インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オンラインの会議や授業がつらい

私がいまメインで勤めている学校は、系列の大学や専門学校などがひとつのキャンパスにまとまったているところです。その大学では最近、感染状況が落ち着いてきたことを受けて、学生さんはもちろん、学生さんの親御さんからのクレームが急増しているという話を聞きました。「いつまでオンライン授業をやっているんだ」というクレームだそうです。

大学や専門学校はオンライン授業をやらざるを得ない

コロナ禍に突入してからこちら、私たちの学校でもすでに一年半以上もオンライン授業や、オンラインと対面を組み合わせたハイブリッド授業が続けられています。公立の小中学校など、主に地域の児童や生徒が集まってくる環境とは違い、大学や専門学校は様々な場所から教職員が日々集まり、また散っていきます。授業もコマごとに教室を移動し、そのたびに不特定多数の人々との新たな接触が繰り返されるので、感染のリスクはかなり大きいと考えられます。

加えて大学や専門学校は、キャンパス周辺の地域社会との関係にも極めて気を使っています。成人している学生も多いので、飲酒や喫煙などのマナーに加え、「サークル活動の音がうるさい」とか「歩道でスケボーをしている」など、規模の大きい学校組織ほど日々様々なクレームが入ります。そんな中、不用意に対面授業を全面再開して万一クラスターでも発生させたら、目も当てられません。というわけで現時点ではオンライン授業も相当の割合で利用せざるを得ないのです。

一方で学生やそのご家族からすれば、高い授業料を払っているのにどう贔屓目に見ても「目減り感」が否めないオンライン授業でお茶を濁され続けるのは納得がいかない、というのもよくわかります。本来的に実習を多く伴う学科ではよりその不満は大きいでしょう。

それでも私が所属している部門は、学生の全員が外国人留学生なので、親御さんやご家族から強烈なクレームが寄せられるということはまずありません。いわゆる「モンスター○○」というような存在に頭を悩ませることは極めて少ないのです。以前勤めていた学校ではこの「モンスター」への対応に苦慮した経験もたくさんあって、だからこの点では(他部門の同僚には申し訳ないけれど)ちょっと安堵しています。

オンライン授業は苦手だと正直に言おう

ただ、私自身もこの一年半あまり、かなりの時間をオンライン授業の開発と実践に費やしてきましたが、もうそろそろ自分の限界かなと感じ始めています。これまでは、こうした新しい世の中の動きや試みに対応できなくなったら、それこそ「老害」の始まりではないかと自分を叱咤してきたのですが……もう正直に言いましょう。

私はオンライン授業が苦手です。オンラインでも変わらぬ教育の質を提供できないのは怠慢なのかもしれません。でも自分の授業でオンラインをこれ以上続ければ、自分の心を病むと感じています。それでもやれと言われたら……そのときはもう辞職するしかないかなと、そこまで煮詰まってきています。

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https://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_9196.html

オンライン授業の何がそんなに苦手なのか。通勤通学の時間が省けるし、全員が資料やスライドを平等に見られるし、音声や映像も平等に届きます(教室だと見えやすい見えにくい、聞きやすい聞きにくいなどいろいろと「濃淡」が生まれます)。遠隔地からも参加できて、これまで受講のチャンスがなかった人にとっては福音です。そして何より、オンライン授業のためのソフト・ハードも急速に充実してきている。コロナ禍を奇貨として、新しい教育のあり方を模索する絶好の機会ではないか。私もそう思っていました。つい最近までは。

オンラインに欠けている「空気感」

でも、最近になって、そういうポジティブかつ意識の高い肯定論にかき消されてしまいがちな、様々な欠点がどうしても気になり、なおかつそれがどんどん膨らんで来るような気がしています。学生全員がミュートにしている中で、反応のない虚空に声を投げかけ続けるような孤絶感と徒労感については、すでにブログで何度も書きましたから繰り返しません。それは私の側の問題ですから、仕事である以上なんとか我慢する必要はあります。

しかし学生側にもデメリットがあります。それは通常の教室での授業が持っている「空気感」です。教室での「多くの学生」対「教師」という構図はオンラインでも変わらないのですが、そこにはリアルな空気感、あるいはともに同じ空間を共有しているという一体感のようなものが欠けています。私はこれがかなり授業の質に影響するように感じています。

一方的に講義を拝聴するような授業ならまだしも、私が担当しているような通訳実習系の授業では、やはりその場に身をおいて、周りの人々の存在感や息遣いの中で自らのスキルを向上させていく必要があると思うのです。オンラインでも他人の存在を感じることはできますが、いつでもボタン一つでその場から退出できるという留保を有している(実際にそれをする人はいないにせよ)ことそのものが、パフォーマンスに大きな影響を与えているように思えるのです。

こういう言い方をすると身も蓋もないのですが、リアルな教室の授業であれば、教室に足を運んで来ているという段階で最低限のモチベーションは確保されています。実際には「だるいなあ」と思って登校してきていても、そこに身に置いているだけでなにかの学びを起動させるベースはある。でも自宅の自室からのオンライン授業では、そのベースすら常に心もとない状態にあります。身も心も学びモードに完全に切り替わることができないように思えるのです(これは自分が学生として参加しているオンライン授業でも感じます)。

また教室では「学生←→教師」というインタラクションの他に、「学生←→学生」という横のインタラクションも不断に生まれます。これが案外学びに大きな役割を果たしていることを実感してきました。教師とのインタラクションとともに、教師に内緒で「これってどういう意味?」とか「こういうこと?」「そうじゃない?」「ちょっと静かにしなさいよ」「センセは○○って聞いたんだよ」みたいな小さなやり取りが有機的に広がっている……こういうのが、特に実習系では授業に厚みや温かみをもたらす大きなファクターになっているように思うのです。

いずれも私が個人的に感じているだけで、何の証拠もありません。でも先日、外国人留学生の通訳クラスの対面授業で、私が概略上述のような話を簡単にしたところ、留学生のみなさんがこれまで見せてくれたことがないような「やれやれ」というか「うんざり」といった顔つきをして、ちょっと苦笑いしながら「そうですね、オンライン授業は本当に嫌です」と口々に言っていました。

私はちょっと意外でした。学生はオンライン授業のほうが楽だと思っている、と思い込んでいたからです。でもよく考えてみれば、その国やその国の言葉が好きでわざわざ現地に留学したのに、授業の大半がオンラインだったら「一体私は何をしにここへ来たのか」と思いますよね。

もともと苦肉の策だった

余談ですが、オンライン授業やオンラインミーティングの普及に伴って、そのデメリットを補うための様々な「活性化」Tipsをよくネットで見かけます。昨日拝見したのはこちら。

note.com

いろいろな方が「活性化」のために努力されていて、困難な状況でも何とか物事をよい方向に進めようとするその努力には本当に頭が下がります。そして自分も曲がりなりにもそういう努力をしてきたつもりでした。でも最近、こうした気遣い・気配り自体にとても疲れている自分を隠せなくなってきてしまったのです。たった一年半あまりの実践でもう音を上げているなんて情けないぞと言われるかもしれませんが。

