インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

成語なんかにリソースを割けない?

華人留学生の通訳訓練(中国語→日本語)で、“造句”をしてもらうことがあります。“造句(zàojù)”というのは中国語で、これを日本語で言えば「例文を作る」とでもなりましょうか。例えば通訳をしている際の「鬼門」のひとつ、成語やことわざや慣用句について、中国語と日本語を比較しながら覚えましょう、などという際に、華人留学生のみなさんにその成語・ことわざ・慣用句を使った短い文章を口頭で言ってもらうのです。

なぜ成語・ことわざ・慣用句が「鬼門」かというと、ふだんのおしゃべりレベルの会話ではあまり頻繁に登場しないものの、フォーマルな席(つまり通訳者が出向くような)ではけっこう使われ、特に背景に故事や典拠があるようなそれはかなり縮約された言葉になっているため、知らなければ即アウトという確率が高いからです。私、通訳をしていて一番血の気の引く思いがする瞬間は、発言者が“中國有句古話說……(中国の古い言葉にこういうのがありまして……)”などと話し始めたときです。

もちろん日本語の成語・ことわざ・慣用句には、もともと中国から入ってきたものも多く、中には“一舉兩得”→「一挙両得」のように全く同じ形のもの(発音は違うけれど)もあります。でもその一方で“雞蛋裡挑骨頭/吹毛求疵”→「重箱の隅をつつく」のように全く違う、というか、双方の風土や文化がそれぞれに色濃く影響した面白い表現もたくさんあって、なるほど、同じ人間の同じような発想であっても、お互いの表現がここまで違うのは面白いなあと思うのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_996.html

というわけで、留学生のみなさんにも「有名どころ」のよく使われる成語・ことわざ・慣用句を中国語と日本語のセットで覚えてもらおうということで訓練に取り入れているのですが、ただ暗記するだけじゃつまらないので、まず私が中国語の成語・ことわざ・慣用句をひとつ言い、生徒の一人を指名して“造句”してもらったのち、それを別の一人が日本語へ通訳する……というようなことをやっています。

qianchong.hatenablog.com

この練習をしている時に、気づいたことがふたつあります。ひとつは“造句”をする留学生の声がきわめて小さく、かつ速すぎること。もうひとつは“造句”した文章がきわめて単純なこと、です。

通訳というのは畢竟人前で話す作業なので、パブリックスピーキングを意識することは繰り返し伝えており、なおかつ自分が話した中国語を他の人が日本語に訳すという前提も理解しているはずなのですが、小声で一瞬のうちに喋っちゃう。もちろん恥ずかしさもあるのでしょう。それでも自分の母語である中国語での“造句”なのに、とても小さな声で自信なさげに、まるで今すぐここから逃げ去ってしまいたいとでも思っているかのように、ささささっ! と喋ってしまうのです。当然ながらそれを訳す生徒は聴き取れないことが多く、私は「もう一度ゆっくり、大きな声で言ってください」とお願いすることになります。それも繰り返し繰り返し、何度も。

“造句”が単純なことも気になります。例えば“八面玲瓏(八方美人)”だったら“他總是八面玲瓏(彼はいつも八方美人だ)”とか、“班門弄斧(釈迦に説法)”だったら“我對他班門弄斧(私は彼に「釈迦に説法」した??)”のように“造句”とも言えないような短い、論理も文構造も弱い文ばかり作ろうとするんですね。「彼がジムのインストラクターだとは知らずに、筋トレやダイエットを語ろうとしちゃった。危うく釈迦に説法をするところだったよ」みたいな文章を作ってくれたら、訳す方もやりがいがあるのになあ。しかも日本語ですらなく、母語である中国語での“造句”ですからね。

そういう単純な“造句”ばかりが続くので、私が(母語でもないのに!)例を示してみると「ほほー」というような顔をしているのがカワイイ、いえ、情けないですが、私が「みなさんはこういう“造句”を小学校や中学校でやらなかったんですか?」と聞いてみると、「死ぬほどやらされました」というお返事。う〜ん、それがトラウマで、もう二度とやりたくないということなのかな。それとも、通訳訓練なんて別にしたくないけれども、必修科目だから仕方なく参加しているということなのかな。

できるだけ小声で短く“造句”しようとする華人留学生のみなさんからは、とにかく自分のリソースはできるだけ割きたくないとでも言わんばかりのオーラが出ているような気がします。ふだんはあんなに大声で延々と喋っているのにね。成語・ことわざ・慣用句みたいな古臭くて手垢のついたような表現に自分のリソースを割こうと思えないのかな? 個人的には、成語・ことわざ・慣用句というのは、中国語や日本語のエッセンスが詰まった面白い領域だと思うんですけど……。

調べてから聞いてほしい

プロ野球選手のダルビッシュ有氏が、「せめてある程度勉強してからメッセージください」とSNSで発言したことが話題、という記事を読みました。ネットで調べ物をしていた際のことです。この発言はTwitterでなされたもののようですね。
news.nifty.com
なるほど、ダルビッシュ有氏は以前にも「筋トレ」や「ランニング」に関して傾聴すべき意見を述べておられたり、日曜日の報道番組『サンデーモーニング』のスポーツコーナーでレギュラーを務める日本野球界の大御所の、時代錯誤な不見識に対して胸のすくような見解を述べておられたり(詳細は「ぐぐって」ください)と、私は密かにその発言のファンなんですけど、今回も「おっしゃる通り」と快哉を叫びました。

それでTwitterまで元のツイートを見に行ったら、氏のこの主張に「ダルビッシュ有に聞くというのも調べる行為の範疇でしょ」と反論している「からあげ」なるハンドルネームの方がおり、そこに氏が「死ぬまで毎食唐揚げ食べとけ」と返していて、ユーモアというか毒舌の切れ味も鋭いなあと。

いやこれ、自らを大リーグのスター選手に並べるのも大変おこがましいのですが、私もいろいろな方から受ける質問で「せめてある程度勉強したり調べてから聞いてほしいな」と思うことが多いので、少しく共感したことでありました。

例えば先日、某通訳学校で受けた質問は「スピーチの通訳を練習したいんですけど、なにかいい教科書はありませんか」でした。それで私が、今現在入手可能な、有名どころの通訳訓練本をいくつか挙げて「読んでみましたか?」と聞いたら、どれも初耳だというので必死にその書名をメモに取ってらっしゃいました。

まあダルビッシュ有氏のように質問が殺到しているわけでもないので、教えて差し上げるのはまったく構わないのですが、例えばAmazonにでも行って「通訳 中国語」あたりのキーワードで検索をかけてみれば、私が挙げた通訳訓練本はすべて見つかるんですよね。なぜ、まずはそういう発想が出てこないのかなと不思議に思うのです。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_36.html

