インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

暗誦は人生の糧になるはず

華人留学生のクラスで、中国で使われている小学校四年生の“語文(国語)”教科書の一部を資料として配布しました。みなさん「懐かしい〜」と言う一方で、「よく全文暗誦させられて、いい思い出がない」とも。覚えないと居残りで、できるまで先生の前で暗誦させられたんだそうです。

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新しい単元に入るごとに、本文の最後に「暗誦しましょう」という課題がないかどうかまず確かめていたそうです。暗誦の課題があると、それだけで暗くなってたとか。台湾の学生に聞いたら「そんな暗誦なんてしたことない。意味ないと思う」と言っていて、中国の学生が「だよね」と親指を立てていました。中国の学生さんはとにかく教科書の暗誦がトラウマになっているようです。

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でも私は教科書のきちんとした文章や美しい文章を暗誦するのって、それなりに意味があると思うんですけど……身体で覚えた語彙や言い回しは財産だからです。私たちも学生の頃には古典の一節や、それこそ漢詩なんかも(日本語の読み下し文ですけど)覚えさせられました。孔子などの言葉も年配者が「お小言」的に言っているたのが身体に残っています。「己の欲せざる所は人に施す勿れ」とか「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」とか。

まあ、盲目的に何でもかんでも全文暗誦というのも苦痛なだけでしょう。だから教科書の本文をまるごと暗記というのは私もちょっとどうかと感じますが、少なくとも詩や名文などの暗誦は人生の糧になりますよね。座りの良い言葉のコロケーション(つながり)とか、普段のおしゃべりでは出てこないちょっと高級な表現とか、あるいはそれを使うだけで多くの人に「ああ、あの意味ね」と了解してもらえる背景とか。

能楽の詞章にはそういう言葉も多くて、それが引用や比喩や暗喩や諧謔や掛詞(要するに言葉の遊び)などになって、多くの人と共感することができる。諳んじている言葉は人々との共通の財産でもあると思います。なのに大人になった留学生のみなさんは結局「糧になった」という思いがないままだというのは、ちょっともったいないような気もします。“可憐天下教師心(教師の心子知らず)”ですね。

ただこれは想像ですけど、そうやっていやいや覚えた教科書の一文が、自分のいまの思考の一端を形作っているということはあると思うんです。ご本人はそれとは気づいていないかもしれないけれど。教育って、そうやってその場ですぐには効果が出ないものの、長い年月をかけて実を結ぶ、あるいは実を結んでいるとは自覚していないながらも何かの糧になっているということはあると思うんですね。

もうひとつ面白かったのは、「教科書の暗誦なんて一度もしなかった」と言っていた台湾の留学生も、伝統的な“三字經”は全員がやったそうです。“三字經”の簡単な説明はこちら。で、私が“人之初,性本善”と水を向けると、全員が“性相近,習相遠……”と延々暗誦できちゃうのです。“三字經”の暗誦が、みなさんのその後の知的生活にどういう影響を及ぼしてきたのか、とても興味があります。

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