていると、ときに「ああ、今日は仕事でひどく疲れたから、手抜きしようかな」という気分になることがあります。そういう時は「もう鍋にしちゃえ」ってんで、しゃぶしゃぶ用豚肉と白菜と葱と豆腐あたりを水炊きにしてポン酢だけで食べたりします。お湯だけの水炊きだと何となく寂しいので昆布を敷いたりはしますけど……。

炊事が好きな人にとっては、食事を作って食べて片付ける過程そのものがある種ストレス発散の方法でもあるので(たぶん。少なくとも私はそうです)、どんなに疲れていても忙しくても何か手を動かして作りたくなるんですよね。よしながふみ氏のマンガ『愛がなくても喰ってゆけます。』冒頭に出てくる「締切間際なのに料理に一手間かけちゃう」というこのシーンには、だからとっても共感できるのです。

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愛がなくても喰ってゆけます。

だけど、それでもたまに、しんどくなって何も作る気力が出ないことがあります(年に数回もありませんが)。炊事に倦んだのなら、外食するとか惣菜を買って帰るという選択肢もあるんですけど、まず外食は、特に東京のそれは、もう私にとっては味が濃すぎて食べるのがつらくなってしまいました。ほんの少し前まではおいしいラーメン屋さんの食べ歩きなどしていたというのに、最近はほとんど行っていません。

qianchong.hatenablog.com

お惣菜は、デパ地下なんかで売られているお惣菜などとてもおいしそうだし、実際確かに珍しい食材なんかもあっておいしいんです。けど、これはなかなか言語化が難しいのですが「おいしすぎて、おいしくない」のです。外食同様に味が濃すぎるというのもありますが、それ以上に味が複雑すぎるというか、いろいろな味がしすぎるというか、食べてて疲れちゃう感じ……。

う〜ん、やっぱりうまく言語化できないなと常日頃から思っていたのですが、先日Twitterでこんなツイートを拝見しました。

なるほど、「うんざりするような味」と。別に添加物がたくさん入っているとか、どこかケミカルな味がするとかではないのに「食べてて疲れちゃう」感じにぴったりなような気がしました。いえ、だからって素材そのまま食べときゃいいなどと野性的なことを言うつもりはありません。

私だって例えばカレーを作るときなど、手持ちのスパイスや調味料なんかを「フリーダム」な感じでいろいろ加えて複雑な味に持って行きます。だけど、市販のレトルト食品や冷凍食品などには「うんざり」しちゃうのです。昨今のレトルト食品や冷凍食品はとっても「進化」していておいしいぞ、バカにできないぞって友人には勧められるんですけど……。

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日本統治時代の台湾におけるハンセン病患者隔離政策

昨日、元ハンセン病患者家族への賠償を命じた熊本地裁判決について、政府が控訴しない方針を決め、安倍首相が「異例のことではありますが、控訴をしないことといたしました」と表明しました。「異例のこと」に引っかかりますし(当然のことだと思うので)、参院選におけるポイント稼ぎじゃないのかという意見もありますが、私はひとまずはよかったと思います。

この件に関して、今朝の東京新聞には小さなこんな記事が載っていました。台湾における日本統治時代にもハンセン病患者への隔離政策は行われており、日本政府は日本の患者家族へ正式に謝罪するとともに台湾の患者家族にも謝罪すべきだとする支援団体の訴えを報じたものです。

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この記事を見て、昨年訪れた台湾の離島・澎湖諸島の、そのまた離島の望安嶼の、そのまたまた離島の馬鞍山嶼を思い出しました。

qianchong.hatenablog.com

この小さな島は、日本統治時代に政府が痲瘋病(ハンセン病)の患者を隔離した場所です。患者を棄民したまま、あとは本人の自活に任せたという、かなり非人道的な政策だったと友人が説明してくれました。ネットであれこれ検索するとその通りの記述が見つかりますが、一方でこちらの「Penghu.info」というウェブサイトの説明によると、患者の隔離ではなく「患者に死者が出た場合に、この島に遺棄して何の処理も行われなかった」ということです。いずれにしても非人道的な政策ですが……。

