インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

武井壮氏と北の富士勝昭氏のコントラスト

昨日大相撲の秋場所が千秋楽を迎えました。私自身は相撲にあまり興味はないのですが、細君が大ファンで、休日の夕刻はたいがいテレビにかじりついています。私も夕飯の支度をしながら中継の音だけ聴いているのですが、いつも気になって仕方がないのが解説をされている北の富士勝昭氏です。

音だけ聴いているからよけいに際立つのかもしれませんが、よくよく聴いてみるとほとんど内容がないのです。他愛ない印象や感覚的なことをフィーリングに任せて口にしているだけ、といった場面が多すぎるように思います。解説者であれば、もっとプロの視点から技術的なことや戦術的なことや、素人が理解しにくい事柄をわかりやすく説明すべきだと思うんですけど、北の富士氏が語っている内容は、それこそオジサンたちの居酒屋談義の域をほとんど出ていません。

同じ解説者で、よく一緒に登場する舞の海秀平氏のコメントには中身があるなあと思うことが多いです。また舞の海氏は、時にはアナウンサーにプライドを傷つけない言い回しでやんわりと「ダメ出し」していたりして、なかなか聴き応えがあります。これは素人の邪推ですが、舞の海氏も内心「北の富士氏には困ったなあ。もう少し『解説』してほしいなあ」と思ってらっしゃるんじゃないでしょうか。

f:id:QianChong:20190923093747p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_4710.html

そんな「コントラスト」がとてもよく表れていたのが、去る5月18日、元陸上選手でタレントの武井壮氏がゲストとして招かれていた大相撲五月夏場所の7日目でした。YouTubeを検索したら、ちょうどその音声が入っている動画がありました。0:41あたりからをお聴きいただきたいと思います。

youtu.be

アナウンサー:武井さん、この鶴竜という横綱のことは、どんなふうに見ていますか。


武井壮氏:うーん、まあ、あの、モンゴルのね、出身の力士の方は、やっぱり日本の相撲の技術とはまた違う、全く違うその、相手を起こしたりとか、相手を崩したりする技術を持ってらっしゃるんで、それはもう朝青龍関もそうでしたけれども、本当にこう、相撲に新しい何か型を持ち込んでくれたような、そういうのがモンゴル力士の特徴だと思うんですけれども、その中でも白鵬関と僕は胸を貸していただいたことがあるんですけれども……


アナウンサー:白鵬関にもあるんですか?


武井壮氏:はい。あの、体力だけではなくて、ほんとにあの、まわしを持つ場所が、ほんとに指一本分違うだけで、押し出せたり出せなかったりすることがあるんだよってことを教えて頂きましたし、ほんとにまわしを切るにしても、ほんとにあの、切り方が、ほんとに腕の位置が、ほんとにもう一センチ違うだけで切れないことがあるんだよとか、そういったあの体力とかそういった相撲の力以上の細かい物理的な検証みたいなものもされている方で、そういったものも脈々と受け継いでいらっしゃる方がモンゴルの力士の方々だと思うので、そういう意味でこう、その相撲の力と、科学的なそういった力と、そういったことが融合された、あの横綱が多いので、非常に技術的にも高くて、アスリートとしても能力の高い人が多いなと思います。


アナウンサー:そうですか。またすごい経験談と、それから見方をいまうかがったような感じです。


武井壮氏:だから歴史のある相撲と、やっぱり最先端の科学みたいなものを、こう融合させている姿ってのは、僕らもほんとに非常に勉強になりますね。

「あの」や「ほんと」という冗語が多いのはご愛嬌ですけど、アスリートという専門の立場から、ご自分の考えや経験から学んだことを視聴者にフィードバックされていますよね。これこそ解説じゃないかと思うのです。この武井壮氏の発言と、そのあとに水を向けられた北の富士氏の「解説」は、非常に鮮やかな(?)コントラストを成しています。

アナウンサー:まあ北の富士さん、確かにこの鶴竜は、非常にやっぱり上手さのある横綱だとは思いますけれども、そういった技術面ですね。


北の富士勝昭氏:そうですね。組んでよし、跳ねてよしですよね。あの、穴のない力士だと思うんですけどね。そしてまたタイプも、性格的なものもね、白鵬でもない、朝青龍でもない、日馬富士でもないね、うん、どっちかというと、まあ性格としては非常に温厚なタイプで、穏やかですよね。非常に穏やか。

ここだけ取り出して「解説」の質をうんぬんするのも公平ではないかもしれません。でも同じ鶴竜という力士について聞かれたその答えがここまで違うとは(放送時間の制限もあるのでしょうけれど)。

ここ数年、細君につきあって私が聴いてきた中では、北の富士氏はほとんどこうした印象論の域を出ない、あるいはフィーリングでしゃべる「解説」しかなさっていないように思えます。もう少し中身のある、プロの視点からの解説が聴きたいなといつも思いながら夕飯の支度をしています。

スポーツと暴力

昨日の東京新聞朝刊に「eスポーツが五輪競技になる日」という記事が掲載されていました。eスポーツ、つまりコンピューターゲームを使った競技の大会が世界各地で行われるようになり、アジア大会では正式競技となることが決まったそうで、そうした現状をどう捉えるのかについて識者三人が語っています。

f:id:QianChong:20190922094623j:plain
www.tokyo-np.co.jp

私自身はコンピュータゲームを一切やらない人間なので逆に興味深く読みましたが、お三方のなかではスポーツ文化評論家・玉木正之氏の意見にとても共感しました。特にスポーツと暴力との関係です。

スポーツ社会学者のノルベルト・エリアスによれば、五輪競技などのスポーツの多くは古代ギリシャと近代英国から生まれています。それはどうしてか。共通するのは民主主義ですよ。要するに非暴力。暴力的な要素をゲームにして実際に傷つけ合ったりしなくていいようにしたのがスポーツなのです。eスポーツにはその暴力性をよみがえらせる恐れはないでしょうか。

確かに、個人がそれぞれ目的でそれぞれに楽しむスポーツは別にして、「競技」と呼ばれるスポーツはそれが「競う」ものである以上、勝敗や優劣がはっきりと示されます。その勝敗や優劣をもたらすものは本来「暴力」なんですよね。それをゲームという形に昇華させて「非暴力化」させたのが人類の知恵であったというわけです。

私は自分で体を動かすことは大好きで、今も「週五」でジムに通っているような人間ですが、幼い頃から体育の授業などで行われる競技が苦手で大嫌いでした。それはたぶん、この「競技≒暴力」という本質にどうしても馴染めなかったからだと思います。競技スポーツをされている方には申し訳ないけれど、どんなに崇高な理念で説明されても結局は一方が一方を「力でねじ伏せる」ことには違いない。私はそこに、かつて古代の「戦い」が本質的に有していた暴力の匂いを嗅ぎ取ってしまうのです。

もちろん、現代のスポーツが暴力による決着とは全く異なる理念で動いていることは分かります。それでも時折起こる反則や「乱闘」、さらには熱狂的でファナティックなファンによる「場外乱闘」などを見るにつけ、多くの心ある人々によって非暴力性が保たれているスポーツの、その裏の側面が垣間見える。私はそこにどうしても馴染めないのです。オリンピックや、今日本で開催されているラグビーのワールドカップにも、同様の「匂い」を感じます。

