インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

歩きながら考える

もうひとつ、レベッカ・ソルニット氏の『ウォークス 歩くことの精神史』から。序章に出てきた「クリック一つで知のすべてをお約束します」という惹句がおどるCD-ROM版百科事典の広告についての話にもいろいろと考えさせられました。「クリック一つで」とその簡便さをうたう背景には「雨の日にも図書館まで歩くような苦労を子供にさせずにすむ」という主旨があったそうですが、ソルニット氏は「本当に教育になっていたのは雨のなかを歩くことだったのではないだろうかーー少なくとも,感覚や想像力を育むという意味では」と言うのです。

書物やコンピュータのなかでの放浪はどちらかといえば制限された、感性の狭い領域で生じるものだ。人生をかたちづくるのは、公式の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を越えたものごとではないのか。(21ページ)

私たちは日々書物やコンピュータ(ネット)のなかを逍遙し、様々な情報を渉猟しているわけですが、たしかにそれだけでは人生が、あるいはその人の思考や教養が、さらにはそこからの実践が「かたちづく」られるわけではないように思います。中国語に“書呆子”という言葉があって、よく「本の虫」などと訳されますが、この中国語は単に読書好きというより、実践や実行が伴わない知識人を罵るような側面が強いように感じます。

この本にはジャン=ジャック・ルソーのこんな言葉も引用されていました。「歩くことには思考を刺激し、活気づけるものがあるようだ。一所にとどまっているとほとんど考えることができない。精神を動き出させるためには体も動かさねばならない」。自分自身をソルニット氏やルソー氏になぞらえるのはおこがましすぎますが、たしかに歩いたり身体を動かしたりしているときに思考が活発化するというのは私もよく感じます。

例えばこのブログの文章なども、椅子に座ってパソコンの画面に向かっていてもなぜだかちっとも紡ぎ出されてこず、むしろ歩いているときなどに「わーっ」と湧き上がってくることが多いです。私はスマートフォンで文章を書くのが遅いので、そんなときに湧き上がってくるいろいろな考えやフレーズなどを書き留めるのが追いつかなくてあわてます。

仕事のちょっとしたアイデアなども歩いている時ほどいろいろと湧いてきて、これもどこかにメモをしておかなければといつも焦っています。じゃあスマートフォンのボイスメモかなんかで、声に出して記録しておけばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、少なくとも私の場合、なぜか声に出して話すとアイデアがとたんに精彩を欠くのです。もっとも、もともと精彩などなかったからもしれませんけど。

ちょうどひと月ほど前にTwitterをやめて(というか「降りて」)、たぶんいまごろアカウントは完全に消え去っているはずです(Twitterはアカウントを削除してから30日間は「復活」の手続きができるようになっています)。Twitterを降りた理由の一つは、SNSなどネットのなかでばかり世の中を知り,感じるのはとても危ういと思ったからでした。SNSは自分自身を等身大以上に拡大(あるいは膨張)させてくれる側面があって、ときにはそれが有益なこともありますが、逆に弊害も大きいのではないかと思うのです。

「言葉でいえば浅薄な教えも、足で見出すと深く響くものだ」と、ソルニット氏も言っています(117ページ)。効率は悪いかもしれないし、かえって独りよがりになる可能性もあるけれど、それでも自分の足で稼ぎながら世の中に向き合おう、もっと自分の足でいろいろなところに自分を運んで行って、そこで感じたことを大切にしようと思ったのでした。

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『ウォークス』を読んで筋トレの「おかしみ」を考える

レベッカ・ソルニット氏の『ウォークス』を読みました。「歩くことの精神史」という副題が付けられた大部の書です。歩行と思索、自然の中における歩行、都市における歩行などが、文学や宗教、社会運動や政治運動、はては革命、さらには女性と性と都市の公共空間における関係まで、様々な角度から論じられている一冊です。

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ウォークス 歩くことの精神史

どの章も味わい深かったのですが、特に都市における運動としての「徒歩」やそれに連なる身体の鍛錬について述べた「シーシュポスの有酸素運動」という一章をとても興味深く読みました。このユーモラスかつアイロニカルな章のタイトルが指し示しているのは、ジムによくある「トレッドミル」、つまりランニングマシンのことです。まずトレッドミルの発祥についての話からしていろいろなことを考えさせられます。

当初のそれは大きな車輪に踏板をつけたもので、囚人が定められた時間踏み回し続けるものだった。目的は囚人の精神の矯正だったが、すでに運動のための機械でもあり、囚人の動きを穀物の製粉などの動力として使用することもあった。しかし、その主眼は生産に貢献することではなく運動にあった。(437ページ)

最初は懲罰のための機械だったのですね。たしかに、歩けども歩けども、あるいは走れども走れども本来その行為が目的としている前身なり移動なりはちっとも行われず、延々無益とも思えるような行為を続ける機械・トレッドミルは、あの巨岩を山頂へ運ぶ苦行を神に科せられ、山頂に至るや巨岩は転がり落ち、また最初からやり直す……というギリシャ神話の「シーシュポス(シジフォス)」を思い出させます。

ジムというのは、とても奇妙な空間です。ほぼ毎日通うようになったいまでも、時々それを感じます。私もかつては、まるでハムスターの「回し車」みたいなトレッドミルや中世の刑具と雰囲気がそっくりなウェイトマシンの数々に嬉々として挑むなんて気味悪いと思っていたクチですから。よしながふみ氏のマンガ『きのう何食べた?』第2巻に出てくる志乃さん同様に「イミがわからない」と。

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ジムは筋肉や健全さ(フィットネス)を生産するための工場であり、多くは工場のような外観を呈している。殺風景で工業的な空間に金属のマシンが光り、孤独な人影が個々の反復的なタスクに没頭する(工場的な美学もまた、筋肉と同じく郷愁の対象なのかもしれない)。(440ページ)

ジムに通う人間は、おおむねその「(孤独で)反復的なタスクに没頭する」のが好きで、ヘタをすると楽しいとさえ思っている種類の人々です。何を隠そう私もそのひとりで、肩こりや腰痛で不快な身体が、その身体を目一杯動かすことで解消されていくプロセスが楽しい。ですから、たとえ限界ギリギリのウェイトを挙げているときでも、それが苦行だという感覚はありません。それはシーシュポスと決定的に異なっている部分でしょう。しかし、レベッカ・ソルニット氏は、さらにその奇妙さの源へと思索を下ろしていきます。

肉体労働が消えた世界において、ジムがもっとも手軽かつ効果的な代替のひとつであることは間違いない。しかしその半公共的な身体演技にはやはりどこか当惑を誘うものがある。ウェイトマシンで運動しながら、「ボートを漕いでいる動き」とか、「ポンプで水を汲んでいる」とか、「荷を持ち上げている」などと、つとめてイメージしていたことがある。組み上げるべき水も持ち上げるべきバケツもないのだから、農場の日常作業が空疎な身振りとして反復されているわけだ。わたしには田畑や農場の生活への郷愁はない。けれども、そうした身振りを別の目的のために再現して繰り返す、ということのおかしみを頭から振り払うことはできなかった。(442ページ)