馬鞍嶼為八罩島附近面積最大的無人島,日治時期,水垵及中社兩村若有罹痲瘋病身亡者,便即時入殮,使用小船載運其棺木至該嶼北岩塊西南方的「山坑壁」(即「港仔」),再由多人扛至附近的「哈潭墓」邊,棄置後並未將其埋入地下,人船便即刻駛回。此後全村須斷炊十日,其意乃防範病菌藉由炊煙散播。至台灣光復後已不再採此方式處置,且因治療得當,痲瘋病已近絕跡。

penghu.info

こうした隔離政策は世界のあちこちで行われていました。クレタ島の沖にある「スピナロンガ」もそうですが、こうした離島のそのまた離島といったような場所が使われたんですね。

先日、教材を作成している過程で偶然、こちらの動画がYouTubeにあるのを見つけました。日本による台湾統治は1895年に始まりましたが、それから45年ほどを経て作られた「国策記録映画」です。その間の統治で台湾が(日本によって)いかに発展したかを強調し、日本における台湾の重要性を宣伝するための映画。1940年といえば日本を巡る国際情勢はかなり緊迫して来ていた時期ですが、この映画は(当然ながら)全体にとても明るい前向きなトーンで作られています。

youtu.be

でもこの映画には決して描かれないその影で、タパニー事件や霧社事件があり、また上述のようなハンセン病患者への隔離政策も行われていたわけです。こうした日本統治時代のことを私たち日本人はもっと詳しく知らなければならないと改めて思いました。

対等な言葉遣いについて

BLOGOSに載っていた岩田健太郎氏のこちらの記事に共感を覚えました。いわゆる「言葉狩り」や教条主義的な語源重視(と、そこからの批判・批難)に対して、それは短見かつ「つまらぬこと」であり、言葉の差別性は言葉の表現のされ方よりもその言葉を使う人間の心性にこそ宿っているのだという点。そして、そんな言葉狩りよりも着目すべきは、リアルな場面での差別的な言葉の使い方だという点。特に後者は、私も常々違和感を抱いていたので思わず「その通り!」と快哉を叫びました。

blogos.com

岩田氏は「特権的な立場がある、と信じ込んでそれを態度に示すのが差別である」とおっしゃっています。その実例として挙げられていたのは「初老の男性が若い女性の空港職員をつまらぬ問題で怒鳴りつけていた」というもの。確かに時折私もこうした激昂おじさん(たいがいは初老のおじさんです)を目撃することがあります。

が、私はこのような激しいものだけでなく、普段の生活の中で客側がお店側に対して「です・ます」を使わず、いわゆる「タメ口」で対応している場面に接するときも、そこに同根の心性を見出して、いささか心が曇るのです。先日も行きつけのスーパーのレジで、私の前にいたおじさんが飲料のペットボトル一本だけをレジ台に置き、「袋はご利用ですか」と聞いた店員に対して「いらねえよ! テープ貼れ!」と怒鳴っていました。

なぜ「けっこうです」とか「テープでいいです」などと言えないんでしょうね。まあこれは極端な例ですが、他にも例えば飲食店などで「水持ってきて」とか「会計してくれる?」みたいな店員への命令口調、あれも私は苦手です。カネを払っている立場だから、「タメ口」や「上から目線」でも構わないと決め込むその感性がなんとも粗雑だと思うんです。だから普段から尊敬している人や好意を持っている人にそういう一面があることが分かった途端、一気に幻滅し、百年の恋もさめちゃいます。

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https://www.irasutoya.com/2015/02/blog-post_670.html

岩田氏は「『お願いします』『ありがとうございます』『すみません』というコトバを使えない中高年男性は非常に多い(中高年の女性にも少なからずいる)」と書かれています。そんなに多い? と思うでしょうか。いやこれが存外多いんです。ふだんはいたって丁寧な話し方をしている人でも、レストランとかホテルとか、空港のロビーとか、比較的高額な出費をもたらす場所にいくほど、なぜか高圧的な方向に振れる人はけっこういます。

そしてまたこれは、年を取って、年齢の離れた若い方々につい「タメ口」や「上から目線」で接しそうになる自分を再発見して常々自戒としていることでもあります。特に教師などという職業をやっている人間は、常に「センセ」などと持ち上げられているから一番危ない。私は例えば知り合いの子供に対しても、基本的には大人に対するのと同じ口調で接したいと思っています。「〇〇ちゃん、〜だね」みたいな馴れ馴れしい口調が苦手なのです。

qianchong.hatenablog.com

もちろんこうした口調には一面「親密さ」も含まれてはいることはわかります。いつまでも「です・ます」では却ってよそよそしいとか水くさいなどと受け取る人もいるでしょう。でも少なくとも、お店の店員など初対面の人には基本的に丁寧な、というか対等な口調でありたいと思っています。

