インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

フィンランド語 32 …第四不定詞(動名詞)

教科書は新しい課に入って、第四不定詞が登場しました。これは動名詞のことだそうです。動名詞といえば動詞に「~(する)こと」をつけるイメージですが、まずはこの文章。

On hauska opiskella.
勉強することは、楽しい。

三人称単数の olla 動詞である「on」を使って述べられるのは「一般的な概念として」という意味になるので、これでも「(一般的に)勉強すること」という動名詞的な言い方ができます。そして、動詞の三人称複数形(つまり~vAt の形)の「vAt」の代わりに「~minen」をつけると動名詞になります。例えばこの文章。

Opiskeleminen on hauskaa.
勉強することは、楽しい。

「opiskella」が「opiskeleminen」になって、これが第四不定詞(動名詞)というわけですね。また「hauska(楽しい)」が分格になっています。そして動名詞も文章によっては格変化をします。例えばこれ。

Minä pidän opiskelemisesta.
私は勉強することが好きです。

そうそう、「pitää(好き・好む)」という動詞は出格の目的語を要求するのでした。
フィンランド語 23 …出格stAの諸相 - インタプリタかなくぎ流
……というわけで、「opiskelemisesta」になっています。動名詞は「~nen」で終わっていますから、「nen → se」となって出格を表す「stA」をつけると。これはそんなに難しくないです。

一方でこの、動詞によって目的語に要求する格が違っているというのは、けっこう難しいです。一つ一つ覚えていくしかないのでしょうね。例えば「käydä(訪れる・行ってくる)」は訪れる場所の目的語に「~で/に」を表す内格(~ssA)や接格(~llA)を要求します。ちょっと考えると「~へ行ってくる」だから向格(~lle)や入格のような感じがするのですが。

Me käymme Suomessa ja Venäjällä.
私たちはフィンランドをロシアを訪れます。

しかも同じ国名でも「Suomiフィンランド)」は内格の「Suomessa」になる一方で、「Venäjä(ロシア)」は接格の「Venäjällä」なんですね。ややこしい。ちなみに「ロシア人」は「venäläinen」で「jä」が落ちちゃいます。こういう不規則のなのはロシア人だけだそう。邪推ですけど、昔から常にロシアの圧倒的なプレゼンスを感じてきたフィンランドならではなのかしらん。

いくつか教科書の練習問題をやってみました。

Lentäminen on vaarallista.
飛ぶこと(フライト)は危険です(恐いです)。
Minä pelkään lentämistä.
私は飛ぶのが恐いです。
Autolla ajaminen on vaarallista.
自動車を運転することは危険です。
Minä pelkään autolla ajamista.
私は自動車を運転するのが恐いです。

「ajaa autolla(自動車を運転する)」ですが、動名詞になると「autolla ajamista」と語順が入れ替わるのですね。よくわからないけど、まあ日本語の「自動車を、運転することは……」と同じ語順ですし、そういうものだと思って覚えてしまいましょう。

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Raitiovaunulla ratsastaminen on hauskaa.

「イデオロギッシュさん」の復調

私、台湾の離島を旅するのが好きでして、これまでにいろいろなところに行ってきました。台湾人の友人や留学生からは「どうしてまた?」と聞かれるんですけど、ひなびた漁村の風情や360度誰もいない景色などがなんとも素敵なんですよね。バイクを借りてゆっくり島内を巡っているだけで幸せです。旅人の勝手なノスタルジーではありますけど。

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まだ行っていないのは、澎湖諸島の花嶼や馬祖諸島の東引・莒光など「離島のそのまた離島」と亀山島、あと大きな所では厦門(アモイ)のすぐ沖にある金門島などです。いつか行ってみたいなと思っていますが、金門島は台湾のある友人によると「行ってもつまらないよ」とのこと。

「どうして?」と聞くと彼は言葉を濁すのですが、どうやら中国本土に近くてかなり「中国化」しており「台湾らしさ」が薄れているということみたい。まあこれは彼自身のやや政治信条的なバイアスがかかった見方ですかね。私は日本人ですからこの辺の「微妙」なところには深入りしないことにしまして、いつか金門島にもぜひ行ってみたいと思っています。

でも確かに金門島は、その中国大陸との距離的な近さから、年々中国との結びつきを強めています。昔は台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が向かい合う最前線で極度の緊張状態にあった島ですが(今でもそれなりの緊張感はあるそうですが)、「三通」がかなり進んだ現在は隔世の感があります。ついこないだも、島民の悲願だった大陸からの水道水供給が始まったというニュースが流れていました。

www.asahi.com

しかも先日「次は金門島に行ってみたいな~」とネットで旅行情報を検索していたら、なんと日本人でもパスポートの提示で「金門島厦門」のフェリーに乗れるのだとか。へええ、そんな時代になったんですね。ぜひ一度沖縄から島伝いに与那国島へ行って、そこから船で台湾に入り、さらには金門島から厦門へ……みたいな「のんびり旅行」をしてみたいです。現在のところ、与那国島から台湾(基隆あたりの港につくのかしら)への定期航路はないようですが。

両岸三地」をめぐって

ところで、私はいま、こうしていわば「第三者」的な立場でのんびりしたことを書いていますが、かつて私が中国語を学び始めた頃――当時はまだ香港や澳門マカオ)の「返還」前でした――は、このあたりはもう少しセンシティブな話題でした。中国・台湾・香港と澳門を総称して「両岸三地」などと言い、それぞれの「地」から来られた異なる出自の華人に接する場合、それなりの配慮というか自制というか、そういうものが(それほど明瞭な形ではなかったものの)求められるような雰囲気があったように思います。

中国と台湾が互いに「蒋匪」「共匪」と罵り合っていた頃からはすでにずいぶん時代が下ってはいましたが、それでも中国語学校では暗に台湾を非難するような空気を「ノンポリ」な私でさえ感じていたものです。日本における中国語教育は圧倒的に「北京一辺倒」なので、中国人講師の中には台湾で使われている繁体字(正体字)を「正式な文字じゃない」とのたまう方もいましたし、日本人講師にも「私はいまだに台湾に行けません」とやや意味不明なことをおっしゃる方もいたのです。

また留学生や在日華人のなかにもときどき「イデオロギッシュ」な方がいらして、「一個中国」や「一辺一國」に絡んで感情的に高ぶっちゃうことがあり、ヒヤヒヤしたことは一度や二度ではありません。まあ私は日本人で、いわば第三者的な立場ですから別にヒヤヒヤする必要はないのですが、ただ中国と台湾が今のような状況にあるその責任の一半は日本にもあるので、ひとりの日本人としては「我関せず」に徹するのも卑怯な気がしますし、いろいろ悩ましいところではあります。

「敏感」な留学生

とはいえ、この件に関しては基本的に当事者が決めていくことであり、私自身内心ではいろいろ思うことがあっても口を挟むことは慎むべきだと考えています。また、上記の「三通」にも表れているように、現在の中国語圏は政治的な思惑はさておき経済的には緊密に結びついており、仕事の現場でお目にかかる華人にも様々な出自の方がいらっしゃるので、例えば通訳学校などでの教材も、実利面を考えて、できるかぎり様々な地域の出身者が語る「実況録音」を使って授業をするようにしています。

配付する資料も簡体字繁体字さまざまですし、中華人民共和国の話題、中華民国の話題、香港や澳門の話題、それも硬軟取り混ぜて……ということで、時に政治的な背景のある発言についても取り上げることがあります。もちろんその際には「これは教材であり、政治的な意図や意向は全く含まれていないこと」について念を押し、さらには通訳者はどんな発言でも訳す義務がある――例えそれが仮に自身の思想信条に反していても――という点についても丁寧に説明しています。

