インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

しまじまの旅 たびたびの旅 53 ……鹹豆漿と蚵仔煎

南の島でののんびりした旅を終えて、また台北に戻ってきました。あとは東京へ戻るまでの数日間、台湾ならではのB級グルメを食べ歩くことにします。といっても定番ばかり何ですけど、定番中の定番がやっぱり一番ほっとできて美味しいんですよね。

泊まったホテルには簡単な朝食がついていたんですけど、バックパッカー向けのトーストとコーヒーとジャム程度なので、近くのお店に「鹹豆漿」を食べに行きました。お酢と調味料、それに少量の「油條」などを入れたお椀に熱い豆乳を注ぐと、酢の作用で豆乳がおぼろ豆腐状になるというこれ、一番好きな朝ごはんです。

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このお店のオリジナルだという、オレンジピールが入ったパンを合わせました。なんでもNHKの番組で紹介されたことがあるそうで、日本人のお客さんもちらほらいました。

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トシを取ってあまり量を食べられなくなったので、朝食はこれだけで充分。しかし何ですね、食べ歩きが旅の醍醐味だというのに、食が細るのは本当につまらないです。若い方は「もっとお金を稼げるようになったら」とか「お金を貯めて悠々自適な老後に」などと言わず、いますぐ、親に借金してでも海外旅行に出かけるべきです。

お昼はこれ、定番中の定番「蚵仔剪」。カキが入ったオムレツとお好み焼きの中間みたいな食べ物。本当に美味しいですが、美味しい店で食べないとぜんぜん美味しくないので情報収集が欠かせません。こちらのお店は台湾在住の知人に教えてもらいました。日本人も多く訪れるみたいで、こちらが日本人だとみるや、日本語で話しかけられました。

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カキが大きくて、見た目からして美味しそう。かかっているソースもお店によって千差万別で、こちらはあまり強い味つけではなくとても美味しかったです。

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フィンランド語 13 …日本語にはない概念「分格」

単数分格(ぶんかく)というのを習いました。先生によると、これは日本語にない概念で、フィンランド語学習の中でも一番わかりにくい(かもしれない)部分だそうです。でも外語学習の醍醐味は実はそういうところだと思います。面白そうです。

まず、非常に単純化した説明として、可算名詞の時は普通の形ですが、不可算名詞になると「分格」が使われるということでした。

Tämä kissa on valkoinen.
この猫は白いです。
Maito on valkoista.
牛乳は白いです。

猫は可算名詞で、牛乳は不可算名詞。で、「valkoista」が分格になった形です。さらに、ひとつの時は普通の形ですが、ふたつ以上になると「分格」が使われるそうです。

yksi kirja
一冊の本
kaksi kirjaa
二冊の本

この格変化のさせ方ですが、これまで出てきた内格(ssA)、接格(llA)、複数(t)、属格(n)とはまったく違って、語尾が A / tA / ttA と三つもあります(大文字の A は、a か ä のどちらかになることを表します)。また kpt による変化はないとのこと。

①「kirkko(教会)」を分格にしてみる。
最後が短母音の場合、語尾は A になります。単語に aou が含まれていれば a 、含まれていなければ ä です。
kirkko + a = kirkkoa で、例えば「kaksi kirkkoa(二つの教会)」。

②「maa(国)」を分格にしてみる。
最後が二重母音の場合、語尾は tA になります。これは二重母音 + a だと三重母音になるのでそれを防止するために t を入れると考えます。単語に aou が含まれていれば ta 、含まれていなければ tä です。
maa + ta = maata で、例えば「kaksi maata(二つの国)」。

③「pieni(小さな)」を分格にしてみる。
i で終わるフィンランド語の場合は、語幹が変化して「piene」。この時最後が le、ne、re、se、te で終わる場合、語尾は tA になり、さらに e が消えます。単語に aou が含まれていれば ta 、含まれていなければ tä です。
pieni + tä = pienitä ですが、e が消えて pientä 。

④「huone(部屋)」を分格にしてみる。
辞書形(元の形)の単語の最後が e で終わる場合、語幹をまったく操作することなく語尾に ttA をつけます。単語に aou が含まれていれば ta 、含まれていなければ tä です。
huone + tta = huonetta で、例えば「kaksi huonetta(二つの部屋)」。

⑤辞書形(元の形)の単語の最後が子音で終わる単語は、最後が -nen 、-uus、-yys の場合とそれ以外で作り方が分かれます。
まず -nen は se になり、-uus と -yys は最後の s が te になり、そのあとに tA がつきますが、この時 e が消えます。例えば「punainen(赤い)」は punaista、「uusi(新しい)」は uutta になります。う〜ん、ややこしい。
一方でそれ以外の場合は語幹をまったく操作することなく語尾に tA をつけます。例えば「kaunis(美しい)」は kaunista になります。

以上の5パターンが分格の作り方の基本だそうです。複雑すぎて簡単には飲み込めそうにありませんが、これまでに習った言葉にも実は「分格」が使われていることが分かりました。

例えば「おやすみなさい」を表す「Hyvää yötä」は、もともと「Hyvä(よい)」と「yö(夜)」の組み合わせです。これがそれぞれ分格になるとき、「hyvä」は①のパターンで「hyvää」に、「yö」は y がフィンランド語では母音の扱いなので二重母音のため②のパターンで「yötä」になるというわけです。

先生からは、分格はかなり重要かつ複雑なので、自習で分格を作ることは当面やらなくてよい、そのかわり基本の単語をしっかり覚えてくださいと指示がありました。単語を覚えないと、その変化形や省略形も全く理解できなくなるからだそうです。はい、Quizletでせっせと覚えることにいたします。

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Kaksi tätä pientä kirkkoa. (二つのこの小さな教会)…… kaksi 以下がみんな分格になっています。

ほんとうに「受動喫煙対策を強化されると客が減る」のかな

昨日の衆議院厚生労働委員会で、受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案の審議中、参考人として発言していた日本肺がん患者連絡会代表の長谷川一男氏に自民党穴見陽一衆院議員が「いいかげんにしろ」とやじを飛ばした問題。動画サイトで当該委員会の映像を見ても「やじ」が聞こえなかったので、これはどういうことかなと静観していたら、当のご本人が「謝罪」して本当であったことが明らかになりました。

youtu.be
2:28:48ごろから。

穴見議員ご本人が喫煙されるのかどうかは知りませんが、まあことタバコに関する議論になるとどんな賢人や明哲も驚くほどの知的退廃を披露されるのは今に始まったことではありません。げに喫煙の害は恐ろしいと改めて思います。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

ところがその後、穴見議員がファミリーレストラン「ジョイフル」の創業者一族(長男)で、現在も同社の相談役・代表取締役であるという報道に接して、なるほど「受動喫煙対策を強化されると客が減る」といったような飲食店経営者の視点からの「やじ」でもあったのかと認識を新たにし、さらにあきれかえってしまった次第です。

報道によれば「ジョイフル」傘下の店舗ではいまだに全面禁煙は行われておらず、分煙も単にエリアを分けるだけの不完全なものであるよし。さもありなんとは思いますが、同時になぜ禁煙を進めると客が減ると考えるのか、その点が不思議でなりません。

