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インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

解らない人には解りはしません

ほん しごと 通訳・翻訳

白洲正子氏の『お能・老木の花』を読みました。能を紹介する本は色々と読みましたが、ここまで繊細で、かつ一種の気魄というか情念のようなものを帯びつつ迫ってくる文章は初めてでした。間に挟まれた芸談『梅若実聞書』も実に読み応えがありました。

『梅若実聞書』に、芸事の稽古では師匠(梅若実氏の場合は父上)が単に「そこが悪い、ここがいけない」と言うだけ、ちっとも教えてはくれないという話が出てきます。しかし氏は老境に至ってこう言うのです。

いくら説明しても、解らない人には解りはしません。昔の教え方はいかにも意地が悪いようですが、始めのうちはともかくも、少し上達すると、実際教えようにも教えられない事ばかしです。自分にはよく解っているのですが、さて口に出していう段になりますと、どうも間違った意味にとられるおそれがありまして、ついだまって止してしまうという事になりますが、……能というものは、出来るだけしか出来ないんですからやはりふだんの稽古だけが大切なようでございます。辛抱強く数をかけることですね。

う〜ん、何でもかんでも自分に引き寄せて解釈しちゃいますが、これって語学でも通訳でも翻訳でも同じですよね、いや本当に。

ふだん通訳学校や語学学校では通訳や翻訳の授業を担当しています。自分もかつてそういう学校に通っていたことがあり、なおかつその時の小さな不満は「訳出する時間が少なすぎる」というものでした。例えば通訳だと、ひとクラスに十数名の生徒がいるので、三時間ほどの授業で自分に訳出が回ってくるチャンスは数回しかありませんでした。

そこはそれ、他の人があたっている時でも自分の頭の中で、あるいはごくごく小さな声で訳出の練習をすればいいのですし、もとより週一回三時間程度の授業だけで訓練の成果が出るはずもなく、訓練の大半は自宅での「自主トレ」であることは承知していました。とはいえ、やはり「本番」でドキドキしながら訳出をして、それに対する講師やクラスメートの意見、なかんずく、自分では気づかないでいたポイントを指摘してもらえるのは非常にありがたいことでありまして。というか、通訳学校に通うメリットはひとえに、そこにこそあると言っても過言ではないわけでして。

そこで、自分が講師の立場になったときには、できるだけ訳出の時間を増やそう、それに対するフィードバックもたくさん行おうと思ったのです。

ただし、数時間しかない授業時間で大勢の生徒さんに訳出をしてもらおうと思ったら、いきおいLL(やCALL)で一斉に録音し、それを後で聞いてひとりひとりにコメントを返すしかありません。それは授業以外にも自宅などで延々録音を聴き、レビューを書くという大量の「時間外労働」の発生を意味するのですが、それでも生徒さんのためになるのならば、とそのスタイルを堅持してきたわけです。

ところが。

梅若実氏の顰みに倣って言うならば「いくら説明しても、解らない人には解りはしません、意地悪なようだけど」なんですよね。通訳でも翻訳でも、訳出内容の適否以前に、大きな声でイキイキと話すとか、ホスピタリティを感じさせるとか、「です・ます」で話すとか、「えー」や「あー」などの冗語をなるべく差し挟まないとか、「○○のぉ⤴、○○がぁ⤴」のように助詞や語尾を不必要に上げ調子で強調しないとか、基本中の基本、鉄則があるわけです。翻訳なら「段落の最初は必ず一文字あける」とか「句読点や記号の使い方に留意する」とか。

そうした指摘をうけて、どんどん自分を改善していく方もいます。でも一方で、何度指摘しても同じパフォーマンスを繰り返す方もいる。レビューには毎回同じような指摘が並ぶことになります(実際には「芸がないかな」と思って表現をあれこれ変えますが)。……これは学校の営業的にはタブーの物言いですけど、そういう方はこの仕事に「向いてない」のです。もちろん向いてなくても学ぶ自由はあります。私だって後から考えれば全く向いていなかった分野を、大学では専攻していましたしね(それでもなにがしかの人生の糧になってる)。

以前ならそういう生徒さんに強い口調で迫ったりもしましたが、もうそういうことはやらないようにしました。梅若実氏の仰るように、言ったからといって、解ってもらえるわけでもないんですよね。それよりも「辛抱強く数をかけ」、生徒さん自身の中から何かが醸成されるのを待つべきなのでしょう。いや、むしろ教師の役割はそれを信じて(よい意味での)プレッシャーをかけ続け、励まし続けることだけなのかもしれません。もとより語学は「辛抱強く数をかけ」ることでしか習得できないものですし。

ところで、通勤電車の中で梅若実氏のこのくだりを読んでいたく共感したので、付箋を貼ろうと思うも手元に付箋がありませんでした。仕方がないのでページの端を折ろうとしたら、なんと先に誰かが折った後がついていました。この本はAmazonマーケットプレイスで買ったのですが、前に読んだ方も、ここで同じようにご自分の仕事に通じる何かを感じられたのかしら。