実はダルビッシュ有氏のツイートを見に行ったついでに、つらつらと他のツイートも見ていたら(Twitterはこれが怖いです。すぐに大量の時間を費やしちゃう。だから最近はなるべく触れないようにしています)、「翻訳者になりたいのですが、何から始めたら……?」といった質問に行き当たりました。

翻訳者や通訳者というのは、調べ物が7割8割、いや個人的には9割以上のお仕事だと思います。なのに初手からこう聞いている時点であまりこのお仕事には向いていないのではないかと思うのですが、そう申し上げたら初心者に厳しすぎるでしょうか。まあかつて初心者だった私みたいに、書店に行って「通訳」や「翻訳」と名のつく本を片っ端から買ってきて読むみたいな方法も非効率に過ぎる、もうちょっと人に頼ってもいいとは思いますけど。

夜中にトイレを探している

尾籠なお話で申し訳ないのですが、就寝中にトイレへ行くことが時々あります。若い頃にもありましたけど、歳を取って明らかに頻度が高まっている感じ。なるほど、いまや中高年のみが主な読者になったと思しき新聞の広告に「ノコギリヤシ」など頻尿対策の薬やサプリがやたら多いのもうなずけます。

とはいえ、私は今のところまだ頻尿というほどではなく、そのために睡眠が阻害されるというようなこともないのですが、少々うんざりしているのは、尿意のごく自然な帰結なのか、トイレを探す夢を繰り返し見ることです。あるときは迷路のように複雑な廊下が連なる古くて大きな旅館の中で、あるときはこれも巨大な校舎が立ち並ぶどこかのキャンパス内で、あるいは町工場が延々と連なる下町の路地裏で、とにかくあちこちを歩き回ってトイレを探す、探し当てても満員で入れないとか、壊れている……みたいなパターンが長々と続く夢を見るのです。

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https://www.irasutoya.com/2016/05/blog-post_46.html

まあこれ、夢の中で首尾よくトイレを見つけてやれやれ、と用を足すようになっちゃったら……そのときは「アテント」みたいな介護用おむつのお世話になるときなのかもしれません。だから延々探し回っているうちが花なのかもしれませんが、あの一種の「じれったさ」が延々続く夢にちょっと疲れてしまうのです。

お年寄りがよく言うんですけど、歳を取ると「寝るのにも体力が必要」なんですよね。だから朝早く目が冷めてしまうし、若い頃のように休日はお昼近くまで爆睡なんてこともできなくなるのですが、私もこれからさらに体力が落ちてきてしまったら、トイレを探す夢を延々見るよりも頻繁に目が覚めてしまう「夜間頻尿」に行き着くのかもしれません。つまり今はまだ体力があるから、目覚めずに延々夢を見続けることができるのかなと。

う〜ん、トイレを探す夢を延々見続ける「じれったさ」もしんどいですが、夜中にたびたびトイレに行って眠れなくなるのはもっとしんどそうです。今のうちにせいぜい体力を養っておこうと思います。

能舞台の簡素さと能装束の豪華さ

伝統芸能の能って、舞台はあんなにも簡素なのに、なぜ装束(衣装)はあんなにもデコラティブなのか……そんなことを思いながら展示を見ました。新宿は甲州街道沿いにある文化学園服飾博物館で現在開催中の「能装束と歌舞伎衣装」という展覧会です(11月29日まで)。

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https://museum.bunka.ac.jp/

能をご覧になったことがある方はご承知の通り、能舞台には通常の演劇につきものの緞帳や幕などがなく(登場人物が出入りするところだけ、小さな幕があります)、大道具といえるような大掛かりな舞台装置はほとんどなく、小道具にしても必要最小限かつかなり抽象化されたシンプルなものが多いです。

例えば中国の皇帝が住んでいるような豪奢な宮殿にしたって、畳一畳分ほどの平べったい箱の上に、竹と布で組んだようなか細い屋根が乗っているだけ。海水浴場の「海の家」だってもう少し豪華なんじゃないかと思えるくらい簡素です。源頼朝武蔵坊弁慶といった錚々たるメンバーが乗り込む船にしても、まるで一筆書きで描いたような船の輪郭だけを模した作りで、しかもそれをひとりの登場人物が「電車ごっこ」みたいにして舞台に持ち出すのです。

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「the 能.com」さん「船弁慶」の項より。右側の四人が乗っている(というか入っている)のが「船」です。

ところが、その簡素極まりない舞台に登場する人物は、いずれも豪華絢爛かつ大胆不敵なデザイン。金糸銀糸でもって花鳥風月その他の模様をあしらったものや、モダンアートと見紛うような抽象模様もあり、一見地味に見える色彩のものでもよく見るととんでもなく精緻な模様が織り込まれているなど、とにかく「デラックス」な装束を身にまとっています。

しかもサイズがまたバカでかい。武将なんかが履いているズボン(袴)など、片方だけで脚が十本くらい入りそうなほどの幅があるのです。老女物など枯淡を極めたような曲(演目)の装束や、一番「地味」である狂言方の装束であっても、現代の私たちからすればずいぶん格式が高いというか、「上等そう」ないでたちです。

もちろん舞台芸術ですから、生身の人間が着の身着のまま登場したって面白くもなんともないのかもしれませんが、でも現代演劇ではごくごくフツーの格好で、メイクすらしないものもありますよね。私は能の持つこの「なにもない空間から始まってなにもない空間で終わる」という究極のシンプルな劇空間でありながら、登場人物だけが超ド派手……というギャップに、なんとも魅了されるのです。

素人考えですが、能が生まれた頃の中世はまだここまでデラックスな装束は少なかったのかもしれません。それが後に武家の式楽となり、各大名家お抱えのもと(上記の展覧会に出品されている装束も、旧井伊家の所蔵品です)、江戸時代の産業の発展などもあいまってここまで進化してきたのでしょうか。

ともあれ、現代の私たちは、LEDの大スクリーンやら、レーザービームやら、ミラーボールやらの照明装置に慣れていますし、ド派手で奇抜な格好だっていくらでも目にすることができますが、中近世の人々はこういう度外れた綺羅びやかさの能装束をまとった登場人物たちが登場するたび、どんな気持ちで眺めていたんでしょうね。

留学生版「通訳機械の反乱」

ずいぶん以前のことですが、こんなディストピア小説のプロットを思いつきました。機械通訳が高度に発達した未来で、各言語の母語話者がそれぞれの母語の内輪だけで思考するようになった結果、思考のブレイクスルーがなくなってどんどん言葉がやせ細っていき、何百年かの後にはコミュニケーションの手段が「咆哮」、つまり鳴き声にまで退化しちゃう……というものです。

しかしながら小説を書けるような文才はまったく備わっておらず、どなたかが作品にして日経「星新一賞」にでも応募してくださらないかしらと思っていたのですが、そうだ、これを毎年秋に学校の文化祭で上演している、留学生の日本語劇に用いてみようってことで台本を書きました。ただいま、鋭意稽古中です。

