インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

マスクを手放せない?

梅雨明けはまだまだ先のようですが、東京も毎日かなり蒸し暑くなってきました。私はとにかく「暑がり」で、毎朝職場に出勤するだけで汗だくになるので、毎年この時期以降は秋まで、着替えを持参するのが常になっています。

もうひとつ、暑さを倍増させているのがマスクです。新型コロナ感染症が猖獗を極めていた頃は、マスクが大嫌いな私もさすがに常時着用していましたが、最近では人と向き合って話すときと、電車やバスに乗るとき以外は外しています。

マスクについてはこのブログにもさんざん書いてきた覚えがあるので、さっき検索してみたら、ちょうど一年前のいまごろ、「明らかに周りに人がいない環境では、もうマスクを外して過ごそうと決めました」と書いていました。

qianchong.hatenablog.com

そして今年の春以降は、あの何事にもとにかくみずから責任を引き受けるのを避けたがる日本政府でさえ「屋外で会話をほとんど行わない場合にはマスクの必要なし」と珍しく明言していたので、これは一気に「脱マスク」が広がるかしらと、ちょっぴり期待もしました。

でも、少なくとも東京の都心では、いまのところその兆しはほとんど見えません。実際に数えたわけじゃありませんが、屋外でマスクを外している方は数パーセント程度だと思います。ひと月ほど前にこのブログで「逆に周りがマスクを外し始めたら、一斉に雪崩を打って外すようになるのかもしれません。たぶんその変化は急激に訪れるでしょう」と書いたのですが、現時点ではその変化はまったく起こっていないようです。

qianchong.hatenablog.com

でもまあ、ひとさまの行動にあれこれ思いを巡らせるのはもうやめましょう。コロナ禍を経験して、個人的にいちばんイヤだなと思ったのは、こういう「周囲がどのように振る舞っているか」を過度にチェックし合う私たちの態度です。同調圧力などという御大層なものですらなく、たんにその刹那刹那目についた他人の行動にいちいち神経をすり減らし合うという、なんとも不毛な行為。

先日こちらの記事を読んでいたく共感しました。いわく……

なぜ日本人はいつまでもマスクをつけているのでしょう。(中略)自分で考えて責任を引き受けて行動することを避ける国民性も大きく関係しているように思います。自分で考えず、言われないとやらない。一度言われると考えないで永遠にやりつづける――。マスク着用はまさに、責任回避行動の典型例です。

president.jp

でもこれが本当に私たちの国民性なるものなのであれば、それはもう一朝一夕に変わる・変えられるものではないでしょう。一抹の寂しさや悲しさは否めませんが、それがとりもなおさず私たちの“国度(国柄)”なのです。倒錯した言い方ですが、それすらどこか愛おしい。私はいま、この「変わらなさ」の前に、ほとんど感動に近いものを感じています。


https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_392.html

公衆電話

きのうの夕刻、新宿駅に向かう地下道で、見知らぬおじさんから「このへんに公衆電話はありませんか?」と聞かれました。私はどこに公衆電話があるのかまったく思いつくことができず、「ごめんなさい」と言って別れたのですが、いかに自分が公衆電話というものの存在をまったく意識しないで暮らすようになっているのか……と思いました。

携帯電話がこれだけ普及する以前は、暮らしのなかに「この街ならあの辺に公衆電話があったかな」という感覚があったはず。それがまったく意識の端にも上らなくなるくらい、世の中が変わったんですね。かつてはどこの駅にもあった「伝言板」なども、もはや理解するのも難しいシステムでしょう。聞くところによると、災害時などに活用する余地はあるため、いまでも公衆電話はある程度残されているそうです。

それを思い出して、おじさんと別れてからスマートフォンGoogleマップで「新宿 公衆電話」と検索をかけてみたのですが、これがまったくヒットしませんでした。次善の検索結果として「公衆便所」や「公衆トイレ」ばかりがマッピングされて出てきます。Googleマップの世界では、もはや公衆電話という存在自体が「ガン無視」されているのか……と、ここで気がつきました。そもそもスマートフォンで検索できる人が、公衆電話を探すはずはないのです。

頭が悪すぎる自分に、新宿の路上でひとり頭を抱えました。

オンライン授業のみで日本語を学んできた人たち

コロナ禍に突入してから、学校現場でオンライン授業への取り組みが始まって二年あまり。ハード面、ソフト面ともに問題山積だったオンライン授業も、時を経るごとにさまざまな改善が試みられ、いまではすっかり日常の一部になっています。私もほぼ毎日のように、何らかのオンライン授業を担当していますが、正直に申し上げて、もうこれ以上は続けたくないというのが本音です。はやく元の100%対面授業に戻ってほしいと願っています。

オンライン会議やテレワークが日常化し、企業によっては在宅ワークを勤務の基本形態にしようとしているところまで登場しているというのに、何をまた時代遅れなことを言っているのかとお叱りを受けるかもしれません。だから学校現場の「センセー」ってのは世間知らずなんだ、変化に対応できない古い人間なんだという誹謗中傷も飛んでくるかもしれません。

