インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「農的な暮らし」を志向したことがあった

1989年、大学を卒業したものの路頭に迷っていた私は、九州のとあるフリースクールで共同生活を始めました。このフリースクールは「水俣生活学校」といって、水俣病事件における患者支援や調査研究などを行っていた財団法人・水俣病センター相思社の一部門として設立されていたものでした。水俣病を生み出してしまったような社会のあり方を反省し、そうではない「オルタナティブ」な社会や暮らしのあり方を、主に共同生活と農作業を通して模索するという「コミューン」のような「人民公社」のような学校でした。

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それまで東京で暮らしていた私自身、環境問題に強く関心を持っていました。折しもチェルノブイリ原発事故を受けて反原発運動が盛り上がりを見せていた頃でもあります。そうした社会運動や市民運動への関心から、有機栽培された野菜や添加物をおさえた食品を扱う八百屋さんでアルバイトしていましたし、そのお店のお客さんつながりで市民運動の集会やデモなどによく参加していました。その意味では大学を卒業して水俣に行ったのは、ごく自然の流れだったように思います。

その学校で一年間学んだ後、私はそこの「専従」になり、さらに相思社の職員として資料館(水俣病歴史考証館)の展示物作成や相思社の広報誌の編集をするようになりました。当時相思社は、水俣病患者家族が取り組んでいた有機栽培の甘夏産直事業をめぐって、在庫欠乏時に有機栽培ではない甘夏を混ぜて売るという「事件」を起こして一大スキャンダルとなり、組織再編のまっただ中にありました。私はその直後に相思社の職員になったのですが、いわばその再編の激動のなかで「運良く(?)」職を得たようなものでした。

もともと相思社はその出自からして、患者運動の支援という、その意味では左翼的な色合いの強いところでした。ただ私は、そうした左翼的な思想にシンパシーこそ感じていましたが、学生運動の頃よりずっと後の世代であることもあって、どちらかと言えばそういう運動には無頓着というか知識のないまま働いていたように思います。先日ひょんなことから当時の相思社のあり方を研究されている方の論文を拝見したのですが、そこに当時の私のこんな文章が引用されていました。

だから私が水俣に来たのは水俣病事件の「闘い」や「運動」のためじゃありませんでした。 はじめて水俣に来たときなんか,相思社のこともチッソ水俣工場のことも,そのときチッソ正門前で座り込みをしていた「水俣病チッソ交渉団」のテントのことも知りませんでした。いや別に威張ってるわけじゃないんですけど。生活学校に来た日だって,湯堂バス停からの道すがら強烈な堆肥のにおいをかぎながら,「これにも慣れなきゃ」なんて決意!したりしてました。都会でぜいたくな暮らしをしている自分が,水俣に来て農的な暮らしをすることでたとえば水俣病のようなものに対して何か申し訳がたつんじゃないか,というようなことを考えていたと思います 。


平井京之介氏『考証館運動の生成 : 水俣病運動界の変容と相思社

こんな文章を書いたことさえほとんど忘れていましたが、自分なりに必死に何かを考えていたのだろうなということはわかります。特に「都会でぜいたくな暮らしをしている自分が,水俣に来て農的な暮らしをすることでたとえば水俣病のようなものに対して何か申し訳がたつんじゃないか」というのは、まさに当時の私の本音でした。水俣生活学校ではだから「自給自足」のようなことを目指していました。野菜や米を作り、鶏を飼い、タマゴを売り、ミカンの産直事業をやる……。

ただ、いまから振り返れば、というか当時すでに気づいてしまっていたのですが(だから後年、東京に戻ってきてしまいました)、そうしたことに取り組めるということ自体もまた「豊かさ」のなせる技だったのだと思います。農作業や産直事業をすることそのものにも、現代の資本主義的な社会システムが深く関わっていて、その恩恵を受けることなくそれらを続けることなどできないのですから。本当の意味での「自給自足」にはほど遠い、贅沢なお遊びみたいなものだったーーその点では、私個人における「農的な暮らし」も「都会でのぜいたくな暮らし」も、そこにさしたる差はなかったのかもしれません。

生活学校で実践したことひとつひとつはいまでも貴重な体験として自分のなかに残っていますが、当時の私はいまにも増して未熟だったというか、世の中のことがほとんど見えていなかったのだなと思います。

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▲水田の開墾をしているところ。当時の写真はこれ一枚しか残っていません。

お金を払う側だけれどもお礼を言う

年末の大掃除シーズンを迎え、仕事の合間に不用品の整理をしています。先週末は書籍を大胆に「断舎離」してネットの古本屋さんに段ボール箱で三箱ぶん送りました。集荷に来てくれた宅配便のお兄さんも、さすがに三箱いっぺんに持って行けそうになかったので(私の部屋はアパートの三階です)、私も一箱抱えてアパートの下に停めてあった集配車のところまで持って降りました。

