インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

薄暗がりが好き

私は「薄暗がり」が好きです。と言ってもそれは屋内についてだけで、屋外に出たらぱあっと明るいほうが好きですが。特に今日のような雪が降っている日など、しんと静まり返った家の中で電灯はつけず、雪の白さに反射してわずかに入ってくる外の明るさだけで本など読んだりしていると、無上の幸せを感じます。

若い頃は雪見酒が好きでしたが、いまはもう昼から飲むこと自体がしんどいので、やらなくなりました。褞袍(どてら)などに身を包み、寒いのにわざわざ縁側などに出て、股火鉢などしながらお酒を飲むなんての、もう一度やってみたいですけど、たぶん今やったら数分ともたずに奥に引っ込んでしまうかもしれません。

薄暗がりの中にある室内が好きなので、なるべく部屋の電灯をつけないで過ごしたいんですけど、私の妻は逆にとにかく明るい室内が好きで、あちこち電灯をつけて回ります。私が薄暗がりの中で新聞など読んでいると「目に悪いから」とダイニングテーブルの上にある電灯をつけちゃう。もとより老眼ですから、明るくしたほうがたしかに読みやすくはありますが、テーブルの隅々まで影がほとんどない空間というのは、なんだか落ち着きません。

谷崎潤一郎氏に『陰翳礼讃』という文章があります。日本の事物における、何もかもハッキリクッキリとはさせず、どこかくすんだ、沈み込んだ、茫洋としたたたずまいに一種の「美」を見出した名文です*1が、私もその美意識に共感するものです。もっともこの文章は、読んでみると分かりますけど、どこかお年寄りの繰り言的なくだくだしいところがあります。だから現代ではあまり「受け」が良くないかもしれません。

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陰翳礼讃 (中公文庫)

でも、薄暗がりは、ほんの数分待っていれば目が慣れてくれるものです。かつて東日本大震災の直後に、電力不足のため街中の電灯が間引かれていた時期がありました。あの非常時を懐かしむのも不謹慎な気がしますし、街の明かりは防犯などの意味合いもあることは分かっているのですが、それでも私は「ああ、これくらいでちょうどいいな」と思っていました。ほどなく電灯は元通りになってしまいましたけど。

能楽でも「薪能」とか「蝋燭能」という、通常の公演に比べて遥かに明かりの少ない中で行われる形式があり、聞いたところによると、過度にかつ安易に「幽玄」を強調しているからか、能楽通の方々からはあまり好まれていないみたいです。でも谷崎氏が書かれているように、豪華な能装束に金糸銀糸が散りばめられているのは、適度に暗いところでとぼしい明かりを反射する「レフレクターの役目をしたに違いない」とも思えるのです。谷崎氏は「もし能楽が歌舞伎のように近代の照明を用いたとしたら、それらの美感は悉くどぎつい光線のために飛び散ってしまうであろう」と言うのですが、これにもいたく同感です。

ところで「暗いところで文字を読むと目が悪くなる」というのは、ネットで検索してみるとどうやら迷信に近いそうですね。瞳孔は近くの文字を見るときに収縮しようとするのに対して、暗いところでは光を取り入れるため瞳孔が逆に開こうとする。このため、たしかに目が疲れやすくはなるものの、それと視力の低下は直接関係ないんだそうですよ。

*1:私はこの本で初めて“手澤”という中国語を知りました。