インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

社会の静けさに明るい未来を見る

都民は不要不急の外出を避け、できるだけ自宅にとどまってほしいという呼びかけをうけて、ずっと家にこもっています。もともとはこの週末にチケットを買ってあったお能の公演があったのですが、ぎりぎりまで開催を模索したものの結局延期になりましたという通知が来ました。もうひとつ、カルチャーセンターの語学講座も一昨日の夜に休講との電話連絡が入りました。

メインの勤め先である学校からも、この春の新学期スタートを五月のゴールデンウイーク明けまで延期しますという連絡が来ました。非常勤で行っている他の学校からはまだ連絡がありませんが、こちらも何らかの対策が取られることでしょう。いずれにしてもこれまでに経験のない事態に直面しているわけですが、こんな中でも外に出て働き、社会を回しておられる方々ーー公共交通機関や物流やスーパーなどの店舗や、そして公務員の方々ーーに感謝したいと思います。

そしてまた、ここまで社会が停滞し、未来への希望もまだあまり見通せない中でも、暴動や略奪のようなことが起きていない点にも驚嘆しています。ニュースに接する限り、これは何も日本だけの現象ではなく、感染症の蔓延がもっと深刻な諸外国でも目立った破壊的活動は見られないよし。これは疫病というある意味誰の責任にも帰することができない事象に対して(一部の政治家は責任をどこかに負わせることに必死ですが)人々の間にある種の理性が働いているということなのでしょう。

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急に具合が悪くなる

哲学者の宮野真生子氏と人類学者の磯野真穂氏の往復書簡をベースにした『急に具合が悪くなる』を読んでいたら、がんの代替医療を巡る議論に関連して、「民間セクター・専門職セクター・民俗セクター」という概念が紹介されていました。自らの体の不調に対してどういう選択をするのか、そこでいちばん重要な役割を果たすのは家族や友人・知人といった自らの日常を構成する「民間セクター」です。

そこから、専門的な知識を持ち、権威からの付与による資格を持つ人々(つまりは医療者)にどういう選択をしたらよいのかの判断を求める、これが「専門職セクター」。ところがその専門職セクターに対する信頼がどこかで揺らいだり失われたりした際に、そのかわりとなって信頼や希望を与えるのが「民俗セクター」で、これが権威はないけれども明確な指針を与えてくれる代替医療という存在だというのです。

ここではエビデンスに基づいた判断をするという科学的な態度よりも、どれだけ希望や信頼が置けるかという、言ってみれば非科学的な態度が重視されているわけですが、それが完全に非合理的なことだとは思えないと磯野真穂氏は言います。専門職セクターから正しいと言われる標準治療を受け続け、それでも状況が改善せず、何が正しいのか、どう決定すればよいのかに疲れた患者が代替医療に救いを求めるのもわかると。

逆に、たとえ結果として最善の方法ではなかったとしても、ある程度の方向性を指し示してくれることこそ専門家セクターに求められることではないかと。さらには最善の結果にならなかったとしても民間セクターたる私たちはそれを責めないという覚悟が必要ではないかと。

この議論は、ここのところの新型コロナウイルスを巡る私たちと感染症の専門家との関係をも示唆しているようで興味深く読みました。いまのところ私たちが自暴自棄な行動に走らずに落ち着いて対処できているのは、私たちがまだ専門職セクターの人々に希望を信頼を託しているからなのでしょう。それはこれだけネットが発達した社会で、世界中の動きがデータになって可視化され、リアルタイムで私たちに届けられていることとも無縁ではないと思います。

今次の感染症が拡大し始めた当初は、「ごま油を鼻の穴に塗ると効く」的なデマがいくつも飛び出してほんの少しゴタゴタしましたけど、すぐに淘汰されて聞こえなくなりましたよね。また一部の国や民族などに憎悪の目を向ける差別的な言動も見られましたけど、これだけ全世界的に感染が広がったいま、そんなヘイトもかなり無効化された感じがします(もちろん一部には依然として馬鹿な人たちがいますけど)。

感染拡大の今後は全く見通せませんし、いまこの時点で感染症の症状に苦しんでいる人もいるので少々不謹慎かもしれませんが、私はいまのこの、どこか奇妙で共和的とでも言えそうな人々の冷静さや静けさ、科学的態度への信頼に、明るい未来を見るものです。今次の新型コロナウイルス感染症の流行は、私たちに新しい世界観や人間観、そして個々人に新しい人生観をもたらすかもしれません。