オリンピックや各種競技のワールドカップは、もちろん個々のアスリートや大会を支える人々の、暴力からは遠く離れたところにある「健全」な思想によって行われる営みなのでしょう。それを疑うものではありません(巨額のカネが動いているという側面はありますが、それはまた別の話です)。だがしかし、そこには常に国家間の勝敗や優劣が、あるいはランキングがつきまといます。勝敗や優劣やランキングがつかなかったらなんの競技か、面白くもなんともないじゃないかと言われそうですけど、それがこと国家間の競い合いになれば、やはり私などは「引いて」しまう。どんなにアスリート個人のスキルに注目し、国家間の争いを高邁な理想と言葉で糊塗しても、暴力の匂いが抑えきれていないと感じるのです。

一昨日など、ラグビーワールドカップの開幕ということで、たまたま夕飯の支度をしながらテレビをつけていたんですね。そしたら、初戦に臨む日本代表チームのこれまでの歩みや、選手の努力、さらには家族のサポートなどが次々に紹介され、見る者の感動を煽っていました。そして私は、自分でも驚いてしまったのですが、そんな煽りに乗せられて感情がたかぶって行く自分に気がつきました。知らず知らずのうちに「アツく」なっていたのです。

私が単純すぎるだけなのかもしれません。でもおよそ暴力というものは、つい「カッとなる」その感情のたかぶりが発端になるものです。その意味でも、個人競技はまだしも、やはり国家同士の争いを楽しむことはできないと思いました。スポーツは暴力を非暴力化したものであるという本質から逸脱しかかっているからです。

Spotifyもやめちゃった

これまで、音楽ストリーミングサービスのSpotifyを「プレミアム」、つまり広告なしで聴き放題できるというプランで利用してきたのですが、先日無料プランに戻しました。追って退会手続きもしようと思っています。

Spotifyはポップスやロックはもちろん、私の好きなクラシックやC-POP、さらにはフィンランドの流行歌から「懐メロ」まで聴けるという素晴らしいサービスで、一時期は自分でプレイリストも作るくらい使い込んでいました。ところが最近ふと、そんなに「ときめいていない(こんまり氏みたいですね)」ことに気づいたのです。

ありとあらゆる楽曲が聴けるし、同じ曲でも様々なアーティストによる演奏を聴き比べることができる。当初はそんな環境にワクワクしていたのですが、それが随分色あせて感じられるようになりました。飽きたといえばそれまでですが、何かこう、そうやって大量のコンテンツにいつでもどこでもアクセスできるという状態そのものが、暮らしのありようとして過剰なのではないかと思うようになったのです。

f:id:QianChong:20190920163245p:plain:w300

例えばバッハの『ゴルトベルク変奏曲』、その最初に出てくるアリアは私にとって一種の精神安定剤みたいなもので、殺人的な込み方の満員電車に乗っているときなど、よくこれを聴いて現実逃避をしています。それで、Spotifyを検索して見つかるありとあらゆる『ゴルトベルク変奏曲』のアリアを集めて、プレイリストまで作りました。ピアノやチェンバロはもちろん、弦楽四重奏版や金管楽器版、ジャズ風のアレンジからコーラスによるもの、ギター版、オルガン版などなど、様々な演奏があって面白いのです。……でも。

やっぱり私が好きなのは、若い頃から何百回・何千回と聴いてきた「座右の名盤」ともいうべき、グレン・グールドによる演奏で、結局ここに戻っちゃう。だったらもうそれでいいんじゃないかと。もちろん、Spotifyであれこれ聴いたからこそそう思えるようになったのですから、これは必然のプロセスだったのかもしれません。そしてまた一方で、新たな出会いへの道を封じてしまったら、頑迷固陋なお年寄りまで一直線じゃないかとも思うんですけど。

ただ、上述したように「大量のコンテンツにいつでもどこでもアクセスできるという状態」を保有していることが、逆説的なようですが一期一会的な作品との出会いを遠ざけてしまっているのではないかと思います。書店や図書館に行くと、世の中には自分の読んだことがない様々な本が膨大にあって、自分が生きている間に読めるのはその何千分の一・何万分の一(あるいはそれ以上)なんだという一種の目眩というか焦燥感みたいなものに襲われますが、だからといってそれらの本すべてが自宅にあって、いつでもアクセスできる状態を作りたいかといえば、そんなことはないんですよね。

すべてを読めるわけはないし、だからこそ本との出会い、というか「ご縁」みたいなものを大切にしたいと思う。実際、自分の人生になにがしかの糧を与えてくれた幸せな読書体験というのは、何か本の方から呼ばれるような不思議な邂逅から始まっていることが多いのです。そのために私はネット書店だけでなく、実店舗の本屋さんにもできるだけ出向くようにしています。そして実店舗では全部の本を手にとって開いてみることはできないから(ネット書店でもできませんけど)、アンテナの感度を上げるような、嗅覚を鋭くさせるような、そういう「体制」を意識して本を手に取るようになります。

Spotifyで次々に音楽を聴いているときに感じたのは、その「体制」が取りにくいということなのです。音楽という形のないものだからかもしれませんが、ついつい聴き流してしまう。リストにある楽曲はすべて同じようなフォーマットで並んでいますから、一つ一つの特徴がありません。いきおい、ポンポンとクリックして聴き流すようになるのです。いま聴こえている音楽の向こうにまだ無尽蔵のコンテンツがあるというその設定が、音楽に対してとても粗雑な態度を許してしまうような気がするんですね。

そういえば、私はiTunes Storeで米津玄師氏の楽曲をいくつか購入してスマホで聴いていますが、それはもう歌から演奏から、演奏の例えばベース音の推移から電気的な装飾音まで、くり返し深く聴き込んでいます。こういう聴き方のスタンスをSpotifyで配信される音楽には取っていないなと。米津玄師氏は現在のところSpotifyに楽曲を提供しておらず、その理由も知らないのですが、ひょっとしたら私が感じたようなスタンスで作品を聞き飛ばされてしまうことに納得がいっておられないのではないか、そんな勝手な想像を巡らせました。

以前にもご紹介した、林伸次氏のコラム『ワイングラスのむこう側』(cakesで連載中)にこんな記述がありました。

あるいは河井くん、まだレコードを買ってるんですね。それは僕が教えたからだそうなんですけど、今僕はSpotifyでばかり音楽を聴いているので、「Spotify便利だよ」って勧めたんです。河井くん、朝ご飯の時にグルダモーツァルトピアノソナタを聞くらしくて、僕が「Spotifyがあったらグルダ以外の色んなピアニストのモーツァルトピアノソナタをその場で聞き比べできるんだよ」って言ったら、「なんでそんなことするのかわかりません。僕、グルダの演奏気に入ってるんで」って言うんです。いやあ、ほんとそうです。
cakes.mu

いやあ、ほんとに……そうですね。

中国語圏の映画が熱かった時代

職場の図書館で見かけた雑誌『キネマ旬報』9月下旬号が「1990年代外国映画ベスト・テン」という特集を組んでいました。表紙の写真からして楊德昌(エドワード・ヤン)監督の『牯嶺街少年殺人事件』だったものですから、「おおっ!?」と惹きつけられて読んでみたのですが、なんと同作が『キネマ旬報』の連載陣103名によるアンケートで第1位に輝いたのだそうです。

f:id:QianChong:20190921092557j:plain:w200
キネマ旬報 2019年9月下旬特別号 No.1819

たしかにこの作品、私も思い出深い映画ですし、名作だとも思いますが、洋画も邦画も含めた当時(1990年代)のあらゆる映画の中で映画人が推すナンバーワンというのはちょっと意外でした。……にとどまらず、第4位には王家衛ウォン・カーウァイ)監督の『欲望の翼(阿飛正傳)』、第8位に陳凱歌(チェン・カイコー)監督の『さらば、わが愛/覇王別姫覇王別姫)』、同率第9位にやはり王家衛監督の『恋する惑星重慶森林)』と、ベスト・テンに4本も中国語圏の映画がランクインしているのです。