お兄さんは恐縮してらしたけど、まあこれくらいのお手伝いはしますよね。私はその昔、九州でみかんの産直事務所をやっていて、出荷の最盛期は毎日数百という単位で段ボール箱を動かしていましたから、重い段ボール箱の抱え方は割と上手なのです。……って、いまは腰痛持ちなので無理は禁物ですが。

宅配便のお兄さん(ときにおじさん)にもいろいろな方がいますが、このときのお兄さんはとても感じの良い方でした。下まで持っていったときに、ちゃんとお礼をおっしゃる。「ありがとうございます、助かります」って。こちらは集荷をお願いしている立場ですから、別に感謝されなくても気になりませんが、それでもお礼を言われるとうれしいです。しかも夜遅い時間帯で(その時間しか自宅にいないので時間指定したのです)けっこう疲れてらっしゃるでしょうに。

荷物の集配をしに来る方の中にはすごくぶっきらぼうな方もいますけど、まあ肉体労働の大変さはそれなりに知っているのでスルーするようにしています。私もものすごく短気で、なおかつ「テンパりやすい」性格なので、あの産直事務所の繁忙期にはきっといろいろな方面でぶっきらぼうな対応していただろうなといまにして思います。

宅配便の方への対応という点で、もうひとつ個人的にやっているのは、荷物を受け取った後ドアを閉めて、そのあとお兄さんが階段を降りていってからカギを閉めるというものです。もしくは音がしないようにそーっと閉める。何を言っているんだこいつは、と思われるかもしれませんが、ドアを閉めてすぐにカギをガチャっとかけられるのって、なんとなく感じ悪くありません?

これも学生時代に八百屋さんの配達のアルバイトをしていて、よくそういう対応をされて嫌な感じがしていたので。あれって、「はい、もう用済みでしょ、早く帰って」って言われているような気持ちになるんですよね。いずれも考えすぎなのかもしれませんけど。

サービスというのは、サービスを提供する側と、そのサービスにお金を支払う側は、基本的に対等であるべきだと思っています。だからこちらが客側(お金を支払う側)だからといってエラそうに振る舞うのはなんだかイヤなんですよね。飲食店の店員さんだって、スーパーのレジ係さんだってそうです。だからなるべく短くともお礼の言葉を言うようにしています。

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https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_729.html

フィンランド語 147 …まだ初級

先日、今年最後のフィンランド語講座に出てきました。オンラインでの授業です。コロナ禍に突入してからこちら、ずっとオンラインなんですけど、考えてみればフィンランド語を学びはじめた頃はカルチャーセンターの小さな教室で、肩寄せ合うような少人数のクラスでした。あれからもう三年以上、今度の春がやってくると丸四年も学んでいることになります。はやいなあと思います。でもいっぽうで、コロナ禍のこともあってことのほか遠い昔のようにも感じます。

私は朝日カルチャーセンターの横浜教室で学んでいるのですが、先日は事務局の方がオンライン授業にいらして、更新手続きの説明とクラス名変更についてのお知らせがありました。これまで「初級Ⅱ」というクラスだったのですが,来年一月からは「初級Ⅲ」になります、と。四年近くも学んできてまだ「初級」なんですから、なんという遅々たる歩みかと思います。もちろん四年近くと言ったって、週に一度のクラスなんですからむしろ当たり前なのかもしれませんが、それでもその文法の複雑さから「悪魔の言語」と称されるフィンランド語ならでは、ではあります。

しかしですね、私のような「初級」段階の分際でこんなことを言うのもおこがましいのですが、最近はだんだんこの言語の全体像がつかめてきたような気がしています。もちろんまだほとんど話せない状態ですし、作文をすれば何時間もかかりますし、リスニングをやっても数字すら聞き間違えるレベルなのですが、すくなくとも「悪魔の言語」というほど難解極まりないというイメージは薄らいで来ました。

フィンランド語はとにかく動詞の活用や名詞・形容詞などの格変化がすさまじいのですが、ごくごく少数の例外を除くとかなり規則的に変化します。そのありようは、悪魔的で摩訶不思議なところはほとんどなく、むしろ数学や物理の世界のようにきちんとルールに則って答えが出るようになっている。ネイティブスピーカーはそのルールが肉体化されているわけで、私たち非ネイティブもそのルールを体現できるようになるまで繰り返し練習すればいい。要するにちゃんと道筋は見えているのです。

もちろん人間の言葉ですから、ネイティブスピーカーのフィンランド語の大海にはルールから外れたところにあるものも豊富にあるはずですが、少なくとも非ネイティブが操る、スタンダードなフィンランド語をそれなりに習得するのは不可能ではない。最近はそう思えるようになってきました。これまで何度も「こんなに難しいの、もうやめてしまおうかな」と思ったんですけどね。

