インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

『ブラタモリ』の解説者の話し方

昨晩NHKの『ブラタモリ』を見ていたら、今回は信州・松本の回でした。松本は勤務先の「遠足」で何度か行ったことがありますが、いつも松本城だけ“走馬觀花(ざっと見るだけ)”なので、興味深く見ました。いつかもっとゆっくりと観光してみたいです。

www.nhk.jp

この回に限らないのですが、『ブラタモリ』では解説者として登場される学者や学芸員自治体の職員や教育委員会の委員などのみなさんが、とても話し上手だなと思います。声が明瞭で、滑舌ははっきりとしていますし、「えーと」や「あのー」といった冗語も少ないですし、なにより論旨が明快で分かりやすい。曖昧な、あるいは身内に媚びたような(内輪受けとか、業界用語を使うとか)不親切な話し方をしないのです。

番組全体の構成を見ていると、さすがNHKといいますか、「街に隠された秘密をぶらぶら歩いて解き明かす」というコンセプトとはいささか趣きがちがい、事前に入念なプロットを組み立て、様々な演出を作り込んでいることが分かります。でも、タモリ氏のようなプロのタレントさんはまだしも、テレビ番組への出演ということでは素人である地元の解説者のみなさんが、そういう作り込んだ時にありがちな、原稿を読み上げるような生硬さがまったくなく、自分の言葉でわかりやすく解説するのに毎回驚嘆しています。

f:id:QianChong:20210912143206p:plain

f:id:QianChong:20210912143614p:plain

もちろん解説者のみなさんは、ご自身の専門分野について話すのですから、それを語る語彙や表現については人一倍豊富であることは想像に難くありません。また学校の先生や学芸員といった、日頃から多くの人に向かって話をすることに慣れている方も多いのだろうとは思います。

それでも全国に流れるこの人気番組に、その日限りのロケで出演して、ここまでわかりやすく、そつなく、そして時にはユーモアを交え、タモリ氏などのアドリブ的ツッコミにもちゃんと対応している。編集段階で放送として流されなかった「カット」部分もあって、そこでは言い間違いなどもしているのかもしれません。でもやっぱり「上手だなあ」といつも思うのです。

翻って自分を考えてみれば、自分だって人前で話すことを仕事にしてもう何十年にもなるのに、いまだに話し方が上手くありません。上述したような素晴らしい話し方の真逆、つまり、声が不明瞭で、滑舌が悪く、冗語が多く、論旨が曖昧で、ジャーゴン(業界の身内だけが分かるような言葉)にも頼っているような気がします。オンライン授業などで、ときどき動画を撮って配信することがあるのですが、あとからそうした動画を見て、幻滅することしきりです。

それともうひとつ、話し方には、声の良し悪しとか冗語の多寡とか論旨の巧拙とかのほかに、何かこう、その人の「人となり」が大きく影響しているようにも思えます。自分のことを棚に上げて他人を観察してみれば、言語を問わず、人となりがすっと心地よく懐に入ってくるような話し方ができる人と、そうでない人がいる。

それは言葉遣いの硬軟とはまた違うところで成り立っていて、ぶっきらぼうな言い方であっても「なんだかこの人は憎めないな」と思わせるものがあったり、とつとつとした語り方であっても「なんだか心地良いな」と思えることがあったりと、話し方を含めたその人全体の佇まいに起因するような感じ。ちょっと誤解を招くかもしれませんが、俗に言う「人たらし」とはこういう話し方ができる人なんじゃないかと。

こうなるともう、一朝一夕に改善したり取り繕ったりできるものじゃないですね。NHKの『ブラタモリ』で毎回登場する解説者の方々の話し方、そしてその佇まいを見ていて、ああいいなあと毎回感じているのです。というか、番組を制作する段階でそういう人を慎重に選び、いろいろなアドバイスもされているのかもしれないですけど。