「ili(イリー)」や「POCKETALK(ポケトーク)」みたいな通訳機械を企業の面接で使っているという設定にして、面接に訪れた英語話者や中国語話者と日本語しか話せない日本企業の社員(ちょっと悪意がありますね)がやり取りをしているうちに通訳機械が暴走して……ってまあ、プロット自体は『2001年宇宙の旅』以来くり返されてきた人工知能の反乱モノですが、この喜劇で工夫してしてみたのは、通訳機械を擬人化して、生身の留学生自身に演じてもらうという点です。

我々の学校にはたくさんの留学生、つまり英語や中国語を始め、諸言語のネイティブスピーカーが揃っているんですから、この強みを活かさない手はありません。ただ、普通に生身の人間が登場して諸外語をしゃべっても「機械っぽくない」ので、小さな箱状のブースを作り、その中に入って機械的な音声を演じてみたらどうかと考えました。それで、こんな「ポンチ絵」(……ってもう死語かしら)を描いて、こんなのを作りたいので材料費の予算をつけてくれませんか、そしたら留学生のみんなで工作します、と学校側にかけあってみました。

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すると「うちの学校にこういうのの制作部門があるから、そこに頼んでみれば?」というお返事。えええ、そうなんですか。何年も勤めているのに初めて知りました。実はうちの学校、系列のいくつかの大学や専門学校が一緒になったキャンパス内にあるのですが、美術系やファッション系の学部もあって、そこではファッションショーや展示会などをよく開催しており、その際に使う舞台装置を外注ではなく自前で作っているんだそうです。

連絡をとってみると、さっそく担当の職員がやってきて、私の拙いポンチ絵に次々「ダメ出し」をされました。いわく「ここんとこは多分強度が足りないから補強が必要だな」「ここんとこの角はアール(丸み)がついてるけど、正確な寸法は?」「電飾を仕込むって言ってるけど、この穴の間隔はどうすんの?」……すみませんすみません。それで色々とこちらの意向を伝えたら「まあ、じゃあそういうイメージで作ってあげるよ。ついでに全体を白く塗っとくから」。後光が差して見えました。

それで、中三日ほどで出来上がってきたのがこれ(仕事早い)。電飾はAmazonでクリスマス用のLEDイルミネーションを買って仕込みました。中に三人ほど留学生が座って、通訳機械のスイッチが入ってないときは上半身をかがめた状態で待機し、スイッチを入れると機械音が流れて、上半身を起こすと同時に電飾がチカチカ光る……という演出にしました。

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この写真は稽古風景ですが、ちょっと場末のキャバレーみたいなのがチープでいいですねえ。あるフランス人留学生は「ムーラン・ルージュみたい」と言っていました。まあ基本はドタバタコメディですから、こういう雰囲気がぴったりです。でもこのお芝居には、言語が退化して「咆哮」に行き着いちゃうというシーンも盛り込んでシリアスな一面も持たせてみました。

そして最後は、二人の狂言回しによるこんなセリフで締めくくられます。

A:バベルの神話には、とても深い意味があると思いません?
B:というと?
A:人間の言葉がバラバラになったからこそ、人間はその言葉の壁を越えようとして必死に勉強してきたわけでしょ。
B:自分のところにはない優れたものを学ぶために外国語を勉強してきたんですね。
A:そう、それが結果として人間の文明を作り上げてきたわけですよ。
B:なるほど、異なるものを知ろうと努力した結果、人類の知は深まったと。
A:そう、知は差異に宿る、人々の多様性にこそ宿るんです。

人々の多様性をまんま体現しているような留学生諸君の演技に期待したいと思います。上演は11月3日と4日。上演時間が決まったらまたブログにエントリを上げます。

腰痛の本当の原因がわかってきた

若い頃からたびたび腰痛に悩まされてきました。いわゆる「ぎっくり腰」みたいな重い症状になったことが数回。そこまで重くなくても、何かのはずみで腰に痛みが走るとか、痛くはないけれども何となく腰が張っていて不快感があるなどはかなり頻繁に起こります。それで腰を守るために、しゃがむときには手を膝に当ててサポートするとか、重い物を持つときには姿勢に注意するなどの動作が習慣となりました。

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https://www.irasutoya.com/2013/09/blog-post_2890.html

腰痛の原因は様々で、例えば椎間板ヘルニアのように身体の器質的な病変の場合はまた違う対処が必要なようですが、私の場合は骨や関節に問題があるわけではなさそうです。以前は骨がずれているとか関節が傷んでいるとか、漠然とそういうイメージで腰痛を捉えていて、だから整体や整骨やカイロプラクティックみたいな治療院にもずいぶん通ったのですが、慢性的な腰痛は一向に去ってくれないのでした。

ところが、男性版更年期障害ともいうべき不定愁訴の改善を目指して通い始めたジムで、体幹レーニングや筋トレをやっているうちに、まず長年健康診断の胸部レントゲンで所見が必ずついていた「脊柱側弯症」が治りました。さらにパーソナルトレーニングで「腰痛改善」を念頭に置いて指導してもらっていたところ、だんだん自分の身体の使い方の「癖」みたいなものが明らかになってきたのです。

私の場合、腰痛は骨盤の少しうえあたり、それも左側によく起こるのですが、ここには広背筋という大きな筋肉が走っています。複数のトレーナーさんの見立てによると、私は身体の使い方、しかも行住坐臥すべての身体の使い方において広背筋に無理な負担や緊張をかけるような動きになっていて、それがたびたび起こる腰痛の主な原因なのではないかというのです。

左側に偏って腰痛が起こりやすいのも、身体の使い方が左右で異なっている、つまり左右で「癖」の違いがあるからではないかと。実際、様々なトレーニングをやってみると、全く同じ動作なのに左右で可動域が全く違ったり、痛みや突っ張りなどの不快感の度合いが違ったりするのです。これ、ひとりでやっていても自分の身体の各部位がどこまでどんなふうに動いているかはなかなか分かりにくい。パーソナルトレーニングで細かく動きをチェックしてもらってはじめて、自分でも「あ、確かに動いていない」と実感できる部分がたくさん見つかりました。

そのうえで、日常の様々な動作における身体の使い方や注意するポイントなどを指導してもらって、それをなるべく意識しながら暮らすようにしています。畢竟、無意識のうちにアンバランスな身体の使い方を続けているうちに、その歪みが集中する場所で体の部位が悲鳴を上げ、痛みとなって現れる――それが腰痛ということになるのでしょう。