まああくまで趣味ですから、これからもマイペースで学んでいこうと思います。いまのところ教科書『Suomea Suomeksi 1』本文の音読と、本文の日本語訳を確かめてからフィンランド語で書いてみるのと、それに『フィンランド語トレーニングブック』の問題を一章ずつ解くというのを日課にしています。それから週に作文を一本書く。

先日の授業では先生から『Suomea Suomeksi 1』と『2』に出てくる単語は最低限覚えてほしいと言われました。いままで『1』 の単語は全部拾ってQuizletで覚えてきたのですが、『2』は未着手でした。この冬休みから取り組もうと思っています。

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トレーニングで得られる「安心」

先週後半は忙しくて、日課になっているジムでのトレーニングができませんでした。すると案の定、腰が痛くなる。どんなに気をつけて職場ではVariableのバランスチェアに、自宅ではVivoraのバランスボールに座って対策をとっていても、「やつ」はやってくるのです。

日曜日のきょうは、ようやくジムのパーソナルトレーニングに行くことができて、腰の痛みも軽快しました。トレーナーさんは最初にカルテを作ってその日重点的にやるべきことを確認してくれるので、腰痛対策になる体幹レーニングを多くメニューに入れてもらいました。そうやって動かしていると腰が楽になっていくのが如実にわかります。身体を動かすのが本当に気持ちがいいのです。

腰痛とは長年の付き合いですから、基本的に「それ」はある、もしくはやってくることが前提の暮らしになっています。とはいえ、三年あまり前にトレーニングを始めるまで、腰痛は不安の種でしかありませんでした。腰痛に悩まされている方ならおわかりでしょうけど、腰が痛いと暮らしが極端に暗くなります。何をするにも痛みがついてまわり、QOL( Quality of life:生活の質)が下がってしまうのです。

でもいまはトレーニングを通して、自分の腰痛が器質的なものではない、つまり骨がずれているとか関節がすり減っているなどからくるものではなく、身体の使い方の問題だということがわかっています。そして、それだけで、大きな安心を得られるようになりました。つまり、腰痛にはなる。これは仕方がない。けれども適切に運動すれば消える。それが経験的にわかっているので安心というわけです。「対処のしようがある」から安心といいますか。

トレーナーさんからは、「デスクワーク中心のお仕事をされている以上、これは一種の『職業病』みたいなものかもしれませんね」と言われました。というわけで、これからも仕事をしつつ、トレーニングを欠かさずに続けていこうと思います。三年前に、肩こりと腰痛と不定愁訴にあえいでいたあのときのまま、何もせずにいたらいまごろどうなっていただろうかと、想像するだに恐ろしいです。

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https://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_2000.html

フィンランド語 146 …日文芬訳の練習・その61

先週外出中に眼鏡をなくしました。つねにかけているはずの眼鏡をなぜなくしたかというと、最近は老眼鏡を使う時間のほうが圧倒的に長くなったからです。立ち寄った場所すべてに問い合わせてみたら、とあるコワーキングスペースで見つかりました。最近はこういう感じで、何かをちょっとどこかに置いてそれを忘れてしまい、後から慌てるというパターンがよくあります。すべての持ち物にスマートタグをつけるわけにもいかず、困ります。


Minä kadotin silmälasini viime viikolla. Miksi kadotin ne, joita olen aina käyttänyt? Koska lukulasien käyttöaika on ylivoimaisesti pidempi kuin ennen. Etsin kaikkia paikkoja, joita käytin sinä päivänä, löysin ne eräästä yhteisestä työtilasta. Äskettäin on ollut niin monta kertaa, että laitoin jotain joihinkin paikkoihin, sitten unohdin sen ja hämmensin. Se minua ärsyttää, koska en voi laittaa älykästunnisteita jokaiseen tavaroitani.


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Twitterに世論はあるか

Twitterをやめてみて、いや、Twitterから降りてみて(この「降りる」という感覚が個人的にはしっくりきます)ここのところ感じているのは、世の中の動きを把握しようとする際にSNSのタイムラインに頼るのは、やや安易な方法なのではないかという点です。

もちろんタイムラインは、なかんずくTwitterのそれは、いま現在の世の中の動きに非常に敏感かつ迅速に反応した結果が流れていることは否定できません。だからTwitterに世論を求める、世論を観察する方々もいるわけです。私もそうでした。

この間100人ほどの授業で「世論をどこで感じますか」と聞きました。返ってきた中で、圧倒的に多いのがTwitterでした。学生の感覚としては、マスメディアは広告主などに忖度が発生するので、それよりもTwitterでみんなが重要だと思っているニュースを見た方が良い、という感覚らしいのです。しかし、SNSで得る情報も正しいものばかりではないですから、それだけでは怖いなあと思います。
mainichi.jp

Twitterにハマっている頃は、たしかにそこにリアルな世論があるように思っていました。大手のマスコミ、新聞やテレビで伝えられる世論は偏っているからと。しかしTwitterTwitterでこれまた偏っています。特に左と右の「偏り幅」のようなものがマスコミよりも大きくて、そのぶん極端すぎる意見や、限りなくフェイクに近い意見の「混ざりぐあい」も高い。