元『キネマ旬報』編集長の関口裕子氏は「90年代は、興行でも、日常の話題でも、ハリウッド映画が圧倒的存在感を示した」と書かれています。ベスト・テンにランクインしている『許されざる者』『ファーゴ』『ショーシャンクの空に』『羊たちの沈黙』など、確かに今でももう一度観たくなるハリウッドの名作揃いなのですが、その一方で中国語圏の映画が当時こんなにヒットし、今に至るまで語り継がれているというのは、ちょっと感慨深いものがあります。今や何語圏の映画だとか、ましてや洋画だの邦画だのという「くくり」はあまり意味を持たないとは思っているものの……。

アンケートの詳細を追ってみると、他にも多くの評者が中国語圏の映画をベスト・テンに挙げています。『エドワード・ヤンの恋愛時代(獨立時代)』『太陽の少年(陽光燦爛的日子)』『愛情萬歲』『熱帶魚』『ブエノスアイレス(春光乍洩)』『宋家の三姉妹(宋家皇朝)』『乳泉村の子(清凉寺的鐘声)』『秋菊の物語(秋菊打官司)』『憂鬱な楽園(南國再見,南國)』『初恋のきた道(我的父親母親)』『一瞬の夢(小武)』……などなど、どれもこれも当時自分が貪るように見た作品の数々で、とても懐かしく思いました。1990年代という「くくり」をもう少し前の時代にまで広げれば、『紅いコーリャン(紅高粱)』や『芙蓉鎮』など、さらに多くの中国語圏の名作映画が挙がってくると思います。そういう熱い時代だったんですね。

いや、熱い時代だったというのは日本の観客である私の一方的なものいいでしょう。ご存知の通り、その後も中国語圏の映画は様々な名作を生み出してきましたし、最近ではハリウッドを凌ぐような、あるいはハリウッドがその存在を無視できないような作品が作られ続けています。さらにはハリウッド映画が巨大な中国市場を意識せざるを得ない状況も。そう考えるとむしろ興味深いのは、なぜ1990年代の私たち日本人の心に、あれほどまでに中国語圏の映画が「沁みた」のか、そしてなぜいまはそれほど「沁みなくなった」のかという点です。

先日も書きましたが、これは音楽の世界でも似たようなことが起こっています。もちろん現代でも人気の中国語圏アーティストはいますから、そうしたアーティストのファンからは叱られるかもしれないけれど、1990年代の一時期、C−POPブームは今とは比べ物にならないくらいの盛り上がりがあったと記憶しています。規模がまるで違うという感じ。

それまでレコード店(CDショップか。いずれにしても死語に近いですね)では「ワールドミュージック」としてひとくくりにされ、それも琴や琵琶などの伝統音楽か、そうでなければテレサ・テンジュディ・オングかといったレベルの品揃えから、いきなり棚のひとつ分、ふたつ分、みっつ分……というようにC−POPの売り場が増えていった、香港の大物歌手が相次いで日本ツアーを行った、そういう時代があったのです。

当時中国語の小さな新聞社に勤めていて、主に日本人の中国語圏カルチャー好きのための記事を作っていた私は、そんな盛り上がりを肌で感じながら仕事をしていました。映画やコンサートで来日する明星(スター)の取材でも、取材者同士の熱気や「我先に感」がひしひしと感じられたものです。そこへ行くと現在は、もちろん台湾のドラマなど一部で人気ではありますが、当時の盛り上がり、特に中国大陸発の文芸作品に見られた「なにかとんでもないことが起こっている感」はかなり薄まってしまった、ほとんど感じられなくなってしまったという気がします。

f:id:QianChong:20190919211655j:plain

これはどうしてなんでしょうね。もちろん現代においては、ネット動画などの発展で映画という娯楽自体がかつての位置づけから変容してきていますし、中国や台湾など中国語圏の社会や経済も1990年代とは大きく異なっています。特に中国は、端的に言って、もはやあの圧倒的な文芸映画・芸術映画の数々を生み出した「うねり」のようなものが失われ、ある意味映画の規模は拡大しても、映画の作り方は政治的・経済的な背景からきわめて「内向き」になってきたからかもしれません。

そして一方で受け取る側の私たちの、中国語圏に対する見方・考え方、そして感じ方が大きく変容したことも関係あるかもしれません。私自身、ここ十年ほどは中国語圏の映画の忠実な鑑賞者ではなくなっているのですが、あれだけ夢中になっていた中国語圏の映画にときめかなくなったのは、そういう社会の雰囲気と自分がリンクしているからなのかなと思うのです。変わらず夢中で楽しんでおられる*1方々からは単なる牽強付会だと言われるかもしれませんが。

*1:私も、例えば賈樟柯ジャ・ジャンクー)監督の作品など公開されるたびに観に行ってはいますが。

Twitterをやめてよかった

平日の早朝は、ほとんど毎日ジムに行って体を動かしているのですが、トレーニングのあとにシャワーを浴びて、サウナを利用するのが日課になっています。出勤時間を考えると、サウナ室にいるのがちょうど朝の8時前後になるのですが、サウナ室内で放映されているテレビ番組を見ていて気づいたことがありました。

こちらのサウナのテレビは、日替わりで『スッキリ』と『ビビット』と『どくダネ!』と『羽鳥慎一モーニングショー』が放映されています(なぜかNHKは一度も放映されません)。普段こうしたニュースバラエティをほとんど見ないので知らなかったのですが、こうした番組では最初の5分から10分ほどの時間を、ネットで話題の動画をいくつか流して、コメンテーターと軽いやり取りをして場を暖め(?)、それからその日のメイントピックに入っていくというのが最近の定番のようです。

毎度毎度、変わった癖のあるネコちゃんの萌え姿やら、交通事故で危機一髪の光景やら、命知らず野郎のアドベンチャーやら、街に出没するトホホな困ったちゃんやらの動画が紹介されては、司会者とコメンテーターの他愛ない寸評が続きます。これらの動画はいずれもTwitterなどのSNSに投稿されたネタのようなものらしいのですが……正直、ど〜でもいい情報です。

まあ私は、できるだけ静かで薄暗いサウナでひとり沈思黙考するのが好きだからというのもあるんですけど、この「ど〜でもいい情報」にはほとほとうんざりしています。と同時に、朝のニュースバラエティもネットの投稿で時間を埋めるほどネタに不足しているのか、ここまでくると報道でも論説でもなんでもないじゃないか、と思うのです。

そういえば、他愛ないニュースどころか最近は突発的な事故や災害についてもSNSの投稿画像や映像をニュースに用いることが多いようですね。テレビの凋落が伝えられて久しいですが、これはますます「終わっているなあ」と思わざるを得ません。

f:id:QianChong:20190919130811p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_2.html

……と、ここまで書いてふと考えました。そういう「終わっている」としか思えないメディアの番組を、少なからぬ割合で形作っているSNSの投稿画像や映像が、そも自分にとっては「ど〜でもいい情報」だったんです。なのになぜあんなに時間を費やしてそういうコンテンツに一喜一憂し、つぶやき、書き込み、時間を潰していたのかと。

