インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

知らない単語こそ聞こえる?

先日フィンランド語のオンライン授業で、先生が「単語を覚えてください。そうすればリスニングのときに、知らない単語が浮き上がって聞こえてきます」とおっしゃっていました。

外語学習ではよく「知らない単語は聞き取れない」と言われるのです、先生は「知らない単語こそ聞こえてくる」と言っているわけです。まるで逆のことをおっしゃっているようにも思えますが、その道の達人が言っているのですから何か理屈があるはずです。というわけで考えてみました。

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https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_262.html

つまりこういうことなのでしょう。単語を覚える、つまり語彙量を増やせば増やすほど聞いて分かる単語も増える。そうすれば、聞いて分からない単語により集中して意識を向けることができるのだと。

幸いな(?)ことに、フィンランド語は発音面では日本語母語話者にとってそれほど難しくはありません。ウムラウトのついた綴りがふたつ(ä / ö)あるけれど、少し練習すれば言うのも聞くのもそこまで難儀しませんし、そのほかはいわゆる「ローマ字読み」でほとんど間に合います。

ふたつの母音が重なった長母音や連母音も母音ベタ押しに馴染んでいる日本語母語話者にはおなじみのものですし、ふたつの子音が重なって促音のようになる音も、少なくとも日本語ではよく出てくるので慣れています。

つまり私たち日本語母語話者にとってフィンランド語の音は、総じて聞き取りやすい部類のものあり、だからこそ分からない・知らない単語でも「ローマ字読み的」に綴りを想起しやすい、だから「知らない単語が浮き上がって聞こえてくる」ということなのでしょう。

しかし言うは易く行うは難し。実際には、教科書などのゆっくりしたスピードのフィンランド語はまだしも、ネイティブ向けの「容赦のない」フィンランド語は、やはりかなり聴き取りが難しいです。引き続き、泥臭く単語を覚えます、はい。

三菱銀行のキャッシュカード

いつも古本を買い取ってもらっているバリューブックスさんが『11月の大掃除』と銘打って「送料無料 & 買取額15%アップ」というキャンペーンを行われています。年末の大掃除時期には大量の古本が殺到して大忙しになるので、早めの大掃除で読まなくなった本や読み終えた本を売りませんかと。

それでこの週末、書棚を整理して段ボール箱ふたつぶんの古本を発送しました。その勢いで机の引き出しなども整理していたら、三菱銀行のキャッシュカードが出てきました。三菱東京UFJ銀行じゃなくて三菱銀行です。ネットで検索したところによると三菱銀行の名前が合併で消えたのは1996年だそうですから、少なくともそれ以上前に作った口座のカードということになります。

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そうそう、たしか熊本県水俣市に5年間ほど住んだのち、東京に戻ってきて再就職したので、給料振込み用の口座として自宅アパートに一番近かった三菱銀行に口座を作ったのでした。もう四半世紀以上前になるんですね。懐かしいです。

このキャッシュカードはいまでも使えるのでしょうか。口座番号は変わっていないので多分使えると思いますけど、ここ十年ほどは銀行の窓口はおろかATMさえ使っていないのでよくわかりません。そういえば銀行の通帳はどこに行ったかしら。銀行の預貯金や振り込みなどをすべてネット経由で行っているので、通帳も持っていないのです。

キャッシュカードや通帳もそうですけど、日常の支払いもほとんどスマートフォンになったので、現金というものをほとんど使わなくなりました。定期券もスマートフォンに入っていますし、ポイントカードのたぐいは面倒なのでほとんど断っています。

いまはまだ多くのお店でICチップつきクレジットカードを差し込むよう求められますし、ほんの一部のお店では現金しか受け付けてくれないので財布は持っていますが、以前に比べたらとても小さく軽くなりました。はやく財布を持たなくていい時代にならないかな。

cakes.mu

ところでこの三菱銀行、もとい、現・三菱東京UFJ銀行の口座はいまでも持っていて使っています。ほんとうはネット銀行1行だけに絞りたいのですが、いくつかのサービスで*1月々の引き落としにネット銀行は使えないという謎のルールがあって、それで仕方なく。

日頃使っている東急や京王の定期券も、スマートフォンPASMOが入ってから、それまであった「東急カードや京王カードでしかクレジット決済ができない」というルールが改善されました。定期券の更新もスマートフォン上ですべてできて、駅の窓口に並ぶことも今はありません。過渡期なのだとは思いますが、もっともっとネット上の金融の風通しがよくなってほしいと思います。そうしたら、この懐かしい三菱銀行のキャッシュカードともお別れですね。

*1:例えば毎朝使っているJR東日本系列のジム「JEXER」。

飲まない生き方 ソバーキュリアス

「ソバーキュリアス(Sober Curious = しらふでいることへの興味)」という言葉に出会って、ふと、お酒をやめてみようかな……と「思いつき」で飲まなくなってから今日で75日目。日数を細かく覚えているのは習慣化のために毎日記録しているからですが、最近ではその必要も感じなくなるほど当たり前のライフスタイルになりました。

この間、血圧が下がるとか、全身の肌がきれいになるとか、有効に使える一日の時間が増えて「積ん読」がみるみる減るとか、個人的にいいことは色々とあったのですが、だからといって禁酒や断酒を人に勧めることは一切しないと心に決めていました。

そう、生き方やライフスタイルはその人だけのもの。人は人、自分は自分であり、誰かが誰かに「こう生きろ」と迫ることができるものではないですし、また迫ったからといってその人を変えられるものでもありません。せいぜい「自分はこうしてみて、こんないいことがあったので、もしよかったら参考にして」と言えるくらいでしょうか。

