インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

Zoomのブレイクアウトルームで資料や映像や音声を共有する

コロナ禍に突入してから数年、これまで追い立てられるようにしてオンライン授業への対応を続けてきました。ようやく感染状況にも出口のようなものが見えかけてきて、現在私の職場ではほぼすべての授業が対面に戻っています。

もとより私は数年の実践で、少なくとも自分が担当しているような実習系の授業についてはオンラインはもうこりごりだと思っている(理由についてはこのブログに散々書いてきました)クチです。なので、いまさらこんなことを書くのも何ですが、Zoomに新装された機能がけっこう便利だったので備忘録的に残しておくことにします。それはブレイクアウトルームで映像や音声を共有できるという機能です。

これまでは、授業に参加している学生さんたちをブレイクアウトルームに分けてしまうと、ホストである私はポツンと取り残されたような状態になっていました。それで各ルームを順番に巡回していくことになるのですが、これが結構めんどくさい。そしてブレイクアウトルームを終了するときは文字によるチャットでアナウンスを送る以外にコミュニケーションの方法がないのも不便だなと感じていました。

それが新しいZoomのバージョンでは、ブレイクアウトルームに分かれたあと、ホストは「B」キーを押して話すことで、全ルームに声でアナウンスができるようになりました。例えばこれで「作業を始めてください」とか「そろそろ戻ってください」などのメッセージを一斉に、より簡単に伝えることができるようになりました。

さらに、いつもはメインの会議室で使っている資料や映像や音声の共有が、ブレイクアウトルームに対しても行えるようになりました。例えば私は通訳訓練のサマライズ(要約)を行う際、まず全員がいるメインの会議室で映像や音声を共有した上で視聴し、そのあと学生さんを二人一組でブレイクアウトルームに分け、お互いにサマライズをして批評し合うというようなことをやっています。でもこの方法では、視聴してからブレイクアウトルームに分け、それぞれ作業を開始してもらい……という部分が非常にバタバタとして、もどかしい。

それが今度は、まずブレイクアウトルームに分けて二人一組を作っておいた上で、全ルームに対して映像や音声を共有して視聴してもらい、その場ですぐ声によるアナウンスをして作業に入ってもらうことができます。ほんの少しの違いですが、よりスムーズな授業進行が可能になります。これは素晴らしい。

詳しい使い方は、こちらが参考になります。
pla-pi.com
pla-pi.com

この機能はホストと学生さんいずれのZoomも最新版にアップデートされていないと使えません。またブレイクアウトルームからはホストに向けて音声を伝えることができません。それができたらいいのですが、そうなるとホスト側は各ルームからの音声が混在して収集がつかなくなるかもしれませんね。

願わくば将来的には、ブレイクアウトルームに分かれた後のそれぞれの様子が、ホストから一覧できるようになればいいなと思います。いまのところはいちいち各ルームにホストが出向いていって、そこでのやり取りを見聞きするしか方法がないですから。それをホスト側の画面で一覧できてどのルームもクリックひとつで観察できるようになれば(そしてその際、そのルームの音声もホスト側に届くようになれば)CALL教室などとほとんど同じ状態が再現できるんですけどね。こんな感じで。↓


https://www.irasutoya.com/2018/08/blog-post_996.html
https://www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_8.html

……って、そんな面倒くさいことをやるよりは、やはりリアルな教室でその「場」を共有しながら訓練や授業を行うほうが100倍マシです。ただオンライン授業は、これまで通学の可能性が低かった地方の方にも訓練や授業に参加してもらえるというかなり大きなメリットも生みました。なので一部は今後も続けて行かざるを得ない、いや、続けていくべきだと思っています。

食料品は、もらっておかなきゃ損?

新型コロナウイルス感染症の陽性となってから1週間。幸い私はごく軽い症状で、喉の痛みのほかは最初の頃に微熱が続く程度でした。それもいまではすっかり回復して、念のために購入しておいた抗原検査キットでも陰性になりました。というわけでようやく職場にも復帰できます。

東京都から借りていたパルスオキシメーターも返却します。ずっと軽症だったため数値は常に99とか98とかでしたから、結果として借りる必要はなかったのですが、万一重症化したときのためにと申し込んだのです。そう、東京都では(おそらく他の自治体でも同様だと思いますが)無料でこうしたサービスを受けることができます。

私にはいわゆる「かかりつけ医」がいないので、PCR検査で陽性になったその日のうちに、東京都の陽性者登録センターに登録しました。PCR陽性の証明になるもの(証明書がなくても、検査機関からのメール画面で大丈夫です)と都に在住であることがわかる身分証明書をオンラインで送るだけで登録できます。

www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp

陽性者登録センターに登録したあと、希望する人は以下のような支援を受けることができます。

1.My HER-SYS(マイハーシス)による健康観察
2.食料品の配送
3.パルスオキシメーターの貸し出し
4.都の宿泊療養施設への入所
5.感染拡大時療養施設への入所
6.自宅療養中の相談