そういう情報についつい無駄な時間を過ごしてしまうような私は、やはりTwitterをやめてよかった、と改めて思うのです。

わたしの台所

沢村貞子氏の『わたしの台所』を読みました。きっかけは新潮社のビジュアル入門書シリーズ「とんぼの本」の『沢村貞子の献立日記』を読んだからなのですが、このビジュアル本はもちろん、エッセイとして名高いこの『わたしの台所』にはしみじみと共感できる文章がたくさん詰まっていて、たちまち付箋でいっぱいになってしまいました。


わたしの台所 (光文社文庫)


沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)

名脇役として数々のドラマに出演されていた沢村氏は、その一方で二人暮らしの夫のために毎日献立を考え、食事を整える「兼業主婦」でもあったそうです。食事の他にもぬか床や「梅仕事」など、お母様ゆずりの生活の知恵を存分に発揮され、忙しい毎日を切り盛りされていたよし。現代の感覚からすれば、女性ばかりがこんなに家事を担当して夫に尽くすなんて……と、眉をひそめる向きも多いかと思います(私も多少そういう気持ちになりました)が、当の沢村氏はそんな暮らしを心底いとおしんでいたことが文面から伝わってきます。

ことに老境にいたって、身体的な衰えから様々なことが以前と同じように回らなくなるなかでの暮らし、特に食に対する感慨は自分にも大いに重なって共感できる部分が多く、それもまたこの読書体験をより味わい深いものにしてくれました。私はまだ「老境」というには若すぎるというか、早すぎる年代ですが、それでもこのエッセイを十年前や二十年前に読んだとしたら、ここまでの深い味わいを感じることはなかったかもしれません。

うちのこしらえ方、うちの味のおそうざいを、黙って食べている家人の満足そうな顔を見ていると、料理したものは苦労を忘れる。

本当にそうです。私自身は炊事全般、買い物から後片付けまで含めて「苦労」と思ったことはほとんどありませんが、外食や出来合いのものに極力頼らず、長い時間をかけて身についてきた「うちのこしらえ方」が暮らしの楽しみ(より口幅ったい言い方をすれば「しあわせ」の)かなり大きな部分を占めているのだと最近よく思うようになりました。

料理は一秒ごとに不味くなる、という。
自分が台所に立って煮炊きしていると、この言葉が身にしみてよく分かる。

これも、ホント身にしみてよく分かるなあ。おもてなしとかじゃなくて、家族のために日々作っている毎度毎度の食事だからなおさら、出来上がりのそのタイミングで食べてもらいたいと思うんですよね。なのにうちの細君ときたら、食事が出来上がっているのに長々と電話で話したり、風呂上がりの髪を延々乾かしていたり、トイレに籠ったりするんです。しくしく。「すべて、ころあいこそが大事」とおっしゃる沢村氏だったら、同情してくださるかしら。まあ私がタイミングを合わせて作ればいいだけの話ですけど。

また女性として家事全般を一手に引き受けていながら男性にもその素晴らしさを味わってほしいと願う一節や、親は自分のできる範囲で子育てをしたあとはなるだけ早く子離れをして「ひとりで生きる」工夫をすべきといった一節には、いま読んでも、いや、いまだからこそよりその言葉に重みが感じられて、沢村氏の先見の明に驚かされるのです。ご自身はたびたび「老女優」「明治おんな」と自嘲されるのですが、いえいえどうして、当節の「おひとりさま」や「老活」あるいは「終活」に先駆けること何十年、すでにここまで目の開けていた人がいたのですね。

それから、下町の浅草で生まれ育った沢村氏の、お母様の言葉がなんとも心にしみます。まるで落語に出てくる、ちょっと間の抜けた亭主をぴしりとたしなめる気丈な女将さんのような風情なのです。「冥利が悪い」なんて言葉、いまではもうほとんど聞かれなくなっているでしょうね。

沢村氏が愛したという「こざっぱりとした暮らし」。その「こざっぱり」は食事や家事にとどまらず、人付き合いや生き方や人生観にもつながっていたようです。没後は遺志に従って墓所を作らず、夫のお骨とともに海に撒かれたそうですが、私も自分の最期はそのように「こざっぱり」でありたいものだと思います。

傘の修繕

中秋節を過ぎて、ようやく朝晩がしのぎやすくなってきましたが、今年の夏もその暑さ、いえ蒸し暑さにほとほと参り果てました。もとよりその人の多さで人々のイライラ感が充満している東京に、あの殺人的な蒸し暑さ。もうここ何年も「これ以上は耐えられない」と思いつつ、なんとかやり過ごしてきましたが、あと五年も十年も毎年やり過ごしていける自信がありません。本気で、どこかへ逃げられないだろうかと考え始めています。

少しでも夏の暑さから逃れようと、今年は流行に乗って(?)「日傘男子デビュー」しました。私、普段着はほとんどがユニクロで十分という人間ですけど、靴や傘などはあまり手を抜かないようにしています。大きなお世話なんですけど、往来で見かけるサラリーマンのみなさんも、スーツのシャツにぱりっと糊が効いているのに革靴がすり減って曇っていたら目も当てられないですし、そこに錆の浮いたビニール傘など持っていたらほとんど泣きそうになります。

それで日傘も、雨天兼用の割合上質なものを買い求めました。薄い色なので、日傘として使っていてもあまり目立ちません。目立たない……そう、「実際暑いんだから人目なんか気にしていられない」と日傘を使い出したものの、やっぱりまだどことなく恥ずかしい気持ちが残っているんです。男性が日傘を差しているってのが物珍しいんじゃないかとか(誰も気にしちゃいないのに)。染み付いた固定観念というのは本当に頑固なものです。


綿100%晴雨兼用折りたたみ傘

ところでこの日傘、使い始めてからほどなくして、某所でビル風か何かの突風を受けたあおりで骨のジョイント部分にある「ハトメ」がひとつ外れてしまいました。えええ、けっこうな値段がしたのになんだよ、と思いながら、糸で応急処置をしようと思うも、これが老眼でどうにもなりません。悲しすぎる……。といって、いまどき傘の修繕なんてやっているところはあるんでしょうか。

傘の修繕で思い出したのですが、子供の頃は日曜日になると朝から傘の修繕をする行商の声が聞こえたものでした。「竿や、竿竹〜」の声は覚えていますが、傘の修繕屋さんはどんな物売りの声だったか、記憶に残っていません。でも確かに毎週のように回ってきていました。それだけ需要があったというか、傘は壊れたら修繕するというのが普通だったのです。コンビニでビニール傘を買い求め、雨の後は道端に打ち捨てられているのを目にする現代では想像もつかないでしょうね。

ともかくネットで「傘 修繕」と検索をかけてみたら、もちろん専門店でもやっていましたが、靴の修理や鍵の複製などをやっている某チェーン店が傘の修繕もやっていることを知りました。職場近くの地下街にも一軒あるのでさっそく仕事の前に寄ってお願いしたら、その日のうちに修繕してくれました。費用は千円ちょっと。

www.minit.co.jp

傘の骨一本に千円も払うなら、コンビニのビニール傘でいいじゃない、と思われるかもしれません。革靴も、年に数回は踵や爪先の張替えに出していますが、それだって数千円はかかります。それでも、使い捨てにするのはどうしても抵抗があるんですよね。もったいない、というのもあるけれど、なんかこう、靴や傘を使い捨てで済ませるのがすごく貧相な感じがして、悲しい気持ちになるのです。そう思いつつ服は安いものばかり着ているので矛盾しているのですが。

