インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ふたたび「煙のゆくえ」について

タバコを巡るアンソロジー『もうすぐ絶滅するという煙草について』を読みました。


もうすぐ絶滅するという煙草について

ちょっと〜、「タバコごとき」にウンベルト・エーコ様の書名を援用しないでほしいんですけど、写真を「ぐぐって」みると分かるように、当のエーコ様はどうやら愛煙家だったみたいです……ううむ、なんとも悲しいものがあります。

えー、閑話休題

この本には様々な視点・論点・述懐・嘆息……が並んでいますが、私がかねてからご指摘申し上げている通り、共通しているのはやはり「他者への視線の欠如」です。特に、日頃その書を敬愛し、愛読し、ほとんど私淑している数多の先賢明哲が、ことタバコに関してはなぜかくも愚かな論を弄するのかと天を仰ぎたくなります。ああ……おいたわしい限りです。

qianchong.hatenablog.com

とはいえ、物故者の「タバコ愛」には一掬の汲むべき点もあります。その時代の制約というものがあるからです。作家・開高健氏が「たばこ追放は魔女狩りである」とか「僕は身体の健康よりも魂の健康や」などと今となっては稚拙としか言いようのない論を展開していても、哲学者・池田晶子氏が「たばこを喫まず、酒も飲まず、野菜ばかり食べてジムへ通う。そういうツルンとした人々の姿が浮かぶ」揶揄し「その健康な人生は何のためのものなのですか」などと難癖をつけてきても、当時の常識や社会通念からすればある程度は無理からぬところもあるなと客観視して読むことは可能でしょう。

一方で、2018年の今、タバコに関する数え切れないほどの否定的なエビデンスが出揃った現代を生きる人間が、なおも愚にもつかない「タバコ擁護」を、それもひとかけらの他人への視線も憐憫も感じられない自己愛だけを語って正当化するのはちょっと看過できません。多くの筆者がこの本では「僕は身体の健康より魂の健康や」をパラフレーズし、あたかも勇ましい軍歌を高歌放吟するが如くに語り倒しているのは、なんなんすかー?

おっと、つい失礼な筆致になってしまいました。現代に生きる人々の文章も、その初出は必ずしも2018年の今ではないのですが、少なくともこの本への採録を許可した以上、現在も同様のご認識であると推測しつつ、いくつか「高歌放吟」の例を見てみましょう。まずは筒井康隆氏。

だいたい女性の多くには同情心が欠けていて「惻隠の情」なんてことも理解できぬ人が多い。煙草を喫わぬからではないかと思う。というのは嫌煙権を主張する男性にもそのての人物が多いからだ。嫌煙権運動の推進者に女性が多いのもうなずける。勿論小生、女性のすべてにこんなことを言うのではない。小生の見知っている女性はいずれもすばらしいキャラクターばかりであり、他人の喫煙にけちをつけたりしない。おれの吐いた煙をもう一度胸に深ぶかと吸い込んで「ああ。あなたの吐いた煙なのね」といって感激し目をうるませるのは強ち妻だけではない。
(同書125ページ/筒井康隆「喫煙者差別に一言申す」/初出は1994年『笑犬樓よりの眺望』)

「ご乱心」としか言いようのない妄言ですけど、あの筒井康隆氏だからとまるで麻生太郎財務大臣トンデモ発言を「麻生節」などと受容するような大手メディアの轍を踏んではいけません。青春時代に数多の筒井作品を愛読してきた私も、この文章には「ドン引き」ですよ。

この文章では他にも、他の命を食さざるを得ない人間の「原罪」だの、人は健康を気にするかわりに物事を深く考えず「演繹的」になるだの、激しい知的労働や精神的負担から起こる口内炎は喫煙ですぐ治るだの、様々な論を持ち出してタバコを擁護するのですが、すべてが「オレが、オレが」で他人への視線が全く含まれていません。「早死にしてもいいから喫煙を続け」るのは結構ですよ。それが他人への理不尽な抑圧を回避できている、あるいは完全とは言えないまでもできる限り回避しようという意思をお持ちであるならば。