特に健康に関することがらについて、他人にあれこれアドバイスするのは大きなお世話である以上に危険でもあります。体質はもちろん、その人が生まれ持った、そして現在抱えている身体の状況は千差万別であり、私の健康に益があったからと言って、他の人にも同じような益があるとは限りません。

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飲まない生き方 ソバーキュリアス Sober Curious

ソバーキュリアスという言葉そのものを作った、かつては自称「人並み以上ザル以下のソーシャルドリンカー」だった*1というルビー・ウォリントン氏のこの本も、基本的にはそういうスタンスで書かれています。もちろんお酒を飲まなくなることの良い側面について、実に様々な角度から語られており、強力に「飲まない生き方」をお勧めしてはいます。でも、最終章「ソバキュリアンになるための12ステップ」にしても、こうすれば断酒に成功できる! という秘策を授けてはくれません。

このあたり、個人主義が極めて強固に奉じられている欧米の価値観が透徹しています(ルビー・ウォリントン氏は英国生まれで現在はニューヨーク在住)。しかも全体的にかなり「スピリチュアル」な精神論にまつわる記述が多いので、個人的にはちょっと「引いて」読まざるを得ませんでした。

でもそれでいいのです。ソバーキュリアスにせよ何にせよ、そういう生き方を選ぶかどうかはすべて自分の決定と行動にかかっているのですから。そう常に思いながら本書を読むと、お酒を飲む・飲まないという範疇をこえた「行き方」そのものについての多くの示唆が散りばめられていることに気づきます。

誰の飲み方が「合格」で、誰が「要ソバキュリ(要断酒)」なのか、そんなことを判定する資格は誰にもない。ある人にとっては依存性の高い毒物が、別の人には最高の楽しみということもある。それでいいではないか。大切なのは、自分自身のスタンスだ。酒とのつきあい方を決めるときに自分を尊重し、信頼し、自分にとって最善の判断ができるかどうかである。(272ページ)

そして終章近くのこの記述にもうなずきました。

日常生活や他人に対して耐性がつき、いらだつことが少なくなるのは自分の身に起きたことに責任を負うようになった成果だ。どんなにストレスが降りかかろうと、それをどう受け止めるか(くよくよしたり、腹を立てたりすることにどれだけの時間と労力を使うか)はいつだって自分しだいである。私は念願だった記者の仕事に幻滅したとき、とっさにマスコミ業界のせいにしたくなったーー業界内に浅はかな競争意識がまん延しているのがいけないのだと。しかし、ソバキュリのおかげで問題の根っこがわかったーーそもそも華やかなファッション業界やセレブの世界に憧れたのは自己評価が低いせいだ。だから、もっと手ごたえのある生き方をしたければ、自己評価の問題を解決することが先決だと思った。(286ページ)

そう、自分の身に起きたことに自分で責任を負うという、考えてみれば当たり前だけれどもつい忘れがちになってしまうこの点を思い起こさせてくれたのが、私にとっての「お酒をやめる」ということだったのだな、と思うのです。

*1:私も。

フィンランド語 135 …日文芬訳の練習・その54

この映画は「水俣ではなくセルビアモンテネグロで撮影が行われた」という部分を、最初は“tätä elokuvaa ei otettu Minamatassa, vaan Serbiassa ja Montenegrossa”としていたのですが、「どこどこで映画を撮る」の「どこどこで」は、フィンランド語的には内格ではなく出格、つまり「どこどこから」とするとのことで、“Minamatasta, vaan Serbiasta ja Montenegurosta”と直されました。

それから「興味があれば、ぜひご覧ください」という部分、最初は“Jos olet kiinnostunut, käy katsomassa.(もしあなたが興味があれば、見に行って)”としていたのですが、単数の「あなた」ではなく「みんな」に呼びかけるなら複数の方がよいということで“Jos olette kiinnostuneet, käykää katsomassa sitä.”になりました。

先週ジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』を見てきました。若い頃、五年間ほど水俣に住んで患者の支援などをしていたので、当時のことをいろいろと思い出しながら見ました。この映画は地元当局の了解が得られなかったので、水俣ではなくセルビアモンテネグロで撮影が行われたそうです。その点は残念ですが、つらい歴史を考えると地元の人々の気持ちも分かります。史実とは多少異なるものの、とても迫力のある映画です。興味があれば、ぜひご覧ください。


Viime viikolla katsoin elokuvan “MINAMATA”, jossa Johnny Depp näytteli päähenkilönä. Nuorena olin asunut Minamatassa viisi vuotta ja tukenut potilaita, joten kun katsoin sitä muistean paljon asioita tuolta ajalta. On sanottu, että tätä elokuvaa ei otettu Minamatasta, vaan Serbiasta ja Montenegrosta, koska se ei voinut saada hyväksyntää paikalliselta viranomaiselta. Se oli valitettava asia, mutta pystyin ymmärtämään paikallisten asukkaiden mielipiteitä, koska siellä oli raskas historia. Vaikka se on hieman erilainen kuin historialliset tosiasiat, mutta on todella voimakas elokuva. Jos olette kiinnostuneet, käykää katsomassa sitä.