……ところが。

それでも生徒さんの中にはこうした「敏感(中国語でも、取り扱いに慎重を要する、とか、デリケートな、といった意味があります)」なところに「敏感」に反応してとつぜん間欠泉が吹き上がっちゃう方が時々いるんですよね。

例えば先日は、学校説明会に見えた留学生に、私がうっかり「ご出身はどちらですか? 中国ですか、それとも台湾?」と訪ねたら、それには答えず「台湾は中国の一部です!」と返してきた方がいました。ほかにも教材で台湾の政治家のインタビューを取り上げたら「私は、こういうのはちょっと……」と訳出を拒む中国人留学生や、逆に中国人留学生が中国の茶文化を紹介する際に「珍珠奶茶(タピオカミルクティー)」に触れたら「それは台湾の文化です!」と発言する台湾人留学生など、みなさんけっこう「イデオロギッシュ」なんです。

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https://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_2687.html
私はまあ背景をそれなりに理解しているので「まあまあ」とその場を収めることもできますが、そこまで慣れてらっしゃらない日本人の先生方にはその攻勢にたじろいでしまう方もいます。せっかく日本という「第三国」に留学しているのですから、ぜひその得がたいシチュエーションを利用して、現代に即した多様なものの見方考え方を身につけていただきたいと願っているのですが……。

しかしこれは私個人の感覚ですが、こうした「イデオロギッシュさん」は二十年くらい前のほうがはるかに多く、その後は世界情勢の変化もあってずっと減少傾向だったのです。それがここに来てなんとなく復調の兆しを見せているような気がするんですよね。現代っ子が短絡的な思考に陥りやすいのか、若者特有の「政治的な先鋭化」なのか*1、親の世代の政治的志向の反映なのか、「両岸」の現状が後押ししているのか、はたまた単に個人的に未成熟だからなのか……即断は避けたいと思いますが、ちょっと心穏やかならぬものがあります。

*1:私もかつては「人前ですぐ赤く(紅く)なる」と言われてました。

イベント参加者の不思議な行動

勤めているいくつかの学校では、受験希望者のための説明会や体験レッスンや公開セミナーのようなイベントによくかり出されます。生まれついての大声と「香具師みたい」と評される話し方がみなさまの印象に残る私の特徴のようで、どこの学校でも「こいつに客寄せパンダをやらせとけ」てな具合で依頼されるのです。
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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_29.html

……というのはまあ冗談ですが、某通訳学校ではかれこれもう十年近く、そういったイベントの「パンダさん」をつとめています。生徒募集のためのイベントなので、もちろん参加費は無料。私が担当しているのは主に中国語通訳のクラスなので、お客さん(生徒さん)は日本語母語話者と中国語母語話者が半々くらいです(最近は後者の比率が高まってきました)。

こうしたイベント、どちらの学校にも共通したある現象が見られます。それは……

①参加を申し込まれた方のうち、約2割~3割の方が、当日お見えにならないか、大幅に遅刻して来られる。
②イベント情報がネットで公開されているので、当日必ず「飛び込み参加」の方がいらっしゃる。

……という点です。

もちろんそういう方が皆無の時もありますし、また統計を取っているわけではないので日本語母語話者と中国語母語話者のどちらにそういう傾向が強いのかなどは分かりませんが、とにかく遅刻や欠席、あるいは「飛び込み」がけっこう多いなあという印象です。受付で対応される学校のスタッフさんも大変ですね。

聞いたところによると、学校によっては最初からそういう方の人数を折り込み済みで募集人員をオーバーしても受け付ける、なんてこともあるそうです。まあこうしたイベントは基本無料ですから、参加される方もそれだけ「お気軽」な気持ちになっちゃうのでしょう。

……しかしですね。

口幅ったいことを申し上げるようですが、何かを学ぼうと志して学校や講座を検討する、その初手からして遅刻や無断欠席や「アポなし」をやらかすようでは、たぶんその学びの芽は出ないと思うんです。ましてや余暇や趣味のためではなくお仕事をその手につかもうと志す学習の、その入り口がそんな体たらくでは。

世上よく、そこまで「時間厳守」をやかましく言うのは日本人だけだ、諸外国ではもっと「大陸的」で「ラテン系」で「ちっちゃい事は気にするな!」だ……ってな言説がありますけど、ホントにそうですかね。

まあもちろん、ダイヤが数分遅れただけで「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」的なアナウンスが入る電車みたいなのは私だって「過剰」だと感じますけど、会議とか、何かのプロジェクトとか、大事なイベントとか、時間厳守で進められるシチュエーションは、海外でだってあると思いますし、私個人の経験でもきちんとした企業はどこでもそれなりに時間には厳しかったです。

某放送局で現地通訳者をしたときには、日本へ衛星通信で送る映像の送出時間などがきちんと決まっていて、その時間に従って衛星回線の予約を取るなど、きっちり時間厳守で現場は動いていました。また例えば会社の面接とか、資格試験とか、私も海外で受けたことがありますが、いずれも時間厳守でした。まあ当たり前なんですけど。

特に自分の将来の選択に関わる大事な局面では、人は誰しも「きちんとしよう」と思うじゃないですか。自己を厳しく律するという高邁な理由からというよりは、相手にマイナスの評価をさせまいという功利的な打算の結果としてです。

私が無料のイベントを担当している学校はいずれも入学試験があります。私が生徒だったら、少しでも学校側によい印象を持ってもらおうという「下心」が働いて、試験当日はもちろんですが、その前の説明会段階から絶対に遅刻や欠席をしない、万一そうなりそうだったら最低限連絡を入れると思いますけど。

実際、かつて通った某通訳学校で公開講座に参加を申し込んだ際、まあそのとき私は海外にいて事務局の方々に手続き上いろいろとお手数をおかけしたこともあって、当日の時間厳守はもちろんのこと、お礼の意味も込めて菓子折まで持ってったんですよね。事務局の方はちょっと迷惑そうな顔をされていました(そりゃまあそうだ)が、入学したら事務局の方にも「覚えがめでた」い方が将来の仕事につながる可能性は少しでも高まるだろう……的な小ずるい打算を働かせたわけです。

我ながらえらくまた「セコい」行動だなと、今となっては恥ずかしさが先に立ちますが。でも、これから通うことになるかもしれない、将来のお仕事につながるかもしれない学校の内部の人間に、最初から「この人はちょっと信用できないかな」という予断や評価を与えてしまうような行動をなぜ、しかもけっこうな割合の方が採るのか、それがよくわからないのです。

英語はどうだか分かりませんが、中国語業界は広いようで狭いです。意外なところで意外な方とつながっている。信用履歴の蓄積が大切というのは、なにもフィンテックの中だけのお話ではありませんよね。

中国語の感嘆詞や語気助詞に萌える

中国語には「感嘆詞(かんたんし)」(これは諸外語にありますが)や「語気助詞(ごきじょし)」というのがありまして、これは主に文頭や文末に短くついていろいろな意味やニュアンスを表す言葉です。日本語の「あらっ?」とか「おおっ!」とか、「~してください」とか「~なんだよ」みたいなもので、代表的なところでは日本でも比較的よく知られている感嘆詞の「哎呀(aiya)」とか、質問する語気を表す「嗎(ma)」や、断定などを表す「的(de)」、感嘆などを表す「啊(a)」などがあります。

ほかにも、感嘆詞だとナイーブな日本人が聞くだけでひるんじゃう「啊!?(あ゙ぁん!?)」とか、不満や驚きなどを表す「咳(hai)」とか、語気助詞だとこれひとつつけるだけで進行形になっちゃう「呢(ne)」とか、その用法について偉い先生方が何十年も論争してきていまだに確たる決着を見ていない中国語最大の謎である「了(le)」などなど、興味深い言葉がた~くさんあるのですが、それらの解説は専門家でもない私にはとてもできません。

qianchong.hatenablog.com

そうした解説はご専門の先生方にお任せするとして(ネットを検索してみるといろいろな解説があります)、中国語の学習者としての私はそうした感嘆詞や語気助詞を適切に使いたいな、と思います。が、なかなか難しいんですよね。例えば日本語の「よ」とほとんど同じ音の「唷(yo)」という語気助詞がありますが、つい日本語と同じ感覚で多用していると「なんか違うな」という反応が中国語母語話者から帰ってくることがあります。

