インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

人の幸せを邪魔しちゃいけません

去る2月14日、「同性同士の結婚を認めないのは憲法が保障する婚姻の自由を侵害し法の下の平等にも反する」とした国賠訴訟が起こされました。ニュースソースはネット上にたくさんありますが、提訴前の取材記事であるこちらは、当事者の声や世界の状況、さらに憲法解釈までまとめられていて分かりやすいです。

www.buzzfeed.com

私はこの訴訟を応援したいと思います。この訴訟をサポートするほか、様々な啓発活動を行っている「一般社団法人Marriage For All Japan – 結婚の自由をすべての人に」のウェブサイトはこちら。

marriageforall.jp

同性婚のみならず、例えば夫婦別姓などにしても、その合法化が実現しても自らの暮らしや生き方には全く影響が及ばないのに反対している方がいるのは残念ですね。でも、こうしたひとりひとりの生き方を尊重するのは、様々な人権問題同様に人類がつかみ取ってきた叡智のひとつであり、世界の趨勢です。どんどん声を上げていきましょう。

私は最初に結婚したのが26歳くらいでしたが、お互い姓を変えたくなかったし婚姻制度そのものに対しても色々と考えるところがあって「事実婚」を選びました。でも行政手続きや会社での手当など様々な部分で制約や不利益にぶつかりました。それでも当時は「自分で選んだのだから仕方がない」と自分に言い聞かせていましたが、周りの人からの心ない(でも大概の場合、ご本人はそれに気づいてらっしゃらない)言葉の数々には心痛むことが多かったです。

その後ずいぶん経ってから二度目の結婚をしたときには、かなり現実的な考え方になっていて、単純に不利益を避けるという直截な理由から籍を入れましたが、今でもどこかに納得のいかない感じを抱えています。その「納得のいかなさ」は現行法に対する違和感でもありますが、もうひとつ、そうやって妥協している自分に対するふがいなさでもあると思います。だから今回、まっすぐに自分の権利を主張されている原告のみなさんにとてもまぶしいものを感じるのです。

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https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_524.html

知人に聞いた話では、同性カップルが結婚式を挙げたいと東京都内の「御三家」的式場に申し込んだ場合、「HP園」ではぜひぜひ、だったのに対し「CZ荘」ではお断りします、だったとのことです。「GJ園」はどうなのかな。同性婚などの合法化が世界の趨勢となる中、経営陣の教養が問われる時代ですよね。そして政治家も。ニュージーランド同性婚が合法化された際、国会議員が行ったこちらの非常に有名なスピーチは、簡にして要を得ています。

youtu.be
www.huffingtonpost.jp

ほんと、どう考えても個々人の、それぞれに違う形の幸せを全力で応援すべきです。「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」と都々逸にも歌われているではありませんか。でもこう言っちゃうと身も蓋もないけれど、やっぱりある程度の教養がないと、こういう事柄は理解できないんじゃないかとも思います。基礎教育やリベラルアーツの大切さを改めて感じたのでした。

フィンランドの “SISU” を勝手に感じてみる

カトヤ・パンツァル氏の『フィンランドの幸せメソッド SISU』を読みました(柳澤はるか氏翻訳)。


フィンランドの幸せメソッド SISU

“SISU(シス)”というフィンランド語は他言語にひとことで翻訳するのが難しい概念のようですが、この本の第一章にはこんな形容があります。

フィンランド独特の「意志の強さ」であり、決してあきらめず、安易な道に逃げない「強い心」。

試みにネットで検索してみたら、ウィキペディアの英語版にはこのような解説がありました。なるほど、英語でもぴったりの言葉はないんじゃないかと書かれていますね(日本語版の解説はありませんでした)。

Sisu is a Finnish concept described as stoic determination, tenacity of purpose, grit, bravery, resilience, and hardiness and is held by Finns themselves to express their national character. It is generally considered not to have a literal equivalent in English.
Sisu - Wikipedia

上記のWikipediaには “national character” だとも書かれています。そのため「フィンランド魂(だましい)」と訳されることもあるようで、松村一登氏のウェブサイトにあるこちらのページにも詳しい解説がありました。

www.kmatsum.info

とにもかくにも、この本ではその翻訳しにくいフィンランド語 ”SISU” をめぐって、その “內涵”(う〜ん、これも意外に翻訳しにくい中国語です。その言葉が内包する概念とでもいいましょうか)を、フィンランドに移り住んだカナダ人(もともとフィンランド系のご家族だったそう)であるカトヤ・パンツァル氏が暮らしの中で体感していく経緯が綴られています。

北極圏を含む厳しい気候風土、ロシアやスウェーデンなど隣国の圧力や支配に抗してきた歴史などから育まれたのであろう “SISU” という一種の「生き方の態度」について、この本では子育てや教育、労働、健康作り、環境への配慮、デザインとライフスタイルなど様々な切り口からその実相を探っていくのですが、私が最も興味をひかれたのは冒頭に出てくるサウナと「アイススイミング」でした。

サウナはともかく「アイススイミング」とは? それは氷の張った海や湖に裸で入るという、聞いただけで気が遠くなりそうな行為のことです。とはいえ単なる奇矯な行動ではなく、疲労やストレスなどが解消される「冷水治療」であり「ウェルビーイング(心身の健康)」を保つための一手段なのだそう。そういえば日本でもサウナの隣に「水風呂」が設置されているところがありますよね。私も九州に住んでいた頃は田舎の温泉で水風呂に浸かったことが何度かあります。

当時の私はあの「水風呂」について、熱いお湯に気合いで浸かっちゃう江戸っ子おじさん的な行動くらいに軽く捉えていたのですが、ひとつだけいまでも印象深い点があります。それは浸かった最初はかなりつらいものの、すぐに身体が順応して逆に内側からポカポカしてくるという点です。アイススイミングにも同様の反応があるそうで(当然ですね)、この本ではそこから得られる身体上の反応に加え、心の変化や「気づき」の奥深さについて多くの紙面が割かれています。

いつかまたフィンランドを旅して、前回は行けなかった本場のサウナと、できればこのアイススイミングも体験したいです。Amazonを渉猟して、こんなムックも買っちゃいました。


Coyote No.60 SAUNA for Beginners

ああ、今すぐにでもあの森と湖の国に飛んでいきたいところですが、そうもいきません。というわけで、上述の『フィンランドの幸せメソッド SISU』を読んでからというものの、毎日お風呂に入る際に、最後に冷水シャワーを浴びています。心臓に負担がかからないようにほんの少しお湯を混ぜつつ、手足の先からゆっくりと。

氷の張ったバルト海に飛び込むようなアイススイミングに比べたらずいぶん「へたれ」ですが、それでもいざ冷水を浴びるとなると多少の勇気が必要です。なるほど、こういう時に行う小さな覚悟もまた “SISU” なのかも知れません。そしてそれを三日坊主でやめずに続ける、ささやかな意志の強さもまた。

ということで昨日は調子に乗って、自宅近くの銭湯に行ってきました。銭湯に行くのも久しぶりです。ここはネットでも評判のサウナと水風呂があるんですけど、これまで一度もチャレンジしたことはありませんでした。何十年かぶりのサウナと水風呂は、それはもう……ものすっっっっごく素晴らしい体験でした。サウナってこんなに気持ちの良いものでしたっけ。