私は軽症だったので、このうちの1と3だけ希望しました(結果的には1だけでよかったわけですが)。マイハーシスはすぐに使えるようになり、パルスオキシメーターは2日後に宅配便で届きました。第8波が始まったばかりと言われるこの時期で1日あたりの陽性者数も少なかったからか、とても迅速に対応してもらえて助かりました。


https://www.irasutoya.com/2019/06/blog-post_262.html

ところで、私は2の食料品の配送は希望しませんでした。これは自宅に食料が比較的たくさんあったのに加えて災害時用の非常食もかなり持っていること、それに療養期間中も感染予防行動の徹底を前提に食料品等の買い出しなど必要最小限の外出を行うことは差し支えないと聞かされていたからです。

でも妻の友人からは「どうせタダなんだから、もらっておけばいいのに」と言われました。なるほど、そういう考え方もあるかな。いえ、善人ぶるわけじゃないですけど、私にはその考えはありませんでした。もっと中等症や重症で、本当に困っている人に回すべきではないかと思っていたのです。

コロナ禍でテレワークが始まった頃に、別の知人から「テレワークが増えたら、定期券を買うのは損じゃないか」と言われてちょっと驚いたことを思い出しました。

qianchong.hatenablog.com

フィンランド語 182 …分格を作りまくる

フィンランド語の教室は、ここのところ先生の指示で語形変化や文法の再確認が続いています。先日確認したのは「分格」の作り方です。先生によれば、フィンランド語の文型はつまるところ以下の四つに分類されます。

① A olla B(AはBである)の文
② 所有文・存在文
③ 他動詞(目的語をとる)の文
④ 自動詞(目的語を取らない)の文

このうち、上から3つまでは目的語が登場しうる上に、その目的語は多くの場合、分格(単数・複数)になります。実際に見てみます。

① A olla B(AはBである)の文
Kissa on valkoinen. 猫は白い。…加算/単数主格
Maito on valkoista. 牛乳は白い。…不可算/単数分格
Tämä on kissa. これは猫だ。…加算/単数主格
Tämä on maitoa. これは牛乳だ。…不可算/単数分格
Kissat ovat valkoisia. 猫たちは白い。…複数/複数分格
Nämä ovat kissoja. これらは猫だ。…複数/複数分格
Kesällä päivät ovat pitkät. 夏は日が長い。…全て/複数主格
Meitä on kolme. 私たちは全部で3名だ。…合計数/単数主格
② 所有文・存在文
Pöydällä on kirja. 棚に1冊の本がある。…ひとつ/単数主格
Pöydällä on kaksi kirjaa. 棚に2冊の本がある。…数詞つき/単数分格
Pöydällä on kirjat. 棚に1組の本がある。…ぜんぶ/複数主格
Pöydällä on kirjoja. 棚に何冊かの本がある。…いくつか/複数分格
Lasissa on vettä. グラスに水がある。…不可算/単数分格
Minulla ei ole kissaa. 私は猫を(1匹)飼っていない。…否定/単数分格
Minulla ei ole kissoja. 私は猫を(数匹)飼っていない。…否定/複数分格
Minulla on nälkä. 私はお腹が空いている。…身体的特徴/単数主格
③ 他動詞(目的語をとる)の文
Minä juon kahvia. 私はコーヒーを飲む。…不可算/単数分格
Minä juon kupin kahvia. 私は1杯のコーヒーを飲む。…不可算/単数分格
Minä juon kahvin. 私はそのコーヒーを飲む。…限定/単数対格
Minä luen (yhden) kirjan. 私は本を1冊読む。…ひとつ/単数対格
Minä luen kaksi kirjaa. 私は本を2冊読む。…数詞つき/単数分格
Minä luen (kaikki) kirjat. 私は本を全て読む。…ぜんぶ/単数対格
Minä luen (paljon) kirjoja. 私は本を何冊か読む。…いくつか/複数分格
Minä luen kirjaa. 私は本を読んでいる。…進行形(継続動詞)/単数分格
Minä luen sanakirjaa. 私は辞書を引いている。…一部/単数分格
Minä syön kalaa. 私は魚料理を食べる。…不可算/単数分格
Minä en juo kahvia. 私はコーヒーを飲まない。…否定/単数分格

こうやってみると、目的語に分格(単数・複数)が登場する割合がとても高いことが分かります。つまり私たちが文を紡ぎ出す際、分格を瞬時に作り出せることがかなり大切だということですね。また目的語は名詞のことが多い(että以下の文章ということもあります)ですが、名詞を修飾する形容詞も同じ格になります。つまり名詞と形容詞は、何はさておき瞬時に分格にできる必要があります。

というわけで、これまで作りためてきたエクセルの単語帳を使って、名詞と形容詞を片っ端から分格にしていく練習をはじめました。

ひとつひとつ辞書で正解を確認しています(ネット辞書には格変化表がついています)が……う〜ん、けっこう間違いますね。間違ったところは分格の作り方をおさらいして正しい綴りにした上で赤くしました。次にもう一度作るときに今度は間違えないかどうかの参考にしたいと思っています。

