インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ご縁に呼ばれますように

きのうは職場の学校で卒業式が行われ、二年間一緒に学んできた留学生のみなさんが次のステージに向かって旅立っていきました。この学年は当初コロナ禍の真っ最中でオンライン授業を余儀なくされ、さまざまな困難を乗り越えてこの日を迎えただけに、学生はもちろん教職員にとっても感慨深いものとなりました。

卒業後の進路は、帰国する人、就職する人、進学する人、引き続き日本で就職活動をする人などいろいろ。みなさんの進む先で多くの“緣份(yuánfèn:ご縁)”に恵まれますようにと祈っています。以前にも書いたことがありますが、「ご縁」って、その時その時の自分の「持ち場」あるいは「居場所」で自分は何をなすべきか考え、自分なりに懸命にタスクをこなそうとしている人にしか寄ってこない、あるいは降りてこないものなんですよね。

「俺の本当の居場所はこんなところじゃない」とか「いまはまだ本気出してないだけ」みたいなかんじで腰掛け的な態度でいるあいだは、ご縁はなかなか訪れないのではないか。口幅ったい言い方で恐縮ですけど、これまで何度も転職や失職を繰り返してきた自分の実感です。英語で天職のことを“calling”というそうですが、これはキリスト教的な価値観では神から呼ばれる、つまり天命を受けるみたいな感じなのでしょう。私はとくに宗教を持っていませんが、この“calling”にあたるものが中国語の“緣份”あるいは日本語の「ご縁」なのだと思います。

自分の仕事や、仕事を超えて自分が人生の中でなすべき何事かというものは、おそらく自分の明確な意識のもとに獲得されるものではなく、思いもかけない方向から呼ばれる(calling)形でのご縁によってもたらされるのではないか。もちろん何かの目標を立て、その目標に向かって努力し、ついにはその目標を達成するというプロセスはあります。それは否定しませんし、私だっていま現在もそういう努力→達成というベクトルの中に自分を位置づけています。

それでもなにがしかの人生の節目に至って振り返ってみると、そこには多くのご縁が介在していて、自分が当初思い描いていた達成とは違うところに連れてこられていることを発見するのです。自分としてはもちろんひとつながりの実践や選択の結果ではあるのだけれども、振り返って考えてみれば「なぜここにたどり着いてしまったのかな」という不思議さが残る。スピッツ草野マサムネ氏が『チェリー』で歌っているように「きっと想像した以上に騒がしい未来が僕を待ってる」のです。ご縁の機微は人智を超えたところにあるように思います。

卒業生のみなさんは、必ずしもみんながみんな理想の進路を手に入れたわけではなく、志望していた大学に合格できなかった人、自分が本当にやってみたい仕事とはちょっと異なる会社に就職した人、就活がうまく行かなくて引き続き日本で探し続ける人(特定活動ビザという在留資格になります)などさまざまです。送り出す側の私としては、よいご縁に呼ばれますようにと祈るとともに、そのためにも自分の持ち場でくさることなく懸命に丁寧に生きてくださいと申し上げたいです。


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