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https://www.irasutoya.com/2017/11/blog-post_972.html

ネット情報によれば、この銭湯の水風呂はサウナ通のみなさんも「なかなかのもの」とうなる15℃ほどの低温だそうで、入る前はちょっと身構えて自分を鼓舞したりなんかしていたんですけど(これも“SISU” っぽい)、入ってみたら自宅の冷水シャワーよりずっと快適でした。サウナと水風呂を何度か繰り返して、最後は水風呂で〆て出ると、身体が内側から温まってきます。寒空の下、心から満ち足りた気分で家路につきました。

こうやって自分をささやかな、しかし新しいチャレンジに向かわせてくれる力、これもまた “SISU” の成せる技なのかもしれません。

小確幸につながる炊事の「ころあい」

若者の「袋麺離れ」が顕著……という記事を読みました。

blogos.com

インスタント麺のうち、カップ麺は売り上げを伸ばしているのに対し、袋麺は「麺を茹でたり鍋や器を用意したりと調理に時間と手間がかか」ることに「特に若い人たちは不便さを感じて」おり、各社とも「既存品のブラッシュアップや新フレーバーの開発、新たな食べ方提案など」通じて需要喚起に努めているとのこと。記事の見出しだけ見ると若者だけの現象みたいですが、本文によれば「袋麺離れ」は老若男女に及んでいるようです。

そうか……袋麺を茹でるくらいの「調理」でさえ面倒だと感じる方がいるんですね。まあ確かに調理をすると後片付けが発生しますから、それも含めて面倒だと感じる気持ちは分かる気がします。私も昔は台所のシンクについつい洗い物を溜めてしまうような性格でしたから。ただ、いまでは毎日の炊事が(後片付けも含めて)楽しくて仕方ありません。それはひとえに「習慣化」してしまったからではないかと思います。勉強でも運動でも何でもそうですけど、いったん習慣化してしまうと苦もなくできるようになり、むしろやらないと気持ち悪く感じるものなんですよね。

特に食事作りは、その前段階の買い出しを含めて、とてもエキサイティングな行為です。ハッキリ言って私はこんなにアドレナリンが上昇して楽しい営みを家族の誰かに渡したくありません(細君はあまり炊事関係に食指が動かない人なのでラッキーでした)。よしながふみ氏の『きのう何食べた?』に出てくる筧史郎氏が買い出し時の興奮や炊事の偉大さをたびたび語っていますが、ホントこれ、共感される方は多いんじゃないでしょうか。

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『きのう何食べた?』第3巻 #22

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『きのう何食べた?』第1巻 #1

私が男性だからか、炊事をしているというとよく「偉いね」とか「奥さん幸せね」とか、「何料理を作るの? やっぱり中華?」などと言われたり聞かれたりします。そうおっしゃるご本人に悪気がないことは十分に承知をしているんですけど、やはりこういう反応自体にどうもしっくりこない、というのが正直なところです。この国ではまだまだ炊事、ひいては家事全般が女性の担当で、たまさか男性が家事をすると褒められ、しかし作る料理はいわゆる「男の料理」的に手間暇と材料費をかけたもの、いわば「ホビー」みたいなカテゴリーに入れられてしまうのです。

けれど日々の暮らしの中の炊事って、そんなに手間暇と材料費をかけてられないですよね。ありあわせのもの、あるいはその日スーパーで見つけたお安いものを使って「やりくり」しているのが実情です。そしてそういう「やりくり」こそが筧史郎氏も日々感じているであろう「偉大」な楽しみなんです。その意味で、以前拝見したこちらのツイートには共感することしきりでした。私も日々こういう「名もなき料理」を何十年も作り続けてきたものですから。

同じよしながふみ氏の『愛がなくても喰っていけます。』にはこういうシーンも出てきます。これも本当によくわかります。どんなに疲れて帰ってきても、毎日の炊事はそれなりに「ひと手間」かけたい、手を抜きすぎたくない。炊事は「男の料理」でも「ホビー」でもなく、そんなに手間暇をかけてらんないんですけど、かといって手を抜きすぎてカップラーメン一個とか、出来合いのお惣菜などで済ませたくもない。

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『愛がなくても喰ってゆけます。』 #1

矛盾しているように思われますか。いえ、これは言語化するのがとても難しいのですが、こういうふうにできる限り手をかけ、だけど必要以上には手をかけすぎない炊事(ひいては家事全般)の「ころあい」が日々の暮らしの中にうまく収まっていると、無理なく心身ともに健康的な暮らしを営んでいけるし、それは人生の「小確幸」にもつながっていることを実感できるのです。

こうした炊事の「ころあい」については、土井善晴氏の『一汁一菜でよいという提案』に深い哲理が示されています。私は袋麺も好きでそれなりに食べますが、袋麺を作るのとほとんど変わらないくらいの手間でもっと健康的な食事を組み立てることができる。味噌汁は出汁を取るのが面倒で……などと思っておられる方はぜひ読んでみてください。炊事は日々の暮らしを整え、頭の体操になり、ストレス解消にもなる素敵な営みです。袋麺さえ面倒などと言ってカップ麺に「引きこもって」いる場合ではないのです。


一汁一菜でよいという提案

お金の「見える化」が気持ちいい

先日とある「お金のリテラシーを学びましょう」という趣旨のセミナーに参加した際、家計の「見える化」が紹介されていました。私は根っからの「どんぶり勘定」人間で、お金だけでなく生き方そのものがどんぶり勘定かつ「出たとこ勝負」というかなりズボラな性格です。というわけで、これを機に「見える化」に取り組んでみようと思いました。

ズボラな性格とはいえ、かつて仕事の関係で簿記を学んだので、貸借対照表損益計算書などのごくごく基礎的な知識は(これでも)持ち合わせているつもりです。これまでも無駄な負債は極力抱えないとか、ギャンブルに手を出さないとか(特に宝くじのような極めて割りの悪いもの)、支出における固定費を見直してダウンサイジングするなど努力だけはしてきました。自分のズボラな一面をよく知っているので、人一倍注意しなければならないと肝に銘じているのです。

セミナーで紹介されたのは、日々の出費をレシートで管理する方法でした。コンビニなどで買い物をしてもレシートを受け取らない、あるいはすぐにレジ脇のゴミ袋に捨てちゃう方が多いですが、それらレシートをきちんと受け取り、かつ大まかでいいので「食費」「日用品」「趣味」「交際費」「衣服」……など10ほどの項目に分けてクリアファイルに放りこんでおき、月末にそれぞれ集計して(これも大まかに100円以下は切り捨てて)支出を「見える化」し、自分の収入と見合っているかどうかを検証するというわけです。

こうやって「見える化」を続けていると、どんな種類の支出が突出しているのか、言い換えれば無駄な出費や浪費があるのかどうかがよくわかります。自分で買ったものだから何にどれくらい使ったかはだいたい覚えているだろうと思ったら大間違いで(とくにズボラな人間は)、自分の記憶や感覚などかなり当てになりません。