フィンランド語 126 …日文芬訳の練習・その47

「田舎(で)は」という部分を最初“maaseudussa”としていたのですが、“seutu(地域)”は具体的な「ここ」という場所ではないので所格を使って“maaseudulla”とするそうです。また「(自治体は)お年寄りの希望を尊重している」と書こうとして“kunta kunnioittaa heidän toivoja”としたのですが、まず自治体は複数あるので「すべての自治体は」という意味で“kunnat”。また“heidän toivoja(彼らの望み)”とした部分もよりシンプルに“hantä(彼ら)”とすれば、いろいろな望み全部というニュアンスになるからよりよいとのことで、結局“kunnat kunnioittavat heitä”となりました。

最近、フィンランドの高齢者介護に関する本を読みました。フィンランドは世界で最も単身世帯率が高いそうで、一人暮らしの高齢者も多く、ケアワーカーが様々な支援を行っています。特に田舎は支援を維持するのも大変ですが、施設ではなく自宅で暮らしたいという選択を尊重しているそうです。日本では少数のわがままを許すべきではないという論調が多いですが、フィンランドでは公的援助で楽をする人がいたとしても、援助を受けていない人が直接危害を被っているわけではないのだから、避難する筋合いではないという考えるそうです。これはすばらしい考え方だと思います。


Luin äskettäin kirjan vanhustenhoidosta Suomessa. Kuulemma Suomessa on maailman suurin yhden hengen talouksien osuus. Siellä on myös paljon vanhuksia, joten hoitajat tarjoavat monia apuja heille. Erityisesti maaseudulla, on vaikea pitää palveluja, mutta kunnat kunnioittavat heitä, jotka haluavat asua kodissaan vaan hoitokodissa. On sanottu, jotkut japanilaiset ovat puolustetaan, että ei pidä sallia itsekästä vähemmistöä. Mutta Suomessa punnitaan, että vaikka olisi ihmisiä, jotka hyötyisivät niistä, ei ole mitään haittaa suurille yleisöille, jotka eivät tarvitse palveluja, joten ei tarvitse kritisoida. Se on erittäin hyvä ajatus.


f:id:QianChong:20210906095500j:plain:w300

薙刀のお稽古

ほそぼそと続けている「お能」のお稽古は、秋の温習会に向けて『船弁慶』の仕舞を練習しています。船弁慶の「キリ」、つまり平知盛の亡霊が海上で嵐を巻き起こしながら薙刀を使って源義経ら一行に襲いかかるという、一番最後に盛り上がる超スペクタクルな場面。仕舞ですから面(おもて:仮面)も装束も着けませんが、慣れない薙刀の扱いに苦労しています。


www.youtube.com

かつてお稽古を始めたばかりの頃に、お師匠から「次は船弁慶の仕舞をやりましょう」と言われて、ええっ、初手からそんなのを? と思ったら、その時は船弁慶の「クセ」でした。これは義経との別れを惜しんで静御前が舞う部分で、初心者が取り組むことの多い仕舞(私がお稽古している流儀では)なんだそうです。

さっきブログを確認してみたら、能のお稽古を始めてもう10年近い時間が経っていました。はやいなあ。なのにほとんど何も会得していないような気がします。これまでにいろいろな仕舞や舞囃子をお稽古してきましたが、そのどれもマスターした、つまりいつでも舞える状態になっているわけではなく、常にその時にお稽古している舞が舞えるだけです。多少は身体の記憶として残ってはいるでしょうけど、上達と言うにはほど遠い状態。お師匠には大変申し訳ないのですが。

ふつうお稽古ごとを10年も続ければ、そのジャンルに関してはそれなりにこなれてくるんじゃないかと思います。ギターでもピアノでもレパートリーと呼べるものがいくつかはできるでしょうし、語学だったらけっこう聴いたり話したり、あるいは読んだり書いたりできているかもしれません。なのに能のこの「攻略不可能っぷり」といったら。奥が深すぎるのです。