でも私は、少なくとも現時点のような貧弱な通信環境とデバイスで語学の授業、それも初中級の語学の授業を続けるのは“利”よりも“弊”のほうが大きいと感じています。もっともっと通信環境とデバイスの処理速度が飛躍的に向上して、VR(バーチャル・リアリティ)が本当に「リアリティ」を獲得したあかつきにはまた新たな局面が開けるかもしれません。でも現状のような、みんなが縦横一面に並んで全員前を向き、通信の安定のために全員がミュートにして教員がひとり虚空に話し続けるというような「なんちゃってリアリティ」の環境では、初中級の語学の上達は覚束ないのではないかと思います(マンツーマンなどならまだしも)。

これは広く調査をしたわけでも何でもなく、あくまで私の周辺でのみささやかれていることですが、コロナ禍に入ってから母国において、あるいは日本において、オンライン授業のみで日本語の学習を開始し、継続してきた留学生の、特にリスニングとスピーキングが例年になく弱いのではないかという声を複数の方から聞きました。私も同じように感じていたので、とても興味深く拝聴しました。

そう考える理由はいくつかあります。まず、コロナ禍下で、オンライン授業だけで学んできた学生は日本語によるコミュニケーション、とりわけ音声のみに頼るリスニングとスピーキングの絶対量が足りていないのではないかという点です。

もちろんオンライン授業でだって、リスニングやスピーキングはやりようによっていくらでも行うことはできます。ただ、やはりリアルな対面での聴取や発話とは違って、そこには一種のもどかしさ、隔靴掻痒感がつきまとうことは否めません。そこには通常行われている音声コミュニケーションとは、いささか異なるタイミングでの聴取と発話が行われています。特に通信環境の安定のために学生全員が基本ミュートにしているなかで、発言するときだけわざわざミュートを切るというその一手間には、学生の発話の積極性を疎外している可能性があるのではないかと思います。

私自身、生徒として参加している語学のオンライン授業では、ついつい質問するタイミングを逃して「まあいいか」とそのままにしてしまう局面が何度もあります。ましてやまだ日本語の覚束ない初中級段階の学生であれば、なおさら発話への積極性が失われてしまうのではないでしょうか。

また、これは以前にもこのブログに書いたことがありますが、リアルな対面での授業であれば、コミュニケーションは学生と先生の双方向の他に、学生同士の横のコミュニケーションも行われます。例えば「いまの、どういう意味?」とか「先生の言っていることは、ようするにこういうこと?」などの「先生の目を盗んで行われるコミュニケーション」。私はこれが案外、学習の効果を高めているのではないかと思うのです。つまり、そうした行為によって疑問点や不明点がその場で確認できたり、解決できたりする可能性が格段に高いのです。そういう不規則かつ複雑なあれこれのコミュニケーションが行き交うのがリアルな教室での対面授業という場であって、それがオンライン授業では一切捨象されてしまうように思います。

さらには、対面授業を行っている時には、毎日学校まで行き帰りをする道すがらにも、豊富な言語環境に身をさらすチャンスがあふれています。でもオンライン授業一辺倒では、そういう予想外のインプットやアウトプットもきわめて起きにくい。結果としてそれらの総量も減ってしまいます。これはひとり語学の授業に限らず、オンライン授業全体が抱えている課題だと思いますが、総じて人間が何かを学ぶときに付随してくる不規則な要素(といって悪ければ、そのつど吹き出してくる興味の芽のようなもの)がオンライン授業ではほとんどカットされてしまう。もしかするとこれが、語学の初中級段階ではかなり致命的な欠陥として作用してしまうのではないか。

たぶんこうした研究は、これからなされていく、あるいはすでになされつつあるのでしょう。結論はそうした専門家のお仕事を待ちたいと思います。が、二年あまりオンライン授業を続けてきた私個人の感想としては、オンライン授業の持つある種の「無駄のなさ」が、かえって学びを疎外しているのではないかという思いを拭いきれません。それが図らずも留学生のリスニングとスピーキングが例年になく弱いのではないかという同僚の意見を聞いて「さもありなん」と思った次第です。

人はどう死ぬのか

誰にも必ず訪れる死について、ひとりひとりが自分の頭で考え、自分なりの「自分の最期はこうありたい」というスタンスを持っておくべき、また自分の親しい人々についても、その死に際してどういうスタンス持つべきかあらかじめ心構えを持っておくべきーー久坂部羊氏の『人はどう死ぬのか』を読んで、その思いをいっそう強くしました。


人はどう死ぬのか

これをいうと周りが眉をひそめるのであまりおおっぴらには話しませんが、私は若い頃から死についてはどちらかというとドライな考えを持っていたくちでした。自分自身については、それはもちろん健康で比較的長く生きることができればいいに決まっているけど、まあせいぜい60歳か70歳くらいまで生きることができれば御の字だと思います(そう考えるとあとほんの少しです)。