最近では、オンラインミーティングの、全員の顔が縦横のグリッド状に並んでいて、みんながこちらを見ているというあの不自然な画面にもひどく違和感を覚えるようになりました。「新しい日常」においては、もやは普通の風景になりましたけど、アレってよくよく考えてみたら、かなり異様な光景です。……やはりずいぶんメンタルを病んでいるのだと思います。

オンラインでの会議や授業は、当初こそ働き方改革や教育改革の切り札としてずいぶんもてはやされましたけど、そして分野や部門によってはそれは今でも正しいのでしょうけど、すべてがそれで解決するわけでもないという、考えてみれば当たり前の結論にようやくたどり着きました。もとはといえばオンライン会議やオンライン授業は、コロナ禍への対応で考え出された苦肉の策だったのです。実践を経て、向き不向きが明らかになりつついま、元の姿へ回帰する動きもこれから活発になってくるのではないかと思っています。

袋がまったくなくて清々しい

買い物をするとき、とくにスーパーのレジであの「薄いビニール袋」との戦いをえんえん繰り広げてきた私。最近はいずこのスーパーでも白いレジバッグこそ有料になりましたが、あの薄いビニール袋はあいかわらず大量に消費されています。野菜も生鮮品のパックも、へたをするときちんとパックしてある冷蔵品も(豆腐とか漬物とかね)片っ端から薄いビニール袋に放り込まれてしまうので油断なりません。

さらにあの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い - インタプリタかなくぎ流
あの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い - インタプリタかなくぎ流
ふたたびあの「薄いビニール袋」について - インタプリタかなくぎ流
あの「薄いビニール袋」を何とか避けたい - インタプリタかなくぎ流

レジではいつも「その袋、要りません」というタイミングを計りながら会計を待っていて緊張しているのですが、先日それとは真逆の買い物体験をしました。アウトドア用品の「パタゴニア」のお店でのことです。

www.patagonia.jp

昨年、冬服を大幅に断捨離して、まだ着られそうなものは地域のコミュニティに寄付したのですが、うっかり断捨離しすぎてこの時期に着ていた薄手のダウンジャケットまで寄付してしまいました。寄付した覚えはなかったのですが、どこを探しても見つからないのです。断捨離って、勢いがつくと大胆になりすぎるんですよね、私の場合は。

それでたまたま通りかかった渋谷のパタゴニアで一枚買い求めました。こうやって何度も買い直しているようでは結局は大量消費につながって、ちっとも環境負荷を減らせていませんが。それはともあれ、かねてより仄聞していた環境への意識の高い同社の直営店、買い物をしている最中から店員さんが「このままのお渡しになりますが、よろしいですか」と何度もたずねられ、実際レジで会計したあとは、店員さんが手慣れた手つきでダウンジャケットをくるくるっと丸めて、こんな形で手渡してくれました。

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というわけで、このラグビーボールみたいな物体を抱えて、家に帰りました。まあこれはこれで「こういうものだ」と思ってしまえばなんということもないですね。いっそ清々しいとさえ言えます。

言葉を発見したからこそ続く

ふっつりとお酒を飲まなくなってから、きょうで90日になります。3ヶ月もお酒を飲まなかったのは、もちろん初めて。そして、あんなにお酒が好きだったのに、いまでは不思議なほど「飲みたい」と思わなくなりました。

ここ10年ほど血圧が高くなってきたので、もう長いあいだ休肝日を設けなきゃとか節酒しなきゃなどとあれこれ試してきたのに、一度も続きませんでした。なのにどうして今回に限ってあっさり成功できたのかがいまだに謎なのですが、ひとつだけ思い当たることがあります。

それは「ソバーキュリアス(Sober Curious)」という言葉に出会ったことです。これは「しらふでいることへの興味」、つまりお酒を飲んでいる状態よりも飲んでいない状態の方により積極的な価値を見出すというものですが、「あえて」しらふでいるというのがポイントです。私はこの言葉に『「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本』で出会いました。

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体質的にお酒が飲めない人がいますが、私はそうではなく、いまでも飲もうと思えばそこそこ飲めます(歳をとって量は減りましたが)。それでもあえて飲まないことを選ぶ、というプラスの動きを持つ心の持ちようなんですね。禁酒とか節酒が「〜しない」というマイナスの動きであるのと対照的です。

しかも、例えば誕生日とかなにか大切な記念日とか、そういうときには飲むのもオーケーじゃないかというスタンスです。これから一生飲まない・飲めないとなると、なかなかそれに踏みきり、かつ習慣化するのは難しいですが、「いつでも飲もうと思えば好きなだけ飲める、ただ、いまは飲まないでいる状態に興味があるだけ」というスタンス、そういうソバーキュリアスだからこんなに「するっ」と習慣化することができたのだと思います。

だから今後なにかの折にはまた飲んでみたいと思っています。そのときに果たしてお酒がどんな味がするか、実はけっこう楽しみです。もうその頃にはすっかりお酒を飲まない状態の身体になじんでしまっていて、ひょっとすると「なんだ、お酒って全然おいしくない」と思うとか、ことによると体調を崩すなどということもあるかもしれません。でもそうなったらそうなったで、今度はもう一生飲まないほうにシフトすればいいのです。

飲んでもいいし飲まなくてもいい。そういう気楽なスタンスの「ソバーキュリアス」だからこそ成功したのだと思います。でもこの言葉を知る前と知る後はいずれも同じ私です。ただこの新しい言葉を付しただけで、ここまで行動の変容が起こってしまう。レベッカ・ソルニット氏は『それを,真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力』のまえがきで「ものごとに名前をつけるのは、解放の過程の第一歩だ」と言っています。

課題が深刻なものである場合、それを名付ける行為は「診断」だと私は考える。診断名がついた病のすべてが治癒可能というわけではないが、何に立ち向かっているのかをいったん理解できれば、それにどう対処するべきかがはるかにわかりやすくなる。

これは本当にすごいことですし、言葉の力というものを改めて実感しているところです。

発表会の非日常

きょうは一年に一回のお能の発表会です。今年は五月に国立能楽堂で大きな会が催される予定だったのですが、ちょうどコロナ禍の緊急事態宣言が発令されたところで、直前で中止になってしまいました。その日のためにお稽古していた舞囃子『邯鄲』は来年以降に「お預け」となって、きょうはその後からお稽古を始めた仕舞『船弁慶』のキリです。初めての薙刀ですが、まあ楽しんでこようと思っています。