煙のゆくえ

ほん くらし

ぶらりと立ち寄った書店で平積みになっていたこの本、面白そうなので買ってみました。わら半紙のような風合いの紙にコーティングした感じの表紙で、カバーも帯もなく角がカーブの裁ち切りになっている素敵な装幀です。

K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。 (コーヒーと一冊)

K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。 (コーヒーと一冊)

著者の江弘毅氏はTwitterのタイムラインでお見かけしたことが何度もあるけれど、ご著書を読んだのは初めてでした。関西弁の、ちょっと無頼派風な語り口で「これ、ちょっとおかしいんちゃう?」と世の中のあれこれを論じる本ですが、極私的なお話があちこちに飛ぶので、正直に申し上げて論旨はあまり頭に入ってきませんでした。

まあそれも文体というか芸風であると理解して、この本を含むシリーズのコンセプト「コーヒーと一冊」に従って、気楽に読み飛ばせばよいのかもしれません。しかしながら、喫煙に関する一文だけは気楽に読み飛ばすことができない引っかかりを感じたので、それを書いてみようと思います。

詳しくは同書を読んでいただくしかないのですが、江氏は「『タイトル、まだ決まってません。』的な禁煙の話。」という一文で、喫煙についてこのようなお考えを披露されています。

煙草は酒に比べて害がない。
やめたくてもやめられないのがニコチン中毒の怖さだ。
煙草を吸う理由は、うまいからだ*1
煙草は仕事をしながら吸える。酒はそうは行かない。
煙草を吸いながら車の運転もできる。酒はそうは行かない。
禁煙を真剣に考えているが、ニコチンパッチやニコレットを使うのは「ヘタレのやること」だ。
煙草が原因で喧嘩はしないが、酒は暴力や人格破綻や精神障害や自殺の引き金になる。

以上は本文中の文章そのままではなく、私が抽出したものですから、江氏ご本人のお考えが十全に反映されているとは言えないかもしれません。ぜひ同書を買い求めてお確かめいただきたいと思います。ですが、ここにはひとつだけ、喫煙者特有の思考法が如実に表れているのを見て取ることができます。

それは「他者への視線がほとんど含まれていない」という点です。

これまで喫煙を容認・擁護・賛美・正当化……するあまたの論者の文章を読んできましたが、そこに共通するのはこの「他者への視線の欠如」です。個人の嗜好品なのだから、他者への視線も何も、と思われるでしょうか。いえ、その行為の結果が個人の範囲にとどまらず、周囲の他者をも強引に引き込んでしまう喫煙においては、決して欠かしてはならないポイントだと私は思います。

回りくどい書き方はやめましょう。喫煙最大の問題は煙です。その煙のゆくえが、周囲の人間にとって前触れなくかつ不可避的であるとともに、喫煙行為を行っているご本人さえ制御不能だという点です(やはり回りくどいですね)。他の話題では素晴らしい論旨を展開している賢人や明哲が、こと喫煙の問題、なかんずく煙のゆくえの問題になるとそれこそ人を煙に巻いたような論を繰り返すのはなぜなのでしょうか。養老孟司氏しかり、内田樹氏しかり、池田清彦氏しかり……。

江氏のように、煙草を酒と比較して擁護するのは古典的な論法ですが、そもそも同一に論じること自体がおかしいのではないかと思います。それぞれにメリットとデメリットがある、それは当然のことです。何も煙草や酒だけに限ったものではありません。しかし、煙草の「他者」へもたらす迷惑については、これは他の嗜好品と一列に論じるわけにはいきません。それは煙草が発する煙が広範囲に拡散するからです。

いったん自分の口や鼻や、手にした煙草の先から放たれた煙は、ご本人の意志とは全く無関係に様々な方向へ拡散するのです。拡散した瞬間、個人の責任範囲に押し込めておける問題ではなくなります。「俺は俺の自由と責任において吸っているんだ」と言っても、それは空語に等しいのです。放たれた煙を物理的に制御することができない以上は。

こう言うと、じゃあ車の排気ガスはどうなんだと反論してくる方が必ずいらっしゃいます。これも古典的な問題のすり替えです。車と煙草では、社会における必要性と貢献度が全く違います。もちろん人間社会に完全無欠な理想の状態などありえない。それでもできうる限り公益を増す方向で様々な試みや努力が重ねられています。車の排気ガス抑制のために、ハイブリッド車電気自動車燃料電池車、さらにはカーシェアやカーボンフリーの取り組みなど。

一方で煙草は? 分煙・禁煙・自治体単位での歩行喫煙の制限など様々な取り組みがなされてはいますが、一嗜好品であるにも関わらず、いまだに喫煙者「個人」の思惑と私欲が半ば放置されたままではありませんか。

こう言うと、喫煙擁護派の方々からは、人権無視だ、管理社会だ、余裕のない社会だ、人間としての振り幅や曖昧さを全てカットしようとする現代人の病だ……みたいな反論が寄せられます。そんな難しいことを言ってるんじゃありません。あなたが煙草を吸うのは全く自由、100%自由です。ただし、その煙を私が、時と場所を問わず不意に、一方的に、制限なく吸わされるのは勘弁してくださいということです。それだけ。

