インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「管理」しなくてもいいんじゃないか

教師というお仕事をしていると、つねに教わる方の人々、つまり学生さんたちとの間に一種の緊張関係があります。こちらは教え、学生は教わり、こちらは課題や宿題を出し、学生はその課題や宿題をこなす。教師はその進捗度合いや内容についてあれこれと「管理」を行うことになります。さらには出席を取るとか、遅刻や授業中の居眠りをたしなめるとか、そういうたぐいの「管理」もあります。

ごく当たり前の学校風景なんですけど、私はもうずいぶん前から、こういう「あり方」になじめなくなっています。小学校や中学校などの基礎教育・義務教育段階ならともかく、私が奉職しているような専門学校や職業訓練校などは、大人のための学びの場です。学ぶのも学ばないのも学生さんの自由。自分が学びたいと思うものを学びたいだけ学べばいい。それだけじゃないかと思うのです。同僚にそう言ってみたら「やや同意しかねる」という反応をもらいましたが。

もちろん教える側としては、できるだけ学生さんの学びに寄り添い、その学びが学生さんの糧になるよう様々な工夫を凝らします。時にはその工夫が学生さんの希望や要望に添わないこともあって、その時には柔軟に対応しようともします。それは当然のことです。だからそうした努力は惜しまないつもりではいますが、本来的に必要ではない努力もあるのではないかと思うようになったのです。

それはすなわち、学ぼうとしない学生を学ばせようとする努力です。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」というイギリスの(たぶん)ことわざがありますが、最終的に学びを自分のものにできるのは自分自身をおいて他にありません。しかも、私が一番よくないと考えているのは、学びたい人の学びを、学びたくない人が妨げるという状況です。

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https://www.irasutoya.com/2019/12/blog-post_78.html

うちの学校のカリキュラムは、グループ学習やチームでの発表などを数多く取り入れているのですが、積極的に取り組む人がいる一方で、とても消極的な人もいる。そのような場合、往々にして積極的に学びたい学生が足を引っ張られ「割を食う」のです。そうした様々な人々の間で協調を図るというのもグループ学習やチーム発表の目的のひとつである、という考え方もありますから、一概にそれらが悪いとは言い切れないでしょうけど。

というわけで、今年度は、私が担当している「字幕翻訳」の課題において、これまで行っていたグループワークをやめて、ひとりひとりが自分の「作品」に取り組むことにしました。素材となる映像も、これまではこちらが「選定」したものの中から選ばせていたのですが、これもやめて各人が好きなものを自分で選んでもらうように変えました。

積極的に学びたい人は自分にとって糧となるような素材を選び、なおかつ意欲的に取り組むでしょうし、それなりに課題を消化しちゃいたいという人は、それなりの素材を選ぶでしょう。それじゃ教育の役割を半ば放棄することにならないか……その懸念は確かにあります。同僚からもそんな意見をもらいました。でも、私はもう「管理」することに労力を割くのはやめたいのです。

それよりも、自分から「もっと水を飲みたい」と思った人に対して、もっと「こういう飲み方もあるよ」とか「こっちにはこんな水もあるよ」とか「水だけでなく食べるものも試してみたら」などとアドバイスする、そっちのほうにこそ労力を割きたい。「水を飲め」、つまり、勉強しなさい、訓練しなさい、真面目にやりなさい、遅刻をしないように、締め切りに遅れないように……という「管理」は教師の役割ではないんじゃないか、と思うのです。

もっと水を飲みたい、つまり自分からもっと学びたいと思う学生さんに、飲みたいなあと思ってもらえるだけのしかけ作りについては、これからも手を抜かないつもりでいます。……でも実はこれも私、本音のところでは疑っています。教師自身が本当に美味しいと思って水をごくごく飲んでいる姿を見せるだけでいいんじゃないかって。