インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

謝辞なんていらない

ネットで検索していたら、とある大学での卒業式における「謝辞」を見かけました。型通りのものとは全く違ったスタイルのその謝辞は、SNSなどでも「パンク」だ「ロック」だなどと形容され絶賛されていました。

www.univ.gakushuin.ac.jp

個人的にはこの謝辞で、「私は素晴らしい学績を納めたので『おかしい』ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う」と述べつつ、「私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない」としているところに大きな違和感を覚えました。素晴らしい学績を納めていなくても口にする権利があることを守るのが言論の自由だと思うからです。

でもその一方で、「卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎ」ず、「見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ」という部分は、たしかにその通りだと思いました。私も卒業式などにおけるああした「送辞」なり「答辞」なり「謝辞」なりの“千篇一律”ぶりが好きではなく、自分の大学の卒業式にさえ出席していないくらいです。

ただ、定型文と美辞麗句ではない形でも、様々な思いを述べることはできると思います。その意味で、くだんの「謝辞」はあまりにも荒削りですし、「感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない」と言い切ってしまうのはやりすぎじゃないでしょうか。自分がここに生かされている事実と、生かされている環境というものは、自分自身でも気づいていない多くの人々の営みから作り出されているのですから。それが人間の社会というものだと私は思いますし、そこに想像が働かないのはやはり幼いと言われても仕方がありません。

でもまあ、こうしたお若い方の意気軒昂な「謝辞」を頭ごなしに否定せず、そのままウェブサイトに掲載した大学当局の判断はいいなと思いました。謝辞の上には注釈がつけられていて、「内容が謝辞として相応しくないといった意見もありましたが、本学部は多様な意見を尊重しオープンな開かれた学部でありたいと考え、原文のまま掲載しております」とあるんですけど、これはいらなかったかもしれません。そんなものは一切つけず、どのような謝辞であっても黙って受け止め、静かに卒業生を送り出してあげるだけでいいんじゃないかと。

昨日たまたま読んでいた、大村はま氏の『教えるということ』に、こんな一節がありました。

「卒業生がいつでも先生、先生と慕ってくれるのが、なによりもうれしい」とか、そのとき、「先生ほど楽しい職業はない」と思うとかいうことばを聞くことがあります。
私の受け持った卒業生は、「先生のことを忘れない」と言ったこともないし、また私も忘れてほしいと思っています。私は渡し守りのような者だから、向こうの岸へ渡ったら、さっさっと歩いていってほしいと思います。後ろを向いて「先生、先生」と泣く子は困るのです。「どうか、自分の道を、先へ向かってに(ママ)どんどん歩いていってほしい。私はまたもとの岸へもどって、他のお客さんを載せて出発しますから」。卒業した生徒がなにか自分で言ってこない限りは、私はあとを追いません。「どうぞ新しい世界で、新しい友人を持って、新しい教師について、自分の道をどんどん開拓して行きますように」そんなふうに子供を見送っております。(70ページ)

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新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

以前にも書いたことがありますが、私は自分が受け持っている留学生のみなさんも、卒業したらもう振り返らなくていいから、ぜひ前を向いてほしいと思っています。卒業生の中には、折に触れて教員室を訪ねてくださる方や現状報告に来てくださる方がいて、それはそれで嬉しいんですけど、母校なんか忘れていいから、どんどん前に進んでいってほしい。そしてもし学校で学んだことが何かの役に立ったと思ったら、それを教師への「謝恩」という形で返さなくていいから、自分のあとから進んでくる人たちに伝えてほしいと思います。

qianchong.hatenablog.com

くだんの謝辞は「ロック」だ「パンク」だと持ち上げられていましたけど、「ロック」だっていうなら、大村はま氏のほうがすぐれてロックじゃないかなあ。私のことは忘れろ、振り返るな、前を向け!……って。