インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

フィンランド語 25 …教室用語

フィンランド語を細々と学び続けています。名詞も動詞も形容詞も代名詞もどんどん格変化し、語順で話すわけではない言語ということで、定型文を大量に覚えるという「戦略」が使いにくいため、いまだにたいしたことが話せません。いまはひたすら語彙を増やし、次々に登場する文法事項を覚えて行くという段階です。

でもまあ、フィンランド語を学んでみようと思ったのは、英語や中国語とは全く違う原理(?)で動いている言語に触れることで、日本語での思考にに何か質的な変化が起きるといいなという期待もあってのこと。焦らずに行きましょう。

もとより「就職や転職に有利」というわけでもないですし、ムーミンに親しみを感じていたものの「トーベ・ヤンソンは確かにフィンランド人だけどスウェーデン系で『ムーミン』も実はスウェーデン語で書かれている」という事実を後から知ったくらい「ぐだぐだ」ですし。

それでも未知の言葉を学んでいくのは楽しいです。せっかくなので、教室で先生に質問したりお願いしたりするときの言い方だけでも、定型文として覚えてしまおうと思いました。中国語でも最初の頃に覚えて重宝した“課堂用語(教室用語)”です。

まずは質問したいとき。

Minulla on kysymys.
質問があります。
Minulla on paljon kysymyksia.
質問がたくさんあります。

より簡単に、こう言うのも普通のようです。

Saanko kysyä ?
聞いてもいいですか?

質問の答えをフィンランド語で説明されても、今の段階ではほとんど分からないので、日本語で説明を受けることにしまして、説明された後は……。

(Minä) ymmärrän.
分かりました(理解しました)。
(Minä) en (ole) ymmärrä.
分かりません。

次は、先生のいうフィンランド語が聞き取れなかったとき。

Voitteko (te) sanoa vielä kerran ?
もう一度言っていただけますか?
Voitteko puhua hitaasti ?
ゆっくり話していただけますか?
Sano vielä kerran ?
もう一度言ってくれますか?
Voitko puhua hitaammin ?
ゆっくり話していただけますか?
Anna mulle tilaisuus kuunnella ?
もう一度聴かせてくれますか?

いまのところ集めたのはこれくらい。細かいニュアンスが分からないので、間違っているかもしれません。

あと、これもよく使いそうです。

Mitä "Finland" on suomeksi ?
“Finland”はフィンランド語で何ですか?
Mitä "karhu" on japaniksi ?
karhu”は日本語で何ですか?

日本語では「~で」と言うところを、フィンランド語では「出格」を使って「~から」と表現するんですね。ちなみに「フィンランド語」は“suomi”、“karhu”は「熊」でした。

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Mitä "sandwich" on suomeksi ?
Se on "voileipä".

脊柱側弯症が治っちゃった

先日、年に一度の健康診断がありまして、昨日その結果票が送られてきました。この結果票、企業のサラリーマンだった頃は、周りの同僚がまるで学期末の通信簿に一喜一憂する小中学生のごとく(今時のお子さんは違うかな)盛り上がるのが何とも奇妙で、冷ややかな視線を向けておりましたが、私も人並みに歳を取りまして、人並みに診断結果が気になるようになりました。

とはいえ、健康診断における各検査項目の「基準値」や「判定基準」については、その根拠が薄いのではという声や、国や製薬会社などの事情で恣意的に決められているのではないかという疑念、さらにはそもそも健康診断結果による再検査や投薬が却って健康を害するのではという意見もあります。というわけで毎年あまり気にしないようにしていたのですが……。

gendai.ismedia.jp

今年はひとつだけ、びっくりした項目がありました。それは「胸部X線」です。私は若い頃から「脊柱側弯症」があって、背骨が緩やかに湾曲しており、服を脱いで鏡に向かってみると腰骨の高さが左右で違うことがはっきり分かるほどでした。たまにマッサージなどに行っても必ずといっていいほど「お客さん、背骨が曲がってますね〜」と言われますし、実際もうここ何十年も、健康診断の結果票には「脊柱側弯」という所見が記載されていたのです。
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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_730.html

……ところが。

今年はなんと「所見なし」でした。長年の脊柱側弯症がいつのまにか治っていたのです。そういえば、最近は鏡に向かっても以前ほど左右の腰骨の違いが分からないなあと薄々感じてはいたのですが。

これはもう、間違いなく昨年の秋からジムで始め、一年近く続けてきた体幹レーニングのおかげだと思います。トレーニングで肩こりと腰痛はほぼなくなっていたのですが、まさか脊柱側弯症まで治るとは思ってもみませんでした。こちらの記事によると、脊柱側弯症の原因の一つに「体幹の左右の筋バランスに偏りを生じ」ていることがあるようですが、体幹が鍛えられたことでバランスが改善されたのかもしれません。

www.huffingtonpost.jp

二年前の健康診断では「メタボリックシンドローム予備軍」と判断され、専門の指導医さんのカウンセリングまで受けた私ですが、身長や体重はほぼ変わらないものの、腹囲は約8センチ減り、肥満度も5.3%から1.0%に減りました。血圧や肝機能やコレステロールの数値は年齢相応に高めですが、脊柱のこの変化は、まったく期待と予想をしていなかっただけに、なんだか素直にうれしいです。

昨日ジムに行ってトレーナーさんにこの事を報告したら、「それってちょっとスゴくないですか」と喜んでくださって、思わず握手を交わしました。ありがとうございます。これからも精進いたします。

追記

中国人留学生のクラスでこの話をしたら、「たった一年で? センセ、それは何かの間違いでしょう」と信じない方が多数でした。わはは、さすがは「騙されたと分かるまで信じているのが日本人、騙されていないと分かるまで信じないのが中国人」……の中国人です。そう、それでいいのです。こと健康に関する個人の体験談は、頭から信じないほうが吉かもしれませんね。

もう少し怖れてもいいかもしれない

むかしむかし、通訳学校で学んでいた頃、ノートテイキング(メモ取り)の授業で講師の先生からこんな指導がありました。

何はなくとも数字、それに固有名詞だけはメモしてください。

そりゃそうですよね、数字や固有名詞(人名や地名、団体名などさまざま)は、基本的に発言の中では前後の文脈や脈絡に関係なく現れる独立した情報だからです。例えば……

2017年における中国の実質GDP成長率は6.7%でした」という発言と、
2016年におけるベトナムの実質GDP成長率は6.2%でした」という発言では、

「2017」「2016」「中国」「ベトナム」「6.7」「6.2」などという情報は入れ替わっても文章が成立するので、メモをしなければ間違える可能性が大きい(実際には中国とベトナムを間違えることなどまずないでしょうけど)。このような独立した情報は、メモし損ねたり忘れたりしたらもう逃げ場がありません。いわばその発言の中で「唯一無二」の情報で、聴き取りに一番緊張するところでもあります。

というわけで、二人以上のパートナーと組んで通訳業務を行う場合には、待機しているほうの通訳者が訳している通訳者のために数字や単位や固有名詞などをメモしてサポートすることがよく行われています(時々「私の番じゃないから」と全然サポートしてくださらない方もいますけど)。それくらい数字や固有名詞は「鬼門」なわけですね。

最大の鬼門:カタカナ語

鬼門といえば、華人のみなさんにとっての鬼門のひとつは、日本語における「カタカナ語」であるようです。来日何十年という日本語の達人のような方でも、カタカナの外来語だけは苦手とされていることがあり、とくにパソコンなどで書く場合には表記がかなり不正確だったりして、普段あんなに流暢なのに……とそのギャップに驚きます。

というわけで、私が日頃向き合っている、通訳や翻訳を学んでいる華人留学生や在日華人のみなさんにとっても、例えばカタカナの人名や地名といった固有名詞は、かなりな「鬼門」になっていると感じます。しかも、受け手である日本語母語話者のクライアントは「日本語の発音に関して設定ハードルがかなり高い」ことが多いので、少しでも奇妙なカタカナの人名・地名を口にしてしまうと、ご本人の実力に比べてかなり低い評価を受けてしまう結果に。鬼門と称するゆえんです。