まあそれはそうですよね。私だって、例えば外国の方がことさらに感嘆詞や語気助詞的な言葉を使いまくっていれば、一面では「すごい」と思いつつも、もう一面ではなんとなく違和感を覚えることがありますから。

それはさておき、私が中国語の中で一番「萌える」感嘆詞は「喏(nuo)」です。相手に軽く注意を促す言葉……と辞書には書かれていますが、例えば友達と一緒に飲もうと思ってペットボトルのお茶を2本買って来たとしますよね、そのうちの1本を手渡すときなんかに「はい」とか「ほらこれ」といったようなニュアンスで軽く短く「ぬぉ」と言うことがあるのです、チャイニーズは。

教科書通りの「給你」とかじゃなくて「ぬぉ」。例えばこちらの「微電影(超短編映画)」に出てくる、こちらのシーン。

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youtu.be

アイスを渡す場面で「ぬぉ」。これがなんとも「ネイティブスピーカーらしいなあ」と感じるのです。あと、語気助詞では前述の「唷(yo)」に「萌え」ます。例えばこちらのTAITRA(台湾の「對外貿易發展協會」、通称「台湾貿易センター」。日本のJETROみたいな組織です)の記者会見で、プレゼンターとして登場したPepperくんが話しているこちらのシーン。

youtu.be

最後に「僕はTAITRA初のロボット職員なんだぉ」と言っています。かわいいです。

『82年生まれ、キム・ジヨン』が問いかけるもの

東京医科大学の入試不正、とりわけ女性や浪人生への差別的な扱いがほかの大学でも行われていたのではないかという疑惑が広がっていますが、昨日は順天堂大学が謝罪会見を行っていました。

www.nikkei.com

「入学時点では女子の方がコミュニケーション能力が高い。男女間の差異を補正するものと考えていた」との説明は、それが説明になっていると大学当局者が考えているらしいという一点だけでも十分に仰天ものです。そして、これが東京医大順天堂大だけに留まらず、日本全国の多くの教育現場で常態化していたのだろうと思うと、言い知れぬショックと怒りと情けなさを覚えます。

そんなニュースに接した日に、たまたま松田青子氏が帯の推薦文を書かれていたこの本を手にしました。チョ・ナムジュ氏の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』の日本語版。翻訳者は斎藤真理子氏です。

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82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

松田青子氏の小説『英子の森』では、この国の語学業界や社会における女性の遇され方についての切り口があまりに鮮烈かつ的を射ていて、深い読後感が残り、いまだに反芻しています。こうした読後感の小説は初めてでした。

qianchong.hatenablog.com

そんな松田氏が「女性たちの絶望が詰まったこの本は、未来に向かうための希望の書」という推薦文を寄せられていたこの本。仕事帰りに語学学校へ行き、さらにジムに寄って深夜に帰宅し、就寝前にちょこっとだけ……と読み始めたのですが、いやもう止まらない。そのまま一気に読み終えてしまいました。これもまた独特の読後感をもたらす小説です。

2015年秋に、とある家族に起こった「事件」から始まり、そこからいったん30年あまり時を遡ったのち、時系列で記述されるひとりの女性の半生。それを彼女の担当医がカルテのような形でまとめた……という体裁になっているのですが、これ以上は「ネタバレ」になってしまいますので、ご興味のある方はぜひ先に本作をお読みいただきたいと思います。





この小説は虚構とルポルタージュが組み合わさったような作りで、1980年代から現代に至るまでの韓国の政治や世相が織り込まれており、そこに社会における女性差別の様々な側面が――家庭でも、学校でも、職場でも――絡めて描かれ、ちょっと変な表現になりますけど、その理不尽さに息つく暇もありません。

そして、どうしてここまで……と思えるような数々のエピソードは、同時にこれが過去の韓国だけの問題ではなく、現在にも、そして日本の私たちにもつながっている問題なのだということがわかります。世界経済フォーラム(WEF)の「世界ジェンダー・ギャップ報告書」におけるジェンダー・ギャップ指数の対象144カ国のうちでも、日本は114位、韓国は118位という現状なのです。

主人公キム・ジヨン氏(この名前は1982年当時に出生した女児に一番多かった名前だそう)の出生から家族関係、初等教育、高等教育、就職、結婚、出産……のすべての場面で描写される理不尽な差別について、その一つ一つに男性の私には終始足元が揺らぐような読書感が続きます。特筆したいエピソードは多々あるのですが、例えばストーリーとしては「傍流」といえる部分の、この大学の企業に対する就職推薦基準をめぐる女性差別についての「先輩」のエピソード。

先輩は指導教授に、推薦基準を教えてほしい、納得できる理由がない場合は公に問題にすると強く抗議し、何人かの教授を経由して学科長とも相談したという。その過程で教授たちは、企業が男子学生を欲しそうな様子だったからとか、それは軍隊に行ってきたことへの補償なんだとか、男子学生はこれから一つの家庭の家長になるんだからとか、先輩としては理解に苦しむ説明を持ち出したが、中でもいちばん絶望的だったのは学科長の答えだった。
「女があんまり賢いと会社でも持て余すんだよ。今だってそうですよ。あなたがどれだけ、私たちを困らせてるか」

この理路は、冒頭でご紹介した謝罪会見における大学当局の弁明と驚くほど似ているではありませんか。「傍流」の話にしてこの情けなさ。しかもここには兵役を盾に取った「現代的差別」としてのミソジニー(女性蔑視)さえも顔を出しています。

黒人差別において人種の能力や性質の優劣を持ち出す「古典的差別」とは別に「すでに差別はないのに被害者特権を得ている」と主張する「現代的差別」の存在が指摘されており、これは例えば日本における「在特会」などに代表される差別意識と同根だと思いますが、男性のみへの兵役が存在する韓国でも、同様の理屈が持ち出されているわけです。

私のような男性読者がこの小説を読んでいるときのわずかな救いは、例えばキム・ジヨン氏がストーカー的な被害に遭ったときに助けてくれた「勤め帰りらしい女の人」の「でもね、世の中にはいい男の人の方が多いのよ」といった言葉だったり、また終章で登場する精神科の担当医のとても内省的な述懐だったりします。ところがこれも、最後の最後で痛烈などんでん返しが……。

おっと、これ以上書くのはやめておきましょう。ともあれ、この作品は虚構の小説としての作品世界と、厳しい現実に取材したある種のジャーナリズムが極めて秀逸な形で結合した作品だと思います。日本語訳をはじめ、各言語版が次々に翻訳出版され、いずれもベストセラーとなり、さらには映像化も進められているというのもうなずけます。

この小説を通して知ることになる現代の韓国における女性の状況、あるいは家族のあり方は、松田青子氏がおっしゃるように「未来へ向かうための希望」でもあると思います。だからこそ何周もの周回遅れにある日本の状況がかえって情けなく思えてくるのです。戸籍制度についても、夫婦別姓についても……。私たちはこの小説からの痛切な問いかけを真剣に受け止める必要があると思います。

追記

Amazonでこの本のレビューを見ると、★五つと★一つにハッキリ分かれているのが興味深いです。さらに興味深いのが★一つをつけている8名(今日現在)のうち、半分が韓国の方と思われる点(わざわざ日本語で書かれています)。かの国でも様々な評価があるようですが、ことほどさようにミソジニーは根深い問題なのですね。日本とてその埒外ではありませんが。

