インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

人はどう死ぬのか

誰にも必ず訪れる死について、ひとりひとりが自分の頭で考え、自分なりの「自分の最期はこうありたい」というスタンスを持っておくべき、また自分の親しい人々についても、その死に際してどういうスタンス持つべきかあらかじめ心構えを持っておくべきーー久坂部羊氏の『人はどう死ぬのか』を読んで、その思いをいっそう強くしました。


人はどう死ぬのか

これをいうと周りが眉をひそめるのであまりおおっぴらには話しませんが、私は若い頃から死についてはどちらかというとドライな考えを持っていたくちでした。自分自身については、それはもちろん健康で比較的長く生きることができればいいに決まっているけど、まあせいぜい60歳か70歳くらいまで生きることができれば御の字だと思います(そう考えるとあとほんの少しです)。

また自分の親しい人々についても、死ぬときは死ぬんだから、いざとなったら慌てることなく対処したいと常々考えているような人間です。本人からすればきわめて不満でしょうし、もう少し心配なり狼狽なりしてほしいと思うかもしれませんが、私にはたとえ家族や親族であっても他人であることに変わりはないと思っているフシが(若い頃から)ありました。基本的に情けが薄くて親不孝な人間なのかもしれません。

でもこの本を読んで、多少はそういうスタンスにも合理性があるのではないかと思いました。特に人生の末期や死についての様々な知識を学び、その上でドライな、と言って悪ければ理性的な対処をするのは、けっして非情でもなんでもないのだと。

具体的な例で言えば、延命治療の是非について、在宅医療や在宅での看取りについて、あらかじめきちんとした知識を持っておくこと。そこまで具体的ではなくても、自分や周囲の人間の終末期や死について、心の準備をしておくこと。ちょっと大げさに言い換えれば、死をひとつの極点とする人生観や死生観、あるいは世界観を養っておくこと、つまり「死の教養」を育むことが必要なのではないかと思ったのです。

死に対する知識や教養がないと、本人も周囲も苦しむことになります。この本でも、死ぬ間際の点滴は患者を溺死させるに等しい、酸素マスクは上品な猿ぐつわである、胃瘻(いろう)は生ける屍への第一歩だ……など、なかなかにストレートな、だからこそこちらにも考えさせる力のこもった記述が多く収められていました。

この本を読みながら、かつて妻がくも膜下出血で緊急搬送されたときのことを思い出しました。あのとき、医師のかなりシビアな説明に対して、比較的冷静に対応できたことは、本当によかったと思います。医師からも「落ち着いて対応してくださって助かった」というような言葉をもらいました。

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この本ではもうひとつ、心に残った一節がありました。

死ぬ間際の慌ただしいときになって、必死に声をかけるくらいなら、なぜもっとふつうに意思疎通ができるうちに言っておかないのか。生きている間に、十分、感謝の気持や愛情を伝えておけば、死という生き物にとって最悪の非常時に、改めて念を押す必要などないではありませんか。(118ページ)

そう、これも妻の入院時に自分の大きな反省点として教訓になったことがらでした。普段から自分や周囲の人間の死について考え、自分なりの姿勢を持っておくことの必要、そして、それにしたがって日々を生きることの大切さを、あのとき実感したのでした。