ところで今日は会のはじめに連吟で『松虫』を謡ったので、早朝から能楽堂の控室で黒紋付に袴で控えていました。そして謡い終わったら夕方の自分の出番までずいぶん時間が空いてしまうので、他の人の発表をみたり、こうしてお昼を食べがてらカフェでブログを書いたり、ちょっとした残り仕事をしたりしています。最近はなぜだか本当に忙しかったので、こうやって気ままに時間を過ごすのは久しぶりです。

素人の発表会ですが、仕舞の地謡舞囃子のお囃子はほとんどが玄人の先生方なので、お師匠方はきょうは朝から晩までお忙しそうです。お仕事だからそんなに苦にもされていないと思いますが、それでもあまたいるお弟子さんの一つ一つの演目に気を配って一日を過ごすのは大変だと思います。こちらはこうやって呑気な一日をすごしていますが。

お昼も食べたので、もうそろそろ能楽堂に戻ろうと思います。そして再び紋服を着て、気持ちを本番に向けて高めていくのです。カフェでソイラテを飲んでいるいまから数時間後には能楽堂薙刀振り回しているというのも、考えてみればかなり非日常な体験です。年に一回か二回こうした機会を持つのは、日常に飽いた自分にとってはとても大切なのではないかと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

フィンランド語 137 …日文芬訳の練習・その56

とある日本語学校の先生と話をしていて「中国人留学生がよく舌打ちするんだけど」という話題になりました。日本人にとって舌打ちは「不満」や「不快」を表すサインですから、かなりインパクトがあります。でも中国人にとっては、ほとんど言葉の息継ぎや句読点みたいなものです。さらに相手を賞賛するときや、何かに感嘆したときなどに連続して舌打ちするなど、私たちとはかなり異なる「文化」を持っています。個人的にはこれは中国人に対する誤解や偏見の大きな原因になっているのではないかと思っています。


Keskustellessani erään japaninkielikoulun opettajan kanssa tuli aiheen, jonka mukaan kiinan opiskelijat napsauttaisivat usein kieltään. Japanilaisten mielestä kielen napsauttaminen näyttäisi jollekulle valituksia tai mielipahoja, joten niillä on liian tehokas. Kun taas kiinalaisten mielestä ne ovat vain pieniä henkäyksiä tai välimerkkejä. Lisäksi heillä on “kulttuuri”, joka on hyvin erilainen kuin meidän. He napsauttaisivat peräkkäin kieltään heidän ihaillessaan ihmisiä tai ihmetellessään jotain. Mielestäni ne lienevät olleet suuria väärinkäsityksiämme ja ennakkoluulojamme kiinalaisille.


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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_820.html

村上春樹氏の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をめぐる「10年で変わったこと・変わらなかったこと」

加藤典洋氏の評論集『村上春樹の世界』を読んだので、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読しました。確かこの前読んだのは東日本大震災の年だったと覚えているので、ちょうど10年ぶりで読み返したことになります。

この小説を最初に読んだのは大学生だった20歳のころで、所属していたサークルの友人が勧めてくれたのでした。彼はとても頭がよくかつちょっとシニカルなところがある人で、いまから思えば「ハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる「私」に雰囲気が似ていました。それから何度も再読しています。それだけ好きな作品だったわけです。ただ今回読み返してみて、前回までとは少々異なった読後感を抱きました。

心に沁みるパートが変わった

まず二つの物語が交互に平行して進む形式のこの作品のなかで、私はずっと「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうが好きでした。計算士である「私」の冒険譚、「老人」と「ピンクのスーツを着た太った娘」のギミック感たっぷりな研究施設、そこここで詳細に描写される衣食住へのこだわり、大真面目に語られるがゆえにユーモア感が醸し出される比喩、そして脳内の意識のありように関するさまざまな説明。

東京が舞台ということで、東京に住んでいる自分にとっては一層リアリティが増しましたし、インターネットもスマートフォンも出てこず、逆にまだカセットテープなどが使われているのに(1985年の作品です)それほど古びた感じもしません。30歳代で妻に出て行かれた「私」の境遇や、孤独を愛する心情なども、自分にかなり近しいものを感じていました。

でもいまもう一度読み返してみると、「世界の終わり」のほうがいちだんと心に沁みるように感じられたのです。壁に取り囲まれた街のなかで一角獣の頭骨から「古い夢」を読む「僕」が遭遇する数々の出来事、人との交わり、風景や自然の描写、そして結末の静かな、しかし決然とした「僕」の行動……。年を取り、大都市にいささか疲れ、様々な現実と折り合いをつけ、お酒を飲まなくなったからなのか、「僕」のたたずまいにより自らを重ねやすくなっている自分を発見してしまいました。10年前までは「世界の終わり」の細やかな心情描写や風景の説明などが何となく冗長に思えてさっさと読み飛ばしていたのに。

加藤典洋氏は「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」をめぐる終幕について「きっと年のせいかもしれないから、人には強く薦めない。しかし元気のないときには、これは読んで心に沁みる小説である」と書かれていました。「世界の終わり」の「僕」の終幕は、元気のないときに読むとよけいに深みにはまるかもしれませんが、今の自分にとってはやけに「心に沁みる」のです。

村上春樹氏は1949年のお生まれだそうですから、この作品を書いたときは36歳ですか。自分が36歳の時には、こういう世界はまだほとんど心に沁みていなかったと思います。

フィンランドとのつながり

ほかにも細かいところで発見がありました。私がこの10年の間に新しく始めたことのひとつにフィンランド語があるのですが、この作品にはフィンランドフィンランド語が何度か登場します。これも以前読んだときにはあまり気にも留めていませんでした。

地下世界で邪悪な存在に惑わされ、つい眠り込んでしまった「私」。そのきっかけは前を歩く「娘」のゴム底靴の響きだったのですが、それは“Efgvén - gthǒuv - bge - shpèvg - ègvele - wgevl”と聞こえてきます。これについて「私」は……

まるでフィンランド語みたいだったが、残念ながら、フィンランド語について私は何ひとつ知らなかった。ことば自体の印象からすると「農夫は道で年老いた悪魔に出会った」といったような感じがするが、それはあくまで印象にすぎない。根拠のようなものは何もない。

……と言っています。わはは、確かにフィンランド語とはまったく違いますけど*1、ここではどこか遠い国、日本の東京とはまったく違う風土をイメージされたんでしょうね。私はこのくだりをなぜか「ギリシャ語の活用」だと記憶してしまっていました。たぶんほかのところで出てくる老後は「チェロとギリシャ語を習ってのんびりと暮らす」という記述や、村上氏ご自身がギリシャに滞在されていたことなどと混同していたんでしょうね。

終幕近くで「老人」はフィンランドに新しい研究室を作ったという話が出てきます。また後年の村上作品『多崎つくると彼の巡礼の年』でもフィンランドが登場します。読んだ当時はそんなディテールにほとんど引っかかりませんでしたが、いまは当然ながらとても引きつけられます。そういう小さな変化も今回の再読における発見でした。