ネットでピアノを学ぶ

ゴルトベルク変奏曲』のアリアを死ぬまでに弾けたらいいなと思って、ピアノの先生を探しているのですが、なかなか「ご縁」に恵まれません。

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最初に、うちの近所でやってらっしゃる個人の先生宅に体験レッスンを申し込んで行ってきたんですけど、先生は何だか「テキトー」な感じでした。こちらがどれだけピアノを練習したことがあるのか量りかねてらっしゃったのだと思いますけど、スケールの練習をしたかと思えば、指の運動をやってみたり、連弾してみたり。基本的に月謝制で、急な仕事での授業日変更にもあまり対応してくれなさそうでした。

別の、ちょっと高級な感じの音楽学校にも体験レッスンを申し込んでみました。この学校は体験レッスンが有料で、それも結構なお値段でしたが、逆にそこを意気に感じて期待していました。でも、こちらも何だか先生が「テキトー」な感じ。ただただ弾かせるだけで、具体的なアドバイスや指導がほとんどないのです。ウェブサイトやパンフレットで謳われていた「基礎からしっかり・懇切丁寧」な教学理念とはかなりの隔たりを感じました。

む~、まあネットで検索するとピアノ教室や学校は星の数ほどあるので、焦らずにいろいろと探してみたいと思います。

ところで、世はネット時代、カーンアカデミーのようにネット動画で学べる「オンライン学習」のコンテンツは世にあふれていますよね。私は基本、何かを新たに学ぶ際に全くの独学というのはやめた方がいいと思っているのですが(自己流の偏ったクセがつくから)、試みにYouTubeで「Bach / Goldberg / Aria / play」といったキーワードで検索してみたら、なんと、懇切丁寧に教えている奇特なピアニストさんが(それも複数)いました。

単にゆっくり弾いているだけのものもあれば、譜面と一緒に手元を映しているものもあります。これなら指の動きも自分で追って楽譜に書き込めますよね。すばらしいです。

youtu.be

これでゆっくりゆっくり練習しながら、気長に「ご縁」のある先生を探そうと思います。ちなみに楽譜もネットで販売されていて、ダウンロードできます。いい時代になりました。

むかし吹奏楽部にいたころは、「新曲に取り組む!」ってことになると、部員が連れ立って銀座のヤマハ楽器や山野楽器の楽譜売り場に行って探し、全楽器の譜面がセットになった分厚いファイルを買ってきて、それを楽器のパートごとに手書きで五線紙に「写譜」(楽譜を書き写すこと)してたんですよ。コピー機すら普及していない時代のお話です。ものすごい変化です。

総合週刊誌の広告に眩暈を覚える

今朝の新聞を読んでいたら、紙面の下三分の一ほどを占めるスペースに『週刊ポスト』と『週刊現代』の広告が載せられていて、眩暈を覚えました。

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縦横に交錯する大量の見出し文字に眩暈を覚えたというより(まあ、それもありますが)、その見出しの内容に、そして小学館講談社という全く異なる出版社から出ている雑誌の広告作りがきわめて似通っていることについてです。この広告を外国の方に見せて「これ、なんだと思う?」と聞いてみたら面白い議論になるかもしれません。

こうしたいわゆる「出版社系総合週刊誌」って、私は若い頃一時期買って読んでいたこともありますが、ここ数十年はほとんど読んだことがありません。読むのは、定期的に歯の健診で通う歯科医での待ち時間くらいかなあ。扇情的な書き方の記事を読む気がしないのもさることながら、記事の多くが都会の大企業に勤める男性向けで、私のような人間には「お呼びじゃない」内容が多いからです。

Wikipediaでは「総合週刊誌」の特徴がこのようにまとめられています。

総合週刊誌の多くはB5版かA4版の大きさで、グラビアページと文章記事ページで構成される。内容は、政治・経済・芸能・スポーツ、社会事件を題材にした批判記事、ルポルタージュが中心である。著名な作家の連載小説、エッセイ、漫画(時代小説原案のものや劇画が多い)、ゴルフ技術情報なども掲載される。

なるほど、確かに『週刊文春』や『週刊新潮』はそんな感じで、いまでも例えば「文春砲」などが一定のジャーナリズムを発揮しているみたいですが、上掲の、今朝の新聞に広告が載っていた二誌は、もはやこのWikipediaによる「特徴」にはおさまっていないですよね。

「頻尿」
「老親が死亡」
「がんで死にたい」
「安心して、さよなら」
「治療にかかる総費用」
「多剤服用はこんなに怖い」
「冬の風呂場で死んだ60代」
「夫婦で老人ホームに入りたい」
「死に装束を考えるのが楽しくて」
「あなたが突然逝ってしまったら」
「資産を『ラクして殖やす方法』」
「リハビリ中でも楽しめる旨くて体にいい食事」……

む〜、総合週刊誌というより、老後の生活マニュアルというかご相談コーナーというか。団塊世代の男性が主たる読者層で、その読者と一緒にこの二誌もここまで変容してきたというのがよく分かります。

しかも相変わらず「必須アイテム」として盛り込まれる「ヌード&セクシー」や「袋とじ」。電車の中吊り広告やスポーツ紙・夕刊紙にもいまだに盛り込まれ続けるこれらも、ええかげんにしなさいと私など思うのですが、需要があるゆえの供給なのか、いっこうに無くなりませんね。

なんかもう終末感たっぷりで、斜陽産業だなあとしか思えないこうした総合週刊誌ですが、内部事情をよく知る細君の友人によると、これでもまだ両出版社にとってはけっこうな稼ぎ頭なんだそうです。「エッチな雑誌作ってる部署は儲かってんのよ」って。なるほど。

それにまあ、変容しまくっているとはいえそこは大手出版社が編集して世に出している雑誌です。玉石混淆というか「石」の方が圧倒的に多いネットに氾濫する情報よりは、団塊世代のおじさまたちにとってある種信頼できる心の拠り所を与えてくれるのでしょう。

私もあと二十年ほど歳を取ったら、こういう雑誌に心の拠り所を求めるようになるのかしらん。まあその前にこうした雑誌がなくなっているかもしれませんが、私はできればこういう直裁的で扇情的な情報の数々にではなく、文学や音楽や美術などの作品にこそ「老後に寄り添う」役割を求めたいです。

無駄な資料作りをやめたい

先日の日本経済新聞に興味深い記事が載っていました。「ロボットと競えますか」などと扇情的なわりにあまり的を射ていない見出しですが、この記事で重要なポイントは、今ある業務が自動化される・できる割合を国別に比較した場合に、主要国の中で最も高い割合を示したのが欧米でも中国でもなく、日本だったという調査結果です。

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www.nikkei.com

ことに事務職での資料作成など単純作業の割合が高く、そうした作業の多くはロボットやAIで代替できるのではないかと。労働生産性の低さがつとに指摘されている日本ですが、その原因のひとつはこういうところにあるのかもしれません。

語学に関する業務で様々な企業や官公庁におじゃますると、とにかく資料の多さと細かさに圧倒されます。特に上司への説明資料と思しきペーパー類やパワポなどのプレゼン資料がものすごく多くて細かいのです。

もちろん必要な資料もあるのでしょうが、部外者が見ても「これ、誰が読むのかな」とか「ここまで細かい資料がいるのかな」と思えるものも多いです。通訳業務の前に細かい資料をいただけるのはとてもありがたいのですが、その資料に合わせて膨大な時間をかけて予習しても「本番」ではほとんど表面的にしか触れなかったということもよくありました。

