インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

母語を学ぶことと外語を学ぶこと

平川克美氏の『グローバリズムという病』を読みました。株式会社をはじめとしたビジネスの論理だけで生き方を考えることに警鐘を鳴らしていて、快哉を叫びました。地域を捨て、文化を捨て、母語を捨て、様々な差異を捨てて「グローバル」なるものに溶け込むことがそんなにいいことなのかと。

でも正直に言うと、かつて自分が中国語を学び、留学を志したのは、家族や地域を捨て、自分の文化や母語から脱却しようとする試みだったと思います。まさにグローバルに溶け込みたいと思っていたんです。でも、外から自分のルーツを見つめ直して、考え方が180度変わりました。

だから留学のように海外に身を置いて言葉を学ぶのはとても貴重な体験になると思います。でも、それは母語でこの世界、あるいは森羅万象を切り取ることが出来るようになってからの方がいいんじゃないかとも思います。例えば昨今「(グローバル化という)バスに乗り遅れるな」とばかりに、子供の母語の獲得もそこそこの段階で英語圏へ移住したりする方がいますが、それは子供を「英語の人」にしちゃうだけ……という可能性もあるのではないかと。

母語で世界を切り取ることは、ほとんど「呼吸ができる」のと同様の死活的能力なので、「バスに乗り遅れるな」に乗せられて幼児から英語教育にのめり込むのは危ないです。「英語の人」になってしまえるならまだマシですが、多くの場合「虻蜂取らず」になります。いわゆる「ダブルリミテッド(セミリンガル)」の問題です。そしてその危険性はあまり知られていません。

ダブルリミテッドの危険性

「ダブルリミテッド」の危険性については、Googleなどで検索してみれば様々な方面から警鐘が鳴らされていることが分かります。「ダブルリミテッド」の特徴は様々ですし、個人差も大きいですが、例えば「どちらのことばを使っても、両方を混ぜても、自分の言いたいことが言い表せない」とか「会話はできるが、教科学習になると(例えば、算数の文章題)、どちらの言語でも学習困難」などの生徒は私も専門学校などの教育現場で実際に目の当たりにしてきました。

こちらで読んだ、帰国子女で「ダブルリミテッド」と思われる中学三年生の男子生徒が書いた作文には、その苦しみの一端を垣間見ることができます。

ぼくは海外に住んでことばの重要性がわかりました。なぜかというと、ぼくはいま、自由にはなしたり、書いたり、読めることばが一つもないからです。ぼくはいま、二つのことばをしっています。それは、英語と日本語ですが、知っているといっても二つとも不完全なので自由につかえません。ことばを自由につかえないというのは大変なことです。この作文一つ書くのでも、ぼくにとっては大変な時間がかかります。ぼくにとっては、不完全なことばが二つあるより、一つの完全なことばがある方がいいのです。(中略)今、ぼくは二つの中途はんぱなことばや考え方のなかで生きています、いろいろ不自由でなさけなくなることがいっぱいあります。
http://www.hakuoh.ac.jp/~katakata/ronbun/1-3.htm


う~ん、外語は何度でも学び直すことができますが、母語はそう簡単にはいかないものなあ。私も学校で同じような生徒に接したことがあるので、本当に悩みの深さが分かります。

深く悩む「ダブルリミテッド」の生徒がいる一方で、自分は「バイリンガル」だからと慢心してしまう生徒もいました。確かにお喋りレベルでは流暢なので、周りからも一目置かれて。先生の方がヘタじゃん、くらいに思ってたりして。でもいざ進学や就職となると、文章題などに歯が立たなくて挫折してしまって……。実際には母語と外語の「虻蜂取らず」状態にあるのですが、本人にはその自覚も、また「ダブルリミテッド」がどういう状態なのかについての理解もなくて、深く悩んでいるのです。

どちらの言語も高度に運用できる「バイリンガル」への教育が不可能とは決して思いませんが、保護者や教師にかなりの知識と覚悟と用意周到な計画が必要なのではないでしょうか。だから外語圏に放り込めば何とかなるというのは、かなり危ないと思います。

外語は必要になってから学んでも遅くない

小学校低学年から国民上げて英語に狂奔する(と言うのが大袈裟なら、他の教科を削って英語にウェイトを置く)というのはやめて、まずは日本語で複雑な・高度な思考ができるようにすべきです。外語はその後に、必要になった時点で必要になった人だけが学べばいい。語学には実は向き不向きもありますし。