ホテル・メッツァペウラへようこそ

存じ上げない作家さんでした。Amazonで検索していて偶然見つけたマンガ『ホテル・メッツァペウラへようこそ』。メッツァ(metsä)がフィンランド語で「森」なので、これはフィンランドが舞台なのかなと興味を持ったわけですが、果たしてフィンランド北部のラップランドにあるホテルで繰り広げられる物語なのでありました。


ホテル・メッツァペウラへようこそ

作者の福田星良氏は、どうやらこの作品が雑誌での連載デビュー作のようです*1。ネットで検索しても、Wikipediaのページさえまだできていません。なのにこの物語の安定感はすでに中堅どころの風格です。最初の数話はやや荒削りな画風ですが、第一巻の途中でぐんとクオリティが上がります。編集部がアシスタントさんなどの体制を梃入れしたのかもしれません。それだけ将来を嘱望されているということなのかも。

日本にルーツ持ち、その外見から“söpö poika”*2と呼ばれてしまうほどなのに、全身に「倶利伽羅紋紋*3」が入っているという、いかにも訳ありな青年・ジュンが主人公です。主要な登場人物は男性ばかりで、ややBL的(というより主人公以外は年齢高めなので執事系?)な雰囲気もある作品ですが、基本的には心温まるヒューマンドラマという感じ。舞台背景が、厳しい冬で知られるラップランドなので、よけいに人の暖かさが身にしみるようなシチュエーションになっています。主人公以外の登場人物にもいろいろと過去のストーリーがありそうで、物語の設定としてとても秀逸なのではないかと思いました。

とまあ、野暮なカテゴライズはこれくらいにしておきましょう。第3巻まで発売されているこの作品、お話はまだまだ続くようですので今後の展開が楽しみです。

蛇足ながら個人的には、フィンランドの普通の街、とくにスーパーの描写などにとてもリアリティを感じました。ちょこちょこ出てくるフィンランドの食べ物もしかり。作者の福田星良氏はフィンランドに住まわれたことがあるか、何度も訪れてらっしゃるのではないかと拝察申し上げます。

あと、各話のタイトルにフィンランド語が付されているのも学習者としてはツボでした。そういえば作品タイトルも“Tervetuloa Hotelli Metsäpeuraan”となっています。「〜へ」だから“metsäpeura(森のトナカイ)*4”が入格の“metsäpeuraan”になっているんですね。福田氏もフィンランド語を学ばれているのかしら。これからも応援いたします。

*1:他に初期短編集とおぼしき『百年後のアポロ』が刊行されているようです。こちらも購入しました。

*2:フィンランド語で「可愛い坊や」みたいな意味です。

*3:いまはこんな言い方しませんか。刺青のことです。

*4:トナカイは“poro”ともいいますけど、フィンランドには英語で“Finnish forest reindeer”と呼ばれるトナカイの亜種がいて、これを“metsäpeura”と呼ぶようです。

ソーシャルメディア解体新書

いやもう、ソーシャルメディア*1の、ある意味「正体」を見た思いがしました。とくにSNSやネット上のクチコミにもうずいぶん前から抱いていた違和感のようなもの、その原因や正体はここにあったのかと。

副題にもあるようにこの本は、フェイクニュース・ネット炎上・情報の偏りを主軸として、さまざまな調査研究結果を引きつつ、ソーシャルメディア上の主にネガティブな動向や影響について分析したものです。ほとんど大学の教科書ないしは学術論文に近い体裁なのでとっつきやすくはありませんが、とてもわかりやすい構成と文体ですし、研究結果そのものが非常に興味深い。何より筆者である山口真一氏の「人類はこの難題をきっと克服できるし、さらに豊かな情報社会を目指すことができる」という信念が伝わってくる良書だと思います。


ソーシャルメディア解体新書

ここ数年来、ソーシャルメディア、なかんずくTwitterなどのSNSと、そこに深く浸透して我々の時間と金銭を持っていこうとする「アテンション・エコノミー(注意経済)」の問題*2について考え続けてきました。関連書籍も数多く読みましたし、その時々で考えたことをこのブログにも書いてきました。……というよりブログを書くことで考えてきたのでした。

その結果としてまずTwitterは降りてしまい、他のSNSもほぼ利用をやめ、ニュースサイトには足を向けず*3、クチコミは話半分として受け止め、自分から発信するのはこのブログだけに絞りました。そして今回読んだこの「解体全書」でようやく、ソーシャルメディアを冷静かつ客観的に捉えることに多少は自信を持てるようになりました。

本書によって解き明かされるのは、ソーシャルメディアにおける「フェイク」や「炎上」というものが、いや、そこまで極端ではなく通常程度のトレンドとして目につきやすくなっているという程度の情報であっても、それらがいかに「情報の偏り」と「情報発信者の偏り」に満ちているのかという事実です。

例えば、過去の様々な炎上事件(中には自死に至ったものも)におけるTwitter上での分析によれば、実際に炎上を起こしていたのはたった250人、ネットユーザーの実に約0.00025%以下であったといいます。さらに極端な例ではたった15人(0.000015%)によって起こされている炎上もあったのだとか。