WordやExcelPowerPointなど、マイクロソフト社の定番ソフトを駆使して作り込まれた資料が日々膨大に作成されていますが、私たちはそれらのソフトの使い方に習熟し、どんどん「職人芸」の域に上りつめていく中で、もしかしたら膨大な無駄と生産性の低下を招いているのかもしれません。

以前Amazonジェフ・ベゾス氏が「パワポ禁止令」を出したという記事を読んだことがありますが、そこでの要諦は、パワポのアニメーションに凝ってるヒマがあったら、もっと資料価値の高い資料を文章で書きなさい、ということでした。私にはこれ、「資料」の原点——課題を整理し、他人と共有し、結論を導くこと——に戻れという声に聞こえました。

zuuonline.com

それと、AIやロボットによって代替される必要すらない無駄な資料作りをやめないと、日本の労働生産性の低さは改善されないのではないかとも思います。「あとから必要になるかも」と作られる議事録とか、「何十年も前からの決まりだから」と書かされる年度総括資料とか。

さらには「私は聞いてなかった」的なクレームが発生するのを事前に回避しようと、やたらに社内メールで「ほうれんそう」しまくるとか、わざわざプリントアウトしてファックスとか、紙資料での回覧とか。もちろん無駄な会議も。本当にそれらは必要なのかと一度も問われることなく今に到っているというところは多いんじゃないでしょうか。

追記

ちなみに私はかつての職場で、誰も読まない年度末総括とか既に獲得決定の予算だけれど万一の時のために添付しておく趣旨説明だとかの文章を、お役所的な文体で大量に紡ぎ出すのが得意で、よく周囲から「ちょっと書いといて」と頼まれていました。おかげで「モスラ徳久」という雅号を頂戴いたしました。

いまでもモスラが糸を吐くようにお役所的な文章を紡ぐのは得意ですけど、ああいう文章はもうあまり書かない方がいいですね。誰にも届かないことが最初から分かっている文章を書くことほど虚しく、心を病むことはありません。このブログだって、読んでくださっている方はいくらもいないと思いますけど、それでも誰かの心に届くかもしれないと信じられるから書けるし、楽しくもあるわけで。

「邯鄲」の楽におけるドラマツルギー

中国の河北省に邯鄲(かんたん)という都市があります。秦の始皇帝の生まれた場所としても有名ですが、日本ではなんと言っても「邯鄲の夢(邯鄲の枕)」の故事でよく知られている街です。私は昔一度だけ「ほとんど通過」したことがありますが、それほど際立った特徴のない地方都市でした(ごめんなさい)。でも今では大都市に変貌しているでしょうね。

中国語でも“黃粱一夢”という成語で人口に膾炙していて、どんなに富み栄えていてもそれは束の間の幻だと心得よというような戒め(平家物語の「盛者必衰の理」に似ています)や、そこから派生して現実的ではない空想の比喩としても使われ、チャイニーズの方々とも「おお、あの話ね!」と一瞬で深い理解に至って盛り上がることができます。

「邯鄲の夢」の故事はよほど日本人の人生観からしても「ぐっ」と胸に迫るものがあったのか、能にも『邯鄲』という曲(演目)があります。私は能楽が好きで、かつ自分が中国語関係の仕事をしていることもあって、特に能の「中国物(唐事)」と呼ばれる曲に興味があり、『邯鄲』も何度か見に行きました(比較的人気の曲で、よく上演されています)。

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www.the-noh.com
▲いつもお世話になっている「the能.com」さんの解説ページから。

能は日本の伝統芸能ですから、曲目も日本のお話が多いと思いきや(実際、平家物語源氏物語などの古典に材を採ったものが多いんですけど)、中国物も数多く残されています。この「邯鄲」をはじめ、「天鼓(てんこ)」「猩々(しょうじょう)」「枕慈童(まくらじどう)」「楊貴妃(ようきひ)」「項羽(こうう)」「西王母(せいおうぼ)」「昭君(しょうくん)」「鍾馗(しょうき)」「白楽天(はくらくてん)」「皇帝(こうてい)」「咸陽宮(かんようきゅう)」……まだまだあります。能楽が成立した約600年前の日本人が、古典だけで知っているもののまだ見ぬ「かの国」にどれだけ憧れとリスペクトを持っていたかが分かろうというものです。

私は、細々と続けている能のお稽古でも、師匠にお願いして中国物の仕舞をいろいろと練習してきました。中国物といっても、そこはそれ、古典の文字面だけから想像した「かの国」の風情ですから、舞の型や囃子の音楽などにはっきりと「いかにも中国」的な要素が表れているわけではありません。能の装束では、普段よく使われる日本風の扇の代わりに、相撲の行司さんが持っている軍配みたいな形の「唐団扇(とううちわ)」が使われていますが、我々素人は、ましてや仕舞では装束もつけませんから、傍目には「中国感ほぼゼロ」ではあります。

それでも現在お稽古している舞囃子「枕慈童」に出てくる「楽(がく)」という舞の音楽には、どことなく中国大陸の広々とした感じや滔々と流れる大河のような雰囲気を感じます。

qianchong.hatenablog.com

「枕慈童」は祝祭的な要素の強い、明るくてハッピーな曲。亡霊やら怨霊やらが登場することの多い能の中ではかなり異彩を放っていて、大好きな曲のひとつです。来年の温習会でこの舞囃子を舞う予定なので今から楽しみなのですが、いつかは、というか死ぬまでには「邯鄲」を舞ってみたいです。でもこの「邯鄲」、喜多流ではとても重い扱いになっていて、プロの能楽師でもそれなりの経験を積んだ方でないとお許しが出ないのだそうです(流儀によっては全く違う扱いだそうですが)。

能「邯鄲」では舞台の向かって右側手前に、たたみ一畳ほどの大きさの台が据えられ、その上に宮殿を模した簡素な屋根がついています。能の主役である「シテ」がこの中に入っているときは、夢の中で皇帝にまで上り詰めて栄耀栄華にふけっている様を表しており、なおかつ「楽」の舞をこの一畳ほどのスペースの中だけで舞うのです。

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▲「舞台芸術研究会」さんの「『舞の能楽解説』第五話 能の作り物について」から。

普段の「楽」はたいがい能舞台全体を使って舞われるのに、「邯鄲」ではいわばその舞をぎゅっと一畳ほどのスペースに圧縮した設えになっているわけです。その圧縮された小宇宙のような空間が夢の比喩でもあるわけですね。だって夢は、実際には寝ていてほどんど動かない自分の脳内で展開される極小世界なわけですから。なんというドラマツルギー(作劇法)の巧みさでしょうか。

しかもお師匠にうかがったところでは、面(おもて:仮面)をつけて視界が効かず、かさばる装束をつけて着ぶくれており、なおかつ普通の扇よりも大きい唐団扇を手にしながら、四隅に柱のある一畳ほどのスペースで、その柱にぶつからないようにして「楽」を舞う……しかも、うっかりぶつかってしまったら「夢が覚める」から御法度、という習いがあるのだそうです。いやその「ヒヤヒヤ感」もまた、はかない夢ならではの絶妙の設えではありませんか。

こちらのページで、喜多流能楽師の友枝真也師が「そういうフレームに収まってる感のない楽をのびのびと舞いたい」とおっしゃっています。

tomoeda-kai.com

「離見の見」みたいな、いっけん二律背反のような教えが多い能ですが、この邯鄲の楽でもその二律背反性が「これでもか」とばかりに発揮されているような気がします。ほかにも邯鄲の楽には「空下り」という特殊な型があるなど見所いっぱい(流儀によって演じられ方は多少違います)。能「邯鄲」の作者は不詳ですが、この作者は天才ですね、ハッキリ言って。

留学生の同時通訳実習

昨日は留学生の通訳クラスで、講演会形式で同時通訳の実習を行いました。うちの学校には同通ブースつきの立派な「国際会議室」なる部屋がありまして、その施設を使っての訓練です。