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サイトの粘着性への挑戦

マシュー・ハインドマン氏の『デジタルエコノミーの罠』という本を読んでいたら、インターネット上のサイトにおける「粘着性」という概念が出てきました。

ウェブサイトは、広告によるものだろうと購読によるものだろうと、成功するにはトラフィックが必要だ。サイトは粘着性で生死が決まる。読者を引きつけ、その読者が訪れたときには長居してもらい、そして立ち去るときにはまた戻ってくるよう説得しなければならない。(83ページ)

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デジタルエコノミーの罠

この本を読むと、多くのネット民を引きつけ、なおかつ莫大な利益を上げているトップのほんのわずかなサイトの優位性は、私たちが想像しているよりもはるかに強固だということがわかります。つまりFacebookTwitterなどが一部で「もう終わった」とか「○○離れ」「○○疲れ」などと繰り返し言われながら依然ほかのサービスとは桁違いの集客性と収益を上げていることがわかるのですが、そこには強力な「粘着性」があったわけですね。

かくいう私もその粘着性からなかなか抜け出さずに、上述したふたつのサイトは以前より格段に利用頻度が減ったものの、いまだにやめられずにいます。そしてこの本を読んで自分なりにその粘着性のありかがどこにあるのかをあれこれ想像してみるに、それは「タイムライン」というものの存在ではないかと思いました。

FacebookTwitterも、自分がそこに働きかけて投じた発言なり投稿なりのほかに、フォローしている人やその人につながるほかの情報、同サイトが意図的に流す広告などさまざまなこちらの気をひく情報が流れてきます。そしてそれがランダムであるだけにたびたび見に行きたくなる、見に行かざるを得ない。

Twitterを使い始めた当初、タイムラインはすべてを追うことができないというのが大きな欠点のように思ったものですが、実は逆だったのです。すべてを追えないからこそ、そこに無限の情報が詰め込まれているように見えてしまう。本当は、もとよりあってもなくても自分の暮らしにはほとんど影響を及ぼさない情報であり、焦りを覚える必要はこれっぽちもなかったのに。これもまた粘着性のひとつではないかと。

もちろん設定次第でそういう粘着性を減らすことはできます。でもついついSNSに長居をして予想外の時間を費やしてしまった経験はどなたにもあると思います。このタイムラインというものは、とにかく巧妙に作り込まれ、こちらの気持ちを四六時中刺激し続け、注意を引き続ける仕組みになっているんですね。だからついついアクセスしてしまう。「注意経済(アテンション・エコノミー)」とはよく言ったものです。

でも私はこの本を読んで、逆に粘着性の極めて高い大手サイトやSNSから自分を引き剥がす(そう、まさにゴキブリホイホイに捉えられた自分の手足をなんとかして引き剥がすようなイメージです)というチャレンジにがぜん興味がわいてきました。これは軽く「SNS断ち」などと呼べるようなものではなく、もっと用意周到に習慣化への道筋をつけなければならないものです。

その手始めとして自分のブログ記事をFacebookTwitterにリンクさせることをやめてみました。さてこのチャレンジがどうなるか、楽しみです……というより、ちょっと武者震いのようなものを覚えます。

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https://www.irasutoya.com/2015/01/blog-post_459.html

誰が何のために考えたのか

これは日本のどこかにある、とある事業所でのお話です。その事業所では毎年インフルエンザの予防接種が行われます。ここは規模が大きく、職員数も多いので、事業所本部の医務室が「職域接種」を行っているのです。ただしワクチンの数量は限られているので、毎回職員間での「争奪戦」になります。

昨年までは、医務室から全職員に向けて接種の申し込みを受け付ける旨の一斉メールが送られており、申し込み希望者は受付開始日時になったら申し込み用フォームを返信する形で「早い者順」で接種できる仕組みになっていました。しかし、このフォームが職員から医務室に大量に届いて処理に忙殺されるからか、今年から申し込み方法が「改善」されました。

新しい申し込み方法は、メールで一斉に通知が行われてから一週間ほど後のある一日に、医務室の前に掲示される接種日時の一覧表に、接種を希望する職員が自分の所属と名前を書いた紙を貼るというものでした。しかも新型コロナウイルス感染症に対するリスク回避の観点から、比較的人の少ない早朝の八時から受付を開始するとのこと。

つまり「メールで通知され、フォームで返信する」という方法から、「メールで通知され、そのメールに添付された申込用紙をプリントアウトし、所属と名前を手書きして、はさみでテープ状に切り取り、それを申し込み指定日の早朝八時にひとりひとりが医務室前まで持参して、糊で日程表に貼り付ける」という方法に「改善」されたわけです。

医務室からすれば、これで大量のフォームを処理する必要はなくなります。しかも職員ひとりひとりが自分の所属と名前を書いた紙を日程表のそれぞれの時間枠に貼ってくれるため、ひとりでに接種スケジュール表が完成するというわけです。おお、何という業務の効率化でしょうか。

ちょっとちょっと。

正直に申し上げて、このような申し込み方法を考案した方の感性を疑います。コロナ禍への対応ということなら昨年同様すべてメールで処理した方が安全ですし、「改善」されたあとは明らかにひとりひとりの作業量が増大しています。

インフルエンザワクチンの数量が限られているため、何らかの方法で接種希望者を絞る必要があることは理解できます。でもそれなら、フォームで申し込みを受け付け、抽選を行い、その結果をメールで知らせるだけでよいではないですか。この「改善」は、自分の部署の業務効率を改善する代わりに、その何倍もの手間暇を全事業所規模で増やす結果になっています。いや、医務室もたぶん、ひとりひとりが糊で手張りした末に完成した接種スケジュール表をもう一度Excelファイルに入力し直すなどしているんじゃないかと思います。なぜ徹頭徹尾デジタルデータの中で処理しないのでしょうか。