支出が際立っている項目があったら、その項目だけレシートを仔細に見当してみる。すると例えばスタバで二日に一回はカフェラテのトールを買っていたら、それが 370円 × 15日 = 5550円 と具体的な数字になって現れる。これを無駄と見るか妥当と見るかはその方のお金事情や考え方次第ですが、こうして具体的な数字にすることで家計を実感を伴った形で見直すことができる……というわけですね。なるほどなるほど。

……ですが、根っからのズボラ人間にはこうした日々のレシートを集め、分類し、月末に集計して、検討というプロセス自体めんどくさい。そこで家計簿アプリを試してみることにしました。

家計簿アプリのような会計ソフトって、ずいぶん昔に使ってみたことがあるのですが、何やら入力や勘定項目の設定などなどが複雑で、結局宝の持ち腐れになってしまいました。それでずっと手を出さずにいたんですが、ちょっとネットで調べて使ってみたら、これがものすごく進化していて便利になっていました。

私が使ってみたのは「マネーフォワードME」というアプリで、「お金の見える化アプリ」というそのまんまの惹句が使われています。機能限定版は無料で使えますが、私はしばらく使ってみて便利だと思ったので有料版の「プレミアム」に乗り換えました。

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▲画像は同アプリの App Store から。

同様のアプリはいくつかあって、たぶん機能的にはそれほど変わらないと思います。このマネーフォワードMEについて言えば、ほとんどすべての収入と支出を記録して「見える化」することができます。上述したような買い物の際のレシートはすぐに写真に撮って数値化できますし、生活全般をできるだけキャッシュレスにしたいと思っている私にとって、銀行口座、証券口座、クレジットカード、各種ポイントカード(あまり持ってないけど)をはじめ、電子マネープリペイドカードまでほとんどの収入と支出をアプリに紐付けできるこのアプリはとても「気持ちがいい」です。

そう、お金を「見える化」すると気持ちがいいんですよね。言葉を変えればお金に対する漠然とした不安や、その反対の根拠のない楽観までも払拭することができるとでも言いましょうか。「財布の紐を握る」という言葉がありますが、文字通り自分でお金の出入りをきちんと把握できているという状態がこれほどスッキリ感をもたらしてくれるというのは、ちょっと予想外でした。

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https://www.irasutoya.com/2017/02/blog-post_29.html

ちなみにいまのところこのアプリは PayPay など一部の電子マネーには対応しておらず、PASMOモバイルSuicaのように紐付けできません(これはPASMO側の問題ですが)。それでもお金の出入りについてさまざまな機能やアラートが準備されているこのアプリはとても便利だと思います。お金の出入りの情報を全部ネットに渡しちゃって大丈夫かという懸念は頭をよぎりますが、すでにGoogleなどをはじめとするネットサービスに家族や親族が知る以上の自分の情報を握られているに等しい現代ですから、今さら何を、という感じですか。とにかく、しばらく使ってみようと思っています。

ネットカルマ

二日ほど前の東京新聞朝刊に載っていた佐々木閑氏のこちらのコラム、とても共感を持って読みました。

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ネット社会の到来によって、仏教で言うところの「業(カルマ)」が「実際の物理作用として実体化」したというの、スゴくよくわかります。いわゆる「炎上」というのはその実体化の一つですよね。前日も某大手回転寿司チェーン店のアルバイト従業員が「悪ふざけ動画」をネットに投稿、炎上を引き起こして同社の株価が急落、会社側はこのアルバイト従業員を解雇するとともに法的措置を検討……というニュースに接したところです。

佐々木閑氏は「まずはとにかく、言葉の制御である」とおっしゃいます。ネットやSNSでの発言、さらには日常会話まで「心に浮かび上がる悪意を抑える努力、穏やかに理をもって語る努力」が必要だと。「言葉を凶器として振り回」してはいけないと。これも大いに同感です。

私は常日頃から「実生活で人に面と向かって言わないようなことはネット上でも言わない・書かない」というのを肝に銘じているのですが、それでもネットにはなにがしかの魔力みたいなものがあって、ともすれば気が大きくなったり緩んだり、あるいは知らず知らずのうちに「自分を盛る」衝動に駆られていることもしばしばです。本当に危うい。いま書いているこのブログの文章だって、その自戒を完全に守れているのかどうか、心許ないものがあります。

ともあれ、こういう記事に出会えるから紙の新聞もやめられません。というわけで、佐々木閑氏のご著書である『ネットカルマ』もさっそく買って読んでみました。


ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出 (角川新書)

……いや、これは恐ろしい。ネット社会が、ある意味「信用履歴」の蓄積という側面を持っていて、ネット上での行動すべてが記録され蓄積され、それが将来個々人の「信用度」と紐付けされて利益不利益につながってくるというのは十分に分かっているつもりでした(中国などでは「芝麻信用」などを始めとしたしくみが既に「実用」のステージに入っています)。だからこそ実生活とネットで自分を使い分けないことを自戒としているのです。

ところが佐々木閑氏によれば、いまとこれからのネット社会は IoT や AI などの技術革命とも相まって、私たちが予想もしなかったような「因果応報」の世界に入っていくのであり、その苦しみからの「解脱」は必ずしも容易ではなく、よほど心の腰を据えて望まなければならない課題になるだろう、いや既になりつつある……とのこと。

ううむ、恐ろしい。私自身はそうしたネットの「業(カルマ)」が我が身に降りかかってきたという深刻な経験はまだありません。Twitterで時折、自分のツイートが元になって他人からいわゆる「クソリプ」を投げつけられ、どんよりした気分になることはありますが、これはまあスルーでもミュートでもブロックでもすればよいのですから、まだ対処のしようがあります。降りかかった火の粉は払えばいい。

むしろ問題なのは、自我が強くなりすぎるという点でしょう。ネットは実社会では考えられないほど他者との「界面(インターフェース)」を拡大してくれる仕組みですから、ともすれば根拠のない全能感や多幸感、あるいは逆に被虐感や劣等感、嫉妬心などを育みやすいと思います。フォロワー数や、コメント・ブクマの多寡に一喜一憂し、ネット上の見えない相手(見えないがゆえに巨大視する)に向かってあれこれの説明や弁解をし、自分を「盛る」という心性を肥大化させてしまうのではないかと。ネットにおける苦しみは他人が問題なのではなく、まさに自らが招く「業」というわけです。

佐々木閑氏は仏教哲学や仏教史がご専門の研究者で、現代のネット社会におけるさまざまな負の側面が、古代インドに生まれたブッダの智恵によって鮮やかに照射される、その明快さに心動かされました。またネット社会が複雑かつ巧緻になるがゆえのひとつの帰結として「非寛容」が世の中を覆いつつある現状にも触れ、そこからの脱却にも一筋の希望を見いだしている点に打たれました。ネットユーザー必読の一冊かと思います。

内向型人間のすごい力

スーザン・ケイン氏の『内向型人間のすごい力』を読みました。内向型と外向型という二つの性格の型をめぐって、これまでの研究から明らかにされた科学的知見を元に、企業や教育現場などでの対人関係のあり方を論じた本です。


内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える (講談社+α文庫)