炎上が起こると大量の人が攻撃に加わっているように見えるし、炎上対象となっている人・企業からすれば世界中が敵になったかのように感じるだろう。しかしその実、そこに反映されているのは多くの場合250人以下のネガティブな意見だったのである。(193ページ)

これは炎上という極端な例ではありますが、もっと穏やか(?)なトレンドであってもそれらを作り出しているのは極端かつ声高ないわゆる「ノイジー・マイノリティ」と呼ばれる人々であることは徐々に知られつつあります。

qianchong.hatenablog.com

なのに、かつてSNS中毒だった自分の経験でいえば、情報としてはかなり偏っているにもかかわらず、それがあたかも世論であったり社会の動勢であったり今後のトレンドであったりに見えてきてしまうのですよね、ソーシャルメディア上では。これは個々人のリアルな社会を捉える視野を狭め、歪め、ひいては社会全体を危うい方向へ導いてしまう危険をはらんでいると思います。筆者は、こうした状況への対処法として「情報的健康」の大切さを説いています。

情報的健康とはすなわち、多様な情報をバランスよく摂取している状態のことを指す。人は、身体的健康のためにカロリーや栄養素を気にし。適切な食物を食すように努力している。それと同じように、人々自身が判断して、偏った情報ばかりを摂取しないように努力できる環境を整える必要があるというわけだ。(282ページ)

情報をバランスよく摂取する方法のひとつとしては、ソーシャルメディアの台頭後に随分旗色が悪くなったようにみえるマスメディアへの信頼を取り戻すという手段があります。例えばソーシャルメディアにはないマスメディアの特徴として筆者は「情報の一覧性」を上げていますし、また「プロの編集者があふれる情報のニュースバリューを判断して、発信内容を工夫しているため、情報の精度もより高くなる」とも述べています。

マスメディアの報道にだって、もちろんバイアスがかかっている可能性は排除できません。それでも、ソーシャルメディアで極端に(それもごく少数者による)偏った情報へ接してしまうよりは、随分マシだといえるのではないでしょうか。新聞の閲覧時間が長いと、拡散の有無にかかわらずフェイクニュースに気付きやすい傾向が見られるそうです。新聞を読むことがフェイクニュース耐性を高めている可能性があると、この本でも指摘されています。(111ページ) 

qianchong.hatenablog.com

最後に筆者は、ソーシャルメディアに限らず社会のあらゆる場面における議論において「相手を尊重する」ことの必要を訴えています。

尊重して批判するというのは、一見して矛盾しているように見えるかもしれない。しかし、相手の考え方に対し、別の観点から批判を加えるのと、相手の人格そのものを否定するような誹謗中傷をするのとは全く別のことなのである。(292ページ)

まったくもって同感です。悪口と批判は違います。「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というどなたかの名言はかなり人口に膾炙しているというのに、この当たり前すぎるほど当たり前のリテラシーを我々はまだうまく育めていないのではないか。このリテラシーの涵養については学校教育にもかなり欠けている部分があるのではないか。そんなことを感じました。

*1:ここでいうソーシャルメディアとは、SNSのみならず動画サイトや掲示板、ブログ、クチコミサイトなど多岐にわたる双方向メディアを包括したものを指しています。

*2:この本によれば、経済的動機からフェイクニュースが多く生み出されることも分かっているそうです。SNSアテンション・エコノミーのまさに「本場」。常に注意を喚起され続け、限りなく自分の時間や思考や金銭が奪われていくのに危機感を覚えて、私はSNSから降りたのでした。

*3:自分向けに相当カスタマイズされていることがわかったからです。カスタマイズされているということは偏っているということ。読み物的な記事はともかく、時事を扱ったものや議論がある話題のニュースソースがそれではいけません。

ダウンしてる?

昨日、アウトライナー(アウトライン・プロセッサー)のWorkFlowyで書きものをしていたとき、ふと気づきました。WorkFlowyがオフラインになっていて、内容が同期されていないのです。画面の一番下に“offline”というアラートが出ていました。

アウトライナーは、書くそばからすぐにクラウド上で同期され、複数のデバイスで最新版がどれかを気にせず書き進められること、そしてすぐに同期されるがゆえにこまめに保存するなどの配慮が一切不要なことがその利点のひとつです。

書きものに集中していると、つい保存を忘れて書き進めてしまって、Wordなどそんなときに限ってフリーズを起こし、それまで書いたものがすべて消失……なんてことがないのもアウトライナーのいいところ。ですから同期しなくなったというのは由々しき事態なのです。

blog.hatenablog.com

実は先日、WorkFlowyでほぼ書き上げたブログの原稿が一瞬で消えてしまったことがありました。原因は定かではないのものの、ほんの数秒で同期がかかる前に他の項目に移動してしまったからではないか、つまり自分のせいだと諦めて、もう一度書き直しました。

しかし今回のように、すぐに同期が行われない状態が続いているということは、これは自分のせいではなくWorkFlowy側の問題かもしれません。そこでTwitterに行って“WorkFlowy down”などのキーワードで検索をかけてみました。果たして多くの方が「ダウンしている」「仕事にならない」「困った」などとつぶやいていました。