それだけを実現するために何をすればいいか? それこそ、その自由を享受しようとする喫煙者自身がまず率先して考えるべきだと思いますが、なぜかそこに触れた喫煙者による喫煙論は見かけません。もし私が喫煙者であれば、いろいろと考えた上で「まず自分個人の部屋の中でしか吸えない、もしくはお互いに吐いた煙を吸い合ってもよいという合意が成立していると考えられる喫煙所のような密閉空間でしか吸えない」という合理的な判断に行きつかざるを得ないと思いますが。

もちろん、様々な人間が一緒に生きている社会の中で、現実的に折り合いをつけていくことは大切でしょう。私だって喫煙という一種の長い歴史を持つ「文化」が、今すぐこの世の中からなくなる、あるいはなくなってしまえ、と思っているわけではありません。少しずつ少しずつみんなが気持ちよく生きていける方向へ持って行くしかないでしょう。ですが、江氏のように、それを単なる個人の芸風に落とし込んで斜に構えるだけで、ちっとも他者に、そして「煙のゆくえ」に想像を向けないのはとても不誠実な態度だと思います。

無頼を気取るのもけっこう、「オレとこは家系がガン体質ちゃう、どっちゅうことあるかい」と強がるのもけっこう、昨今のせちがらい風潮を嘆いてみせるのもけっこうです。でも、拡散する煙という物理的特性を持った煙草という問題に関して、単に「俺はバカだから自分の身体に悪いと思っててもやめられへんねん」とだけ言われてもね……。

総じて江氏のこの喫煙に関する文章は、オレがオレがだけで他者への視線が感じられません。私は江氏とは一面識もありませんから「大きなお世話」と言われればそれまでですが、もうすこし、喫煙という行為の特徴を自覚していただきたいものです。そしてご自分の吐いた煙のゆくえを追い、想像を働かせてみてください。人間は感情の動物ですから、ああこの方は悩みつつも他者のことも考えて吸っているんだな感が行間から伝わってくれば、私だって多少の煙を吸わされても目くじら立てませんよ(というか街で日常的に吸わされてるけど)。

こういうこと、誰も言わへんから言うときます。

*1:「鮨屋でネギトロで締めてアガリを飲みながら吸うピース・スーパーライトの味は、これ以上のものがないと思っている」そうです。

字幕翻訳のレートがあまりにも低い件について

通訳・翻訳 しごと

足かけ十年ほど、途中休みをはさみながらも台湾エンターテインメント関係の字幕翻訳を続けてきました。ドラマやバラエティ番組、それにファンの方々が視聴するエンタメニュースなどの字幕を作るお仕事です。毎週しめきりに追われるなかなかタフなお仕事でしたが、先週でめでたく(?)「卒業」することになりました。

クライアントは、翻訳者にとても理解のある会社でしたが、正直に申し上げればそれほど「稼げる」お仕事ではありませんでした。それでも元々台湾エンタメが好きなこともあり、また原文や音声を読み込んだり聞き込んだりして日本語の字幕を作る作業そのものが面白くて、ここまで続けることができました。

最初に提示された翻訳料はかなりお安かったのですが、こちらから「もう少しなんとかなりませんか」と交渉を持ちかけて、結果そこそこのレートに落ち着きました。それでも労働量に見合った報酬かと言われたら、あるいは人にもお勧めするかと言われたら……正直なところ「微妙」です。

字幕翻訳者募集のメール

その仕事を「卒業」した週明けの今日、こんなメールが届きました。字幕翻訳のソフトを開発している会社経由で紹介された、某社からの「字幕翻訳者募集」のお知らせです。

■言語:英語、韓国語、その他各国語
■ジャンル:ドラマシリーズ作品、長尺作品、ドキュメンタリー作品、情報番組 他
■応募条件:字幕の技術をお持ちの方、もしくはスポッティング技術をお持ちの方。
■料金:
【英語作品】
●スポッティング:分/50円~
●字幕作成:分/350~800円
●字幕リライト:分/125円~500円
【韓国語作品】
●スポッティング:分/50円~
●字幕作成:分/130~600円
●ヒアリング~字幕作成:分/200円~600円

この料金は平均的なレートで、案件の条件や翻訳者の実績等に応じて変動するそうです。もとより英語と韓国語のみなので私は「お呼びじゃない」のですが、それにしても驚きのレートではありませんか。実際に字幕翻訳をやってみれば分かると思いますが、これは「超」低賃金です。

初期投資と実際の細々とした作業

現在、字幕翻訳のお仕事を行う場合、基本的には業界標準のとある専用ソフトを使う必要があります。このソフト、最近になって状況は変わりつつあるもののほぼ一社独占の状態で、競争原理が働いていないため非常にお高くなっています。十年ほど前の私の購入時で約四十万円*1でした。