このように、せっかく立派なイントラネットを有していても、実際の事務作業は旧態依然たる紙資料・手書き・直接持参(ときに印鑑押捺が加わる)……というの、何とかならないものでしょうか。上に立つ者がITにあまりに疎いからこうなってしまうのでしょうか。こうした仕事の仕方は、たぶんまだこの国のあちこちに残っているのではないかと想像します。それとも、うちの職場だけなんでしょうか(あっ、言っちゃった)。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/it.html

プライドと語学

アメリカ人のお連れ合いがいる知人(日本人)がいます。お二人はここ十数年日本に住んでいるのですが、そのアメリカ人のお連れ合いはほとんど日本語が話せません。知人が英語に堪能であるため特に不便も感じないのでしょうけれど、日本に暮らしている以上おひとりで出かけることもあるでしょうし、大きなお世話ながらなぜ日本語を学ばないのかな、と思います。

その知人によると、お連れ合いはとてもプライドが高いので、いまさら日本語を苦労して学ぶ気にならないんじゃないかな、と言っていました。なるほど、母語以外の言語を学ぶというのは、言ってみれば自分の「できなさ・ふがいなさ」を常に認識させられる営みですからね。学童期ならまだしも、成人して、それもずいぶん歳を取ってから新たに言語を学ぶという段になって、ご自身のプライドがその習得を妨げるということはあるんだなと。

考えてみれば、特に東京のような大都会に暮らしている限り、ほとんど日本語が話せなくてもふだんの生活は営んでしまうことができます。スーパーでもコンビニでも特に話す必要はないですし、必要最低限の日本語の単語を知っていれば、かなりの場面を乗り切ることができるかもしれません。そういえば中国や台湾に住んでいたときも、もう何年も現地にいるのにほとんど中国語を話せず(話さず)暮らしている方はいました。

いま私は主に語学学校で日本語や中国語を教える仕事をしていますが、学生さんのなかにも高すぎるプライドが邪魔をして語学が伸び悩んでいるのではないかなとお見受けする方がときどきいます。自分が生徒の立場で通っている語学学校にも時々おられます。特にアウトプットを極端に渋る方というのは国や民族やジェンダーを問わずにいて、なるべく当てられたくない、答えたくない、しゃべりたくない、作文したくない……という雰囲気をまとっているのです。

もちろん語学をどう学ぼうと個々人の自由です。アウトプットを渋る方にも、その方なりの語学の楽しみ方があるのでしょう(でなければ学校に通おうとは思わないでしょう)。だから贅言を費やす必要はないのです。ただ、上述した知人のお連れ合いはもとから学ぶお気持ちがないのだからいいとしても、学ぶ気持ちがあって学校にまで通ってきているのにプライドが捨てられない方にはどう対処したものかといつも悩みます。

でもそこはそれ、「人の振り見て我が振り直せ」。語学ではプライドなどどんどん捨てまくりの私も、他の場面ではプライドが自分を縛っているかもしれません。もうすぐリタイアの歳を迎えるのですから、これからはなおさらつまらないプライドなどどんどん捨てるべきじゃないか、そんなことを考えています。

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https://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_4378.html

英語のドリルを習慣化する

英語の「体力」をもう少しつけたいと、ここ二ヶ月ほど英語のドリルに取り組んでいます。

Duolingoはそれ以前から日課になっていて、もう少しで連続2000日。ごくごく初歩的な英語の組み立て方が身体に染み込んできたような気がしています。中国語もそうですけど、英語も語順がとても大切な言語なので、文を組み立てる感覚が肉体化されるのはいいことではないかなと。

それでもDuolingoは少々簡単にすぎるので、それ以外に何か継続してできるドリルはないかなとネットで探していたら、田中健一氏のこちらを見つけました。大学受験のための英文法、その基礎固めをするのが目的のドリルみたいですが、なかなか楽しくて、習慣化できました。


英文法入門10題ドリル (駿台受験シリーズ)


英文法基礎10題ドリル (駿台受験シリーズ)

習慣化のために、例によってアウトライナーを使いました。というか、ドリル自体をアウトライナーに書き込みながら続けてきました。採点もアウトライナー上で。英語の場合は間違ったスペルをまず間違いなくすぐに指摘してくれるので、とても助かります(フィンランド語の場合は、正確な綴りでも時々赤い破線が出現します)。

これだけ繰り返しドリルをやっても、時々単複や語順を間違えますが、基礎的な文型はずいぶん固まってきたように感じます。特に時制、現在完了や過去完了はかつてとても苦手だったのですが、こうやって身体に染みこませてみると、なぜそんなに苦手だったのかが不思議に思えるくらいです。

これは、並行して学んでいるフィンランド語からのよい影響もあったのではないかと考えます。フィンランド語は英語同様時制がかなりハッキリしていて、現在、過去、現在完了、過去完了と明確に表現し分けます。それで、英語でもこの時制は何なのか、その時制にするためにはどう組み立てればいいのかを常に考えるようになりました。

中国語ももちろんそうした意味を表現できますが、時制によって動詞を変化させたりはしないので、その点が楽なんですよね(まあ「アスペクト」や「補語」や、時制を表現するための語彙の選択など他の工夫に苦労しますが)。外語を学ぶ際に「二兎を追う」のはよくないと言われますが、こういうふうによい相互作用を及ぼすこともあるんだなと思いました。

二冊目の『英語文法基礎10題ドリル』ももうすぐ終わるので、次はどれにしようかなとまたまたネットで探し、こんな本を見つけました。


英語のハノン 初級 ――スピーキングのためのやりなおし英文法スーパードリル (単行本)