今朝の東京新聞にも小さなコラム「傍聴記」で記者子が書かれていましたが、飲食店で全面禁煙にしても売り上げは落ちないというデータが次々に上がっています。

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それにしても……JT日本たばこ産業株式会社)の2017年の調査でも、喫煙率は男女計で18.2%しかない現在。最も喫煙率の高い40代男性でも36.7%、つまり約6割の方は非喫煙者だというこの時代に、単純に考えて飲食店は全面禁煙にした方が客足が伸びると思うんですけど、経営者の方々はこんなかんたんな「算数」もできないんでしょうかね。

最新たばこ情報|統計情報|成人喫煙率(JT全国喫煙者率調査)

小さなお子さんを連れたファミリー層や、私みたいに飲食店での受動喫煙がいやで(だって食事がおいしくなくなるんだもの)外食を極力避けている人たちは結構いると思うんですけど、そういう新たな客層を取り込もうという経営努力をせず、頑なに根拠の乏しい「受動喫煙対策を強化されると客が減る」にしがみつくのはどういうことなのか、本当に理解ができません。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_14.html

「違うんだよ、バーとか居酒屋とか、酒とタバコが切っても切れない関係にある飲食店、特に小規模のそれは死活問題なんだよ」という声も耳にします。「常連さんが来なくなっちゃう」とかもね。まあそういうタバコ吞みの方々のための専用飲食店があってもいいと思います。

私はこの世からタバコをなくしてしまえと思っているわけではなく(理想論としては語れるけど今のところ非現実的です)、少なくともタバコの煙を吸わされたくない人には吸わせないでほしいと思っているだけです。だからタバコ吞みのみなさんだけが集まって吸い吸わされ、無聊を託つのもいいでしょう。

本当は二次喫煙・三次喫煙の害もあるので、その煙が染み込んだ服のまま電車やバスに乗ってほしくないんですけど(私はしょっちゅう逃げてます)、それもまあ「お互い様」「持ちつ持たれつ」の人間社会でありますからして、私はガマンいたします。

ただ「常連さんが来なくなっちゃう」系の飲食店経営者さんには、次の記事を贈ります。飲食店経営のコンサルティングをされている方のブログ記事です。

inshokukasseika.com

非喫煙者という潜在的な顧客数の優位性はいまや誰の目にも明らかです。穴見議員はじめ飲食店経営者のみなさんはぜひ賢明な判断をなさいますようにとお祈り申し上げます。

黒歴史はあまり聞いたことがないって

華人留学生の通訳クラスで、無国籍の問題に取り組まれている陳天璽氏の講演を教材に使いました。


【一席】陳天璽:無國籍生存

とても分かりやすい中国語ですし、無国籍者としてのご自身の体験も語られており、国民国家とは、国籍とは、難民とは……と、考えさせられる内容です。留学生のみなさんは中国や台湾が対峙している現状から見れば「第三国」である日本に留学しているわけで、この貴重な機会に様々な角度から自らの国や地域や国籍や国際問題などを考えてもらう小さなきっかけになればいいなと思ってこの映像を選んでみました。

この映像の中に、タイの国境地帯で暮らすベトナム難民の話が出てきます。そこで陳天璽氏が出会ったあるお年寄りの息子は日本で不法滞在状態になっているのですが、そのくだりで “他到日本就黑下來了(彼は日本で不法滞在状態になってしまった)” と言っています。この “黑下來了” 、一般的には “天黑下來了(日が暮れた/空が暗くなってきた)” のように使うのですが、ここでは “黑” が「ブラックな」とか「闇の」といった比喩的な用法で使われています。

この “黑下來了” について華人留学生のみなさんが何となくピンときていなかった様子だったので、私が「だって “黑戶” とか “黑孩子” という言葉もあるじゃないですか」と言うと、ますます狐につままれたような表情。特に “黑孩子” については多くの華人留学生がご存じないようでした。

“黑孩子” とは、一人っ子政策の中国で、二人目が産んでしまった場合、正式に出生届を出せないために戸籍上存在しない状態になってしまった子供を指します。

黒孩子 - Wikipedia

そこで試みに「 “黑五類” は?」と聞いてみたところ、全員が「初耳」といっていました。対概念の “紅五類” も知らないそうです。なるほど、“80後(パーリンホウ・1980年代以降に生まれた若者)” や “90後” 、あるいは “95後” と先行世代とのジェネレーションギャップが報じられて久しい中国ですが、ついにこういう時代になりましたか……と、ある意味感慨深いものがありました。

“黑五類” とは、中国の文化大革命期に人民・労働者階級の敵として分類された五つの出身階層である「地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派」を指します。現在では使われなくなった「死語」に等しい言葉ではありますが、中国の近現代史においてはとても重要かつ象徴的な意味合いを持つ言葉です*1

黒五類 (文化大革命) - Wikipedia

とはいえ、まあ仕方がないですよね。当の中国政府が反右派闘争や文化大革命など自らの「黒歴史」を封印して、あまり若い世代に伝えないよう、知らしめないようにしているのですから。「六四」、つまり1989年の天安門事件(第二次)すら知らない華人留学生もすでに登場しています*2。まあ近現代の歴史教育については、日本だってあまり人様のことを言えた義理じゃないんですけど。

www.nikkei.com

それでも、冒頭にも書きましたが、せっかく日本という「第三国」にいて、自国にいたときとはまた異なる情報にアクセスできるのですから、歴史を客観的に見据えるためにもぜひ色々と知り、これまで教わってきたことと引き合わせながら考えてもらえたらうれしいなと思います。「寝た子を起こすな」と言われるかもしれませんけど。

また留学生のみなさんの親御さんの世代は現在40歳代から60歳代くらいで、このあたりの体験は深く身体に刻み込まれているはずですし、現在中国語圏の政財官界で中心的な役割を担っている方々もこの世代が中心。ということは、背景知識としてこうした歴史をきちんと理解していることが仕事の現場でもきっと活きてくると思うのです。

普段華人留学生、なかんずく中国人留学生に接していると、中国の近現代史、特に中華人民共和国における改革開放以前の「微妙」な時期の歴史については、若い方々の知識からは急速に抜け落ちて行っている(抜け落とさせられて行っている)印象を持ちます。“文革” 自体はまだしも “插隊” も “批鬥” も “老三屆” も “樣板戲” も “忠字舞” も、ほとんどの方が「あまりよく知りません」という感じ。今日は “老三篇” について聞いてみましたが、これも「初耳」だそうです。もちろん “為人民服務*3も “紀念白求恩” も “愚公移山” も。

老三篇” は毛沢東の短い演説の中でも一番有名なもので、文革当時はほとんど「神格化」されていました。そして今ではちょっと信じられないようなハナシですが、日本でも当時の中国にシンパシーを感じていた人々や一部の中国語学習者の間では、全文を暗記するなんてことも行われていました。

私が中国語を学び始めたのはそういう頃からはるかに時代が下ってからですが、それでも先生方の中には暗誦できる方がいたように記憶しています。何だかすごい時代ですが、でも改めて読んでみるとこれ、なかなか読ませる文章なんですよね。さすが一世を風靡しただけのことはあります。また中国語の文法的には(当然ですけど)完璧ですし、教材として用いられたのもうなずけます。

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老三篇 - 维基百科,自由的百科全书

ともあれ、こうした近現代史の記憶が、現代中国の若者から急速に忘れられているというのはなかなか興味深いです。私が担当しているクラスの留学生は比較的裕福な家庭の子弟が多いようですから、もちろんこれだけで中国の若者全体が……などとは決して言えませんが。そのうち“毛澤東”や“周恩來”も「誰ですか?」という方が出現するのかな。いや、もっと若い世代にはすでに出現しているかも知れませんね。“毛澤東? 這是什麼東東?*4”……って。