奥が深いといえば、薙刀の扱いも奥が深いです。もちろん本物の薙刀じゃありませんし、ましてや能の舞はリアリズムともまた違うところにあるので、戦闘シーンでありながらも独特の様式美があります。その様式美を体現するのが難しい、というか素人の我々にはほとんど無理筋ではあるのですが、お稽古しながらなんとなく分かってきたのは、自分の背丈をも超えるほどの長さの薙刀を使うというのは、日常生活ではあり得ないほどに身体の拘束がともなうという点です。

ふだんは扇を手に舞うので、ともすれば手先で(まさに小手先でという感じ)こちょこちょと技巧に走ることがたやすい(もちろんそれはよくないので直されますが)のですが、薙刀を使いながら舞うとなると、これはもう薙刀という長い棒で拘束された身体全体を、腰や体幹から発するような動きかたにさせなければ、舞の形にすらなりません。特に両手で薙刀を持っている際に身体を回転させるときがいちばん難しく、たぶんまだ私はその動きが合理的ではないからでしょう、すぐに疲労困憊に陥ります。

f:id:QianChong:20210910102937p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/01/blog-post_417.html

玄人(プロ)の能楽師による薙刀を使った舞をみていると、力強くもどこか軽やかな印象(それが優美さにつながる)すらあるのですが、実際にやってみると、とんでもなく奥が深いのです。まあ薙刀に限らず、能の舞はいずれもそういうものなんですけど。ともあれ、11月中旬の発表に向けてこれからもほそぼそとお稽古を続けていきます。唯一の悩みは、薙刀を使って練習をする場所がなかなか確保できないことです。激狭の自宅は論外ですし、公園なんかで薙刀振り回していたら警察に通報されそうですし。職場の退勤後に、大教室へこっそり忍び込んで練習しようかしら(こらこら)。

マッチ棒を借りに

フィンランド語の教科書は二冊目の終盤に差し掛かり、ほとんどの文法事項が出そろってきました(たぶん)。中国語で言うと、文法の大きな山である補語とアスペクトを学び終わった段階という感じでしょうか。この教科書を学び終えたあとどんな教材に移るのかはまだ分かりませんが、先生からは「ここいらで一冊目の教科書をよく復習してください」という指示が出ています。

フィンランド語は英語や中国語などと違い、語順で話す(語順が死活的に重要な)言語ではありません。その代わり語形変化が「悪魔」とも称されるほど複雑です。日本語の活用にも似ていますし、語順がクリティカルでないところも似ていますが、フィンランド語の場合は固有名詞、例えば人名や地名さえ文脈によって語形変化します。

なので文例を丸暗記するという「戦略」があまり奏功しません。表現したいことに合わせてそれぞれの単語の語形を一瞬で変化させられるーーネイティブスピーカーにとっては苦もなくできるものの、非ネイティブにとっては複雑怪奇でしかないーー感覚を身につけるしかありません。というわけで先生は、一冊目の(いまとなっては)簡単な文章を使って、一つ一つの単語がどういう理由でその語形に変化しているのか、もう一度確かめてみましょうとおっしゃっているわけです。

で、毎日隙間時間を見つけて少しずつ取り組んでいます。復習していると「ああ、こんな話があったなあ」とか「最初はさっぱり分からなかったけれど、いま読むとすごく腑に落ちるなあ」という文章がたくさんあって、なかなか楽しいです。

この教科書には、こんな会話があります。

Voitko avata television. Sieltä tulee kohta vanha suomalainen elokuva.
Mikä elokuva?
Tulitikkuja lainaamassa.
テレビをつけてくれない? もうすぐ古いフィンランド映画が始まるんだ。
何の映画?
『マッチ棒を借りに』。