原著は2012年にアメリカで出版されてベストセラーになった『Quiet』で、それが翌年邦訳され、私が読んだのはその文庫版です。「内向型」をキーワードにした関連書籍や類書が数多く出ていることからも、反響の大きさがうかがえます。こちらのTEDトークでは、そのエッセンスが語られています。

youtu.be

個性の発露と積極的なコミュニケーションこそ至上で、社交的でなければいけない、引っ込み思案ではいけない、自分の考えを堂々と主張できるようになることが成功の鍵……といったようなスタンスこそアメリカ的な価値観だと考え、アメリカは外向型人間の国だと見ている人が自他共に多いと著者はいいます。

日本人も例外ではなく、こうしたポジティブ信仰とでもいうものは職場でも学校現場でも繰り返し強調されていますよね。グループワークなどでいち早くリーダーシップを発揮できるかどうか、個性的な意見を出せるかどうかが「有能さ」の証、のように思われているフシもあります。……でも、その当のアメリカ人は、その三分の一から二分の一が内向型だと著者は明かします。そして世界にはもっと内向型の比率が高い国々があるだろうと。

この本では単に人間を外向型と内向型に分けるだけではなく、人によってそのどちらの性格をも一定程度の割合で持っていること、その一方で生まれついた性格は変わりにくいものの、うまく付き合う方策はあるということ、さらには職場や学校現場で内向型の人々に対する理不尽なプレッシャーを回避するための提案などが語られます。そのどれもが、私にはとても腑に落ちるものでした。なぜなら、私も(この本の分類に従えば)間違いなく内向的な性格の人間だからです。

ご自身も内向的な性格だというスーザン・ケイン氏が、かつて講演を依頼された時の描写は「これ、まんま私のことだ!」と驚きました。

・普段は自殺など考えたこともないが、大切な講演を翌日に控えて、頭のなかは不安と心配でいっぱいだった。もし緊張で口が渇きすぎて、しゃべれなくなってしまったら、どうしよう? もし、聴いている人たちを退屈させてしまったら? もし、演壇上で気分が悪くなってしまったら?
・目覚まし時計を見た。時間はすでに六時半。少なくとも一番つらい時間はもう過ぎた。講演さえ切り抜ければ、明日はすっかり自由の身だ。だが、その前に、何とか本番を乗り越えなければ。私は暗い気分で身支度して、コートを着た。
・車に乗っているあいだずっと、いったいどうして自分をこんな羽目に追い込んでしまったのかと後悔していた。
・目的地に向かいながら、ここでちょっとした地震かなにかが起きて、セミナーが中止にならないものかと心の奥で祈っていた。そして、そんな罰当たりなことを祈ったことに罪の意識を感じた。
セミナーなんて二度としない、そのとき私は心に誓った。

わははは(笑い事ではありませんが)、これは通訳の仕事を承けた時の私と全く同じです。そして通訳を学んでいる生徒さんの中にもこういう方はけっこういらっしゃいます。

qianchong.hatenablog.com

私自身は、これはひとえに自分がこの仕事にあまり向いていないからだと思っていたのですが、確かに向き不向きもあるものの、もっと大切なことはそういう自分の「性向」をきちんと把握して、それに会わせたマインドセットを考えていくことだったんですね。それをこの本で教えられました。

もうひとつ、この本で非常に興味深いのが、この本に登場するアジア系アメリカ人、とりわけ華人の「内向性」がアメリカ人との大きな違い、あるいは優秀さの背景にあるものとして指摘されていることです。「中国では、静かな人は賢いとみなされる」「勉強する、いい成績をとる、波風を立てない。生まれつき静かにするようにできているの」などという証言が紹介され、さらには日本の諺や古典、中国の老子の言葉なども引用されています。

なぜこれが興味深いかというと、私は職場や学校現場で「極度に内向的な日本人に比べて外向的な華人のみなさんは……」といったようなものいいを時折耳にするからです。あたかもスーザン・ケイン氏が「外向的アメリカ人」と「内向的華人」という比較で使った構図をそのまま「外向的華人」と「内向的日本人」という構図に引き写したかのようなのです。アメリカ人にとっては十分に内向的に見える華人でさえ、私たち日本人から見れば十分に外向的……ということは、日本人は世界で最も内向的な人々なのでしょうか。

もちろんある民族や国民すべてを一つの型に当てはめることはできませんから、これはいわば文化背景が人々の対人関係に及ぼす影響、その可能性といった範疇を出るものではありません。ただそう考えてくると、いまの日本で「よきもの」として取り入れられているグループディスカッションや人前でのプレゼンテーションなどの技術、コミュニケーション重視の語学、「会議で発言しないものは去れ!」的な価値観はもう一度見直して見るべきではないかと思えてくるではないですか。それは本当に私たちの求めているものなのだろうかと。

かくいう私も教育現場でパブリックスピーキングや演劇などを通して、人前でより積極的に発信することを生徒に課しています。それは人前で話すという通訳者の特性を鑑みた学校のカリキュラムではあるわけですが、それを「指導」なんかしちゃっている自分自身がこの本によれば典型的な「内向型」なんですよね。読み終えたいま、う〜ん、困ったなあというのが正直な感想です。さて、どうしましょう。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_823.html

無人島に一枚だけレコードを持って行くとしたら

無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら?」という問いがあります。繰り返し繰り返し熟読玩味するに足る愛読書を持っているかどうか……というのはなかなかに厳しい問いですよね。それまでの読書体験と、この先の人生観を同時に問われているようなものですから。

本ではなく、レコードを持って行くとしたら、というバリエーションもあります。ストリーミング配信が主流の時代に「レコード」というのもおかしいですが、まあ現在でも音楽の作り手側には「アルバム」という概念がけっこう根強く残っているようですからよしとしましょう。要するに愛聴盤ということですが、私はもうバッハの『ゴルトベルク変奏曲』をおいて他にありません。

学生時代に、知人からこのアルバムを教えてもらい、以来30年以上聴き続けています。カナダのピアニスト、グレン・グールドがその死の直前に録音した二度目の『ゴルトベルク変奏曲』です。


J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲(81年デジタル録音)

このアルバムはもう繰り返し繰り返し、すり切れるくらいに聴きました(CDだからすり切れないけど)。

若いころ、農業のまねごとをしていたときに、周囲の農家さんが作る低農薬みかんの産直販売事務もやっていました。全国から注文がはがきやファックスで舞い込んで(まだメールはそんなに普及してなかった時代です)、その数を元に農家さんに発注し、宅配便の発送票を何百枚もひとりで書き、運送業者さんと一緒にトラックへ積み込むという仕事。すでにパソコンが登場、ドットインパクトプリンタがあった時代だと思いますが、なぜ手書きなどという生産性の極めて低いことをしていたのか、今となっては謎です。

とにかくその延々と続く手書きの作業中に、グレン・グールドが弾く『ゴルトベルク変奏曲』をエンドレスで聴いていたのです。何度聞いても飽きず(変奏曲だというのもその理由でしょうか)、単調な労働で疲れる心身を癒やしてくれたこの一枚は、本当に自分に寄り添ってくれるような存在に感じられました。