くわえて、それぞれのツイートが並列で並んでおり(リツイートやいいねの数で濃淡のような差別化はされるけれど)、かつ偶然タイムラインに並んだものを摂取する形になる(トレンドで上位に上がってくるという機能もあるけれど)というのは、考えてみれば相当に雑駁な世論です。

これは私のTwitterの使い方にも問題があったのだと思いますが、ここ数年、特にリベラル系の希望や願望の強すぎる未来予測や独善と紙一重の批判などに、かつての左翼界隈、市民運動界隈に感じていたようなものと同じような「胡散臭さ」(ごめんなさい)を感じていました。

さらにはいわゆる「エコーチェンバー」効果も偏りを助長します。自分のフォローしている人のツイートやリツイート、リプライばかりがタイムラインに流れてきて、そればかりに偏って情報の摂取を続けていると、偏った考え方ばかりが自分のなかで増長する危険があります。

結局SNSでは、自分のバイアスを大きく乗り越えたところにある意見に接するのはけっこう難しいのではないか。世界はもっともっと多様なのではないか。こうした偏りを避ける方法のひとつとして佐々木俊尚氏は「先鋭的ではない、中庸な意見をたくさん読むようにすること」とおっしゃっています。

bunshun.jp

私はこれ以外に、SNSとは別のところで新聞や雑誌や書籍を読む、それも自分が取っている新聞や雑誌や、ネット書店で買う書籍だけでなく、図書館や街の本屋さんなどで世間の空気を感じながら様々な方法で情報を摂取するよう心掛けるのが大切ではないかと思います。ようは使い古された表現ですけど「脚でかせぐ」のです。手間暇と時間をかけて世間と世界を理解するようにするというスタンスとでも言えるかもしれません。

Twitterから降りたいま、そんなことを考えています。

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https://www.irasutoya.com/2018/02/sns_12.html

ソバーキュリアス120日

お酒を飲まなくなってから120日目になりました。この間、習慣化のために毎日記録をつけ続けてきたのですが、完全に習慣化されたのでもう記録は卒業してもいいかもしれません。

習慣化できてみてから振り返ってみると、どうしてかつてはあんなにお酒を飲まずにはいられなかったのか、本当に不思議な気がします。週に一日の「休肝日」を設けることさえ苦しかったのに。習慣を変えるというのは一面で本当に難しいものですが、一面ではものすごく簡単なんですね。習慣を変えるための「仕組み」を作ることができさえすれば。

私の場合、それはアウトライナーで毎日「飲まなかった◎」と日付とともに書き込むことだけでした。最初の数日は多少意思の力が必要でしたが、記録が積み重なってくればもう大丈夫。ずらっと並んだ記録の列を途切れさせたくないという気持ちが先に立って、どんどん飲みたくなくなるのです。確か「レコーディングダイエット」というのがありましたよね。アレに似ていると思います。

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お酒を飲まなくなって、暮らしにおける意識が少し変わりました。例えば以前は夕飯の準備をするときに、飲むことが前提で買い物をし、料理を作っていたのですが、その頃よりもずっと食卓がシンプルになりました。その分後かたづけも多少ラクになり、出費も減りました(私の場合、ワインなどお酒そのものへの出費がかなりありました)。

外食や会合などにもほとんど食指が動かなくなりました。もともと外食や「飲み会」などにはほとんど行かない人間でしたし、コロナ禍に突入してからこちらはほぼ皆無に近い状態ですが、これからもたぶん行く機会は少ないままだろうと思います。折しも忘年会シーズンで、特に今年は感染状況が落ちついていることから多少のお誘いもあるのですが、いずれも遠慮しようと思っています。

しかしなんですね、ここまで暮らしがシンプルになってくると、逆にこれは新種の「ひきこもり」なのではないかと我ながら心配になります。でも、コミュニケーションの前提として「飲み」が組み込まれているということ自体が見直されてもいいわけです。忘年会のお誘い、ひとつだけ受けてみて、かつお酒は飲まず、自分と周囲の観察をしてみようかなとも思っています。自分はまったくお酒を飲まずに「飲み会」に参加したことは一度もないので、何か新しい発見があるかもしれません。

セカンドキャリアを考える

いまの仕事も定年まであと数年、「セカンドキャリア」を考えるべき年齢になりました。というか、実はもう何年も前から、どうやって引退しようか、その後の暮らしはどうしようかと自分なりに考えてはきたのです。でも、いまのところはハッキリとした形になっているわけでもありません。

私にはまとまった資産もありませんし、蓄えと言えるようなものもわずかしかありません。定年を迎えていまの職場でフルタイムでは働けなくなった後も、それなりに働き続けて暮らしを維持していく必要があります。職場からは非常勤で続けてほしいとも言われてはいますが、非常勤だけに不安定な働き方ですから、リスク面も考えておく必要があります。

