インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

なぜ稽古をするのか

夏の研修会に参加して来ました。内輪で行う発表会みたいなものです。私が舞ったのは「猩々」の舞囃子。その他に仕舞と舞囃子地謡をいくつか仰せつかりました。「羽衣」「三輪」「竹生島」「半蔀」「飛鳥川」。

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謡はiPodの再生回数がそれぞれ100を超えるほどヘビーローテーションで聞いて覚えましたが、それでも結局当日まで「これは確実に謡える!」という仕上がりにはなりませんでした。ううむ、年のせいかしら。当日は、今転んだら詞章が頭からこぼれ落ちそう的な状態で会場に向かいました。

みなさんはどうやって謡の詞章を覚えるんでしょうね。師匠にうかがうと、玄人の能楽師も紙に書く方、ひたすら聞く方と人それぞれだそうですが。私はというと、画面というか映像というか、とにかくビジュアルな物が脳内に立ち上がると比較的容易に覚えられるような気がしています。実際に絵に描いてもいいし想像だけでもいいんですけど、目の前に映像としての風景があれば、それを心の目で追いながら謡っていける。

だから修羅物の合戦のさまを描いたところなどのように、ビジュアルがハッキリしているものは覚えやすいです。上記の曲で言えば「竹生島」などがそうですね。あと以前のエントリでも書いた「三輪」なども、ストーリーが分かりやすいので覚えるのも比較的容易です。逆に「羽衣」のようなとにかく美しい言葉が織物のように連なっているような詞章は覚えにくいような気がします。

研修会の会場についたら着物と袴に着替えてすぐに番組(プログラム)開始。例によってどなたも発声練習やら準備運動やらストレッチやらをしません。これも以前書きましたが、能楽というのは演劇の一種ではあるものの、他のジャンル、特に西洋的なソレとは随分違う発想によって組み上がっている芸能のような気がします。

この件に関して、立命館大学能楽の研究をされ、金剛流のお稽古もなさっているイタリア人のディエゴ・ペレッキア氏が国際交流基金の「をちこちMagazine」に寄せられていた一節がとても興味深いと思いました。

 能の厳格さと流派主義のおかげで、役者たちは高い完成度をもった能の様式を実現してきた。それとともに極めて洗練された美しい言葉がつくりあげられたが、それを話せるものはごくわずかしかいない。そしてその大部分は、決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たちである。


 こうした事実は能の世界以外ではほとんど理解されていない。能界で修業するというのは、師匠が体現する伝統への服従を意味し、その師匠もまた各流派の頂点に立つ指導者、家元に従属している。素人弟子にとって修練した芸を発表する場である演能は、習得した型を再現する場であり、創造的な行為ではない。このように従属した存在である素人弟子たちは、演じるために常に師匠にお伺いを立てる必要がある。芸術表現の形として芸能に興味を抱く若者が、伝統的しきたりの尊重よりも創造性や個性を重んじる能以外の芸能に心を惹かれやすいとしても不思議ではない。


能の中核をなす「素人」:新しい時代の挑戦 | をちこちMagazine http://www.wochikochi.jp/relayessay/2014/01/noh-amateur.php

一読、何だか否定的な見解のように読めるかもしれません。けれどペレッキア氏の主張のベースはまず、そういう特殊な性質を持つ能楽という「お稽古事」が今とこれからを生き延びていくためにはどうすればよいかという視点に置かれたものです。本来「そういうもの」である能楽が、この娯楽に満ちあふれた現代でいかに素人の「稽古者」を獲得していくのかという問題意識であるわけですね。

そしてここで氏が述べていることはまた、内在化された型を再現するのが演能の真面目(しんめんもく)であり、「本番」に自身の表現の最高潮を持っていくことを能楽はそも目的としていないのではないかという分析をも踏まえたものだと思います。もちろん実際の公演で、演者は他の演者との協働を通してその場限りの達成を作り出すのですが、それは他の演劇等における「本番」とはやや違った趣のものであるらしい。

やはり能のお稽古は、とても「ヘン」なところがあるのです(あくまでも現代の私たちからすれば、ですが)。そして私などはその「ヘン」なところになぜか惹かれるんですね。他のお弟子さんたちも、もしかしたらそうなのかも知れません。

能の稽古だって、最初は簡単で短いものから始めて、徐々に難しく複雑なものに移っていきます。その点では他のお稽古事と選ぶところはないのですが、どうもそれだけではない。技術が上がればより高度なワザが駆使できるようになる、ソレをここ一番の大舞台で遺憾なく発揮することがすなわち「成功」であり「達成」であり「進歩」であるという、現代の我々に当たり前のように備わっている世界観とは何か違うものが組み込まれているような気がするのです。特に我々のような、ペレッキア氏言うところの「決して完全には習得し得ないこの言葉を、時間とお金をかけて学んでいる素人弟子たち」にとっては。

今のところ「気がする」というレベルですけどね。