ゴルトベルク変奏曲』のさまざまな「変奏」

この一枚がきっかけとなって、その後さまざまなアーティストの『ゴルトベルク変奏曲』を聴きました。ピアノだけでなく、チェンバロ版、弦楽版、管楽版、ギター版、さらにはジャズアレンジのものまで。これだけ多くのアーティストがこの大曲に挑戦しているのは、やはりこの曲が多くの人にとって特別な存在になっているからなのでしょう。

音楽ストリーミング配信の時代になって、私は今でもSpotifyでこの曲をよく聴いています。特に通退勤時の、殺人的なラッシュアワーで殺伐とした空気に染まっている電車内で『ゴルトベルク変奏曲』のアリアを聴いていると、とても落ち着くのです。電車の騒音でところどころ聞こえなくなっても、アリアに身を委ねているだけで癒やされる。Spotifyでは『ゴルトベルク変奏曲』のアリアだけを集めたリストも作っています。いまのところ293曲、合計18時間になんなんとするリストになっています。電車内で息苦しくなったら、これを延々聴いているわけです。いや、どんだけ都会で病んでいるんだということではありますが。

このプレイリストはとにかく片っ端から『ゴルトベルク変奏曲』のアリアだけを集めたものですから、ときどきはっとするような新しい発見があります。先日はとあるピアニストの演奏に引き込まれました。この方のアリアはとにかく端正で、技巧や装飾性といった側面が禁欲的なまでに抑えられているような気がしたのです。気になってアリアだけではなくアルバムの変奏すべてを聴いてみました。

素晴らしい演奏だと思いました。高度な技術を「ドーダ!」とばかりに見せつけるのではなく、ピアノ演奏の基本に、そしておそらく楽譜にも忠実に、個性や「我」みたいなものをできるだけ表に出さないように弾いているような気がするのです。一歩間違えば単に未熟なだけじゃないかと誤解されそうですが、決してそうではありません。ピアニストのお名前はNadine Deletaille氏。ネットで検索しても日本語の情報が見つからないのですが、ベルギーのピアニストだそうです。そしてSpotifyにはこの『ゴルトベルク変奏曲』しかアルバムが登録されていません。

open.spotify.com

氏の演奏は地味と言えば地味です。若い頃だったら「なんだこれ」と思ったかもしれません。それがこの歳になって「沁みてくる」というのが面白い。やはりバッハの『ゴルトベルク変奏曲』は、無人島にひとつだけ持って行く「人生の愛聴盤」にふさわしいと思います。

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「リベラル」ゆえの偏狭さ?

昨日cakes(ケイクス)で拝見した、渡辺由佳里氏のこちらの記事には色々と考えさせられるところがありました。

cakes.mu

「こんまり」こと近藤麻理恵氏の「片付け本」は私もずいぶん前に読んでハマったくちで、以来洋服のたたみ方やしまい方はずっと「こんまり」方式になっています。その氏がアメリカで大人気になっている反面、英語があまり話せないことを揶揄する論調があり、さらに「通常は多様性や人権を重視しているとみられている」リベラル活動家が言語ナショナリズムとも言える偏狭さを露呈……というのがなんとも興味深いと思ったのです。

記事の最後のほうに、筆者である渡辺由佳里氏のご友人のこんな言葉が紹介されています。「でも、私たちも気づかず別の失礼なことをしているかもね。体験していないことを想像するのは難しいから」。うんうん、その可能性は私たちの周囲にも常にありますよね。例えば「ここはアメリカだ、英語を話せ」という心性は、日本のコンビニ外国人店員に対する一部の日本人の「ここは日本だ、(きちんとした)日本語を話せ」といった冷淡な対応と通底している気がします。

以前Twitterでこんなツイートをしたことがあります。

このツイートにはずいぶん多くのリプライが寄せられ、その多くは不寛容な日本人に対する異議申し立てでしたが、一方で少なからずいわゆる「クソリプ」に類する反応があり、その多くは「日本で働く以上、甘えるな」というスタンスでした。私はこれ、「プロ意識」や「自己責任」などの言葉でうまく糊塗した明らかなレイシズムだと思います。

この件については以前にブログの記事をまとめたことがありますが、「ここはアメリカだ、英語を話せ」あるいは「ここは日本だ、(きちんとした)日本語を話せ」などとおっしゃる方は一度外語を真剣に学んでみればよいと思います。母語と外語の往来がどんなに難しく深く、そしてエキサイティングであるかが分かります。その先に異なる言語や文化をその身に宿す人々への寛容も敬意も生まれてくることでしょう。

qianchong.hatenablog.com

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_820.html

「正しいことをしている」の罠

ところで、上掲記事にある「通常は多様性や人権を重視しているとみられている」リベラル活動家が意外な偏狭さを露呈というの、日本でも同じ「リベラル界隈」によく見られる現象だと思います。党派性や主張の純粋性、無謬性にこだわるあまり、非寛容に陥る方がいるんですよね。いや、党派性や確固たる主張があるならまだ良いほうかもしれません。なかには単に短慮軽率なだけじゃないかという幼稚な非寛容もあり、私も身をもって体験してきました。

例えば私は若い頃、環境保護や公害告発に関わる団体で仕事をしていたことがあります。その職場は喫煙が自由にできる環境だったので禁煙や分煙を提案したら、ものすごいバッシングを受けたのです。「禁煙」の「禁」の字が民主的じゃないなどと言って感情的に反対する方、「お前、タバコを吸う権利を侵害してるんだってな」と恫喝する方、果ては「じゃあアンタの趣味の編み物の、編み棒の擦れる音はどうなんだ」とおっしゃった方……。

当時は新幹線をはじめJRの長距離列車内でも喫煙ができた時代ですから、まあその当時の民意の限界と言えなくもありませんが、曲がりなりにも公害による健康被害や人権侵害を告発し、反原発運動なども展開していた団体の職員や活動家にして、多くがこの認識だったのです(もちろん応援してくださる方もいました)。

その団体で私は、支援者や協力者向けニュースレターの編集をしていたのですが、あるとき文章の筆者名を「text by…」などとこじゃれてみたら(若気の至りですね)すぐに「外国崇拝」「アメリカ帝国主義の手先」等のびっくりするようなクレームが、それもたくさん届きました。これはすでに言語ナショナリズムですらなく単なる思考停止じゃないかと思い、それが「この界隈」を一歩引いて見るようになった契機でした。ほどなく私はその団体を辞めました。

その後私は中国語を学び、「日中友好」を掲げる団体関係のお仕事をしていました(お仕事の傾向が似てますね)。あるとき、その団体が企画したツアーに添乗して訪中した際、ハルビン市内でお年寄りの何名かが急に姿が見えなくなったことがありました。慌てて探していたら、そのお年寄りたちが路地(というか一般の住宅の裏庭)から出てきて安堵するも「そこらで用を足してきた」と言うので驚きました。人さまの敷地に勝手に立ち入ってのこの狼藉、日頃この人たちが中国の人々をどのように見ているかは一目瞭然ではありませんか。若かったとはいえその場で叱責しなかったことはいまでも悔恨の極みです。