Twitterからは降りてしまって、自分からつぶやくことはほとんどなく、つぶやくのもフィンランド語だけに限定(それも最近はまれになりました)した私ですが、今回のような突発的な事象についての情報はいつもTwitterで検索をかけています。電車の遅延情報なども頼りになります。情報をもらうばかりで恐縮ですけど。

もうひとつ、こういうときに使えるのが "Is It Down Right Now?" というサイトです。ここはさまざまなウェブサービスの名前やURLを入力すると、そのサービスが“Right Now”、つまりたった今この瞬間にダウンしているのか否かを判断してくれます。昨日のWorkFlowyはこんな感じでした。


https://www.isitdownrightnow.com/

でも、ここでTwitter情報の裏をとってから数分後、WorkFlowyは通常の状態に戻り、同期も回復していました。よかった〜。WorkFlowyの中の人、ありがとう。

陽性者登録とMy HER-SYS

新型コロナの陽性疑いとなってしまったので、一週間ほど仕事はお休みになりました。職場からは来週の金曜日までは出てこないようにとの通知がありました。とはいえ、ほぼ無症状なのでオンライン授業には対応する必要があります。教材や資料をクラウドに置いてあって助かりました。

自主検査や検査会場などで陽性疑いとなり、とはいえ軽症で済んでいる私のような場合(65歳未満で、入院や投薬や酸素投与が必要なく、女性の場合妊娠していない人)、自宅療養になります。私は東京都在住なので、都の陽性者登録センターで登録しました。

www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp

登録時にいくつかの支援を希望することができます。「My HER-SYS(マイハーシス)」による健康観察、食料品の配送、パルスオキシメーターの貸し出し、宿泊療養施設への入所などです。私はマイハーシスでの健康観察と、念のため(万一重症化したときのため)にパスルオキシメーターの貸し出し希望を出しておきました。

マイハーシスは毎日体温と酸素飽和度を記入し、健康状態を「はい・いいえ」で答えて送信します。酸素飽和度はまだパルスオキシメーターが届いていないので未記入で。自己申告ですから限りなく心もとないですが、私のような軽症者あるいは無症状者はこうしたシステムで対応し、重症者や高リスク者の対応にリソースを割くというのは理解できます。コロナ禍になって数年、ようやくここまで環境が整ってきたということでしょうか。

マイハーシスの連絡はSMS(ショートメッセージ)で届くのですが、最初私はこれに気づかず、保健所から「記入されていませんが、どうしました?」と電話がかかってきました。SMSはスパムメールが多いのでスマホの通知を切っていたのを忘れていたのでした。保健所の方、お手数をおかけしました。

新型コロナ陽性です

昨日は学生さんの中から新型コロナ陽性者が出たので、文化祭のイベントはすべて中止になってしまいました。そのうえで学校側から念のために学生と教職員全員がPCR検査を受けるよう指示され、私も受けました。

そしたら、まさかの陽性でした。一週間ほど前にワクチンの第四回目を接種したばかりだったんですけど、まだ体内に抗体ができていなかったのでしょうか。症状としてはごく軽く、微熱とのどの痛みがある程度でしたが、こうなっちゃった以上しばらく職場へは行けません。

とりあえず東京都の陽性者登録センターに登録したうえで、自宅療養ということになりました。来週からの授業はどうしようかなあ。教材や資料はすべてクラウドに置いてあるので、オンラインでできないこともないですけど、私が担当しているのは実習系の授業が多いので、かなりやりにくいです。困りました。

昨日あった微熱は今朝の段階では平熱に戻りました。いろいろと不如意なことが多いですけど、まあ最近ちょっと過労気味だったので、これは少し休めという天の配剤だと思うことにします。

中止になってしまいました

夏休み明けから練習を重ねてきて、昨日ようやく本番の初日を迎えた留学生による日本語劇。四回公演を行って大成功だったのですが、二日目の今日はすべて中止になってしまいました。留学生の中に新型コロナの陽性者が出たためです。

せっかくこの日のために練習してきた留学生のみなさんの無念は察して余りあるものがありますが、こればかりは仕方がありません。教職員のわれわれも念のために全員自宅待機となり、PCR検査を受けるように指示されました。私は早朝から検査を受けに行き、いまは結果を待っているところです。

コロナ禍に突入してからこの数年、あちこちで公演やイベントの中止という情報を見聞きしてきましたが、まさか自分たちにも同じような状況がやってくるとは思いませんでした。しかもようやくコロナ禍にも収束の兆しが見え始め、それを受けて学校も文化祭を(様々な限定や制限つきながら)再開させたところだっただけに、残念でなりません。

感染拡大の当初から言われてきたことですが、こうした感染症というものはほんとうに、人と人との距離を分断する方向に働きますね。実は先日、コロナ禍前に行われた留学生の日本語劇の映像を見ていたのですが、マスクなどつけずに生き生きと演じている留学生の姿を見つつ、しばし感慨にふけってしまいました。はたしてこんな日々がまた戻ってくるのだろうかと。