ちなみに冒頭でご紹介した陳天璽氏の取り組みについては、こちらの動画とご自身の著書も大変に見応え・読み応えがあります。合わせておすすめです。

youtu.be


無国籍 (新潮文庫)

*1:胡麻や黒米などを原料にした健康食品の商品名にも一種の諧謔的に用いられています。

*2:同僚の中国人講師にそう言ったら「そりゃそうですよ。文革はまだ概略程度は教えますけど、六四に関してはタブーだから絶対教えないですもん」と言われました。

*3:このスローガン自身はもちろん知ってるって。

*4:毛沢東? それってナニ?」という感じ。中国語の“東西”は「もの(グッズ)」という意味なのですが、それをもじって“東東”というと、ちょっと冗談めかした感じになります。それが“毛澤東”と脚韻を踏むと、さらにファニーな感じになるんですね。

フィンランド語 12 …強調のキン・カーン

単語の最後にくっついて強調を表す接尾辞「kin」が出てきました。

Kenen tuo punainen kynä on ?
Se on minun.
Entä tuo sininen kynä, kenen se on ?
Sekin on minun.
あの赤いペンは誰のですか?
それは私のです。
ではあの青いペン、それは誰のですか?
それも(それだって)私のです。

「Se(それ)」に「kin」がついて、それも、それだって、と強調しているわけです。肯定文のときは「kin」ですが、否定文のときは「kaan」か「kään」を使うそうです(単語にaouがあるときは「kaan」で、ないときは「kään」)。

Onko tuo punainen kynä sinun ?
Ei.
Entä tuo sininen ?
Ei sekään.
あの赤いペンはあなたのですか?
違います。
ではあの青いのは?
それも(それだって)違います。

この強調の接尾辞は、格変化の語尾とは違って単に単語の最後にくっつくだけだそうです。例えば「Suomiフィンランド)」が「Suomessa(フィンランドの中に/で)」と変化した後にさらに「kin」がついて「Suomessakin(フィンランドの中に/で、だって)」のようになることもあるわけですね。

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Savonlinna on kiva kaupunki.
Niin Helsinkikin !

しまじまの旅 たびたびの旅 52 ……ふたつの日本軍上陸記念碑

バイクで澎湖島の何の変哲もない県道をながしていたら、このような看板が。

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日清戦争(甲午戦争)の際に、日本軍が上陸した地点に立てられている記念碑です。住宅街のはずれの、静かで寂しい場所に立っていました。

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詳しい説明書きもあります。日清戦争後の、下関条約(馬関条約)調印は1895年4月17日。ここ澎湖島の林投に日本軍が上陸したのはそれより前の3月23日と書かれていますから、台湾の日本への割譲が決定する前なんですね。およそ五十年間に及ぶ、日本による台湾の植民地支配はここから始まったとも言えそうです。

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もうひとつ、近くにある別の記念碑も見に行きました。こちらも同日に日本軍が上陸したと書かれています。隣には「臺灣光復紀念碑(台湾の独立回復記念碑)」も立てられていました。

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このふたつの記念碑、碑文は「抗戦勝利紀念碑」となっています。これに関しては以前こんな報道がありました。

japan.cna.com.tw

戦後、中華民国が日本を打ち負かしたのだという多分に政治的、あるいはプロパガンダ的配慮からこのような碑文になっているわけですが、それでは日本軍が澎湖を侵略した歴史がきちんと伝わらないとして、もとの「明治二十八年上陸記念碑」に戻すよう住民が求めている、という報道です。

ひとりの日本人として、澎湖を訪れる際にはぜひ一度立ち寄って、これまでの歴史を反芻すべき場所だと思います。

サラダチキンを自分でつくる

「筋トレ本」の著者Testosterone氏が最上の蛋白質補給源としてお勧めされていた「サラダチキン」、近所のスーパーで買ってみようと思ったのですが、結構いろいろな添加物が入っているんですね。一点だけ「無添加」というか、「国産鶏むね肉使用、化学調味料・保存料・食品添加物不使用」とうたわれているものを買ってみました。

……が、も〜パッサパサで、全然おいしくないです。

これなら自分で時々作るやつのほうがずっとおいしいと思うので、ここに作り方を記します。といっても私が考えたんじゃなくて、NHKの「ためしてガッテン!」で紹介されていた作り方をアレンジしただけですが。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

まず鶏胸肉(皮なし)の表裏全体にフォークを突き刺して穴を開けます。

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次にジップロックにほんの少々の砂糖と塩と水を入れるのですが、うちは砂糖を使わないので代用のメープルシロップ。塩は塩麹を使ってみました。これらが細かく開けた穴に染み込んで肉のジューシーさを下支えしてくれます。

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お湯を沸かし、炊飯器の内釜にいれて保温モードに。そこに空気を抜きながら口を閉めたジップロックをドボンとつけ込みます。

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蓋を閉めて、このまま1時間半ほど放置するだけ。いわゆる「低温調理法」をまねたような方法ですね。出来上がったら取り出して、しばらく粗熱を取ります。

これでもう完成なんですけど、切り分けるときにコツがあります。それは鶏胸肉の繊維を断ちきるように切ること。これで柔らかさ倍増です。切り方はこちらの図を参考にしてください。赤い線が肉の線維、青い破線が切り方です。

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驚くほど簡単にできて、驚くほど(誇張ではなく本当にお箸でちぎれるほど)柔らかく、おいしいです。写真のようにマスタード(これは緑色のエストラゴンマスタード)をつけてもいいですし、一番のおすすめは「柚子胡椒」です。サンドイッチに挟んでも。塩分かなり控えめ(というかほとんど入ってない)なので、その点でも市販のサラダチキンよりよほど健康的です。

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「HINOMARU」の文語調について

先日来、RADWIMPSの新曲「HINOMARU」を巡って、ネット上には様々な情報が飛び交っています。

私はその歌詞を一読して「なんだこれ?」と思った以上の感情は湧かなかったのですが、右や左の旦那様、じゃなかった皆々様の中にはことさらに神経を刺激された方もいたようで、Twitter上では過激な抗議行動への呼びかけやら、それに対する反発やらが拡散しあい、さらにはご本人たちが謝罪したその後のライブで「自分の生まれた国を好きで何が悪い」と叫んだらしいというニュースまで舞い込んで来るに到って、バカにしたニュアンスで使っていた「なんだこれ?」が興味を持つ意味合いの「なんだこれ?」に変わって行きました。

この件をめぐって、表現の自由や言論の弾圧といった側面と、歌詞そのものが持つ陳腐さについて書かれていた小田嶋隆氏のコラムが「なんだこれ?」を埋め合わせてくれる内容で、とても面白く読みました(と書くと何となく不遜ですね)。

business.nikkeibp.co.jp

とくに「HINOMARU」の擬古文的な歌詞の、その「恥ずかしさ」については我が身を振り返ってちょっと見につまされるような感覚にもなりました。私は擬古文や、ましてや正式な古文や文語文をきちんと使いこなす自信は全くないにもかかわらず、そういうものに憧れる「知的虚栄心」は人一倍持ち合わせているからです。このブログにしたって、時々、いや頻繁にかな、古文ではないもののかなり背伸びをした小難しい表現を使いたがる自分の癖は充分に理解しているつもりです(これでも)。