また自分の親しい人々についても、死ぬときは死ぬんだから、いざとなったら慌てることなく対処したいと常々考えているような人間です。本人からすればきわめて不満でしょうし、もう少し心配なり狼狽なりしてほしいと思うかもしれませんが、私にはたとえ家族や親族であっても他人であることに変わりはないと思っているフシが(若い頃から)ありました。基本的に情けが薄くて親不孝な人間なのかもしれません。

でもこの本を読んで、多少はそういうスタンスにも合理性があるのではないかと思いました。特に人生の末期や死についての様々な知識を学び、その上でドライな、と言って悪ければ理性的な対処をするのは、けっして非情でもなんでもないのだと。

具体的な例で言えば、延命治療の是非について、在宅医療や在宅での看取りについて、あらかじめきちんとした知識を持っておくこと。そこまで具体的ではなくても、自分や周囲の人間の終末期や死について、心の準備をしておくこと。ちょっと大げさに言い換えれば、死をひとつの極点とする人生観や死生観、あるいは世界観を養っておくこと、つまり「死の教養」を育むことが必要なのではないかと思ったのです。

死に対する知識や教養がないと、本人も周囲も苦しむことになります。この本でも、死ぬ間際の点滴は患者を溺死させるに等しい、酸素マスクは上品な猿ぐつわである、胃瘻(いろう)は生ける屍への第一歩だ……など、なかなかにストレートな、だからこそこちらにも考えさせる力のこもった記述が多く収められていました。

この本を読みながら、かつて妻がくも膜下出血で緊急搬送されたときのことを思い出しました。あのとき、医師のかなりシビアな説明に対して、比較的冷静に対応できたことは、本当によかったと思います。医師からも「落ち着いて対応してくださって助かった」というような言葉をもらいました。

qianchong.hatenablog.com

この本ではもうひとつ、心に残った一節がありました。

死ぬ間際の慌ただしいときになって、必死に声をかけるくらいなら、なぜもっとふつうに意思疎通ができるうちに言っておかないのか。生きている間に、十分、感謝の気持や愛情を伝えておけば、死という生き物にとって最悪の非常時に、改めて念を押す必要などないではありませんか。(118ページ)

そう、これも妻の入院時に自分の大きな反省点として教訓になったことがらでした。普段から自分や周囲の人間の死について考え、自分なりの姿勢を持っておくことの必要、そして、それにしたがって日々を生きることの大切さを、あのとき実感したのでした。

フィンランド語 172 …日文芬訳の練習・その84

昨日の新聞に、フランスのスーパーマーケットについての記事が載っていました。 近年、フランスでは量り売りをするお店が徐々に増えているとのことです。日本ではまだまだ少なく、生鮮食品を買おうとすると「プラスチックマトリョーシカ」が見られます。食材はすでにプラスチックトレーに入れられ、ラップで包まれています。 レジでも薄いビニール袋に入れられ、さらに客は再び大きなビニール袋に入れます。 日本人はまだまだ環境問題への意識が低いと思います。


Minä luin eilen artikkelin Ranskan valintamyymälästä sanomalehdestä. Viime vuosina Ranskassa on vähitellen lisääntynyt niiden myymälöiden määrä, jotka punnitsevat ainekset asiakkaalle. Japanissa on harvoin ollut tällaisia myymälöitä. Kun ostamme pilaantuvaa ruokaa, löydämme "Muovi Maatuska": Ne on jo laitettu muovisiin elintarvikepakkauksiin ja kääritty muovikelmuun. Lisäksi ne laitetaan kassalla ohueen muovipussiin ja asiakkaat laittavat ne taas isompaan muoviseen ostoskassiin. Luulen, että japanilaiset ovat edelleen vähemmän tietoisia ympäristökysymyksistä.


ウォーキング・メディテーション

先日の朝、最寄り駅から職場まで歩いていたら、後ろから歩いて追いついてきた同僚に“Walking Meditation”してるの? と聞かれました。周囲の人たちと比べて明らかにゆっくりと歩いている(だから同僚も追いついた)ので、何かのマインドフルネスな取り組みをやっているように見えたそうです。

“Walking Meditation(ウォーキング・メディテーション:歩く瞑想)”という言葉は初めて聞きましたが、歩くときに自分の身体や地面から受ける感覚に意識を向けて雑念を払うことで、疲れやストレスをとり、心身ともにリラックスすることができるというものらしいです。

実のところ私は特に瞑想などしていなくて、その時はちょうど語学の音声を聞きながら小声でシャドーイングなどしていたのですが、確かに歩みはかなりゆっくりだったかもしれません。特に最近は意識してゆっくり歩くようにしています。気候がどんどん蒸し暑くなっていくこの時期、汗だくになるのがいやだということもありますし、周りの人々の歩くスピードが速すぎてついていけない(体力的に?)ということもあります。これも老化の一局面なのでしょうか。

