インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

最近、仕事でも私生活でもいろいろと「捨てる」場面が続いて、さびしいような、でもその一方でさっぱりしたような、不思議な感覚にとらわれています。ものを捨てる、いわゆる「断捨離」みたいなのは、私はけっこう抵抗がなくて、あまり執着せずにぼんぼん捨てることができる性格ですが、人間関係が絡むような仕事の中身とか暮らしのあれこれなどについては、それこそ相手もあるわけで、そう単純ではありません。

私は若い頃から転職や失業を繰り返してきたので、人間関係にすらあまり執着しないタイプの人間だとは思いますが、私だってそれなりに悩むんです。誰もあまり信じてはくれませんけど。そんなときにいつも思い出すのは、最初に転職、というか職場の人間関係がとことん悪化して辞職せざるを得なくなったときに、ある方から言われた「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉です。

当時私は、熊本県水俣市で働いていたのですが、この言葉をかけてくださったのは私が勤めていた財団の理事だった地元の漁師さんでした。「板子一枚下は地獄」ということわざがあるくらい、漁師さんの仕事は危険と隣り合わせなのですが、その彼が言う「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」だけに、そこには漁師さんの人生に裏打ちされた強いリアリティが感じられました。

彼が私に諭そうとしたのは、職場の人間関係で煮詰まっているようだけれども、自分のこだわりや執着のようなものを思い切って捨ててみたら、また新たな展開が生まれるんじゃないか、だからぜひ辞めないでここに残って、さらにいい仕事をしてほしい……ということだったと思います。でも若い私は逆に、ここで思い切って退職して、まったく違う天地を見つければいいんじゃないかというふうに受け取ったわけです。

結果的には、そうやって退職した後、東京に戻り、それまでとはまったく違う仕事をしながらいまに至っているわけで、あそこで捨てていなかったら、つまり決心していなかったら、まったく違う人生になったと思います。だから後悔はまったくないのですが、ただ「捨て方」についてはもう少し智慧があってもよかったかなと、いまさらながらに思います。

手元の辞書には「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」について、こんな語釈が載っています。

自分の命を捨てる覚悟があって、はじめて窮地を脱し、物事に成功することができる。(学研国語大辞典)

確かにその通りなんですけど、ただこの語釈は、ややアグレッシブにすぎるというか、強い精神の側面を強調しすぎているようにも思えます。あるいは自分の利益だけにフォーカスしすぎているというか。むしろ私は、あの漁師さんがこの言葉をかけてくれたときのように、一歩引いて自分を見つめてみる、あるいはひとつ階段を降りてみる、こだわりや執着を解き放ってみる……といったような、引き算のベクトルこそこの言葉が本来持っているものではないかと思うのです。そこには自分を含む周囲の人々への目配りも内包されているような気がして。

そして、たまたま最近「捨てる」場面が続いた私にとっては、ことのほかその意味するところが身に染みるように感じられるのです。

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