インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

男の編み物(ニット)橋本治の手トリ足トリ

昨晩、橋本治氏の訃報に接しました。今朝の新聞にも追悼記事が出ています。

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桃尻娘』シリーズをはじめ、氏の作品はあれこれと読みましたが、私が最も影響を受け、かつ名著だと思っているのは、この記事にも「趣味を生かし、男性向けの編み物指南書も手掛けた」とある『男の編み物(ニット)橋本治の手トリ足トリ』(1983年初版、私が持っているのは1989年の新装初版)です。

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帯の惹句、裏表紙には「生活できない男なんてただの粗大ゴミだ!!」と書かれています。大学を卒業するも就職できずに路頭に迷っていた私は、この惹句にいたく引きつけられ、地べたから生活を作り上げる生き方に憧れて農業のまねごとをはじめ、手作業の知恵と技に憧れて編み物にも傾倒していました。当時の愛読雑誌は日本ヴォーグ社の『毛糸だま』でした。

学生時代に、何の映画だったかドキュメンタリー番組だったか忘れましたが、欧州のニット職人、それも男性のレース編み職人が繊細な作品を作り出しているのを見て「自分もこんな仕事がしたい!」と思っていたのも影響したのだと思います。広瀬光治氏などのニット作家が世に知られる、はるか以前のことです。その意味でも、橋本治氏のこの本は画期的かつ先駆的だったと思います。

この本が素晴らしいのは、徹頭徹尾実用書として作られていることです。しかも編み物入門編としてまずはマフラーのような簡単なものを編むなどということはせず、いきなりセーターを1着作らせるのです。氏は冒頭で「マフラーなんて、ただの棒だからね、あんなもん編んだって、退屈なだけ。飽きちゃう」と言っています。そして「手トリ足トリ」の書名通り、セーターの編み方を事細かにその絶妙な文体で説明していくのでした。服飾用語で「剥ぐ(はぐ)」と「接ぐ(はぐ)」は全く逆の行為なのに発音が同じという面白さに気づかされたのもこの本ででした。

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私は実際にこの本で全くのゼロから編み物を学び、セーターを何着か作りました。そののちには別の本でさらに学んでカーディガンや編み込みのセーターを作り、毛糸の草木染めにまで手を出していました(編んだものはすべて人にあげてしまい、手元には残っていません)。う〜ん、全く編み物をしなくなった現在からすれば自分でもちょっと信じられません。たぶん、美術大学に入学したものの、己の才能のなさに気づいて茫然自失となり、就職もせずにふらふらしていた自分のせめてもの「失地回復」行為だったんじゃないかなと思います。

橋本治氏のセーターは精緻な編み込みがその真骨頂で、かの有名な「ジュリーのセーター」のほかに「山口百恵のセーター」や浮世絵を題材にしたものなど、どうやったらこんなもの編めるんだろうという驚きに満ちていました。下の写真には「マイコン」を抱えた氏が写っていますが、全体的にとても「時代」を感じますよねえ。

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この本は実用書ではありますが、そこはそれ、橋本治氏一流の「理屈」もたくさん詰まっています。帯の惹句もさることながら、セーターという極めて実用的なものを自らの手で作り出すことについて、氏は優しく「手トリ足トリ」教える一方で、読者、とりわけ男性の読者に対して厳しく価値観の転換を迫っているように感じられるのです。

そもなぜセーターを編むのか。毛糸と二本の編み棒が作り出す「衣服」という実用品の意味は。毛糸屋さんにおける男性の存在。技術を一から学ぶこととは。男性の色やデザインに対する感覚……。その一つ一つの語り口が、新鮮かつ痛烈です。それらは、現在に至ってもあまり変わっていないように思える、多くの男性に残る頑迷な男尊女卑の心性や、生活全般、なかんずく家事に対する無関心をも厳しく批判しているように私には読めます。氏はおそらくそんな無難な(?)カテゴライズは好まないでしょうけれども。

とにもかくにも、私はこの本でかなり大きく男性としての価値観を揺さぶられました。いまのこの時代、性別で区分けをするのはあまり意味がないですが、それでも現在の多くの男性諸氏にとって、いまだに多くの示唆を与えてくれる本ではないかと思います。名著と呼ぶゆえんです。

橋本治さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。