しかしながら、いつも仕事場で出会う留学生のみなさん、特に中国語圏の留学生に言わせると、東京の“生活節奏(生活リズム)”はかなり速い、というかせわしなく感じるのだそうです。そのもっとも特徴的なものが道行く人たちの歩く速さで、日本に来たばかりの時は「どうしてこんなに速いんだろう」と驚いた……という人がけっこう多いです。

個人的には、そうかなあ、中国や台湾でだって、とりわけ大都市のリズムはけっこう速く、せわしないと思いますけど、たぶん道行く人たちの速さのみならず、街の喧騒、公共交通機関の往還、アナウンスや注意書きの多さなど、日本の大都市で感じられる雰囲気が特有の「せわしなさ」を醸し出しているのでしょう。

そう思って振り返ってみると、確かにここ数年、私はこの東京の「せわしなさ」にちょっとついて行けなくなっているような気がします。人混みが極端に苦手になったのもその表れでしょうし、他人のせわしない動きにいちいちイライラしている自分を見つけて驚いたこともあります。そしてそういうまわりの速すぎるリズムに振り回されないよう、ジムなどでもなるべく周囲を意識せず、自分の精神に深く沈降していくようなイメージを持とうとしています。

なるほど、そういうスタンスを持とうとしていること自体が、瞑想やマインドフルネスに近い行為ということになるのかもしれません。

ちなみにネットで“Walking Meditation”を調べていたら「経行(きんひん)」という禅宗の修行を見つけました。歩いて行う座禅みたいなもののようです。「行」を「ひん」と読むのも珍しいですね。中国語の“háng”と近い音ですけど、中国語の“經行”は“jīngxíng”と読むらしいです。日本語で「行」を「ひん」と読むのはほぼこの語彙くらいなんじゃないでしょうか。

ja.wikipedia.org

コンビニでの住民税支払いが洗練されていました

住んでいる区の区役所から、特別区民税・都民税(住民税)の納付書が送られてきました。毎年少なからぬ額を持って行かれるのでつらいところですが、私はいつも一年分を一括ですぐに支払ってしまいます。

すでに暮らしは大部分でキャッシュレスになっているので、こうした税金の支払いも銀行口座からの振り込みにしてしまえば手間が省けますが、自動的にどんどん振り込まれていくのがなんとなく癪に障るので、毎回自分の手で振り込んでいます。

キャッシュレスということでは、特別区民税・都民税には「ネットdeモバイルレジ」が使えるのですが、振込手数料がけっこうな額になります。それで、コンビニで現金をおろし(普段はほとんど現金を持ち歩かないので)、そのままレジで振り込みという、便利なんだか不便なんだかよく分からない方法で処理しています。

きょうも職場近くのセブンイレブンにあるセブン銀行のATMから引き出したあと、レジに向かったのですが、レジでの支払い方がかなり様変わり、というか洗練されていました。レジの下に現金をやりとりできる機械(スーパーのレジなどによくあるやつ)が増えていて、店員さんとは直接お金をやりとりしないようになっていたのです。

なるほど、お金を、それもまとまった大金をやりとりするとなると、店員さんは緊張しますよね。以前は受け取った札束をこちらにもよく見えるように持って、「1、2、3……」と数えて確認していました。でないと「12万円渡したはずだけど」「いえ、11万円しかありませんでした」のようなトラブルが起こりかねませんから。

この新しいシステムでは、お金を直接扱うのは客側だけ。しかも例えばお札を数えたときや、決済をするときなど、そのたびに客が自らタッチパネルの「はい」を押すようになっています。これならお店側が責任を取らされることはないということですね。もちろん客側もこの方が安心感があるのでしょうし、いいシステムだなと思いますけど……なら、ネットでの振り込みをもっと簡便かつ低い手数料にしてくれないかな、とも思います。

ラムゼイ・ハント症候群

カナダの歌手、ジャスティン・ビーバー氏が「ラムゼイ・ハント症候群」でしばらく休養するというニュースを見ました。

news.yahoo.co.jp

ラムゼイ・ハント症候群は、いわゆる「顔面麻痺」というやつで、顔の筋肉を動かしている神経がウイルスによって機能しなくなる症状です。ウイルスといっても人からその場で感染するというものではなく、幼少時にかかった水痘(水疱瘡)や帯状疱疹ウイルスが「休眠」状態にあったものが、何らかの原因で再活性化するというもの。私も八年ほど前にこの顔面麻痺を発症したことがあるので、人ごととは思えません。

私が発症した顔面麻痺は「ベル麻痺」という種類ですが、ラムゼイ・ハント症候群とかなりよく似ています。初診時には「ひょっとするとラムゼイ・ハント症候群かもしれない」と医師に告げられました。いずれもなぜか顔の片側だけが麻痺して動かなくなる疾患です。ウイルスが再活性化するのは、疲れやストレスが蓄積して身体が弱っているときが多いそうです。