一部の極端な例でしょうか。いえ、ほかにも私は労働組合フェミニストの団体などでもパターンこそ違え偏狭な方々に接して、そのたびにがっかりし、うんざりしてきました。これらは「自分は正しいことをしているのだ」という意識から生まれる根拠のない増上慢のなせる技ではないかと思います。そして日頃「リベラル」なイメージを振りまいているだけによけいたちが悪いとも。

リベラルの退潮が叫ばれて久しいですが、その理由の一つにはこうした思考停止や非寛容や偏狭さがあるのかもしれません。では……自分はそうではないのか。冒頭でご紹介した渡辺由佳里氏の記事はこのように結ばれています。

無意識の偏見や差別をなくすのは誰にとっても無理だと思うが、ときどき「自分にも気づいていない偏見があるだろう」と思い出すのは悪いことではない。

本当にその通りですね。そして、そうした自分でも気づいていない自分の偏見を指摘してくれるような人との関係を積極的に築いていくこともまた大切だと思ったのでした。

遺体修復士のことば

今日も今日とて趣味(と実益を兼ねた)のディクテーションをやっていたわけですが。こちら↓は語速もゆっくりだし、そんなに難しい言葉もつかっていないけれど、とても深みのある動画で、通訳クラスの教材に使ってみようかなと思いました。極道から足を洗って遺体修復の仕事に就いた台湾人男性のお話です(中国語ですが、画面下のメニューから英語字幕も選べます)。

youtu.be

遺体修復は、遺体を生前の姿にできるだけ近づけるというお仕事。事故や事件などで損傷した遺体を修復したり、そこまで行かなくても遺族が穏やかな気持ちで見送ることができるように多少顔つきをふっくらさせるとか色艶をよくするとかいった修復もあるそうです。

映画『ゴッドファーザー』で、長男サニーを暗殺されたドン・コルレオーネが「これじゃ母親に見せられん」と遺体修復を頼む場面がありました。日本でも葬儀場などで「死に化粧」をしたり、火葬まで時間があく場合などに変色などを防ぐ措置をしたりしてくれますが、この男性の場合は事故や災害などで亡くなった方のための慈善事業として活動されているようです。

こうしたお仕事は「エンバーミング」と呼ばれ、業界団体が「エンバーマー」という国家資格創設をめざしているという報道を読んだことがあります。

www.sankei.com

刑務所で何度も服役するうち、いつの間にか若い衆から「兄貴」と呼ばれるようになった自分に戸惑っていたこの男性、あるとき「これからは真人間になろう」と決意したそうです。そして技術を身につけ、澎湖での航空事故、高雄での大規模ガス爆発事故、台南地震で倒壊したマンションの現場、昨年の宜蘭列車脱線事故など様々な現場から招請されて遺体修復を行ってきた彼の言葉は、訥々としていますがとても重みがあります。

もしこういう言葉を通訳する機会があったとしたら、きちんとその思いを伝える仕事をして差し上げたいと思いますよね。そういう“職業精神(プロ意識)”を生徒のみなさんにも発揮していただけるとよいのですが。

一番おしまいの言葉がまたいいです。「死は積極的に向き合うもので、怖がるものじゃない。死を恐れるのは、残り時間が少ないとか、やりたい事をまだやってないと思うからだ」。うんうん、その通りですよね。

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牡蠣フライの思い出

先週この記事を拝見して、週末は絶対に牡蠣フライを揚げよう! と思いました。

www.asahi.com

スーパーに行くと牡蠣は「加熱用」と「生食用」の二つが売られていて、かつて私は、鮮度がいい方が「生食用」だと思って、いつもこちらで牡蠣フライを作っていたのですが、実はそういうことではないんですね。こちらの記事でそれを知りました。

note.mu

それで「加熱用」を使って牡蠣フライを作ってみたら、明らかにこちらの方がおいしい。いや、なにごとも思い込みは禁物です。

まず牡蠣を塩でそっともんで(あるいはざるに入れて優しく振っても)「灰汁」みたいなのをしっかり出したら水でよく洗い、キッチンタオルで水気を取って小麦粉をまぶし、大きいものはそのまま、小さいものはふたつ合わせて溶き卵にくぐらせ*1、パン粉をしっかりつけて新しい油で揚げるだけ。牡蠣フライって、一つ一つの作業を丁寧に行うことだけがコツみたいなもので、それほど難しい料理ではありません。

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牡蠣フライを揚げているといろいろなことを思い出します。

お義父さんがまだ生きていたときにも何度か揚げました。狭い家で同居していたときのあれこれが胸に去来して、ちょっと泣けてきます。若い頃、小さな出版社で編集者をしていて、コラムを担当してくださっていた映画評論家のおばさん(失礼)宅にうかがってパソコンやネット環境のセッティングを手伝ったお礼に「お座敷牡蠣フライ」をごちそうになったことも思い出しました。

独身の評論家氏は南青山のマンションの一室にたくさんの猫と一緒に住んでいて、ヘビースモーカーでしたが料理が天才的に上手な方でした。タバコの煙には閉口したけど、あの牡蠣フライはおいしかった。ダイニングテーブルで牡蠣を揚げながら突然「ねえ、あんた私と結婚しない?」と言われて絶句したのもいい思い出です。私がどぎまぎしているので「意外にナイーブ」とか言われましたが、ちょっと映画の見過ぎじゃないかとも思いました。

あああ、書いていたらまた食べたくなってきました。たぶん今週末も、揚げます。ちなみに牡蠣フライに添えるのはソースでもいいですけど、こちらで紹介されているキャベツをたくさん使ったコールスロー風のタルタルソースがもんのすごくおいしくておすすめです。

www.homarecipe.com

*1:これが定番ですけど、こないだNHKの「ガッテン!」で「バッター液」を使う方法を紹介していて、とてもおいしそうだったので今度試してみようと思います。

語学の先生がふと口にする妙諦

フィンランド語を細々と学び続けて10ヶ月ほど。これまで通っていたクラスは昨年末で最少催行人数を割り込んでしまったとかで開講されなくなってしまいました。語学のクラスって、初級から中級にさしかかるあたりで継続する方がぐっと減るんですよね。東京都内では自分のレベルに合ったクラスがないので、先生のおすすめで毎週横浜まで通って学習を続けています。

先日の授業では、作文の練習をするときに先生(日本語母語話者)がちらっと「フィンランド語の構造は畢竟こういうことなんです」といった超重要なことをおっしゃっていました。「大事なことなので二回言います」ではなく、本当に「ちらっと」。

先生曰く、フィンランド語は、①主語と動詞の連動、②目的語の格の決定、③それに連動した指示代名詞や形容詞などの変化……と、大局的にはこれに尽き、この構造を瞬時に作っていけるかどうかが大切だと。しかも実際には③の要素が②の前に出てくることが多いので、目的語の格を予想しつつ指示代名詞や形容詞の形を作れるかというその感覚が鍵になると。

つまり……

minä(私) haluta(したい) mennä(行く) tuo(あの) sininen(青い) ravintola(レストラン)

……という単語の原型(不定詞)が頭に浮かんだとして、それを……

① minä haluan mennä …… 主語と動詞の連動で「私は行きたい」。
② ravintolaan …… 目的語を「〜へ」を表す入格に。
③ tuohon siniseen …… 目的語の格に合わせて、指示代名詞と形容詞も入格に。