というわけで現在、オフィスで椅子に座る姿勢や、階段を降りる時の重心の落とし方、さらには歩く時の姿勢などにも注意しつつ、これまでについた「癖」を取り除くように努力しています。腰痛は単に腰だけの問題ではなく、全身の使い方にリンクしている問題だったわけです。そう考えると、腰痛になったから腰に湿布を貼るとか、コルセットを巻くといった対症療法は、少なくとも私の場合はほとんど意味がないということになります(まあ炎症を起こしている筋肉を鎮めるといった程度の効果はあるかもしれませんが)。

こうした歪みや「癖」は、整体や整骨やカイロプラクティックでもそれなりに改善させることはできるのでしょうけど、それよりも自分の身体を自分できちんと使えるようにすることのほうがより重要だと思います。以前にも書きましたが、身体の不調は、自ら能動的に動く・動かすことでより改善に近づくというのを改めて感じているところです。

qianchong.hatenablog.com

チヂミ大好き

韓国料理でポピュラーな「チヂミ」は雨の日に焼くのがいいんだそうですね。同僚の韓国人がそう教えてくれました。なんでも、チヂミを焼いている「ジジジ……」という音が雨音に似ているからなんだとか*1。雨の日はゆっくりチヂミでも焼いて、マッコリをちびちび飲むのがなんとも風情があるの、とその同僚は言っていました。うわあ、ちょっくらマッコリ買いに行ってくる!

ふだんからチヂミをよく作ります。これまではネットなどの情報を参考にしながら自分で小麦粉から生地を作っていたんですが、あるとき地下鉄の車内でこんな広告を目にしました。GOSEIさんの「宋家秘伝チヂミ粉」の広告です。

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http://www.go-sei.co.jp/whatnew/2445.html

ちょっとちょっと、この「桜エビ入り水菜チヂミ」ってのが、特においしそうじゃありません? というわけで仕事帰りにスーパーに寄ったら、この「チヂミ粉」が売られていました。当然その場で桜エビと水菜も買い込み、早速作ってみたわけです。

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おいしいです〜。何度か作ってみましたが、生地を桜エビと水菜の「つなぎ」程度に少なくして焼くのが、必要以上に「ぼてっ」とせず、表面がカリッとするコツみたいです。お好み焼きも大好きですけど、このチヂミも軽い味わいでいいですね。

すっかりチヂミにはまってしまったので、韓国人の同僚に「チヂミにおすすめの具材は?」と聞いてみました。彼女いわく「ズッキーニと玉ねぎをそれぞれ千六本に切って、小さく刻んだイカやタコを入れたもの」だそうです。それ、今度やってみます。

それから、ソウル出身の彼女によると、「チヂミ」というのは韓国南部の言い方で、こうした料理全体の総称としては「ジョン(전)」が標準的だそうです。漢字では「煎」ですよね。中国語も、こうやって少量の油で両面をきつね色になるまで動かさずに焼くことを“煎(jiān)”と言います。こういう「粉もん」は、本当に大好きです。

日本で「チヂミ」という呼称が人口に膾炙した理由は分かりませんが、独立行政法人統計センターが2011年まで公開していた都道府県別本籍地別外国人登録者数における本籍地情報統計によると(2012年からは統計がなくなりました)、在日韓国人の方々の本籍地で一番多いのが南部の「慶尚南道」と「慶尚北道」で、この二道で全体の半数近くを占めています。それでこの地方の言い方である「チヂミ」がいち早く日本でも定着したのかもしれませんね(勝手な想像です。お詳しい方、ぜひご教示ください)。

*1:Wikipediaには「荒天時は買い物が面倒なため、家に常備した小麦粉で食事を調えるという意味合いもある」と書かれていました。

「日本人は勉強しない」をめぐって

フィンランド語の教室で、先生がこんなことをおっしゃっていました。「別の学校でフィンランド人の先生とペアになって隔週で授業を担当しているのですが、その先生がよくこう言うんです。『日本人はホントに勉強しない』って」。非常に興味をそそられました。詳細までは聞けなかったのですが、要するに「教室にマジメに通っては来るけれど、家での復習や練習をぜんぜんやらない」ということなのだそうで。

おお……まあこれは、何も日本人だけというわけじゃありませんが、私も日本人の生徒さんを対象に語学を教えてきた経験からすると、確かに家での復習や練習、言い換えれば教室以外での不断の努力というものをあまりなさらない方はままいらっしゃいます。まあ学生さんたちは他の科目やアルバイトなどで忙しいですし、社会人のみなさんも長時間労働や長時間通勤で疲れ切ってらっしゃる。いきおい、語学の教室に通ってきたときだけ勉強する……ということになるのでしょうか。

しかしですね、あまたの語学の達人が言っていることですが、語学、というか外語の習得にはそれなりの時間と手間暇をかける必要があります。世上よく「中学・高校・大学と都合十年も英語を学んできたのに、ちっとも話せやしない。これは教師が悪いんだ、メソッドが間違ってるんだ」ってなものいいがありますが、私に言わせればそうおっしゃる方の九割九分九厘までは「十年も英語を学んで」いないです。週に数時間英語の授業で英語に触れたからといって、それを「十年学んだ」というのは盛りすぎでしょう。

語学学習には個人差、さらに向き不向きもありますから一概には言えませんが、ひとつの外語をそれなりに使える(その言語を使って仕事ができる程度)ようにするには、膨大な時間と努力が必要です。教室に通っての学習以外にも、日々の暮らしの中で不断に学習し続けなければなりません。逆に言えば「こんなに手間暇のかかることに人生のかなりの時間を費やしてもいい」と思う方だけが語学に取り組むべきだと思います。全国民が、幼少時から英語に狂奔し、狂奔させられるという昨今のありようは、なにか別の大きなものを失っているような気がしてなりません。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post.html

フィンランド人の先生が「日本人は勉強しない」とおっしゃったのは、いみじくもその現状をあぶり出しているような気がします。要するに多くの方が、本当はそんなにその語学を必要とはしていないんです。もちろん語学を趣味で細々と勉強するのも「アリ」ですけど(私だってフィンランド語は単なる趣味です。中国語だってはじめは趣味でした)、その一方で、単語や活用を覚えてきてと言っても覚えてこない、ロールプレイをしてみましょうと言っても極めてローテンションであるなど、生徒さんが「打っても響かない」ことに、熱心かつ誠実な先生ほど心痛めているんですよね。「日本人はホントに勉強しない」と吐露されたそのお気持ちは、本当によくわかります。

「スクラムユニゾン」に対する若干の違和感

先日、夕飯の支度をしながらテレビをつけていたら、ニュース番組で「スクラムニゾン(Scrum Unison)」という活動が紹介されていました。現在日本で開催中のラグビー・ワールドカップの試合前に、対戦相手国の国歌を一緒に歌うという「おもてなし」の一環なのだそうです。YouTubeには参加各国の国歌が言語とカタカナ、そして和訳の字幕つきでアップされており、それをみんなで練習して、試合当日の国歌斉唱で歌い、相手国に対する敬意を示そうという活動のようです。

