インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

勉強しましょう

太宰治の『正義と微笑』に「おおっ」と惹きつけられる言葉が出てきました。近藤康太郎氏の『百冊で耕す』に引用されていたので、青空文庫へ読みに行ってきたのです。中学生である主人公の「僕」が、退職してしまった黒田先生のことを思い出すところで、その黒田先生はこんなことを生徒に語っています。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1577_8581.html

いいこと、言いますねえ。土地を耕す意味のラテン語“colere”に由来する英語の“cultivate”、そこからさらに派生して文化や教養という意味になった“culture”。心を耕すというイメージもいいですけど、私は「陶冶」という言葉(もとは中国語)を思い出しました。陶土を練り上げるイメージ。

小学校や中学校などの初中等教育で、例えば因数分解とか三角関数とか、そんな社会に出てから一度も使いそうもないものを教えてどうするのか……なんてことを言いたがる方は多いです。そういう、もっと実利的な内容に絞って教えるべきだという流れに棹さす声かまびすしい昨今、黒田先生の言葉はよりいっそう心強く響きます。


https://www.irasutoya.com/2019/10/blog-post_724.html

以前にも書いたことがありますが、そういった学習内容というものは、大人になって使うため「だけ」に学ぶんじゃありません。それらを学ぶことで抽象的・科学的な思考方法を身につけること、あるいは知的な営みの習慣をつけるため、教養を育むために学ぶんです。まさに心を耕し、人格を陶冶するためにそういう学習体系と教育制度があり、近代以降綿々と受け継がれてきたわけですね。

黒田先生は続けてこうも言っています。

学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

そうなんです。上述したような「社会に出てから役立ちそうにないものなど教えなくてよい」的物言いで教育に手を突っ込もうとする政治家や官僚は多いです。でもそういう人たちは、一見実利本位で合理的かつ斬新な意見のように見せかけて、その実できるだけ愚民化を推し進めて自分のやりたいように世の中を持っていきたいと考えている「むごいエゴイスト」なんですよね。「真にカルチベートされ」ていない、つまり教養のない人ほど、こういうことを言い募りたがる。騙されちゃいけません。勉強しましょう。

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