インタプリタかなくぎ流

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「言の葉」のフィンランド

職場から業務は基本的に「テレワーク」として学校へは極力出てこないようにとのお達しがあり、通勤時間の浮いたぶん、これまで「積ん読」だったたくさんの本を消化できるようになりました。とくに大部の本はこうやってまとまった時間があるときじゃないとなかなか手が伸びません。そんな中で読んだのが吉田欣吾氏の『「言の葉」のフィンランド』です。

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「言の葉」のフィンランド―言語地域研究序論

500ページ以上もある学術書で、フィンランド社会を理解する「鍵」としての言語という視点から、フィンランドにおける言語政策や言語教育について研究・分析を行っています。個人的にはフィンランド語そのものの構造や言語学的な分析に興味があって読み始めたましたが、そうした記述はあまり多くなく、その点では少々期待とは違った内容でした。とはいえ逆に、フィンランド史を概観した上で、周辺諸国との関係も踏まえながらフィンランドがどのような言語環境にあり、それにどう対応してきたのかについて詳細に知ることができました。

とりわけ収穫だったのが「言語的人権」という観点から、フィンランド先住民族であるサーミ人とその言語であるサーミ語、さらには移動型民族であるロマと呼ばれる人々とその言語ロマニ語(ロマ語)について記述されている部分です。とくにサーミ人に関する章で、言語の多様性と生物の多様性、あるいは人間社会の多様性を結びつけて論じている部分は、そもそも言語とはどんな機能を持っているのかに始まり、人間が現実世界を切り取る方法としての言語、世界が独善性に走ることを防ぐ機能としての言語の多様性など、非常に示唆に富む内容です。

言語ごとに世界の切り取り方が違うということは、それだけ現実世界の事象に対する多様な視点、多様な光のあて方を人間に提供するということです。この本にはドイツの言語学者であるレオ・ヴァイスゲルバーのこんな言葉が引用されていました。

人類の世界に言語がひとつしか存在しないのであれば、存在(Sein)の世界を人間が認識する道は人間の主観によって永遠に固定されてしまうであろう。この危険性を言語の相違は防いでいるのである。すなわち言語の多様性人間の言語の才を利用し尽くし、種々の必要な見方をして人類を言語による目標に導く多数の鍵である。(太字部分は原著では傍点)

なるほど、言語による世界の切り取り方が違うからこそ、人間の独善的な解釈が幅を利かすことができなくなる。そう考えればすべての学問で活発な議論が起こり、批判的な検証を行うことができるのも、言語の多様性があるからこそなのですね。まさに知は差異にこそ宿る、人々の多様性にこそ宿るというわけです。ここで論じられていることは、私たちが母語以外の言語を学ぼうとする際にぜひとも知っておきたい、そも言語とは何かという「言語リテラシー」とでもいうべき基本的な知識だと思います。

この本では他にもフィンランド手話についても多く紙面が割かれており、そこでも音声言語と手話言語の違いと共通点、手話言語に対する多くの誤解、日本手話と日本語対応手話(シムコム)との違いなど、手話言語に対する基本的な知識も学ぶことができました。

余談ですが、書名にある「言の葉」がいいですね。「言の葉」は辞書によれば「言の端(は)」であり、紀貫之の和歌「やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」にもあるように、心の種から育った樹の端に茂る葉っぱという形象なんだそうです。言語を葉っぱに例えるのが面白いですけど、興味深いのはフィンランド語の「葉っぱ」は“lehti”で、これには「新聞」の意味があるんですよね。そしてフィンランド語の「新聞」は“sanomalehti”ともいい、もとの意味は「メッセージの葉っぱ」で、つまりまんま「言の葉」なんです。新聞が「言の葉」だっての、新聞大好きな私としてはとてもうれしいです。