私は、通訳訓練をしているときに上記のような「逃げ場のない固有名詞問題」の怖さに気づいて、それから必死でカタカナの国名・地名に対応する中国語を覚えました。日本語・英語間であれば、日本語のカタカナ国名・地名をそれらしく発音すればなんとかなることもあるかもしれませんが(ならないことも多いでしょうけど)、中国語の場合は音がかなり違うために、きちんと発音しなければまず理解してもらえないと思います。

イスラエル↔以色列(カタカナでは書けないですが近似の音を無理矢理書けば、イースーリエ)
ジャカルタ↔雅加達(ヤージャーダー)
ミュンヘン↔慕尼黑(ムーニーヘイ)
ジュネーブ↔日內瓦(リーネイワー)
リオデジャネイロ↔里約熱內盧(リーユエルーネイルー)
サウジアラビア↔沙特阿拉伯(シャートーアラボー)
アラブ首長国連邦↔阿聯酋(アーリェンチウ)

……きりがないのでこれくらいにしておきますが、こうした国名や地名は訳出の善し悪し以前に、最低限の常識としてすぐに使えるようにしておかなければなりません。

意外な鬼門:地名・人名

カタカナの国名や地名だけでなく、中国や台湾の地名もかなり危ういです。ご案内の通り、中国や台湾と日本では漢字を共有しているがゆえに、基本的にはそれぞれの漢字の発音で地名を扱います。左が日本語、右が中国語(これも近似のカタカナで示します。以下同様)。

ぶかん←武漢→ウーハン
てんしん←天津→ティエンジン
こうしゅう←広州→グァンジョウ
こうしゅう←杭州→ハンジョウ
こくりゅうこうしょう←黒竜江省→ヘイロンジャンシェン

さらには日本語の習慣的に変則的なものもあって、これも華人のみなさんには鬼門らしい。

(ほくきょう、ではなく)ぺきん←北京→ベイジン(まあ、これを間違える方は皆無ですが)
(かもん、ではなく)あもい←廈門→シャーメン
(せいぞうじちく、ではなく)チベットじちく←西蔵自治区→シーザンズージーチュイ

……などなど。でもこうした語彙もおぼつかない方が多く、日本語のかなり達者な華人留学生でも“広東省(かんとんしょう)”を「こうとうしょう」などと発音して驚くこともままあります。

さらにさらに、カタカナの人名もけっこう苦労されています。

トランプ大統領↔特朗普/川普總統(トゥランプー/チュアンプー)
メルケル首相↔梅克爾首相(メイクーアル)
ムン・ジェイン大統領↔文在寅總統(ウェンザイイン)

カタカナだけではありません。漢字の人名であっても、きちんと日本語で訳出できる方はかなり少ない。まあ“毛澤東”くらい有名だと、さすがに“毛澤東? 這是什麼東東?(もうたくとう? 何それおいしいの*1?)”とおっしゃる方は(まだ)いませんが。

これもいわば「唯一無二の情報」。知らなければ即アウトの鬼門です。「アメリカのなんとか大統領」などと逃げることもできるかもしれません(じっさいにそう言う生徒もいます)が、常にそれをやっていたら通訳者の資質を問われますよね。というわけで、通訳学校ではこうした情報を常にリファインしておく(例えば政権交代などがあったらそのつど)よう注意喚起されました。もとより小心者で、現場で青ざめたくない私は、こうした単語を必死で覚えたものです。いや、いまでも覚え続けています。逃げ場のないこうした単語で立ち往生するのが心底怖くて。

……でも、昨今の生徒さんはそういう怖れのようなものがとても薄いようにお見受けします。ロシア語通訳者だった故・米原万里氏の著書に、通訳、特に時間的な制約の大きな同時通訳を例に挙げ、細かい意味の差異が気になって仕方がないというタイプの人はこの仕事に向かないとして、「通訳者の心臓が剛毛に覆われていると言われるのは、そのせいだろう」と締めくくった文章がありますが、みなさん別の意味で心臓に剛毛が生えているんだなあ、もう少し怖がってもいいんじゃないかなあと思います。


心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)

*1:冗談です。

無償労働を正当化した先には……

昨日、Twitterのタイムラインで拝見したこちらのツイート。

2020年東京オリンピックパラリンピックのボランティア募集については、これまでにも何度も記事を書いてきました。専門の技術を持った方々に「やりがい」や「レガシー」などの美名のもと無償での労働を呼びかける動きについての疑問。そしてそれが首尾よく成功してしまった後に現れるであろう、同様のイベントにおける無償労働の常態化に対する危機感。理学療法士さんの世界でも同じような問題があるのだと改めて知りました。

さっそくリンク先の「POST」という「理学療法士作業療法士言語聴覚士のためのリハビリ情報サイト」に行ってみましたが、「理学療法士の募集要件の記載が書かれていましたが、10月12日付で日本理学療法士協会会員の内部資料として会員限定情報と更新されたため、本記事内から削除させていただきました」とのこと。また日本理学療法士協会のウェブサイトでも「詳細はマイページにてご案内します」となっていて、理学療法士の方しか閲覧できないようになっています。批判を受けての措置かもしれません。

……ところが、ネットを数分検索しただけで、神奈川県理学療法士会のサイトから閲覧できる募集要項を見つけてしまいました。ネットってすごいですね。案の定、報酬については「宿泊や移動については、自身で確保、準備ができること。組織委員会から報酬の支払いはなし」だそうです。

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http://pt-kanagawa.or.jp/1539222302981.pdf

この募集要項を読んでいるうちに、まったくの外野である私ですら「大丈夫かしら」と心配になりました。だって条件がものすごくハードなんだもの。この条件に合致して無償労働に応募するプロの理学療法士さんがはたして500名もいるのかしらん……こうした専門技術の有資格者、それも五年以上の実務経験に外語能力まである方を無償で労働させようという組織委員会は、かなり世間離れしていると断じざるを得ません。

そして、これも何度も申し上げていることですが、こんな悪しき「前例」を成功させてしまってはいけないと思います。これほどのひどい条件でも、なんだかんだいって高度な技術を持った有資格者が集まって成功してしまったという「レガシー」は、この仕事で稼いでいくことは無理だと理学療法士の方自らが宣言したに等しい世界を作りだしていくだろうからです。

前出のツイートをされた理学療法士さんは、ご自身のブログで今回の顛末をまとめられたうえで、このように結論されています。

僕は日本という国は大好きです。
美しいしご飯はおいしいし自然はキレイだしトイレも綺麗だしw
でも、こういう所は心底嫌いです。
そんでもって、PTとして、トレーナーとしては日本なんて小さな枠組みでは活動範囲を考えてません。
あくまで、世界の中の一つの国でしかないです。
だから魅力的な国があれば、窮屈な日本での活動なんてどんどん減っていくし、おそらく多くの専門職がそうなっていくだろうと思いますよ。
少なくてもPTやトレーナーは。
優秀な人材が日本から居なくなったその時、委員会やPT協会、スポーツ庁はどうするんでしょうね。
その時に必死こいたって手遅れですからね。
大人しく崩壊してくださいね。

takuminishikawa.com

こうした「負のレガシー」を大規模に残してしまうかもしれない2020東京オリンピックパラリンピックのボランティア問題。私は、未来に対してはできるだけ楽観的な見方をしたい、また楽観的な方向へ持っていけるように物事を考え、行動していきたいと常に自分に呼びかけていますが、このブログを拝見して、夏目漱石が『三四郎』の冒頭で書いた、三四郎が列車の中で出会った男とのやり取りを思い出しました。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。