女性に関する記述

それからもうひとつ、今回読んで大いに引っかかったのは、女性に対する記述です。これは多くの方が論じておられますが、私も大変遅まきながら、かなり抵抗を覚えました。村上氏の作品には特徴的な傾向だとはいえ。学生時代にアルバイト先で知り合った津田塾の学生が村上作品をとても嫌っていて、その学生は「自分がカッコよくてセックスがうまいことばかりひけらかしている」とにべもない酷評をしていました。当時の私は「またなんと表面的な受け止め方だろうか」と思いましたが、いまになってみるとその憤りは分かります。この十年で、ようやく私もそういう認識に達したのかと思うと、やはり自分の中にあるバイアスの大きさに愕然とせざるをえません。

とはいえ、個人的には、この作品ほど再読を重ねた小説はありません。作品的には終末でかなり都合よく世界が完結し、この点村上氏ののちの作品よりも分かりやすいですし、ある意味「若作り」な感じがしないでもない。でも私は、ある種の静謐感と叙情性を持つこの作品は、村上氏ご自身にとっても今後必ずしも超えることが容易ではない高みを示した不世出の傑作ではないかと思います。たぶんまたいつか読み直すことでしょう。そしてその時にはまた新しい発見があるのかもしれません。

各言語版

ちなみに私、旅行したときにその国の書店に寄ってこの作品の翻訳版を探して買い求めるのがささやかな趣味です。予めネットで調べるなどとつまらないことはせず、大きな書店の外国文学コーナーに行ってあるのかどうかもわからない状態で(大抵ない)探すのです。いままで見つけて買ったのはこの写真にあるだけ。すべて現地の書店で見つけて買いました。

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タイトルの異同が面白いです。左上から時計回りにイタリア語版 “La fine del mondo e il paese delle meraviglie” 、直訳すると「世界の終わりと不思議の国」ですか。

英語版は“Hard-boiled wonderland and the end of the world”で、日本語と順番が逆になっています。原作は確かにこの順番で交互に物語が展開しますから正しいといえば正しいです。なぜ村上氏は「世界の終わり」を先にしたのでしょう。もっとも私は最後に「ハードボイルド・ワンダーランド」と脚韻が畳み掛けるようなこの語感が好きですが、それは単になじんでいるからだけなのかもしれません。

デンマーク語版は“Hardboiled wonderland og verdens ende”「ハードボイルド・ワンダーランドと世界の終わり」※順番は英語版と同じで、何故か前半だけ英語をそのまま使っています。「ハードボイルド」と「ワンダーランド」の組み合わせがあまりに和製英語っぽくてデンマーク語にあえて寄せなかったのかしら。

中国語の簡体字版は北京の書店で買いました。“世界尽头与冷酷仙境” ですけど、“尽头”は「行き止まり」とか「さいはて」とか、そんな漢字の言葉。それから、なるほど「ハードボイルド」は冷酷なイメージですか。でも中国語の“酷”は「クール」な感じもあるので合っています。“仙境”は、なんだか山水画の中に白いひげのおじいさんでも出てきそう。

台湾の台北で買い求めた中国語の繁体字版は“世界末日與冷酷異境”と、簡体字版とほぼ同じ。個人的な語感に過ぎませんが、この繁体字版のほうがいくぶんそっけなくて詩情や湿っぽさみたいなものが少なく、原作の雰囲気にはかえって親しいように思います。

フランス語版は“La fin des temps” ですから「時の終わり」。たったそれだけ? この独善感! でも表紙は一角獣とエレベーターでいいところをおさえています。

フィンランド語版は“Maailman-loppu ja ihmemaa”「世界の終わりと不思議の国」。でも「不思議の国」というと、私などどうしても“Alice in the wonderland”を思い浮かべてしまうので、実際この作品で展開される東京地下の「ワンダーランド」とはかなりイメージが違うようにも思えます。その意味では台湾の“異境”が近いでしょうけど、そうすると今度はちょっと原作の冒険小説っぽいところやスタイリッシュなところが消え失せてしまいます。結局英語版(はまあ当然として)デンマーク語版のようにそのまま和製英語を拝借しちゃうのが一番無難なのかもしれません。

今後も海外で、初めて訪れる国があったら、このささやかな趣味を継続したいです。

※この記事は、はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」への投稿です。

*1:Viljelijä tapasi vanhan paholaisen tiellä.

はてなブロガーに10の質問

はてなブログ10周年特別お題「はてなブロガーに10の質問

ブログ名もしくはハンドルネームの由来は?

インタプリタ」は「通訳者」です。私は通訳者としてはデビューが40歳代になってからと遅く、偉大な先達を仰ぎ見ながら常に三流であることを痛感していたので、粗野な筆跡になぞらえて「かなくぎ流」と自虐的なブログ名をつけました。

はてなブログを始めたきっかけは?

はてなブログの前身の「はてなダイアリー」がスタートでした。当時台湾に長期派遣で赴任していてとても緊張を強いられる(でも楽しい)毎日だったので、日々のあれこれを日記的に書こうと思って始めました。最初の頃のきわめてプライベートなエントリは消してしまいましたが、始めたのはたしか2003年だったと思います。

自分で書いたお気に入りの1記事はある?あるならどんな記事?

qianchong.hatenablog.com
書いたときには「こんなことを考えているのは私だけかも」と思いましたが、その後同じようなことを書かれている方がけっこういらっしゃることに気づきました。だからあまり独自性もないですし、ましてや学術性など皆無ですが、書いた時点では徹頭徹尾自分の体験のみから抽出した「ヒント」だったので、とても思い出深いです。

ブログを書きたくなるのはどんなとき?

ここ数年は「ボケ防止」も兼ねて、必ず毎日書くようにしています。今日で連続1410日目になりました。

下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?

仕事が語学関係なので、語学や語学教育に関して考えたことを下書きしています。……が、ほとんど論旨がまとまらなくて「ボツ」にしています。最近はアウトライナーでささっと書いて、編集画面にコピー&ペーストし、「はてな記法」で整えることがほとんどになりました。

自分の記事を読み返すことはある?

めったにないですけど、どなたかがSNSやブログなどで引用してくださったときに読み返します。「こんなこと書いていたかな」と思うことも多いです。

好きなはてなブロガーは?

購読リストに入っていて、更新数が多いので定期的に拝読しているのは「脇見運転」さんと「愉快的陳家@倫敦」さんで、このお二方は「はてなダイアリー」の頃から読んでいます。あと最近は沖縄の、特に離島に興味があるので「さんぺいの沖縄そば食べ歩き」さんも毎回楽しく拝見しています。

はてなブログに一言メッセージを伝えるなら?

記事を書きやすいインターフェースをありがとうございます。ブログのデザインや設定の部分はいまとなっては分かりにくい・使いにくい部分がありますけど、そのぶんさまざまなデザインを楽しみたい各ブロガーの個性を尊重されているのだと理解しています。

10年前は何してた?