私にはかろうじて、かつてかじった農作業への郷愁が残っているので、氏ほどに肉体労働とジムの運動がそこまで違う次元であるものとは感じられません。それでも端的に言ってその肉体の酷使が、当座のところは何も生産しないという点の奇妙さはわかります。もちろんジムでの運動や筋トレは、それをする人それぞれにそれなりの目的があり、それがその人のとっての「生産物」でしょう。私の場合は年をとって弱っていくなか、体調を維持してQOLを保つことです。それでもジムで運動するものに対して向けられる「おかしみ」の視線は(そう、志乃さんのような)やはり免れ得ないように感じています。

レベッカ・ソルニット氏もまた「そうした奇妙さをいわんがためにジムの利用者を貶めようというのではない(わたしもそのひとりとなることがある)」と書かれています。いまや本来の肉体労働でさえ大幅に機械化が進んでおり、ジム通いから連想される都市住民のほうが、農山漁村の住民よりもはるかに長い距離を毎日歩いたり走ったりしているかもしれません(田舎に住んでいたときは、本当に歩くことが少なかったです。ちょっとした距離でも車を使っていました)。

ただ、「わたしたちの筋肉が自分たちの生きる世界との関係を失ったとき、つまり水を扱う機械と、筋肉を扱う機械が無関係に動きはじめたとき、なにか失われたものはあるだろうか」という問いは思索の「しがいがある」とこの章を読んで思いました。本来は刑具であったような機械を使って、それを喜びやプラスの価値として享受するようになった私たちを駆動しているものはいったい何なのか……。

そんなことを思いながら今朝もジムでウェイトを挙げ、レベッカ・ソルニット氏が「ジムの装置のうちでも倒錯を極める」と呼ぶトレッドミルで走ってきました。

筋トレとの距離感

ネットで検索をしているときに偶然見つけた、朝日新聞デジタルマガジン&[and]の「筋トレとの距離感」という連載記事を興味深く読みました。「筋トレブーム」にどちらかというと懐疑的な見かたをする、あるいは冷静な対応を勧める「筋トレ関係者」の意見を紹介したインタビューのシリーズです。

www.asahi.com

いずれの記事もうなずくところが多くありましたが、なかでも哲学者の千葉雅也氏がおっしゃっていた「権力による身体の支配に対して、いかに自己準拠的な身体を取り戻すか」という一節はとても腑に落ちる筋トレの捉え方でした。

高校までの体育の先生って、生活指導的というか威嚇的なタイプか、あるいは逆に何もしない、「遊んでていいよ」というタイプに分かれがちで、生徒の身体のどこがうまく動かないかを把握した上で、分析的にそこに介入するような先生はなかなかいないじゃないですか。もちろん東大の先生もそこまでしてくれたわけじゃないけど、自分で自分の身体をもっとほぐしていって、より動けるようになるよう後押ししてくれました。それをきっかけに、自分でもジムに通ってみようと思っていました。


――たしかに、私の周囲でも大人になってパーソナルトレーニングを経験して、「私は運動が嫌いなのではなく、体育の先生が嫌いだったんだ」と気がついた人が複数います。

私も「体育」の授業がことのほか苦手だったので同感です。そして長らく運動嫌いだった私が現在「週五」でジム通いをするようになった理由は、どんどん不調が顕在化していく自分の身体に対して、それを能動的に動かすことで軽快させることができるという点に、パーソナルトレーニングで気づかせてもらったからでした。

現在のところインタビューのシリーズには五本の記事が掲載されていますが、そこに通底している筋トレへの懐疑ないしは留保は、「トレーニングが人生に成功をもたらす」、「トレーニングはビジネスに効く」といったたぐいの自己啓発的な、あるいは功利的な筋トレの捉えられ方です。私自身もトレーニングをしながらつい、そういったキャリアポルノ的な高揚感にひたりそうになることがあります。

でも自分がトレーニングを始めていままで続けてきたのは、そんな理由ではなかったはずなのです。腰痛や肩こりや不定愁訴などの身体の不調を解消して、年をとってもそこそこ健康でいられるように……というのも功利的といえば功利的ですが、それまでの人生では気づくことのなかった自分の身体の使い方を、自分で意識し把握できるようになったというのは、とても大きなことだったといまにして思います。身体の衰えが完全に不可避なものではなく、ある程度は自分で意識的に主体的に調整していけるものなのだとわかっただけでも、身体はもちろん精神的にも大きな安らぎを得られたような気がしています。

このインタビューシリーズに掲載されている諸賢にならって、今年も変な高揚感に浸ることなくトレーニングを続けていこうと思います。千葉氏はインタビューの最後に「筋トレと成功哲学の結びつきには、僕はネガティブです」として、続けてこうおっしゃっています。「だから僕は、それとは別の、自分自身の身体を再発見するための筋トレを考えていく。そのための簡単な原則は、『人と競わない』ってことですね」。これも、まったくもって同感です。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_383.html

アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書

「そもそもお金とは何か」から始まって、就職、転職、キャリア選択、貯金、会計、借金、投資、税金、保険はもとより、破産や詐欺、さらには老後資金にいたるまで、お金に関する基礎知識をわかりやすく解説した一冊です。ごくごく初歩的な基礎知識しか書かれていませんから、実際に社会に出たらそれぞれをもう少し深く学ぶ必要はあるでしょうけど、ここに書かれていることすら知識としてはやや曖昧だったという方は多いかもしれません。実は私もそのひとりでした。

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アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書 FINANCIAL LITERACY FOR MILLENNIALS

基本的に現在大学などで学んでいて、これから社会に出ていこうとする若い方を読者と想定して書かれています。もちろん私みたいな中高年が読んでも得るところは多いですが、お若い方こそぜひ読まれるべきです。私も学生時代にこうしたことを大枠だけでも学んでいたら、少なくともお金に関してはずいぶん違う人生を歩んだだろうなと思います。あれやこれやの無駄をせずに済んだだろうなと。私の場合はそれでも勉強代だったと思ってあきらめますが、お若い方はより賢いお金の使い方をすべきだと思います。

この本で推奨されているような生き方や暮らし方を良しとしない向きもあろうかと思います。人生そんなに「きちん」と、しかも若い頃から老後の生活まで見通した上で計画を立て、それに沿って生きていくなんて、あまりにもまっとうすぎやしないかと。特に若い頃など元気もあり余っていて、自らへの過信も大いにあり(それはそれで素晴らしいとも思うけれど)、この本に書かれているようなことなど、「うっせえわ」と思うかもしれません。

でも程度の差はあれ、こうしたことをきちんと学んで、堅実に人生を歩んでいる方は存外多いのではないかと想像します。そういう方々は声高に自分の選択を披露したりはしないけれど、落ち着いて、冷静に物事を見つめながら、より理性的な選択をしようとまじめに考えている。私はそういう若者ではなかったので、いまにして思えばとても恥ずかしいです。昨年『反逆の神話』を読んだときにもそれを強く感じました。