私は昔から人に「ペダンチック」とか「衒学的」と言われることが多いので、そういう癖はなるべく抑えようと努力しています(これでも)。ブログを書くのは文章の練習というか頭の体操というかボケ防止というか、まあそんな程度の理由なんですけど、なるべく自分の「衒学性」を飼い慣らしてより……、より……あれ?「衒学的」の対義語はなんでしたっけ? ともかく「衒学的ではない」思索に自分を持っていきたいと願っています。

歌詞に使われる文語調

思えば、私が最初に「中途半端に使われる文語調や古語風の言い回しの恥ずかしさ」について意識したのは、NHKの朝ドラで主題歌に使われた松任谷由実氏の「春よ、来い」でした(歌詞はこちら)。

youtu.be

「今でも返事を待っています」という現代文にところどころまぶされる「愛をくれし君の懐かしき声がする」といった古語風の言い回しがなんだか鼻につくなあと感じたのです。それでもその一方で歌詞全体はさすがにイメージ豊かですし、曲はこれはもう松任谷由実氏の面目躍如で趣きにあふれるメロディだと思いました。

その一方でRADWIMPSの「HINOMARU」はやはり何度聴いても(歌詞はこちら、曲はこちら)、その歌詞もメロディも「ちょっと恥ずかしい」の域を出るものではありません。まあ曲の好みは人それぞれですから、一度聴いて見ることをお勧めいたします。というか、SNSなどで「炎上」していた時に思ったんですけど、曲を聴かずに歌詞の字面だけで「脊髄反射」していた方が散見されましたが、それではRADWIMPSのみなさんがちょっと可哀想だと思います。

ちなみに、今回の「騒動」の中で「同じくくり」として椎名林檎氏の「NIPPON」や、ゆずの「ガイコクジンノトモダチ」を再び取り上げる意見もネット上には見られましたが、「NIPPON」はまだ文語調をまぶしていないだけ聴きやすいと思います(歌詞や楽曲そのものは好きじゃないですけど)。

youtu.be

「ガイコクジンノトモダチ」のほうは……こちらも文語調はまぶさっていないけれど、これは恥ずかしい。大変失礼な言い方になりますが、なぜこんなに薄っぺらい歌詞を書いてしまうんでしょう。この歌詞を読むと「HINOMARU」のほうがまだ深みがあると思えるほどです。

youtu.be

外国人の存在や行動や言動に触れることで、自分自身や自らの国を見つめ直したり新たな発見をしたり危機感を覚えたりすることはとても有意義だと思います。私も日々外国の方々と接する仕事をしているので、その大切さや面白さや難しさはじゅうぶんに分かります。だからこそですが、それをこんな薄っぺらい言葉で語ってほしくないなあ。

「言葉足らずの歌」について

ゆずの歌詞については、政治学者の岡田憲治氏がその著書で、その容赦のなさに少々こちらがたじろいじゃうほどの、でもとても的確な批判をされています。

(ゆずの「逢いたい」の歌詞を読むと)「『逢いたい』で済むなら、歌にするなよ」と思ってしまうのです。あるいは「伝えきれない想い」と「伝えきれない想い」という歌詞で歌うのは、創作以前の反則だろとつぶやきたくなるのです。「好き」と「嫌い」以外の判断基準を持つ人間(少しはものを考える大人という意味)にとって、寂しいときには「寂しい」という言葉を使わないで歌を創る、シナリオを書く、そして小説を産み出すというのが人前で何かを見せる者たちの最低限のお約束だったはずです。


岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』210ページ(強調は原著のまま)


言葉が足りないとサルになる

いや、これは手厳しい。でも本当にその通りだと思います。この圧倒的な「言葉の足りなさ」というのは、日々日本語母語話者や中国語母語話者の生徒さんたちを相手に語学や通訳翻訳の訓練を行っていてひしひしと感じ、また自戒にもしているところです。語学や通訳翻訳を論じ始めるとキリがないのでまたそれは他の機会に譲って歌詞にしぼりますが、優れた歌詞というものは、メロディに乗せるという前提条件からして比較的字数制限の強い枠組の中で、しかし読み手や聞き手に深い余韻や洞察を与えてくれる懐の深さを持っている、あるいは絶大なイメージ喚起力を持っているものだと思います。

そのために表現者は様々な工夫を凝らすものですし、上記の文語調もその工夫の一環なのかも知れません。でも「HINOMARU」はその点ではかなり不完全燃焼だと思います。映画『君の名は。』の主題歌として大ヒットした「前前前世」と同じ表現者とはとても思えません。

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フィンランド語 11 …「〜の」を表す属格

主語や名詞や形容詞などが変化しまくるフィンランド語、これまで「〜の上に/で」の単数接格(llA)、「〜の中に/で」の単数内格(ssA)、複数(t)と学んできましたが、今度は「〜の」を表す単数属格というのを学びました。目印は「n」で、変化のさせ方の規則は同じです。

Mikä on Suomen pääkaupunki ?
Helsinki.
フィンランドの主要な都市(首都)は何ですか?
ヘルシンキです。

Suomiフィンランド)」が「Suomen」に変化して「フィンランドの」という単数属格になっています。①語尾が「ie子」でフィンランド語由来の言葉だから語幹の最後が「i→e」になり、そこに単数属格を表す「n」がつく……なるほど、変化のさせ方はこれまでと同じですね。最初にある疑問詞が「Missä(どこ)」ではなく「Mikä(何)」というのも面白いです。「Missä」を使うと、例えば地図上でヘルシンキの一を示してもらう、などというときの言い方になっちゃうのかな?

今度はこの地図を見ながら……

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Tanska jatkaa jälleen rajatarkastuksia - Ulkomaat - Uutiset - MTV.fi

Mikä on tämän pienen maan pääkaupunki ?
Kööpenhamina.
この小さな国の首都は何ですか?
コペンハーゲンです。

「maa(国)」が属格になったことで、「tämä(この)」や「pieni(小さな)」もぜんぶ属格になっています。「タマン・ピエネン・マーン」とここでも脚韻踏みまくりです。

さらに疑問詞や人称代名詞も属格に変化します。

Kenen nuo sanakirja ovat ?
Minun.
Mutta tuo pieni punainen sanakirja ei ole sinun ! Se on Sadun.
Niin. Se on totta. Se ei ole minun. Se on hänen.
これらの辞書は誰のですか?
私のです。
でもあの小さな赤い辞書はあなたのではありません! それはサトゥ(名前)のです。
そうです。それは本当です。それは私のではありません。それは彼女のです。

ちょっと生硬な例文ですけど、語学の基礎段階は生硬な例文もつべこべ言わず素直に受け入れるのが吉です。「kuka(誰)が「kenen(誰の)」になり、「minä(私)」が「minun(私の)」「sinä(あなた)」が「sinun(あなたの)」「hän(彼/彼女)」が「hänen(彼の/彼女の)」になっています。

さらには「Satu(サトゥ)」という女性の名前まで「Sadun(サトゥの)」と変化しています。日本語だと助詞「の」がついても名前自体は変わりませんが、フィンランド語は単語自体が助詞を含んだ形に変化していくんですね。なんとも新鮮です。

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Tämä on Kööpenhaminan pääkatu ?
Strøget.