以前学んだときは「そんな題名の映画があるんだ〜」くらいにしか思いませんでしたが、続いてこんな文章があります。

Minä olen kyllästynyt vanhoihin suomalaisiin elokuviin. Niitä tulee televisiosta aivan liian paljon. Mutta tämän minä oikeastaan haluan katsoa uudelleen. Olen nähnyt sen ainakin kolme kertaa, pidän siitä edelleenkin.
古いフィンランド映画には飽き飽きなんだよね。たくさんテレビで放映されてるし。でもこの映画はもう一度見たいんだ。これまでに少なくとも3回は見たかな。いまでも好きなんだ。

へええ、そんなに面白い映画なんですか。それで、いまさらながらネットで検索してみたら、YouTubeにありました(いいのか?)。


www.youtube.com

週末にでもゆっくり見てみたいと思います。字幕がないので、私にはまだほとんど聴き取れないと思いますけど。

fi.wikipedia.org

f:id:QianChong:20210909132015p:plain

記憶にない寄附の受領書をもらった

先日、都内某所の大きな病院の財務部門から「寄附受領書」という書類が封書で送られてきました。「この度は、ご寄附を賜り誠に有り難うございました。下記の通り受領いたしましたことをここに証します」という内容です。こういう寄附受領書は確定申告の時などに使えるので大変ありがたいのですが、さて、私はこの病院に寄附をした覚えがありません。いったいこれは……?

f:id:QianChong:20210908100912j:plain:w400

実はこの病院、以前妻がクモ膜下出血で入院したときにお世話になったところです。それであのときに何か寄附をしたかなと記憶をたどってみたのですが、健康保険の高額療養費支給申請*1をしたくらいで、病院の財務や会計部門との接点はありません。

私は「金は天下の回りもの」だと思っていて、なるべく社会に環流させたほうが回り回って自分のためにもなると信じています。それに、いま自分が曲がりなりにも平穏に暮らせているのは、無数の人々からなるこの社会に助けられ、生かされてきたからだとも。だから少額ながらよくあちこちに寄附やカンパをするのですが、銀行やクレジットカードの明細に当たっても、この病院に寄附した記録は見つかりません。まあ「いいこと」なんだから放っておいてもいいのですが、何となく気持ち悪いので病院のご担当者に電話してみました。

そうしたら、以前、顔面神経麻痺に対して投与されるステロイド薬の、投与基準について検証する研究に関するクラウドファウンディングにカンパした件だと分かりました。この研究をされている医師が、こちらの病院に所属されているのだそうです。

qianchong.hatenablog.com

ああ、これでスッキリしました。それにしても、家族が受診したことのある病院と、クラファン先の病院が偶然一致していただなんて、なにかこう「ご縁」のようなものを感じます。「ペイフォワード(Pay it Forward)」にも似て、「金は天下の回りもの」というスタンスは、ときおりこういう不思議なご縁を呼び込む、あるいは思わぬポジティブな循環を生むことがあって、なかなか奥深いものがあるんですよね。

www.nikkei.com

一昨日も「日本はいわゆる先進国の中で人々の寄附率が一番低い」という話をご紹介しましたが、いまの日本の閉塞感って、そういう「お金の風通し」の悪いところにも一因があるのかもしれない……というようなことを考えました。いささか自慢めいて恐縮ですが、これからも(額はしれていますが)ちまちまと寄附やカンパを続けていこうと思っています。

f:id:QianChong:20210908104545p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/09/blog-post_26.html

*1:ちなみに、この制度を知らずに民間のお高い医療保険に加入している方は、制度の詳細を学んで保険料を見直されることをおすすめしたいです。もちろんご家庭の事情はさまざまですから一概には言えませんが、民間の医療保険と比べても遜色のないその内容に、きっと驚かれると思います。私も驚いて、家計を圧迫していた固定費としての医療保険はすべて解約しました。→医療保険って何だったんだ - インタプリタかなくぎ流