その高価なソフトを用いて、ドラマや映画なら基本的に台本を元原稿として、またバラエティ番組やエンタメニュースなら原稿がないので映像を直接視聴して、音声や場面に合わせてスポッティング*2し、翻訳文を考えて打ち込んでいきます。最終的にはこのソフト独自の形式でデータを抽出し、クライアントに「納品」することになります。

字幕翻訳は一般的な翻訳とはかなり違う世界で、単に正確に訳せばいいというだけのものではありません。長い間の経験から人間が一秒間に読み取れる字数というものが割り出されていて(一秒間に四文字以内)、その字数の範囲内で達意かつ当意即妙な日本語を書かなければなりません。

また現れてすぐに消え、あとから読み直すことができないという字幕の性質から、単独の字幕ないしは最大二つの字幕で文章が完結しなければいけません。一度に画面に乗せることができる最大の字数は、制作会社によって多少の差はありますが、十二文字×二段=二十四文字程度。もちろん訳注などを差し挟むこともできません。

しかも公共の電波、あるいはインターネットに乗ることが前提ですので、あまり難解でマニアックな言い回しも使えません。案件によって多少の調整の余地はあるものの、基本的には老若男女が読み取ることを前提にしなければならないのです。

また演出的な配慮も必要です。基本は話し言葉ですし、会話なのか独白なのかナレーションなのか等々で文体も違ってきます。ドラマでも映画でも、あるいはバラエティでもエンタメニュースでも、その背景を理解し、前後関係を考え、話している人間のキャラクターまで考慮して*3、少ない文字数と格闘しているのです。

この辺りの事情については、先日亡くなられた太田直子氏が書かれたこの本が参考になると思います。

そんな字幕翻訳特有の作業が諸々あって*4上記のお値段。こんな低いレートでも請ける方がいるのかどうかは不明ですが、早晩業界は崩壊するんじゃないかなあと思います。だって、端的に言って食べていけないもの。私はまあ十年のうちにソフト代の「モト」は取り、利益も出ましたけど。

実際には演出や情景描写の関係で全くセリフが入らず、従って字幕を作成する必要がない部分もあったりします。そういった字幕の「粗密」も込み込みで上記のレートが決まっているのですが、セリフがないからといってその部分を飛ばして見るわけにもいかず(前後のセリフに関係のある描写がなされている可能性が高いから)、結局注意深く映像を見るという作業自体は変わりません。翻訳とは単に文字を右から左へ転がすだけの作業ではないのです。字幕翻訳者は、映像全体を誰よりも深く細かく視聴して、いろいろな調べ物をして、その上で言葉を変換して日本語で書くという総合的な技術を提供しているのです。

通訳と翻訳の合わせ技

台本という原稿があるドラマや映画の字幕翻訳もすごく難しくて楽しいお仕事ですが、バラエティやニュースなどの原稿がないエンタメ字幕翻訳も違った楽しさがあります。なにより「今」を感じられる新鮮な表現で外語耳が鍛えられます。私は毎回、何度聴いても聴き取れない場所で呻吟しながらも、いろいろな表現に接することができ、勉強になりました*5。だけど勉強になるからとはいえ低賃金でいいわけじゃないですよね。

上記の募集で韓国語に「ヒアリング~字幕作成」とありますが、これがたぶん原稿のないエンタメ字幕でしょうね。普通翻訳はある原語の文字から別の言語の文字へと行われる作業ですが、原稿がないエンタメ字幕の場合は、聴き取った音声から文字を起こす作業です。入口は通訳的で出口が翻訳的な「合わせ技」なんですね。でも他の国はわかりませんが、我が日本ではこういう作業にあまり報酬という形での敬意が払われないのが何とも残念です。

訛りがあり、雑音があり、時に曖昧な話し方や文法的に正しいとは言えない話し方もあるのがエンタメ字幕翻訳の難しさであり、また楽しさでもあります。物理的にほとんど聴き取れなくても前後の発言から判断したり、ネットの情報*6で裏を取ったりして。でもそれには本当に本当に膨大な作業量が必要です。だからなおさら、上記のような低賃金はないと思います。

十数年前に私が字幕のお仕事を始めた頃からしても、レートは下がり続けています。こんなことを続けていたら、やっぱりこの業界の先行きは暗いんじゃないかなあと思います。ひとり字幕のみならず、翻訳業界全体の問題ですけどね。

*1:仲介に入ってくださったプロダクションのご厚意で、ここから多少割り引いて頂きましたが。

*2:とても大雑把に言うと、セリフの場所と長さを決めること。実際には一秒よりも短い映像のコマ単位で微調整しています。

*3:例えば自分のことを「私」と呼ぶのか「僕」と呼ぶのか「俺」と呼ぶのか……等々で「キャラ」は全く違ってきます。

*4:実際にはまだまだテクニカルな作業内容があり、例えば音声が聞こえる数コマ前から字幕を出し、音声が消えて数コマあとに消すなど、対応しなければならない事柄が多々あるのですが、煩雑になるので割愛します。