夏目漱石三四郎
青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html

組織委員会は、専門の技術を持った方にきちんと業務を委託し、正当な報酬を支払うべきです。

追記

今朝ネットで見つけたこちらの記事。医療関係者全体に、一部を除いて無償労働を求めると。ただでさえ忙しすぎて、その超過労働が問題になっている医療現場だというのに、集まるのかしら。

this.kiji.is

雑然とした雰囲気の中での劇的な訴求力

昨日、大宮公園へ「薪能」を見に行ってきました。埼玉県主催のイベント「埼玉 WABI SABI 大祭典2018」で能楽喜多流の「船弁慶」が上演されるというので、お誘いを頂いたのです。毎年新春に開催されている「はじめて観る方のためのやさしいお能」がコンセプトの「若者能(わかもののう)」のみなさんがプロデュースする公演で、私もスマホアプリによる同時解説でちょっぴりお手伝いしました。

saitama-wabi-sabi-2018.jp

薪能とはいっても、公園内のあちこちで様々なパフォーマンスが催されているなか、また屋台や出店がたくさん出ている中の一角、しかも建築用足場の鉄骨を組んだような簡素な舞台。背後の鏡板も布に松の絵を描いた「書き割り」ですし、舞台自体もカーペット引きなので足拍子を踏んでも響きません。両袖の薪だけでは照明が足りず、LEDのスポットライトが多数舞台を照らしています。

さらにすぐ近くの競技場ではサッカーの試合が行われているのか、大声援が遠くから響きつつ、夕暮れで活動が活発になった大量のカラスさんたちが上空をカアカア鳴きながら旋回という、音響的にはかなり「アウェイ」な環境で、演者のみなさんは胸元に仕込んだワイヤレスマイクでスピーカーから謡が響く……という、普段の能楽堂での公演とはかなり異なる雰囲気でした。野外の薪能で、しかも入場無料なんですからまあそういう雰囲気もある意味当然なのかもしれないんですけど。

私は会場に到着してその雰囲気を見た瞬間、「ああ、これは能楽師やスタッフのみなさんは大変だなあ」と思いました。いくら能楽の普及目的とはいえ、端的に申し上げて能楽を鑑賞するような環境ではないかなあと思ったのです。……ところが。

最初にステージで解説をしてくださった「若者能」のスタッフお二人、振り袖に身を包んだ大学生の方のお話がとても上手でした。能楽を一度も見たことがない方のために簡潔かつポイントを押さえた解説で見どころを紹介。それも堅すぎず、適度に笑いも入りつつ、そして滑舌よく聞きやすい話し方で、とても素晴らしかったと思います。

演者が出てくる幕と能舞台をつなぐ橋懸かりも単にカーペットが敷かれているだけですが、その前に「一の松、二の松、三の松」がわりに松の盆栽が三つ置かれていて、おお、これはご当地特産の盆栽を上手に利用されたわけですね。

そのあと「船弁慶」の上演。シテやワキなどの演者はもちろん、囃子方地謡もみなさん一流の能楽師ばかりです。う〜ん、ちょっと贅沢すぎる。しかも普段の能舞台よりは若干小さめで舞いにくいところもきちんと考慮に入れた舞台運びで、充分に劇的効果が高められていました。

また源義経役として出演していた子方の少年は、以前温習会で見事なシテ謡を披露していた彼ではありませんか。今日も凛と響く声で果敢に義経を演じていました。後段の平知盛(の亡霊)との闘いのシーンは思わず手に汗を握りました。彼は今後玄人の能楽師を目指して行かれるのかなあ。もしそうだとしたら、これは楽しみです。

qianchong.hatenablog.com

私は「関係者」ということでベンチ席に座らせていただいたのですが、多くの方は舞台を取り囲んで立ち見でご覧になっていました。もとより入場無料・入退場自由の環境で終始ざわざわした雰囲気でしたが、そんな雑然とした雰囲気の中でも徐々に観衆が舞台に引き込まれていくのが分かりました。思えば能楽が成立した当時の芸能は、おそらくこんな雰囲気の中で行われていたのでしょう。能楽堂で見るお能も素敵ですし、もう少し落ち着いた雰囲気の薪能も好きですが、今回のような演能も能楽の普及という点で意義があるのではないかと思いました。

野外の決して理想的ではない環境で、あえて手抜きせず「容赦のない」本物の技芸を披露された能楽師とスタッフのみなさんに心から敬意を表したいと思います。今回の舞台を見て、能楽堂にも足を運んでみようと思われた方がいたらいいですね。

ところで今朝、東京新聞の「表四(裏表紙にあたる紙面)」に大きく「伎楽面」を紹介する記事が出ていました。

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伎楽はおよそ1400年程前に大陸から伝来したとされる幻の芸能で、奈良時代には盛んに上演されたらしいもののその後衰退し「絶滅」してしまいました。仮面芸能であるという点からも、能楽にも何らかの影響を与えているのではないかと思いますが、現在には仮面が残されているだけで詳細はほとんど分かっていないという謎の芸能です。私は大学時代に文化人類学の講義でこの芸能を知り、研究者たちがわずかに残された文献などを元に在りし日の姿を推測して行く手法に感動したことを覚えています。

この記事によれば、伎楽は「パレードと寸劇が組み合わさっていたらしい」とのこと。

下ネタに、権力者への風刺。これは絶対に爆笑の連続だったはず……。
酔っぱらったペルシャの王様や家来たちの面もあり、真っ赤な顔で泣き上戸や笑い上戸になっている。なんともおおらかな古代である。聖と俗は混沌として、ただ人の喜怒哀楽があるばかりだ。

なるほど、芸能のルーツ、あるいは本義のひとつとも言えるこうした要素は、現代の能楽堂内での公演にはすでにほとんど失われてしまっています。その是非はさておくとして(というか、私自身は落ち着いた雰囲気で観劇する方が好きではありますが……)今回のような雑然とした雰囲気での公演にもある種の魅力、劇的な訴求力はあるのだなと感じたことでした。

フィンランド語 24 …命令形

新しい課に入って、命令形を教わりました。フィンランドの人々はこの命令形をけっこうよく使うそうです。別に「上から目線」というわけではなくて、むしろ親しみの表現のよう。それだけ人間関係がフラットというかフランクなんですかね。お隣のスウェーデンやロシアなどのように王様や皇帝といった存在を戴かなかったという歴史ゆえかもしれません。

命令形には単数(一人に向かって言う)と複数(二人以上に向かって言う)があるそうです。

単数の命令形

例えば「nukkua(寝る)」を例に取ると……まずこの動詞を一人称単数の形にします。→ Minä nukun.(私は寝る)。この一人称単数の語尾「n」を取ったものが命令形になります。否定はその前に「älä」をつけます。

Nuku !
寝なさい!
Älä nuku !
寝るな!

「lukea(読む)」では……

Lue !
読みなさい!
Älä lue !
読むな!

「ajatella(考える)」では……

Ajattele !
考えなさい!
Älä ajattele !
考えるな!

複数の命令形

相手が複数の場合は動詞のタイプによって異なるそうです。
1)VA、atA、otA、utA、itA タイプ →最後の一つを取って語幹にする。
2)dA(ndA)、stA、lA、nA、rA タイプ →最後の二つを取って語幹にする。

また複数の命令形で重要なのは、動詞の語幹を作る際の「kptの変化(逆転も)」がないことだとか。その上で肯定の場合は「kaa/kää(語幹に aou があれば kaa、なければ kää)」、否定は前に「älkää」をつけたうえで「ko/kö」をつけます。

例えば「nukkua(寝る)」の場合、最後の一つを取って、語幹の「kk」は変化させずにそのままだから「nukku」で……

Nukkukaa !
(あなたたち)寝なさい!
Älkää nukuuko !
(あなたたち)寝るな!

「syödä(食べる)」の場合、最後の二つを取って語幹は「syö」で……

Syökää !
(あなたたち)食べなさい!
Älkää syöko !
(あなたたち)食べるな!

「lukea(読む)」で単数・複数、肯定・否定をまとめると、こうなります。

単数 複数
肯定 Lue ! Lukekaa !
否定 Älä lue ! Älkää lukeko !

※複数の肯定・否定ともに「kpt」の変化なし。

「ottaa(取る)」

単数 複数
肯定 Ota ! Ottakaa !
否定 Älä ota ! Älkää ottako !