商品やサービスを受け取り、その対価を支払うという取引は、そもそもが対等な関係の上で行われるべきものだと思います。お金を払う側が偉いわけでもなければ、商品やサービスを提供する側が平身低頭しなければならないわけでもありません。これはフリーランスで働いていた時に強く感じていたことであり、いくつかの職場に勤めるようになった現在でも肝に銘じていることです。

僕が夫に出会うまで

七崎良輔氏の『僕が夫に出会うまで』を読みました。築地本願寺で初という同性婚の結婚式を挙げた氏の半生を綴るエッセイ。語り口は笑いあり涙ありとライトですが、ご自身の苦悩や葛藤や失敗までも赤裸々に公開する姿勢からは、世の中が本腰を入れてこの件に向き合ってほしいという強い思いを感じました。

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僕が夫に出会うまで

性的指向に関する知識やリテラシー、いや、もっと根源的に他者のありようについての寛容と共感は、現代に生きる人間にとって必須の資質だと思います。が、この本に登場する一部の学校の先生や警察官の対応の不見識、さらには日本社会の不寛容さには、読みながら少々我を失いそうになるほどの怒りを覚えました。しかもそれが年長者から若い人たちや子供たちに向けての攻撃であればなおさらです。NHKの某番組ではありませんが「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」と一喝したくなります。

いえ、日本だけではありませんね。先日はTwitterのタイムラインで「男の子用」「女の子用」というおもちゃの区別にこだわる親と、それをたしなめる他の大人たちの動画を見て、精神に染みついた固定観念の強さと恐さにあらためて深く考えさせられたところでした。そして自分はそうした不見識や不寛容、固定観念から本当に脱し切れているだろうかと、この本を読みながらあらためて自問したのでした。

七崎氏はこう言います。「気丈に振る舞おうとする子供たちの笑顔の裏にある悲しみや苦しみを、理解できないような大人ならば、そんな人間のアドバイスなどいらない」。この言葉も、現在教師という職業に就いている自分にはとても重い響きを持っています。それでも、この本にはそんな無理解な人を大幅に上回る数の、人の気持ちがわかる人、人の気持ちに寄り添おうとする意志を持っている人がたくさん登場します。苦悩や葛藤や失敗を綴りながらも、この本が一種の爽やかな読後感を与えてくれるのは、そうした人々の存在によるところが大きいのだと思いました。

折しもこの本を読んでいる時に、参院選の公示に合わせたテレビの党首討論公明党の山口代表がLGBTの権利に関する質問で賛意を示さなかったというニュースと、それに対する弁明のツイートに接しました。

ツイートに添えられた弁明の文章を読むと、その場で手を挙げなかった(挙げられなかった)のも無理はないかなと一瞬思いますが、よく考えてみればLGBTの人々であろうと誰であろうと、基本的人権が尊重されるべきという一点だけで「LGBTの法的な権利を認める(かどうか)」という問いにイエスと答えても何の問題もないように思われます。弁明では「『婚姻とは何か』といった、いまだ根本的に解決できていない重い課題が残っている」と述べられているにもかかわらず、このLGBTに関する質問の前にあった「選択的夫婦別姓を認める(かどうか)」という質問には挙手してイエスと答えているのですから。

選択的夫婦別姓は、それを認めることで誰も困らないという点で積極的に肯定されるべきだと思いますが、LGBTの法的権利についても全く同じだと思います。ニュージーランドの国会で同性婚に関する法案が審議された時のモーリス・ウィリアムソン氏の演説でも述べられているように、それを認めても「明日からも太陽が昇る」のです。

youtu.be

「法的な権利」という言葉があったために山口氏は躊躇したのかもしれませんが、諸外国でのLGBTに関する法制化の流れ、とりわけ最近の台湾での事例などからしても、大変失礼ながら勉強不足と言うほかありません。この本もぜひお読みになっていただきたいと思います。