いまとは別の職場で、かなり仕事に煮詰まっていました。周囲からも徹底的に批判され、とてもつらい時期でした。10年経ったいまは、とても幸せです。身体の衰えは、それはもうとんでもないくらいに進行していますが。

この10年を一言でまとめると?

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」かな。30歳前で失業したときに言われた言葉ですが、その時はよく分かりませんでした。この10年ほどで、やっと実感を伴って「こういうことかな」と理解できるようになりました。

退職後のことを考える

私と同い年の知人はパートナーがアメリカ人で、日本の大学で英語を教える仕事をしてこられたのですが、今年度いっぱいで完全に退職することにしたそうです。もともと歳を取ったらもうあまり働きたくないというお考えだったようですが、それ以上に英語が必要ない、あるいは英語に興味がない日本人に英語を教えるのに疲れてしまったのだとか。

確かに、学ぶ気のあまりない人に教え続けるというのは、こちらの心を蝕むんですよね。特にコロナ禍になってからこちら、オンライン授業の比重が増してからはその「蝕まれ」ぐあいがさらに高まったように感じています。わざわざ学校の教室までやってきて授業を受けるのであれば、最低限のモチベーションはまだ発揮されています。でもオンライン授業においては、やる気のない人のオーラはさらに高まりますから。そんな方々に向かってアプローチし続けるのは(たとえそれが自分の任務であり、お給料をもらっている仕事だとはいえ)なかなかにつらいものがあります。

もちろん逆にやる気のある人も少なからずいるのが、少なくとも私にとっては救いですが、それでもどの母語話者に限らず(私が担当しているのは主に通訳や翻訳なので、日本語母語話者と中国語母語話者が中心ですが)、以前に比べてみなさん「足るを知っている」というのか、ハングリーに「石にかじりついても」という感じで学ぶ方はほとんどいなくなりました。私自身の人生観からいくと、そこそこのところでいいというスタンスも決して悪くはないとは思いますが。


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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_82.html

そんな私もあと数年で「定年」を迎えます。というわけで、最近はよく退職後の暮らしを考えます。妻はもっともっと働くつもりらしいけど、私はできればいまの業界から完全にリタイアして、まったく違うことがしてみたいです。定年後もいくつか非常勤を掛け持ちでほそぼそと仕事を続けることはできるかもしれませんが、本音としては知人のパートナー同様に「疲れた」ので、もうそろそろ身を引きたいのです。だいたい「疲れた」と思いながら教え続けるのは学生さんに対しても学校に対しても申し訳ないですし、お若い方々にどんどんバトンタッチしていく必要もありますし。

でも私がいま勤めている複数の学校はいずれも、後継のことはあまり考えていないようです。私はもう数年前から言っていますがなかなか本腰を入れてくれません。でも何度も転職や失業してきた私の実感としては、別に私がそんなことを心配しなくても、いくらでも代わりの人はいるから、機が熟したら辞めちゃっていいんですよね。加えて、今後も中国語圏からの留学生や在日華人がコンスタントに学生さんとして入学してくるだろうかという問題もあります。世界の中における日本の地位もどんどん変わっていますから。

もちろん経済的なバックグラウンドなしで後先考えずにすべて辞めてしまうのは危険でしょう。年金を受給できるのはまだもう少し先ですし、そもそも私の年金月額は「ねんきん定期便」によればかなり低いですし、その間も食べていかなければなりません。妻は生活困窮者向けの就労支援をしていて、まさに私たちの世代やもっと上の世代の人々がなかなか仕事がなくて苦労していると言っています。でもその年になるまで何も準備や積み重ねをしてきていないというのも痛いところだと。私も定年までの間に何らかの準備をしようと思っています。

それで地域のコミュニティにも参加してみようと、自宅近くのコミュニティスペースに出入りしたりしているのですが、退職後のおじさんたちのマウンティングの場所みたいになってて、なかなか思い通りにはいかないなあ……と。でもまあ、あれこれ模索してみようと思っています。それにこういうのは自分の頭の中で考えているだけでは何も進展しないものなんですよね。自分以外のファクター、私はそれを「縁」と呼びたいと思いますが、そういうものが必ず介在しているものですから。これからも毎日をていねいに生きていれば、何かの縁に恵まれるかもしれません。

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ベンチプレスでの気づき

ベンチプレスは長い間「壁」だった75kgが毎回挙げられるようになり、77.5kgも何度か成功するまでになりました。もっか目標は80kgです。死ぬまでに一度100kgを挙げてみたいものですねえ。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

先日77.5kgを挙げたときに、ある「気づき」がありました。それはバーベルをラックから外してホールドした瞬間に、挙げられるか挙げられないかは分かってしまうという点です。つまりホールドするときすでに成否は決まっている、ホールドの仕方によって成否が決まるということです。

トレーナーさんによると、正しくホールドできているときは肩甲骨が正しい位置に入っている。そうすれば力を効率よく伝えることができて挙がるのだと。肩甲骨が正しい位置に入っていなければ、背中も全身もうまく使えず、結果として挙がらなくなるのです。そして今回の気づきは、肩甲骨を正しい位置に入れながらホールドするコツようなものがあるという点でした。

安全で効率的な筋トレにはさまざまな身体の使い方が関わっていて、プロの優れたトレーナーさんはそれらをひとつひとつ腑分けして、生徒の現時点での身体の状態に合わせて改善を指示してくれます。私の場合もこれまでに、お腹の使い方、背中の使い方、下半身の踏ん張り方、バーベルを握る手のひらの形、脇の締め方……などなど、実にたくさんのディテールにわたって指導を受けてきました。

そうやって「ベンチプレス」という一つの種目について、さまざまな角度からアプローチして効果的な身体の使い方を促してくれるわけです。しかもこのアプローチは私個人だけに有効です。他の人には他の人の身体的な癖や特徴があり、同じような教え方でみんながみんな上達するわけではないのです。

パーソナルトレーニングを選ぶ意味はここにあって、だから本やビデオなどで万人向けにポイントを解説したものは、もちろん役に立たないわけではないけれど、効果は薄いのだろうなということになります。

……とここまで考えて、これって語学とほとんど同じじゃないかと思いました。語学も、特に聴けて話せることを目指す語学には、身体能力の開発と改善の繰り返しみたいなところが多分にあります。そしてよいトレーナー(=語学教師)とは、そういう個々人の癖や特徴を把握したうえで、それらに対して有効なアプローチを考えることができる人、ということになるんでしょう。

もっともこれを言い出すと、究極的に語学訓練はマンツーマンしか成立しなくなっちゃいますから、現実には難しいところもたくさんあるのですが。

退屈とポストトゥルース

アテンション・エコノミー(注意経済/関心経済)への問題意識から、いろいろと読んだ中の一冊です。退屈、ポストトゥルース、インターフェース、コンテクストなどをキーワードに、私たちがいかにSNSなどのネット産業に取り込まれ、自分の核をなくしつつあるかが論じられます。