あえて飲まない状態を楽しむ

「ソーバーキュリアス(Sober Curious)」という言葉を知って、ふと「お酒をやめてみようかな」と思い立ち、三週間が過ぎました。その間、一度もお酒を飲みませんでした。学生時代にお酒を飲み始めて以来、記憶にある限りこんなに長くお酒を飲まなかったのは初めてです。それくらいほぼ毎日、量の多寡はあれども飲酒をしていました。

きっかけになったのはこの『「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本』という、そのままずばりの題名の本です。帯の惹句に「禁酒は意思が1割、仕組みが9割」と書かれていますが、たしかに今回は特に意思の力で「お酒を飲まない!」という感じが自分にまったくありません。以前健康を気にして「休肝日」を設けたときは、かなり意思の力を動員しないと実行できず、継続もできなかったのですが、今回はなぜか、まるで憑きものがおちたように楽です。

f:id:QianChong:20210819171855j:plain:w200
「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本

一方で仕組みですが、私の場合、今回の仕組みはいつでも炭酸水を作ることができるソーダストリームと、アウトライナーを使った「見える化」です。以前に休肝日を設けたときの経験から、私が毎日晩酌をしたくなる欲求のかなりの部分は炭酸の「シュワシュワ感」で充足できることに気づいていたので、今回は奮発してソーダストリームを買い、すぐに炭酸が飲める仕組みを作りました。炭酸に混ぜる果汁のたぐいも、飽きないように何種類か常備するようにしました。

見える化のほうはかなり単純で、アウトライナーに日付と「飲まなかった」という記録をつけていくだけです。自分を激励するために◎もつけました。これがアウトライナー上に日々蓄積していくのを見ていると、なぜか継続への意欲がわいてくるのです。ここに「飲んだ ×」が加わったら美しくないな……という気持ちが働くようで。

f:id:QianChong:20210907150529p:plain:w300

いまのところ、スーパーのお酒売り場をスルーし、お酒の広告もスルーするようにして、ちょっとした意思の力は常に働かせるようにしています。でもなぜかもう、あまりお酒を飲みたいと思わなくなったんですよね。これもまた歳のせいかしら。

それになにより、身体の調子がいいのです。肌の調子が特に。私は若い頃から軽いアトピーがあって、背中などに湿疹が絶えなかったのですが、お酒をやめてから(その明確な因果関係はまだ分かりませんが)すっかり消えてしまいました。頭皮湿疹もけっこうあったのですが、こちらも皆無に。

ソーバーキュリアス、つまり「シラフでいることへの興味」ですから完全にお酒をやめたわけではなく、飲めるけれどあえて飲まない状態を楽しんでいるという感じです。今後もなにかの折には飲むかもしれません。それでも今のところは、この爽快な状態が楽しく、また新しい習慣を積み上げている感覚も楽しいので、お酒を飲まないことへのストレスは特にありません。できればこのまま、飲酒の習慣からフェードアウトできればいいなと思っています。

ひとりで暮らす、ひとりを支える

書店でたまたま見つけた高橋絵里香氏の『ひとりで暮らす、ひとりを支えるーーフィンランド高齢者ケアのエスノグラフィ』、とても考えさせられる内容でした。フィンランド南西部の「群島町」(おそらく古都トゥルク近郊の島嶼地域だと思われます)をフィールドとして、長年にわたって行われてきた調査・研究を元にしたエスノグラフィ(民族誌)ですが、研究論文のようでいて、どこか小説やルポルタージュのような雰囲気のある一冊です。

f:id:QianChong:20210906095500j:plain:w200
ひとりで暮らす、ひとりを支える ―フィンランド高齢者ケアのエスノグラフィ―

北欧型福祉国家における高齢者ケアと聞けば、漠然と理想郷的に何もかもが整っている状態を連想しますが、こと人の暮らしに関する事態はもう少し複雑かつ繊細であることがわかります。著者の「複雑なものを複雑なまま理解」しようとするスタンスに共感です。