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rugby-rp.com

他国の国歌を、その国以外の人々が歌って敬意につながるのかどうかは分かりませんが、それはさておき、ニュースではこの活動に参加されているお一人の日本人が「海外でも『君が代』を歌ってもらったらうれしいから」とおっしゃっていました。私はここに若干の違和感を覚えました。日本の国歌とされている「君が代」は、他の国歌と同列に語ることができないないからです。言うまでもありませんが、それはかつて侵略の道具として使われた歴史を持っています。国旗とされている「日の丸」や、2020年東京五輪の大会組織委員会が会場への持ち込みを禁止しないと表明して物議を醸している「旭日旗」も同様です。

今回のラグビーワールドカップ参加国の中には、かつての戦争で日本と関わりのあった国々が多く含まれています。例えば英国やオーストラリアにしても、多くの捕虜が犠牲になった「サンダカン死の行進」など、長く癒えることのない傷跡を日本は残してきたのです。それも「君が代」や「日の丸」や「旭日旗」のもとで。先日試合が行われたサモアだって、大東亜共栄圏の拡大を目論む日本が攻略を目指して作戦を立案していた国です。
ja.wikipedia.org
ja.wikipedia.org

こうした歴史を踏まえれば、たとえ平和な現代に行われるラグビーの国際試合であっても、「君が代」を歌ったり歌ってもらったりすることに、少なくとも私たち日本人は無邪気に喜んでいる場合ではないんじゃないかと思うのです。いくら国内法で正式な国歌と定められているからといって、それでこの歌にまつわる歴史的な経緯が帳消しになるわけではありません。

手垢のついた議論と思うかもしれません。でも一度深呼吸して冷静になり、立場を変えて考えてみてください。かつて自分の国を侵略してきた、あるいは侵略しようとした国家が敗戦後もなお同じ国歌を歌い続け、同じ国旗を掲げ続けていると知ったら、やはり心穏やかではいられないでしょう。

日本の私たちは、戦前からひと続きの同じ国歌や国旗を用い、それを国威発揚の手段として使っていることに対してもう少し恥を知るべきです。それに、そもそもラグビーは国籍主義を取っていないんじゃなかったですか? だったらここに国歌を持ち込んで敬意だの「おもてなし」だのと語ること自体に、あまり意味はないんじゃないかと思うのです。

実はサモア戦の直前にも夕飯の支度をしながらテレビをつけていたのですが、試合前にサモアの選手が行う「シヴァ・タウ」という「ウォークライ(闘い前に上げる鬨の声)」について、アナウンサー氏は「チームを鼓舞し、相手への敬意を込めます。かつてサモアを侵略しようとした国に対して、団結する姿勢と独立心を示すために始まったとも言われます」と解説していました(動画:1分48秒頃から)。たぶんアナウンサー氏は全く意識されていなかったと思いますが、これはシャレにならないですよ。だって上述したように、日本はまさにその「かつてサモアを侵略しようとした国」なんですから。

いつまで戦争責任云々と言っているんだ、いつまで謝罪し続ければいいんだ、という声もあるでしょう。私だって、戦後の日本がそれなりに謝罪あるいは補償や賠償を行い、戦後の平和な世界の構築に対して貢献をしてきた歴史を否定するものではありません。ただ私たちは、先人の起こしたこの負の歴史を、まだ完全に乗り越えてはいません。かつて加藤典洋氏が『敗戦後論』で指摘されたように、自国の戦没者をきちんと弔うことすらできておらず、さらには侵略したアジアを始めとする諸国との関係もねじれたままです。

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敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

「おもてなし」の精神やよし。ラグビーのワールドカップを通して他国への敬意と自国への誇りを胸に刻むのもよいでしょう。でもそうした、どこか高揚した気分のうちにも、私たちは冷静に侵略の歴史を受け止め、いまだに戦後をうまく処理できていないこの国に対する、諸外国からの冷ややかな視線を意識すべきではないかと思ったのです。

加藤典洋氏はまた『戦後入門』でこう書かれています。

相手からの敬意、尊敬は、自分が相手に、あるいは国際社会に対し、「悪」と見なされる行為をしたばあいには、それをしっかりと謝罪し、その謝罪の意思を受け止めてもらうことからしか、生まれません。

そして、憲法九条に一指たりとも触れぬという護憲とは一線を画し、ご自身の示した改憲案における「非核条項」に関連して、こう述べるのです。

それは日本の被爆体験をはじめて戦後の国際社会の秩序のなかに組み込む意味をもっています。そこで日本は、これらの積極的な国際社会への関与を背景に、米国に対して、戦後はじめてとなる原爆投下に対する抗議と、謝罪要求を行うのがよいというのが、私の考えです。このことは「謝罪」を要求し、要求されること、またこれに誠実に応じ、あるいはそれから逃れようとすることが、国際関係のなかでどういう意味をもつことであるかを、私たちに教えるでしょう。


この謝罪要求には、当然ながら、これまで他国からなされている日本への謝罪要求に誠実に応じるという行為が先立たなければなりません。すなわち、中国からの南京虐殺事件等をめぐる謝罪要求、韓国からの従軍慰安婦問題等をめぐる謝罪要求に、正当な謝罪を含む誠実な対応と、侵略の事実をしっかりと認めたうえでの二度と同じ過ちをくり返さないための施策の提示を行う必要があります。

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戦後入門 (ちくま新書)

私はここに、とても前向きで明るい未来を見出すものです。これからの日本がこの課題をきちんと克服できたあかつきには、スクラムニゾンもその意義をぐっと増すに違いありません。もっともその際に日本が採用している国歌がどのようなものであるべきかは……自明のことですよね。

能「邯鄲」の謡に見るカタストロフ性

先日は目黒の喜多能楽堂で、塩津圭介師がシテを勤めた能『邯鄲』を観てきました。中国の伝奇小説『枕中記』が元になっていると伝えられるこの「邯鄲の夢」のお話、何度観ても面白いです。当日配られたパンフレットの解説を村上湛氏が書いておられますが、そこには「ワキと間狂言による二度の扇の音によって夢と現実を区切る絶妙の工夫でこれを巧みに舞台化した〈邯鄲〉は見て面白く、思うに奥深い最高の名曲といえる」とありました。

本当に、この『邯鄲』は扇の音の他にも、畳一枚分ほどの台の上で「楽(がく)」の舞を舞うことで夢を見る脳内の極小世界を表現したところ(と勝手に思っています)とか、その「夢に亀裂を入れるかのよう(村上湛氏)」に足を踏み外す「空下り」の型など面白い場面が多いです。

さらに、主人公・盧生が夢から覚めたあとの呆然とした様子から、このあとの人生に対してどこか以前より確りとしたように感じられる出立(しゅったつ)の幕切れは、一種のカタルシスを感じさせます。能『邯鄲』は、折に触れて見返したくなる「人生の友」ともいうべき、汲めども尽きぬ魅力を持った作品なのです。