ともあれ、資産と負債のバランスを把握すること(要するに基礎的な簿記・会計の知識を持つこと)、「クレジットカードはいつも1回払いにすること」、「宝くじなどのギャンブルはすべて胴元が儲かる仕組みになっていること」などを明言しているところにも信が置けると思いました。アメリカの高校生向けに書かれた本ですが、日本の状況にも合うように翻訳は工夫されています。

人混みが苦手です

自宅近くの豪徳寺へ初詣に行ったら、山門から本堂まで行列ができていました。人混みが苦手な私はそれだけで帰りたくなるのですが、そこはそれ「他の人だって多分同じ気持ちだろう」と思い直して列に並び、参拝を済ませて、毎年「破魔矢」がわりに買っている豪徳寺名物の招き猫を新調して(去年一年間福を招いてくれた猫さんは奉納して)帰ってきました。

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人の多いところが苦手です。特に中年以降、その傾向が強くなりました。毎日、満員電車を避けてかなり早朝から都心に出ています。そのためにジムの早朝会員になっています。ただ帰宅時はそうも行きません。満員電車はなんとかがまんして、乗り換え駅などの階段やエスカレーターでは、そこへ殺到する人をやり過ごすために数分間ホームの端で佇んでいることが多いので、そのぶん時間がかかります。

できるだけ人と接触したくないので、電車ではまず座りませんし、空いているときに座っていて隣に座られたら逆に立ったりしています。きわめて感じが悪いかもしれません。劇場などでもできるだけ端の方か、一番うしろに席を取ることが多いです。通路や壁が隣にあれば、少なくとも片方には人がいないわけですから。

旅行に行くときだって、観光地や大都市にはあまり食指が動きません。だからできるだけ人のいない田舎とか離島みたいなところばかり選んで訪れています。とはいえ荒野を冒険するとか極地に赴くみたいなのとは全然違って、あくまで普段の格好で行ける、人がほとんどいないところ(だから他人から言わせると「それの何が楽しいの」ということになります)が好きなのです。

誰だって混雑や行列は好きではないと思いますが、それでも人混みに行くとウキウキするという人はいらっしゃいます。お祭りとかイベントとか、テーマパークなどが大好きな方は多いですよね。だからあれだけの人混みにもなるわけです。私も若い頃は大好きでした。それに学生時代はいまで言うシェアハウスみたいなところに住んでいましたし、その後も共同生活みたいなことを楽しんでやっていましたし、人と接するのは特に苦手ではなかったはずなのです。なのにどうして。

ネットで検索すると「広場恐怖症」という言葉がありました。「強い不安が生じた場合に容易に逃げる方法がなく,助けも得られない可能性がある状況または場所にいることに対して恐怖や不安を抱く状態」だそうです。たとえば満員電車に閉じ込められて自分の意志で動けないとか、飛行機など限定された空間に強制的に閉じ込められるなどの状況でパニックをきたしてしまうと。私はそこまでの状況ではありません。狭いところも嫌いではありますが。

接触恐怖症」という言葉もありました。コロナ禍で他人と触れ合うことを極度に恐れるという人もいるそうですが、私はどちらかというと「ずぼら」な人間で、潔癖なほうでもありません。「対人恐怖症」という言葉もありますが、これともちょっと違うようです。人見知りではありますが、それでも人前に出て話すような仕事をずっと続けてこられていますし。

結局、どうして人混みが苦手なのかについて、確たる原因はなさそうです。単に年をとって偏屈になっただけなのかもしれません。私自身は、定年を間近に控えてセカンドキャリアを模索するためにも、積極的にいろいろなところに赴いて、新しい人間関係を作っていかなければいけないと思っているのですが、人が大勢集まるところで、それも初対面の方々ばかりを相手に話をするというだけで、腰が引けてしまうのです。

昨年やめたもの三つ

お酒

昨年の夏に「ソバーキュリアス」という言葉に出会って、ふっつりとお酒を飲まなくなりました。それまでにも何度もやめようと思って休肝日を設けたり、飲酒量をセーブしようとして一度も成功しなかったのに、「ソバーキュリアス」という言葉ひとつであっさりとやめることができたのはとても不思議です。

qianchong.hatenablog.com

まあ年をとって、もうかつてのように飲めない身体になっていたという面も大きいと思います。さらにお酒の量がすぎるとそのぶん体調も悪くなることは経験的にわかっていました。それでも習慣を変えるのはなかなか難しくて先送りにしてきたわけですが、まあなんというか「機が熟した」のでしょう。

お酒をやめてから、当然ですが体調がとても良くなりました。一番驚いたのは長年悩まされてきた軽度のアトピー性皮膚炎がほとんどなくなってしまったことです。背中や頭皮などに常にあった湿疹が全部消えてしまいました。それからこれも当然のことですが、酔わなくなったので読書や勉強に使える夜の時間が大幅に増えました。

Twitter

これもずいぶん前からやめようと思いつつ踏み切れなかったのですが、ついにアカウントを消去しました。Twitterはアカウントを消した後も一ヶ月間だけは復帰の手続きを取ることができる(それをすぎると完全に消滅する)ようになっていて、もうすぐその一ヶ月が経過しますが、このまま葬り去ろうと思っています。

qianchong.hatenablog.com

Twitterをやめたことで、やはり有効に使える時間が増えました。いわゆる「注意経済」に触発されて無駄な出費をすることも減ったように思います。いまでもパソコンに向かうとなんとなく「手持ち無沙汰」な感じがして、ついニュースサイトなどを巡回したりしていますが、それだけかつてはTwitterで無駄に時間を費やしていたという証拠ですね。

LastPass

様々なウェブのサービスを利用するときに、その都度IDやパスワードを入力するのが面倒で、LastPassを利用していたのですが、入力してあったデータをすべて消去して、LastPass自体も退会しました。現在はGoogleにも同じような機能(パスワードマネージャー)があり、新しくIDやパスワードを入力するたびに「保存しますか?」と聞いてきますが、そうやって保存したものもすべて削除しました。

LastPassにせよGoogleのパスワードマネージャーにせよ、たぶんセキュリティはしっかりしてはいるのだろうと思います。それでも銀行口座を含め、ありとあらゆるこうした情報をネットに丸投げで置いておくのはやはりリスクが大きすぎると判断しました。LastPassをやめるのに合わせて、様々なウェブサービスの会員登録も退会しました。LastPassを使うことで、こんなにもたくさんの(そしてその多くが不要か、長らく使っていない)サービスに登録していたのだなと改めて驚きました。

