インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

マスクのない春を迎えて

新年度(新学期)最初の月曜日を迎えて、今朝は都心にも多くの新社会人と思しき方々が闊歩していました。なぜ新社会人(考えてみれば奇妙、かつ一斉採用がなかなか崩れない日本ならではの言葉ですが)だとわかったかというと、なんとなくスーツが板についていない感じがするからです。とても不思議なんですけど、スーツって着慣れているかどうかがけっこう分かる服なんですよね。

それはさておき、街には別の変化も訪れています。それはマスクを着用していない人が目だって増えてきたことです。私は昨年からもうマスクは着けないと決めて生活してきましたが、なかなか脱マスクが進まないことを残念に思っていました。それがここに来て一気に進んできた感じです。

まあこの時期、花粉症などでマスクが手放せない方もいるでしょうし、そもそもマスクを着ける着けないは完全に個人の自由ですから、私はなるべく意識の端に登らせないようにしてきたんですけど、やはりこうして街の風景が変わったように感じられるのは素直にうれしいです。

毎朝通っているジムでは、もう完全にマスク着用が任意となりました。それでも見回したところ半数以上の方がマスクを着用しています。ここでもまた個々人の自由に任されているという、ただそれだけのことなのに私としては開放感を覚えます。思い起こせばこのジムでも、かつては私がうっかりマスク無しでロビーを歩いていて、スタッフに厳しい口調で「マスクをしてください!」と叱責されましたっけ。

先日は、通院している皮膚科に久しぶりに出向いた際、日常の延長でうっかりマスクを着けないで受付に行ったら、けっこう強めの口調で着用を求められました。なるほど病院はそのあたり、まだまだセンシティブな場所なんですね。失礼しました。たまたまカバンにマスクを入れていたので事なきを得ましたが、これから先も「保険」としてマスクを持参し続ける日々が続くのでしょうか。

コロナ禍は私たちにさまざまな影響を与えましたが、私はこのマスクをめぐる顛末がけっこう大きなものとして記憶に残り続けるような気がしています。もともとマスク大好きだった国民性に持ってきて、同調圧力と過剰な自己規制が「お家芸」の日本における「マスク禍」は、それだけでひとつの研究対象になり得るんじゃないでしょうか。