ピアノの教則本「ハノン」になぞらえて、英文法を肉体化するためのドリルのようです。上掲のドリルにはなかった音声もついています。次はこれを習慣化してみましょう。

渋谷の街を久しぶりに歩く

先日渋谷に映画を見に行って、ネット予約した上映開始時間前に一時間ほど余裕があったので、渋谷の街をぶらぶらしてみました。渋谷は中学生の頃から大学生の頃まで通い詰めていて、その後も週に何回となく通過している街ですけど、センター街や公園通り、スペイン坂のあたりを歩いたのは、しばらくぶりでした。

渋谷は現在(というかここ十数年)大規模な再開発の真っ最中で、新しいビルやエリアができあがるたびにその情報には接していましたが、実際にそうした新しいスポットに足を向けてみたのは考えてみればほぼ初めてでした。それだけ縁遠い街になっていたんですね。

それで新しくなったパルコや昔シネマライズがあったあたりや、井の頭通りのあたりを歩きましたが、街並みがずいぶん変わっていて驚きました。いや、街並みというより、街の雰囲気、空気感みたいなものですかね。街が変化したというより自分が変化してしまって、とても居心地が悪く感じられました。

台湾は台北の人気スポット、西門町などでも同じような感覚を覚えますが、もう明らかにこうした街に自分が溶け込めないことを感じるのです。昔は溶け込むとか溶け込まないとかそんなことすら考えたこともなかったのに。

安直に「自分も歳を取ったのだなあ」などと結論づけたくはありません。たぶん一定期間、それもかなり長い間街の変化に触れないで来たので、いきなり大きく変化をした街に身を置いて戸惑っているのだと思います。その証拠に、毎日通りかかっている新宿の街には、先日渋谷で感じたような感覚を抱くことはありません。まあもっとも、私見ながら新宿は渋谷とはかなり空気感の異なる街ですけどね。おじさんおばさんも多いし。

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とはいえ渋谷の、今回私が居心地悪く感じた一角にも、私なりに魅力は感じます。それはここならではのとんがったお店が多いことです。地方都市の駅ビルに行って驚くのは、そのお店のラインナップがほとんどどこでも同じようだということです。でも渋谷には比較的その傾向が薄く、ここにしかないようなお店と街並みが再生産され続けているような気がします。

コロナ禍が収まりつつあり(それでもまた第六波はくるでしょうけど)、渋谷の街もかなり活気を取り戻しているように思いました。街に溶け込めないとか変に自分を規定している場合じゃないですね。

MINAMATA

ジョニー・デップ氏主演の映画『MINAMATA』をみてきました。以前、映画評論家の町山智浩氏が語るこの映画のお話をとても興味深く読んでいたので、セルビアモンテネグロでロケをしたという部分の違和感などもさほど気にならずにみることができました。

miyearnzzlabo.com

町山氏が語っているように、映画のストーリーは史実とは違っている部分もある……というより、史実のほうがもっと強烈な展開をたどったのですが、それは脇においても、当時の記録映像も織り交ぜたこの作品は、あらためて水俣病事件を人々の記憶に呼び戻す一定の役割は果たすだろうなと思いました。

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私は若い頃に五年間ほど水俣に住んで、水俣病センター相思社というところに勤めていました。私が水俣に住んでいたのはこの映画が描く時代よりもっとずっと後で、もちろん当時も(そして現在に至るまで)未認定患者運動は継続されていて、裁判などの支援もしましたが、私たちが取り組んでいたのはむしろ水俣病事件を起点にして、水俣病を生み出してしまったような社会のあり方そのものを問い直すという方向の活動でした。

だからこの映画に出てくるチッソとの交渉場面や裁判(このあたり、水俣現地の抗議活動と東京のチッソ本社での交渉がひとまとめになっています)などは、当時の私でさえすでに記録映画などでたどる「歴史」の一部でした。それでも水俣病患者の生活支援や聞き書き、資料収集などでお目にかかった人々が映画に登場して、当時のことをいろいろと思い出しました。

当時相思社が、この映画の主題にもなっているユージン・スミス氏とアイリーン・スミス氏の写真集『MINAMATA』の復刊を働きかけていた頃で、たぶんその一環だったと思いますが、相思社所蔵だった上村智子氏とお母さんの例の写真を用いて私が「講演」のようなことを行ったのを思い出しました。

思えばあれが初めて人前でまとまった話をした経験でした。前日に当時のパートナーの前で講演のリハーサルしたことも何十年かぶりに思い出しました。聞いていた人からは「若い人が一生懸命話しているというだけでも何か伝わったような気がする」と、なかば慰めのような感想をいただきましたが、まあ講演としてはとても浅い内容で話し方も拙かったのだろうなといまにして思います。

映画に出てきたモンテネグロの海岸は、水俣の街が面している不知火海の風景にとてもよく似ていました。それでも建物や列車や樹々の植生など、それにチッソの工場も実際とはかなり違っています。特に水俣駅を降り立つとすぐ駅の前にチッソの正門があるという実際の構図は、ぜひこの映画でも取り入れてほしかった……。この映画を水俣現地で撮れなかったのは残念でしたが、でも現地の人々の気持ちを考えるとしかたがないかなとも思います。

当時の私たちもそうでしたが、よそから水俣にやってきて、それもどこかで聞きかじったような社会正義を振りかざして(自身は振りかざしているという気持ちはなくても)街が騒々しくなるのは、あまり地元の人々の望むところではないと思います。もちろん水俣病がいまの私たちに教えてくれる教訓は当時と少しもその重みを減じていないとはいえ。

ジョニー・デップ氏主演の映画とはいえ、漏れ聞いた話によると、興行成績はそれほどよろしくはない模様。私も上映館を探して数少ない上映時間に合わせて観に行くのがちょっと大変でした。ぜひロードショー公開されている間にご覧いただきたいと思います。

