インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

能の稽古

 今年の夏頃からご縁があって、能の稽古を始めました。もちろん、趣味ですけど。
 能に興味を持ったきっかけは二年ほど前、通訳スクールの実践授業で女性能楽師の先生を講師にお呼びして、逐次+同時の通訳訓練兼講演会を行ったこと。彼女はうちの細君の知人なんですけど、大学の研究者であるかたわら、好きな能に打ち込んで、ついにはプロの能楽師になってしまったという人です。彼女の話が、それはもう面白くて。
 何が面白かったかって、まずは中国との深い関わりですね。それまで能や狂言って、日本の中世に成立した日本独自の古典芸能で、歌舞伎よりも古い歴史があって、でも歌舞伎よりも動きが少なくて、歌だかセリフだかもほとんど聴き取れなくて、あ、でも狂言は何となく筋が分かるような気も……などという漠然とした認識で、そもそも能や狂言の舞台さえきちんと見たことは一度もなかったのです。ところが、実は中国の古典に題材を取った演目(能の世界では「曲」というそうですが)や、中国の古典の引用がそこここに見られるのだと。彼女自身も中国文学の研究者ですし、彼女の流派の宗家は中国語が堪能なんだそうです。
 なるほど、中世から近世、近代の知識人にとって漢籍の素養は不可欠だったわけですし、能や狂言が中国の古典と結びついているのはごく当然のことなのかもしれませんが、なぜかそういう認識はなかったなあ。能・狂言=わび・さび・幽玄、和の文化、日本の芸能……という単純なくくりで。自らの不明を恥じました。
 もうひとつ新鮮だったのは、つい最近までの日本人にとって、能や狂言は必修の知的アイテム・教養だったという話です。室町時代に観阿弥世阿弥が大成させた能楽(猿楽)は、その後武家社会の庇護を受けて伝統を受け継ぎます。というわけで江戸時代には能楽は主に武士階級が管理し武士階級のために演じられるものとなり、一般庶民は憧れどもなかなか鑑賞できるものではなかったのだそうで。
 ところが能の脚本である「謡曲」は庶民も親しむことができ、上流階級への憧れも相まって、庶民の教養層に幅広く愛好されます。そして、明治維新における武家の没落で一時存亡の危機に立たされた能楽が息を吹き返したのは、江戸時代に能楽の「謡曲」が広く深く庶民に普及し愛好されていたため、その愛好者層が武家に代わるよき観客となって能楽を支えたからだというのです。
 そういえば私のおじいさんくらいの代には、結婚式で「♪高砂や〜」と謡っている紋付き袴姿の方々がけっこういましたね。子供の頃に出た親戚の結婚式で、何度か聞いたことがあります。当時は「何だか暗い歌だなあ」くらいにしか感じていませんでしたが。
 というわけでにわかに興味を持って、講演終了後、女性能楽師の彼女に「稽古してみたいんだけど」と相談してみたんですね。けれども彼女も二足三足のわらじで忙しい人なのでなかなか予定がつかず、そうこうしているうちに半年、一年と経ってしまい、ついにこちらが我慢しきれなくなって、どうしたかというと……当然ネットに頼りました。
 「能 稽古」くらいのキーワードで検索してみれば、能楽師のウェブサイトや能楽のお稽古情報がたくさん見つかります。その中から、いまの師匠を見つけました。何と言っても、ウェブサイトがとてもすっきりしていて、必要な情報が過不足なく載せられていて、連絡をつけるのがとても簡単で。能楽、特に主役にあたるシテ方には現在五流派があるんですけど、流派の違いも考えずに(というかほとんど違いも何も知らない状態で)メールで「お稽古したいんですけど」と申し込みました。師匠は実はウェブサイトを整備して間もない頃だったそうなんですけど、普通弟子入りというと知人を介してという場合がほとんどで、メールで弟子入りしちゃったのは私が「初のケース」だと笑っていました。
 それから約半年、演劇で言えばセリフやコーラスにあたる「謡(うたい)」と、ダンスにあたる「仕舞(しまい)」を稽古しています。先月にはか・な・り無謀でしたが初舞台を踏みました。連吟(合唱ですな)の『紅葉狩』と『船弁慶』、仕舞の『船弁慶』。能楽堂の舞台に上がったのはもちろんこれが初めてです。

 師匠は私が中国語関係の仕事をしていると知って、「しばらく中国シリーズで行きましょう」と中国の古典に題材を取った演目をお稽古してくださっています。『船弁慶』の舞台はもちろん日本ですが、司馬遷の『史記』に出てくる会稽山の故事(臥薪嘗胆という言葉の元になったお話ですね)が引かれていますし、いま練習しているのは『猩々』と『西王母』で、これはどちらも舞台そのものが中国の演目です。師匠曰く「いまは何だか変なことになっちゃってますけど、昔の日本人がどれだけかの国をリスペクトしていたかということですね」。う〜ん、深い縁(えにし)を感じます。