インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フード左翼とフード右翼

もうずいぶん前のことになりますが、かつて勤めていた会社の同僚に「私はフィッシュ・ベジタリアンだ」と公言している人がいました。フィッシュ・ベジタリアン? 要するに「牛や豚などの肉類は食べないものの、魚介類は食べる菜食主義者のこと」です。昨今では「ペスカタリアン」とも称されるそうですが、当時の私はその意味するところがよくわかりませんでした。

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それでうっかり「魚の肉は食べるのに、ベジタリアンって?」みたいなことを聞いたら、ずいぶんと機嫌を損なってしまったようでした。それ以来、こうした食にまつわるライフスタイルは、その方の生き方に深く根ざしていることが多いのだと心得て、むやみに立ち入らないように気をつけています。もとより、誰がどんな食生活を送ろうと、個々人の自由であり勝手ですよね。

でも世の中には、いや食生活は個々人の自由ではなく、そういう「意識の低い」ことではいけない、と政治的な意識から食にまつわるライフスタイルを喧伝される方もいます。つまり環境問題やエネルギー問題、あるいは人口動態に関連した社会福祉費用の観点などから食を考える方々です。

そうした方々を「左翼」と位置づけ、逆にそうした政治思想とは真逆のグローバリズムに乗ったコンビニ食・ファストフード・ジャンクフードなどを信奉する方々を「右翼」とし、相互におけるいわば食の分断をテーマにした本を読みました。速水健朗氏の『フード左翼とフード右翼』です。


フード左翼とフード右翼

この本の分類に従えば、私はかつて政治的な意識から食にまつわる自分のライフスタイルを追求しようとしていたバリバリのフード左翼でした。

私はなぜか中学生の頃から食に対して関心があり、食品添加物に関する本(「これを食べてはいけない」的な)を生半可に斜め読みしては親に進言して煙たがられていたような子どもでした。高校生の頃からは親元を離れて一人暮らしを始めたので、ますますそうした知識と実践が積み重なり、大学生の頃には無農薬野菜を扱う八百屋さんでアルバイトをして、圧力釜で玄米を炊くような学生になっていました。もっともその一方で「そういうの」に飽きたときはジャンクフードにも手を出していましたから、まだまだいたって志の低いものではありましたが。

大学を卒業した後は就職もせず(できず)、熊本県の田舎に行って有機農法で米や野菜を作ったり、養鶏をしたりという生活に取り組んでいました。この頃がいちばんフード左翼側に振り切れていたかもしれません*1。でも結局夢やぶれて都会に戻ってきたのでした。

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それからも、どちらかといえば食については「意識高め」な暮らしを送ってきましたから、その意味ではフード左翼的な食生活に傾いていたとは思います。でも年を経るにしたがって、ヴィーガン、ベジタリアリズム、有機農産物ビジネスなどの負の側面、もっと言ってしまえばある種の欺瞞にいささか疑問を感じ、ときに辟易して、それらからは徐々に距離を置くようになりました。

この本の終章ではフード左翼からフード右翼への転向はありえないと書かれています。私はいちどフード左翼に振り切った後でかなり右側に戻ってきたので、そのありえないパターンのひとりかもしれませんが、でも右翼というほどでもないですね。年齢的にも肉体的にも、コンビニ食やファストフード、ジャンクフードや外食を中心とした食生活は、仮に望んだとしてももう送れません。

だからいまの私はさしずめ「フード中道」というところでしょうか。そしてこれは私の単なる想像ですけれど、世の中の圧倒的多数はこの「中道」なんじゃないかと思っています。中道の人々は、特に声高に主張することが少ないので目立たないけれど、両極端な主張を尻目に、淡々と日々の暮らしを紡いでいるのではないかと。

その意味では、この本で分析されている「食の政治思想における分断」というテーマは、やや針小棒大のそしりを免れないのではないかーーそんな読後感を抱きました。

*1:そうしたライフスタイルの源流が、1950年代から60年代に端を発する「カウンター・カルチャー」の系譜に連なるものであることも、このころ学びました。