「kerrata(繰り返す・復習する)」(rr→rtの逆転が起こる)

単数 複数
肯定 Kertaa ! Kerratkaa !
否定 Älä kertaa ! Älkää kerratko !

こうした命令形の作り方は、すでに出てきていて、例えば「olla動詞」の場合、一人称単数は「olen」で「n」を取って語幹は「ole」、その上で一人の人に「どうぞ」と勧める場合は「Ole hyvä !」、複数の人に勧める場合は「Olkaa hyvä !」なんでした。中国語の“請”ですけど、これも一種の命令形なんですね。

通常の文と通常ではない文

通常の文とは例えばこれ。

Minä luen kirjan.
私は(一冊の)本を読みます。(目的語は単数対格)
Minä luen kaksi kirjaa.
私は二冊の本を読みます。(目的語は単数分格)

通常ではない文、ここでは命令文のことですが、この場合、目的語が一つの場合対格ではなく主格、つまり辞書形に戻るのがポイントだそうです。

Lue kirja !
(一冊の)本を読みなさい!(目的語は単数主格=辞書形)
Lue kaksi kirjaa.
二冊の本を読みなさい!(目的語は単数分格)

ただし……これは目的語が「kirja(本)」のようにまるごと全部読んだり書いたりできるものだからで、例えば「suomiフィンランド語)」だったら、言語全部を話せるというのは理論上あり得ないので……

Minä opiskelen suomea.
私はフィンランド語を学びます。(通常の文・目的語は単数分格)
Opiskele suomea !
フィンランド語を学びなさい!(通常でない文=命令文・目的語はやはり単数分格)

……となるそう。ううむ、ややこしい。

「avata(開ける)」では……

Minä avaan oven.
私はドアを開けます。(通常の文・目的語は単数対格 ovi → oven)
Avaa ovi !
ドアを開けなさい!(通常でない文=命令文・目的語は単数主格=辞書形)
Älä avaa ovea !(通常でない文=命令文・目的語は単数分格)
ドアを開けるな!

「sulkea(閉める)」では……

Minä suljen oven.
私はドアを開けます。(lke → lje、単数対格)
Sulje ovi !
ドアを閉めなさい!(辞書形)
Älä sulje ovea !
ドアを閉めるな!(単数分格)

「tehdä(する・作る)」では……(tehdä → tekeä)

Minä teen sen.
私はそれをします。(単数対格)
Tee se !
それをしなさい!(辞書形)
Älä tee sitä !
それをするな!(単数分格)

命令は目的語に辞書形をとり、否定の命令は目的語に分格をとる。つまり命令形に対格「n」の形は存在しないということですね。

また複数に対する命令形をあえて一人に対して言うと、これは一種の敬語表現になるそうです。面白いです。

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ブルックス ブラザーズ展

新宿は甲州街道沿いにある文化学園服飾博物館で開催中の「ブルックス ブラザーズ展」を見てきました。こぢんまりした博物館の展示ですが、なかなか見応えがありました。

www.brooksbrothers.co.jp

ブルックス ブラザーズといえば、アメリカン・トラッド、アイビー・ファッションの代表的ブランド。今年が創業200年ということで、この展覧会が企画され、フィレンツェのヴェッキオ宮殿とニューヨークのグランド・セントラル駅に続いて、日本ではこの博物館でのみ展示されるそうです。

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もうずいぶん前のことですが、会社でサラリーマンをしていた頃、このブランドの大ファンでした。スーツもネクタイもシャツも、ぜーんぶブルックス ブラザーズで。

アメリカン・トラッドに魅せられたのは中学生だったか高校生だったかの頃でした。当時『All Right !』という雑誌(10号ぐらいで廃刊になっちゃいました)があって、この雑誌はかなりアメトラやアイビーに傾斜した紙面作りでした。この雑誌を通してとにかくそういう服に憧れ、一度青山にあるブルックス ブラザーズの本店に行ったことがあります。か・な・り緊張して入った私は、お店の方からしても相当場違いな客だったと思います。もとより中高生にはとてもお高くて買えませんでした。

それでも店員さんは私に小冊子状のパンフレット(そのシーズンのスタイルブックですね)をくれました。それに感激して、いつか絶対にここでスーツを買おう! などと思ったものです。実際に買ったのはそれから20年くらい経ってからでしたけど。こういう、一見さんのお子ちゃまでもバカにしないで客として扱ってくれた店員さんはすごいと思います。見事それにハマって、私みたいな後年のファンが一人増えたわけですから。ニューヨークに行ったときは、わざわざ五番街近くの本店まで「詣でて」きたほどです。

カッチリとした、ある意味無骨ともいえるブルックス ブラザーズ的なアメリカン・トラッド。その雰囲気は今でも好きですけど、実はもうこのブランドの服は一つも持っていません。私みたいに貧弱な体型にはあまり似合わないことに気づいたからです。

ブルックス ブラザーズの服は、もちろん日本で販売されているものは多少日本人の体型にも合わせてあるとは思いますけど、全体的に大柄なんですよね。例えばシャツの袖口には、このブランドならではの細かなタックがた~くさん入っていて、知っている方からは「おっ、ブルックスですね」などと言われてご満悦……みたいなアイテムなんですけど、これだけタックが入っているということは、やっぱり筋骨隆々とした大柄な体型を考えて作られているのでしょう。

背中周りも「スリムフィット」ではなくかなり「ゆったりめ」に作られているので、胸板が厚い方が着るならともかく、私などが着るとかなり「だぶだぶ」な感じになります。以前は全く気にしていなかったんですけど、歳を取って「洋服はシンプルでサイズ感ぴったりなものが一番いい」という考えに移ってきて、自然にブルックス ブラザーズの服は着なくなりました。

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展示会場には、歴代の米国大統領45人のうち、ジェームズ・マディソンからドナルド・トランプに至るまで40名がブルックス ブラザーズの愛用者だというパネルがありました。なるほど、大柄なアメリカ人の、それも威風堂々たる大統領にふさわしい……そういったテイストのブランドなんですね。

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それでも、200年の間にさまざまな歴史の一場面で登場してきた(ヤルタ会談ルーズベルトが着たコートもブルックス ブラザーズだったそう)このブランドの服の歴史を追うのはなかなか楽しかったです。入場料も500円とお安め(学生さんは300円!)ですので、トラッドやアイビー好きの方にはぜひおすすめ(11月7日は無料だそう)。受付で、この展覧会場のみの販売だというモレスキンの手帳が売られていて、表紙に型押しされた「羊のマーク(ゴールデン フリース)」に惹かれたんですけど、3600円(税込み)とこちらはお高めなのであきらめました。
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http://www.brooksbrothers.co.jp/about/brandstory/story05.html

太平洋戦争 日本語諜報戦

武田珂代子氏の『太平洋戦争 日本語諜報戦』を読みました。本のタイトル、それに副題の「言語官の活躍と試練」からして興味をそそられます。


太平洋戦争 日本語諜報戦 (ちくま新書)

アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダそれぞれの国において、各国が主に日本との戦争に関連した日本語要員の育成をどのように行ったか、日本での留学や業務の経験者・現地の日系人などをどう招集し「活用」したか……などについてその歴史と概要をまとめた部分が本書の大半を占めています。「言語官(通訳や翻訳を行ったり、言語を活かした諜報活動やプロパガンダなどを行う)」たちの学習過程や、実戦現場での「活躍」ぶりについても記述はありますが、どちらかというと広範な資料をまとめた見取り図的な側面が強くて、言語間の往還や言語の壁を越えることそのものについての考察はあまり入っていません。

その意味ではちょっと想像していた内容と違っていたのですが、これは今後の研究の進展が待たれる、ということなのでしょう。諸外国はいざ知らず、日本ではこうした「戦争と言語」というテーマについては、今とこれからの言語に関する政策、例えば移民や外国人労働者に対するさまざまな施策などと併せて、まだまだ未開拓な部分が多い分野といえるのかもしれません。