それであれこれ模索しているところなのですが、先日はこんな資料を教えてもらいました。東京都が募集している「専門人材育成訓練」の要項です。

https://www.hataraku.metro.tokyo.lg.jp/kyushokusha-kunren/itaku/202104_senmon.pdf

ただ、いくら社会人が対象だとはいっても、こういうのはお若い方々のためのものなんじゃないの、それによしんば私のような年齢のものでも学ぶことが許されて、資格を取得したとしても、かんじんの就職先がないんじゃないの……と思っていました。

ところが、詳しい方にうかがってみると、そうとも言い切れないみたいでした。まず東京都のような自治体がこういう訓練を展開するということは、それだけ人材が払底していて、その状態を改善したいからだというのが一点。

また最近はシニアの労働環境についての認識が急速に変化しつつあり、以前のように単に年齢でどうこうという時代でもなくなりつつあるという点も。もちろんその辺がまったくフラットになっていて誰でもオーケーというわけでもないでしょうけど、少なくとも資格を取ってそれがまったく無駄になるかというと、必ずしもそうとは言い切れないと。

なるほど。これはもう少しいろいろと調べて、じっくり考えてみる価値はありそうです。もちろん上掲の東京都の募集は求職中の方が対象ですから、働きながらセカンドキャリアを模索したいという私のような者は対象外です。また、いまの働き方からセカンドキャリアへの移行期をどうやって乗り切っていくかというのもなかなか難しい(主に収入の点で)という現実もあります。

それでもあれこれ考えるだけでもなにがしかの益はありますよね。少なくとも定年になりました、さてこれからどうしようかまったく白紙……という「後手後手」になるのだけは避けたいと思います。

例えば東京都の募集に載っていた「言語聴覚士」など、これからの社会にはますます必要とされるのではないかと思いました。自分のやってきたこととも少しはつながりがありそうですし。でも同僚にそんな話をしたら「その前に自分の聴覚が覚束なくなるんじゃないかと心配よ」と言われました。う〜ん、確かに。

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https://www.irasutoya.com/2013/07/blog-post_6678.html

Twitterでいかに時間をつぶしていたか

Twitterを使わなくなってから気づいたのは「時間が余る」ということでした。いかにこれまでTwitterで時間をつぶしていたかがわかります。

いや、時間が余るというのはあまり正確ではなくて、あいかわらず毎日忙しくてもうちょっと余裕がほしいと思っているのは変わりありません。ただ、例えば職場で昼ご飯の弁当を食べているときなど、以前ならTwitterのタイムラインを眺めに行って、そこから連投やリプライを読んだり、リンクに飛んだり、はたまた注意を引きつけられた書籍などを買いに行ったりしていたのです。

それがまったくなくなったので、最初の数日はなんだか「手持ち無沙汰」な感じが抜けなくて、ニュースサイトをザッピングしていました。ChromeGoogleニュースでヘッドラインを眺めて、リンク先に飛んだり……おっと、これではTwitterのタイムラインを読んでいるのとほとんど同じではないですか。だいたいニュースはその日の朝に新聞などで接したものがほとんどで、ここで暇つぶしに読む必要はないのです。

それで、徐々にではありますが、そういう時間を他の作業に使うよう意識するようになりました。例えばいつも通勤時間だけやっているDuolingoで語学の練習に取り組んでもいいし、本や雑誌を読んでもいい。自宅で取っているのとは違う、職場にある新聞を読んでもいいのです。

ともあれ、これまでTwitterにいかに自分の時間を持って行かれていたかが改めてよく分かりました。そういえばかつて、スマートフォンからSNSのアプリをすべて削除して、通勤中にSNSに触れないようにしたら、そのぶんDuolingoなどの語学アプリでの勉強やQuizletでの単語の暗記がはかどるようになったのでした。

主体的に使える自分の時間を取り戻すという点でも、Twitterをやめてよかったと思います。

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_2.html

留学生の日本語劇

この秋から週に一回、三時間ほどの練習を重ねてきた留学生による日本語劇、いよいよ明日が上演日になりました。ダブルキャストなので、キャストを入れ替えながら四回上演します。きょうは教室を利用して劇場に作り変え、最後のゲネプロをしました。

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本来ならばこの日本語劇は学園全体の文化祭で行う予定でしたが、コロナ禍に見舞われてからこちら、こうした大規模な催事はすべて中止になっています。それで内輪の発表会みたいな形で、観客席も大幅に間引いてやらざるを得なくなりました。身内ではないお客さんがたくさん詰めかけることで演技にも熱が入るのでこの点残念ですが、致し方ありません。

以前にも書きましたがこの日本語劇は、留学生の日本語がまだ「発展途上」だからという理由で童話のような平易な内容にする……「のではない」というのを課題のコンセプトにしています。