……と一瞬で組み立て、“ Minä haluan mennä tuohon siniseen ravintolaan.(私はあの青いレストランに行きたい)”と言えるかどうかが鍵だというわけです。

同じように、“ minä ottaa tuo punainen kirja tuo keltainen pöytä ” から “ Minä otan tuo punaisen kirjan tuolta kaltaiselta pöydältä.(私はあの黄色いテーブルの上からあの赤い本を一冊取ります)”と言えるか、組み立てられるかどうかだと。

おおお、これはなんだかとても大切な指摘のように思えます。私だけかもしれませんけど、外語を話している時はこんな感じで(その外語の成り立ち方に沿って)話す先に次々と自動的に言葉が紡がれて組み上がっていくような「ドライブ感」があるからです。極端なことを言っちゃうと、外語が話せるかどうかはこの「オートマトン」的なドライブ感を獲得できるかどうかじゃないかとさえ思っています。

語学の授業ではこういう、その言語の母語話者ではない方が苦労しながら獲得し、抽出したエキスのような「妙諦」を聞き逃さないのが大切な勘所のひとつなんじゃないかと思うんです。中国語で言えば「動詞をめぐって補語とアスペクトが働き、細やかでヴィヴィッドな表現を作り出してる」と喝破されるようなものですね。

語学の先生は、ときどきこういう「妙諦」を口にされるんですけど、それらは意図的に繰り返しておっしゃっていることもあれば、ふとした弾みで思わず(おそらく先生も無意識のうちに)披露していることもあります。そしてそれは授業の雑談的なところにこそ現れたりする。だから生徒側はそこを聞き逃しちゃいけません。

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Minä haluan mennä tähän valkoiseen ravintolaan.

ブラボーおじさんと雑音許せないお兄さん

昨晩はキット・アームストロング氏のピアノリサイタルに行ってきました。プログラムはクープランパッサカリア、 バッハのトリオ・ソナタフォーレの「9つの前奏曲」ほか、17世紀イギリスのウィリアム・バードのチェンバロ曲や、リストの「バッハの動機による変奏曲」など「難しめ」のラインナップでした。

開演前にご本人も登場してのインタビュータイムがあり、このプログラム構成の意図について聞かれると「必ずしも聴く側が楽しめるだけではなく、作曲家自身がどのような考えの末に曲を作り出したのか、いわば作る側の楽しみも感じつつ演奏したい」みたいなことを啓蒙思想なども絡めながら話されていました。う〜ん、これもなんだか「難しめ」(長い長い発話を落ち着いて淀みなく、ひとつの冗語も差し挟まずに伝えた通訳者さん、素晴らしかったです)。

でも演奏が始まってみれば、そのクリアで美しい音の世界に存分に浸ることができました。クラシック音楽をホールで聞くのは久しぶりだったのですが、やはりいいものですね。

qianchong.hatenablog.com

ところで、私はホール後方右側の通路脇に席を取ったので、斜め左前方にある舞台が見やすい位置だったのですが、私の前に座られた細い縁の眼鏡をかけ、薄いセーターを肩から羽織った、30代後半とおぼしき痩せ型の音大大学院生風(ステロタイプな偏見ですね。ごめんなさい)な男性が、上半身を左側に「ぐ〜っ」と乗り出して聞いてらっしゃったので、舞台の演奏家がほどんど見えませんでした。

まあピアノリサイタルは別に舞台を見てなくてもいいので、音に集中して楽しんでいたのですが、この男性、なぜか頻繁にホール内のあちこちを、そして時には虚空を「キッ!」と睨むんですね。これが飼い犬か飼い猫だったら「やだ、そこに何かいるの?」ってホラーな世界になっちゃう感じです。

そんなこんなで、リサイタルが終わってアンコールの拍手も鳴り止み、みなさんが帰り支度をしている中、この男性は通路を挟んで左斜め数列前に座っていた初老の男性のところにつかつかと歩み寄ると「×××じゃねえよ(聞き取れず)、迷惑なんだよ!」と怒鳴っていました。そして戻って来ながら「ったく、あのクソジジイ!」とも。リサイタルの余韻がいっぺんに吹き飛んでしまいましたが、同時に心の中で「お・ま・え・が・言うなぁっ!!」とツッコミを入れてしまいました。

たぶんこの男性は、リサイタル中のほんの少しの雑音も許せない方なんでしょうね。くだんの初老の男性の何かが気に入らなくて、終演後に不満が爆発してしまったようです(もっとも同じ方向に視線を向けていた私は何も感じませんでしたが)。たしかにピアノのソロリサイタルはそういうデリケートな雰囲気ではあります。とはいえライブですからね、そして聴衆も生きている人間ですからね、そりゃある程度の雑音は入りますって。

私は海外でクラシックのコンサートを聴いたことは数えるくらいしかありませんが、こういうお兄さんが出没するあたり、日本のクラシックコンサートはちょっと神経質すぎるような気がします。そりゃまあ「ブラボーおじさん」みたいなのは勘弁してほしいと私も思いますけど、もうちょっと肩の力を抜いて、寛容の心を持って楽しみましょうよ。せっかくの美しい音楽なんですから。

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https://www.irasutoya.com/2018/12/blog-post_95.html

「良記事」における据わりの悪さ

「良記事」という言葉があります。SNSなどでブログなどの記事を引用する際に「役に立ついい記事だから、みなさん読みましょう」といったニュアンスで使われる言葉です。「良い記事」だから「良記事」で名詞みたいですけど、「とても良記事」とか「たいへん良記事」などと形容詞みたいに使われることもあります。

「良い記事」を「良記事」とするのはTwitterの140字制限がゆえに言葉の経済性を追求した結果なのかもしれませんが、私はこの言葉にいろいろと違和感を覚えるのでなかなか使えないでいます。

まずは「良+○○」という組み合わせの単語が何となく据わりが悪いんですよね。いま試みにいろいろと自分の語彙をさらってみたんですが、ほかの例を思いつかないのです。

良い書籍、良い地域、良い部屋、良い性格、良い政治、良い企業、良い選択、良い思想、良い社会……を良書籍、良地域、良部屋、良性格、良政治、良企業、良選択、良思想、良社会とは(まあ意味は伝わるけど)言わないですよねえ。一部の業界では言うことがあるかもしれないけれど、広く人口に膾炙しているとは言いがたいように思います(いま「良」の漢字ばかり打っていて、ゲシュタルト崩壊を起こしました)。

ネットで検索したら「良肢位(りょうしい)」という言葉がヒットしました。意味は「関節の運動が障害され動かなくなった状態でも、筋の萎縮や関節拘縮を最小限にとどめ、機能障害の影響を最も小さくするようにした関節のもっとも良い位置のこと」だそうです。これもまあ医療業界の専門用語で、一般にはあまり耳なじみのない言葉です。

それにもうひとつ「良記事」にはどこか「上から目線」的なニュアンスを感じるのです。これはもうひとえに、Twitterを始めとするSNSがそもそもそういう「風土」の場所ですからいたしかたないのですが、人様の記事や文章を引用して、いえ、時には引用もせず、自分の見解すらつけ加えずにリンクを張っているだけなのに「良記事」ってお墨付きを与えるアンタは一体誰なんだと思いません? え、別に思わない? それは困ったね……。

