インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

テレビを見すぎるとバカになる

扇情的なタイトルですみません。いえ、私にも好きなテレビ番組がありますし、娯楽としてのテレビを否定するわけでもないのです。ただ、のべつまくなしに見続けるのだけは頭と身体の健康(私の場合は特に腰)に悪そうだなと思って。だから私は、基本的にテレビ番組は録画して見ることにしています。見たくもないCMをスキップすることもできますし。

以前は家事をしながらニュース番組を流し見することがよくありましたが、これも最近はあまりやらなくなりました。ネットのニュースサイト、例えばChromeのメニューから「ニュース」に飛んで、テレビ局のニュース番組を文字化したものなどを読んでみるとよくわかりますが、テレビのニュースって存外情報量が少ないんですよね。それなら速報性では劣るけれども新聞を読んだほうがいいかなと。

もうずいぶん前のことですが、NHKの『クローズアップ現代』で「日本人の2人に1人が『読書ゼロ』」という特集をやっていました。テレビなどの動画を見続けるインプットと、新聞や本などからの文字によるインプットでは脳における情報処理のしかたが違うという知見が紹介されていてとても興味深いものでした。

qianchong.hatenablog.com

ごくごくかいつまんで言えば、映像によるインプットは、脳が次々に入ってくる情報の意味を理解することのみに追われてしまい、深く考えることをしにくくなるというものです。いっぽう文字によるインプットは、意味を理解した上でさらに自らの記憶や知識と引き合わせながら「どんな色?」「どんな形?」「どんな風景?」「どんな人物?」「どんな状況?」……と次々に想像力を発揮していくので、脳がより活性化するのだというのですね。

実はちょうど、エマニュエル・トッド氏の『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』を読んでいたところでした。高等教育の普及がもたらした反民主主義的な影響(格差や不平等の拡大、あるいはドナルド・トランプの登場に象徴されるような政治的潮流)を論じているところで、余談的にこのような一節が挟まれていました。

もっとも、ある特定要因が、一九五〇年代の米国における知的能力の停滞を引き起こした可能性はある。実際、その時期に、テレビが個人生活・家族生活の中に入り込み、人びとを書き言葉の文化から部分的に引き離したのだ。一九八五年にはすでに、自宅にテレビを所有している人口が、一〇〇〇人当たり二八七人に達していた。私は本書ですでに、思春期以前の集中的読書がホモ・サピエンスの知的能力を高めるということに言及した。集中的読書を放擲したがゆえに頭脳の性能が落ちたとしても、いささかも意外ではない……。(下巻・50ページ)

おおお、この浩瀚かつ謹厳な本書の著者であるトッド氏にして、ここだけはやけにアイロニカルです。しかもその同じ日に、ネットで調べ物をしていて偶然たどり着いた柳瀬尚紀氏と米原万里氏の対談では、読書、なかんずく文学を読むことの重要性と、文学と市場原理とは相容れない部分があるという指摘をしているくだりでこんなお話がありました。シンクロニシティを感じます。

柳瀬―(前略)テレビというものが、あれだけの力をもちながら、ろくなことやらないでしょ。「お前ら馬鹿になれ、馬鹿になれ」っていう番組が九十パーセント以上じゃないですか。
米原―あれも視聴率を追求していると、ああならざるを得ないんですよ。
柳瀬―そうなんです。
米原―楽なほうに楽なほうに流れないと視聴率を稼げないから、そっちへ行くんです。質を問わなくなる。だけど、みんなが見るかというと、そうじゃないんですけどね。
柳瀬―要するに、下種なほうへ、下種なほうへ媚びるというか。
米原―そうです。末梢神経を刺戟して。
柳瀬―仮に、幻想でもいいから、少し世の中を高めましょうよというのはないんですね。
米原―ただ、そういう中で抜きんでようと思ったら、大勢とは別な方向をさぐらないと、抜きんでられないんでしょうね。ときどきすごくいい番組、あるじゃないですか、ドラマにせよ、ドキュメンタリーにせよ。そういうのを見ると、やはりちゃんと作ってます。
三省堂-「ぶっくれっと138・139号」、対談 翻訳と通訳と辞書

わはは。うちでは「テレビを見すぎるとバカになる」というのが合言葉みたいになっているので、我が意を得たりでした。でも米原氏がおっしゃるように、中にはすごくいい番組もあるんですよね。だからやはり録画して、「のべつまくなし」にならないようにするのが大切なのだと思います。