インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

天皇と媽祖

能のお稽古に行って、先日拝見した能「国栖(くず)」についてお師匠に少しうかがいました。「国栖」は壬申の乱に材を採った物語で、大友皇子の追っ手から清見天皇(のちの天武天皇)が吉野の山中に逃れ、前場ではそれをかくまう老夫婦と追っ手との緊張感あるやり取りが展開されます。後場では天皇の威光を寿ぐような天女の舞と蔵王権現の舞が続きます。素人の感想ですけど、前場はリアルな物語世界で、後場は祝祭性の強い舞という、そのコントラストが魅力的ですし、お正月に合う曲なのではないかと思います。

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ところで師匠いわく、吉野の山中で老夫婦が天皇という貴人に接した際の心情というか感動のようなものは、現代人にはなかなか肌感覚として理解しにくいものなのではないかと。そういう意味ではこうした芸能作品としての能の需要は今後はますます難しくなっていくのかもしれません。現代でも例えば皇族に接して感激する人々の姿は見られますが(一般参賀とか地方訪問とか)、かつての天皇に接した人々の「とてつもないありがたさ」みたいな心情とは、おそらくかなり異なっているのでしょう。

私自身、正直に申し上げて現代の天皇や皇族についてはかなりドライな感覚しかありません。くわえて信仰や宗教というものに対してもこれまた醒めたスタンスしか持ち合わせていませんから、能に登場する貴人や聖なる存在に対してどこまで理解できているのかは、はなはだ心もとないものがあります。

台湾など旅行すると、かの地では信仰がかなり生活の隅々にまで、地べたにまで浸透しているのを感じることがあります。これも現代のお若い方々まで含めてそうであるかどうかは判断しかねますが、少なくとも日本における種々の神々への信仰よりももっと直截で分かりやすい形で、暮らしのそばにあるような気がするのです。

そういえば台湾の友人に「あの『天皇』という方は、あなた達にとってどういう存在なの?」と聞かれたことがあります。私は思いがけない質問にちょっと言葉に詰まりながらも、とっさに「“媽祖”みたいなものじゃないかな」と答えました。そうしたらその友人は「なるほど〜」とかなり納得してしまった様子で、私は「ちょっと乱暴すぎる例えだったかな」と不安になったのですが、いまにして思うと、こう言っちゃなんですが「当たらずとも遠からず」だったかもしれません。


https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=190&post=74858

媽祖は台湾の人々にとってはかなり親しみのわく、生活に密着した一種の神様です。身近ではあるけれど「聖」なる存在でもある。今回お師匠と能「国栖」をめぐって、現代人はもはや天皇の「聖性」や「とてつもなさ」を感じられなくなっているのではないかという話をしているときに、この台湾での経験を思い出しました。ひょっとして、かつての市井の人々にとって天皇とは、まさに媽祖みたいな存在だったのかもしれないと。

余談ですが、天皇と媽祖をキーワードにネットを検索していたら、一昨年に「媽祖」という新作能が上演されたという記事を見つけました。おおお、これは見たかったなあ。

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