日本もかつて台湾や韓国などの国々を植民地統治した歴史がありますが、その際の言語政策、特にこちらの言語を押しつけるのではなく、向こうの言語を研究して政策に活かすという営みはどれくらいの規模や深さでなされたのでしょうか。私はこの点に関して全くの素人ですが、この本をきっかけにして、そちらへの興味が俄然湧いてきました。関連した書籍を渉猟してみたいと思います。

ところで、この本でいちばん興味深かったのは、太平洋戦争時のアメリカ軍(あるいは連合軍)における「(日系)二世語学兵」に関する記述です。帯の惹句にもあるように、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官をして「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」と言わしめたほど対日諜報戦で活躍した、日米双方での教育経験があった「語学兵」たち。

例えば、かの米艦船ミズーリにおける日本の降伏文書調印式に際して、降伏文書をチェックする役割を担ったトーマス・サカモト氏は、のちのインタビューでこのように語るのです。

日本軍は二世語学兵の存在に気づいてなかったと思う。日本軍の戦い方は筒抜けだった。

そしてサカモト氏は、戦場で回収された日本軍兵士の詳細な日記や手紙などからさまざまな情報を得ていたことを証言し、日本軍は兵士の行動規律が甘く、兵士が日記を書くことを許していたことが「日本が戦争に負けた理由の一つ」とするのです。旧日本軍は「生きて虜囚の辱を受けず」とした「戦陣訓」などの影響で特に太平洋戦争初期に捕虜となった日本兵はかなり少なかったそうですが、それでもこうした「言語兵」の働きによって「兵站、戦術、戦略について日本側が何を考えているかを完全に把握していた」のだとか。

この点に関して武田氏は「日本軍が戦場での文書の安全管理にずさんだったのは、日本語は難しい言語であり、敵に日本語が理解できる要員などいないと考えていたからだと言われて」おり、「日本兵は捕虜にならないという想定から、捕虜になったときにどう振る舞うべきかという教育は日本軍内で行われていなかった」と書かれています。う~ん、なんという「ナイーブ」な言語観でしょうか。

明治この方、西洋に追いつけ追い越せで外語教育に血道を上げ、議論し、実戦し続けてきたその努力は、例えば『資料日本英学史』第二巻の「英語教育論争史」にも綿々と綴られていますし、それは現代にも引き継がれているわけですが、曲がりなりにも植民地「経営」などを経験してきた国にして、この言語や外語に対する「ナイーブ」さはどういうことでしょう。

常々感じていることですが、日本人は今に至っても自らの母語である日本語と、自らを取り巻く外語に対して、客観的で透徹した見方ができていないのかなとも思います。自分が外語を話すとはどういうことなのか、日本語の非母語話者が日本語を学ぶとはどういうことなのか、言語の壁を越えてお互いに行き来するということはどういうことなのか……煎じ詰めれば私たちはまだどこかに「言語を舐めている」ところがあるのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

この本には、ほかにも興味深い記述がいくつもあります。個人的には、画家の国吉康雄氏が初の対日プロパガンダラジオ放送の原稿を書き、読み上げたという話に興味を持ちました。「語学兵」だけでなく、民間人もそれぞれの立場で時に否応なく、時に積極的に語学の能力を提供していたのですね。

また「語学兵」が戦場で、例えば日本兵や民間人が隠れているとおぼしき洞窟を焼き払う「ケーブ・フラッシング」前に、洞窟に呼びかけをする役目まで果たしていたという記述。これは先日読んだマンガ『ペリリュー』にも、そのシーンが出てきました。

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▲『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』第三巻より。

さらに序章で紹介されている熊本県九州学院で学んだ日系アメリカ人やカナダ人二世の生徒たち。前述のトーマス・サカモト氏もそのお一人なのだそうです。山崎豊子氏の『二つの祖国』を想起させます。ほかにもエドワード・G・サイデンステッカー氏やドナルド・キーン氏などのお名前も登場します。語学業界のはしくれとして、いろいろなことを考えるヒントになるような一冊でした。

変わったタイプ

むかしむかし、タイプライターを持っていました。イタリアのオリベッティというメーカーの「Lettera32(レッテラ32)」という緑色の一台です。正確にいうと、かつて仕事で使っていた叔母に借りたものでした。「もう使わなくなっちゃったから」というわけで借り受け、そのデザインとメカニズムに憧れてブラインドタッチを必死で練習したものです。
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http://www.noax.co.jp/products/Lettera32.html
Olivetti Lettera 32 - Wikipedia

まだパソコンなど全く普及していなかった頃の話です。でもそのときに練習したブラインドタッチは、パソコンの時代になっても多少は役に立ってくれました。よく知られているように、今でもパソコンのキーボードが基本的にQWERTY配列なのは、英語でよく使われるキーが特定の指に集中してアームが絡むのを避けるため、わざとランダムに配列したからです*1

タイプライターは金属の部品がみっしりと詰まっていて、とても重かったことを覚えています。打鍵するたびに大きな音を立てて「キャリッジ(紙を巻き付けてあるローラー)」が動き、改行のところで「チン」という音がしていたのも懐かしい。ブラインドタッチ同様、改行してキャリッジを戻すときのレバー操作も、そのレバーを見ないで行えるようになるのがとてもクールに思えたものでした。

ルロイ・アンダーソンという人が作曲した、とても有名な曲にその名もズバリ「タイプライター」というのがあって、これはタイプライターを楽器として扱い、上記のような打鍵やキャリッジリターンの音を楽曲に取り入れています。実際に「チン」と鳴るところにタイミングよくもっていくのは難しいので、このベル音だけは脇に用意されるのが普通のようですが(YouTube映像をご参照ください)。
youtu.be

前置きが長くなりましたが、むかしむかしのタイプライター体験を思い出したのは、トム・ハンクス氏の短編小説集『変わったタイプ』を読んで感銘を受けたからです。トム・ハンクス? そう、あのトム・ハンクスです。『フォレスト・ガンプ』の、『アポロ13』の、『グリーンマイル』の、『ターミナル』の、『ダ・ヴィンチ・コード』の、そして『ブリッジ・オブ・スパイ』の。


変わったタイプ (新潮クレスト・ブックス)

2014年、雑誌『ニューヨーカー』に掲載された最初の短編がきっかけとなって、その後次々に書き継がれ、2017年に短編小説集として出版された同書。収められた17編の小説はさまざまな趣向あり時代ありプロットありでバラエティに富んでいますが、書名の『変わったタイプ』が示すとおり、どの作品にも何らかの形でタイプライターが登場します。

今となってはある意味レトロでノスタルジーをかき立てられる、この「すでにその役目を終えた機械」の存在というか、テイストが、どの作品にも一種独特の味わいを与えているように感じます。それは例えばこんな描写となって現れます。

「たとえば、これ──」老人が棚に寄っていって、そこから取り下ろした一台は、黒い〈レミントン7〉のノイズレスと称するモデルだった。「白い紙を取ってくれませんか、そこにあるやつ」と言われて、彼女はカウンターの用箋を渡した。老人は紙を二枚まとめて切り離し、そのまま黒光りするマシンに巻き入れると、「聞いてなさい」と言いつつタイプした。

デトロイト通り ビジネス マシン

その文字が一つずつ、ささやくように紙の上に落ちていった。

現代の私たちがパソコンとプリンタを用いて行う印字との、この径庭といったら! 何気ないごく普通の事務作業なのに、なにかここには愛惜や郷愁にも似た胸を締め付けられるような感覚と、それに加えて一種のおかしみやユーモアさえ感じられます(翻訳者は小川高義氏)。これを読んで現代の「デジタルネイティブ」の方々は、どんな感覚を受け取るのでしょうか。タイプライターに触れたことがある人にしか分からない感覚なのでしょうか。非常に興味があります。

正直に申し上げて、中には物語のプロットがわかりにくい作品もありました。それでも、対照的な男女の怒濤のような日々をつづる「へとへとの三週間」、戦争の傷跡がまだ生々しい時代に小さな幸せを温めるような「クリスマス・イヴ、一九五三年」、訳の分からないうちに月旅行をしちゃう「アラン・ビーン、ほか四名」、冷たい雨の日の感覚が身にしみる「配役は誰だ」、トム・ハンクス氏のタイプライター愛(氏は蒐集家だそう)があふれる「心の中で思うこと」、SF仕立ての「過去は大事なもの」などなど、繰り返し読みたい掌編が盛りだくさん。