いやいや、感傷にひたっている場合ではありません。感染した留学生と、感染はしていなくても中止になってしまったことで残念がっている留学生の心身のケアも必要です。とりあえず私が今日のPCR検査で陰性であれば、明日からも少しは機動的に動けます。はやく検査結果が出ないかなと待ち構えているところです。

小野寺一の気分

今日は文化の日ということで、これから週末にかけてうちの学校でも文化祭というものが開催されます。コロナ禍で数年中止が続いたので学生さんたちもうれしそう。キャンパス内にも以前のような賑わいが戻ってきました。とはいえ、学内でもコロナ感染者の情報は少しずつ伝わってきているので、引き続き注意は必要です。私が担当している留学生クラスは恒例の日本語劇を上演するのですが、演出効果を犠牲にして全員マスク着用で演じます。上演の合間は換気も十分に行って……まあ、仕方がないですね。

毎年書いているような気もしますが、今年も日本語劇の初日をようやく迎えられた……とほんの少しだけ安堵しています。通訳訓練の一環として毎年行っている、留学生による日本語劇ですが、入学時に演劇訓練があることを伝え、同意の上で入学してもらってはいても、夏休み明けに稽古を始めるときにはほとんどの人が「やりたくなさそう」な雰囲気を醸し出しています。

それでもこの授業の意義を伝えつづけ、日本語のセリフの意味を解説し(台本は私が書きました)、発音や発声の訓練につきあい、助詞や文法の細かな異同を伝え、演技指導では率先垂範ってことで演技をやってみせ(もう年齢的にツライ)……でも、なおも「笛吹けど踊らず」。ここで愚痴っても詮無いことですが、やる気の薄い人を鼓舞し続けるのってかなり体力を使います。

先週からは教室を舞台を作りかえ、ようやく前日の昨日になって衣装をつけたころから留学生のみなさんも本気になってきました。エンジンかかるの遅すぎ〜。でもまあ、かなりいい仕上がりになりました。

ともあれ、今日からの本番は私、もう何もいいません。マンガ『ガラスの仮面』で、劇団オンディーヌの演出家・小野寺一が『奇跡の人』の舞台袖で、姫川歌子(姫川亜弓の母上)に「舞台の上は役者のものだ」とかなんとか言う(北島マヤの演技に振り回されつつあった姫川歌子が、稽古とは違う演技を試したいと申し出た末のこと)のですが、そんな心境です。

【追記】

学生の中から新型コロナ陽性者が出てしまったので、11月4日の上演はすべて中止となってしまいました。観覧ご予定のみなさま、大変申し訳ありません。


D館の「D38」教室です。

  世界三大料理 通訳機械の反乱
11月3日(木) 11:00/13:50 13:00/14:40
11月4日(金) 10:00/13:00 11:00/14:00

http://www.bunka.ac.jp/contents/2019bunkasai.pdf

https://www.irasutoya.com/2019/06/blog-post_75.html

揚げ豚

「さもない(然もない)」という言葉を久しぶりに見かけたような気がしました。立ち寄った書店で偶然に有元葉子氏の『有元家のさもないおかず』を見つけ、購入したときのことです。そうそう、日常の炊事で作る料理って、こういう「さもない」ものばかりなんですよね。


有元家のさもないおかず

ふだん自炊していると言うと、人からは「何料理を作るの?」とか「得意な料理は何?」などと聞かれることがありますが、いつも答えに窮します。だって冷蔵庫に残っているありあわせの材料や、その日スーパーで見つけた食材で作った「さもない」料理ばかりですから。それに「何料理を作るの?」という質問の後ろには、男性が作る=ホビー的な料理という固定観念も透けて見えます。非日常的な「男の料理」みたいなニュアンスで。

それはさておき、この本には本当にさもない料理のレシピがたくさん載っています。海苔とレタスをちぎって合わせただけのサラダとか、ピーマンを種もヘタも取らずにまるごとかぼちゃと炊き合わせる煮物とか、シンプルだけれどおいしいものが多いのですが、私が一番気に入ってよく作っているのは、豚肩ロースのかたまり肉を丸ごと揚げちゃうという「揚げ豚」です。

揚げ物って、私は基本的にあまり作りません。以前はよく作っていたのですが、油の処理やレンジ周りの後片付けが面倒ですし、なによりもう歳なので揚げ物自体が重すぎて。でもこの揚げ豚は、肉が半分ほど浸るくらいの油でよく、かたまり肉より一回りほど大きい鍋を使えば、揚げ油もかなり少なくて済みます。

そして常温の油からゆっくり温度を上げていって、20分ほど揚げたらひっくり返してまた10分から20分ほど揚げるだけ。ほかのおかずを作りながらでもできます。そしてなにより、揚げ物とは思えないくらいあっさりしていて、ご飯によく合います。添えた生キャベツもかなりおいしい。大阪の串揚げについてくるキャベツを思い出します。しかも調味料は醤油と黒胡椒だけ。

醤油と黒胡椒だけで大丈夫なのかしらと思いますが、これは他に余計な手をかけたり味を加えたりしないほうが断然おいしいです。こういう料理を考えてしまうところが料理研究家のすごみですよね。ああ、こうやって書いていたら、また食べたくなってきてしまいました。行きつけのスーパーで、かたまり肉の特売やってないかしら。