フィンランドは、世界で最も単身世帯率が高い国なんだそうで*1、独居を選ぶお年寄りも多く、それを地域の福祉システムができるだけ支えるというのも印象的でした。「人間は一人一人が異なる感覚や考え方を持っているのだから、そこに介入すべきではないという個人主義の思想が通底しているのではないだろうか」と筆者はおっしゃいます。

日本では、例えば生活保護の問題にしても、みんなが我慢している中で少数のワガママを許すないう論調がよく見られますが、かの地では「公的な援助によって少し楽をする人がいたとしても、援助を受けていない人が楽をしている人から直接危害を被っているわけではないのだから避難する筋合いではないという考え方があるよう」だとのこと。

私はこの考え方にけっこう「ぐっ」ときます。そりゃ誰かがワガママを言えば、回り回って自分の損になる(だから許さん)という考え方もできるけれど、もともと社会保障って個々人の損得を超えたところで設計されるべきものですよね。いまの日本はそのおおもとを忘れかけるくらいみんな余裕がないのかもしれません*2

それでもこの本は、冒頭にも書いたように「複雑なものを複雑なまま理解しよう」というスタンスに貫かれていて、単純な賛美あるいは批判に偏っていません。またフィンランドでも近年「ネオリベ」的な考え方の拡張につれて、こうしたケアの民間委託が進みつつあり、これまでのようなきめの細かいサービスが今後も維持できるかどうかは微妙な局面を迎えているようです。

単純な理想郷として描くことをしないのはもちろん、あえて統一された包括的な捉え方や語りもせずに、それでもかの国の高齢者ケアの底流となっているものは何なのかを見極めようとされている点がとてもいいなと思いました。その意味でも世に数多ある「フィンランド本」とは一線を画しています。

*1:若年層でも「ひきこもり」が多いらしく、英語同様に“Hikikomori”が外来語として定着しているほか、“Hikikomero”という「自称」まで登場しているよし。https://yle.fi/uutiset/3-8390974

*2:例えば「慈善援助財団(Charities Aid Foundation)の調査における「募金する人の割合」では、日本は「いわゆる先進国の中ではほぼ最下位」なんだそうです。

フィンランド語 125 …日文芬訳の練習・その46

最初は作文中で“rokote”と書いていたのですが、実際にスマートフォンのアプリに出てきたのは“rokotus”でした。“rokote”は「ワクチン」で、“rokotus”は「予防接種・ワクチン接種」。これももう忘れないと思います。アプリには“rokotus/ワクチン接種・ワクチン”と入力していたので、それも直しました。

新型コロナウイルスのワクチンをすでに2回接種しました。私の周囲では接種後の副反応があった人も多かったですが、私は何もありませんでした。もっとも私は普段から体調があまりよくないので、副反応と見分けがつかなかったのかもしれません。ワクチンを接種したら、急激な反応が出ないかどうかを確かめるために15分ほど待機することになっています。そのあいだ暇つぶしにスマートフォンフィンランド語の単語帳アプリをやっていたら、「予防接種」という単語が出てきました。偶然にしては出来すぎだと思います。たぶんこの単語はもう忘れないでしょう。


Minä olen jo saanut kaksi koronarokoteannosta. Ympärilläni on paljon tuttavia, joilla oli useita sivuvaikutuksia niiden jälkeen, mutta minulla ei ole ollut yhtään mitään oiretta. Luulen, että ehkä on vaikea tunnistaa sitä, koska kuntoni ei ole aina ollut täydellinen. On hyvin tunnettuja, rokotuksen jälkeen meidän on seurattava 15 minuuttia mahdollisen allergista reaktiosta varalta. Joten olin pelannut suomenkielen sanakortti-sovellusta älypuhelimellani tappaakseni aikaa. Sitten oli esiinnytty "rokotus". Se oli tietysti sattumaa, mutta se oli myös ihme. Luulen, etten koskaan unohda tätä sanaa.