フィンランド語 134 …日文芬訳の練習・その53

「エッセイであり、紀行文であり、比較文化論でもあり」という部分を最初、“Se ei ole vain essee ja matkakertomus, vaan myös vertaileva tutkimus kulttuureista”(それはただエッセイや紀行文ではなく、また比較文化論でもある)と書いたのですが、“pelkästään”(単に)を使ってはどうですかと提案されました。

ミア・カンキマキ氏の本を読みました。「アラフォーシングル」の氏が清少納言に魅せられ、一念発起して休職し、京都へやって来るというお話です。エッセイであり、紀行文であり、比較文化論でもあり、とても楽しんで読みました。原題は『枕草子』の章段から引用された「胸がときめくもの」だそうです。私も忙しい日常から自分の心を解き放って、思う存分フィンランド語を勉強できるような暮らしを自分に贈りたいです。


Luin Mia Kankimäen kirjoittaman kirjan. Tämä on mielenkiintoinen tarina siitä, että hän, joka on noin neljäkymmentä vuotta vanha ja naimaton, oli rakastunut Sei Shōnagoniin, uskalsi ottaa väliaikaisen loman ja tuli Kiotoon. Se ei ole pelkästään essee ja matkakertomus, vaan myös vertaileva tutkimus kulttuureista, luin sen ilolla. Kirjan nimi on suomeksi “Asioita, jotka saavat sydämen lyömään nopeammin”, lainattu luvusta Tyynykirjasta. Haluaisin todella vapauttaa sydämeni kiireisistä jokapäiväisistä, antaa itselleni elämän lahjan, joka voi opiskella suomea sydämellisesti.


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何をヌルいこと言っているんですか

衆議院議員選挙が迫ってきました。同時に行われる最高裁判所裁判官の国民審査について、今朝の新聞にはそれぞれの裁判官へのアンケート結果が載っていました。今朝の論点は選択的夫婦別姓を認めない民法の規定について違憲かどうかを問うた判決に関するものです。

私はこの制度、ほとんど形骸化しているなと思いつつも、毎回それぞれの裁判官の考え方を検討して「×」をつける人を選んできました。今回ももちろん、この判決内容を参考にして決めます。

ところで今回の選挙の大きな争点になりつつある多様性を認めるかどうかという問題、とりわけ選択的夫婦別姓同性婚の容認について、サイボウズの青野慶久氏らが「ヤシノミ作戦」という運動を展開しておられます。

yashino.me

「選択的夫婦別姓同性婚を進めない政治家をヤシノミのように落とすことで、結果として賛成する政治家を増やし、制度の早期実現を目指す活動です」。いいですね。さっそくクラファンでカンパしてきました。しかも同作戦のウェブサイトには衆院選における「ヤシノミ候補」の一覧もあって、それぞれの候補の、選択的夫婦別姓同性婚に対する考え方が分かります。

この件に関しては、ほんの少し前にも同様のサイトがあって、そこでは各現役議員の考え方が一覧できました。驚いたことに立憲民主党の枝野党首でさえ「どちらかといえば賛成」でした。2021年の今になってさえ、こんな当たり前の選択すら躊躇するなんて、何をヌルいことを言っているのかと憤慨したものです。そのサイトでは全員ハッキリと賛成していたのは日本共産党だけでした。

ところが「ヤシノミ作戦」のサイトにある一覧では、枝野氏も「賛成」になっていました。世論の動きを見て、より積極姿勢に転じたのかもしれません。

www.jiji.com

先日行われた日本記者クラブ主催の公開討論会におけるこの写真が象徴的でした。選択的夫婦別姓への賛否を問われた際に唯一自民党の岸田首相だけが挙手しなかった場面です。比例代表はどの政党に入れるか、私はもうほぼ決めました。

www.tokyo-np.co.jp

ところが、小選挙区の投票についてちょっと困ったことになりました。NHKが各選挙区の候補者の政見についてまとめています。うちの選挙区は自民・維新・立民の三候補がいるのですが、なんとこんな感じなのです。

選択的夫婦別姓 同性婚
自民の候補 賛成 反対
維新の候補 賛成 賛成
立民の候補 どちらかといえば賛成 どちらかといえば賛成

おいおい立民の候補、なにをまたまたヌルいことを言っているんですか。これじゃ維新か、下手をしたら他の政見も勘案した上で自民の候補に入れざるを得ないではないですか。個人的には、ここ十年ほどの政治を見てきた上でもそれは絶対にしたくない。しかし……。

www.nhk.or.jp

夫婦別姓は多くの国でごく当たり前のことになっていますし、同性婚も多くの国々で議論が行われ、個々人の自由と多様性を擁護する観点から容認する動きが加速しています。かつてニュージーランド同性婚が合法化された際、国会議員が行ったこちらの非常に有名なスピーチは、簡にして要を得ています。

youtu.be

個々人の、それぞれに違う形の幸せを全力で応援すべきという、ごくごく当たり前の見識さえ「ハッキリと」持てないヌルい政治家を国会に送りたくはありません。この件、もうちょっと考えようと思っています。

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『葉隠』出てくる人物がまるで自分のことみたい

最近はTwitterをほそぼそと利用するだけにとどめていますが、元から使っているアカウントの他に、もうひとつフィンランド語で作文を書くアカウントを持っています。たまにコメントをもらって、それにフィンランド語で返すのが楽しいのですが、先日はタイムラインにこんなツイートを見つけました。