こうしたパスワード入力サービスを使わなくなると、たしかに不便ではあります。それでも、そもそもウェブのサービスを必要以上に便利に使いすぎることそのものが「注意経済」の虜になっていることの裏返しなんですよね。そしていまは「あっ、これほしい!」と思ってウェブの販売サイトに行き、購入しようとするときにパスワードなどの入力を求められると、一瞬そこで作業が止まります。そこで改めて「本当にこれは必要なものなのか」と自問することができる。これは私にとっては意外に効果的でした。

いろいろとやめたぶん増えた時間や使わなくて済んだお金を、今年新たに始めることに使いたいと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2016/03/blog-post_264.html

もっとぶっ飛んでいてもーーデジタル若者能を観て

先日、横浜能楽堂で行われた「デジタル若者能」という公演を見てきました。能楽シテ方喜多流能楽師の塩津圭介師が中心となって毎年開催されている、特に若い世代の方々に手軽な観劇料で能楽に親しんでもらおうという企画の、いわば「スピンオフ版」です。

note.com

能舞台横の、ふだんなら「脇正面」と呼ばれる客席に巨大なスクリーンが設置してあり、ここで「能の映像化」をテーマに取り組んでこられた試みを初披露という趣旨でした。能舞台に字幕などを映す小さなスクリーンが添えられるという形式は見たことがありますが、ここまで大胆なものは珍しいかもしれません。

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最初に塩津圭介師とクリエイティブディレクターの近衛忠大氏、それに3Dデータ関連技術を使ったコンテンツ制作をされている長沢潔の鼎談があり、今回の催しの背景を解説されていました。

能楽の公演は一般的にその日一度限りであることが多く、他の伝統芸能のように数日間、あるいは数週間にわたる「興行」という形を取ることがありません。これが能楽の大きな特徴のひとつですが、その一回性や秘匿性から、かつての名人と呼ばれた能楽師の芸などもほとんど映像でアーカイブされていないのだそうです。これは後世にこの文化を伝えるという観点では非常に「もったいない」。まずはその点で、能を映像化することの意義を強調されていました。

また能楽の公演は大都市で行われることがほとんど(地方の神社などで神事として行われることはありますが)で、地方や海外の方々が能楽堂に足を運んで鑑賞するという機会はかなり限られています。そこで能楽堂全体を、楽屋などバックステージ*1も含めて3D映像化し、VRバーチャルリアリティ)の形で体験してもらおうという試みも紹介されました。

塩津師はすでに能楽師の視点から見た能舞台上の様子を3D映像でコンテンツ化するという試みをされていますが、ここではさらに進んで、一人ひとりが自由に能楽堂の中を動き回ることができるという段階になったわけです。また鑑賞者だけでなく、能楽を趣味として稽古される方にも新しい道具として使える可能性があるのではないかというお話も興味深いものでした。

CGで再現された能楽堂はとてもリアルなものでした。長沢氏によると、できるだけリアルな質感を追求しながらも、データが重くなりすぎないようにするのが大変だったのだとか。データが重くなりすぎるとスムーズに動かす(ゲーム業界でいうところの「ヌルヌル動く」ですか)ことができないのだそうです。

鼎談の後には、仕舞二番と半能『熊坂』が上演されました。この仕舞では、能舞台横に設置された大スクリーンで様々なエフェクトをかけた同じ仕舞(同じ演者)の映像が流れます。仕舞は装束もつけず、ある程度抽象化された舞の型と謡の詞章だけでドラマの一部分が再現されます。このため多少の知識がないと理解するのが難しい(言い方を変えれば観る側の想像力の羽ばたかせ方にかかっている)のですが、これは補足的に具象化された映像を重ねることで、観客の理解を深めようという試みなのですね。

こうやって観客の理解を「補足」することの是非については鼎談でも語られていました。本来的には、観客それぞれが自由に想像を羽ばたかせるところにこそ能楽の深みもあるのに、そこにある程度の枷をはめてしまうのがはたして良いことなのかどうかと。しかし能楽の内容を観客の側から主体的に学ぶことのみに頼っていれば、ただでさえ様々なコンテンツが溢れている現在、能楽の受容層は今後ますます減り続けていくでしょう。その点で、こうした試みはどんどん模索されるべきではないかと思いました。能楽という、ある意味ではかなり伝統に縛られたジャンルであるがゆえに、なおさら。

もっとも、私自身は事前に「舞に映像的なエフェクトをプラスする」という漠然とした情報だけを聞いていた段階で、勝手にもっと「ド派手」なエフェクトを想像していました。でも実際にはとても控えめな映像処理でした。

能『桜川』の一部を演じる仕舞『網之段』では、身売りされた我が子を探して川面に浮かぶ桜の花を掬い集めるところに桜の映像がオーバーラップします。また能『海人』の一部である仕舞『玉之段』では、海に沈んだ宝珠を取り戻す海女(海人)が龍神の抵抗に遭うなか胸をかき切るところで血潮の映像がかぶさる……といったぐあいです。もちろん他にも抽象的な表現がありましたが、基本的には舞と詞章の内容を具象化するための映像が控えめに付されているという印象でした。

これは伝統の厚みと重みが他の芸能に比べて格段に大きい能楽ならではの課題かもしれません。塩津師自身も「これはまだまだα版で、これからどんどん模索して進化させていきたい」とおっしゃっていました。どこまで映像を用いるのか、さらには今回の催しのテーマでもある「能楽は映像化できるのか」について、取り組みは始まったばかりということですね。私は今後も、観客として鑑賞し続けることでこの取り組みを応援したいと思っています。

ちなみに私が最初に「舞に映像的なエフェクトをプラスする」と聞いてイメージしたのは、浄土真宗本願寺派の一乗山照恩寺で行われている、住職・朝倉行宣氏による「テクノ法要」です。

www.show-on-g.com

この法要について朝倉氏が解説している映像を、私は通訳訓練で使ったことがあります。そのときに感じたのは、その「ぶっ飛んだ」手法もさることながら、ここまで伝統から乖離しているように見えて、実はこれが新しい角度から法要の本質にかなり迫っているのではないかという新鮮な驚きでした。それは参拝者から寄せられたという「お浄土って綺麗ね、早く行きたいね」という感想に端的に表されているのではないでしょうか。


www.youtube.com

もちろんテクノ法要の場合は映像に加えて音楽の要素がとても強いです。これを能楽にそのまま当てはめることはできないでしょう。例えばお囃子の音楽を何か他の楽器や電気的な処理に預けてしまうことは無理なんですから。舞についても同じで、その型や動き、謡との連携そのものを改変してしまうことはできません。

それでもテクノ法要もベースにあるのは照恩寺の仏堂そのものであり、仏堂の建物や仏像などに改変をかけているわけではありません。あくまでもそこにレイヤーを重ねるようにして新しい表現と新しい感動を生み出している。能楽の世界でそれができるかどうかは分かりませんし、私が判断することでもありませんが、これくらい「ぶっ飛んだ」アプローチから能楽に親しんで、徐々に核心に迫っていくというのも面白いのではないかと思いました。