*5:台湾のエンタメには時々台湾語が出現して、これがまた翻訳者泣かせです。でもこれも調べたり勉強したりしてなんとか対応できるようになりました。

*6:熱いファンのみなさんがSNSなどでアイドルの一挙手一投足や発言のあれこれを拾って発信していたりするのです。

「ペラペラ」だなんておこがましくてとても言えない

ことば

もうずいぶん前のことですけど、毎日新聞に「村上春樹さん、村上文学を語る」という特集記事が載っていました。当時はウェブ版に未掲載でしたが、今はネットで一部が読めるようになっています。例えばこちら。

www.47news.jp

この中で村上氏にインタビューした編集者が「外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」と仰っています。外語を学べば、その言語を使う人々と話ができる「実利」があるのはもちろんだけれど、それのみならず母語の世界を広げることにもなるというのがおもしろいと思いました。

そうなんですよね。外語を学ぶ時によく「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」などといった形容が聞かれますが、外語を学ぶことは必ずしも外国人と「かっこよく」コミュニケーションすることだけが目的じゃありません。語学の達人と呼ばれるあまたの先人の言に接してみれば分かることですが、外語を学べば、おのずと視線は母語に向かうようです。さらに言えば、外語学習は実は母語との往還作業であり、母語がベースとなって初めて外語という新たで豊かなフロンティアが開けるものなのです。

だから外語を学べば学ぶほど、母語の豊かさが外語の伸びしろを担保しているのだということが分かります。死ぬまで一生懸命に勉強しても母語で言えること以上に高度なことが言える外語の使い手にはなれないという事実*1の前になんだか謙虚な気持ちになり、したがって「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」とか「バイリンガル」などといった形容を使えなくなります。とてもじゃないけどおこがましくて。

私はこの十数年ほど、仕事でかなりの時間をディクテーション(音声を文字に書き起こすこと)に割いてきました。それは教材作りであったり、台本のない映像(バラエティ番組やインタビューなど)の字幕作成であったり、時に自分の興味からや語学の基礎訓練のためであったりもしましたが、とにかく様々な年齢層、様々な職業の中国語母語話者の発言を一字一句書き起こす作業を続けてきました。

それらの発言は、ほとんどが原稿を読み上げるのではなく、その場でその方が「フリーハンド」で語っているものばかりです。その何百人もの中国語母語話者の発言を書き起こしていて今さらながらに気づいたのは、母語話者であっても、その母語のレベルは様々であるという当たり前の事実でした。日本語が母語の日本人だって、ほれぼれするような言葉の使い手がいる一方で、「美味しい」も「美しい」も「感動した」も「失敗した」も「気持ちいい」も「気持ち悪い」もすべて「ヤバイ」で済ませちゃう方もいる。

もちろん私は日本語母語話者ですから、基本的にはどんな発言であっても自分にとっては外語の貴重な教材になります。ところが、やっぱり外語であっても「しょーもない」発言は「しょーもない」し、含蓄のある発言はすぐさま座右の銘に加えたいくらい含蓄があるのです。いや、本当に当たり前のことなんですけど。

村上春樹氏は「外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」そうですが、もともとの日本語が貧弱であれば、いかに外国語を媒介にしようとも新たな日本語の文体は生まれ得なかったはずです。日本で生まれて日本に暮らしている日本人なら日本語ができて当たり前、でもそれでは今後グローバル化して行く世界に乗り遅れちゃうからまずは英語ペラペラに……とつい浮き足立つ昨今ですけど、まずは自分の母語を充実させる努力が大切だと改めて思ったのでした。

*1:幼少期の母語が移民などの結果失われて、外語が新たな母語になるというケースはあり得るでしょうけど。

君たちはどう生きるか

ほん

久しぶりに吉野源三郎氏の『君たちはどう生きるか』を読み返しました。手元にある岩波文庫版の奥付を見ると「1982年11月16日 第1刷発行」となっています。今の白い表紙に肌色の背*1がついたカバーではなく、パラフィン紙がかかった古い仕様です。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

初めて読んだ時によほど感動したと見えて、読了日が鉛筆で書き込んでありました。「1982年11月18日」。当時なぜこの本を読もうと思ったのかは記憶がありませんが、とにかく発売後すぐに手に入れて読んだわけですね。ただ、夜に読み始めたら止まらなくなり、深夜まで読み続けて読了し、その後も興奮で眠れずほとんど徹夜で朝を迎えたことを今でもよく覚えています。

それほど感動的な本でした。個人と社会の関係をこれほど平明に説いた本を他に知りません。それ以来この本は、生き方の指針のひとつとして今に到っています。岩波文庫版は1982年の発行ですが、実はこの本、最初の版が出たのは1937年、盧溝橋事件で泥沼の日中戦争に突き進み、ファシズムが日本全体を覆わんとしていた頃でした。吉野源三郎氏自身のあとがきと、岩波文庫版に寄せられている丸山眞男氏の解説によれば、この本はそんな時勢に向き合う気持ちと、次の世代を担うべき大切な子供たちに希望を託したいという切実な願いから執筆されたそうです。

