インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

資料日本英学史(2)英語教育論争史

  明治維新から1970年代あたりまでの英語教育に関する様々な文章を、主に雑誌や新聞、単行本などから広範に集めてきた本。ネット上の古本屋で購入したのだが、びっくりするほど安価だった。

  目次を眺めているだけでわくわくする。なにせ、「英語を日本の国語とすべし」とした森有禮の書簡に始まって、森鷗外が、夏目漱石が、芥川龍之介が、柳田國男が、坂口安吾が、菊池寛が外国語を論じる。「英語教育を廃止して国民的な自覚自尊を」と訴えた藤村作に端を発する存廃論争が載っている。戦時中の「敵性風俗」排斥に関連して賛否両論が戦わされる。
  戦後まもなく「フランス語を國語に」と主張した志賀直哉もいれば、漢字廃止を唱えた尾崎行雄もいる。その一方で中野好夫の『英語を學ぶ人々のために*1』も収録されている。
  そのどれもが、編者の川澄哲夫氏が「あとがき」で記しているように、できうる限り孫引きを避けて原資料のままに載せられているのだ。
  当然のことながら、ほとんどは英語教育に関するものばかりだが、中には中国における英語教育について触れたものもあっておもしろい。補章として設けられた「訳読の今昔」も興味をそそる。これは絶対お買い得だ。
  大部の本なのでまだつまみ食い段階だが、おやと思ったのは杉村楚人冠の『外國語と芝居氣』。

年を取ると外國語を使ふのが馬鹿におつくうになる。(中略)これは老人の氣無性といふばかりではない。外國語を使ふといふやうな芝居じみた事がいやになつたのである。

  わははは。
  楚人冠氏の文章は、日本が国際的に孤立への道をひた走る中で英語教育の全廃を主張する内容だから、今の感覚からすればとてもついて行けない。それでも「外国語は芝居」と喝破したのは実は外国語が達者だったらしい氏ならでは。確かに外国語学習に芝居っ気は必要だ。別のところではこうも言っている。

……つまり通譯などといふことは、一種の芝居であることが知れる。(中略)豈にひとり通譯のみならんや。總じて外國語を使ふのは、皆一種の芝居である。

  そうそう、通訳者にも適度な芝居っ気は必要。

どんな英語の達人でも、ドアに指をはさんで、痛いと思つた瞬間、それがロンドンの眞ン中でも『あ痛ツ!』といふ日本語が出る。それに相應する英語Ouch!といふ言葉がなかなか出るものではない。

  うんうん、私も台湾で車の助手席に乗っていた時、前の車にぶつかりそうになって思わず「危ない!」と叫んだら、クライアントから「へえ、やっぱり日本人だね。ずっと北京語をしゃべっていても、いざというときは日本語が出るんだね」と言われたことがある。そりゃそうですよ。

*1:鈴木孝夫の『[http://d.hatena.ne.jp/QianChong/20061224#p2:title=日本人はなぜ英語ができないか]』にも引用されていた。以下抜粋。「語學が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覺がある。くだらない知的虚榮心である。實際は語學ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。(中略)英語を話すのに上手なほどよい。書くのも上手なら上手ほどよい。讀むのも確かなら確かなほどよい。だが、忘れてならないのは、それらのもう一つ背後にあつて、そうした才能を生かす一つの精藭だ。だからどうかこれからの諸君は、英語を勉強して、流石に英語をやった人の考えは違う、視野が廣くて、人間に芯があつて、どこか褚もしい(中略)ような人になつてもらいたい。語學の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の膽を拔いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい」。へへへえ。