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インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

同期の桜―お言葉ですが…8 座右の名文―ぼくの好きな十人の文章家 (文春新書 570)
  ここのところ、高島俊男氏の本を五冊ほど立て続けに読んでいる。『お言葉ですが……』文庫版の未読ぶん数冊と、『座右の名文―ぼくの好きな十人の文章家』にこれも文庫版が出た『漱石の夏やすみ』。
  『座右の名文』は、高島氏がいちばん大好きな著作家ベストテンをあげて、その文章の魅力を語ったもの。いやもう高島氏に語られると、読みたい本のリストがどんどん膨らんで困る。
  とはいえ、明治以後の作品ならまだしも、新井白石本居宣長などを読むのは、私にはかなり骨が折れるだろうなと思う。高島氏は『お言葉ですが……』の中で、「わたしはかつて馬に食わせるほど中国の現代小説を読んだ」と書かれていた。古文にしろ中文にしろ、並大抵でない読書量に圧倒される。学問の基礎のある人はちがいますね(高島俊男ふう)。
  この本は、テープレコーダーと編集者を前に本当に語りおろしたものなのだそうだ。高島氏の文体は肩のこらない読みやすいもので、常体に敬体が時折混ざる独特のものだ。常体と敬体が混ざってなおかつ違和感のない文章というのはなかなかお目にかかれない。この本は語りおろしとはいえ、『お言葉ですが……』で慣れ親しんだいつもの文体が展開されている。高島氏の文体を熟知した優秀な編集者の仕事だと思う。
漱石の夏やすみ (ちくま文庫 た 37-5)
  『漱石のなつやすみ』は、これも高島氏が『お言葉ですが……』でこう自著を紹介しているのにひかれて読んだ。

この本でわたしが書きたかったことは二つある。一つは漱石と子規との若き日の交わりである。もう一つは、日本人がいわゆる漢文なるものを学ぶことのばかばかしさである。

  特に後半部分、一見極端な物言いに読めてしまうのだけれど、『漱石の夏やすみ』を読めばなるほどと腑に落ちる。高島氏は、文脈も筆者の意図も文章の機微も全く無視していわゆる「漢文調」に訳し下す・読み下すことの愚を論じている。「チンプン漢文とはこのこと」と手厳しい。そして、そのような「漢文調」をむやみにありがたがる精神を批判している。

いうまでもないことだが、支那文にもいろんな気分の文章がある。おもおもしい文章もあるし、悲痛な文章もある。また、かるい調子の文章もあり、諧謔的な文章もある。
ところがこれを漢文にすると、どれもこれも全部一律に、荘重な文章みたいになってしまう。まことにゆうづうのきかないものなのだ。

  日本人が中国語を訳す際、漢字ばかりが並んだ字面に引きずられて必要以上に堅く訳してしまうというのはありがちな落とし穴だが、それにも絡む話だ。高島氏はかつて現代中国語も学ばれた方だから、その著書にはわれわれ中国語に関わる者にはとても参考になる話題がそこここに詰まっている。