インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

通訳者としてはテンションが高すぎます

「通訳者としてはテンションが高すぎます」。通訳者養成学校に通っていた頃、学期末の評価表に講師の先生からそうコメントされているのを見て、思わず吹きだしてしまったことがある。自分としてはいつも必死に訳出していたつもりなのだが、端から見るとパフォーマンスが過ぎるらしい*1
いやいや、自覚はある。学生の時「劇研」に入っていた後遺症で、ついついアクションや声がオーバーになるらしいのだ。
その昔、北京語を学び始めた頃、発音の授業中にも同じようなことを言われた。概して日本人は大きな声を出すのが苦手だ。しかも北京語のクラスは女性が多くて*2、みなさん恥ずかしがってあまり声を出さない。だもんで、老師(先生)の雷が落ちる。「みなさん、もっと声を大きく! お腹の底から出すつもりで!」。と、老師、私に向き直り、「あ、あなたはもう少し小さく、丁寧に、ね」。……す、すみません、ひとりアクセルベタ踏みで。
かてて加えて、私は顔がいかつい。小さな子供によく泣かれる。初対面の人には必ずと言っていいほど「何かスポーツやってる? 柔道?」などと聞かれる。ただでさえアツくて濃ゆい、輪郭を黒のマジックで縁取りしたような人間なのだ。そんな人間が「黒子」「空気のような存在」たるべき通訳者を志すというのは、う〜ん、マイク・タイソンがレース編みやるようなものかもしれない(笑)。
……自分の比喩に自分で落ち込みつつ、気を取り直して本題。ふたたびid:toraneko285さんの論文から。

◆「通訳者は空気のような存在、と言われ続けて」
空気のようであれという、理想の通訳者像に疑問を抱いてしまった。「空気のような存在」は通訳者の頭にすり込まれているキーワードだ。通訳養成校で訓練を受けるときにも、通訳者のエッセイでも、しばしば提起されていることだが、自分の身に照らして本当に「空気」であったことがあるのか、と改めて考えてみると、いかにも心もとない。さて、話し手や聞き手にとって自分が「空気」のようであったかどうか、これも実際にはわからない。我々は教師から、通訳に関する書物から、次のような教示を受けてきた。
●通訳者はコミュニケーションの主役ではない。
●しかし、通訳者がいないとコミュケーションは成立しない。
●通訳者が介在するコミュニケーションは本当は理想的ではない。
●君たちは「黒子」である。とても上手な通訳は「空気」である。
『日華翻訳雑誌』所収/『話し手はなぜ通訳者に話すのか――逐次通訳の場合――』

私自身は、通訳者養成学校に長く通えなかったせいか、たぶん直接こう教示されたことはないと思う。だが、通訳に関する書物には、確かにこうした「戒め」がよく出てくる。
けれど、私も自らのあまり豊富とは言えない経験に照らしてみて、自分が「空気」であったことがあるのか、やはりかなり心もとない。むしろ工事現場などでは、周りの騒音のためもあるが、発話者より大声で、メモ帳片手にゼスチュアも交えて、怒鳴るように通訳することもしばしばだ。こっそり告白すると、私の物言いに腹を立てて帰ってしまった作業員が、過去にひとり、いた。全然「黒子」やないやん。前回、話し手がみんな私(通訳者)にむかって話す、ということを書いたが、自分が訳出する際の問題もあるわけだ。
最近意識して自分で自分を観察してみたが、やはり訳出する時は、その発言をメインに受け取るべき人に向かってしゃべっている。たぶん訳出する私自身、相手の反応を確認しながらしゃべらないと、何となく不安になるからだろう。言葉や意味の切れ目で相手がうなずいたりしていると、こっちも安心して訳出が「乗る」。万一相手が首をかしげていたりなどいたら、必要に応じてもう一度言い直したり、別の表現に変えたりもする。なんのことはない、「黒子」と自分を称しておきながら、話す時は自ら主役を張りに舞台の前に出ているわけだ。これでは相手も当然私を会話の相手と認識するだろう。
私は訓練時以外、同時通訳ブースでの通訳経験はない。ブースでの通訳なら基本的に話し手にも聞き手にも通訳者の姿自体を認知されることはないから、「黒子」的な役割に徹することができるのだろうか。

*1:学校に通うメリットはこんなところにもある。自分一人では永遠に気づかなかったかも知れない欠点や問題点を、講師の先生やクラスメートから指摘してもらえることが本当にありがたい。

*2:通訳者も女性のほうが圧倒的に多い。通訳者養成学校でも十四、五名いたクラスメートのうち、男は私一人だけだった。