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講演をしてくださる講師を外部から招き、「容赦のない」日本語で通常通りの講演をしていただき、それを「日→英」と「日→中」の2チャンネルで同時通訳します。会議室に備えつけのイヤホンのほかに、無線で音声を飛ばす「パナガイド」も専門の業者からレンタルして用意するなど、かなり本格的な訓練です。

本来こうした訓練は、民間の通訳専門校などでは一番上の「同通クラス」で行うものですが、うちの学校ではそれよりもう少し下のレベルの留学生も参加します。正直に言って生徒によって語学の習熟度はまちまちなのですが、一度こうした本格的な訓練に参加してみるのもいい経験になるということで、毎年この時期に行っています。

この訓練のためにここ一ヶ月ほどは各クラスで、これまでに積み重ねてきたシャドーイングに加えて、スラッシュリーディングと順送り訳、サイトラ、さらにはボイスオーバーなど一通り訓練してきました。また予習が不可欠ということで、講師の先生には早めにパワポ資料をご提出願って、それを元にグロッサリー(用語集)を作ったり、関連資料を読んだり、講師の先生から指定されたYouTube映像を視聴したりしました。

そうやって十分な下準備を積み重ねて「本番」に望んだのですが、本番直前は緊張のあまり、かなりナイーブになっている人や神経が高ぶっている人などが続出、そうした人たちへのケアもあって担当講師の私たちも東奔西走……ということで、いや、こちらもぐったりと疲れました。

まあ本番では、ほとんどのみなさんが普段以上の実力、あるいは火事場の馬鹿力を発揮して、何とか通訳も形になっていました。往々にして本番の出来が一番良かったりするものですよね。もちろん十分な予習を積み重ねたゆえの結果ではありますが。将来留学生のみなさんが同時通訳をする機会はあまりないかもしれませんが、それでも企業などではウィスパリングなどで通訳を担当することもあるでしょうし、経験になったのではないかと思います。

で、一晩明けて、今朝は雨が降っていたということもあって、多くの留学生が一時限目の授業をお休みしていました。留学生の人数が多いので、同時通訳の交代時間はプロが普段やっている15分とか20分とかではなく、ほんの3分から5分程度で、ひとりひとりの担当時間は正味10分から15分程度だったんですけど、それでもけっこう疲れちゃったみたいですね。

15分程度同通やって次の日はお休みって、どこのお殿様ですか……まあそういうとこもカワイイですが。学生さんの特権ですかね。

違う人々に対する耐性のようなもの

先日、同僚から「中国人職員と内線電話で話した後に、いきなりガチャッと切られるから、ちょっと傷つく」みたいなことを言われました。なるほど、そうですか……まあ確かに、日本の多くの方がやるみたいに、そおっと、間を置いて、できれば先方より遅く受話器を置く(私もやってる)、みたいな「お作法」はないですかねえ。

でもご本人はきっと無意識のうちにガチャッとやっていて、悪意などまったくないはずです。電話は単なる連絡のための道具ですし、それほど高価な精密機器というわけでもないから、受話器の置き方に凝ったりはしない、と。

道具としてのお金にはあまり価値を置かないから、おつりを投げてよこすとか(諸外国で、これに少なからずショックを受ける日本人は多いみたいです)、どんどんキャッシュレスに向かうとかと同じで、これはチャイニーズによく見られる透徹したリアリズムなんですよね。いや、チャイニーズに限らず、紙幣や硬貨そのものの扱いはドライなのって、けっこうどこの国や地域の人も似たようなものじゃないですか。アメリカでもチップなんか「ぽーい」と放っちゃっている方が多かったような気がします。

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https://www.irasutoya.com/2013/04/blog-post_6846.html

まあ私も日本人の端くれですから、私たちのある意味過剰なほどの気遣いの文化も愛おしいというか、これはこれで全部消し去っちゃうのは悲しいし、もとよりとうぶんは消し去ることなどできないだろうと思いますが、もうすこし「そうではない人々」への耐性はつけてもいいんじゃないかとも思います。

いつも申し上げていることですが、私たちのこの異文化や異民族に対するある種のナイーブさというか「うぶ」なところ、あるいは異文化リテラシーのなさは、もう少し前景化されてもいいんじゃないかと思います。これだけ「グローバル化」だ、「外国人へのおもてなし」だ、「幼少時から英語教育」だと躍起になっている割には、なんかこう「異質な方々」に対する想像力の涵養や、そうした存在との交流で生まれるメリットやデメリットに対する覚悟みたいなものが、ほとんど意識されていないように感じるんですよね。

例えばこちらの、来日15年というバイエ・マクニール氏が語る「空席問題」の記事と、この記事についたコメントは、「明治150年」などと言って舞い上がっている私たちはひょっとしたらその150年間根っこの所では変わってなかったんじゃない? と思えるほどのインパクトを持っています。

toyokeizai.net

入管法の改定で、日本では今後ますます異文化の人々と接触する場面が増えるのかもしれません。全体の状況としてそうなっていけば、今よりはもう少し(否応なしに?)異文化や異民族にたいする「ナイーブさ」が影を潜めていくのでしょうか。その前に不幸な出来事が起こらないようにと願いますし、私は私で異文化や異民族との接触における良い所も気をつけるべき所も発信していきたいと思います。

だから私は恐がられる

昨日「なまはげ」や「パーントゥ」のような、人々から恐がられる異形の神々のことを書いたんですけど、かくいう私も昔から人に異様に恐がられます。

もともと面相が「強面(こわもて)」で「厳つい(いかつい)」ということもあるのでしょう。歳を取った最近は外見もずいぶんくたびれてきましたが、若い頃は、初対面の方に必ずといっていいほど「何か運動やってる? 柔道?」と聞かれていましたし、道ばたで「兄ちゃん、自衛隊入らへん?」と勧誘されたこともありますし、よく警察官から職務質問もされていました。
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https://www.irasutoya.com/2018/08/blog-post_83.html

通訳学校に出勤すると、教務のスタッフのみなさんがまるで腫れ物に触るかのように私に接してきます。あまりに畏まった対応をされるので、こっちも恐縮しちゃうくらい。そんなに恐い存在に感じられるのでしょうか。まあ確かに授業の設備に関していろいろと要請をして、スタッフの方々に余計な手間をおかけしているのは確かです。そういうのも相まって「やっかいな方」みたいなカテゴリーに入っちゃっているのかもしれません。

通訳学校だけでなく、そのほかの語学学校や専門学校でも、私は知らず知らずのうちに「恐い先生」のカテゴリーに入れられてしまうようです。授業が厳しすぎるということで生徒からクレームを受け、それが遠因で退職する羽目になったこともありました。自分ではちっとも厳しくしているつもりはないのですが、まわりからはとにかく「恐い、厳しい」と言われるのです。授業で「もっと優しく接してください」と言われたことも、生徒に泣かれてしまったこともあります。

人は見た目が9割」などという本がありましたが、本当にそうなのでしょうか。以前はそういうふうに恐がられることに対して理不尽だ、失礼じゃないかなどと思い、その一方で少々傷ついてもいました。でも最近になってようやく「いや、これはやっぱり見た目ではなく、私の本質が人をして恐がらせるのだ」と思うようになりました。

授業を厳しくするのは、私の理屈では、ある意味生徒に対する「愛」であり「誠意」の発露ということになるのですが、そうしたものの一方的な押しつけは往々にして独りよがりだったりします。子供を虐待する親が「しつけのつもりだった」と言い逃れるのとさほど変わらないのかもしれません。