語学をもっと欲張ればいいのに

日本語を学んでいる、あるいは日本語と英語や中国語との通訳や翻訳を学んでいる留学生から、ときどきこんな相談というか、要求が聞かれます。

学校で教わる日本語はすごく「きっちり」してるけど、日本人の友達とかバイト先の日本人はそんな日本語を話してません。もっと「実用的」な日本語を勉強したいです。

これ、先日のエントリで「この中国語はおかしい。普段の生活でこんなことは言わない」と言っていた華人留学生と似た視点ですよね。教材や教科書に出てくる文章は堅すぎて実用的ではない、あるいは不自然だと。たしかに、外語を学ぶ際の教材にはそういう文章が満載です。

英語を学んでいるときだって、私が語学アプリの例文(ちなみに私の英語はほとんど中学一年生か二年生レベルです)を友人に紹介したら、「どんなシチュエーションだよ。いつ使うんだよ、そんな文」と言われたことがあります。つまり、例えば“Where do you go every day? ーWe go to school.”みたいな文ですね。

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ただですね、外語を、たとえば一回限りの旅行でその国に行って簡単な挨拶や買い物の会話くらいができればいい、別にその言語をマスターしようとは思わないし、その国や地域にももう一生行かない……くらいの「ノリ」であるならまだしも、きちんとその言語を学んで、できれば仕事で使いたいと思っているのであれば(くだんの留学生もそうです)、基礎段階は生硬な例文もつべこべ言わず素直に受け入れるのが吉なんじゃないかなと。

以前にも引用したことがありますが、ロシアの心理学者ヴィゴツキーは『思考と言語』でこう論じています。

子どもは学校で外国語を、母語とはまったくちがったしかたで習得する。外国語の習得は、母語の発達とは正反対の道をたどって進むということもできよう。子どもは、母語の習得を決してアルファベットの学習や読み書きから、文の意識的・意図的構成から、単語のコトバによる定義や文法の学習からはじめはしない。だが、外国語の学習は、たいていこれらのものからはじまるのである。


子どもは母語を無自覚的・無意識的に習得するが、外国語の習得は自覚と意図からはじまる。それゆえ、母語の発達は下から上へと進むのにたいし、外国語の発達は上から下へと進むということができる。母語のばあいは、言語の初歩的な低次の特性がさきに発生し、その後に言語の音声的構造やその文法形式の自覚ならびに言語の随意的構成と結びついた複雑な形式が発達する。外国語のばあいは、さきに自覚や意図と結びついた言語の高次の複雑な特性が発達し、その後に自分のでない言語の自然発生的な、自由な利用と結びついたより初歩的な特性が発生する。


(第六章、改行と太字は引用者)

外語の発達段階は母語とは真逆で、まずはフォーマルな言い方を学ぶべきなんですね。フォーマル・正式を知っているからこそ省略やくだけた言い方にも応用が利くのです。

それでも世の「語学の達人」と呼ばれる方の中には「習うより慣れろ」とか「文法より流暢さ」とおっしゃる方は多いです。そしてその真意や背景をじゅうぶんに理解することなく「そうだそうだ、実際の会話で文法規則なんていちいち気にしてない。もっと『使える』、『リアルな』言い方を教えてくれ、聴かせてくれ」とその尻馬に乗っかる初学者もまた多いのです。例えば先日タイムラインに流れてきた、こちらのツイート。

松井博氏はまさに「語学の達人」で、私はご著書も読んだことがありますし、氏が主宰されている英語学校「ブライチャー」の説明会にも参加したことがあります。決して語学を「ちゃちゃっと、手っ取り早く」学んじゃえというような学校ではなく、本気で英語を習得したい人向けの「硬派」な教育方針だと感じました(ただし、ダラダラやらず短期間で効果を上げることにはこだわってらっしゃる)。けれど、このツイートだけ読んで「そうだそうだ、文法なんてやっても無駄だ」と浅薄な理解をする方が続出するんじゃないかと、少々危うい印象を持ちました。

語学の学習目的は人によって様々で、仕事のために「手っ取り早く」喋れるようになりたい(ならなければならない)という方もいれば、上記のように「旅行時にちょこっと使えれば充分」という方もいます。それは人それぞれでよいのですが、私が担当している留学生のみなさんは、わざわざ日本に二年間、あるいはそれ以上の期間をかけて留学しています。そこまでの時間とお金をかけて語学をやるんだったら、やっぱり欲張って「王道」を歩んでもらいたいと私は思います。

そして、語学の初中級段階はともかく、通訳の訓練などをする段階になったら、どんなに生硬な発言や自分にとっては不自然な表現でも「面白えじゃねえか、よ〜し訳してやる!」という意気込みを期待したい……というのが私のホンネです。だいたい好きな言語ならなおのこと、あれもこれも全部取りしたい! と欲張るはずなのに、そしてそれが可能な留学生活なのに、なぜかみなさん効率とか手っ取り早くとか、そっちの方向ばかり追求されるんですよね。どうせなら「野菜マシマシの全部乗せ」にすりゃいいじゃないですか。あ、私はもう胃もたれするので遠慮しときますけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_79.html

華人留学生のみなさんには「せっかく留学しているんだから華人同士でも日本語で話せば? そのほうが『クール』じゃない?」といつも言っているのですが、実行する方はほとんどいません。これも私のホンネを言わせてもらえば、そんなんで日本語をマスターしようなんて、“想得太美了(考えが甘すぎる)”です。

あとこれは私が「語学M体質」とでもいうべき人間だからかも知れませんが、かつて通訳案内士試験を受ける際に教師から分厚い単語集を指定され、全て覚えるように言われて「すごく興奮した」んですよね。成語や慣用句や諺も「こんなの使うか?」的なものまで丸暗記。そういうのって……え?楽しくない?

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食べ方を「可視化」したらとても新鮮でした

またまた大変失礼ながら、以前だったら絶対に手に取らないタイプの本でした。タイトル、装幀、イラスト、ぱらぱらっとめくってみたときの内容、特にやたら大きな活字(12ポイントくらいあります)の本文も含めて、ぜ〜んぶ。


筋トレビジネスエリートがやっている最強の食べ方

……ところが、これがまた、刺さる刺さる。先回ご紹介したTestosterone氏の「筋トレ」シリーズ、今回は「食事篇」です。

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この本は「ダイエット」にベースを置いているので、私のように「更年期障害を克服して健康増進」のためにトレーニングをしている人はちょっと方向が違っています。それでも身体をできる限り健康な状態に保っておきたい、そのためには何をどう食べればよいのかについて、かなりシンプルなメソッドが提案されています。

そのメソッドは「マクロ管理法」。個々人の基礎代謝をもとに、一日に摂取すべき(摂取できる)総カロリー量を割り出し、その総カロリー量の範囲内で「マクロ栄養素」と呼ばれるP(蛋白質)、F(脂質)、C(炭水化物)をバランスよく食べるというものです。

……とはいえ。

えー、正直に申し上げて、私は生来の「どんぶり勘定人間」でして、この段階でもう半分投げ出しそうになっていました。好きな食事を自分でつくって好きに食べるのが一番幸せだし、食事制限やストイックなダイエット食などに手を出すくらいだったら多少余命が縮まってもいいや、それに少々下腹が出ている方が着物を着たときはカッコいいし……的なあまのじゃくでもありまして。

ところが、ここ数年にわたって幾度となく襲ってきた不定愁訴の波はあまのじゃくな自分を変えましたね、ええ。食事の量を減らし、浴びるほど飲んでいたお酒も週末に嗜む程度。そして今度は基礎代謝と総カロリー量の計算ですから。

