インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

猩々と酒の妖精とオランウータン

 能のお稽古に入門して、仕舞は最初に『湯谷(熊野)』、次に『紅葉狩』、続く『船弁慶』でもって無謀にも初舞台となりました。で、中国語関係の仕事をしていると知った師匠が「ではしばらくは中国シリーズで参りましょう」と選んでくださったのが『猩々(しょうじょう)』。先月まででこれを仕上げて、次にもうひとつこれも中国物*1の『西王母』をさらって、さらに今月から『枕慈童』に入っています。
 この『猩々』という演目*2、中村八郎氏の『能・中国物の舞台と歴史』という素晴らしい本によるとこんなあらすじです。

 酒の妖精猩々(シテ)が親孝行者の禹風*3(ワキ)の前で、世にも珍しい紅ずくめの舞姿で中之舞を見せる。そして禹風の素直な心を賞でて汲んでも尽きぬ霊酒の壺を与えて消え失せる。
能・中国物の舞台と歴史』53ページ

 実際の公演を見たことがあるんですが、赤ら顔の面で、童子らしい髪型の猩々がなかなかカワイイです。一般的な能の演目より短い45分ほどの「半能」で、祝祭的な色合いの濃い、たいへんおめでたい曲(だそう)です。
 ワキが登場してすぐストーリーを物語る、冒頭のセリフも稽古しています。

 これは唐土金山の麓/揚子の里に高風と申す民にて候/我親に孝あるしるしにや/或夜不思議の夢を見る/揚子の市に出て酒を造り賣るならば/富貴の家となるべしと/教の誥に為す業の/時去り時来りけるにや/次第次第に富貴の身と罷り成りて候……

 孝行者の高風くんが、揚子の市に行って酒を売れば家が富み栄えるという不思議な夢のお告げを実行すると、それが正夢になったというんですね。

 又ここに不思議なる事の候/童子の如くなる者一人来たり/某が酒を買ひ取り飲み候が/盃は廻れども/面色變わる事も無し/餘りに不審に思ひ名を尋ねて候へば/海中に栖む猩々と名宣り/壺を抱き海中に入って候程に/潯陽の江に立出で酒を湛へ/彼の猩々を相待たばやと存じ候……

 ある日、何杯飲んでも酔っ払わない不思議な客がいたので名を問うと、海の中に棲んでいる「猩々」と名乗るや酒の壺を抱いて海に戻っていったというんですね。で、あらためて「潯陽の江」に行ってその猩々が現れるのを待っていると。
 いま稽古しているのはここまで。このあと物語では、猩々が赤ら顔でざばっと海から現れ、高風との再会を喜んで酒を酌み交わし、舞に興じます。う〜ん、ちょっと唐十郎の紅テント入ってますね。そして猩々が高風に「お前は心が素直だから、何度酒を汲んでも尽きない壺をあげるよ」と告げます。
 ここから最後までが仕舞*4で、この仕舞も稽古しました。

 よも盡きじ/よも盡きじ/萬代までの竹の葉の酒/酌めども盡きず/飲めども變わらぬ/秋の夜の盃/影も傾く入江に枯れ立つ/足もとはよろよろと/酔に臥したる枕の夢の/覺むると思へば泉は其儘/盡きせぬ宿こそ/めでたけれ

 酒に酔っ払って寝てしまい、目覚めてあれは夢だったのかと思ったけれど、不思議な壺はそのまま残っていて、そののち高風の家はすえながく富み栄えましたとさ、めでたしめでたし。
 ……いいお話です。異形の猩々が出てくるところがファンタジーですね。「足もとはよろよろと」のところで斜め後ろによろよろと後ずさりする型があるんですけど、そこが一番好き。
 この「潯陽(しんよう)」というのは、上記の本によると現在の江西省九江市潯陽区。私の大好きな陶淵明の故郷です。九江市には行ったことがありますが、あそこは内陸で海まではかなり距離があります。でも長江(揚子江)流域の街ですから、この曲に出てくる海は長江なんでしょうね。長江も河口は対岸が見えずほとんど海と見まごうばかりですけど、九江市あたりでもそこそこ川幅はあるし、まあ海に見立ててもいいんじゃないかと。

現代中国語における“猩猩”

 ところで、「猩々」は空想上の生き物ということになっていますが、現代の中国語で“猩猩(xīngxīng)”といえばこれです。
 中国人に聞いてみても人によって言うことが違います*5が、まあゴリラ*6というかチンパンジーというかオランウータンというか。ヒヒ? あれは“狒狒(fèifèi)”ですね、音も近いし。
 能に出てくる「猩々」は赤ら顔で童顔で、赤い髪がふさふさしていますから、個人的にはオランウータンが一番近いような気がします。ウィキペディアによると「猩々はオランウータンの漢名」であるよし。オランウータンは確かインドネシアとかマレーシアなどの東南アジアに生息する動物で中国大陸にはいなかったでしょうから、南方の珍しい動物が空想と相まって「猩々」とされたのかもしれません。
 ウィキペディアにはこんな記述もありました。

 ショウジョウバエは、酒に誘引される性質から猩猩になぞらえて名づけられた。

 おもしろいですねえ。酒好きの私としては「猩々」って、とても親近感のわくキャラクターです。

*1:唐物とも。能は日本独自の芸能ですけど、数多くの演目に中国由来の物語や中国の古典を引いた詞章が登場します。

*2:能では「曲」と言うそうで。能はシテ方ワキ方狂言方などの演者(俳優)がいて、太鼓や鼓や笛などの囃子方(オーケストラ)がいて、地謡(コーラス)がいる、オペラやミュージカルなどと同じ一種の音楽劇なんですね。

*3:こうふう。高風、とも。

*4:能の一部を面や装束なし、お囃子なし、地謡のみの伴奏で舞います。

*5:ちなみにアシカとオットセイとアザラシとトドとセイウチも人によって言うことが違います。というか私だって違いをハッキリ言えません。一応私はアシカが“海驢(hǎilǘ)”=海のロバ、オットセイが“海狗(hǎigǒu)”=海のイヌ、アザラシが“海豹(hǎibào)”=海のヒョウ、トドが“海獅(hǎishī)”=海のライオン、セイウチが“海象(hǎixiàng)”=海のゾウと覚えてますが。

*6:ゴリラは“大猩猩”だという意見が比較的多いです。