インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「かけはしになりたい」をめぐって

勤めている学校のひとつでは来年度に向けての入学試験シーズンが始まりました。入試では筆記試験やリスニング試験の他に、面接と作文があるのですが、その面接や作文で「(日本と母国との)かけはし(懸け橋・架け橋)になりたい」と言ったり書いたりする方が毎年のようにいます。

そういう受験生に接すると、我々教職員の間にはなんとも言えない「微妙」な雰囲気が漂います。「かけはしになりたい」というフレーズがすでに国際交流の場においては「定番」どころか「陳腐化」していて、その志の高そうな字面とは裏腹に、自分の頭できちんと考えていないことが透けて見えるからではないかと思います。

もちろんその志やよし、なのです。それに日本語を学んで日本に留学しようと思った以上、将来は日本と母国の間を取り持つような仕事に就く可能性も高いでしょう。その意味では「かけはしになりたい」に嘘はないのかもしれません。でも、その思いを定番のフレーズにすべて仮託して、では自分は具体的にどんなことをしたいのかをほとんど語らないとすれば、それは一種の思考停止ではないでしょうか。

実際面接で「ではどんなことをして『かけはし』になろうと思いますか」と聞いてみると、具体的に語ることができなかったり、作文でも具体的なことを書いていなかったりするケースが多い。そもそもこの「かけはし」は、中国語業界ではとてもおなじみで、「友好」という言葉とともに多用されてきた歴史があります。試みにネットで検索してみればたくさんヒットしますし、「中国では、スピーチをする際の模範的な結末であるとされ」ていたというこちらの方のような証言もあります。

私たちの学校を受験する留学生の方々は、そのほとんどがまず日本語学校で一年から二年ほど日本語を学んでこられた人たちです。入試の面接や作文で毎年「かけはしになりたい」が一定数現れるのは、たぶん日本語学校の先生方からそういうご指導が入っているからではないかと想像しています。それが「模範的」であり、無難でもあると。

でも、興味の方向も将来の夢も個々人によって大きく違うはず。その自分ならではの展望をこそ語ればいいではありませんか。「かけはしになりたい」を使うことで、かえってその自分を美しい言葉の後ろにしまい込んで、胸襟を開いていないような印象を与えると思うんですよね。日本語学校の先生方にはぜひ、この言葉をいったん封印して、オリジナリティのある違う言葉で語るようご指導いただければと思います。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_614.html

私はかつて、この「かけはし」を学校のスローガンとして掲げている学校で中国語を学んで、「友好」をその名前に冠している団体主催のスピーチコンテストに出場したことがあります。そのコンテストで私は「おたく」をテーマにスピーチしたのですが、コンテスト後の懇親会で審査員のお一人が語っておられたことがとても印象に残っています。「こうしたコンテストではなぜか『友好』とか『かけはし』をテーマにしたスピーチが毎年たくさん行われる。だからあなたのスピーチはとても新鮮だった」。概略、そういうお話でした。

私がコンテストに参加した数十年前ですら、「業界」の方々にとってはこうした言葉がすでに陳腐化していたのです。現代に生きるお若いみなさんにはぜひ、「かけはし」ではない言葉で橋をかけていただければいいなと思っています。