そうしたら、なかなか新鮮な発見がありました。これまでの自分の経験や知識、ましてや主義やプライドなどはいったん括弧に入れて、何でも素直に試してみるものです。

基礎代謝と一日の消費カロリーを計算する

詳細はぜひこの本にあたっていただきたいのですが、文中でも紹介されている筆者主宰のウェブサイトで自分の基礎代謝と一日の消費カロリーを計算できる簡便なツールが公開されており、無料で使用できます。

書籍用マクロ計算ページ | DIET GENIUS.jp

ここで性別・身長・体重・年齢を入力すると、自分の基礎代謝が求められます。基礎代謝とは一日何もしなくても消費するカロリー量のこと。実際には生活や仕事があるので、ここに一日の「アクティブ度(生活や仕事の負荷の多寡)」、さらには自分の食生活改善の目的を入力します。私は日中も結構動いていますけど肉体労働というほどの重労働ではなく、デスクワークも多いので「低アクティブ度」。また食を改善する目的は多少の筋肉増強(主に腰痛予防と健康維持のため)……と入力。

こうして得られた私の一日の消費カロリーは2021kclでした。単純に考えれば、これより多く食べれば太り、少なく食べれば痩せることになります。このウェブサイトでは同時に、一日の消費カロリーのなかでP(蛋白質)、F(脂質)、C(炭水化物)をどのくらい食べてよいかまで計算してくれます。私の場合はP(蛋白質)124g、F(脂質)56g、C(炭水化物)255gになりました。

マクロ栄養素の量を確認する

お次は、実際に自分が食べている食事に含まれているPFCがどのくらいあるのかを求めます。ここが一番面倒でして、ここでもまた投げ出しそうになりましたが、今度は「カロリーSlism」というウェブサイトが手助けをしてくれました。こちらも無料です。

calorie.slism.jp

ここで普段の一日で食べている食事を思い出しながら、食材やメニューから同じようなものを探して計算してみました。あまりきっちりやろうとしても無理があるので、だいたいの近似値でいいやと割り切るのがよいと思います。

でもこの作業、やってみて今さらながらに気づいたのですが、世の中の様々な食品、特に加工食品には、そのほとんどにキチンと栄養成分表示表が載っているんですね。いや、当たり前なんですけど、今まで全く気にも留めていませんでした。

この表を参考にしながら、とにかく一日に食べた全ての食べ物のカロリーと「マクロ栄養素」の量を割り出しました。できれば日を変えて何パターンか割り出してみるとより実際に自分が食べているカロリーや栄養素の実質的な平均値に近づくかと思います。

この計算をやってみて初めて可視化された、というか、よく分かったのが、基本的な三食(私はお昼を抜くことも多いので二食)以外に食べているもの、つまり間食とかおやつとか、特に甘いもの(実は大好き)が全体のバランスにどう影響しているのかという点です。

例えば私は、通勤途中にあるパン屋さんで売っているすごく美味しい「クイニーアマン」をよく買うのですが、この一個を一日の総カロリー量とマクロ栄養素の計算に放り込んでみたところ、脂質と炭水化物のバランスがど〜んと崩れました。カロリーもすごいことになってる。たったひとつでこんなに崩れるのか、とちょっと衝撃を受けました。

だからといって「もう一生食べない!」などと言うつもりはないのですが、少なくとも「これを食べるなら、じゃあ夕飯でちょっと脂質を調整して」という意識が働くことになります。一時期話題になった「レコーディング・ダイエット」と同じですね。何かを食べることで、それが全体にどう影響するかが具体的なイメージとなって腑に落ちるのです。そうすると不思議なもので「じゃあ今日はこれ食べるのやめとこっと」と自然に自分を納得させられるんですね。これは計算をやってみて初めて湧いた感情でした。すごく新鮮です。

これはなかなかよいと思いました。無軌道に無制限に食べていたら太るし健康も害しますよね。どこかで「ちょっとご褒美」的に不摂生をしたら、その分をどこかで「回収」しておく。そういう意識が自然に持てるのが、この本とウェブサイトから学んだ最大の収穫でした。

フィンランド語 10 …曜日と昨日・今日・明日

初手からolla動詞と格変化で青息吐息ですが、「Milloin?(いつ?)」を表す言葉として曜日や昨日・今日・明日などを学びました。

viikonpäivät 曜日

maanantai 月曜日
tiistai 火曜日
keskiviikko 水曜日
torstai 木曜日
perjantai 金曜日
lauantai 土曜日
sunnuntai 日曜日

英語からの類推でもなんとな〜く覚えられそうですが、これはもう丸暗記するしかないですね。水曜日が「週の真ん中」という表現なのも面白いです。

toissapäivänä 一昨日
eilen 昨日
tänään 今日
huomenna 明日
ylihuomenna 明後日

こちらはもう、全然類推が効きません。フィンランド語はスラブ語系の言語に語源を持つ単語が多いそうで、英語とはかなり違う世界なんですね。

ちなみに、曜日の後ろに「na」をつけると、「その曜日に」という意味になるそうです。教科書にはこんな例文が載せられていました。

Milloin sinä olet kotona ?
いつあなたは家にいるんですか?

Esimerkiksi huomenna. Olen tavallisesti täällä Helsingissä lauantaina ja sunnuntaina.
たとえば明日ですね。私は通常、ここヘルシンキに、土曜日と日曜日にいます。

「esimerkiksi(たとえば)」とか「tavallisesti(通常)」は副詞です。副詞は語形変化しないので、とにかくどんどん覚えていってくださいと先生から指示がありました。「私は通常……」と言っている部分、人称代名詞の「Minä」が省略されています。これはolla動詞の「olen」を言えばもうそれだけで一人称だと分かるからだそうです。どんな言語も「言葉の経済性」を追求するんですね。でもこれも基本を学んだ後だから省略できるわけで、最初からこんな文章に接してもさっぱりわけが分からないと思います。この教科書はなかなかうまくできています。

「lauantai(土曜日)」と「sunnuntai(日曜日)」にそれぞれ「〜に」にあたる「na」がついています。日本語だと「土曜日と日曜日に」という感じで最後にひとつだけ「に」をつけますけど、フィンランド語ではそれぞれの言葉にぜんぶ律儀につけるんですね。こういうところも面白いです。

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Milloin sinä olet Helsingissä ?
Keskiviikkona.

「この中国語はおかしい」について

通訳訓練では毎学期必ずと言っていいほどあることなのですが、今期も華人留学生から教材の中国語について「この中国語はおかしい。普段の生活でこんなことは言わない」との発言がありました。う〜ん、まあ語学教材はそもそもが架空の設定ですし、とはいえ文法的にはきちんとした文章ですし、今やっているのは中国語から日本語への通訳訓練ですので、そこはひとつ清濁併せ呑んでいただいて、ぜひ「どうすれば日本語に訳せるだろうか」という方向に知的好奇心を発揮してほしいところです。

というか、心の中では「変な発言だな」とか「不自然だな」と思うことなんて、通訳の現場に出てみれば数え切れないほどありますよね。それでも、それをおくびにも出さずに訳出にいそしむのが通訳者の矜恃みたいなものだと思うんですけど、こういう“專業精神(プロ意識・職業意識)”は教えられるものではないのかもしれません。以前にも書いたことがありますが「何とか訳して差し上げよう」というホスピタリティの問題です。これはもう、人によって向き不向きがあることかもしれません。

qianchong.hatenablog.com
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以前も、通訳訓練で“太平門”という中国語が出てきたことがあります。日本語の「非常口」にあたる言葉ですが、学生のひとりが「そんな中国語はありません」と発言して、ひとしきり議論になりました。確かに“緊急出口”や“安全出口”などの方が一般的ではありますが、試みにGoogleの画像検索で“太平門”にあたってみると……建物や交通機関などで実際にこの言葉が使われていることがわかります。