今回のデジタル若者能では、能舞台の横に独立したスクリーンが立てられていたわけで、能舞台上の舞(のビジュアル)には特にエフェクトがかかるわけではありません。であれば、スクリーンの方はもっと「ぶっ飛んで」いてもよかったのではないか。「ぶっ飛んだ、ぶっ飛んだ」と言葉の貧弱さが我ながら恥ずかしいですが、概略そのようなことを思いました。

*1:余談ですが、国立能楽堂能舞台では、地謡座の後ろの壁に御簾のかかった小さな部屋があります。ここは何のための空間なのかなと思っていたのですが、塩津氏のお話では若手の能楽師がここから諸先輩方の公演を見て学んでいることが多いのだそうです。

マクドナルドとの再会

反逆の神話』を読みながら、いわゆる「マクドナルド化」への批判に対して、その批判が必ずしも世の中の実態を正確に踏まえていない可能性について考えました。

マクドナルドに代表されるような巨大フランチャイズやチェーンが地域の文化を壊し、大量生産される画一化された商品を大衆は大量消費させられている……といった図式の批判が本当に正しいのか。大量生産される画一的な商品という点ではマクドナルド以外にも様々な物があるのに、なぜマクドナルドが象徴的に(それこそ「マクドナルド化」という言葉に代表されるように)批判の対象になるのか。実はこの本には、マグドナルドに関してこんな記述もあります。

文化的なエリートのほとんどはマクドナルドの飲食物が嫌いだと公言している。実際のところ、フランチャイズ制は不釣り合いに下層階級に役立っているから、その商品はおのずから上流の美的感覚には侮辱となる。だが偏見なしに、成功しているフランチャイズやチェーン店に行ってみれば、なぜそれが成功しているかはすぐわかる。大抵の場合は値段の割に明らかに上質な商品を提供するからだ。(397ページ)

ここはまるで自分を名指しされているような感覚を味わいました。私もまたそのように「公言」してきたひとりだからです。マクドナルドは(吉野家だってケンタッキーフライドチキンだって同様ですが)もう十数年単位で利用したことがありません。たぶん最後に利用したのはアメリカに旅行したとき帰国便に乗る直前に「やむなく」空港で、だったと思います(早朝で、他に開いている飲食店がなかったのです)。だとしたらもう15年以上前です。

マクドナルドと同様、日本で「上流」あるいは左派・リベラル(最近はこのたてわけも曖昧になってきましたが)と呼ばれる人々から似たような批判を受けてきたのは「山崎製パン」かもしれません。私が学生の頃、左派界隈では同社のパンを「うんちパン」と罵倒する言説にもたびたび触れたものでした。いまからすれば、同社が業界トップ企業だという点から左派の目の敵にされていたようにも思えます。

山崎のパンにはカビが生えない、だから添加物満載だという批判には「それは手作りパンよりも格段に徹底された衛生管理がなされているから」という批判がなされたものも記憶に新しいところです。

食品業界で有名な話があります。「私が家でパンを焼くと、すぐにカビが生えるのに、ヤマザキのパンはカビが生えない。食品添加物まみれに決まっている」と主張した女性に対して、「手作りパンにカビが生えるのは、あなたの台所が汚いからです」と鈴鹿医療科学大の長村洋一教授が一喝した、というエピソードです。
https://president.jp/articles/-/30078

マクドナルドにせよ山崎製パンにせよ、業界でトップを走っているのにはそれなりの企業努力や現場の人々の取り組みがあるはず。もちろん巨大企業ならではの手練手管があって、それに「バカな」大衆が乗せられているだけだという啖呵をきるのは胸がすく思いかもしれませんけど、そうやって大衆から遊離した主張の左派(というか左派の人々だって大衆の一部のはずですが)にあまり明るい未来はなさそうですよね。

そんなことを思ったので、先日トレーニングの帰りにマクドナルドへ寄ってみました。ビッグマックのバリューセット550円。ニュースで伝えられていたように物流の停滞が影響しているとかで、マックフライポテトはSサイズです。

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15年以上ぶりで食べたそれは、記憶にあったのより薄味で淡白でした。けっこうおいしいと思ったけれど、あとでひどく胃もたれしてしまいました。たぶんフライドポテトのせいじゃないかなと思います。Sサイズでもけっこう「どん」とくるのです。ここ数年、普段から揚げ物をほとんど食べない生活になっていたからかもしれません。

DeepL公式Chrome拡張

AI翻訳ツール「DeepL」の公式Chrome拡張機能(β版)がリリースされたというニュースに接して、さっそく自分のパソコンでも試してみました。

www.itmedia.co.jp

Chrome上にはすでに「Google翻訳」の拡張機能もあるので、自分の中国語作文を「DeepL」と「Google翻訳」で訳し比べてみました。こちらがDeepLです。

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そしてこちらがGoogle翻訳

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他にもいろいろな文章を訳してみましたが、「DeepL」の特徴は、分からないところはすっ飛ばして、とにかく読みやすい文章を生成することではないかと感じました。「これは強い」というより「これは恐い」。短い文章であれば気づくでしょうけど、これでビジネス文書をまるごと訳すのは現時点ではやめておいたほうがいいでしょう。「Google翻訳」のほうがまだ、ぎこちないながらも全部訳そうと試みているだけまだ間違いに気づきやすいように思います。

それでも「まあ大体のところで意味がわかればいいよ」という需要には、これでほぼ応えられてしまうのかもしれませんが。

「どこもかしこも同じ店ばかり」か?

ジョセフ・ヒース氏とアンドルー・ポター氏の共著『反逆の神話』には、こんな一節もありました。

アメリカ合衆国を旅してまわる人は、どこもかしこも異様なほど同様であることに強く印象づけられずにはいられない。どのショッピングセンターにも、ほかのどこでも見られるいつもの店がひしめいている。そしてどの主要な連絡道路にもよく見る看板がびっしりついていて、お決まりのガソリンスタンド、レストラン、ドーナツ屋へといざなう。「ブランドの風景」はありふれたものになったから、多くの人々が、アメリカの小売市場のフランチャイズ及びチェーンの占有率が三五パーセントしかないと知ると驚く。(395ページ)

大量生産される画一化された商品を大量消費させられる大衆ーーというイメージは、カウンターカルチャーの思想が掲げる「体制への反逆」の中で語られる文脈のうちでも最もおなじみのもののひとつです。私も学生時代からしばらくの間はそうした思想に強く共感を覚えていました。だからこそ手仕事の復権や低生産・低消費の社会のありようを模索しようとして農業(のマネごとのようなこと)を志向したのですが、それが結局、少なくとも自分においては非常に未熟な行動で、結局は大量消費社会の軒先を借りての贅沢な遊びでしかなかったのではないか……そんなことを先日書きました。

qianchong.hatenablog.com

上掲のフランチャイズやチェーンの市場占有率については、私も日本のそれについて全く同じような思い込みをしていました。東京の駅ビルも、実家のある福岡の駅ビルも同じような店舗ばかりが入っていて、郊外へ行ってもこれまた同じような店が並んでいると(例えばユニクロのような)。でもちょっと気になってネットを少し検索しただけで、経産省のこんな資料を見つけました。