発症したら可及的速やかに治療を受けるべきで、早期に適切な治療を受ければ予後(病気を発症した後の状況)はかなり良いと言われています。私はかなり対応が遅れたために、八年経ったいいまでもリハビリのかいなく麻痺が残っており、顔の片側はほぼ笑顔を作ることができません。ちょうどネットに公開されていたジャスティン・ビーバー氏の動画と似たような状態です。

顔面麻痺は基本的には、命に関わるというほどの病気ではありません。ただ、笑顔を作れなくなるというのは心理的にけっこう重いものがあります。ジャスティン・ビーバー氏のようなエンターテイナーだったらなおさらでしょう。でもこの病気はお若いほど予後も良い傾向があるとのこと。治療とリハビリで、発症以前とほとんど変わらない状態にまで回復されるよう祈っています。

ちなみに、上述したように顔面麻痺はとにかく早期にステロイド剤を使った専門医の治療を受けることがなによりも大切です。以前にもブログで書きましたが、神経系の症状ではあるもののかかるべきは耳鼻咽喉科です(私は最初神経内科にかかり、これで時間をかなりロスしました)。

また、私自身の経験としては、最初は「目にゴミが入っているような感じが抜けない」「片眼だけが充血している」といった症状から始まりました。誰にでも発症する可能性がある顔面麻痺、もし少しでもその疑いがあった場合、仕事もプライベートもとにかく予定は繰り延べて、耳鼻咽喉科の専門医にかかってください。大げさではなく、それこそ一分一秒を争うつもりで。


https://www.irasutoya.com/2018/03/fast_43.html

鹹鴨蛋の思い出

今週のはてなブログランキング(2022年6月第2週)に、鹹鴨蛋を使ったタイ料理が紹介されていました。これはおいしそう〜。

nomolk.hatenablog.com

鹹鴨蛋、中国語圏ではとてもポピュラーな、アヒルの卵の塩漬けです。昔はよく食べていたのですが、そういえばもうここ十年ほど口にしていないなあ、と懐かしくなりました。若い頃、はじめて中国人の同僚ができたとき、その同僚がお弁当に持ってきていたのをもらって食べたのが鹹鴨蛋を知ったきっかけでした。ずいぶん塩辛いなと思いながら白身まで食べて笑われたことを思い出します。普通はあの白身は食べず、濃厚な味わいの黄身だけ食べるんですよね。

そののち通った中国語学校で、とある先生のお連れ合いが開いていた小さな中華料理店で、鹹鴨蛋を使ったシンプルながら衝撃的な料理を食べたことも思い出しました。何という料理名だったのかも忘れてしまいましたが、カニを使っていないのにカニの味がするという不思議な料理でした。検索してみたら、こんなのが見つかりました。こんなの……だったかなあ。

www.meishijilu.com

その先生はもう亡くなってしまい、お連れ合いのお店もなくなりました。先生は、教え方がとても上手で尊敬していましたが、そのいっぽうで私に、チャイニーズにとっての“夠朋友(友達甲斐がある)”とはどんなものかを強烈に教えてくれたことでも印象に残っています。もう過去の話ですから蒸し返しても仕方がないのですが、免許証の減点が累積して免停寸前になった先生から、駐車違反の肩代わりを頼まれたのでした。

qianchong.hatenablog.com

いやいや、チャイニーズにだっていろいろな人がいるのですから、あるエスニック集団がこう、という決めつけをするのはいけませんね。あれは先生ご本人独自のキャラクターだったのでしょう。ともあれ、鹹鴨蛋と聞くと、私にはこの少々しょっぱい思い出がよみがえるのです。


https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_6.html

サブスクに楽曲を提供しない理由

興味深いブログ記事を読みました。山下達郎氏を始めとするアーティストが、Spotifyなどの音楽ストリーミング配信サービスに楽曲を提供しない理由について、音楽業界の背景も含めて解説されている記事です。

www.ongakunojouhou.com

この記事によれば、山下達郎氏はこうしたサービスを否定しているわけではないものの、ご自身の作品の提供については「恐らく死ぬまでやらない」と述べておられる由。ブログの記事を書かれた、むらたかもめ(id:houroukamome121)氏は、「自身の作品を雑に消費しない人に向けて届けようとしているし、雑に扱わない人と仕事をしたいと思っているのだろう」と山下達郎氏の気持ちを代弁されていますが、個人的には非常に納得感のある解説でした。

それは、私もかつてSpotifyApple Musicといったサービスを利用したときに、まさに「音楽を雑に消費している」ことに大きな違和感を覚えて、解約した経緯があるからです。こうしたサービスでは、少しでも気に入らないと思った楽曲はどんどん聞き飛ばすことができます。それこそが魅力だという方もいるでしょうけど、私は音楽をそんなふうに楽しむことはできないと思ったのでした。