一番思い出深いのは「豆腐屋の浦川君」のエピソードかなあ。主人公のコペル君は、銀行の重役だった父親が早くに亡くなったとはいうものの裕福な家庭の出身で、かたやクラスメートの浦川君は時に家業の豆腐屋を手伝わなければならないために勉強が遅れがちな「貧しき友」。そんな二人が心を通わせていく経緯と、とくにコペル君が浦川君を通して貧困とは、労働とは、そしてまだ若い自分が今後社会に何をなしていくべきかを考え始める……という物語は、時代の異なる現代の私たちもじゅうぶん学ぶに足る内容だと思うのです。

ぜひぜひ、若い方々には特に、おすすめ。

*1:この肌色はかつての岩波文庫の「デフォルト」だった表紙の色を引き継いだものですね。

iPhoneやAndroidは機械通訳の夢を見せるか

ことば 通訳・翻訳

「言語の壁は崩壊寸前」という、興味深い記事を読みました。

こういう話題に接すると、商売柄すぐに「食えなくなるかも」といったナマな思考回路が働くのですが、そこをいったん離れてもっと大きな空想をしてみたいと思いました。

jp.wsj.com

三年ほど前に「自動通訳機械の実現は、量子コンピュータでも実現しないと難しいんじゃないか」とやや皮肉まじりに書いたことがあるのですが、この記事を読んで以前は「まだまだ」と思っていた自動通訳機械(自動翻訳+音声による出入力)*1が、意外にはやく実現するのかも知れないと思いました。特に観光ガイドや、見学・買い物等のアテンドなど「難易度」の低い分野ではすでに様々なサービスが登場していますし、その精度も日々向上しているようです。

一方で音声処理技術の進化も日進月歩、私のような門外漢でさえ、その利便性に「こんなこともできるのか!」と驚きの連続です。登場した当初はそのとんちんかんな答えや無反応が笑いを誘ったSiriやGoogle音声認識だって、かなり便利になってきました。今では私も往来で検索するときなど、かなりスマートフォンの音声機能を使っています。

Twitterなどでは、上記の記事に対して「通訳者や翻訳者は失業する」という意見も散見されました。でも私は、複雑な交渉や文化芸術等に関する領域、テクニカルな内容満載の会議通訳では、今後もまだ当分の間は生身の人間が必要とされると思います。型どおりの儀式や会議ならともかく、最先端の知見がぶつかり合う現場でのやりとりは、用いられる言葉の範囲があまりにも広く、予測不可能で展開が複雑に絡み合っているからです。

ですが……それも、この記事が言うように「データ量の増加とコンピューターの能力向上、ソフトウエアの改善」という時間の問題かも知れません。今はまだ不完全な機械翻訳でも、例えばDuolingo*2のように膨大な数の人間が翻訳結果の改善に力を注ぎ、音声による出入力も各国で官民挙げて技術向上が図られていくのであれば。

自動通訳機械が普及した状態とは

実務に耐えうる自動通訳機械なりシステムなりが実現するのが数年先か数十年先か、それとも百年単位の遠い未来かは分かりませんが、もし本当に実現したら人々のコミュニケーション方式は大きく変わるでしょうね。

現段階の自動通訳機械は、パソコンやiPhoneAndroidなどのスマートフォン等のデバイスを介した、訳出にも多少のタイムラグが生じるプリミティブなものですけど、今後ウェアラブル端末がより進化して、コミュニケーションにおけるストレスを感じない装着感とタイムラグで自動通訳が行われるようになるかも知れません。腕時計と同じようなごく普通の身体感覚として馴染んでいくのでしょう。

現在の我々は、自分の発話を理解してくれていると思える相手に向けてでないと、話すときにストレスを覚えるようです。電話でも相手が自分の言語を理解してくれないときはどうしようもない「隔靴掻痒感」に襲われますし、逐次通訳をしているときなど相手側はこちら側の主役ではなく通訳者の我々に向かってコンタクトしてくる傾向があります。

でもこれも、生まれたときから「自動通訳環境」がある人々ならごく自然に「装置」を介したコミュニケーションに慣れ、それに応じた身体作法を身につけていくのかも知れません。生まれたときからインターネットがあって、ラインなどでの会話が「デフォルト」である若者たちのように。異なる言語間の背後にある「自動通訳システム」が、その存在をほとんど感じさせない空気のようなものになって、人類にとって言語の差とか他言語などという概念が徐々に薄まっていくのかも知れません。

そして母語や外語という概念も軽くなり、ひいては通訳者や翻訳者という職業も「かつてはそういうお仕事があったんだってね」と語られるような時代が来るのかも知れません。電話交換手や植字工やキーパンチャーや……などのように。

知は差異に宿る

ですが、ここで大きな疑問があります。異なる言語間のコミュニケーションがすべて自動通訳に置き換わったとして、人類の知見はそれ以上進歩するのでしょうか。自動通訳システムは異なる言語間の膨大な翻訳結果を集積したビッグデータをその基盤としていますが、人々が十全に自動通訳システムを享受するようになったあかつきには翻訳作業、つまり母語と外語との往還なり比較なり分析なりをする人が減っていくという自家撞着に陥ることはないのでしょうか。

