インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

アンチソーシャルメディア

Facebookというものをほとんど使わなくなりました。何年か前にいったんアカウントを削除したものの、台湾の友人や日本国内の一部の知人とやり取りするためだけに復活させてしばらく使っていましたが、現在ではほぼMessengerくらいしか使っていませんし、自分の「ホーム」に行くこともめったにありません。

それにしても、たまにのぞくFacebookインターフェイス、かなり「とっ散らかった」印象をうけます。以前からそうだったような気もしますが、広告がたくさんありますし、「グループ」のおすすめはやたらにされますし、「Watch」に現れる面白動画やDIY動画みたいなのもうるさいです。デザインはぜんぜん違うけれど、「晩年」のmixiに漂っていた雰囲気を思い出します。

そんなFacebookをはじめとするネット上のソーシャルメディアサービスを俎上に載せ、批判するシヴァ・ヴァイディアナサン氏の『アンチソーシャルメディア』を読みました。私は最近こうしたネットサービス、SNSに関する批判的な立場の本を片っ端から読んでいるので、「確証バイアス」(仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向:Wikipedia)に気をつけながらこの本も読みました。


アンチソーシャルメディア Facebookはいかにして「人をつなぐ」メディアから「分断する」メディアになったか

もとより、SNSやネットニュースのような媒体そのものが確証バイアスを強化するのにうってつけの存在です。あまり陰謀論みたいなものに与したくはありませんが、ごくごくシンプルに考えても、無料で使えるこれらのサービスの収入源は当然広告であるわけで、であればこうしたサービスにアクセスするたび「あちら側」は私の個人的な嗜好・指向に関する情報を集め、分析し、それに沿って私がよりクリックするであろう情報を提示してくるであろうことは想像にかたくありません。

そうした「しかけ」が、個人の財布の紐を緩める程度のレベルで済んでいれば事はそれほど深刻ではないかもしれませんが、これが世論を動かし、社会の空気を変え、政治に利用されるようになると(それも知らず知らずのうちに)、これは十分に身構えてしかるべき存在になります。そしてこの本では、そうしたネットのソーシャルメディアサービス、とりわけFacebookGoogleについて、その功罪を詳述しています。

この本に書かれていることの捉え方は人によって異なるでしょう。それほど深刻に考えない方もいるでしょうし、よしんばソーシャルメディアサービス側がさまざまなしかけを駆使していたとしても、個人は個人で採ることのできる対策はあると考える方もいるでしょう。ようはそうしたマイナス面をも織り込んで、自分の側に手綱を引き寄せつつ是々非々で使えばよいだけではないかと。

私もそう考えて、かつては数多のソーシャルメディアサービスにアカウントを作って利用させてもらってきたのでした。でも立ち止まって考えれば考えるほど、こうしたサービスの罪は功をはるかに上回っていると結論づけざるを得ません。かつて私は、TwitterなどのSNSは実社会では考えられないほど他者との「界面(インターフェース)」を拡大してくれる仕組みだと、その功ばかりに注目していました。しかしいまになって思うのです。そうした、いわば膨張した自己のようなものは、どこかで人間の精神を蝕むのではないかと。

いまはまだこんな陳腐な言語化しかできませんが、これからも確証バイアスに気をつけながらこうした論考に触れて、問題の在り処を見極めて行きたいと思っています。

余談ですが、この本の翻訳は日本語としてかなり読みにくいものでした。奥付けには翻訳者のお名前とともに「翻訳協力:株式会社トランネット」という記述があります。ちょっと調べてみたら、出版翻訳に特化した翻訳業者のようです。具体的に、翻訳者とどういう役割分担になっているのかはよくわかりませんが、訳者あとがきがまったく付されていないことも相まって、やや不可解さが拭いきれない……そんな印象を持ちました。