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中国の衝撃

中国の衝撃
  野崎歓氏の『われわれはみな外国人である―翻訳文学という日本文学』を読んでいたら、この本が絶賛されていたのでアマゾンのマーケットプレイスで購入。論文集なので、なまなかな気持ちでは読み込めないのだが、中国革命の位置づけに関する論考が特に面白かった。

  溝口氏によれば、アヘン戦争を近代化の発端とする従来の歴史観は見直しを迫られているという。中国が辛亥革命以降社会主義を目指し、日本は明治維新以降資本主義を目指したのは、それぞれの国がはるか以前から胚胎させていた社会全体の仕組みや民族的特徴によるとし、中国についてはその萌芽を明末清初にまで遡らせて、官製の「抵抗と革命」史観に疑問を投げかける。
  もうひとつ、小泉首相の時代に書かれた「歴史認識問題」についての論考にもうなってしまった。
  溝口氏は「歴史認識問題」に関する隣国(具体的には中国と韓国)からのシグナルを見誤ることの重大さを指摘する。まずその原因となっているアジア蔑視について。

日本における、欧米追随と裏腹の、アジア軽視、日本優位という構図の無意識的・無自覚的な感情は、すでに一世紀有半にわたり、積弊というにふさわしく、麻酔薬のように全身に行きわたって、アジアの現実への認識力をいびつにし、また阻害している。

  その上で、例えば経済成長著しい中国が、経済を全てに優先させるあまり「歴史認識問題」や「靖国問題」を外交上の最重要案件とはしない姿勢に転じても、決してその意味するところを見誤ってはならないと警告する。

もし日本政府がそれを中国の経済政策上の弱みと見なし、それを衝いたつもりで首相の靖国参拝を強行しているとしたら、たぶんそれは筋を外した大きな錯誤ということになるであろう。(中略)
中国政府が靖国問題を黙認し続けたとしても、中国人の間で彼らから見ての日本の没道義生への憤懣や軽侮が消えたというわけではない。

  変な言い方だけれど、むしろ抗議や要請がある間が花だということだ。今後何十年かの間に、中国が今とは比較にならないほどさらに経済発展を遂げたとして、その時に中国が靖国参拝を黙認し、謝罪を求めないとしたら、その意味は何か。

日本がそれだけ文化的・道徳的に低く扱われているからだ、とわれわれは考えなければならなくなる。そのように文化的・道徳的には低く扱われ、しかも現在の日本人の唯一の誇りである経済上の優位性さえ失ったとしたら、日本という国はいったいアジアのどういう場に自己を置くことになるだろうか。

  溝口氏は「われわれは子孫に『道義を知らない国の民』という巨額の負債を残していっていいのか」と問いかける。ひごろ享楽にうつつを抜かしている私などが言うのもなんだが、鋭い指摘だと思う。