インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

偉くなるのは自分でなるんだよ

私の書棚には何冊かの「芸談」が積ん読になっています。芸談というのは、主に伝統芸能の分野で、演者が自分の技芸についてあれこれと語っているもの。私が読んでいるのは能楽師芸談が多いですが、それらはひとに勧められて以前古本屋さんで買い集めたものがほとんどです。

先日は能楽喜多流の喜多實氏による『演能前後』を読んでいたら、こんな一節がありました。

私のけいこばかりを頼りにしてはだめだよ。私のけいこはただ、右へ寄り過ぎたら左へ、左へ寄り過ぎたら右へと注意するだけにすぎないんだ。大事なことは、常に自分自身のけいこということを注意しなければならない。偉くなるのは自分でなるんだよ、と。(150ページ)

その通りですよね。私も「教える」ことを生業としている者のはしくれですが、これはよく感じています。そして自分が「学ぶ」立場になっているときにも。教える側がいくら教材を吟味して、教案を練って、すぐれた教え方をしたとしても、その学びが糧になるかどうかはひとえに学ぶ側のその人にかかっているのです。


演能前後

ともすればこれ、教える側の責任放棄みたいに受け取られかねませんが、結局のところ教師は学ぶ材料や学び方のヒントをそれこそ手を変え品を変えて提示することができるだけで、最後にそれらを使って学びを自分のものにするのは、学ぶその人自身をおいて他にありません。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という格言もありますよね。

もっとも、自分自身を振り返ってみれば、学生の頃はちっとも学ばずに遊び呆けていて、社会人になってからようやくあれこれ学ぶことの大切さを知り、しかしその時にはもう学生の頃のように思う存分学べる時間は作りにくくなっていて、死ぬほど後悔しました。愚かです。愚かすぎる。

だからお若い学生さんたちに偉そうなことをあれこれ言えるような人間ではないのです。というわけで、いまはただ「偉くなるのは自分でなるんだよ……」と、ほとんど祈るような気持ちで日々仕事をしています。