音楽の楽しみ方は人によってさまざまですから、自分の考えを押しつける気はありませんが、私にとってサブスクでいくらでも(個人が消費できる量からすればほとんど無限と言っていいほどに)音楽が聞けるということ自体、つまり、いま聞いている音楽の向こうにまだ無尽蔵のコンテンツがあるというその設定こそが、音楽に対してとても粗雑な態度を許してしまうような気がしたのです。

qianchong.hatenablog.com

音楽を聞き飛ばすにせよ、深くじっくりと楽しむにせよ、多くの楽曲のなかから「出会い」を得なければ始まりません。だからこうしたサービスでその出会いの機会を飛躍的に増やすことは、悪いことではないのかもしれません。しかし、聞き飛ばしたことがある方ならたぶん同意してくださるでしょうけど、聞き飛ばすときはイントロだけ聞いて、あるいは「サビ」と思われる後半三分の一くらいのところに当たりをつけてクリックして聞いて、その数秒の印象だけで楽曲を判断するようになります。これが音楽を「雑に扱う」行為でなくてなんだというのでしょう。

そうであれば私は、新しい音楽作品との出会いは、こうしたサービスの「リコメンド」ではなく、深い知識と審美眼を持った音楽評論に依りたいと思います。それはなにも音楽評論家のようなプロの意見でなくてもかまいません。ネットでの評判やヒットチャートに依ってもいいのです(上述したようなサービスにもヒットチャートはありますから、そこだけは利用してもいいのかなとは思いますが)。

ともあれ、私はこれからも音楽ストリーミング配信サービスは利用しないつもりです。時代遅れといわれようとも、そのぶん信頼できる音楽評論を探すことに努力を傾けましょう。まずは、今回拝読したこの記事で紹介されていた、山下達郎氏の新譜『SOFTLY』を聞いてみることにしようかな。


iPhoneの機種変更をしたら、Apple Musicが半年無料でついてきたのでヒットチャートだけ利用しています。

ニッターズハイ!

マンガ『ニッターズハイ!』の第2巻が発売されていたので、Kindle版を買って読みました。ケガで陸上選手としての夢を絶たれた主人公の高校生が、手芸部で「ニット」という新たなフィールドを見つけていくというお話。陸上から手芸へという転換が意外なら、その主人公が男子高校生というのも意外です。


ニッターズハイ!

いや、男子高校生が手芸部でニットを編んだって構わないではないですか。いまのこの時代、女子・男子というたて分けをすることそのものがあまり意味を持ちませんし、日本ではともかく、諸外国を見渡せば編み物を職業としている男性はけっこういます。その日本にだって、テレビの手芸番組で教えておられる広瀬光治氏のような方がいますよね。もっとも職業ではなく趣味での編み物というと、まだまだ少ないような気はしますが。

私は20代から30代にかけて編み物を趣味にしていました。故・橋本治氏の著書で刺激を受けて独学して、セーターを編んだり毛糸を草木染したりしていました。

qianchong.hatenablog.com

当時中国語学校の初級クラスにいて、自分の趣味について述べるという授業があり、私が編み物が趣味だと言ったら先生が「珍しいですね」と驚いていたことを思い出します。それくらい男性と編み物は結びついていなかったんですね。それを考えると、『ニッターズハイ!』のようなこうしたマンガが登場してくることじたい、すばらしいなと思います。

さて、かんじんの本作ですが、編み物にひかれていく主人公を中心に、いろいろとわけありらしい男性たちが登場して、人間関係が交錯していきます。ネタバレになるのであまり書けませんが、登場人物それぞれが過去と現在に何らかの鬱屈なり心の傷なりを抱えていて、それが編み物によって救済されていく……というのが通奏低音になっているようです。

それと、登場する男性が全員イケメンと言うか美男子というか美青年というか、とにかく清浄で無臭な人々。かなり現実離れした設定ではあります。またこうした青春物語にありがちなベタな恋愛の要素は(いまのところ)皆無で、BLのカテゴリーにはかなり近いけれど、今後の展開を予想するに、おそらくそこにも入らないと思います。いわゆる「ブロマンス(Bromance)」のひとつかと。

とまあ、無粋なカテゴライズはともかく、第2巻では作中でかぎ針の編み方が細かく図示されていたり、巻末には詳細な編み図が付されていたりして、そう、これはかなり編み物の実際をリアルに紹介しながらも、作品自体はファンタジーという、なかなかに新しいマンガのジャンルを切り開いています。ランナーズハイならぬニッターズハイという題名もいいですね。確かに編み物が興に乗ってくると、妙な高揚感を覚えるものです。

読んでいると、また編み棒を手にしたくなります。老後の趣味は編み物だな、やっぱり、と思う……のですが、その一方でほとんど「亜熱帯」といってもいいほどの気候になりつつある日本では、ニットの出番が極端に減っているんですよね。特に私は無類の暑がりですから、よけいに。編み物は自分で編んで自分で着るというのが醍醐味なんですから、ちょっと複雑な心境です。