ともかく、あのTwitterなどの言語空間に特有な、投げつけるような決めつけるような「もの言い」、その雰囲気を体現しているような「良記事」という言葉はなんだかエラソーで、据わりが悪くて使えないな、と私は思うのです。じゃあSNSなどに近づかなきゃいいじゃない。そうですね、その通りです。

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https://www.irasutoya.com/2016/03/blog-post_24.html

太るための“吃得精”

朝一番の授業は9:10に始まるんですが、留学生のみなさんはたいがいぎりぎりまで朝食を食べています。特にアジア圏の留学生のみなさんは、お国でも手軽な外食文化が発達していて自宅で朝食をとることが少ないからか、ほとんどの人がコンビニやファストフード店で買い求めたサンドイッチやハンバーガーなどを授業直前まで(人によっては授業が始まってからも)食べています。

先日は台湾の留学生が何やら白い塊のようなものを食べていたので「何だ?」と思ったら、サラダチキンでした。彼はジムで身体を鍛えているそうで、脂肪が少なく良質なタンパク質ってことで朝食代わりにしているらしいのです。なるほど、筋トレとサラダチキンはなかなか相性がよさそうです。『筋トレが最強のソリューションである』でも推奨されていましたし、そういえば最近ファミリーマートでもこんなCMをやってますよね。

www.family.co.jp

ただ、コンビニやスーパーで売られているサラダチキンって、パッケージをよく見るとけっこういろいろなものが入っているんですよね。もちろん基準値内の添加物などで特に問題はないんでしょうけど、頻繁に食べるものとしては何となく気になります(非科学的な態度かしら)。それに、ちょっと塩分が強すぎるし、パサパサしていてあんまりおいしくありません。似たようなものは炊飯器を利用して自分で作ることもできます。

qianchong.hatenablog.com

食が細くなりすぎる

男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴に苛まされ、定期的にジムに通ってトレーニングを続けるようになって一年あまり。おかげでずいぶん健康になりました。最近はもうすこし体力と筋肉をつけたいという欲が出て筋トレに力を入れつつありますが、ここへきて食が細くなるという課題に直面しました。

もともと、午後からの膨満感と眠気がひどいので昼食を抜くようにしたらとても爽快……というわけでお昼は全く食べないか、食べても「SOYJOY」みたいなバーとか「ロカボナッツ」の小袋とかで済ませてきたのですが、その結果少し痩せてしまいました。お腹周りがひっこんでスリムになったといえば聞こえはいいのですが、筋トレしているのにあまり筋肉がついてこない……これはトレーナーさんによれば、栄養が足りないので自分の筋肉を消費しようとする結果じゃないかとのこと。

せっかくトレーニングをしているのに、何となくもったいないような気がして、それで最近は少し無理をしてでも食べるように切り替えました。お昼は相変わらず少なめですが、そのぶん朝夕をきちんと食べる、それも良質のタンパク質と糖質をきちんと摂るように心がけています。何かと悪者扱いされる糖質ですが、適量の糖質は必要なんですよね。

トレーナーさんからは「できればトレーニングの前後30分くらいの間に、少量の糖質を摂ってください。例えばおにぎり一個でも」と言われたので、これもできるだけ実践しています。まあメタボ対策のために食事の量を制限するとか、糖質を抑えるとか考えずに済んでいるだけでもありがたいと思わなければいけないですね。

それにこのまま食が細っていくとまずいな、とも思いました。食が細くなると、なかなか元に戻せません(いまその大変さを実感中)。そうやってずるずる後退していくと、どんどん体力も失われてしまうのではないかと。だからこそよけいにきちんと食べなければ、それも良質のものをバランスよく食べなければと——ある意味当たり前すぎるくらいですが——思ったのです。要するにもう少し太ろうということです。いや〜、太るための食事を考えるなんて、人生で初めての経験です。

中国語に“吃得精”という言葉があります。日本語にしにくい言葉ですが、よりよく食べる、良質なものを選んで食べる、といったような意味。この歳になって改めて“吃得多不如吃得精(食事は量よりも質)”の大切さをかみしめているのです。

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https://www.irasutoya.com/2017/09/blog-post_714.html

藍と白の世界——アラビアと白山陶器

フィンランドアラビアという陶磁器メーカーがあります。北欧なのにアラビアってのが不思議ですが、その由来がこちらのウェブサイトで紹介されていました。

創業当時工場の周辺がスウェーデン人の別荘地だったそうで、遊び心で通りに世界の都市の名前を付けていたらしく、ちょうど工場のあるところがアラビア通りだったところに由来しているそうです。
——scope(スコープ)さんのウェブサイトから

へええ、そうなんだ〜。面白いですね。

最近のアラビア社は、なんだかとっても「ムーミン推し」なんですけど、私が一番ひかれるのは「バレンシア」というシリーズです。すでに生産中止になっていて、アンティークショップではかなりな高額で売られていますが、私は以前ネットであちこち探して、良心的な価格のところからいくつか購入したことがあります(写真はいずれも、ヘルシンキにある食器店・Astialiisaさんのウェブサイトから。こちらは品揃えがよくて、日本から通販でも買えて、対応がとてもスピーディかつ親切で、おすすめです)。

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このシリーズも、以前書いたロイヤルコペンハーゲンの「ブルーフルーテッドメガ」同様に藍色の釉薬が魅力的ですが、同じ北欧でもたたずまいが全く違いますよね。ぶっとい筆でほとんど塗りつぶすように模様を描き、わずかに残った白地が軽妙なリズムを奏でているという、粋なデザインです。それでもどこか中国や日本の蛸唐草模様あたりを思い浮かべてしまうのは、東洋人の贔屓目かしらん。

アラビアで現在も販売されている製品では「トゥオキオ(=瞬間)」というシリーズがわずかにこの伝統を受け継いでいるようです。李禹煥(リ・ウファン、이우환)氏の抽象絵画みたいですよね。こちらは現行のシリーズなので、そこまでお高くありません。

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アラビアの「バレンシア」や「トゥオキオ」に似たテイストで私が好きなのは、日本の白山陶器が作っている定番の「ブルーム」というシリーズです(写真は白山陶器さんのウェブサイトから)。最近このシリーズの「どんぶり」が出たのですが、私は中くらいのボウルをどんぶり代わりに使っています。どんぶりとボウルとでは若干デザインが違っていて、ボウルの方が内側にも南天みたいな模様がついていてカワイイんですよね。

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白山陶器は、1958年からのロングセラーだというこちらの醤油差し(1296円!)がとても有名ですが、ほかにもとても抑制の効いた静謐な雰囲気の、素敵な器をたくさん世に送り出しています。


白山陶器 G型しょうゆさし 小 白磁

藍と白のこうしたシンプルな食器は、長く使っていても飽きが来なくて本当に重宝します。アラビアの「バレンシア」などアンティークにはなかなか手が出ませんが、白山陶器は良心的なお値段で普段使いにもぴったりだと思います。