これは留学生の知的好奇心に応えたものでもあります。たしかに日本語は発展途上かもしれないけれど、ひとりひとりの中にある価値観や世界観はすでに大人のそれであり、そんな大人の留学生のみなさんに「おゆうぎ」のような出し物をやらせるなんて、そしてそれを見て「よくできました」「日本語が上手になったね」などと当たり障りのない感想を返すなんて、失礼じゃないかと。

そうではなくて、容赦ない日本語で書かれた容赦ないセリフを肉体化するまで練習して上演するのです。もちろん留学生ひとりひとりには、こうした課題に対する積極性の濃淡はあります(入学試験時にこうした課題が必修であることを伝え、納得してもらってはいても)。それでも周りの熱心な学生に影響を受けて、徐々に自分の殻を破りつつある人が少なからずいます。

ここまでいろいろな方法で指導なり助言なりをしてきましたが、ここまで来ればもうあとは留学生のみなさんの「器量」に任せるしかありません。明日の本番が楽しみです。圧倒的な日本語の力で、文字通り観客を圧倒してほしいと思います。入場無料です。D館38教室でお待ちしております。

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トレーニングは自分との対話

ジムのパーソナルトレーニングで、インターバルの時間にトレーナーさんと話していたら(カタカナが多いですね)、トレーナーさんが「トレーニングは自分との対話です」と言っていました。はい、名言いただきました。

トレーナーさんいわく、体幹レーニングにせよ様々なエクササイズにせよ、また筋トレにせよ、いずれも人に見せるためのものではないし、ましてや人と競うものではない。数多くの方のパーソナルトレーニングを担当してきた経験からいくと「人と競おうとする方はトレーニングが続かないですね」と。

なるほど、身体を動かす理由は人それぞれで、なかにはダイエットのためとかマッチョになるためなどという理由もあると思います。でもそれを達成することで自己肯定につながっているならまだしも、「人からこう見られたい」という他人目線ばかりが勝ってしまうと、どんな訓練も続かないということなんでしょう。

確かに、他人は自分のことなんて、自分が思っているほど気にもかけていないものです。みなさんご自分の人生を生きることでそこそこ「いっぱいいっぱい」なんですから。だから実際には存在しているかどうかも怪しい他人からの視線を自分のモチベーションにしようとしても、それは弱すぎるんですね。

他人と比べず、自分とだけ向き合う。これは語学にも通じる要諦だと思います。

「トレーニングは自分との対話」だなんて、うっかり誰かに言ったら「なにそのナルシシズム、気持ち悪い」などと反応が帰ってきそうです。だからブログで一人でつぶやきますが、三年間ほどトレーニングを続けてきて、その言葉の意味が本当によく分かります。

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https://www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_40.html

フィンランド語 145 …日文芬訳の練習・その60

先日雨の日の仕事帰りで電車に乗っていたら、高校生の男の子に席を譲られました。次の駅で降りる予定だったので「ありがとうございます。大丈夫です」と言ったのですが、とても新鮮な体験でした。だって、生まれて初めて電車で席を譲られたんですから。そのときは両手に荷物があり、傘を杖のようについていました。しかも私は白髪まじりで、顔もマスクで覆われています。それで彼にはとってもくたびれたお年寄りに見えたんでしょうね。いや、仕事帰りで実際に疲れ果てていたんですけど。


Äskettäin kun olin tulossa töistä junalla sadepäivänä, eräs lukiolainen poika antoi minulle istumapaikkansa. Olin halunnut jäädä seuraavalla asemalla pois junasta, joten sanoin: "Kiitoksia paljon, mutta olen nyt kunnossa". Mutta se oli minulle hyvin uusi kokemus. Koska se oli ensimmäinen kerta elämässäni, että minulle annettiin paikka junassa. Tuolloin minulla oli laukut molemmissa käsissäni ja käytin sateenvarjoa niin kuin keppiä. Lisäksi olen jo harmaahiuksinen ja kasvoni on peitetty maskilla. Hän lienee arvannut, että olen erittäin väsynyt vanha mies. Kyllä, itse asiassa olin aivan uupunut töiden jälkeen.


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学生のプレゼンをその場で訳す

留学生の通訳クラスで、今年度後半の授業開始時にこんな動画を使ってみました。オーストラリア在住の華人が、ご自身の好きな推理小説をお勧めするというYouTube動画です。

youtu.be

東野圭吾氏など日本の推理小説作家の話が出てきて、学生も楽しんで訓練していたようなので、これにヒントを得て、こんどは学生がひとりずつ自分がお勧めする本を紹介するプレゼンを中国語で行い、それをその場で日本語へ通訳するという課題を考えてみました。

最初は、ひとり10分から15分ほどのプレゼン時間を設定して、事前にグロッサリーやプレゼン用スライド資料なども提供してもらい、1回3コマある授業のうちの1コマをこの課題にあてようと考えていました。逐次通訳を入れてもひとりあたりだいたい30分ですから、毎回の授業で2人ずつプレゼンしてもらえると考えたのです。