中国語はいまや英語と並んで多くの国や地域で使われている巨大な言語です。一番代表的な“普通話(北京方言をベースにした標準語)”でさえ、北京など中国の北の地方と、上海など南の地方、さらには台湾や、華人と呼ばれる中国系の人々が暮らす様々な場所で、発音や語彙などに多くのバリエーションが存在しています。

くだんの学生が生まれ育った地域では“太平門”に馴染みが薄かったのでしょう。それは仕方がないことですが、だからといって通訳者たるもの、原発言者の発した語彙を自分が知らないというだけで「そんな言葉はない」「それは中国語ではない」と言い切ってしまうのは、拙速であり、傲慢であり、ホスピタリティに欠ける行為です。通訳者は、自分の想像以上に幅広く、奥深く、多様性に富んだ言語の大海原を前に、常に謙虚でなければなりません。

まして言語は生き物です。特に中国のような社会に急速かつ激烈な変化の起こっている場所にあっては、いま自分が知っている語彙さえも淘汰されて新しい表現になっている可能性だってあるのです。かつて自分が習い覚えた中国語の様々な語彙や表現が(そして日本語についても)、はたして現代でも有用であるのかどうか、常にアンテナを張って検証しておく必要がある……これは自戒として常に意識しておきたいところです。

さらに言えば、中国語の母語話者であっても中国語が充分に聴き取れるとは限らないわけで、「この中国語はおかしい」というのは、実はきちんと聴けていないからという可能性もあります。「原文に対して『悪文だ!』という人ほど原文をきちんと読めていないものです」……というのはもう亡くなってしまったとある恩師の言葉。これもまた自戒としておきたいと思います。

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※こちらの写真は「日本ピクトさん学会」のウェブサイトから。
http://www.pictosan.com/higeakira.html

しまじまの旅 たびたびの旅 51 ……石敢當

澎湖諸島をバイクでくまなく走っていると、時々見かけるこの石造りの円錐。様々な魔除けのために立てられている「石敢當」というものだそうです。この写真の「石敢當」はかなり大きくて二〜三階建ての家ほどもありますが、もっと小規模のものもいくつか見かけました。

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石敢當”は中国語独特の表現かと思ったら、なんと日本の鹿児島県や沖縄県などにも「石敢當(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)」という名の魔除けがあるのだそうです。もちろん中国から伝わってきたものでしょうけど。へええ、初めて知りました。

石敢當 - Wikipedia

「外垵漁港」を見下ろす高台にも、三つ並んだ「石敢當」がありました。

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前にも書きましたが、元宵節のときにここから見下ろす漁港はとても幻想的な風景になるそうです。ぜひそのタイミングを狙って再訪したいと思います。

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jp.taiwantoday.tw

日本人にとって「ツンデレ」な中国語

私たち日本語母語話者が中国語を学ぶ際には、漢字の存在が手助けにも、またハードルにもなります。でも、かつての私もそうでしたが、中国語初学者の方に「なぜ中国語を学ぼうと思われたんですか?」と伺ってみると、たいがい「漢字を使っているから学びやすそうだと思って」と仰る方が一定数います。

確かに漢字の存在は大きくて、中国語に対する親しみを増してくれますが、日本語と中国語双方でその漢字の音、つまり読み方が大きく異なるという事実は、初学者や中国語を学んだことがない方にはあまり前景化していないようです。私もそうでした。「中国語は話せないけど、中国語の新聞はだいたい何が書いてあるかわかる」と豪語する方もいますよね。実際にやってもらうとそう簡単ではないことが分かるのですが。

実際には日本語と中国語で漢字の読みが違いすぎる*1ため、まずはその同じ漢字を「発音し分ける」、つまり日本語を話すときは日本の漢字の発音で、中国語を話すときは中国の漢字の発音でと、頭の中で瞬時にすぱっと切り換えなければいけません。これが最初はなかなかうまく行きません。長年親しんだ日本語の漢字の発音はすでに「脊髄反射」の域に達していて、例えば「学」という字を見た瞬間に私たちは「gaku」とか「mana-bu」という音が脳内に響きます。それを抑えてまったく違う「xué」という音を瞬時に出すのはけっこう難しいのです。

このため日本語母語話者は、中国語が同じ漢字を使っている言語であるにもかかわらず、その発音はどちらかというと苦手かもしれません。母語である日本語の漢字の音が干渉するからです。実際中国に留学していた際も、様々な言語の留学生が集まる教育現場では「日本人は中国語の発音が苦手」というのは「あるある」なのだという話を聞きました。日本における中国語学習業界(?)では「中国語は発音が命」「中国語発音よければ半ばよし」という言葉も人口に膾炙しているくらい、日本語母語話者にとって中国語の発音はとてもクリティカルな問題なのです。

留学生も苦労している

翻って同様に、中国語母語話者にとって日本語の発音、特に漢字の発音は、母語が干渉するためにその習得が必ずしも容易ではありません。私が日頃顔をつきあわせている華人留学生のみなさんも、初めて読む日本語の漢字が入った単語、とりわけ日中双方で同じ漢字を使っている単語には中国語の発音が相当程度に干渉しているのが見てとれます。例えば私が留学していた街「天津(てんしん)」を「てんちん」と読んだり、とかですね。まあ当たり前というか、無理からぬところがありますけど。

さらには日中双方で同じ漢字を使っている単語だけれど、意味が微妙にずれているものも多くて、これも学習する際の「干渉材料」になり得ます。例えば華人留学生のみなさんは中国語の「問題(wèntí)」をそのまま日本語でも「問題(もんだい)」とすることが多いのですが、それで大丈夫なこともあれば、ちょっとおかしな結果になることもあります。授業中に「老師,我有一個問題(先生、質問があります)」というつもりで日本語で「先生、私は一つ問題があります」と言っちゃうんですね*2。「へえ、どんな問題があるんですか? 性格が悪いとか?」と返したりしています(意地悪ですね)。

国語学習の醍醐味

ともあれ、日本語母語話者、中国語母語話者双方にとって、共通の漢字の存在は親しみの源泉でもあると同時に落とし穴でもあるという厄介なものなのですが、学習が進むにつれてこの漢字は俄然威力を発揮してきます。私たちが中国語を学んでその醍醐味を感じることができるのは、実はここからだと思います。なにせ、私たちは漢字の表面的な意味だけでなく、その深い含意や文化背景までも共有していることが多いのですから。中国語の初学段階ではなまじ漢字の発音に全く無縁な例えば欧米系の留学生のほうが発音がよかったりするのですが、中級段階を過ぎる頃からはやはり漢字文化圏で育ってきた留学生のほうに一日の長があります。

的を射た例があまり思い浮かばないのですが、例えば中国語に「拋磚引玉」という成語があります。「煉瓦(れんが)を投げて玉(ぎょく)を引く」ということから「自分がまず未熟な意見を述べることで他人のより優れた意見を引き出す」という謙遜の言葉です。「まずはたたき台として……」と自分の意見を述べる時などに使います*3