今私が担当している留学生の通訳クラスでは、今月「同時通訳実習」が予定されています。同時通訳といってもほんの入門段階ですが、学校に同通ブース付きの立派な会議室があるので、それを使ってプロの世界を体験してもらおうという企画です。この実習のためにひと月ほど前からいろいろと訓練を重ねてきているのですが、生徒の一部には不安やプレッシャーのあまり泣きを入れる人、落ち込む人、逆にキレかかっている人など、様々な反応が見られます。

もうその気持ちは痛いほど分かります。私だって仕事の前は同じような精神状態に陥りますから。私はそうしたことも含めて、留学生のみなさんが社会に出る前に「仕事の厳しさと、それを乗り越えたときの充実感」を味わってもらいたいと思っているのですが、いかんせん、以前にも書いたように「教育とは歩留まりの悪いもの」。こちらが思った通りの教育効果を上げないことも多いですし、打てど響かぬ学生も、またこう言っては何ですが、クレーマーのような学生も存在しうるのです。

学校だって社会の縮図です。いろいろな方がいる。私自身は、大学時代から、職業訓練としての通訳学校に至るまで、厳しい先生方に巡り会えた僥倖を感謝していますが、それは私個人の価値観であって、じゃあ自分が教える立場になったからといって他人に押しつけてはいけないのです。そんな当たり前のようなことに、ようやく思い至りました。

以前、留学生が卒業時に「授業で生徒をいじめ抜く私」の絵を描いて贈ってくださったことがありました。絵の裏には感謝の言葉と共に「私は本当に通訳という仕事が好きなんだと分かりました」と中国語で書かれていて、教師冥利に尽きると思ったものです。でも、だからといって、その極めてまれなマッチングを「成功体験」として敷衍してはいけないのでしょう。

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以前は「人から恐がられること」に傷ついて笑顔の練習をしたこともありますが、顔面麻痺を患ってしまったおかげで自然な笑顔が作れなくなってしまいました。中国語の“可憐天下父母心(可哀想なのは世の親たちの心≒親の心子知らず)”をもじって“可憐天下教師心”などと嘆じていたこともありましたが、これもやめました。

「自他ともに厳しく」を掲げるのは勇ましくてカッコいいですけど、過ぎたハイスペックは自他ともに疲れるだけですよね。私は昔からよく「肩に力が入りすぎ」「アクセルべた踏み」と言われていました。もうそろそろそれらから卒業しなければなりませんね。じゃないといつか細君みたいに血管が切れちゃうかもしれません。

異形の神たちにひかれる

Charles Frégerという方の『Wilder Mann』という写真集がありまして、これはヨーロッパ各地の祭りに伝わる「異形」の仮装姿を集めたものなんですが、その土俗的な意匠の美しさに思わず引き込まれます。


WILDER MANN (ワイルドマン)

こちらにはCharles Fréger氏のホームページがあって、写真集の一部を見ることができます。

Wilder Mann | Charles Fréger

映画『ヴィレッジ』にも同様の異形が登場していて、あれも……おっと、これはネタバレになるのでこれ以上は書きません。

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これらはまあ、言ってみれば欧州版「なまはげ」みたいなものですか。そういえば先日「なまはげ」など八つの「来訪神」がユネスコ無形文化遺産に登録されたというニュースがありました。あの中では私、宮古島の「パーントゥ」がいちばん「ぐっ」と来ます。『千と千尋の神隠し』に登場した「オクサレ様」を彷彿とさせますよね。

パーントゥ - Wikipedia

こうした異形の存在は、日常の中に突如として現れる不吉で禍々しいものの象徴ですが、人々はそれらと一瞬の邂逅を果たすことで、逆に新たな生命や季節を迎え入れ、厄をはらうというのがなんとも面白いと思います。そういった存在をわざわざ、定期的に暮らしの中に取り込むというのは、人間が人間だけでこの世に生きているのではないということを思い知らせる、つまりは人間の「分際」をわきまえさせるための古代からの知恵ではないかと思うのです。

もっとも、唯物主義の権化みたいなうちの細君にかかると「この人たちは何をバカなことやってんの?」と身も蓋もないコメントをされちゃうのですが……ちょっとちょっと。

「歩留まり」の悪い教育

中国文学者の高島俊男氏が、ご著書で「教育とは歩留まりの悪いもの」とおっしゃっていました。どのご著書だったのか、手持ちの蔵書にあたってみるも、結局見つけられなかったのですが。「歩留まり」だなんて、まるで学生さんたちを生産ラインに並ぶ機械の部品みたいに……と思われるでしょうか。でも私にはこれ、とても腑に落ちる言葉だったのです。

教育にもいろいろあって、こどもに対する義務教育のような段階と、私が現在関わっているような成人してからの職業訓練とでは、その意味合いも内容も大きく違います。ですからとりあえずは成人教育に限りますが(というか、それしか書けません)、確かに高島氏のおっしゃるとおり「歩留まりが悪い」なあと思います。

例えば通訳や翻訳の訓練にしたって、そのクラスを履修した生徒さんのうち、どれくらいの方が実際に通訳者や翻訳者として稼働し始めたか……。統計を取っているわけではありませんが、私が把握している限り100人に1人もいないと思います。驚くべき「歩留まりの悪さ」ではありませんか。

誤解のないように申し添えておくと、生徒さんの全員がフリーランスの通訳者や翻訳者になろう・なりたいと思っているわけではなく、多くは企業などに就職して、その業務の中でときに通訳や翻訳も行う、そのスキルをもっと高めたいと思っている方が大半です。もしくは母語と外語の二つが使えるとなれば、必然的に通訳や翻訳を行う機会も増えるだろうから、その技術を磨いておきたいとか。

ですから、通訳や翻訳で「食っている」方が100人に1人もいないからといって、それは特段嘆くようなことではないのかもしれません。それでも、あれだけ膨大で厳しい訓練を課したのに、それが活かされるチャンスが極端に少ないというのは、何かが歪んでいるような気がしてならないのです。

ニーズに合わない

この件に関して、先日、職場の同僚から教えてもらったこちらの資料がとても興味深く思えました。毎年開かれているという、留学生に教育を行っている教職員のための「外国人留学生就職支援研修会」のレポートです。

http://blog.asialink.jp/campus/20171127/

レポートの内容は多岐にわたるので、ぜひ上のリンク先からご覧いただきたいのですが、私がいちばん興味を持ったのはこちらのスライドでした。

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日本の企業は、通訳・翻訳業務のためだけに留学生を「正社員採用」することはまずないと。通訳や翻訳の業務が一部に含まれることはあっても、むしろ留学生には母語を使って顧客開拓や市場調査などをしてほしいんですね。

でもその一方でこちらの資料。これは法務省の入国管理局が発表している、「留学」から「就労」への在留資格変更に関する資料で、職務内容別許可人数のトップは「翻訳・通訳」となっています。これを見て留学生は「通訳翻訳業務」での就労を志し、そのために私たちのような学校に入学してくる方もいるのですが、現実的には上記のように「まずない」。このギャップは大きいように思われます。

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なんだかますます、通訳や翻訳の教育に一枚も二枚もかんでいる私はいたたまれない気持ちになってきました。単に幻想を振りまいているだけではないのかと。もちろん通訳翻訳訓練そのものは別にそれを主たる業務としなくたって、語学や様々な業務に有益だとは思いますが、とにもかくにも「出口」がこんなに狭くては、ね。

そしてまた身悶える

以前に読んで「身悶え」た、松田青子氏の小説『英子の森』を思い出してしまいました。

ネットの求人サイトを開いた。「職種」をクリックし、出てきた選択肢から「専門職/その他すべて」をクリックし、「美容師」「エステ・ネイル」「技術者」などの様々な専門職の中から、「通訳、翻訳」をクリックした。「専門職/その他すべて」3326件の中で、「通訳、翻訳」はたった8件だった。(中略)これ以外で、英語を使える仕事となると、今度は「教育」をクリックするしかない。