ところが学生のみなさんは予想外に(失礼)とても充実した準備をしてきて、ひとりひとりの話も制限時間を大幅に超えてかなり長くなり、年内最後の授業日である昨日までかかってようやく全員の発表が終わるという結果になってしまいました。当たり前ですけど、中国語母語話者である留学生のみみなさんが中国語で語るとなると、乗りに乗ってしまうわけです。おかげで予定していた課題が大幅に先送りになってしまいました。

それに、中国語で発言して、それを日本語に訳すだけでなく、その訳出に対して私があれこれアドバイスやレビューをする時間もあります。それで予想以上に時間を使ってしまったわけです。ただ私としてはこの課題、とても学生のためになったと思いますし、私自身にとっても良かったと思いました。

学生のためになったというのは、まず、やはりみなさん自分の興味のある、そして人にぜひ勧めたい一冊ということで、事前準備に力が入るという点です。人前で話す以上、自分の話したいことを整理して、より分かりやすく人に納得してもらえるように話す工夫も必要で、これは通訳訓練で大切な「パブリックスピーキング」の練習になります。

また訳す側の学生も、クラスメートが一生懸命喋っているので、それをちゃんと訳してやろうというモチベーションが生まれるようだという点。普段使っている教材もそれなりに工夫して面白くしてはありますが、どこの誰だかあまりよく知らない人の話を訳すより、親しいクラスメートの話を訳す方が「身が入る」ということなのでしょうか。まあ実際に仕事で通訳をするときは、その「どこの誰だかあまりよく知らない人の話」を訳すことが大半なのですが(だから予習に力を入れます)。

そして私のためにもなったというのは、訳出に対するアドバイスやレビューの緊張感が半端ではないという点です。普段の教材は多かれ少なかれ、事前にディクテーションして文字起こしした原稿を作っておけますが、今回は教師の私も「ぶっつけ本番」で、当日その学生が何を話すのか事前にまったく分かりません(予習段階である程度予想はつきますが)。でもこれも、実際の通訳の現場ってそもそもそういうものです。

もちろん教育というフィールドでは、指導するポイントなどを把握するためにも事前にスクリプトを用意したほうがいいのですが、時にはこうやって教師自身の実力を試されるような課題もいいなと思いました。なにせ中国語母語話者が容赦なく中国語で話すその内容を、中国語非母語話者の私が聴き取って、さらに学生の訳出も聞いて、原発言との齟齬や欠けている部分などを指摘するというわけで。

学生のプレゼンと訳出の双方を聞いていて改めて思ったのは、みなさん中国語での思考はとても深いものを持っているんだなということです。当たり前すぎるくらい当たり前なのですが、普段は日本語方向への訳出ばかり聞いているので、どうしても母語ではない日本語の、いろいろな不備ばかりが突出してしまって、ついついみなさんの言語的な力を軽く見てしまうバイアスがかかります。

「日本語の拙さと、その人の知性はリンクしない」というのは、私たち教師が常に肝に銘じていることではありますが、ついつい忘れがちになってしまう。それを改めて気づかせてくれたという点でも、この課題はとても意義深かったなと思うのです。

qianchong.hatenablog.com

ところで余談ですけど、上掲のYouTube動画でこのYouTuberさんはこんなことをおっしゃっています。

其實我個人收藏了很多東野圭吾的小說的txt版本。我會把它分享到百度雲盤給大家。它是會放在下面的資訊欄裡,如果有興趣的朋友可以去看一下。


実は私、東野圭吾の小説のテキストバージョンをたくさん持っています。百度(中国の検索サイト)のクラウドドライブでみなさんとシェアしますので、興味がある人は動画の下にある概要欄を見てくださいね。

ちょっとちょっと、それはアカンでしょ……。

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ゲームの世界に入り込めない

留学生の通訳クラスで、ボキャブラリー増強のためにいろいろなジャンルの言葉を中国語と日本語の両方で集め、覚えています。先日は趣味に関する語彙をみんなでシェアしたのですが、やはりいまどきの留学生のみなさんは、ゲームが大好きという方が多いようです。

集めた語彙を使って日本語の会話練習もしたのですが、そのなかでいわゆる「課金」をしていますかという設問にたいして、ほとんどの人が「している」と答えていたのが印象的でした。私自身はゲームというものをまったくといっていいほどやってこなかった人間なので、ほとんどの方の暮らしにゲームがここまで大きな存在になっているという事実に、いまさらながら驚きました。ほんとに「いまさらかよ」という感じですが。

そういえば、通勤電車の中でもスマートフォンでゲームをしている方は多いです。先日、夕飯を作りながらテレビを見ていたら、NHKの『突撃!カネオくん』という番組で「大注目!eスポーツのお金の秘密」という特集をやっていました。ここでも私は驚いたのですが、いまやゲーム市場というのはとてつもなく巨大な産業に成長しているんですね。これも「いまさらかよ」ですが。