イヤーワーム

ふと気がついたら、脳内で特定の音楽がヘビーローテーションしていたってこと、ありませんか? 私はよくあるんですけど、あれには「イヤーワーム(earworm)」という名前がついているそうです。しかも様々な調査で、およそ9割以上の人が日常的に経験していることがわかっているとのこと。

イヤーワーム - Wikipedia

ネットで色々と検索してみると、普段音楽をよく聞く人に多い傾向があるようです。たしかに私もよく音楽を聴きますが、ただよくよく自分を観察してみると、音楽以外がイヤーワームの引き金になっていることも多い。先日はなぜか久保田早紀氏の『異邦人』が脳内で繰り返されていて、その元をたどったら朝に読んだ新聞の記事に「異邦人」という言葉があったからでした。その文字を目にした途端に記憶の引き出しが開いて、音楽が流れ始めるんですね。

youtu.be

f:id:QianChong:20190916094035p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/02/blog-post_5766.html

それから、音楽や文字などの「引き金」がなくても起きることがたびたびあって、その時はたいがい自分の「定番イヤーワーム」が脳内に流れています。これも気づいたらその状態になっていることが多く、なぜイヤーワームが「起動」するのかはわからないのです。

もうここ数十年来、定番のイヤーワームになっているのは、なぜかベートーヴェン交響曲第九番、その第三楽章です。ご案内の通り『第九』の第三楽章はとてもゆったりした美しい旋律が特徴なのですが、その主題にあたる旋律がずっと頭の中で鳴り響いているのです。私はあまり器用ではないので、例えば音楽をかけながら仕事をするといった「マルチタスク」が苦手なのですが、なぜかイヤーワームだけは仕事や作業と並行できてしまう。これも不思議な点のひとつです。

youtu.be

私の場合、このイヤーワームが亢進すると、気づかないうちに歌っていることがあって驚きます。歌うといっても大声を出すわけではないのですが、歯の隙間から細く息を吐きながらメロディを奏でているのです。口笛でもハミングでもない、こういうのはなんと言うのかわかりませんが、とにかく小声で奏でている。なぜなのか、そしてなぜ『第九』の第三楽章なのかは自分でもわかりません。

以前に勤めていた職場で、すでに退職が決まって残務整理をしているときにもこのイヤーワームが出現し、私はその時無意識のうちに歌っていたらしく、同僚から「うるさい!」と一喝されたことがあります。退職が決まって、関係ももうこれっきりと分かったら人はここまで冷たくなるのかと寂しく思うととともに、これまで私のこうした癖にずいぶん我慢してきたんだろうなと申し訳ない気持ちにもなりました。聞こえるか聞こえないかという程度の小声だから、かえって気になるんですね。

イヤーワームを打ち消す方法として、ネットには「5文字程度のアナグラムを作る」というのがありました。なるほど、今度『異邦人』が脳内に鳴り響いたら「包囲陣」とか「印字法」とか「持法院」とかを懸命に考えてみることにします。

サウナのあるところ

ヨーナス・バリヘル、ミカ・ホタイネン共同監督の映画『サウナのあるところ』を観ました。サウナに関するフィンランド映画、という情報のみで映画館へ向かったのですが、静謐な雰囲気の中に深い味わいを残す素敵な作品でした。【以下、一部に映画の具体的な内容の記述があります。】

f:id:QianChong:20190915093739j:plain
www.uplink.co.jp

フィンランド人のサウナ好きは夙に知られていますが、その通りこの映画はほぼ前編がサウナの入浴シーンで綴られています。しかも住宅の家庭用サウナはもちろん、キャンピングカーを改装したサウナ、道端の公衆電話ボックスみたいなサウナ、テントの中に作られたサウナ……ありとあらゆる小さな空間をサウナにし、薪を焚き、石を熱し、お湯をかけて「ロウリュ」をするその「サウナ好きっぷり」に思わず笑みがこぼれました。

youtu.be

でも映画全体のトーンはどちらかというと重苦しいものです。というのも登場する男性たちが、裸のままで自らの人生、それも挫折あり後悔あり紆余曲折ありの決して順風満帆ではなかった苦い体験を訥々と語っていくのですから。

私は最初、この映画はドキュメンタリーだと認識して映画を観始めたので、男性たちが語るその語り口に少々混乱していました。というのも、明らかにご自身の実体験を語っているようではあるものの、とても饒舌というか、語る内容が豊富というか、とても実況を記録しただけの映像には思えなかったのです。でも、これがもし俳優さんの演技であるとしたら、これはもう真に迫りすぎている……男性たちの表情や涙はとても演技とは思えませんでした。

その疑問は、上映後に行われた舞台挨拶で氷解しました。監督をつとめたお二人と、出演されていた男性たちのうちのお二人、合わせて四人が登壇されたのですが、「どうしてサウナの映画を撮ろうと考えたのですか」という司会者の質問に、ヨーナス・バリヘル監督がご自身のサウナでの体験を紹介していました。

この監督は、タンペレの「Rajaportti sauna(ラヤポルッティ・サウナ)」で、サウナに入っている男性たちが、そばに他人がいるにもかかわらず、結婚や離婚などそれぞれの人生の大切な告白を友人に打ち明ける場面に遭遇したそうです。そこに監督は、サウナの持つ一種の人の心を和らげ解放するような力を感じたとのこと。なるほど、あの「ロウリュ」の蒸気がこもる静かな空間、そして「裸のつきあい」が人間を素直にするというのは私も実体験としてよく分かります。

フィンランドでは、まだまだ「男は黙って……」といった観念、つまり男性は人前で涙や弱みを見せてはいけないという一種の「押し込み」が根強くあるそうで、そんな弱みを見せられない男性が唯一自分を取り戻して素に戻れる場所がサウナなのではないか、それで男性たちに自らの人生を語ってもらう映画を撮ろうと考えた、というわけです。この映画のフィンランド語原題は“Miesten vuoro(男たちの番)”。普段は寡黙な男性たちにスポットライトが当たる出番は、サウナにこそ用意されていたのですね。

ゲストの四人は今回が初来日だそうで、東京のサウナにも入ってきたとのことですが、サウナ室の中にテレビがあってびっくりしたそうです。また、従業員がタオルで熱風を吹きかけるサービス(何故かこれを「ロウリュ」と称したり、あるいは熱波と称したりします。従業員のことを「熱波師」と呼ぶことも)にも。

う〜ん、確かに日本のこうしたサウナとフィンランドのそれとは全く違う施設かもしれません。私もフィンランドの薄暗くて静謐なサウナ室のほうが好きなので、あのテレビや、クラシックや「ど演歌」のBGMなどはいらないかなあと思います。

もう少し静かで、サウナ室内の「人口密度」が低くて、それほど温度は高すぎず、時々焼けた石にお湯をかけつつ、ゆっくりと過ごしながら自分の内面に深く降りていけるようなサウナ。そんなサウナに日本でも入ることができたらいいですね。これはもう、自宅にサウナを作っちゃうしかないですかね。もっともうちは賃貸だから無理ですけど。

母語なのに聴き取れない

華人留学生(出身地は中国・台湾・香港・マカオなど様々)の通訳訓練クラスを担当していると、時々おもしろいことが起こります。華人留学生なのに、つまり中国語が母語や準母語*1であるみなさんなのに、教材の中国語が分からない、あるいは聴き取れないことがあるのです。