とまれ、多くは語りますまい。さまざまな境遇のさまざまな人生がタイプライターという一点で交錯する、すてきな短編集。にわかに外気温が下がり始めた今の季節にぴったりじゃないかと思います。

*1:ただしこちらによると、これには諸説あるようです。

スポーツにも語学にも「向き不向き」がある

先日、Twitterのタイムラインで拝見したこちらのツイート(リツイートのリンクをたどっていくと元となったツイートまで辿れます)。

同じように感じてらっしゃる方は多いんだなあと思いました。私も体育の授業が大嫌いな子供でしたが、いまではジムに通うのが大好きになりました。ジムが楽しいのは、そこに他人と競う要素がなく、ただ自分と向き合うだけだからです。

qianchong.hatenablog.com

私はスポーツがからっきし苦手なので、プールでの競泳とか、短距離・長距離走(持久走大会などという行事もありました)とか、またサッカーやバスケなど球技のトーナメント戦とかクラス対抗とか、あと柔道や剣道などの武道とか、とにかく学校の体育で優劣や勝敗や順位をつけたがる空気がとても苦手でした。

体育の授業から「競う」要素を取り除くだけで救われる子供はたくさんいると思います。強制的に全員にやらせるのではなく、競いたい人や競うのが向いている人と分けてほしかったです。とくに男性は、子供の頃から「スポーツ好きで当然」という圧力を受けますからねえ。

いまはもうそんなことはないんじゃないかと想像しますが、私が小学生の頃は、男の子のほぼ全員が野球帽をかぶっていた記憶があります。私もかぶってました。野球なんか全然好きじゃないのに。そして子供ながらに野球の「うまい・へた」で見事なヒエラルキーが作られるんですよね。それはいじめにもつながる。子供の頃の私は、みごとに「いじめられっ子」でした。

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これを言うと、日本ではすぐ「不平等だ」などと言われてたぶん実現は難しいでしょうが、健康を維持・増進する意味での「体育」は全体でやるにしても、競う内容の「スポーツ」はやりたい人だけにしたらいいんじゃないかなと思うのです。もとよりスポーツには生まれ持った体格や感性など、はっきりと向き不向きがありますし。
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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_914.html

あとこれは語学学校の「経営」的にはタブーの言い方ですが、実は語学(母語ではなく外語・第二言語)も向き不向きがあります。語学もスポーツ同様に身体の様々な器官を動員して行う一種の「身体能力」だからですけれど、「誰もがプロのアスリートになれない」というのはみなさん同意してくださっても、語学(というかほとんど英語)は「誰もがプロの語学の遣い手にならなければ」と最近は特に前のめりです。全員参加圧力がきわめて強い。

でもこれは、向いていない人、あるいは必ずしも必要としない人にまで強要するという意味で、かなりかわいそうなことではないかと思っています。体育やスポーツが苦手な子供にムリヤリやらせて体育嫌い・スポーツ嫌いが昂進する(かつての私です)のと同様に、現在の学校教育における早期からの語学への傾倒は、大量の語学嫌い(とりわけ英語嫌い)を生みだしてしまうのではないかと。

このブログでも何度も書いていますが、語学は必要になった人が必要になったときから始めればよいのです。ただし必要になったからには、それこそ寝食を忘れて、死にもの狂いで、集中して叩き込む必要があります。

qianchong.hatenablog.com

母語である日本語の涵養もそこそこに、幼少時から週に数時間で「グローバル化した世界に対応できる人材育成」などというのは、語学を教えている立場から申し上げれば、とても非効率なやり方なんです*1。「セサミストリート」みたいな番組を観て、英語の音や文化に親しみましょう程度ならいいと思いますし、異なる言語や文化の人たちとどうつきあうかという「異文化・多言語リテラシー」みたいなものの一環としての語学だったらまだ意味がある(というか、むしろぜひやるべき)だと思いますけど。

qianchong.hatenablog.com

*1:もちろん非効率でも、向いていなくても大人が趣味で語学をやるのは、多角的な視点を身につけるという意味でも有用だと思いますが、それはまた別の話です。

分別のある年寄りになりたい

能楽堂の客席は、正方形の舞台を左側から正面に向けて取り囲むようにL字型に配されており、正面側の席が値段もお高くなっています。先日は少々奮発して真正面の席を取っておいたのですが、前の席にとても大柄な男性が座り、舞台がほとんど見えませんでした〜。残念。でもまあこれは仕方がないのです。身を乗り出すなどはマナー違反ですけど、体格はご本人にもどうしようもないですもんね。まっこと、能楽堂の正面席はギャンブルみたいなところがあります。やはり私は「分相応に」比較的お安い中正面や脇正面で観ようと改めて心に誓いました。

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http://kita-noh.com/stage/seat/

あと、正面のお高い席は比較的ご高齢の方が多いのですが、正直に申し上げてマナーの悪い「じじばば」の出没頻度が高いです。開演後いつまでも喋っている。途中で寝ちゃって(これは別にいいんですけど)鼾をかく。謡曲の、覚えている段に差し掛かるとうなるように謡い出す(気持ちは分かります)。「あめちゃん」の包み紙ガサガサ……など。

昨日は隣のおじいさまがやおら懐からデジカメを取り出すと、「ピッ」という音とともに電源を入れ、客席の上に大きくカメラを掲げ、なんとフラッシュをたいて写真を撮っていました。私が「ダメですよ」と諌めたら「私は特別に許可されている」だって。見え透いた嘘です。だってその能楽堂では撮影が許可された方はみなさん首から大きな許可証を下げているのですから。私が重ねて「それでもフラッシュはたいちゃダメですよ」と再度諌めたら「切るのを忘れてたんだ。悪かったな」とタメ口の上から目線。う〜ん、こういうおじいさまは度しがたいですねえ。
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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_116.html

それでも、伝統芸能に造詣の深い友人によると、能楽堂はまだまだマシなんだそうです。歌舞伎の客席なんかもっとマナーの悪い人たちが大勢いると。まあこうした芸能も、その始まりの頃はかなり熱狂的な、あるいはある意味猥雑な雰囲気の中で上演されていたみたいですから、むしろ現代のすました「伝統芸能」というスタイルの方が異質なのかもしれませんけど。

それでもやはり、会場前に何度も「撮影や録音は固く禁じられております」とのアナウンスが入っていたにも関わらず、こういう挙に出る方——それもいい歳をした方——が出没するというのは、何とも残念です。私たちは分別のある大人、いえ老人になるべく、努力を重ねなければなりませんね。

「運動音痴」にこそ筋トレ

先日、いつも通っているジムでベンチプレスをやっていて、42.5kgを12回×3セット挙げることができました。周りでトレーニングしてらっしゃるアスリートの方々からすれば取るに足らないような重量ですが(そして、そもそも人と競うようなものでもないのですが)、私としてはここのところずっと3セット目の途中で挫折してきたので、なんだかすごい達成感があります。

トレーナーさんは「すごいすごい」と拍手して「今日はいい日ですね」と言ってくださいました。前にも書きましたが、この歳になって真正面からほめられたり、達成できる具体的な数値が上がっていく体験というのはあまりないので、素直にうれしいです。

筋トレというのは語学に似ているなと思います。一直線に向上するのではなく、伸び悩みの時期がしばらく続いたかと思うと急にポンと向上する——つまり「階段状に成果が出てくる」のも似てる。まあどちらも身体を使って行う「身体的能力」なわけで、似ていて当然かもしれませんけど。

改めて思いましたが、筋トレって、私のようにスポーツが苦手でいわゆる「運動音痴」な人間にはぴったりですね。例えば野球やサッカーなどは、身体を使って行うことが多岐にわたっていて、身体の使い方に始まって敏捷性や反射力や……さまざまなスキルが要求されます。明らかに向き不向きや、生まれ持った身体的センスや能力などが絡んでくるわけです*1