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最近新しい通訳教材をいくつか平行して作っていて、そのひとつに中国の某スマートフォンメーカーの新商品発表会の内容があるのですが、そこでもスマートフォンの機能の一つとして、動画の再生能力がかなりの時間を割いて語られていました。もちろんストレスなくゲームの動画を再生できる高い能力をユーザが求めていることへの対応でしょう。


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ですから、発言者の使う語彙にもゲーム関係用語がたくさん使われています。一例を挙げれば“英雄联盟“で“组排”して“上分”することが楽しい……とか。音は聴き取れてもそれが何を表しているのか、ゲームに何の知識もない私はさっぱり分かりません。いろいろと調べ回って、どうやらこれは「リーグ・オブ・レジェンド」というゲームにおいて「フレックス」(チームモード)でランクアップすることを表しているみたい。……って、それがどんな意味を持つのかさえ私には曖昧ですが。

まあ通訳者の仕事は「専門家ばかりが専門的な内容を話しているところに『ひとりだけ門外漢』が出て行って、二つの言語でその専門的な内容を話す」という「無理筋」なところが常にあるので、現場ではなく教材の一環だとしても、やっぱり調べて学ぶ必要があります。そしてこれから先も、こうした語彙は増え続けていくのでしょうね。ゲーム業界が右肩上がりなのであれば、なおさらです。

だったら自分も少しはゲームをやってみればいいんですけど、どうも食指が動きません。実は私もそこそこ新しもの好き、ガジェット好きなので、かつては手を出したことが、それも何度もあったのです。でもその都度すぐに飽きてしまって、どうしてもその面白さに入り込むことができませんでした。

留学生のみなさんがほぼ例外なくゲームに親しんでいるのを見て、ここでもまたちょっとした疎外感を味わっています。まあみなさん、自分の子供くらいの年齢の方々なので、そもそも同列に並ぼうというのが無謀な話なのですが。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

最近、仕事でも私生活でもいろいろと「捨てる」場面が続いて、さびしいような、でもその一方でさっぱりしたような、不思議な感覚にとらわれています。ものを捨てる、いわゆる「断捨離」みたいなのは、私はけっこう抵抗がなくて、あまり執着せずにぼんぼん捨てることができる性格ですが、人間関係が絡むような仕事の中身とか暮らしのあれこれなどについては、それこそ相手もあるわけで、そう単純ではありません。

私は若い頃から転職や失業を繰り返してきたので、人間関係にすらあまり執着しないタイプの人間だとは思いますが、私だってそれなりに悩むんです。誰もあまり信じてはくれませんけど。そんなときにいつも思い出すのは、最初に転職、というか職場の人間関係がとことん悪化して辞職せざるを得なくなったときに、ある方から言われた「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉です。

当時私は、熊本県水俣市で働いていたのですが、この言葉をかけてくださったのは私が勤めていた財団の理事だった地元の漁師さんでした。「板子一枚下は地獄」ということわざがあるくらい、漁師さんの仕事は危険と隣り合わせなのですが、その彼が言う「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」だけに、そこには漁師さんの人生に裏打ちされた強いリアリティが感じられました。

彼が私に諭そうとしたのは、職場の人間関係で煮詰まっているようだけれども、自分のこだわりや執着のようなものを思い切って捨ててみたら、また新たな展開が生まれるんじゃないか、だからぜひ辞めないでここに残って、さらにいい仕事をしてほしい……ということだったと思います。でも若い私は逆に、ここで思い切って退職して、まったく違う天地を見つければいいんじゃないかというふうに受け取ったわけです。

結果的には、そうやって退職した後、東京に戻り、それまでとはまったく違う仕事をしながらいまに至っているわけで、あそこで捨てていなかったら、つまり決心していなかったら、まったく違う人生になったと思います。だから後悔はまったくないのですが、ただ「捨て方」についてはもう少し智慧があってもよかったかなと、いまさらながらに思います。

手元の辞書には「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」について、こんな語釈が載っています。

自分の命を捨てる覚悟があって、はじめて窮地を脱し、物事に成功することができる。(学研国語大辞典)

確かにその通りなんですけど、ただこの語釈は、ややアグレッシブにすぎるというか、強い精神の側面を強調しすぎているようにも思えます。あるいは自分の利益だけにフォーカスしすぎているというか。むしろ私は、あの漁師さんがこの言葉をかけてくれたときのように、一歩引いて自分を見つめてみる、あるいはひとつ階段を降りてみる、こだわりや執着を解き放ってみる……といったような、引き算のベクトルこそこの言葉が本来持っているものではないかと思うのです。そこには自分を含む周囲の人々への目配りも内包されているような気がして。

そして、たまたま最近「捨てる」場面が続いた私にとっては、ことのほかその意味するところが身に染みるように感じられるのです。

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