この「引」という漢字、私たちは「引く・引っぱる」という意味だけなくもっと多様で複雑なイメージを喚起できますよね。「引用」「引責」「引導」「引退」「強引」……などなど。この多様で複雑なイメージはなかなか明確に言語化するのが必ずしも容易ではありませんが、日本語と中国語の母語話者同士では「ああ、それ。そういう感じね」という「ノリ」で深い語義まで理解し共感することが可能です。普段から様々な文脈でその言葉を使っている「背景」があるからです。相互に微妙な感覚のズレや誤解の余地はあって、それはそれで悩ましいところでもあるんですけど、とにもかくにも漢字の深い意味まで共有しているという点はとても大きい。中国語や日本語をある程度学んで中級から上級へと学習を進めた後は特に、です。

古典の共有

また私たちは膨大な中国の古典を共有しています。いまの親御さんたちはどうなのか分かりませんが、私が子供の頃は親のしつけに(今から思えば)中国の古典が活かされていました。「己の欲せざるところ人に施すなかれ」とか「身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」みたいなものですね。もちろんこれらをそのまま諳んじて子供のしつけに用いていたわけじゃありませんけど、なんかこう「昔からのよき言い伝え」みたいな「ノリ」で親たちは使っていました。

さらに私個人の体験として、こんなことがありました。

某学校で担当している通訳訓練のクラスで、新学期に中国語母語話者の生徒さんが入ってきました。「勾(gōu/こう)」という姓の女性で、その勾さんは自己紹介の時に中国語でこうおっしゃいました。

我姓勾,勾踐的勾。
私は勾と申します。勾踐(こうせん)の勾です。

華人が自己紹介するときには、自分の姓の漢字を説明する常套句があります。例えば「李」さんだったら「木子李(木に子の李)」とか「呉(吴)」さんだったら「口天呉(口に天の呉)」とか。「勾」さんの場合は「勾踐的勾」と言えば、ほとんどの華人は「ああ『勾』さんね」と理解することができます。「gōu」という発音の姓は少ないので、華人でも一瞬「gōu ?」となるようなのですが、続けて「勾踐的勾」と言えば瞬時に腑に落ちる。これはみんなで『史記』のエピソードを共有しているからです。

史記』は司馬遷によって編纂されたとされる中国の歴史書で、およそ2000年以上も前の古典です。この中には今に伝わる故事成語がふんだんに含まれていて、華人はそれらの故事成語やその背景を幼少時から学んで(学ばされて?)きています。「先んずれば人を制す」「四面楚歌」「酒池肉林」「背水の陣」「右に出る者なし」「流言蜚語」「傍若無人」「満を持す」「立錐の地なし」「百発百中」「鳴かず飛ばず」など日本でもよく知られ、使われているものも少なくありません。

そう、日本の私たちもこれらに馴染んでいるというのが、中国語を学ぶ際の、特に中級以降の中国語を学ぶ際の大きなメリットであり、魅惑の源泉なのです。上記の「勾踐」のお話はあまり聞いたことがないかもしれませんが「臥薪嘗胆」はごぞんじでしょう。実際には『史記』には「嘗胆」しか載っておらず、「臥薪」は後の世に加わった言葉なのですが、ともかく中国春秋時代、越の国の王であった勾踐が呉の国に滅ぼされかけた際、会稽山にこもって(「会稽の恥」という言葉もあります)「臥薪嘗胆」し復讐を誓い、後年ついにその志を遂げるという物語は多くの華人がよく識るところ(のはず)です。

勾践 - Wikipedia

私は「臥薪嘗胆」や「会稽の恥」は知っていましたが、「勾踐」については知りませんでした。ところがお能の稽古を初めて最初に温習会(発表会)で舞った仕舞が「船弁慶(ふなべんけい)」で、その中にこの故事が引用されていたのです。「船弁慶」は『平家物語』などがベースのお話で、源義経武蔵坊弁慶静御前が登場し、義経静御前の別れや平知盛の霊が義経に襲いかかる場面などが盛り込まれた、徹頭徹尾「日本が舞台」の演目です。だから中国には何の関係もないはずなのですが、詞章(能の歌詞)にはこんな一節が出てきます。

伝え聞く陶朱公は勾践を伴い/会稽山に籠もり居て/種々の知略を廻らし/終に呉王を滅ぼして/勾践の本意を達すとかや
然るに勾践は/再び世を取り会稽の恥を雪ぎしも/陶朱功をなすとかや/されば越の臣下にて/まつりごとを身に任せ/功名富み貴く/心の如くなるべきを/功成り名遂げて身退くは天の道と心得て/小船に棹さして五湖の/煙濤を楽しむ
かかる例も有明の/月の都をふり捨てて/西海の波濤に赴き御身の咎のなき由を/歎き給はば頼朝も/終にはなびく青柳の/枝を連ぬる御契り/などかは朽ちし果つべき

実際の演能をYouTubeで観ることができます。35分17秒から再生してみてください。

youtu.be

能の「船弁慶」は源義経源頼朝に疑われて西国に落ちのびるというお話なのですが、静御前と別れてこれから「臥薪嘗胆」せんという場面で、唐突に中国の古典が引用されるのです。いえ、唐突ではありません。当時から日本の人々(といっても能を観るような一部の階級の人だけでしょうけど)が中国の古典に憧れ、学んでいたから、こうした引用が可能だったのです。

当時の知識階級にとって、こうした引用がなされた場合に「ほほ、これは『史記』ですな」「いかにも。さすがよく御存知で」などと気づき、語らえることがステイタスだったわけですね(ちょっと私の妄想が入っていますが)。当時の日本人がいかに中国を、そして中国の古典をリスペクトしていたかが分かります。というわけで、私は通訳学校の新学期に「勾」さんが「勾踐的勾」と自己紹介した際、「あの勾踐? 臥薪嘗胆の? 会稽の恥の?」「そうです! なぜ知ってるの?」と二人で手を取り合わんばかりに盛り上がりました。

漢字を介して何千年単位の古典を共有し共感できる、こんな二言語関係は世界中見渡してもそうそうありません。双方が共有し積み上げてきた豊かな言語や古典の世界を学ぶ際にも、中国語を学んでいることは大きな助けになります。日本語母語話者が中国語を学ぶ際の魅力はここにこそあると私は思います。その意味では発音段階でつまづくことなく、いち早く中級やさらにその上を目指して学んでいただきたい。日本語母語話者にとって、中国語は中級以降が「お楽しみはこれからだ」なのです。

とはいえ……。

その一方で互いに漢字の読みが違うため発音に干渉し、初学者にとっては却って取っつきにくく、学びにくいのが中国語です。多くの方が中級へいたる間に息も絶え絶えになっており、これも業界で有名な言葉に「さまよえる中級」というものがあります。私たちにとって中国語は「ツンデレ」な言語だと言えるかもしれません。



こちらはこないだ購入したLINEのスタンプ「傲嬌(ツンデレ)熊」。カワイイです。
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傲嬌熊~愛噹人 | 歐貝賣線上代購代儲網

*1:逆に近すぎる=完全に同じではないため、却って混乱しがちなものもあります。よく例に挙げられるのは「図書館」。日本語は「tosho-kan」、中国語は「túshūguǎn(あえてカタカナで書けば、トゥシュグァン)で、声調=音の高低やメロディも似ています。

*2:中国語の「我」や「一個」を律儀に訳そうとするのも初学者に多く見られます。

*3:もともとは『兵法三十六計』のひとつでかなり功利的な、つまり「海老で鯛を釣る」的な意味合いだったみたいですが。 抛セン引玉 - Wikipedia