インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

中学生の頃に英語の授業で

どういう経緯だったのかはまったく覚えていないのですが、私が通っていた中学校にアメリカ人の先生が視察に訪れたことがありました。その際、私たちのクラスでは英語の授業にその先生が参加して、英語で会話するという機会が与えられました。

クラスいちひょうきんなDくんは、その先生に「Do you know Candies?」などと聞いて笑いを取っていました。当時キャンディーズが人気だったのです。ただ私は、クラス中が爆笑しているなかで、まったくもってその雰囲気に乗ることができずにいました。

英語の成績が悪い生徒だったからというのもありますが、直接の理由はその授業の直前に職員室で英語担当の先生の机の上に「名簿」を発見してしまったからでした。その名簿は、くだんのアメリカ人の先生に渡すために作られたもののようでした。そして私は当時「英語係」で、毎回授業の前に教材のプリントなどを先生の机まで取りに行く役割だったのです。

その名簿には、クラスの何人かの名前のところにマル印がついていました。そして欄外に“○:Good students”という注が書かれていたのです。私の名前にはもちろんマル印はついていませんでした。先生からすれば、視察される授業で、英語の成績がよい学生と話すことで少しでも盛り上がるようにという「仕込み」だったのでしょう。でもそれはないよ、と中学生ながらに思ったことを覚えています。

その当時は自分が将来語学の教師などという職業に就くとは想像だにしていませんでしたが、語学の教師になってから、当時のこの件を時々思い出すことがありました。教師の立場から見ると、学生の「出来不出来」はとてもよく見通せます。だから授業では、比較的難しいタスクは「出来」る学生に当て、比較的簡単なタスクを「不出来」な学生に振る、というような調整を行うことはあります。

また、ある授業を自分から他の教師へ引き継ぐような場合、クラス全体の情報を伝える中で「この学生はよくできる、この学生はいまひとつ」のような情報も引き継ぐことがありました。でもそのたびに、これはあの“○:Good students”という注と同じことをしているのではないかという気持ちがわき上がってくるのでした。

人は誰しも変わる可能性があります(変わらない人もいるけれど)。だからいまでは、こういう引き継ぎはやらない方がよいのではないかと思っています。少なくとも授業前から先入観を持たせるような仕組みはやめて、それぞれの教師が自分が受け持った授業の中で感じた自分の判断を大切にした方がいいのではないか。その上で決して均一ではない学生ひとりひとりに対してどういうアプローチをすべきか考えるーー言うは易く行うは難しですが。あの英語の名簿に感じた「それはないよ」はそうやって今につながっています。

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