電車の中には、専門学校や検定、資格取得の案内など、いろんなジャンルのいろんな広告が貼ってあった。その広告も「新しい扉が開く!」「新しい自分に出会えます」と、いろんな理由で疲れた顔たちに魔法の呪文をかけようとしていた。語学学校や海外留学の広告もいくつかあったが、そのほとんどが英語関連だった。いろんな魔法がある中で、自分がかかったのは英語の魔法だった。理由はよくわからないけど、そうだった。英子は、一枚一枚広告を剝がしてまわりたいと思った。これ以上誰のことも騙してほしくない。

教育の成果というものは、一朝一夕に、あるいは卒業時に合わせて出るとは限らず、長い人生の中で後から振り返った時に「ああ、あそこで学んだことがいまこうやって活きているんだな」と思えることもあります。だから短期的なスパンでものを見てはいけないとは思うのですが、かといって「就職できない」「食えない」問題についてそんな悠長なことを言っているヒマはありません。

自分自身、ずいぶんいろいろな回り道をしていまの仕事にたどり着いているので、若い方々に長期的なスパンでものを見ることもお伝えしたいのですが、いかんせん時代も世界の状況も違います。そして、なにより生徒さん自身が、こう言ってはなんですがずいぶん「消費マインド」というか「投資マインド」というか、とにかく最小限のリソースで最大限のリターンを……と願う方が多い。

消費マインドや投資マインドに照らせば、歩留まりの悪さはいちばんのマイナスポイントでしょう。その齟齬を目の前にして、また私は「身悶え」ているのです(端から見ると、気持ち悪いですね)。この件についてはまた稿を改めて考えてみたいと思います。

qianchong.hatenablog.com

字幕翻訳ソフトをめぐる「大人の事情」

先日、字幕翻訳ソフト「SST G1」の開発・販売を行っているカンバス社から「不正競争防止法違反に基づく差止請求訴訟(勝訴判決)に関するお知らせ」という、少々「こわもて」な件名のメールが届きました。

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https://canvass.co.jp/pdf/info20181129.pdf

SST G1」というソフトウエアは、日本における字幕翻訳業界の「標準ソフト」といってもいい地位をしめていて、多くの翻訳者や翻訳会社がこのソフトを導入しています。私もかつて字幕翻訳を行っていた頃には個人で購入して使っていました。

このソフトは業界標準である一方でほかに類似のソフトがないため、いわば「独占」状態になっており、非常に高価でした。私が購入したときで約40万円。それ以前にはもっとお高いソフトだったということです。

そんな中、数年前から似たようなソフトが市場に登場しました。それがフェイス社の「Babel」です。インターフェイスや機能に多少の違いはありますが、使い勝手は「SST G1」とほぼ同じで、価格は半分ほど。ついにこの業界にも競争原理が働き始めたのかな、と思いました。

ところが、「SST G1」のカンバス社が「Babel」のフェイス社を訴えるという展開に。正直、詳細はあまりよく分からないのですが、要するに「うちのソフトをマネした」ということでしょうか。

私は個人で「SST G1」を使う一方で、教育現場で「SST G1」と「Babel」双方のアカデミック版を使っていたので、折に触れて裁判の状況も目にしていました。というか、両社がユーザ登録している私にメールで逐一「ご報告」してくださるものですから、イヤでも目にする結果になっていたのです。

で、昨年になって「Babel」のフェイス社からは、著作権法に基づく裁判で勝訴したとの「ご報告」がありました。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/270/085270_hanrei.pdf

さらに今年に入って、知財高裁での勝訴判決と……

http://tyosaku.hanrei.jp/hanrei/cr/11468.html

それを不服とするカンバス社の上告受理申立却下についても「ご報告」が。

ニュースリリース 株式会社カンバスとの著作権侵害訴訟について ―著作権侵害訴訟に関する上

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なんだかよくわからないんですけど、著作権法に基づいた裁判では最高裁まで行ってフェイス社が勝ったものの、不正競争防止法に基づいた裁判ではカンバス社が勝ったということでしょうか。ざらっと読む限りでは、ソフトのソースコードをコピーしたかどうかという争点で前者の裁判では立証できなかったけど、後者の裁判では立証に成功したってこと(法律にお詳しい方、ぜひご教示ください)?

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https://www.irasutoya.com/2017/12/blog-post_666.html

この件に関して、ネットで検索をしていて見つけたこちらの解説記事によれば、これらの顛末の背景には「原告プログラムの開発責任者やその他数名の原告元従業員が被告の業務に関与する、といった経緯を辿った」、つまり元カンバス社の関係者がフェイス社の業務に関与したという「大人の事情」があるようです。こういうのは、何と言えばいいんでしょうかね。コップの中の嵐? 豆を煮るに豆殻をもって炊く?

d.hatena.ne.jp

私はもう字幕翻訳はほぼ引退していて、教学でアカデミック版を使用しているだけなので、いまさら何を言っても始まらないのですが、長年競争原理が働かず「SST G1」が非常に高価であったこと、にもかかわらず旧ユーザを事実上切り捨ててきたことに加え、今回の「騒動」、正直に申し上げて心中あまり穏やかではありません。

しかもカンバス社から送られてきた今回の「ご報告」メールの添付ファイルには、最後にこのような文言が。

弊社と致しましては、長年の努力により築き上げてきた弊社の重要な知的財産を保護するため、本件訴訟での対応に留まらず、同社の一連の行為を認識しながら「Babel」を購入された関係者に対しても、弊社の知的財産の侵害行為が認められれば、今後も継続して必要な措置を講じていく所存です。

「Babel」に「浮気」したユーザも許さないぞと。私にはほとんど恫喝に読めます。そして昨日、フェイス社からは現在使っている「Babel」のアカデミック版ライセンスについて、期限の延長や新規購入を辞退させてもらいたい旨の連絡が来ました。口調はとても丁寧でしたが、いきなりのサービス提供中止宣言です。

……いずれにせよユーザそっちのけですよね。うちの学校では今月から字幕翻訳の授業が始まる予定だったので、いま頭を抱えています。

以前字幕翻訳が「食えない職業」になりつつある現状についてブログに記事を上げたことがありますが、コメントを含めて再読するに、もうすこし何とかならなかったのだろうかと思ってしまいます。今回の「お家騒動(?)」も早く収束するといいですねー(もはやどこか他人事。SST G1でもBabelでもない別のソフトによる教学を考えましょうかね)。

qianchong.hatenablog.com

追記

フェイス社から、今回の判決を不服として控訴する旨の「お知らせ」が届きました。

https://www.faith-up.com/site/wp-content/uploads/2018/11/1130.pdf

でももうなんか、ユーザそっちのけの係争はうんざりです。SNSを通していろいろな方にご教示いただいたいので、「SST G1」でも「Babel」でもない別のソフトを選ぼうかなと思っています。

さらに追記

一昨日「Babel」のフェイス社から「弊社製品『Babel』販売休止に関するお知らせ」という書類がメールで届きました。

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「なお、すでに当社字幕制作ソフト『Babel』を購入されたお客様につきましては、お客様が購入された商品の権原において今後もこれまで同様ご使用頂けますので、ご安心ください」とあります。権限の「限」が「原」になっているくらい慌てた感じですけど、うちの学校のアカデミック版は実質使用停止を申し入れされましたしね……。

……と思っていたら、今日は「SST G1」のカンバス社から「不正競争防止法違反『Babel』の使用等差止に関するお知らせ」という書類がメールで。

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「弊社は、弊社からの告知等の後に、『Babel』を取得されたお客様におかれましては、前記判決前の取得といえども、不正競争防止法違反に該当すると判断し、対応させて頂きますので、十分ご留意下さいますようお願い致します」と、これまた剣呑かつ慇懃無礼~。

ホント、大迷惑です。