その理由としては、まずは音声そのものの質という物理的条件が考えられます。通訳訓練とはいえ、毎回生身の話し手を用意するわけにも行かないので、ほとんどは教材の録音や録画を再生することで「原発言」のかわりにしています。つまりそれだけ「リアリティ」に欠けることは否めません。またヘッドフォンで聴くならまだしも、教室のスピーカーから音を流す場合にはもっと聴きにくくなります。

もうひとつの理由は、中国語自体がとてもグローバルで幅の広い言語であるため、標準語にあたる“普通話”にも地方によって結構なバリエーション(単語の違いから、発音の違い、まれに文章構造の違いなども)があって、自分の出身地域以外の話し方に慣れていない留学生が存外多いという点が挙げられます。

例えば台湾など南の地方出身の留学生は、北京など北の地方に特徴的な“儿化音”の多く入った発音(よく口の中で飴玉を転がすような発音とも言われます)に慣れておらず、聴き取りが難しいとこぼす方がけっこういます。

今日も今日とて、映画『山河故人(邦題:山河ノスタルジア)』の賈樟柯ジャ・ジャンクー)監督が出演したテレビの鼎談番組を教材に使ってみたら、鼎談に登場する北京風発音の色濃いお一人の発言で、軒並み「聴き取れない……」とこぼす方が現れました。

youtu.be

もちろん聴き取りは単に音の問題だけではありません。そもそも背景知識などの深い理解がなければ聴き取れないことも多く、そのために通訳者は事前に十分に予習をして仕事に望みます(そう理想通りに行かないことも多いですが)。私はいつも「背景知識がリスニングを後押しする」と言っているんですけど、そもそも自分が知らない事象については聴き取れないんですよね。音は耳に入っても、脳が理解できない。

ですから、くだんの生徒さんたちが聴き取れなかったのは、その地方の発言に慣れていなかったことに加えて、事前学習が足りなかったことも原因かもしれません。それにしても、自分の母語のバリエーションなのに、ほとんど脳がフリーズしてしまうほど聴き取れないという現象が起こるのが面白いな、中国語ってやっぱりとてもグローバルな言語なんだなと改めて思った次第です。

f:id:QianChong:20190912144314p:plain:w300
https://www.irasutoya.com/2019/04/blog-post_87.html

教養がないと聴き取れない

母語なのに聴き取れない現象について、あともうひとつだけ考えられる理由があります。中国語の非母語話者である私がこんなことを書くのは大変失礼ではあるのですが、それぞれの“文化水平(教養度)”です。上述の番組では、鼎談に参加しているお三方とも語彙や表現が豊かで、論理的かつ機智とユーモアに富んだ話し方をしています。中国語を学ぶ外国人としての私など「こんな話し方ができたらいいなあ」と憧れるほどの知的な話しぶりで、母語とはいえ、ある程度の教養がないと理解しにくい内容も多い。

中国語は、というか中国語圏の社会は、日本よりははるかに「階級差」のある社会で、その社会各層で用いられる言葉にはけっこうな違いがあります。このあたりは、そうした階級差のあまりない(格差社会と言われて久しいこの国ではあっても)日本の方々には想像しにくいことかもしれません。一部の留学生が聴き取れないとこぼす理由のひとつに、こうした教養の多寡も絡んでいるのではないかと思ったのです。

日本語が聴き取れない?

いっぽうで、日本語母語話者が日本語に対して「聴き取りが難しい」ということはあまりないんじゃないか……と思ったんですけど、そんなことないか。日本語母語話者だって、教養や背景知識が不足していたら聴き取れない、あるいは方言や訛りなどがあって聴き取れない・聴き取りにくいということはありますよね。よく引き合いに出される東北や九州の方言など、ほとんど聴き取れません。

youtu.be

あと、これは政治家に多いのですが、いわゆる「言語明瞭・意味不明」系の発言も聴き取れない・理解できないということはたびたび起こります。私は以前、旧民主党のとある重鎮(首相経験者)の通訳をしたことが一度だけありますが、この方などまさにその典型でした。

最近では、先日大臣への就任会見をしたこの方かな。私は動画サイトで全部聞いてみましたけど、さすがに「言語明瞭・意味不明」までは行かないけれど、話の軸があちこちにブレるので聴き取りに苦労しました。お隣で手話通訳をされていた通訳者さんも大変だったのではないかと推察いたします。

youtu.be

*1:広東語や上海語などが母語の留学生も多いです。

911と癌患者の関係

昨日の東京新聞に「米中枢同時テロ18年」という記事が載っていました。この見出しを見てまず「あれ、以前は『同時多発テロ』という呼称が一般的だったような気がするけど、いつから変わったのかな」と思いました。

f:id:QianChong:20190912054530j:plain

それはともかく、あれから18年ですか。あの時は夜にテレビでフェイ・ウォン王菲)主演のドラマ『ウソコイ』の最終回を見ていて、突然「臨時ニュース」に切り替わったのでびっくりしたことを覚えています。

フェイ・ウォン氏は当時日本でちょっとした流行になっていた(今となっては「ゆめまぼろし」のようですが)C-POPのアーティストの中でもとても人気で、確かこのドラマはそんな氏の日本進出第一弾として企画されていたのでした。しかし視聴率は思ったほど上がらなかったようで、しかも最終回に放送が中断するという上記のハプニングもあって、日本での風向きはちょっと良くなかったかなという印象でした。残念ながらその後はC-POPの人気もいまひとつ盛り上がらず、個人的にはやや“滋味(中国語では、名状しがたいネガティブな感覚を時にこう表現します)”の残る思い出です。

閑話休題

この短い新聞記事を読んでいて、やや腑に落ちない点がありました。それは最後に書かれている「テロ関連のがん患者」のくだりです。この記事だけを何度読んでも、米中枢同時テロと癌患者のつながりがよくわからないのです。そこでネットで「同時多発テロ がん」と検索してみたら、たくさんの記事が見つかりました。例えば、この記事。

news.yahoo.co.jp

なるほど、テロ攻撃によって世界貿易センタービルが崩壊した際、大量に生じた粉塵の中に有害物質が含まれていて、そのため現場にいた生存者のなかで癌を発症する割合が有意に高いという研究結果が発表されたのですね。東京新聞の記事はとても読みやすくて論理的なものが多いのですが、この記事は字数の関係もあったのか、どこか舌足らずで終わってしまったようです。

ま、かくいう私も、あとから読み返してみるとどこか舌足らずな、というか独りよがりな文章を書いていることが多いです。以て自戒といたしましょう。

料理に合わせるノンアルコールの飲み物・その2

中高年にいたって、お酒がほとんど飲めなくなりました。でも食事のときに何か飲み物を料理に合わせたいのです……。かつてビールやワインなどを浴びるほど飲んでいた(それでもほとんど酔わないどころか翌日も快調)頃には、そんなことで頭を悩ますようになるとは夢にも思いませんでした。というか、私はもう、ほぼ一生分のアルコールを飲んでしまったということですか。

昨日書きましたけど、ヘルシンキのレストランで「ノンアルコールのペアリング」を試してみた感想は、美味しいし面白いけれど「やっぱり甘い、甘すぎる」でした。レストラン「ask」の店員さんがおっしゃっていたように、「果実系」は糖分がアルコールになっていないだけ甘さから抜け出すのは難しそうですし、だからといって酸っぱいばかりでは繊細な料理には合いません。