マスク問題

脳科学者の安宅和人氏がご自身のブログで、ファクトや論理を無視した空気ばかりが人の行動を左右する私たちの国の現状について警鐘を鳴らしていました。指摘は多岐にわたりますが、例えばいちばん卑近なところでは、いわゆる「マスク問題」について。

現在、明らかに意味のないオープンエア空間ですら、この国の人たちの大半は路上でもマスクをしている。驚くべきなのは大きなリスクなど本当に考えられない郊外の疎空間ですらそうであるということだ。

このマスク問題に続いて、HPVワクチンに関する認識について述べたあと、安宅氏はこう続けています。

21世紀に入って久しい現在ですら「この国ではファクトや論理より空気のほうが重い」ということだ。これは、行動規範だけを見れば、ほぼ途上国ということでもある。現在の状況を脱する、すなわち、空気、常識、権威で判断することが正義の時代を一刻も早く終了させる必要があるのではないだろうか。

kaz-ataka.hatenablog.com

私も、ひとりひとりがもう少し自分の頭で考え、事の是非を判断し、その結果を他人のせいにせず自分で引き受け、さらに「おかしいことはおかしい」と声を上げる訓練が必要なのではないかと思っています。ようは自立した・自律できる個人を育むということです。


https://www.irasutoya.com/2020/02/blog-post_418.html

ちょうど昨日の東京新聞朝刊のコラムで、宮子あずさ氏が同じマスク問題に絡んで「他者の行動に過敏にならない訓練」の必要を説いていました。

大事なのは、感覚の個人差を認めること。感染の問題さえなければ、マスクは基本的に個人の趣味の問題だ。

思考停止でマスクをし続けるのでもなく、今でもまだマスクをしているやつはみんな馬鹿だと切り捨てるのでもなく。かくいう私は現在通勤途中や勤務中で他人と近距離で会話をする時以外はほとんどマスクを外しています。もともとマスクが大嫌い(顔がムズムズする)というのもありますけど、いちおう「ファクトや論理」を自分の頭で考え、精査した上で「私はこう考えます」というのを表明しているようなつもりで。とはいえそこは極端に走らないよう気をつけ、人混みではさっとマスクを付け、明らかな開放空間ではサラッと外すということを繰り返しています。宮子氏とほとんど同じ考え方です。

TwitterなどSNSを覗きに行くと、マスク信者へのかなり厳しい言葉も飛び交っています。こうしたマスクを巡る人々の言動を見ていると、なんだかこの国では個々人の間に相互信頼というものが希薄なのかなと思います。相手も「ファクトや論理」にもとづく一定程度の教養と行動原則を持ち、それをお互いに認め合うことができる人間なのだという信頼。ひとりひとりが大人の市民であるという感覚と言ってもいいと思いますけど、これが少々欠けているのではないかーーそんなことを感じました。

いつの間に普及していたの?

昨日の日曜日、自宅近くの商店街にあるコワーキングスペースに行きました。ここは本棚の一区画を借りて自分の好きな古本を売ることができるマイクロ本屋さんが併設されていて、私もそこの「棚主(たなぬし)」の一人なので、古本の補充に行ったのです。

商店街を歩いているときから、そのどこか非日常な雰囲気に気づいてはいましたが、コワーキングスペースに入ると果たして、店番をされている方々がみなさん仮装をしていました。そう、昨日はハロウィンとかいうものが全国的に行われていたのでありました(「本番」は今日らしいですが)。私はいまだによく分かっていないのですが、ハロウィンっていったい何? 「泣く子はいねが〜」みたいなもの?

それはさておき、店番の方々から「あら、普通の格好ね」と言われて、じゃあせめてこれをとくまのプーさんみたいな帽子(のハロウィン版みたいなの)を手渡されました。というわけで、私はそれをかぶって古本の補充作業を行いました。

補充作業を行っているほんの短い時間のうちにも、連れ立って仮装した子どもたちのグループ(とその親御さんと思しき方々)が次々にやってきて「トリック・オア・トリート!」などと叫んでいます。店番の方々は手慣れた様子でお菓子など配って、親御さんたちはその様子をスマホで撮影してひとしきり座が盛り上がって……を繰り返していました。

そのあと商店街を歩いて自宅まで戻りましたが、商店街の他のお店の店頭でも同じような仮装の子どもたちがたくさんいて、これまた仮装した店員さんたちが対応していました。渋谷のハロウィンの盛り上がりは知っていましたが、こんな小さな商店街でもここまでハロウィンが普及していただなんて知りませんでした。ここ数年、コロナ禍で自粛していたということもあるのでしょうけど、なんだか一気に浸透した感じ。いつの間にここまで普及していたの?