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退屈とポスト・トゥルース SNSに搾取されないための哲学 (集英社新書)

その点でとても興味がある一冊だったのですが、三分の一ほどまで読み進めて、ちょっと読む気力が削がれてくるのを感じました。さまざまな評論や文学や映画や音楽などを例示しながら語るその語り口はとても魅力的なのですが、文体が込み入っていてなかなか頭に入ってこないのです。

私はこの本を、ネットなどのレビューなど一切見ずに読み始めましたが、「これはひょっとして翻訳の問題では?」と、自分の理解力の乏しさを棚上げしたある意味卑怯な逃げの一手で、その先は気になる言葉のある段落だけを読み飛ばすようにして読了しました。読了後にネットの書評を読んでみると、はたして翻訳の問題を指摘されている方が何人かいらっしゃいました。私にはこの本の原書を英語で読むほどの力はありませんから翻訳書に頼らざるを得ないのですが、少々残念でした。

気に入って付箋を貼った箇所をいくつか。

ソーシャル・プラットフォームのデザインの批評家たちは、そのデザインに埋め込まれている「サイトから離れがたくなってしまう」特徴を、「ホテル・カリフォルニア」効果という適切な命名をして批判する。(中略)我々は自分たちが使っているデバイスに騙されて、インターフェースにはまり込んでしまうのである。(13ページ)

これはマシュー・ハインドマン氏の『デジタルエコノミーの罠』に出てきた、インターネット上のサイトにおける「粘着性」と同じ指摘ですね。実際、TwitterFacebookなどSNSのデザインは、「通知」のシステムと相まって私たちの注意や関心を絶えず引きつけ、サイトから離れがたくするためのさまざまな工夫がされています。これは最近意識してSNSに近づかないようにしている中で、改めて実感しました。

結局のところ、経済学入門講義で学んだ者たちにとって、ユーザーから料金を取らずに数十億ドルのビジネスが維持できるというのは驚くべきことだ。その理由は、それぞれのユーザーがユーザー料をドルで支払うのではなく、時間、心的エネルギー、そして人格を犠牲にすることで支払っているからである。(28ページ)

これもまた身も蓋もないほどの正論です。私自身は、以前はそうした時間や心的エネルギーを差し出す代わりにこちらもSNSから大きな恩恵を受けている(あるいは将来受けるだろう)という、よく考えてみれば何の根拠もない信憑を持っていましたが、今ではすっかりその熱が冷めてしまいました。

あともうひとつ、SNSのみならず、ゲームやニュースサイトやその他の注意経済へ不断に誘うデバイスとしてのスマートフォンについて、その「禁断症状」を治療するための道具として考案されたという「Substitute Phone(サブスティテュート・フォーン)にちょっとした衝撃を受けました。

この役に立つ「デバイス」は、記事によれば、「五つのモデルがあり、見た目も感触も、標準的電話のようである」。しかし「スクリーンの代わりに石のビーズがさまざまな角度で埋め込まれている。このビーズをユーザーはスワイプし、つまみ、スクロールして、スマートフォンを取り出したいという欲求を宥めることができるのだ」。(203ページ)

https://www.klemensschillinger.com/projects/substitute-phone


www.youtube.com

いやすごい。キングウェル氏は「おしゃぶり」と形容していますし、私自身これは一種のパロディ商品みたいなものだとも思いましたが、ここまで私たちの心は蝕まれつつあるのだなと感じました。

とにもかくにも、私は私なりの方法でSNSスマートフォンが作り出す「アテンション・エコノミー」からなんとか身をよじるようにして抜け出したいと模索しています。さいわいお酒をやめて本を読む時間が「激増」したので、読書に活路を見いだします(もちろん電子書籍ではなく紙の書籍で)。

村上春樹の世界

一昨年に亡くなった文芸評論家の加藤典洋氏による村上春樹作品の評論集です。村上氏のデビュー作『風の歌を聴け』から2017年の『騎士団長殺し』まで、長編・短編を含めて時代を追う形で作品論や書評が収められています。

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村上春樹の世界 (講談社文芸文庫)

私自身、学生時代から村上氏の作品を読みついできたので、それぞれの時代の空気なども思い出しながらこの本を読みました。そしてその学生時代からいまに至るまで、村上作品をことのほか愛好するする人がいる一方で、心底嫌っている人にも出会ってきたことを思い出しました。

ある作家の作品が人によって評価が分かれるのは当たり前ですが、村上氏ほど様々な場で、つまり文芸誌のみならず、若い世代向けの雑誌で、あるいは語学や翻訳という切り口で、さらには諸外国における研究者によってーー論じられてきた作家というのは珍しいかもしれません。

加藤氏による作品論は、特に村上氏の初期作品に対する分析においては、正直、作者自身も果たしてそこまで考えていたのだろうかと思えるほど徹底した掘り下げと考察と、ある種の謎解きが行われています。つい牽強付会なのではないかとも思ってしまうのですが、これは本書の解説を書かれているマイケル・エメリック氏がおっしゃるように「全力で世界を感受しようとするセンシビリティー」のなせる技だったのでしょう。

マイケル・エメリック氏が引用されていますが、この本の冒頭にこんな記述があります。

私がこれまで読んだ村上の小説の中で一番好きなのは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のうちの「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分の主人公「私」が、もう自分の生命がなくなるとわかってからの一日を、静かに過ごすくだりである。そこに漂っている寂しさをさして、わたしは先の言及個所に、世界感情と書いた。きっと年のせいかもしれないから、人には強く薦めない。しかし元気のないときには、これは読んで心に沁みる小説である。

わたしもこのくだりは大好きで、しかも「年のせい」どころか二十歳代の学生時代に読んだときすでにこの風景に一種のあこがれのようなものを抱いていました。こうやって静かに人生を終えることができたらいいだろうなと。どなたの何という小説作品だったか思い出せないのですが、子供の頃に縁側に干された布団の上に寝そべって、このまま一生の時間が過ぎてしまったらどんなにいいだろうかと思った、という述懐があって、それに心底共感してしまうような若者だったのです。

そしてまた年をとったいま、人生で何度目になるでしょうか、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み返していますが、加藤氏がおっしゃるようにこの小説は心に沁みます。しかも若いときはやや退屈に感じられもした「世界の終わり」のパートがより沁みるようになりました。

この『村上春樹の世界』の最後に付された加藤氏の遺稿「第二部の深淵」も非常に読み応えがありました。ここでは加藤氏おっしゃるところの、村上作品における「建て増し」問題が論じられています。これは『ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』のように、まずいったん完結した形で作品が発表・公刊されたあと、さらにその続きが発表されるという過程をたどったいくつかの作品についての問題です。