フィンランド語 171 …日文芬訳の練習・その83

日本の交通機関はどこもかしこもアナウンスばかりだと言われます。友人の外国人によると、来日したばかりのとき、少し不安になったそうです。あまりにアナウンスが多いので、なにか緊急事態が起こっているのではないかと思ったのです。世界の空港では本当に重要な情報だけを伝える「サイレント・エアポート」という取り組みが広がっています(ヘルシンキのヴァンター空港もそうです)。日本もこうした方針を見習うべきだと思います。


On sanotaan, että Japanin julkinen liikenne on täynnä ilmoituksia kaikkialla. Eräs ulkomaalaisen ystäväni kertoi minulle, että kun hän juuri saapui Japaniin, hän oli hieman huolissaan. Koska asemalla kuulutettiin niin paljon ilmoituksia ja hän arvasi, että oli tapahtunut jonkin hätätilanne. Nyt monet lentokentät ympäri maailmaa ovat kannattaneet "hiljainen lentoasema", joka antaisi vain todella tärkeitä tietoja (mukaan lukien Helsinki Vantaa lentoasema). Mielestäni myös Japanin julkiset liikenteet pitäisi noudattaa samanlaista politiikkaa.

edition.cnn.com


深海のプラごみ映像を見て

先日、潜水調査船の「しんかい6500」が相模湾の深海に多数のプラスチックごみが堆積しているのを確認したというニュースをやっていました。「プラスチック・スープ」とも形容されるほどプラスチックによる海洋汚染が深刻化していることは以前から報じられていて、ある意味当然の結果とも言えますが、やはり暗澹たる気持ちになります。

youtu.be

私も日々大量のプラスチックを消費している人間なので、なにも高邁なことは言えないのですが、それでもできるだけ消費を抑えようと意識はしています。マイバッグ・マイボトルなどの持参はまあすでに常識の範囲ですが、それ以外にも例えば、ペットボトルの飲料は買いませんし、調味料類などもできる限り瓶詰めのものを選んで空き瓶はリサイクルに回しています。

でもこれは本当に微々たる努力で、いちばんプラスチックを消費してしまうのは生鮮食料品です。特に日本のそれは「プラスチック・マトリョーシカ*1」と称されるほど何重にもくるまれていて、例えば挽肉を買うとしても、まずはプラスチックのトレーに入っており、ラップでくるまれており、レジではそれが「水物袋」と呼ばれる薄いビニールに入れられ、さらに人によってはレジ袋に放り込む……。

それで通勤途中に電車を乗り換える街で、いまも残っている昔ながらの商店街に足を伸ばし、肉屋さんや八百屋さんで買い求めることが多くなりました。スーパーのように一カ所であれこれ買えるという利便性には欠けるのですが、お店によっては野菜をバラ売りしてくれるところもありますし、肉も紙製の袋に入れてくれたり、経木ふうの包装紙でくるんでくれたりするところもあります。もっともその後、あの水物袋に入れられてしまうことが多いのですが。もうこうなったら、毎日カラのタッパーを数個持参のうえ出勤して、肉や魚はそこに入れてもらうようにしようかしら。

ところでこういう商店街のお店を利用するとき、最近便利になってきたなと思うのはキャッシュレス決済の普及です。私は小銭を持ち歩くのが好きではないので、ほとんどすべての買い物をカードかスマートフォンのアプリで済ませていますが、最近は肉屋さんや魚屋さんでもPayPay*2や、あとうちの地元の地域通貨「せたペイ」が使えるようになってきました。これはありがたいです。

PayPayや「せたペイ」も、買うたびにQRコードを読み取り、金額を入力し、お店の人に見せて……という作業が面倒なので、本当はSuicaで決済できるといいんですけど、まあそこまで贅沢は言いません。個人商店のお店側に決済手数料がかかるのはちょっと心苦しいですが、これからもできるだけプラスチックを消費しないような買い物スタイルを目指したいです。

以上は、もうやっている方はとっくにやっている取り組みばかりで、とくに目新しいことでもありません。それでも、いまだにプラスチックの消費について無頓着な人が多い(私も含めて)。「しんかい6500」の調査映像を見て、これはもっと真剣にならないと、と思いました。


https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_941.html

*1:プラスチックにまつわるこうした悲しい新語が多いですね。

*2:中国語の“呸呸”に聞こえるので「PayPayで」というのがちょっと恥ずかしい。

語学の暗記とグルーヴ感

フィンランド語のオンライン教室では、数週間前から先生の指示で、すでに学び終わった教科書のテキストを一番最後の課から順番に暗記していくという課題に取り組んでいます。

一文ずつ日本語とフィンランド語を対にしたカードを作り、クラスメートと交替で日本語からフィンランド語へ即座に変換していくのです。しかもテキストの順番通りではなく、アトランダムに日本語が出題されるという……先生によれば、文脈に頼らず、その場でフィンランド語の文を組み立てる練習なのだそうです。