でも筋トレは、基本的に単純な動きの繰り返しです。それだってもちろん細かな身体や意識の使い方はあるのですが、きちんとトレーナーさんについてもらいながら行えば、誰でもその人なりの身体的能力に応じて(重量やさまざまな器具の使い方を調整しながら)取り組むことができます。人と争うこともないし、勝ち負けもつかない。単に自分と向き合って一つずつタスクをこなしていくだけです。う~ん、これはもうほとんど座禅や瞑想に近い世界ですね。
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https://www.irasutoya.com/2014/10/blog-post_848.html

それでもって肩こりや腰痛やさまざまな不調が緩和され、あるいは雲散霧消し、なおかつダイエットできて身体も精悍な感じになっていく。「せっかくあそこまで頑張ってベンチプレスを挙げたんだから、暴飲暴食はやめとこ」と自然に意識が働く。ジムに通うのが楽しくなって、そのために仕事をやりくりしたり効率化して生産性を上げたりできる*2

中高年の、特に運動やスポーツが苦手な方にこそ、筋トレはおすすめだと思います。

*1:実は語学も同じだと私は思っているのですが、ここでは「営業上」、多くを語るのはやめておきます。

*2:まんまTestosterone氏が「筋トレ本」で主張されていることですけど。

『サピエンス全史』を読んで

壮大な物語でした。遅ればせながら読んだユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』上下巻です。宇宙の物理的現象の誕生から筆を起こして現在まで、さらには未来までをも見据えつつ「ホモサピエンス(人類)」の来し方行く末を論じた大著。生物学的な知見や、農業革命などの部分も面白かったのですが、やはり近現代の歴史に絡む部分がとても刺激的でした。


サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

例えば「歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない」という一節。

決定論が魅力的なのは、それに従えば、私たちの世界や信念は歴史の自然で必然的な産物であることになるからだ。私たちが国民国家で生きていて、経済を資本主義の原理に沿って構成し、熱心に人権を信奉するのは、自然で必然的だというわけだ。歴史が決定論的でないことを認めれば、今日ほとんどの人が国民主義や資本主義、人権を信奉するのはただの偶然と認めることになる。
下巻 p.46

この本を読もうと思ったのは、その前に吉川浩満氏の『理不尽な進化』を読んだからなのですが、ここで吉川氏は「進化」という言葉にまつわる誤解を丁寧に解きほぐしていきます。進化とは、よくある四足歩行から二足歩行へと推移して背筋が伸びていく連続画のように、劣ったものから優れたものへと一直線に上昇していくようなものではなく、「適者生存」は優れたものが生き残るという意味でもないと。進化の結果は優れていたという「能力」に依るものではなく、単なる「運」であり、「適者生存」の意味は「いま生存しているものを適者と呼ぶ」というだけのことであると。
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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_861.html

生物学的な「進化」もさることながら、文明が生まれて以降このかた人類が選び取ってきたシステム、例えば国民国家、それを駆動しているさまざまな主義、さらには貨幣や宗教も……すべてがいまあるようにあるのは単なる運であり偶然なのだとしたら。急に足下が揺らぐような感覚に襲われませんか。じゃあ歴史はなすがまなに任せればよいのかと投げやりな態度になってしまいそうです。が、もちろんハラリ氏はそんな雑駁な方向には進みません。

それでは私たちはなぜ歴史を研究するのか? 物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。
下巻 p.48

なんと希望に満ちた歴史観でしょうか。最近就任したばかりの文部科学大臣は『教育勅語』について「現代風にアレンジして道徳などに使える部分がある」と発言し、戦前回帰志向をあからさまに打ち出しました。この人だけにとどまりません。今の政権を担っている人々は「歴史を研究した・歴史に学んだ」体を装いながら、その実、一つの価値観にすべての人間を押し込もうとしています。そこには歴史の真摯な反省も、未来の選択に対する豊かな想像も見あたりません。

性的弱者の問題にせよ、国や地域や民族間の争いにせよ、今存在している、そしてかつて存在したあり方だけに固執するのではなく、人間にはさまざまな未来の可能性があるのだと信じることからより多くの人々の幸福が生まれてくる。ハラリ氏の歴史観は、私たちはそのためにこそ歴史を学ぶのだという励ましの言葉に読めました。

その一方で、ハラリ氏はこんなことも書いています。

今日の生物学者が、現代の人間に見られる生物学的差異は取るに足らないと説明するだけで人種差別をたやすく否定できるのに対して、歴史学者や人類学者が文化主義を否定するのは難しい。つまるところ、人類の文化の差異が取るに足らないなら、歴史学者や人類学者がそういった研究をできるように私たちが費用を出す必要がなくなるからだ。
下巻 p.125

ここで言う「文化主義」とは、文化間の差異を強調することで人種差別を助長するような言辞に加担する態度を言っています。自分は人種差別など支持しないという方でも、文化間の差異については大いに称揚することはありますよね。「多様な人間集団にはそれぞれ対照的な長所があると主張するとき」に、その「文化間の歴史的相違の視点から語る」、要するに「みんな違ってみんないい」というスタンスで、私もけっこう使っています。

でもハラリ氏は、これが諸刃の剣であると警告を発しているわけです。困りました。人類の多様な文化の差異が取るに足らないものとは思わない(思えない)、けれどそれは容易に人種差別のツールにも変わりうるのです。例えば移民政策に関して、西洋的な民主主義と自由主義に対するイスラム圏の文化の対立といった構図のように。あるいは例えば日本と中国は「同文異種」で水と油のようなものだから永遠に理解しあえないと決めつけ、ことあるごとに脊髄反射的に「断交だ」などと叫ぶ人たちのように。

私はこの本を読んで、歴史を学び未来を作っていくことはそんなに単純ではなく、一本道の進化や発展でもなく、ましてや一刀両断や「がらっぽん」や「グレートリセット」できたりするものでもなく、繊細で緻密な思考とさまざまな方面からの知見が必要な、その意味ではとても刺激的でダイナミックな営みであることを改めて感じました。

現在、この本の続編である『ホモ・デウス』が邦訳され、書店に平積みされています。こちらもぜひ読んでみたいと思います。

フィンランド語 23 …出格stAの諸相

語順ではなく、格変化で話すのが特徴的なフィンランド語。どんどん新しい格が出てきて「てんやわんや」になっていますが、さまざまな意味を持つ「出格」について、授業でまとめが行われました。

出格は「〜から出てくる」を表す格で、語尾は「-stA」です。

Minä olen kotoisin Japanista.
私は日本から出てきました=私は日本人です。

出格にはこのほかにもいくつか別の意味があるそうです。といっても日本語母語話者的には別の意味でしょうけど、フィンランド人はきっと統一したイメージみたいなものがあるのかもしれません。

Minä puhun Suomesta.
私はフィンランドについて話します。

「~について」も出格で表現するんですね。

Minä pidän Suomesta.
Minä tykkään Suomesta.
私はフィンランドが好きです。

動詞「pitää」と「tykätä」はともに「好き、好む」という意味です。「rakastaa(愛する)」よりも頻繁に使われるとのこと。人称代名詞による動詞の変化を復習します。

● pitää(取る)
①vA-タイプなので、最後の ä を取って語幹は pitä 。
②最後の音節に「t」があるので変化パターンは「t→d」。ただし三人称は変化させないので……

pidän pidämme
pidät pidätte
pitää pitävät ※三人称は変化させない。

● tykätä(好む)
①語尾が AtA のタイプなので、真ん中の t を取って語幹は tykää 。
②語幹の最後の音節に k があるので変化パターンに従って「逆転」。つまり「k → kk」となって語幹は tykkää に。
AtA タイプは三人称単数だけ語尾がつきません。つまり……

tykkään tykkäämme
tykkäät tykkäätte
tykkää tykkäävät ※三人称単数は語幹のまま。

もうひとつ、出格が文頭の人を表す言葉につくと、「誰それの考えでは~」という意味になるそうです。

Minusta tämä on hirveän kivaa.
私はこれはものすごく素敵だと思います。

まとめると出格「-stA」には、①~から出てくる、②~について、③~が好き、④誰それの考えでは~、があるということですね(いまのところ。この先にまだ何か別の意味が出てきそうな気がします)。

「mikä(何)」の出格は「mistä」ですが、この疑問詞を使っていろいろ言えそうです。

Mistä sinä olet kotoisin?
あなたはどこの出身ですか?
Mistä sinä pidät?
あなたは何が好きですか?
Mistä sinä puhut?
あなたは何について話しますか?