こうした形をとった作品は他にほとんど類例がなく、しかもそれが海外で翻訳版として出版される際にはそうした過程が見えなくなってしまい、まるごと全体が最初から一つの作品として提示されたかのような「誤解」をもたらしてしまうというのは鋭い指摘だと思います。それは作品や作家を研究する上でも大きな欠陥になってしまうのではないかと。

もうひとつ、加藤氏のこの本を読んで奇妙な符号を感じたのは、私自身『騎士団長殺し』以降は村上作品にあまり食指が動かなくなってしまったことです。過去の作品は未だに読み返してその度に新しい発見があるのに、あれだけ毎回楽しみにしていた新しい作品の刊行に(同時代に生きる幸せだとさえ思っていました)あまりときめかなくなったのはなぜなのか。これもまた年のせいなのか、それはわかりません。

蛇足ながら、この本は文庫(講談社文芸文庫)ながら税込みで2200円もします。文庫本で2000円超というのはちょっとした驚きで、最初は見間違えではないかと思ってしまったくらい。文庫が廉価だと思えた時代もまた過去のものになってしまったのかなと、ここでもちょっとしみじみとしてしまったのでした。

フィンランド語 136 …日文芬訳の練習・その55

机の引き出しを掃除していたら、かつて使っていた銀行のキャッシュカードが出てきました。すでにネット銀行しか使わなくなっているので、とても懐かしい感じがしました。もう長い間、キャッシュカードはもちろん通帳も持っていません。ATMに並ぶこともなくなりました。財布やクレジットカードや定期券もすべてスマートフォンです。現金しか使えないお店がたまにあるので、まだ現金も持ち歩いていますが、はやくキャッシュレスの暮らしになればいいなと思っています。


Kun siivosin pöytälaatikon, löysin pankkikortin, jota olin käyttänyt. Se on hyvin nostalgista minulle, koska käytän jo nyt vain verkkopankkia. Minulla ei ole pankkikorttia, eikä ole säästökirjaa pitkään aikaan. Myös en ole jo jonottanut pankkiautomaateilla. Lompakko, luottokortti ja kausikortti ovat älypuhelimessani. Joskus olisivat kauppoja, joissa kelpaa vain käteistä, joten menin sen kanssa ulos. Mutta toivon, että elämämme muuttuu nopeammin käteisvapaaksi yhteiskunnaksi.


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https://www.irasutoya.com/2017/12/blog-post_58.html

「ダサい」と「イケメン」に代わる定番の言葉

cakesで林伸次氏が「流行り言葉をなるべく使わない」というお話を書いておられました。「ダサい」「ヤバい」「超」「推し」……などなど、いま現在はすんなり伝わるのでつい飛びついてしまいがちな言葉も、時の流れの中で廃れていった先に読み返されるのは抵抗があるというご主旨。同感です。

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気軽なおしゃべりの場であれば、そういう言葉でいまの時代の気分を感じるのもいいのかも知れませんが、のちのち残りそうな文章にそうした言葉を使うのはとてもみっともないのではないかというご指摘ですね。文中に、数十年前に発売されたレコードのライナーノートが例示されているのですが、「ナウなヤングに人気の」はいまとなっては確かにつらいものがあります。むしろギャグのネタにさえなりそうなくらい滑稽です。

私も文章を書くときはもちろん、人と話すときにもできればそういうたぐいの言葉は使わないようにしたいなと思っています。冗談であえて使うことはありますけど、冒頭に書いたようにその表現に寄りかかって楽をしようとすると、どんどん言葉が痩せ細っていくような怖さがあるのです。「ヤバい」などそうした言葉の筆頭ですね。

そのほかに、個人的にとても使えないと思っているのは「めっちゃ」や「めちゃめちゃ」です。関西発祥とおぼしきこの言葉は、最近では全国区の言葉になったようですが、私は抵抗があります。語学の先生方でも、お若い方は「超」「ヤバい」などとともによく使ってらっしゃいますが。一度その使用頻度に耐えかねて、意見をしてみようと思ったこともあるのですが、結局やめました。ひとつはパワハラみたいになりそうだったのと、もうひとつは、言葉は常に移り変わって行くものなので、自分のいまの感覚が絶対に正しいとはいえないよな、と思ったからです。

実際、「超」や「ヤバい」「ダサい」などは、使われ始めてからかなりの時間が経っていますが、「ナウなヤング」のように廃れてはいません。ひょっとすると「めっちゃ」や「めちゃめちゃ」も息長く残っていく言葉になるかもしれません。

林氏は文章の最後で「『ダサい』と『イケメン』に代わる定番言葉、もし知っていたら教えてください」と書かれています。う〜ん、けっこう難しいですが、私だったら「ダサい」はやっぱり「野暮」とか「垢抜けない」、「イケメン」は林氏が「ちょっと古い」とおっしゃっている「ハンサム」を使うかなあ。

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https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_839.html

何もしない

英語の原題が“How to do nothing”、日本語版は『何もしない』。表紙も裏表紙も真っ白な装幀で、ミニマリズムの極地のような印象の本です。最初、書店で気になって手にとったときは、そのあまりの取っ掛かりのなさにいったん買わずにその場を離れたくらいでした。

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何もしない

とりあえず目次に目を通しても、「逃げ切り可能」「拒絶の構造」「注意を向ける練習」「ストレンジャー生態学」……といまひとつよくわかりません(読み終えたいまではその意味がよくわかりますが)。再びこの本を購入しようと思ったのは、後日朝日新聞の文芸欄で、翻訳者の鴻巣友季子氏が取り上げておられるのを読んだからです。

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ふつう、本のタイトルや副題はその本の中身や主張をギュッと圧縮してつけられているものですが、この本に限ってはまったく「名は体を表」していません。また鴻巣氏がおっしゃっているように、英語には“Resisting the Attention Economy(注意経済に抵抗して)”という的確な副題がついているのですが、これが日本語版ではなぜか割愛されています。

私はここのところ、この注意経済(アテンション・エコノミー)について大いなる興味と警戒感をもって過ごしています。ですからこの本は「そのものずばり」の内容であったのに、最初に書店でパラパラっとめくったときにはそれに気づかなかったのでした。この日本語版の装幀はちょっと“nothing”に引きずられすぎたのかもしれませんね。

それはともかく、最初に書店の店頭でこの本に吸い寄せられた自分の嗅覚には、まだわずかながらに健全なものが残っていたのだと考えることにしましょう。そしてまたネット書店でばかり本を買わないで、定期的に書店の店頭をぶらつくことの必要性も改めて認識したところです。一読、この本には実に豊穣な世界が広がっていました。久しぶりにすてきな思索の書に出会えたことがうれしくてたまりません。