ここは中華料理の知恵にならって「お茶系」を探求すべきかもしれません。日本で中華料理にお茶といったらほとんど烏龍茶(ウーロン茶)一辺倒ですが、華人のみなさんは(地方にもよりますけど)様々なお茶を食事中に楽しんでいます。緑茶・白茶・黄茶青茶・紅茶・黒茶、それに花茶……日本でもお茶は飲みますけど、どちらかというと食後に飲むものという位置づけが色濃いですよね。まあ最近は麦茶やほうじ茶なんかを食事と合わせて飲む方も多いようですが。

ja.wikipedia.org

「ask」で飲んだお茶系の「ノンアルコールドリンク」では冷やしたホワイトミントティーがとても奥深い味で、これはヘルシンキの食料品店で売られていたので、一箱買って帰りました。この「Clipper」のティーバッグシリーズは日本のスーパーでも比較的よく見かけますが、なぜか「White tea with peppermint」はネットショップでも見つからないんですよね(海外のショップにはあります)。

f:id:QianChong:20190109173624j:plain:w300
https://www.hollandandbarrett.com/shop/product/clipper-organic-white-tea-with-natural-peppermint-60015549

しかしまあ、お茶の世界はたしかに奥深いですけど、やっぱり果実系やスパークリング系で、料理の味を損なわないくらいの辛口ノンアルコールドリンクが飲みたいです(ワインへの未練が色濃く残っていますね)。それでスーパーなどのノンアルコール商品売場で色々物色しては試しているのですが、いまのところ「これだ」というのに巡り合っていません。

ノンアルコールビールも、以前に比べればメーカーさんが研究を重ねて随分おいしくなってきているみたいですが、正直に申し上げてあの「ケミカルなお味」がどうにも苦手です。ノンアルコールのスパークリングワインというのもあって、これも試してみましたが、やはりどこか無理をしているというか、不自然な後味が気になります。

f:id:QianChong:20190904205133j:plain:w300
mot-wine.mottox.co.jp

辛口のシードルを模したとおぼしきこちらも、とても美味しいですが、やはり舌に残る甘さがちょっと……。

f:id:QianChong:20190830190833j:plain:w300
allegresse-japan.com

すみません、メーカーや開発者さんの努力をよそに、無い物ねだりが過ぎました。引き続き色々と探してみようと思います。あるいはお茶系・果実系・スパークリング系とは全く違う発想の飲み物を考えるか、ですね。まあ私はコーヒーを食事中に飲むのは抵抗ないので、この際コーヒーでもいいのかもしれません。

料理に合わせるノンアルコールの飲み物

ヘルシンキでは現代フィンランド料理のお店二軒に行ってみました。いずれも食材に自然素材やオーガニックなどを謳っていて、なおかつ芸術的な盛り付けで小さな料理をいくつも提供するコース、つまり会席料理みたいなスタイルのお店です。どちらもコースに合わせてグラスワインのペアリングコースがあるのですが、特徴的なのは「ノンアルコール」のペアリングもあることです。

悲しいことに、歳を取ってお酒があまり飲めなくなってしまいました。まったく飲めないわけではなくて、むしろ飲むのは今でも好きなのです。でも飲める量がかなり減ってほんの少しのお酒で酔うようになり、さらに翌日の身体が重くてつらいので、自然とお酒から遠ざかるようになりました。それでも食事の時に少しずつ違ったワインを合わせるのは楽しいものです。それでこの二軒では「ノンアルコールのペアリング」を試してみました。

nolla

f:id:QianChong:20190802170236j:plain

フィンランド語で「ゼロ」という意味の店名は“zero waste”、つまり廃棄物ゼロを目指すレストランというコンセプトが込められているんだそうです。お店で調達する食材も、生産者と話し合って例えばプラスチックのパッケージやラップフィルムなどを廃するよう努力しているとか。またできるだけ「地産地消」を目指すということで、フィンランドの地元の食材をできるだけ使用してそうです。

f:id:QianChong:20190910121254p:plain

ノンアルコールの飲み物は、例えばトマトとラズベリーのサラダスープには「ラズベリージュースにほんの少しチリを効かせたもの」とか、グリンピースとロメインレタスのサラダに豚の脂身のフレークを散らしたものには「桃の香りのジュースに緑色のシロップを浮かべたもの」とか、白身魚のパプリカソースには「レッドカラントと蜂蜜のジュース」とか、料理の味わいや香りに合わせたソフトドリンクを工夫していました。

メインの羊肉には赤ワインを思わせる真っ赤な「ラズベリージュース」がついてきました。またデザートのキンモクセイ味のアイスクリームにも「リンゴ酢のジュース」が。こうした料理にソフトドリンクというと、日本では烏龍茶一辺倒か、あるいは全然合わないコーラやジンジャエールやオレンジジュースというパターンが多いですが、ペアリングをとことん考えているんだなという努力の跡が見て取れるようでした。

www.restaurantnolla.com

ask

f:id:QianChong:20190814215221j:plain

こちらは一年半ほど前にも行きましたが、ネットで予約したので記録が残っているのか、店員さんが「前にもいらっしゃいましたね」と声をかけてくれました。食前酒がわりに「白ぶどうのジュース」。ワイン用ぶどうのリースリング種で作られているそうです。生食用のぶどう、例えばコンコードとかマスカットなどのジュースはよくありますけど、ワイン用ぶどうのジュースは珍しいですね。でもかなり甘かったですけど。

f:id:QianChong:20190910121203p:plain

その後も料理に合わせて「エルダーフラワーのコーラ」とか「ホワイトミントティー(の冷やしたもの)」とか「フィンランドの湖周辺によく生えている草から作ったお茶」とか、色々と珍しい、凝った飲み物が出てきました。かと思えば「100%りんごジュース」みたいにストレートなものも。

メインの肉料理には、これも「ワイン用ぶどうのメルロー種で作ったジュース」を合わせてくれました。店員さんいわく「ワインはアルコール発酵しているのでぶどうの糖分がアルコールに変わって糖度が落ち、辛口になるんですけど、ジュースの場合は限界があります」とのこと。確かに、料理に合わせるにはちょっと甘いかなと思いました。

デザートも飲み物がついていて、これは「フィンランドの田舎でよく見かける赤い花で作ったジュース」だそうです。たしかにこの花、湖畔やら道路脇やら、とにかくどこにでも咲いている花なんですが、名前が聞き取れませんでした。で、後で調べてみたら、どうやら「ヤナギラン(maitohorsma)」みたい。面白いなと思ってスーパーやデパ地下で探してみたんですが、見つかりませんでした。次回訪れることがあれば、また探してみようと思います。

f:id:QianChong:20190804151236j:plain

restaurantask.com

ノンアルコールのペアリング、それぞれに面白い飲み物ばかりでしたけど、やはりちょっと無理があるかなと思ったものも多かったです。特に、これは好みもあるでしょうけど、甘さの問題。やっぱりある程度以上に甘い飲み物は食事には合わないかなあ……。

動詞の活用ワークシート

以前動詞の「棚卸し」をやったのですが、それを繰り返し練習するためのワークシートみたいなものを作ってみました。一つの動詞をその意味とともに左上に書いて、そのあと……

① 現在形肯定 6個
② 第三不定詞 5個
③ 第四不定詞 1個
④ 現在形否定 6個
⑤ 命令形 4個
⑥ 過去形肯定 6個
⑦ 過去形否定 6個
⑧ 現在完了形肯定 6個
⑨ 現在完了形否定 6個
⑩ 過去完了形肯定 6個
⑪ 過去完了形否定 6個