私個人はといえば、ハロウィンはおろか、クリスマスにもまったく食指が動かず、蓮實重彥氏の『見るレッスン~映画史特別講義~』にあった「ディズニーなどなくなったほうが、世の中にとっては健全だと本当に思います」に少なからず共感するような人間です。

韓国であんな事故があったというのに、あえて渋谷の雑踏に繰り出す方の気持ちはよく分かりませんが、近所の商店街で仮装して目を輝かせた子どもたちが走り回っているのを見ると、なんだかほのぼのとして「これはこれでいいか〜」などと感じてしまうのでした。しかし、子どもたちの仮装はよく見るとけっこう凝っていますし、中には入念にメイクをしているお子さんもいます。親御さんたちの負担も大変だろうなあと思いました。

「もうお前はいらない」と言われたときには

先日職場の先生方と雑談していて、何年この仕事をしていても授業前はそれなりに緊張するという話になりました。それで私も「授業前はかなり早く教室に行って準備しないと落ち着かないし、通訳業務の前の日など夜も落ち着いて寝られないです」と言ったら、若い先生に軽い口調で「えー、だってもう通訳やってないですよね」と言われました。

私はいまの職場に請われた際、勤務時間外で副業をしてもよいという条件を認めてもらいました。それで週末は別の学校で教えたり、通訳や翻訳の仕事を(週末だけですから細々とですが)したりしてきたわけですが、それを若い先生はご存じなかったわけです。だから単純な誤解だったわけですが、私はそのあとなんとも言えないしみじみとした感慨に包まれてしまい、終日その方の言葉を反芻していました。ご本人にはまったくそのつもりはなかったでしょうけれど、あたかも私はもう終わった人間、つまりは「オワコン」であるかのように言われてしまったなあ……と。

いや、たしかに長期派遣やフリーランスで働いていたころからすれば、第一線は完全に退いています(というかその当時だって「第一線」とはとてもいえないほどの稼ぎでした)から、当たらずとはいえ遠からずなのです。もとより、もう体力的にもかつてのようには働けません。


https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_504.html

もうずいぶん前のことになりますが、私はかつての職場で「やらかして」しまったことがあります。定年退職されて、非常勤で通われていた中国語の先生(私の恩師でもありました)が職場に残していった古いプリントや資料などを、まとめて処分してしまったのです。退職されて時間も経っていたのでもう不要だろうと私が勝手に判断し、大掃除よろしく手をつけたわけですが、それを知った先生は非常に立腹され、はては号泣されていました。先生は「もう終わった人間」扱いされたことが心底悲しかったのだと思います。

私にそんなつもりはまったくなかったのですが、結果的には非道を働いてしまったと認めざるを得ません。もちろん何度も謝罪を繰り返しましたが、ついにお許しはありませんでした。その後結局、このことも遠因となって、私はその職場を去ることになりました。だから今回、自分が同じような状況に直面してしみじみとしてしまったわけです。因果は巡るといいますが、ほんとうにそうですねえ。

これから先、自分の周囲からこうやって、もうお前はそろそろお終いだよと、もっと有り体に言えばもうお前はいらないと仄めかされる場面が増えていくのでしょう。そしてまたそれは、仕事を若い人に引き継ぎ、世代交代していくためには必要不可欠なことでもあります。

ただ同時に最近、定年を念頭になかば諧謔で自分のことを「もう年寄りだから」みたいな物言いをしていたのですが、それはできるだけやめたほうがいいと思うようにもなりました。自己暗示にかかって気持ちが下がり気味になることもさることながら、周りの人々にとってもあまりいい気持ちではないだろうと思って。

ひとしきりしみじみしたあとは気持ちが切り替わりました。少なくとも定年まで今まで同様に精一杯誠実に働くのです。そして、その間にセカンドキャリアを考えて、いよいよ本当にもうお前はいらないと言われたその時には、黙って立ち去るのです。

こうやって言語化してブログを書いたら、なんだかスッキリしました。残りの職業人生も前向きに生きていけそうです。文章を書く効能はこんなところにもあるんですよね。

ワクチン4回目

新型コロナワクチンの4回目を接種してもらいました。ファイザー製、オミクロン株BA.4,5対応のワクチンです。いまのところ副反応らしきものはまったくありません。

接種したのは自宅近くの区民センターでしたが、1回目から3回目までと比べると、会場はガラガラでした。医師やスタッフの方々のほうが接種しに来た人よりはるかに多いです。

スタッフの方々は、ざっと数えたところ3〜40人はいらっしゃったと思いますけど、かなり多くの方が手持ち無沙汰という感じでした。その分ものすごく丁寧に説明なり案内なりをしてくださいましたけど。

コロナ禍に突入してからこちら、さまざまな省庁が経済対策にかこつけて予算を要求しまくり、大規模な財政支出が常態化していると今朝の新聞にも書かれていましたが、ワクチン接種事業もここいらで見直すべきときに来たのかもしれません。

私の周囲でも、リスクはもう「通常のインフルエンザと同じくらい」という人もいて、4回目以降のワクチンはもういいや、と考える方が増えたのでしょうか、明らかに危機感が薄れているように思います。なのに往来ではマスクはつけたままの人が依然ほとんどというのが解せません。

個々人の判断はもちろん尊重しなければなりませんが、なんとなくコロナ禍における人々の行動が、そして国の諸々の対策がいずれも惰性に陥っているような気がしました。