葉隠』の一節をツイートしているbotのようです。どなたが何のためにツイートしているのかよく分かりませんが、それにしてもこの“Master Tokuhisa”って誰? 私の苗字は徳久というのですが、この姓は佐賀県に多く見られるとのこと。私の実家は福岡県の北九州市で、私自身は佐賀にも福岡にも住んだことはありませんが、父親によるとご先祖様は佐賀の出身らしく、祖父の代の頃に北九州へ引っ越してきたのだとか。

そして『葉隠』は、ご案内の通り江戸中期に書かれた佐賀鍋島藩の書物。武士としての心得や、藩内で起こったさまざまな出来事を記録した書物だそうですが、一般的には「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節で有名です。先の戦争における特攻や玉砕の精神的ベースになったという話が流布されていますが、ご専門の方々によるとそれはかなり歪められたイメージのようです。

それでネットを検索してみたら、いくつかのサイトでこの「徳久」氏について解説されているのを見つけました。例えばこちらのnoteにはこんな現代語訳が載っています。

徳久という者は人と変わったところがあり、抜けたように見える男だった。徳久が客を招いた際に”どじょうなます”を出したので、人々は徳久を「徳久殿のどじょうなます」と渾名して嘲笑した。


葉隠とは奇談集成の書とみつけたり 壱」/消雲堂(しょううんどう)さんのnoteより。note.com

これがちょうどTwitterbotで英訳されていた部分ですね。このあとこの徳久氏は「どじょうなます」とからかった人を殿中で切り捨ててしまい、あわや切腹かという局面にいたるのですが(『忠臣蔵』の「松の廊下」みたいですね)、主君からは「武士たる者が、からかわれて黙っているのは臆病である」という理由で免責された……というお話のようです。

武士のありようや武士の身の処し方、その美学について私はあまりよく理解できない人間なのですが、この徳久氏の性格、つまりちょっとエキセントリックでかつ抜けたところもあり、すぐにカッとなるというのは、なんだか他人ごととは思えません。私も最近は歳を取ってかなり枯れてきましたが、昔は本当に血の気が多くて、ずいぶんひとさまにもご迷惑をおかけしました。この徳久氏はうちのご先祖様のお一人なのかもしれません。

驚いたのは、この話を妻にしたら「知ってる。読んだことがあるから」と言ったことです。そうだ、妻は武士道とか戦国武将の話とか田中角栄みたいな昭和の政治家とか、そういったオジサン好みの本が大好きなのでした。私がそちら方面にまったく関心がないので、単にこれまで話さなかっただけのよう。

しかし妻はこの話を、以前帰省したときにうちの父親に聞いてみたそうです。そしたら父親もこの『葉隠』のエピソードを知っていて、言下に「その人はうちのご先祖の系統ではない」と否定したそう。……妻も妻ですけど、父も父です。

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https://www.irasutoya.com/2017/01/blog-post_239.html

語学に必要な「素直さ」について

声優の専門学校に通ったのち、声優になれる人は100人のうち5人ーー。はてなダイアリーの「今週のはてなブログランキング(2021年10月第3週)」で、はてな匿名ダイアリーのランキングにそんな記事が載っていました。

anond.hatelabo.jp

声優さんを「声を届ける仕事」と考えれば、通訳者にも同じような側面があり、しかもこの記事に書かれていることは基本的に通訳業界ともほとんど同じだと思いました。というか、どんな業界でも同じなんでしょうね。もちろん業界によって必要とされるスキルや特性は少しずつ違って、例えば通訳者だったらこれ以外に外語の語学力も必要ですけれど。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_289.html

通訳者としては三流、いや四流の私が言うのも大変おこがましいのですが、語学学校や通訳学校で多くの生徒さんに接してきた経験から言えば、この記事で述べられているような「理解力」の多寡は、確かにその方がその業界で活躍できるレベルに至ることができるかどうかの鍵になるように思います。

私的な解釈では、この「理解力」を「素直さ」と言い換えてもいいかなと思います。学校で与えられた課題に対して、その課題が目指していることをすぐに理解できて、かつ素直に取り組んでみることができる力。課題にただ素直に取り組むだけだなんて、一番簡単なことじゃないかと思われるでしょうか。でもそれができない方、苦手な方は存外多いのです。

何かのスキルの習得過程で伸び悩む方というのは、初手から自分のやり方に固執して、素直に目の前の課題に取り組めない方です。ちょっと考えれば、自分にはまだそのスキルが育っていないのだから、スキルを育てるやり方も自分の中にはないはずです。なのに「伸び悩みさん」は初手から「私はこのやり方は好きではない」とか「こんなことをしても上手くはなれない」などと、謎の全能感を発揮されるのです。

例えば、通訳技術に限らず、語学全般(特に聞いて話すスキルを目指す語学)では、ある程度まで「演技」のようなものが必要です。ふだんの自分とは違う声の出し方をしたり、ロールプレイをしたり、自分の気持ちや感覚とは違うことを言ってみたり。

けれど、英語の初学段階で例えば“This is a pen.”が出てきたとして、「そんなの見れば分かるじゃないか、わざわざそんなことをいう必要はない」などと全否定される方がいます。ロールプレイで「何人家族ですか?」と聞かれても「私は一人暮らしですから」とか「プライベートに関することは、ちょっと」などと会話が続かない方がいます。通訳はクライアントの耳に情報が届いてナンボなので、大きな声で訳してくださいと言っても、「私は大きな声が出せません」と、どうしても声量を上げられない方がいます。ありのままの自分とは別の、ちょっと違った自分を作ってみることに大きな抵抗があるのです。