……の合計58個を作っていくのです。最初はExcelで作ってデータカードみたいな形にしようかなと思ったのですが、やはりここはプリミティブに手を動かすほうがいいなと思って紙のワークシートにしました。

f:id:QianChong:20190909064147j:plain

でもこうやって作ってみると分かりますけど、上述した58個は同じ形のものが多いんですよね。特に⑦過去形否定を作ってしまったら、あとは単数か複数かが違うだけで全部同じことの繰り返しです。というわけで、臨機応変に動詞の形を作るという点だけ見れば、ポイントは以下のように絞ることができます。

① 現在形肯定を作る…… kpt の変化あり。
② ①の三人称複数(vAtの形)の語幹から第三不定詞(−massa / −masta / −maan / −malla / −matta)と第四不定詞 (−minen)を作る。
③ 現在形否定を作る…… en から eivät まで同じ形の語幹がつくだけ。
④ 命令形を作る……③の語幹を使って単数の肯定と否定、複数は kpt の変化なし。
⑤ 過去形肯定を作る…… kpt の変化あり。
⑥ 過去形否定を作る…… kpt の変化なし。en から ei まで(単数)と emme から eivät まで(複数)の違いあり。
⑦ 現在完了形(肯定と否定)、過去完了形(肯定と否定)を作る……⑥と全く同じ。

つまり、動詞の変化をさせるという点だけで考えれば、せっかく作ったワークシートも上半分だけ埋めればじゅうぶんということになります。もちろん実際に話す場合には、例えば過去完了形の否定だったらちゃんと「 en 〜 eivät + ollut / olleet 」をつけられるかどうかが大切なのですが。

とりあえず今の段階では、動詞の語末のタイプ別( VA とか、STA・LA・NA・RA とか)に「現在形肯定」と「過去形肯定」と「過去分詞」をぱっと作ることができるかどうか……がポイントということでしょうか。答え合わせはこちらの活用辞典を使わせていただいています。とても便利です。

ja.bab.la

不機嫌なSNSについて

何かをはじめる、あるいは何かをやめる。そして、はじめたりやめたりしたその状態を長く保ち続けることができれば「継続は力なり」の「継続」になります。当たり前のことなんですけど、なかなかその力になるほどの継続ができないことのほうが多い。いわゆる三日坊主というやつです。逆に継続して力になってくると、その状態を保たなければ気持ち悪いという心境にいたります。習慣化できた状態とでもいいましょうか。

男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴に絶えきれず、これはもう体を動かすしかないと体幹レーニングや筋トレのパーソナルトレーニングに通いだしてもうすぐ二年になります。最近では週二回程度のパーソナルトレーニングの他に、平日の早朝は「朝活」として職場近くのジムに通っています。最近ではもう、一回でも欠かすとかなり気持ち悪いと思うようになりました。どうやら習慣化は成功したようです。

飲酒も、以前に比べるとかなり減りましたが、全く飲まないというところまでは行っていません。基本的に平日には飲まないというのが定着してきましたけど、あまりに疲れていたり暑かったりすると缶ビールに手が伸びてしまいます。これは酒を飲まないという状態を保たなければ気持ち悪いという心境にはいたっていない、つまりまだ習慣化に成功していないんですね。

SNSは、というより「SNS絶ち」は、だいたい習慣化できたようです。家族や友人との連絡用、つまり純粋なメールアプリとしてしか使っていないLINEとMessengerを除くと、使っているSNSTwitterだけなのですが、これもブログの更新とそのリプライ程度しか使わなくなりました。今ではTwitterで書いたり読んだりしない状態を保つのが心地よくなってきたので、多分このままフェードアウトできると思います。いや、SNSの中毒性というのは思った以上に手強かったです。

f:id:QianChong:20190909061652p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/02/sns_12.html

最近はずっと東京の「促イライラ性」とでもいうべきものについて考えているのですが、その流れで書店に平積みになっていた齋藤孝氏の『不機嫌は罪である』を読みました。あわせて齋藤氏が十五年ほど前に書かれた『上機嫌の作法』も読んでみました。この両書はとても似通った内容ですが、最新刊の『不機嫌は罪である』には現代ならではのSNSにおける「新しい不機嫌」について一章が割かれています。

f:id:QianChong:20190908145540j:plain:w200
不機嫌は罪である (角川新書)

齋藤氏いわく「SNSは不機嫌伝達ツールになった」。これは「SNS絶ち」を習慣化しようとしている私にとってはとても腑に落ちる表現でした。確かに、Twitterのタイムラインなど、不機嫌な発言があまりに多いのです。文字数制限のゆえか断言や決めつけや上から目線の発言が多い。もちろんまっとうな意見表明もあるのですが、その多くはいささか「こわもて」であり「自分には正義がある」という雰囲気に満ちています。いや、かつて自分が積極的にツイートしていたときは正にそんな雰囲気でつぶやいていましたから、それを批判する資格などないのですが。

あるいは、そうした断言や決めつけや上から目線や正義の主張でなくても、一種のマウンティングやポジショニングであったり、自己承認欲求が分かりすぎるくらい「だだもれ」であったり……。もともとSNSは、というよりこのブログを含めたほとんどのネット上における書き込みは、それ以前の世界にはあまり存在しなかった極私的な内面世界の発散なんですよね。日記や私小説の公開みたいなもので、ある意味倒錯した行為なんじゃないかと思います。もちろん誰もが自由に発言できるようになったことそれ自体は歓迎すべき変化ではあったのですが。

私は以前からこの「ブログやSNSは本来倒錯した行為」だという感覚から抜けきれず、まずは少しでも独りよがりから脱しようと途中からブログやSNSに書き込む文体を「常体(だ・である)」から「敬体(です・ます)」に変えました。またなるべくネガティブな言辞は書かないこと、批判や批評と悪口は別物であると肝に銘じること、実社会で他人に面と向かって言わないようなことはネットでも書かないことなどを意識してきました。それはそれでうまく機能して、ここ数年は比較的快適にブログやSNSを使ってきたのですが、ここにきて特に、齋藤氏の言葉を借りればSNSの「不機嫌さ」に絶えきれなくなってきたのです。

この本の冒頭にはこんな文章がありました。

現代人は四六時中誰かの不機嫌な言動にさらされ、ちょっとずつ精神を消耗しています。そして自らも、知らず知らずのうちに不機嫌に侵食されてしまっているのです。

う〜ん、この「不機嫌に侵食される」というのはよく分かるなあ。私のような意思の弱い人間は、Twitterのタイムラインをいったん覗いたら、刺激的なツイートに引き寄せられ、そこについたリプライに脈拍数を押し上げられ、その先のリンクを開いて映像を見たり文章を読んだりして、あっという間に時間を費やしてしまいます。有用な情報も多いですが、それを上回る「心騒がされる」情報、本来自分には必要なかった情報も多い。そして「不機嫌」も。そんな空気に長時間さらされていたら、心身も病もうというものです。

齋藤孝氏はSNSをやらないほか、エゴサーチを自分に禁じているそうです。もちろんネット自体は積極的に活用するものの「自分にまつわる情報は避けるよう徹底している」そう。なるほど、著名人の氏ならではですが、著名ではない私たちにも有益だと思います。私も氏に倣って、このブログの更新をTwitterに上げるのを止めて「SNS絶ち」の習慣化をより強化することにしましょうかね。そしてそのぶんの時間で、積ん読になっている本を読むのです。