思索の書であるだけに、読み進むのはそれほど容易ではありません。文章はけっして難解ではなく、むしろ大いに知的好奇心を刺激される面白い内容なのですが、著者のジェニー・オデル氏の思索と行動につきあって読むうちに、たびたび自分の来し方行く末を反芻し直す必要に迫られ、そのたびに考えさせられるからかもしれません。

しかもこの本は自己啓発書よろしく、注意経済から逃れるための分かりやすいノウハウやライフハックのたぐいが列挙されているわけでもありません。注意経済に関する入門編がカル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する』やアンデシュ・ハンセン氏の『スマホ脳』だとすれば、この本はその応用編・発展編みたいなものだと思います。

ノウハウやライフハックではないだけに(また私自身の言語化技術の拙さゆえに)この本のエッセンスをわかりやすくまとめるのは難しいのですが、特に私が腑に落ちたのは、注意経済の横溢するソーシャルメディアで私たちが惹きつけられる情報は「空間的にも時間的にもコンテクストに欠けている」という点です。確かに、TwitterFacebookなどのソーシャルメディアのタイムラインに流れてくる、そして私たちが注意を引きつけられる情報は極めて断片的でありコンテクストが欠けています。

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「いいね」の数に一喜一憂している私たち。スマホやパソコンのOSやアプリでよく使われている、新着通知や通知数を表す小さな丸いアイコンーーそれがあるだけで注意を引きつけられ、消費してしまわないと気がすまないように仕向けられている私たち。でもその「指標」は自分のリアルな生活のリズムとはまったく異なるところから飛び込んできます。こちらの生活の空気を読むことなく、四六時中注意を喚起し続けるのです。その先には往々にして、広告収入であったり、新しい商品の刷り込みであったり、いずれにせよ「ゼニカネ」の話がくっついています。あるいは心をざわつかせる刺激的な言動であったりすることも。

そのようにコンテクストに欠けた注意経済に抗うには、私たちひとりひとりが自分自身の存在と自分の周囲にこれまで以上に繊細な注意を払う必要があると筆者は言います。そうしたノイズたっぷりの世界から一歩引いて、私たちのリアルな実生活における「身の回りの変化」に敏感になること、時間と空間を持った身の回りの変化にきちんと対峙する自分という姿勢全体が、ジェニー・オデル氏言うところの「コンテクスト」なのだろうな、そしてそんなコンテクストにはまったくお構いなしにこちらの注意をかき乱すのが注意経済なのだなと思ったのでした。そのうえで、単純なストーリーや因果関係にすぐ飛びつかないこと、謙虚さとオープンさを保ち、物事の推移には時間がかかることを受け入れること、そうした姿勢を通じて、自分の主体的なコンテクストを取り戻すことが求められているのだと。

もうひとつ、ネット上では「公然と心変わりできない」というアデル氏の指摘にも唸りました。匿名で、単に言葉を投げ込むだけの無責任がまかり通る空間と思われがちなソーシャルメディアが、実は首尾一貫性を現実社会以上に自分に強いるものであったとは、考えてみればとても皮肉なことです。結局そこでは自分を演出し続け、偽り続けることになるのかもしれません。それもオーディエンスが(例えばTwitterであればフォロワー数が)多ければ多いほど、その傾向は強まるのではないか。

ちょうど宇野常寛氏が創刊した雑誌『モノノメ』の第一号を取り寄せて、そこに付された解説集を読んでいたら、この本と同じような警句がありました。「どこに住んでいるかもわからない誰かの『いいね』には敏感になるくせに、身の回りの変化にはまったく気づかないのはちょっと違うんじゃないかと思うわけです」。

slowinternet.jp

ネットショップにしろソーシャルメディアにしろ、個々人の好みに合わせて個人的にカスタマイズされた情報が届くような仕組みになっているという信奉が一方でありますが、その一方で同じような考え方ばかりに心地よく馴染んでいる間に偏見やバイアスが増加していく「エコーチェンバー」の危険性もよく指摘されています。私たちはそのリズムに乗って踊ってはいけない。自分のリズムを、それもいきいきとしたコンテクストのあるリズムを取り戻さなければならないのです。

お酒を飲める人も飲めない人も一緒に楽しめる

お酒を飲まなくなって二ヶ月あまり。最初の頃こそスーパーのお酒売り場などで「ぐらっ」と心が揺れることもありましたが、最近はまったく平気になりました。私の場合は飲めない体質ではないので、たぶん今でも飲もうと思えば飲めるはずですが、なぜかちっとも飲みたいと思わなくなってしまいました。特別な日には飲んでもいいかなと思っていた気持ちも、今ではすっかりなくなりました。

もちろんこれはごくごく私的な変化であり、当然のことですが他人におすすめしたり、ましてや強要するつもりなどまったくありません。妻は毎晩缶ビール一本ほどを風呂上がりに飲んでいますし、それに合わせて私も炭酸水やノンアルコール飲料などを飲んでいてまったく違和感がなくなってきました。そう、最初の頃は、自分ひとりだけ飲まないのがなんとなく気まずいというかつまらない(相手も自分も)んじゃないなと想像していたのです。でもそんなことはまったくないのでした。

コロナ禍が収束して、また心置きなくお店に飲みに行けるような日々が戻ってきたとして、例えば友人と居酒屋なんかに行ったとしても、私はもうお酒を飲まないで、かつ楽しく過ごせるんじゃないかなという「自信」(?)のようなものが芽生えてきました。お店側からすれば利益率の高いお酒をどんどん飲んでくれない客はあまり歓迎しないでしょうけど。

でも若い方々を中心にアルコール離れ、あるいは低アルコールへの以降が進み、「ソバーキュリアス」という言葉もだんだん浸透してきつつあるいま、そしてこれからは、お酒を飲む人も飲まない人もともに楽しめるような飲食店のありようが求められてくると思います。そしてノンアルコールの飲み物がこれまで以上にいろいろと開発されていったらいいなと夢想します。いまのところは烏龍茶かジンジャエールくらいしか選択肢がないですもんね。

お酒を飲まなくなってから通販を何度か利用した「maruku」さんは、東京都目黒区でカフェの実店舗も持っていらっしゃるようです。飲める人も飲めない人も一緒に楽しめるメニューが充実しているそうで、特に「ノンアル飲料なら東京随一の品揃え。もしかしたら日本一?」なんだそうです。このお店、ぜひ一度行ってみたいです。

この「maruku」さんはプライベートブランドノンアルコールビールも作られていて、これまでいろいろ飲んだ中ではこの”MARUKU AF”のスタウトがとてもおいしいです。ノンアルコールだからもっと自由な発想で、つまりことさらビールに自分の嗜好を寄せなくてもいいんですけど、このスタウトは泡立ちもとてもよいですし、食事にも合います。

プライベートブランド”MARUKU AF”が誕生。黒ビールタイプのAFスタウト(ABV 0.00%)330ml ボトル。maruku09.com

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▲写真は「maruku」さんのウェブサイトより。