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経済産業省「2020年小売業販売を振り返る」https://www.meti.go.jp/statistics/toppage/report/minikeizai/kako/20210409minikeizai.html


この資料にある2020年の商業販売額によると、小売業のうち「その他」に含まれる小規模事業者の販売額は小売業全体の約146兆円のうち約99兆円を占めています。つまり日本においても、大規模小売業者の割合(フランチャイズやチェーンがほとんどだと考えてよいでしょう)はアメリカ同様に3割強しかないわけです(「その他」にはカーディーラーやガソリンスタンドも含まれるようですから、純粋な個人経営や個人商店ばかりではないと思いますが)。

もちろん大規模小売業者の進出が地域の小売業者にとっての脅威になっているという実態はあると思います。そして私個人はやはり「どこもかしこも異様なほど同様であること」はつまらないし嫌だな、とも思います。ただその現象を単に強欲な資本主義の為せる技と極めて雑駁に語って「反逆」しているだけでは、ちっとも世の中の本質が見えていないのではないかとも思うのです。

地域や文化の独自性を壊すという見方(いわゆる「マクドナルド化」というやつです)は、一見その通りのように思えるけれども、実態や実質とは様々なずれがある。あるいは世の中の実態や実質はもっと複雑だとも言えるでしょうか。ここでも私は単純な「神話」に寄りかかって「ためにする批判」をしてきたのではないかと思ったのでした。

音楽を聴かなくなった

かつて、音楽CDをたくさん持っていました。専用の大きなキャビネットを持っていたほどで、東日本大震災のときには上に載せていたステレオセットとともに倒れて、職場から徒歩で帰宅したら大変なことになっていました。

そのキャビネットもステレオセットもいまはなくなり、つい先日は最後まで持っていたCD十数枚も処分してしまいました。昔々、学生時代はまだLPレコードの時代で、その当時も引っ越しのときに悩むほどたくさんレコードを持っていたのですが、それを一挙に処分したときのことを思い出しました。あの当時からカセットやMDやCDなど様々なメディアで音楽を「所有」して、聴いてきましたが、結局現在はモノとしての実体のない音楽配信のデータでのみ音楽とつきあっています。

いや、その音楽配信さえ、最近はほとんど聴かなくなりました。少し前まではSpotifyをサブスクで利用していました。でも、そこにはありとあらゆる音楽があって、いつでも、なんでも、どんな順番でも、そして自分の知らなかった音楽までおすすめされて聴けるという最大のメリットが、逆に自分には音楽との接し方が限りなく粗雑になるというデメリットにしかなっていないことに気づいて、やめてしまいました。

qianchong.hatenablog.com

最近どんな音楽を聴いたかなあと思い出してみれば、これがまったくといっていいほど聴いていません。通勤中にスマートフォンで聴いているのは謡曲か語学の教材くらい。購入した楽曲もスマートフォンには入っているけれども、通勤電車で聴くとなると、これはもう音楽を聴いているといえるのかどうか怪しいです。単なる時間つぶしにしかなっていません。

仕事中に音楽を聴くという方もいらっしゃるそうです。でも私は音楽を聴いているとほとんど他のことができない(特にものを書いたり、考えたりするのは絶対に無理です)シングルタスクな人間なので、仕事中もまず聴かない。要するに、かつて自分が楽しんでいたような、好きな音楽にじっくりと耳を傾けるという行為そのものが、暮らしの中からほとんどなくなってしまったのです。

それはそれで自然な流れの末にそうなっているので仕方がないなとは思います。でも、音楽をゆっくり聴くこともない暮らしというのも、なんだか寂しい。お酒を完全にやめてしまって夜の時間が格段に増えたことでもありますし、なにか音楽を聴く新しい環境をもう一度作ってみたいなと思いました。

いまさらまたCDや、一部のお若い方々が逆に「レトロ」で良い! と注目されているというLPレコードに戻るのも気が引けます。それらを実現するにはまたまた少なからぬ出費と、モノを大量に持つことを選ばなければなりませんから。ですから音楽配信一択ではあるのですが、かといってSpotifyなどのサブスクも上述したような理由で選びたくありません。

そんなめんどくさい気持ちを抱えてネットを検索してみたら、音楽配信とそれを聴くガジェットについて、こんな記事を見つけました。

ontomo-mag.com

なるほど、Spotifyのような音楽配信は圧縮音源、CDと同等の音質はWAVやflac、そしてそれを超えるハイレゾ……ですか。音楽配信のデータにもいろいろなものがあるんですね。この記事で紹介されていた「Presto Music」というクラシックやジャズ専門の音楽配信サイトは、それぞれの音質から選べて、なかなかよさそうです。

www.prestomusic.com

しかし……これはこれでまた出費が増えそうです。もちろんアーティストを応援するためにも、作品に対する相応の出費は当然ですが、ガジェット方面はあまり凝りすぎて暮らしを複雑にもしたくありません。上述の記事に出てきた蔦屋家電のCDプレイヤーだったら、CDの他にデータも再生できて、Bluetoothでヘッドホンに飛ばすこともできて、とてもシンプルです。これで新しい環境を作ってみようかな。そして、一度音楽環境をリセットしたことでもありますし、今度はあまりあれこれ「飽食」せずに、じっくり選んだ音楽だけをくり返し聴くのです。

store.tsite.jp

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https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_9420.html

近くて遠い横浜

横浜能楽堂喜多流デジタル若者能を見に来たので、その前にいわゆる「町中華」でお昼ごはんを食べました。JR石川町駅から歩いて10分ほどの奇珍というお店です。ネットの情報では行列するほど混んでいるとのことでしたが、行ってみたら空いていてすぐに食べられました。

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レーニングの後に向かったのでチャーシューワンタンメンなど頼んでしまいましたが、さらにシュウマイも一皿頼んじゃいました。後から考えればワンタンとシュウマイで完全にかぶってましたけど。お味はごく普通の中華屋さんの醤油ラーメンですが、お店の雰囲気と相まって、なかなかよいランチでした。

石川町の駅で降りたのはたぶん15年ぶりぐらいだと思います。初めて講師という仕事をしたのが実は横浜日中友好協会の中国語講座で、その教室が石川町にあり、毎週通っていました。もうその教室がどこにあったのかも覚えていませんが。

私は生まれたのが横浜市なのですが、物心つく前に引っ越してしまったので私自身に横浜の記憶は一切ありません。その後もくだんの中国語講座で仕事をしましたし、現在通っているフィンランド語の教室も横浜です(いまはオンラインですが)。台湾に長期派遣で行っていた会社も横浜の会社でした。何かと横浜にご縁があるのですが、目的の場所以外に行ったことはほとんどなく、土地勘というものがまったくありません。私にとってはなぜか近くて遠い街なのです。

