インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

語学におけるネットの中毒性

外語の作文をするときに、インターネットを利用することがあります。自分の書いた文やフレーズが実際に使われているか、ダブルクォーテーションマーク(“”)つきで検索(完全一致検索)して確かめるのです。ネットを巨大な「コーパス」として利用するというこの方法、たぶん多くの方がやってらっしゃるのではないかと思います。

ただし過信は禁物です。完全一致検索で自分の書いた文やフレーズと同じものがヒットしても、そのヒット数や前後の文章などを勘案して「ボツ」と判断することもあります。ヒット数が多くても、それがほとんど同じページやソースからのものだと分かれば、やはり退ける。ネットは便利だけれど、その便利さに頼り切るのは危ないと思うのです。

私が日々顔を突き合わせている留学生のみなさんを観察していると、この「ネットへの過信」が少々度を超しているように思えるときがあります。通訳や翻訳の授業でかなり不自然な日本語や大時代な日本語を出してきたときなど、たいがいはネットの辞書で検索した結果をそのまま使っていることが多い。さらに、その不自然さを指摘しても「だってネットにあったんです」と言う方も多いです。

学生さんたちが紙の辞書を使わなくなったと言われて久しいですが、いまやネットのきちんとした辞書さえ使わない方がほとんどです。無料のなにやら怪しい翻訳サイトの訳例をそのままコピーアンドペーストしたり、ネット辞書に数多くの語義があるにも関わらず、前後の文章や脈絡に関係なく画面の最初に出てきた語義に飛びついたり。ネットの情報はそもそも玉石混交という前提すらなく信じてしまうんですよね。

どんどん精度が上がっているというGoogle翻訳も留学生のみなさんは大活用していますが、幸か不幸か英語や中国語と日本語の距離がかなり遠いために、まだまだ信を置ける訳が出てくる可能性は低いです。それはみなさんも分かっているので今のところはそれほど過信をしていないように見受けられますが、この先さらに精度が上がってきて信を置けるか置けないかのボーダーライン近くになっていったら……たぶん、学習態度に大きな変化をもたらすのではないかと予想しています。

Google翻訳はいまやありとあらゆるところに活用されていて、例えばTwitterなどでも「このツイートを翻訳する」とポチッと押せば「だいたいの訳」が出てきてそれで用が足りたりします。曲がりなりにも用が足りてしまうと、もう外語を精緻に読解しようというモチベーションが下がりますよね。これは麻薬みたいなもので、かなり人間の精神に異変をもたらすように思います。

実際私も、例えば毎週フィンランド語の作文を続けているのですが、自分で一通り書いたあとGoogle翻訳で英語にしてみるということをやっています。日本語にすると、自分が日本語母語話者であることも手伝ってかなりおかしな文章が出てきたなあと感じますが、英語だと適度に自分から遠い文章が出てくるので、特に動詞の時制など、わりあい客観的に不自然な点を発見できるのです。

でもこれも中毒になりかかると、ついつい先に英語で文章を書いて、それをフィンランド語にしようという欲望が生まれます。こうなるともう本末転倒で、一体何のためにその語学をやっているのかという本来の目的が失われてしまいます。ただこれも、例えば日本語と違って単数/複数の弁別が重要な英語とフィンランド語間で、その間違いを見つけやすいというメリットがあって、時々使ってしまいます。ちょっと悪い習慣がつきつつあるように感じています。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_6.html

語学にとってネットはとても有用なツールなのですが、どこまでその便利さを理性的にハンドリングできるか、そういう一種の能力(それもこれまでの人類にはなかった種類の能力)を涵養することが今後必要になってくるのではないか。そう思っています。

追記

そんなことを考えていたら、Twitterでこちらのツイートに接しました。国語辞典編纂者の飯間浩明氏のつぶやきです。東京都の小池知事が提唱した「五つの小」に「小人数(こにんずう)」があり、それを「影響力の大きい論者までが『日本語を壊すな』といった発言をしてい」ることについて、実際には「こにんずう」という言葉もあるとした上で……。

う〜ん、ネットやネット辞書への過信は禁物だと思って、検索結果に頼り切る留学生のみなさんを憂う私ですが、そのネット辞書すら引かないという180度反対側にいる人たちの存在については想像が及んでいませんでした。