お次は、池田清彦氏。

国民の健康を心配するなら、原発事故の汚染地帯をさっさと除染しろ。
この忙しいときに何を寝ぼけたことを言っているのかね。
私はたばこは吸わないけれど、人は自分の意思でたばこを吸って死ぬ権利があると思う。
余計なお世話だ。
(中略)
たばこを吸って命が縮むのがよしんば本当のことだとしても、それは平均値の話にすぎない。
人間の遺伝子型は人により様々で、ある遺伝子型は肺がんになり難く、ストレスに弱いことはあり得る。このタイプの人はたばこを吸った方が長生きできるはずだ。
こういうデータが出て禁煙原理主義者がオタオタするところを見てみたいね。
(同書139ページ/池田清彦「たばこ一箱を一〇〇万円にしてみたら?」/初出は2012年『アホの極み 3.11後、どうする日本!?』)

データが出ていないのに論を「はずだ」で断じるなど、生物学の博士号をお持ちの科学者とは思えない非科学的な論旨ではありませんか。「たばこを吸って死ぬ権利」と人権問題に持っていくのも常套手段ではありますが姑息な手法です。こっちとしては、何の面白みもありませんが「だったら他人のたばこの煙をムリヤリ吸わされずに死ぬ権利もあります」とお返しするしかありません。斯界の権威がこういう愚にもつかない論を展開するのは、一般人よりもさらにタチが悪いです。

もうお一人、内田樹氏。

私たちの社会からはすでに献酬の習慣が消えた。今また喫煙の習慣も消えようとしている。おそらく、遠からず応接室でお茶を供する習慣も、宴席で隣人のグラスに酒を注ぐ習慣も、煩瑣だから、無意味だから、あるいは健康に悪いからという理由で消えていくことだろう。けれども、共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になると、私にはどうしても思えない。
(同書19ページ/内田樹「喫煙の起源について。」/初出は『BRUTUS』2005年3月15日号)

喫煙が「共同体立ち上げの儀礼」の名残などといってクロード・レヴィ=ストロースあたりを援用しつつ「リーダブル」な文章で語る内田氏。なに言っちゃってんのと申し上げるより他ありません。ここにはお茶やお酒を供する際の「他人への視線」が含まれていますが、それとタバコの煙を一緒にされる意味が分かりません。悪いけど、喫煙の習慣は消えても「応接室でお茶を供する習慣」や「宴席で隣人のグラスに酒を注ぐ習慣」は消えて行きはしませんよ。

共同体の存続と個人の健康を天秤にかける論旨にも首をかしげることしきりです。なおかつそれを人々の「幸福」とつなげて語るなど、これももうイデオローグと言ってもいいタチの悪さです。健康で幸福な個人が生きる共同体が存続していけば、それが一番いいに決まってるじゃん。

総じてこの本の多くの筆者は「健康」を嘲い、目の敵にしています。そんなに健康になりたいのか、で、何のための人生なのか、と。それこそ「余計なお世話」です。潤沢な資産も預金も、さしたる社会的な地位も名声もない、ましてや己の短命と引き替えに芸術や革命を語るような「ぶっとんだ」存在でもない市井の一個人にとって、健康はなにより大切ですよ。少なくとも、できうる限り健康でQOLを下げたくないと思っている他人に、制御不能なタバコの煙を吸わせる道理はひとかけらもありません。

上記のエントリにも書いたことですが、様々な人間が一緒に生きている社会の中で、現実的に折り合いをつけていくことは大切でしょう。私だって喫煙という一種の長い歴史を持つ「文化」が、今すぐこの世の中からなくなる、あるいはなくなってしまえ、と思っているわけではありません。少しずつ少しずつみんなが気持ちよく生きていける方向へ持って行くしかないでしょう。

ですが、ここに例示した方々のように、それを個人の芸風に落とし込んで斜に構えるだけで、ちっとも他者に、そして「煙のゆくえ」に想像を向けないのはとても不誠実な態度だと思います。人間は感情の動物ですから、ああこの方々は悩みつつも他者のことも考えて吸っているんだな感が行間から伝わってくれば、私だって多少の煙を吸わされても目くじら立てませんよ。

この本の中で「煙のゆくえ」に焦点を当て、「他人の吐き出したタバコの煙を吸い込む義理はない」ので、煙の出ないタバコを開発し、喫煙者には紫煙をくゆらせるのを我慢してもらえば「喫煙者の健康のためにも、ちょっとだけいいかもしれない」と語っていたのは、ロシア語通訳者で作家でもあった、故・米原万里氏でした。さすが! です。