こうした方々は、たいへん申し訳ないですけれど、あまり語学には向いていないように思います。畢竟、母語と違って外語の語学は、人前で恥をかき続け、心折れ続けることの連続なのですから(通訳訓練だってそうです)。そうやって自我に固執し続けて恥を捨てられないでいると、上達もおぼつかないのではないでしょうか。まあ、読み書きだけの語学でよいのなら、それでもいいのかも知れませんが*1

語学で素直に学べない方というのは、プライドが高いのかも知れません。そのプライドを崩されたくない、ぶざまな自分をひとさまにさらけ出したくないので、恥も捨てられない。そして自分をまもるために自分の気持ちや自分のやり方に固執して、素直に課題に取り組んでみようと思えないのではないかと。

もっとも、昨今はロールプレイや演劇訓練など恥をかくタスクをあまり強いると「パワハラ」とか「アカハラ」と言われる可能性もあるので、私も以前のように強く言わなくなりました。素直に課題に取り組めない方に対しては、「じゃあこうしてみましょうか」と次善の策を考えて提案するようにしています。私も歳を取って、少しは丸くなったのかもしれません。

*1:他人と相対することが必須の通訳訓練で挫折しかかると「私は通訳には向いていない。一人で取り組める翻訳に向いている」とおっしゃる方がけっこういらっしゃいます。でも翻訳だって人前で恥をかき続け、心折れ続けることの連続ですよ……。

『All Right!』という雑誌があった

あれは大学受験に失敗して浪人生活をしていた頃ですから、18歳か19歳だったと思います。当時住んでいた大阪府下のある私鉄駅前にあった本屋さんで、創刊されたばかりの雑誌を偶然見つけて買いました。

当時、若い男性向け雑誌として双璧を成していた『POPEYE』と『Hot-Dog PRESS』。それらに挑戦するかのように登場したその雑誌は『All Right!』といって、前者二誌よりもかなり意図的にアメリカントラッドやアメリカンカジュアルに傾倒した紙面づくりで、そうした文化に対する憧れがかなりストレートな形で前面に打ち出されていました。

その少し前に『オフィシャル・プレッピー・ハンドブック』を読んで、アイビーやトラッドに対する憧れを拗らせつつも、ほとんど縁のない生活を送っていた(主に金銭的な理由から)私は、この雑誌でより一層焦がれるような思いをアメリカという国に向けるようになりました。

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それでも、じゃあ英語を頑張って勉強して、アメリカに留学しようなどとは微塵も考えなかったのがいま思えばやや不可解です。たぶん当時の私はとにかく怠惰で勉強が嫌いで、そういう向上志向そのものが自分の中にはなかったのだと思います。ごくごく表面的な、浅いところで、自分が身を置いている日本とはまったく違った、なんだかオシャレな世界に憧れていたというだけで。

この雑誌で紹介されるのは、アメリカのアイビーリーグと呼ばれる名門大学に通う大学生の日常生活と、それにまつわるアイテム(ファッションや食べ物や車やスポーツ用品や……)の数々です。その他にも情報誌的な細々とした記事がたくさん詰まっているのですが、当時の日本の私たちからすればかなりハイソサエティで「どこにいるんだそんな人」、「どこにあるんだそんな暮らし」という感じでした。でもそうであるがゆえに憧れもいや増しに高まるのでした。

今でもよく覚えていますが、創刊号で紹介されていたアメリカの大学生の暮らしの中で、「ハーゲンダッツ」のアイスクリームの話が出てきました。まだ日本に同ブランドが入ってくる前で、誰も知らなかった頃です(だから後年、同ブランドが日本進出したときにはかなり感動しました)。高級アイスクリームといえば「レディボーデン」くらいしか知らなかった私は、それだけでもう気持ちが高揚したものです。

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この雑誌はしかし、圧倒的人気を誇る『POPEYE』と『Hot-Dog PRESS』の前にはまったくもって非力で、6号ほど出版されたところで廃刊になってしまいます。やはりちょっとアメリカ文化そのものへの傾倒っぷりが強すぎて、当時の日本の私たちからすれば世界が違いすぎ、浮世離れしすぎていたのかもしれません。

それから何十年、この雑誌のことはすっかり忘れてしまって、買いためていたその6冊もどこかへ行ってしまっていたのですが、先日ふと思い立ってネットで検索してみたら、その6冊がセットになって、古本屋さんで売られていました。値段もさほど高くなく、ついつい「大人買い」してしまいました。

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ページをめくると、何十年も前の感覚が「うわーっ」と蘇ってきます。そうそう、こんな写真があった、こんな文章があった……とそれらにつられて当時のいろいろなことを思い出しました。松山猛氏や片岡義男氏が健筆を振るっていて、安西水丸氏がイラストを大量に描いています。VANや、ソニーウォークマンの広告があります。デビューしたばかりの大江千里氏のアルバムが紹介されています。

パソコンやスマートフォンが一切出てこないキャンパスライフ。大学生たちがPOボックス(私書箱)でやり取りしているところなんかに時代を感じます。その一方で、男の子は女の子が好きという、ごくごく単純なジェンダー感ばかりが繰り返し登場するのも隔世の感があります。

……ああでも、現代の雑誌だってそう変わらないか。そういう意味では、こうしたごく単純なひとつの価値観だけで世界を物語るという雑誌の個性が(それが雑誌各々の読者層を獲得していたわけですが)、もうこの多様性を求め、尊重する時代の流れについていけていないのかも、だから雑誌も斜陽の時代に入ったのかも……などと考えました。「雑」誌だから、本来はいろいろな人の有りようが雑多に入り混じったものであるべきなのにね。