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ところで現在、秋の温習会に向けて仕舞や謡のお稽古を続けているところですが、私は連吟で『邯鄲』のシテ謡を仰せつかりました(と書いていても緊張してきます)。連吟で謡うのは、楽が終わったあとから夢が覚めるその瞬間までの部分ですが、この謡がまた非常に面白いです。夢が覚める瞬間に向かって謡の速度がどんどん速くなっていく作りになっているのですが……

かくて時過ぎ/頃去れば
五十年の栄華も尽きて/真(まこと)は夢の中なれば
女御更衣/百官卿相千戸万戸
従類眷属宮殿楼閣皆消え消えと失せ果てて
ありつる邯鄲の枕の上に/睡(ねむり)の夢は覚めにけり

この「従類眷属宮殿楼閣(じうるいけんぞく、くでんろうかく)」のあたりからギアが切り替わるように謡の速度が増していき、実際の能舞台では盧生の前に控えていた舞人やら大臣やらが次々に舞台右奥の「切戸口(きりとぐち)」へ吸い込まれるように消えていきます。通常の能で登場人物が舞台から去る場合はおおむね左側の「橋掛り(はしがかり)」を通って「揚幕(あげまく)」から消えていくのですが、この「邯鄲」では普通地謡や後見などいわば「裏方」的に能を支えている人々が出入りする切戸口から消えていく。この一種の「異様さ」がまた夢からの覚醒に独特のテイストをもたらしているように思えます。

そして、そうした異様な光景を目の前にしながら、ぐんぐん速度を増していく謡を聞いていると、それまで目の前にあった豪華で綺羅びやかな世界がガラガラガラガラ……と崩れていくようなカタストロフを感じるのです。まるでマンガ『AKIRA』に出てくる、崩壊していくビル群を描いた大迫力の見開きのような場面です。

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カタストロフは大災害でもあるのですが、マンガや映画やお芝居に出てくるそれは、一種のカタルシス、それもなにか物事のチャネルやステージが切り替わったような、まるで新しく生まれ変わっていくような爽快感をもたらしてくれます。それもまた能『邯鄲』の大きな魅力ではないかと思うのでした。

語学における「威張り系」や「昔取った杵柄系」について

昨日は都内のとある通訳学校で、一日限りの短期講座を担当してきました。私みたいに細々と通訳業務や通訳教育を続けているだけの人間が講師というのも申し訳ないのですが、幸いにも毎回満席で、こちらも身が引き締まる思いです。一日限りなので、ふだんこの学校に在籍されている方の他に、外部からも多くの生徒さんが参加されます。しかも今回は日本語だけを使った訓練だったので、中国語だけでなく英語など他の言語で通訳や翻訳を学んでいる生徒さんも多くいらっしゃいました。

その中におひとり、年配の男性が参加されていました。この方は最初から大幅に遅刻して来られた上に、よく大声で質問なさる。もちろん質問は大歓迎なのですが、その質問がやや的外れなのと、ご自身の語学力アピールに偏っているのが少々気になりました。例えば、今回はノートテイキング(通訳のメモ取り)についての講座だったのですが、「同時通訳ではメモ取らないよな*1」とおっしゃる一方で「今日は同時通訳に関する授業かと思った」と発言がやや矛盾しているのです。つまりノートテイキングは主に逐次通訳の技術であるとご自身も理解されているのに、同時通訳についての講座だと思っていた……とは?

それはさておき、この年配の男性は授業中、間欠泉的に「同時通訳を長年やってきた」とか「私は中国語が話せる」とか「スペイン語はネイティブ並み」のようなことをおっしゃる。ちょっと困った方だなあと思いましたが、実はこういう感じの方は語学学校や通訳学校には「よく」でもないけど「ときおり」いらっしゃいます。何というのかな、語学に、ご自分のアイデンティティを過剰に仮託されている方、とでもいいましょうか。平たくいえば、自分は語学が堪能であるということを常にアピールされている方です。

それで、質問にお答えする形で誤解や極端な思い込みの部分はやんわりと訂正して差し上げていたのですが、二人一組でサマライズ(要約)の訓練を行う段になってこの男性、大声で怒鳴りだしてしまいました。

サマライズでは、というか通訳訓練では、基本的に元の発言を可能な限り尊重して、元の発言にないことは足さないというのが原則なのですが、この男性はご自身の考えや思い込みを語ろうとされるのです。それで私がその点を指摘すると「いやそんなことはない」「それは通訳ではありません」……というようなやり取りを経て「黙って俺の言うことを聞け!」のように激昂されたのです。あ、私が激昂したんじゃないですよ。コワモテなのでよく誤解されるんですけど。

私は授業を中断して、教務(事務方)のスタッフを呼び、この男性に退去していただきました。生徒さんはお客様でもあるけれど、他の生徒さんの訓練を邪魔する権利はありませんから。授業後に教務のスタッフから聞いた話では、くだんの男性は控室で打って変わってしょんぼりしていて「よく他の場所でもこうやって怒鳴って、そのたびに『出入り禁止』になっている」とおっしゃっていたそうです。う〜ん、ちょっと悲哀を感じてしまいました。

数年前に亡くなった義父と同居していた頃、介護の現場などでも感じたことですが、こうした中高年(とりわけ男性)の、周囲との不適合というか、「威張る」ことでしか自己を保持できないタイプの方は存外多いように思います。また過去の成功体験から抜け出せず、新たな学びを素直に自分のものとすることができない「昔取った杵柄系」の方も。いやこれ、自分が常に自戒としていることでもあるんですけど。

語学は、そういった「威張り系」や「昔取った杵柄系」を生み出しやすい領域のような気がします。ほぼモノリンガルで社会を回すことができ、だからこそ語学に対して人一倍憧れやコンプレックス、さらには逆に優越感や全能感を抱きやすい日本では特に。だから語学学校のような場所では、そういうタイプの方に「ときおり」遭遇することになるんじゃないかなと。

でも、当たり前のことですが、語学ができるからといってもそれ自体では何ということもありません。大切なのはその語学を使って何をするかなのですから。そしてまた、語学に堪能な方ほど、そして語学の面白さも奥深さもある意味での怖さも弁えてらっしゃる方ほど「○○語ができる」と言ったり、「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」などという形容を使ったりはしないものです。

このブログでも何度も引用してきましたが、今回も自戒を込めて書き留めておきたいと思います。戦後間もない昭和二十三年二月に書かれた、中野好夫氏の『英語を学ぶ人々のために』の一節です。