自分でパンを焼き羊毛を紡ぐ

公害を生みだしてしまったような「大量生産・大量消費」にあらがって「低生産・低消費」の生活を実践しながら模索する。それをテーマの一つに掲げて運営されていた水俣生活学校での生活は、とても楽しいものでした。

qianchong.hatenablog.com

以前からやってみたかった、自分の身体を動かして生活必需品を生み出す活動のどれもがとても新鮮でした。農作業に見合った身体の動かし方そのものに馴染んでいませんでしたから、畑を耕すときの鍬や鎌の使い方一つでさえ、そのたびに自分の身体の使い方を何にも知らないという事実を思い知られるのです。

生活学校では野菜や米を作り、味噌を仕込み、菜種油をとり、どぶろくを造り、鶏を飼い、有精卵を生協に売り、薬草茶を作ってこれも売り、鶏を締めて食べ、天然酵母を仕込んでパンを焼きました。薪で一部の煮炊きをまかない、風呂も薪で沸かしました。排泄物や廃棄物から堆肥を作ることまで模索したのです。

作る喜びはもちろんあります。農薬や化学肥料を使わないから健康的でもあります。農産物を売るのは地産地消でもあります(その一方でやっていたみかんの産直は、結局大都会の消費者層だよりでしたが)。その意味では「低生産・低消費」の理念に近づけていたかもしれません。でも実際には、自給自足と呼ぶにはほど遠い状況で、物販や産直事業で得た現金収入と、田舎の安い物価・安い家賃に支えられて暮らしを回していたというのが実態だったかもしれません。

電気や水道、ガスなどのライフライン、市街地から離れた山の中腹まで引かれた舗装道路などのインフラ、そして田舎の生活では欠かすことのできない自動車(とガソリン)。そういったものにも支えられていたのは言うまでもありません。もちろん全くの荒野でゼロから暮らしを営み始めるなんてことはできず、既存のそうしたものに最初は頼りながらも漸進的に「低生産・低消費」へにじり寄っていこうという試みを否定するつもりはありません。

それでも当時の自分がしていたことは、結局はひとつの高尚な(そしていささか奇矯な)趣味の範疇をあまり超えてはいなかったのではないか、といまにして思います。私は当時編み物に凝っていて、毛糸の草木染めにまで手を出していました。そこからさらに進んで羊毛を紡ぐところまでやろうとしたのですが、それはさすがにやり過ぎであり贅沢な趣味でしかないと周囲からも諌められました。そもそも南国九州で羊など飼われていないんですから。

昨日引用したジョセフ・ヒース氏とアンドルー・ポター氏の共著『反逆の神話』には、こんな一節があります。

有史以来、人がパン屋でパンを買ってきているのには理由がある。少量のパン種を仕込んでパンを焼くのはすこぶる非効率で、割高で、時間を食う(環境に悪いのは言うまでもない)。つまり自家製パンというのは、必然的に少数の恵まれた(富も余暇も有り余っている)人たちのための活動である。(266ページ)

おおお、なんと手厳しい。そして北米では大企業による大量生産・大量消費のパンづくりに抗って、それぞれが手作りと手技の復権を試みた結果、その人気ぶりが「自家製風」パンの市場を育て、結果的に消費主義を一層活発に推し進める結果になったというのです(日本でも同じような状況かもしれません)。

もちろん趣味としてパンを焼くのはとても楽しいことです。私だって東京に戻ってからもパンを焼いていました。それは自分の暮らしを少なからず彩ってくれるものなので、否定するものではありません。ただそれが現代の資本主義や消費社会へのアンチテーゼとして語られ始め、しかもそれが真面目に広範囲に取り組まれれば取り組まれるほど「資本主義を肥え太らせる」(同書の帯の惹句より)というこの矛盾。

この本ではそういう一種倒錯したような行為を「消費主義を活性化するダウンシフト」と称して列挙している箇所があるのですが、そこにはなんと「自分で服を作る、ウールをすく、羊の毛を刈る」という項目もあります(269ページ)。まるでかつての自分を名指しされているみたいで心が折れそうなので引用しませんが……。

近年注目が集まっている「ミニマリズム」という生活スタイルについても、それは都会の充実したインフラや流通、情報テクノロジーがあるから実現できているにすぎないという批判があります。私はいまでも「低生産・低消費」や「ミニマリズム」(というより消費しすぎない暮らし)については大いに興味があり、実践もしたいと考えている人間ですが、それと社会の変革が本当に結びついているのかについては、かつての自分に欠けていた思慮深さを少しでも身につけつつ考えなければと思うのです。

togetter.com

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異議申し立てと逸脱の混同について

もうすぐ2022年を迎えようという今となってはちょっと信じられないくらいですが、かつて喫煙がほとんどどこでも自由に行われていた時代がありました。

ほとんど、というのは病院など医療施設や小中学校の施設内などではさすがに行われていなかったような記憶があるからですが、そういった場所以外では、喫煙が野放しだったのです。オフィスも大学の構内も、駅のホーム上も。長距離列車や飛行機の機内でさえ吸えた時代があるんですよ。旧式の航空機など,座席の肘掛けに灰皿がついていることなどついこないだまであったのです。

学生時代は、誰もがタバコを吸っていました。当時はなぜかタバコとバイクが学生のステイタスシンボルで(うちの学校が特殊だった可能性はあります)、クラスメートのかなりの人がタバコを吸い,バイク(あるいはスクーター)に乗っていました。先日ふと思い出して書いた、大学卒業後に働いていた水俣病関係の財団でも、当時はどこでも喫煙可でした。私は当時からタバコの煙がとても苦手でしたが、煙に閉口しながらも「そういうものだ」と受け入れていました。

ところが、くだんの水俣生活学校でしばらく暮らすうちに、私はタバコの煙に我慢ができなくなり、少なくとも屋内では「禁煙」にしようではないかと提案しました。思えば、既存の習慣なりルールなりに自分の意思で抵抗を示そうとしたのは、たぶんあれが初めてだったのではないかと思います。それも最初はただぐずぐず不満を言っていたところを、共同生活していた何人かの方から(この方々も喫煙者でしたが)、自分が嫌だと思っていること、不合理だと思っていることは、きちんと意思表示をした方がよいと促されてのことでした。

しかし、周囲の反応は激烈なものでした。「禁煙」とは何事か、喫煙する権利を奪うというのか、誰かが誰かの行為を「禁じる」などという非民主的なことが許されるのか、と反対の声がまきおこったのです。だったらお前が趣味にしている編み物(当時は編み物が趣味だったのです)の編み棒がふれあう音を忌避する人がいて「禁編み物」を打ち出されたらどうするのだ……などという、笑い話のような(しかし本当にあったのです)反論さえありました。

なかば恫喝めいた脅しを受けたこともあります。左翼界隈、というかリベラルな考え方を持っている方々(適切なカテゴライズが思い浮かばないので,雑駁とは思いつつもとりあえずこう書きます)であっても、いやリベラルな考え方を持っているからこそ、禁煙という他人の権利を抑圧するような制度には賛成できないということだったのでしょうか。

