インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

自分がロシアだったことを忘れてる

先日閣議決定された「国家安全保障戦略」は戦後の安保政策における大転換と言われています。しかも十分かつ慎重な国会での議論もなく、国民に信を問うこともないまま、防衛費を大幅に増額させて先制攻撃が可能な戦力の増強にまで踏み出そうとしています。もちろん将来の増税もセットで。でも、そうした強大な軍事力を持つことが戦争の抑止につながるという考えは、ほんとうに正しいのでしょうか。

政府は、中国や北朝鮮などを念頭に侵略の脅威を説いています。だから「やられる前にやれる」能力を備えるべきなのだと。でもそれはまず「武力による威嚇」を禁じた憲法に明らかに違反しています。そして戦後曲がりなりにも積み上げてきた平和外交という遺産を捨ててしまうことにもなります。

北朝鮮は私の守備範囲じゃないのでよく分かりませんが、少なくとも中国について、そもそも日本の我々が想像もできないほど透徹したリアリズムを身上とする「彼ら」が(それを私はチャイニーズとの付き合いで痛いほど学ばされました)、そんな割に合わない侵略を本当に行うとでも思っているのか、私ははなはだ疑問です。

安全保障の観点からは間違いなく最重要戦略物資と言える半導体をめぐる競争を背景に据えてみれば、今回のロシアによるウクライナ侵略など、ほとんど時代錯誤ともいえる世界観・国家観・民族観・戦争観、そして古い地政学の考え方に則って行われているように思えます。お互いの経済がかくも密接かつ複雑に結びついている世界全体の動きを冷徹に俯瞰していれば、こんな割に合わない侵攻など行う気にもならないんじゃないかと。それは中国も同じではないでしょうか。

それでもロシアは侵攻したじゃないかって? でも、今回のロシアによるウクライナ侵略を中国の未来における行動に敷衍しようとするのはいささか乱暴ではないかと思います。今回のロシア側の論理は(その当否はさておき)、歴史的にも、そしてつい最近まで政治的にも「一体」だったものを取り戻そうというものです。そうした論理が、中国から日本に対してあるのでしょうか。むしろ前世紀において、その「一体」を目指そうとしてかの地に侵略を行ったのは当方ではないですか。日本は、かつての自分がいまのロシアみたいな存在だったことを忘れています。

孫子の兵法を持ち出すまでもなく中国は「戦わずして勝つ」ことを最上としています。透徹したリアリズムと評するゆえんです。たしか中国文学者の故・高島俊男氏が1995年頃の台湾海峡危機の際におっしゃっていたように記憶しているのですが、氏は、中国が意気軒昂で、海に向かって小出しに砲撃しているくらいが「またやってらあ」という感じで最も安全だというんですね。

つまり中国が軍備を誇って息まいているうちはまだ「戦わずして勝つ」つもりで、逆にかの国が静かになっちゃったときのほうがよほど危ないと。それを考えれば、その「戦わずして勝つ」路線を見誤って、じゃあこっちも軍事費倍増だってんで「やられる前にやれる」能力を持とうとすることそのものが大きな見当違いなんじゃないですか。こちらが拳を振り上げれば、あちらも挙げざるを得なくなる。はてのない軍拡競争へ突き進むだけです。サイバー攻撃など、新たな脅威に関する増強は私も必要だと考えますが、来年1月に予定されている岸田首相の訪米土産とでもいいたげなトマホークの大量購入など愚かな選択だと思います。


https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_6.html

そんなところより、もっと外交のソフトパワーにこそリソースを割くべきです。戦争は外交の失敗なんですから。あちらは、日本語が超堪能な特命全権大使を送り込んでくることができるくらい剛胆*1で、粘り腰なんです(逆に日本にかつてそれだけの人材がいたかと考えると……)。台湾「回収」にしても軍事侵攻は策として下の下で、そんなことをすれば長期にわたって不利益を被ることはよく分かっているはず。あちらはもっとしたたかで、思いつきで政治をやっちゃう日本なんかよりもはるかに深慮遠謀をめぐらせていますよ*2。矛には矛で対抗という、古い世界観や戦争感から脱却して、もっと賢くならなければいけません。

*1:しかも日本記者クラブで日本語で講演できるくらいなんです。国益を考えたら、これはものすごい度胸ですよ。

*2:ロシア語に堪能な同僚に聞いた話ですが、ロシアの要路にいる人たちは、日本の政治家があまりに突飛な思いつきで外交をしているように見えるので、逆に「あれは何か深い意味があるのではないか」と思うらしいです。まったく同じことを私は中国の要人に近いジャーナリストに聞いたことがあります。「日本の指導者にはもうちょっとしっかりしてほしい。対応に困るから」だって。