語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。(中略)よしんば私がイギリス人やアメリカ人なみにできたところで、それは私という人間にとってなんでもない。日本のためにも、世界のためにもなんでもない。要は私がその語学の力をどう使うかで決まってくる。
(中略)
外国語の学習は、なにも日本人全体を上手な通訳者にするためにあるのではない。それではなんだ。それは諸君の物を見る眼を弘め、物の考え方を日本という小さな部屋だけに閉じ込めないで、世界の立場からするようになる助けになるから重要なのだ。諸君が、上手な通訳になるのもよい。本国人と区別のつかないほどの英語の書き手になるのもよい。万巻の知識をためこむもよい。それぞれ実際上の利益はむろんである。しかし結局の目標は、世界的な物の見方、つまり世界人をつくることにあるのである。
(中略)
英語を話すのに上手なほどよい。書くのも上手なら上手ほどよい。読むのも確かなら確かなほどよい。だが、忘れてはならないのは、それらのもう一つ背後にあって、そうした才能を生かす一つの精神だ。だからどうかこれからの諸君は、英語を勉強して、流石に英語をやった人の考えは違う、視野が広くて、人間に芯があって、どこか頼もしいと、そのあるところ、あるところで、小さいながらも、日本の進む、世界の進む正しい道で、それぞれ生きた人になっているような人になってもらいたい。
(中略)
語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい。


※原文は旧漢字。


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中野好夫氏。写真は光文社古典新訳文庫さんから。
http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/02/006472.html

我々にとって、特に日本の我々にとって、語学には「胆を抜いてしまうよう」な「妙な魔力」がある……今回もこの言葉をしみじみと噛み締めたのでした。あの激昂オジサンも、語学ではない別のところで自分の「胆」を回復できる何かを持てるといいですね。

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*1:ちなみに、同時通訳でもメモをとることはあります。前後の文脈に左右されない独立した情報である数字や単位や固有名詞などは、パートナーの通訳者がメモしてサポートすることがよく行われています。

チェリートマトとドライトマト

先日スーパーで、こんなトマトソースを見つけました。チェリートマトミニトマト)で作られたトマトソースです。
ec-regalo.com
最近は小粒で糖度の高いトマトが流行っているのか、逆に大きくて薄味(?)というか青臭さの残る昔ながらのトマトが影を潜めている感じですが、トマトソースならやはり濃厚な方がおいしいので、こういう商品が出てくるのは分かる気がします。

そう思って他のスーパーでも商品棚を物色していたら、こんなのがありました。こちらはチェリートマトドライトマトを加えてさらに濃厚感アップといった感じです。

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パスタソース・トマト&ドライトマト
http://www.alcenero.jp/product/index.php?catid=85&itemid=C3-26&brandid=40

これもなかなかおいしいそう。というわけで、さっそく蒸し暑い日に冷製パスタを作ってみましたが、パスタをいったん氷で締めてあっても濃厚なトマトソースのおかげで水っぽくならず、とてもうまくできました。あ、蟹の脚に見えるのは「カニカマ」です。

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このソースは後日ピザにも使ってみましたが、普通のトマトソースより濃厚で濃度もあるので、ピザソースとしても最適でした。

チェリートマトドライトマトといえば、成城石井の「セミドライチェリートマトのマリネ」がいつも重宝しています。サラダに入れてもいいし、セミドライトマトだから炒めたり煮込んだりする料理でも存在感が失われないし、あと味噌汁に入れてもおいしいです。

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ありのままの姿見せるのよ

先日、東京メトロ千代田線の電車に乗っていたら、こんな車内広告を見かけました。体脂肪を減らせると謳ったサプリメントの広告です。

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体重計は、つま先からそっと乗る。
理由をつけては、検針日を先送り。
今年こそは! と毎年誓ってばかりの私。
健康診断前は、草食男子!
前年比で一喜一憂。元が良くないのに……。
身長計の上でだけ、猫背がのびるワタシ。
腹囲測定で、こっそりお腹をへこませる……。

思わず笑っちゃいましたが、ちょっと「サラ川(サラリーマン川柳)」的な匂いもします。サラ川って、まるで世の中には恐妻家の中間管理職とIT関係に疎いオジサンしかいないようなステロタイプぶりが「ホントかよ?」と鼻白んじゃうんですけど、それと同じようなテイスト。

そして同時に不可解な思いにも囚われました。そんなギャグみたいな「健康診断対策」をしている方がホントにいるのかしら。だって、健康診断は身体の現状をありのままに明らかにすることが目的なんだから、事前に「対策」して一時的に数値をどうにかしようと思うこと自体、意味がないんじゃない? それこそ「♪ありのままの~、姿見せるのよ〜」で臨まなきゃ。

でもネットを検索してみたら、「健康診断直前に数値をガツンと下げる方法」だの「健康診断で引っかからないための直前対策」だのといった記事がたくさん見つかります。うちの職場でも最近健康診断が行われたのですが、「今週はお酒を控える」とか「ダイエットに力を入れる」みたいなことを言っている同僚もいました。やっぱり、そうやって健康診断を乗り切ろうとするマインドは広く存在するんですかね。

語学の検定試験でも、試験直前に「傾向と対策」に力を入れ、集中的に過去問を解いたり単語を覚えたりする生徒さんが多いように思います。でもこれも私に言わせれば「意味なくない」? まあ取得できた級やスコアなどが入学試験や入社試験、あるいは昇進の条件になっているといったような事情があるのかもしれませんけど、かりそめの認定を受けたって、結局は自分のためになってないじゃないですか。語学検定も健康診断と同じく実力で、「ありのままの自分」で受けなきゃ。

まあでも、高血圧気味の私は、健康診断の血圧検査で意図的に何度も深呼吸してます。検査員の方に勧められてのことではありますが、これだって「その場しのぎ」のそしりは免れないかもしれません。

ところで、先日「脱いだらすごいんです」というふざけたタイトルの記事をブログに投稿したら、そのせいかどうかは不明ですがGoogle AdSenseがやたらに女性用ランジェリーだのエロ系コンテンツだのを表示するようになりました。今日もこうやって「ありのままの姿」とか投稿しちゃったら、ますますそういう広告が増えるかもしれません。

再び「世界ふれあい街歩き」の過剰について

6年ほど前にも書いたことがあるのですが、大好きな番組だけにもう一度申し上げたいと思います。NHKで放映されている『世界ふれあい街歩き』の「過剰」についてです。

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世界ふれあい街歩き - NHK

ご承知の通りこの番組は、世界中の様々な街の、観光名所だけではない側面、例えば人々の暮らしや、働いている人達の姿や、若者や子どもたちの声などを伝えてくれて、とっても旅情をそそられる構成になっています。基本的に「ステディカム」という歩き撮り用のテレビカメラを使って、実際にその街を歩いているような視線で画面が構成されており、そこにナレーションが入ったり、ナレーターと地元の人々との会話が入ったりします。