外語を学ぶなというわけじゃないんです。大いに学ぶべきだし、私もその外語学習者のはしくれです。ただ、母語がほぼ確立した大人は同時に日本文化を学び、自分の母語に慢心しないで更に高みを目指すべきだし、母語が確立していない子供に過度に外語を注ぎ込むのは弊害があるのではということです。親御さんが教育機関と緊密に連携をとってバイリンガルに育て上げた奇跡的な例も見聞したことがありますが、それはまさに「奇跡」なんですよね。もちろん、外語を母語にしようと決心するなら、それはそれでまあ仕方ないとも思うんですが(自分が親ならちょっと寂しいけど)。

言語、特に母語はその人の存在の根本に関わるものなので、もう少し慎重にというか、怖れのようなものがあってもいいと思います。だから例えば「言語なんて単なるツール」という物言いは、母語と外語を混同していてやや危うい。母語が十分に成熟した人が学ぶ外語は「ツール」たりえるでしょうけど……。平川氏も仰るように、英語は必要な人が必要な年齢になったら「専門学校」で学べばいいと思います。

必要な人が必要になった時期から始めて外語がモノになるのか。企業派遣の語学クラスを担当した経験から言えば、なります。本気の企業は語学研修に半端ではない集中度と時間をセットします。大切なのは集中度×時間×本人のやる気で、小学校低学年から週に数時間などというのはすごく非効率な学び方です。……ああでも、大人が語学をゆったりのんびり学ぶのも、もちろん悪くないんですけどね。「非効率」だなんて、私も「グローバリズムの病」にかなり冒されていますね。

補記:日本の文化をどうやって発信するか

日本人は昔から外語を熱心に学び、洋の東西の優れた文化を翻訳して取り込んで来ました。その営みは今もこれからも大切ですし、それを日本語母語話者が担うことも意味のあることですが、それと同時に日本人が日本の文化を深く理解し、自らの日本語を更に高め、ひいては日本語や日本文化の理解者を増やすことも大切だと思います。

日本文化を充実させて、じゃあそれをどうやって外国に発信するのか? 日本語を解する外国人に発信してもらうのです。もっともっと多くの外国人が日本に興味を持ち、日本語を学び、日本の文化を愛してくれる方向に、予算と力を割くべきです。全国民が英語に狂奔するのはほどほどにして。

そんな都合のいいことが起こるのか? 実は中国語圏ではそういうことが起こりつつあります。日本文化が好きで日本語を学んだチャイニーズが大勢いて、中国語圏に発信してくれている。畢竟外語は外語で母語には劣るのが普通ですから、母語話者に発信してもらう方がより深く伝わると思います。

例えば中国で人気になっている雑誌『知日』。日本文化を愛し、日本語にも堪能な中国人の手で、中国語圏に向けて発信されています。私のような日本語母語話者がどれだけ頑張っても、あそこまでのクオリティで中国語を駆使して中国語圏に発信するのは難しいでしょう。だから「知日」者を増やすのが大切。

バックナンバーはこちらが便利かも。

こちらに、『知日』の編集主幹である毛丹青氏の講演録があります。日本文化を対外発信することについて、大切な示唆が数多く含まれていると思います。


毛丹青 神戸国際大学教授 2014.5.16 - YouTube

何より『知日』の成功というのは、成功とは言いませんけれども、われわれが少なくとも元気で、ここまでやってこれたということの大きなポイントは、「中国人による中国人のための日本」だったんです。これは日本の方によってつくったものではありません。全て中国人の手によってつくっていくという、これが非常に大きいです。
http://www.jnpc.or.jp/files/2014/05/7dad2af945fb007ef0f21235d3392f72.pdf

そして、こんなことも仰っています。

例えば日本で、果たして中国のライフスタイルをネタにして雑誌をつくれるかというと、つくれないんです。まず、売れないんです。売れない。このギャップを僕は非常に不思議に思っているんです。中国で日本を紹介することでビジネスモデルとして立派にできているのに、一方で日本は全くできていない。日本でできたのは『三国志』『水滸伝』『論語』とか。昔の話です。孔子とか、もう死んで何千年ぐらいの人。
http://www.jnpc.or.jp/files/2014/05/7dad2af945fb007ef0f21235d3392f72.pdf

う〜ん、確かにこれまで中国ブームも「華流」も「台風」も自然発生的にだったり、仕掛けられたりだったりして起こってはきたけど、長続きしていないですもんね。これは私たちに課せられた宿題ですね。

文化侵略ではないかと世界各地で批判も起こっている、中国政府の中国語教育機関「孔子学院」。私もいろいろ疑問に思うことはありますが、自国の言葉を世界に広めようとする試みは他国だってやっています。日本ももっとやればいいのにな。なにせ億単位の使用者がいる、世界でも数少ない「巨大言語」なんですから、日本語は。