人それぞれが、それぞれの母語だけで暮らしていくことができ、母語以外の例えば英語のような「世界共通語」の習得に人生のかなりの時間を割かなくてもよくなる未来は今よりずっと素晴らしい世界のようにも思えます。でも一方で、語学をやった者の実感として、母語と外語の往還にこそ我々の思考を深めるカギが潜んでいるとも思えるのです。人類は絶えず異言語・異文化に目を向け、興味を持ち、それを知りたいと思う欲求こそが学びを起動させ、そこから得られた洞察が人類の「知的コンテンツ」となって蓄積されてきました。異なる者との接触の中で、多様性の中で思考も鍛えられてきたのだと思います。

そうした学びが自動通訳システムで失われた、あるいは大幅に減少した未来社会で、各言語の使い手が単に自分の母語の内側だけでコミュニケーションを行い(だって他言語とのコミュニケーションはストレスのない状態で提供されているのですから、母語のみで聞き話すこととほとんど同じです)、異言語や異文化に対する興味も警戒も共感も反感も怖れも憧れも単に母語の内輪での振幅に押し込められてしまった世界で、知は深められていくのでしょうか。

前出の記事は「理論的には、機械翻訳のおかげでわれわれ誰もがバベルの塔を意のままにできるようになるだろう」という言葉で締めくくられています。私は「神がバベルの塔を破壊し、人々の言語をバラバラにした」という神話の意味は本当に深いと思いました。バラバラになった差異の中にこそ、知は宿ると思うからです。

*1:ネットを渉猟するに「自動通訳」や「自動翻訳」や「通訳機」等、いろいろな言葉が混在しているようです。現段階ではネット翻訳のような文章の変換が「機械翻訳」と呼ばれているようですが、その音声版、つまり「機械通訳」についてはその呼称が定まっていない印象。例えばNTTドコモが取り組んでいるという「みらい翻訳」という事業ですが、その音声版サービスは「はなして翻訳」と名付けられており、文章の変換=翻訳、音声の変換=通訳という概念が「ごっちゃ」になっています。もっとも中国語ではTranslationもInterpretationも“翻訳”と言い、文章の変換(日本語で言う翻訳)は“筆譯”、音声の変換(日本語で言う通訳)は“口譯”なんですけど。ああややこしい。

*2:私もここで英語の学習に取り組んでいますが、学習中に入力する母語方向への翻訳が、翻訳結果の改善に貢献するような仕組みになっています。→Wikipedia

私たちのナイーブな言語観について

通訳・翻訳 ことば しごと

台湾の総統(大統領)選挙と立法院(国会)議員選挙が行われ、民進党蔡英文氏が大統領に当選、立法院でも民進党議席の過半数を占めるという「完全勝利」で幕を閉じました。

一昨年、「反服貿」の「ひまわり学運」が立法院占拠という形に発展した際、日本の一部にやや扇情的にそれを支持する声が広がっていたことに対して、私はこう疑問を呈しました*1

民主主義を希求するならば議場占拠ではなく統一地方選や次期大統領(総統)選で馬英九氏を追い詰め撤回というような民主主義のルールを踏むべきだと思います。
http://qianchong.hatenablog.com/entries/2014/04/01

今春から始動する蔡英文政権が「服貿」の見直しを行うかどうかは分かりませんが、こうして民意を動かし、政権を奪還したこと、そういう健全なメカニズムが機能することは素晴らしいと思います。

こちらは、選挙当日の記者会見。


勝選國際記者會 蔡英文:團結、壯大國家,並且一致對外,是我最重要的責任。

「通訳兄さん」登場

ところで、この記者会見について、意外な部分が話題になっていました。


蔡國際記者會 「口譯哥」秀流利英文 網友:戀愛了

記者会見で英語の通訳を務めた趙怡翔氏が人気になっているというのです。「口譯哥(通訳兄さん)」の素敵な声に「耳朵懷孕了(耳が妊娠しちゃった)」とか……ちょっとちょっと。でも、ふだんは裏方であり黒衣的存在である通訳者がこうやってクローズアップされるのは面白いですね。

この件について、さらにTwitterでこんな報道を教えていただきました。

www.storm.mg

もとより蔡英文氏は英語が堪能なのに、なぜわざわざ通訳者を使うのか……について、その疑問に答え、さらには通訳者という職業についての基礎的な知識を提供しています。こういう解説が新聞に載るところが多言語国家ならではというか、一種の「すごみ」ですよね。

【追記】通訳者のささきち(@jiyanY)さんがこの記事を「速攻」で日本語訳されています。仕事はやい〜、素晴らしい〜! ぜひお読みいただきたいと思います。


https://twitter.com/jiyanY/status/689644410741456897
https://twitter.com/jiyanY/status/689644511572557824
https://twitter.com/jiyanY/status/689644591419494400

このブログでも何度も書いていますが、総じて日本の方々は「母語」で話すことと「外語」で話すことの違い、「外語」で話すことの功罪、通訳者が行っている作業について……などなどへの理解が薄いように思います。