先生が用意してくださったGoogleスライドもあるのですが、私は自分のQuizletで同じものを作って、主に通勤電車の中で覚えています。一週ごとに覚えるべき課が増えてきたので、最近はちょっと記憶が追いつかなくなってきました。

もっともっとそれでもまあ、こういう「泥臭くて辛気くさい」作業は語学には欠かせません。たぶん世間的には一番ウケが悪い練習方法だと思います(訳読の弊害を唱える方はとても多いです)。でも、そっと小さな声で言いますけど、こういう作業をなんやかんやと理由をつけて避けているから、本邦では外語をある程度まで(仕事に使えるレベルにまで)習得できる方が少ないのではないかと私は思っています*1

それはさておき、こうやって文単位での暗記を繰り返していると、外語を比較的調子よく話すことができているあの瞬間の、一種の「ドライブ感」のようなものの欠片が自分のなかに芽生えてくるのを感じることがあります。

人によって感じ方はさまざまでしょうけど、私の場合、母語ではない外語(例えば中国語)を、自分でもかなり上手に運用できているなと思える時というのは、自分が話す外語の文のその先に、次々に語彙や表現がひとりでに立ち上がってくる・紡ぎ出されてくるような感覚があります。それほど頭を回転させなくても、いま声に出しているその単語のその先、二語か三語ぶんの単語が、次々に立ち現れてくるのです。ドライブ感というより「グルーヴ感」と言った方がこの感覚に近いかもしれません。バイブスやばい〜!……みたいな。


https://www.irasutoya.com/2017/11/dj.html

そうした状態になるまでにはもちろん、豊富な語彙と表現のバリエーションと、それに文法知識、特に語順の適否を一瞬のうちに判断できる感覚が必要だと思います。そして、いまやっているフィンランド語の一文ずつの変換は、こうした語彙を次々に紡ぎ出すことができる筋肉を鍛えているような気がするのです。

フィンランド語は英語や中国語のように語順が厳密ではありませんが、それでも主語と動詞(あるいは主語的な要素を含んだ動詞)が早期に提示され、その動詞が導く対象がそこに続くという大枠でのパターンは決まっています。また再帰的な構造もたくさん出てきますが、それでもその文が伝えようとしている内容に基づいて、人間の自然な思考経路が反映された流れに(少なくともフィンランド語の母語話者としては自然な流れに)なっているはず。

というわけで、フィンランド語の母語話者が思考し・発話するその気持ちを想像しながら単語を紡ぎ出すことをイメージしつつ、暗記に取り組んでいます。単なる丸暗記ではなく、単語を紡ぎ出していけるドライブ感やグルーヴ感をできるだけイメージしつつ覚えるという感じ。この感覚を繰り返し養っていった先に、たぶん少しは自由にフィンランド語を操ることができる未来が待っているんじゃないかと期待しています。

まだまだ相当に時間がかかりそうですが、まあささやかな趣味ですからぼちぼち参りましょう。

*1:もっともっと小さな声で言うと、多くの方が「語学を舐めている」のです。

恥ずかしくてマスクを外せない?

往来でマスクを外す方が徐々に増えてきました。個人的な感覚ではまだ全体のほんの一部、数パーセントという感じですけれど、気候が暑くなるに従って、これからも増え続けるのではないかと予想しています。

私自身は外ではマスクを外すというのが習慣化して、とても爽快な気分を味わっていますが、これはこれでちょっと面倒だなとも感じています。都心では建物や施設に入ったり、また外に出たりを繰り返すことが多いのですが、そのたびにマスクの着脱をするのが少々せわしなくて。ならいっそのことこれまで通りずっとマスクをつけていた方が楽じゃないか……たぶんそう思っている方が多いから、往来でマスクを外す派も増えないんでしょう。

繰り返される着脱に対応するため(?)、いわゆる「顎マスク」で往来を歩いている方も散見されます。なるほど、これなら屋内に入るタイミングでちょいと引っ掛ければよくて便利です。……が、私はこれ、ちょっと抵抗があってできません。たぶんコロナ禍の初期に「顎マスク=なんとなく不潔」というイメージがすり込まれてしまったからじゃないかと思います。というわけで、私はいつも外したマスクを片手に持って、往来を移動しています。

依然マスクを外さない派の中には、その方が恥ずかしくないからとおっしゃる方もいるようです。私の同僚のひとりもそうで、二年以上もマスクで人と相対してきたため、マスクを外すのに抵抗を覚えるそうです。

じゃあオンライン授業の時はどうすんのよ、と聞いてみたら、それはしかたがないから外すけれども、Zoomの設定にあるマイビデオの「外見を補正する」スライダックを目一杯右に持って行ってるって。私など、これを使うとあまりにつるっつるの顔になって、まるで補正をかけまくったプリクラみたいでかえって恥ずかしいのですが、同僚はもうこれなしでは学生の前に出られないかも、と言っていました。

下半身ならぬ「下半顔(かはんがん?)」を晒すことに羞恥を覚える……これは、コロナ禍がもたらした新たな心理状態なのかもしれません。