インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「もうお前はいらない」と言われたときには

先日職場の先生方と雑談していて、何年この仕事をしていても授業前はそれなりに緊張するという話になりました。それで私も「授業前はかなり早く教室に行って準備しないと落ち着かないし、通訳業務の前の日など夜も落ち着いて寝られないです」と言ったら、若い先生に軽い口調で「えー、だってもう通訳やってないですよね」と言われました。

私はいまの職場に請われた際、勤務時間外で副業をしてもよいという条件を認めてもらいました。それで週末は別の学校で教えたり、通訳や翻訳の仕事を(週末だけですから細々とですが)したりしてきたわけですが、それを若い先生はご存じなかったわけです。だから単純な誤解だったわけですが、私はそのあとなんとも言えないしみじみとした感慨に包まれてしまい、終日その方の言葉を反芻していました。ご本人にはまったくそのつもりはなかったでしょうけれど、あたかも私はもう終わった人間、つまりは「オワコン」であるかのように言われてしまったなあ……と。

いや、たしかに長期派遣やフリーランスで働いていたころからすれば、第一線は完全に退いています(というかその当時だって「第一線」とはとてもいえないほどの稼ぎでした)から、当たらずとはいえ遠からずなのです。もとより、もう体力的にもかつてのようには働けません。


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もうずいぶん前のことになりますが、私はかつての職場で「やらかして」しまったことがあります。定年退職されて、非常勤で通われていた中国語の先生(私の恩師でもありました)が職場に残していった古いプリントや資料などを、まとめて処分してしまったのです。退職されて時間も経っていたのでもう不要だろうと私が勝手に判断し、大掃除よろしく手をつけたわけですが、それを知った先生は非常に立腹され、はては号泣されていました。先生は「もう終わった人間」扱いされたことが心底悲しかったのだと思います。

私にそんなつもりはまったくなかったのですが、結果的には非道を働いてしまったと認めざるを得ません。もちろん何度も謝罪を繰り返しましたが、ついにお許しはありませんでした。その後結局、このことも遠因となって、私はその職場を去ることになりました。だから今回、自分が同じような状況に直面してしみじみとしてしまったわけです。因果は巡るといいますが、ほんとうにそうですねえ。

これから先、自分の周囲からこうやって、もうお前はそろそろお終いだよと、もっと有り体に言えばもうお前はいらないと仄めかされる場面が増えていくのでしょう。そしてまたそれは、仕事を若い人に引き継ぎ、世代交代していくためには必要不可欠なことでもあります。

ただ同時に最近、定年を念頭になかば諧謔で自分のことを「もう年寄りだから」みたいな物言いをしていたのですが、それはできるだけやめたほうがいいと思うようにもなりました。自己暗示にかかって気持ちが下がり気味になることもさることながら、周りの人々にとってもあまりいい気持ちではないだろうと思って。

ひとしきりしみじみしたあとは気持ちが切り替わりました。少なくとも定年まで今まで同様に精一杯誠実に働くのです。そして、その間にセカンドキャリアを考えて、いよいよ本当にもうお前はいらないと言われたその時には、黙って立ち去るのです。

こうやって言語化してブログを書いたら、なんだかスッキリしました。残りの職業人生も前向きに生きていけそうです。文章を書く効能はこんなところにもあるんですよね。