それはほぼ単一言語国家と言っていい日本の、ある意味幸せな部分でもあります。侵略や植民地統治の結果、土着の言葉以外に英語もかなりの比重で使わざるを得なくなったインドやフィリピンなどの国々と違い、単一の言語で社会が機能し、文化を成熟させていくことができるのですから。でも逆にそうであったが故に日本人は外語に対して未だにナイーブな感覚のままでいるのだとも言えます。

「誠意があれば通じる」のか

以下、ちょっと「disる」ようで心苦しいですが、「ナイーブ」の例をひとつご紹介してみます。上記の、蔡英文氏による記者会見の映像で、31分25秒あたりからをご覧ください。この記者会見で日本のメディアとしては唯一、読売新聞の記者が中国語で質問しています。……が、私などが言うのも大変おこがましいのですが、この方の中国語はどうひいき目に聞いても拙いと思います。内容はありますが、発音と発話の仕方がとても拙い。

内容があればよいではないか、発音や発話のスタイルなどは二の次だろうと思われますか。私もそう思います。そう思いたい。でもね、相手もそう思うかどうかはまた別の問題なんです。これ、なかなか想像するのが難しいのですが、例えば安倍首相の記者会見で外国の記者が質問に立ち、その方の日本語がひどく聞きづらい(聞き取る際に大きなストレスを感じざるを得ない)ものだったらどう感じますか。

「一所懸命に、慣れない日本語を駆使して質問してくれてありがとう」と思う人もいるでしょう。私もその記者の度胸に賞賛と声援を送りたいと思います。でも世の中には逆に「なんだそんな日本語で質問して、失礼だな」などと思う人もいるのです。ひどい方になると、発話者の知的能力を疑うことさえある*2

ともあれ、あまり「国益」などという概念を持ち出したくはないけれど、蔡英文氏の記者会見は全世界に発信されるのです。何十億という華人も目にし耳にする可能性がある。そんな場で、表面的なこととはいえ拙さ全開の映像が流れることは日本の国際的イメージに影響すると思います。なぜそういう想像力が働かないのでしょうか。

件の記者はメモを見ながら質問していました。たぶん質問内容の中国語を作文しておいて、それを読み上げたのだと思います。だったらもっと中国語が堪能な別の記者か、通訳者を雇って質問させればよいではないですか。日本では皇室から政治家まで、なぜか外語(なかんずく英語)で発信しなければいけないと思い込んでいる節がありますが、日本語で自由闊達に話し、それを優れた語学の使い手に託せばよいと思います。

自ら質問することで誠意を表したかったのかも知れません。でもね、これも通訳の現場でよく目の当たりにすることなのですが「誠意があれば伝わる」わけではないんです。「誠意があれば伝わる」は美しい考え方だけれど、残念ながら国際的なやりとりの場では幻想です。日本人はもう少し「表面的なイメージ」にも注意を払うべきだと思います。虚飾を排する潔さ、そして本質を重んじる日本人的なメンタリティとは相容れないかもしれないけど。「誠意があれば伝わる」や「大事なのは形じゃない、心だ」というスタンスには日本人の言語に対するナイーブな一面が表れていると思うのです*3

さんざん「disって」しまってごめんなさい。でも私は話し方の巧拙という本質的ではない、表面的なことだからこそ、その非本質的・表面的なところで要らぬ誤解を招いたり「国益」を損じてしまったりするのは本当に残念でもったいないと思います。

それに上記の「通訳兄さん」の記事でも指摘されていましたが、特に逐次通訳の場合、通訳者を介することでそのタイムラグを利用して自分の考えをまとめたり、冷静さを取り戻したり、相手の反応を見ながら戦略を考えたりもできるものなんですよ。以前インハウス(社内)通訳者をしていた時、私の上司は外語が堪能な方でしたが、それでも「交渉の時には必ず通訳者を使う」と言っていました。分かっている方は(外国人との交渉や駆け引きに慣れている方は)分かっているのです。

*1:同時に、某大学教授が現地から伝えた「ほとんどの国民、ほぼすべての教授が学生を支持」というレポートにも疑問を呈しましたが、この記事によれば「立法院占拠後には協定を『支持する』と回答した人の割合は25.3%」とのこと。やはり一定数は支持していたわけです。扇情的な伝え方は事実を見誤りますね。

*2:この辺りに想像力を働かせることはとても大切で、「留学生が拙い日本語で話していても、それは言語の技術上の問題であって、知的能力の問題ではない」というのは、私たち留学生に接する職業に従事するものの間では強い戒めとして常に意識されていることです。

*3:中国の「両会(全国人民代表大会と政治協商会議)」が終わった後、国務院総理(首相)が内外記者の質問に答える恒例の記者会見があります。ここでも時々日本の記者が指名されますが、年によって違いはあるものの、やはりハラハラするような日本人記者のパフォーマンスを目の当たりにすることが多いです。去年は朝日新聞の記者が質問に立っていました。今回の蔡英文氏に質問した読売新聞よりは多少よかったけど、もうちょっと高級な中国語を使っていただけたら……中国語は英語同様歴然とした「階級差」のある言語なんですから。