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インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

義父と暮らせば

細君の実家に引っ越して、はやひと月が過ぎました。

友人知人からは「お義父さんと同居? たいへんでしょう?」とか「マスオさん状態なわけね。気を遣うでしょう?」などと声をかけてもらいますが、まあ特に大きな問題もなく日々を過ごしています。

もとよりここはお義父さんが建てた家でして、我々は居候みたいな立場ですから、今までのように好き勝手に暮らすというわけにはいきません。何か問題があれば、その時はこちらが折れるべき・譲歩すべきと最初から決めて同居を始めたんですよね。

細君は実の娘ですからいろいろ強いことも言える立場ですし、これまでの確執(?)もあって様々なことが気になっちゃうみたいですが、まあ私はもともと「赤の他人」ですから。もめたときには「まあまあ」となだめる役割を担ってます。お義父さんにしても、私はもともと他人なので多少は遠慮があるのか、たいていの場合譲歩してくれます。

というか、細君とお義父さんがことごとにぶつかるの、同居してみて初めてその理由が分かりました。

似たもの同士なんですよこの二人。この親にしてこの子あり。生活スタイルの様々な点が似ているんですね。さすが親子だなあと思います。

あと、生活スタイルという点では、お年寄りに共通しているんじゃないかと思うのが、いろんな「掟」が多いことですね。お風呂に入ったら即カビが来ないようにタイルを拭きあげる、とか、台所のここの位置に必ずお盆を置く、とか、毎週やって来る行商の車ではこれとこれを必ず買う、とか、とにかく生活の隅々に、これまで何十年とかかった積み上げてきたこまかいやり方やスタイルがあって、その「掟」に背くといちいちストレスになるみたい。別に意地悪しているわけじゃなくて、生活の中で積み上げてきたものの可変域がとても狭いわけです。他の選択肢や、今までとは違うやり方等を創造したり吟味したりする必要性を感じないというか。

でもよくわかるんですけどね。私の実母だって今現在の生活スタイルを変えることにはかなり抵抗を示します。というか、そんなにフレキシブルに変えられたら、お年寄りは身体がついていかないんだと思います。「お姑さんに泣かされるお嫁さん」という古典的なシチュエーションの背景にあるのは、実はそういう、積み上げてきた生活を一ミリも変えたくない(変えられない)というお年寄りとの闘いのことなのかしらと、初めて肌感覚で理解できました。

それでも、じゅうぶんに根回しをして、じゅうぶんに説明をして、一気にじゃなくて少しずつ少しずつ変えていくなら、ほとんどの場合大丈夫なこともわかりました。というか、そうやって結果的に大きな変更になっても、もはや変更前のスタイルを覚えていなかったりします。何と言うかね、「愚公山を移す」的にちびちび変えていくのが吉ですね、お年寄りとの同居生活は。

今朝も、私の盆栽を狭い庭に並べさせてもらおうと思って、で、むかし木場で買ってきた古い水車に使われていた趣のある廃材を盆栽台にしようと思ってたんですけど、お義父さんは「場所はないし、そんな古い木材、シロアリがたかるし」ってんでかなり難色を示されてたんですね。でも、これくらいの幅でこういうふうになって、お義父さんが持ってる盆栽はこっちで……とていねいに説明して、じゃあちょっと実際に置いてみるからそこで見ててくださいねと言って仮置きしてみて、じゃあ今度はちょっと並べてみるからね……みたいにステップごとに判断を仰いで了解をもらって。で、いざ完成したら「うん、なかなかいい感じになったじゃないか」と、かなりご満悦のご様子。

やっぱり、何事も急激に変えないのと、向こうに判断の権利を預けて面子を立てるというのがポイントなんですね。私はもともとかなり短兵急に結論を急いで「今すぐここで、待ったなし」的に仕事を進めるタイプでして、それで会社勤めしているときはかなり衝突しましたし、前職を辞めたのもハッキリ言ってそれが根本原因だったりするんですけど、義父と暮らしてみてようやく、こんこんと理を尽くすことの意味についても改めて気づかされたような次第で。