さらに、動詞「pitää」「tykätä」は目的語に出格を要請するので、例えば「tämä punainen laukku(この赤いバッグ)」といった表現が目的語に来た場合、全部出格に変えなければいけないんですね。あああ。

Minä tykkään tästä punaisesta laukusta.
私はこの赤いバッグが好きです。
Minä pidän tästä suomalaisesta elokuvasta.
私はこのフィンランド映画が好きです。

さらにさらに、出格を要請するのは「pitää」「tykätä」で、同じような意味の「rakastaa(愛する)」は通常通り分格を要請するという点も注意するようにと言われました。

Minä pidän Pekasta.
私はペッカが好きです。
Minä rakastan Pekkaa.
私はペッカを愛しています。

「Pekka(男性の名前)」さえ、動詞によってその形が変わると。これ、私の名前だったら「Tokuhisa(トクヒサ)」が「Tokuhisasta(トクヒサスタ)」とか「Tokuhisaa(トクヒサー)」になるということですよね。う~ん、面白いです。

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Minä tykkään tästä jälkiruoasta.

周回遅れにもほどがある

先日、カナダのモントリオールで開催された女性外相会合に河野外務大臣が出席した件が話題になっていました。

www.mofa.go.jp

各国の女性外相が居並ぶ中、真ん中でたった一人の男性外相として記念撮影におさまった写真が取り上げられ、Twitter上で「炎上」したり、河野外務大臣ご自身がそれらを「フェイクニュース」だと反論したり、ひとしきり議論になったのでした。簡潔なまとめが『ハフィントンポスト』に載っています。

www.huffingtonpost.jp

外務省の説明によれば、この会合は女性だけでなくG7各国の外相も招かれたものであり、かつG7のうち6カ国は男性が外相を務めているのだけれども、日本以外はすべて欠席したためにこうなったとのこと。

確かにその通りで、まああの写真がいかにも「ノコノコ出て行った感」を惹起するような構図だったからTwitterでも厳しい意見が出ちゃったのかなと、河野氏にちょっと同情した部分もありました(G7のうち6カ国は男性が外相を務めているということ自体がちょっとどうよ、という思いはありますが)。

それはそれとして、私があの写真で一番違和感を覚えたのは河野氏が着用していらしたピンクのネクタイです。「女性外相会合だからピンクのネクタイ」というその発想がなんかもう、何周もの周回遅れ感満載で。河野氏、あるいはこのネクタイを用意した側近はたぶん連帯の意思を示したくらいに思ってらっしゃるのかもしれませんけど。

つくづく、日本人の一部の(あるいはまだまだ多数ともいえる)こうした古い意識の頑迷さやジェンダーに関するリテラシーの乏しさにため息がでます。

もっとも、河野氏は「いや、私は普段からピンクのネクタイをすることもある。今回もたまたまだ」とおっしゃるかもしれません。過去のニュース映像を精査してその妥当性を検討してもいいけど、めんどくさいからやめておきます。

……と思っていたら、先日、こんなテレビCMに接しました。拡大鏡ハズキルーペ」の新しいCMで、銀座あたりの高級クラブとおぼしきお店が舞台です。

youtu.be

渡辺謙氏が資料を放り上げながら「小さすぎて読めない!」と絶叫する旧CMも、菊川怜氏がお尻でハズキルーペを踏んだり「だぁい好き♡」とウインクしたりするシーンに「なんだこれ」と違和感を覚えましたが、今回の新CMはその比ではありません。

お尻で踏むシーンは四倍増しになり、舘ひろし氏がワインのヴィンテージを確認して「これ、咲(えみ)の生まれた年だね」とつぶやくなど、気持ち悪さ全開です。これはたぶん「確信犯的に(本来の意味からすれば誤用ですが)」炎上を狙って演出されていますね。

しかしこのCM、「どこにそんな違和感が?」とおっしゃる方も多いのかもしれません。特にハズキルーペを購入されるような中高年層の方々、なかんずく男性には。

かつて会社勤めをしていた頃、客先の接待でこういう場所によく連れて行かれました。東京なら池袋とか赤坂とか、台北なら“五木大学*1とかですね。タバコの煙もうもう、高価なウイスキーの水割りに乾き物系のおつまみ。そして女性性を全面に押し出した接客と「アフター」サービス。

こういうの、私はイヤで仕方がなかったのですが、同僚や上司の中には、こうした場所がスキで仕方がない人もいたのです。それもかなりの割合で。若い世代の中には「僕はこういう場所は苦手です」とおっしゃる方もちらほらいましたが、そういう方たちも社内で育って行くにつれて、スキに変化していくのかもしれません。

旧作もそうでしたが、ハズキルーペの新CMは、途中にネイルが見やすいといった一見女性の視点も盛り込まれているような作りです。でも高級クラブでのやり取りという設定からしても、やはりここには徹頭徹尾、男性の女性に対する旧態依然とした視線、女性を消費する対象としてしか見ていない古い価値観が透けて見えます。先日エントリをあげた『東京カレンダー』にも通じる視線です。

qianchong.hatenablog.com

もうそろそろこういう「昭和的」なオヤジ目線の人間観は卒業して、新たなステージに進んではどうかと思うのです。“Because it's 2015!(カナダのトルドー首相)”ならぬ「だって、もう2018年じゃないですか」ってことです。

いまのところ、このハズキルーペのCM表現に対して、表だった議論は巻き起こっていないようです*2。日本ではどうも、こうした男性の女性に対する視線なりアプローチなりにかなり寛容な「伝統」がありますよね。例えば男性が性風俗サービスを利用することについて、そういうところに行ってこそ一人前の男だ的なもの言いがあり、私も若い頃は何度か聞かされました。また例えば芸人さんなどが「芸の肥やし」と称して「武勇伝」を語るなどの「伝統」もありますね。

いま一緒に仕事をしている韓国人の同僚に聞いたところ、韓国にももちろんそういう状況はあるけれど、少なくともおおっぴらに堂々と開陳するたぐいのものではないという意識はあるし、仮にこのハズキルーペのようなCMが放映されたら、かなりの非難が巻き起こるだろうし、芸能人が「武勇伝」を語ればほとんど芸能人生命を絶たれるくらいのバッシングがあるだろうとのことでした*3

こうしたCMが意図的にせよ鈍感からにせよ堂々と放映されちゃう日本は、世界の潮流に照らしてもかなりの周回遅れだと思います。女性閣僚が減り続けて今回の内閣改造ではたった一人になったにもかかわらず、その現状を質されて「(唯一の女性閣僚である片山さつき氏は)二人分も三人分もある持ち前の存在感で……」などとはぐらかす首相会見を聞きながら、どうやったら私たちは周回遅れを少しでも取り戻せるのだろうと考えています。

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▲林森北路界隈。「風傳媒」の記事より。
https://www.storm.mg/lifestyle/233075

*1:林森北路(りんせんほくろ)のことです。「林森」が「五つの木」なので。日本人向けのクラブも数多く集まる場所で、“今晚去五木大學學習吧!(今夜は五木大学で勉強しよう!)”などと誘われます。

*2:SNS上では散見されますが。ちなみに、YouTubeのこのハズキルーペ公式動画ページはコメントを受け付けない仕様になっています。

*3:キリスト教の影響も大きいそうで、だから例えばLGBTの問題に関しては、日本以上に遅れているかもしれないとのこと。