毎回変わるナレーターの声は日本語ですが、地元の人々の声は字幕で入ります(途中に差し挟まれる「食べ歩き」などのミニコーナーは吹き替え)。つまりそのナレーター氏がひとりでその街を歩いている、というバーチャルな作りになっていて(実際には現地に行っておらず、映像を見ながら話しているそうです)、そこに視聴者も自分を投影してあたかもその街を歩いているような気分になることができる、という面白い構成の番組なのです。

ただ私は、そのナレーションが少々「過剰」ではないかと以前から思っています。担当しているのは有名どころの俳優さんが多いのですが、まるで沈黙を嫌うかのように間断なくしゃべるのです。もう少し芝居っ気を抑制して、沈黙の時間(というより、街の雑踏音など環境の音が聞こえている状態)を多くして、見るものに想像の余地と余韻を与えてほしいなと。

画面に出てくるものすべてを「あら、可愛いワンちゃん」などと主観で説明する必要はないんじゃないかと思います。画面に見えているということは、視聴者にもそれが見えています。その視聴者が「あれ、あんなところにあんなものがある」と気づき「あれはなんだろう?」と考えをめぐらす……そうした旅の味わい方を、過剰なナレーションが許してくれないのです。視覚障害者のためにできるだけナレーションで説明しているという側面もあるのかもしれません。でもそれだったら副音声などでも対応できるはずです。

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先日のロンドンは「ブリクストン」の回も、若い俳優さんの声がやたらに耳につきました。一生懸命なのはわかるし、多分ディレクターさんなどの意向もあるでしょうけど、アニメの声優さんみたいな演技過多のナレーションがひっきりなしにかぶって、こちらの旅情を単色で染め上げてしまうのです。なんのために「ステディカム」を持って、視聴者をバーチャルな旅行体験に誘おうとしているのか……番組のコンセプトが台無しではありませんか。

www.nhk-ondemand.jp

日本のテレビそのものが、沈黙を極端に恐れるメディアであることは重々承知していながらも、高いお金を払っているNHKだからこそ、そして公共放送(……とは、特に最近のNHKの報道など、とてもそうは思えませんが)だからこそ、言葉で全部を埋めない度量と勇気を持ってほしいなあ。というわけで、NHKにもメールで投書しているんですけど、まあ当然のことながら「梨のつぶて」です。私みたいなのは奇矯な意見なのかな。

余談ですが、この回に出てきた「みんなの冷蔵庫」「無料トレーニングジム」「スープキッチン(炊き出し)」などはとてもいいアイデアだと思います。日本でもやればいいのに。例えばコンビニで廃棄される弁当などを有効活用するとか。やたら規制が多くて融通が利かない日本社会では難しいかしら。

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電子マネー合戦の勝敗はもう決しているんじゃないか

ふだんからあまりコンビニエンスストアは利用しないのですが、先日都内某所のセブンイレブンに立ち寄ったら、こんな「のぼり」に気がつきました。セブンイレブンで、スマホ決済サービスの「LINE Pay」と「PayPay」が使えますよ、というお知らせです。

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へええ、と大変興味深く思いました。なぜなら、今年のはじめくらいでしょうか、セブンイレブンで支払いをする際に「PayPayで」と言ったら「Suicananacoしか使えません!」と少々苛ついた調子で断られて、びっくりしていたからです。セブン&アイ・ホールディングスが展開する電子マネーnanaco」のシェアを拡大するために、他社のサービスを排除するという戦略だったのでしょうか。なのに「Suica」だけは業界随一の存在感を誇っているから認めてやってもいい、というか認めざるを得ないみたいなスタンスに、ちょっと悲哀のようなものを感じていたのです。

それがここに来て「LINE Pay」や「PayPay」も認めざるを得なくなった。ネットで新聞を検索してみると、今年の7月1日から利用が可能になったようです。その一方で同日にサービスを開始した「7pay(セブンペイ)」は初手から不正利用などのトラブルが発生したのは記憶に新しいところ。そして、わずか2か月後の9月末(つまり一昨日)にはサービス廃止に追い込まれています。

コンビニ業界最大手のセブンイレブンにしてこの現状。日本におけるキャッシュレス化は、ちょうど始まった消費増税に伴う「ポイント還元」も相まってその先行きは混沌としていますが、個人的にはもう先は見えた、というか勝負は決まったと思っています。すでに多くの識者が指摘されていますが、遠からぬ将来、電子マネースマホ決済サービスは「Suicaの一人勝ち」に収斂していくのではないでしょうか。だって、圧倒的に便利なんだもの。カードを取り出して「ピッ」、あるいはスマホをかざして「ピッ」だけで決済が済むという簡便さ、そして使える場所の多さは、他の決済サービスと比べてみればその差は歴然としています。

私は「LINE Pay」も「PayPay」もひととおり使ってみましたが、アプリを立ち上げてバーコードやQRコードを表示させるのがことのほか面倒です。ほんの数秒の動作なのですが、毎日の買い物でこれが積み重なるとこれがけっこう面倒で。中国などで普及しているQRコード決済を眩しく仰ぎ見るような報道もありますが、Suicaの簡便さの前には色褪せて見えます。クレジットカードだってサインしたり暗証番号を入れたり面倒なことこの上ありません。

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……と思っていたら、『文藝春秋』の10月号で成毛眞氏が「『Suica』が最強のキャッシュレス決済だ」という文章を書かれていました。成毛氏は現在の「なんちゃらペイ」が乱立してシェア争いに拍車がかかっている現況を「事業者側が疲弊するだけで、長続きするはずがありません」と一刀両断、「Suica」の圧倒的な優位性を説明されています。

さらに「これほどの優位性を持つ決済手段があるにもかかわらず、JR東日本は積極的にSuicaのシェア拡大に取り組んでいるようには見えません」と書き、他のJR各社が発行する電子マネーを合わせれば実に日本人の4人に3人が使っているのに「このチャンスを目の前にして、指をくわえて見ているなんて、マヌケとしか言いようがありません」とまでおっしゃっています。

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文藝春秋2019年10月号

確かに、規模でも使い勝手でも圧倒的に優勢な「Suica」が一挙に攻勢に出ないのも不思議ですし、いまだに「モバイルPasmo」が実現しないのも不思議です。寡占・独占を防ぐために規制がかかっているのか、それとも成毛氏がおっしゃるように「その次(カードやスマホすら使わない生体認証による決済など)」を見据えた準備をしているのか……。

社会のキャッシュレス化というほとんど「インフラ整備」に近いものは利用者の利便性からも標準化・統一化が必要だと私は思います。政府も、本気でキャッシュレス化を進めたいなら、すでに失敗の色濃いマイナンバーカードの普及を目指して「マイナンバーカード取得者にキャッシュレス決済でポイント上乗せ」なんて政策を推進するより、もっとやることがあるんじゃないかと思っています。