いや、いまこう書いていてもちょっと目眩がするというか、笑っちゃうような論旨なのですが、とにもかくにもそんな状況だったのです。私は、水俣病を生みだしてしまったような社会のあり方を批判する私たちがタバコの煙の害に無頓着なのは矛盾しているのではないか、どちらも他人の健康や生存を脅かしているという点で選ぶところはないじゃないかというような反論をしたことを覚えていますが、言下に「それは言い過ぎだ。それとこれとは問題の質がまったく違う」というようなことを言われました。それでも、様々な議論ののちに「あんたが嫌だと思っているのなら」といういわば同情というか惻隠の情もあってか、屋内だけは禁煙になりました。

そうやって一応の解決を見たこの問題は、しかしのちのちまでくすぶり続けました。特に若かった私が調子に乗って、屋外における喫煙についてもその煙の流れる方向によっては副流煙の被害を受けると批判のトーンを強めたことで、同僚との間に少なからず亀裂が入ることになりました。私が後年水俣を離れた遠因にもなっていると今にして思います。

さすがに現代では上述したような反論はなされないでしょう。たぶん私が勤めていたその職場でも、完全に分煙が行われているはずです。水俣を離れてからは、かの地を一度も訪れたことはないので、実情は分かりませんが。

しかし、世の不公正や不正義とたたかう旨を高く掲げている左翼界隈やリベラルと呼ばれる人々がなぜあんなにも偏狭だったのか(もちろん問題を提起することを促してくれた方もいたわけで、一概にすべてがそうだとは言えませんが)、その後もずっと疑問に思い続けてきました。そしてこれは、かつてはかなり積極的に関わっていた左翼系・リベラル系の社会運動や市民運動を一歩引いて眺めるようになったひとつの理由にもなっているような気がしていました。

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▲当時個人で出していたニュースレター。幼稚な論旨に顔から火が出そうですが。

ジョセフ・ヒース氏とアンドルー・ポター氏の共著で、もう15年以上も前に書かれた『反逆の神話』には「異議申し立てと逸脱の区別」という一節があって、そこにはこう書かれています。

意味のない、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立てと逸脱は区別しなければならない。異議申し立ては市民的不服従のようなものだ。それは人々が基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対しているときに生じる。彼らはそうした行為が招く結果にかかわらず反抗するのだ。これに対し逸脱は、人々が利己的な理由からルールに従わないときに生じる。この二つがきわめて区別しがたいのは、人はしばしば逸脱行為を一種の異議申し立てとして正当化しようとするからだが、自己欺瞞の強さのせいでもある。逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行っていることは異議申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ。(新版:155ページ)

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反逆の神話〔新版〕「反体制」はカネになる (ハヤカワ文庫NF)

なるほど、およそ30年前の当時の社会にあっては、ところ構わず行われる喫煙が「正当な社会規範を破る反逆行為」として認識されてはいませんでしたが、現在でなら、例えば電車内やオフィス内での喫煙は、まさにそうした行為だと見なされるでしょう。そう考えれば、私たちはこの30年間をかけて、少なくともタバコ問題に関してはようやく「異議申し立てと逸脱」の混同を克服しつつあるのだと言えるのかもしれません。

とはいえ、他の諸問題に関しては左翼界隈やリベラルと呼ばれる人々の「旧弊」がいまだ改まっていないところがあるようにも思えます。リベラルの退潮が伝えられて久しいいま、「新版」を得たこの本は再び広く読まれるべきかと(新版の帯には東浩紀氏が「ぼくたちはいつまで文化左翼のゲームを続けるのだろうか」と書かれています)。これから先、他の諸問題に関しても、喫煙をめぐってかつて行われていたような異議申し立てと逸脱の混同を克服していけるのかどうか、私自身の問題として考え続けなければと思っています。

着るものがどんどんシンプルになっていく

先日、書籍を大幅に「断捨離」したのに引き続いて、服も大胆に整理しました。もともと私はファッションセンスのない人間で、かつファッションそのものにあまり興味がないこともあって、持っている服も元来がそれほど多くはありませんでしたが、それでもここ数年でさらに減りました。もはやクローゼットが「すかすか」になっています。もっともそのぶん妻の服が侵食してきて、クローゼット全体ではほとんど「片付いた感」がありませんが。

ここ数年で一気に減ったのが、かつてはよく着ていたビジネススーツのたぐいです。企業でサラリーマンをしていたのはもうずいぶん前のことですし、その後はフリーランスだったり派遣だったり無職だったり、あるいは就職していてもスーツの必要ない職場だったりして、ほとんど着ることはなくなっていました。

そこへもってきてこのコロナ禍。スーツを着る機会は皆無に近い状態になりました。オンラインの会議や授業でネクタイを締めることはあっても、ビジネススーツを上下で着ることはなく、あってもジャケットを羽織る程度。というわけでスーツは法事用の黒をのぞいてすべて処分してしまいました。ジャケットも冬用の一着以外は同じく処分。近年の異常な暑い夏に、かつてのようなサマージャケットを着る機会もなくなってしまいましたし。

夏といえばもうほとんどの日をポロシャツか薄手のシャツで仕事をしています。以前はさすがにTシャツ一枚で仕事をするわけにもいかないと思っていたのですが、いまの職場は服装に特にルールがあるわけでもなく、ついにTシャツだけで出勤することも。ハーフパンツで出勤したことはさすがにないですが、来年あたり「やらかしてしまう」かもしれません。

冬用のアウター類も、今回大幅に処分してしまいました。住んでいる自治体がリサイクル用にまだ着られる衣服を受け入れてくれていて、厚手のコートやダウンベストなどをそこへ寄付したのです。まだまだきれい、というか、ここ数年ほとんど着ていなかったものばかりなので、担当の方からは「すぐにもらい手がみつかりました」と言われました。

考えてみればここ数年、冬場もダウンジャケットだけで乗り切っているのです。ユニクロの分厚いダウンジャケットを持っていたのですが、秋から初冬にかけてはちょっと暑すぎるので、秋に入って薄手のものをもうひとつ買いました。この薄手のダウンがとても暖かくて、今のところこれ一枚でアウターは十分な状態。たぶんこの冬はこれだけで大丈夫な勢いで、厚い方はこれも寄付しちゃおうかなと考えています。

そんなこんなで、衣食住の「衣」まわりがどんどんシンプルになっていきます。シンプルになっても周囲に迷惑をかけないよう清潔感だけは維持しなければなりませんが、それ以上はもうあまり持たなくていいかなと感じています。靴だって同じものを複数持っていて,代わる代わる履いていますし。

年を取って、ついに「衣」関係の欲がきわめて淡泊になっていきつつあるのだろう、つまりはだんだん枯れつつあるのだろうと思っていたら、それはいわゆる「ノームコア」なんじゃないの、と言われました。なるほど。それならあまり悪い気はしませんね。

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https://www.irasutoya.com/2017/11/t.html