f:id:QianChong:20210905092211j:plain:w200

歯列矯正をしてよかったこと

1年ぶりで歯の定期検診に出かけてきました。かつて歯列矯正をしたときに通っていた歯科医院で、矯正の終了後もずっとお世話になっています。いつも診てくださる先生が「あれ、もう1年経ちました? はやいなあ」と言っていました。私も同感です。

というか、歯列矯正を終えてからもう14年も経ったということ自体「はやいなあ」と思います。当時ブログに治療の進捗を記していて、確かめてみたら矯正のため歯に装着していたブラケットを取り外したのが14年前の夏でした。その後は歯を固定しておく「リテーナー(保定器)」というマウスピースみたいな器具を使っていて、いまでも夜寝るときには必ず装着しています。

そのおかげで、14年たった今でも歯列は矯正終了時のままです。歯列は矯正後、何もしないでおくと加齢に伴ってだんだん崩れてくるそうです(治療開始時にもその旨を告げられます)が、私はせっかくあそこまで苦労して矯正したんだから「もったいない」というわけで、律儀に使い続けてきました。先生からは「ちゃんとリテーナー使っているから、いい状態ですね」とほめられました。

f:id:QianChong:20210904151832p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_27.html

私は歯列矯正をして本当によかったと思っています。こんなことを言うと、どこか「ルッキズム」に加担しているようでいささか後ろめたいですが、それでも正直なところ、人前で屈託なく笑えるようになったのは個人的にはとても大きかった。誰も他人の歯列なんて気にも留めていないでしょうけど、むしろ卑屈な自分自身の心の問題として。

先日、古い書類の整理をしていたら、20年以上前に中国へ留学していた頃の写真が出てきました。かなり切り詰めた生活をしていた頃で、加えて異国での生活ということもあって全体的に疲れた感じの自分が写っていましたが、一番驚いたのは顔の形です。私、こんな顔をしていたんでしたっけ、という感じで。

そう、歯列矯正の際に奥歯を抜いて歯列全体を後ろへ引っ込めるような形になったので、顔、特に口の周りの形がかなり変わっています。以前は犬のように口周り全体が前に突き出している感じ(いわゆる「犬顔」とは全然違います)だったのが、歯列の後退にともなってややフラットな感じに。畢竟、歯列矯正は美容整形とほとんど同じようなものなのです(「審美歯科」という言葉もあるくらい)。ここにも若干ルッキズムの匂いがいたしますね。

世の美容整形は賛否両論あって、特に本邦では芸能界のゴシップよろしく、どちらかというと秘匿すべきもの、こっそり行うものというイメージがあります。そこへいくと歯列矯正は、子供の頃から行っている人も多いですし、あまりネガティブなイメージは少ないように思います。

私は若い頃、かなり不摂生をしていて虫歯も多く、特に奥歯は左右上下とも詰め物が入っているくらいです。でも歯列矯正をしてからこちらは、定期検診のおかげもあって、虫歯になった歯は一本もありません。歯列矯正をして、単に審美という点だけではなく、老いてもなお自分の歯で食べられるというQOLを確保できるという点でもよかったなと思うのです。

尾瀬ガイド協会の声明を読む

尾瀬ガイド協会がTwitterの公式アカウントで差別的なツイートを繰り返していた問題で、会長名による「差別的投稿の経緯・問題点・今後の方針」という文書が発表されていました。
oze.guide
タイトルにもあるように、経緯、問題点、処分、今後の方針、そして謝罪という包括的な総括が行われており、同様の事件の「幕引き」でよく見られる「誤解を与えたのであれば/不快に思った方がいるのであれば、謝りたい」という「謝罪、のようなもの」とは一線を画しているものでした。まさに「画期的」だと思います。

こうした総括が画期的だと感じてしまうほど、私たちの社会の(特に日本の)状況はまだまだ遅れているわけですが、それでもこうした対応を取ることができる団体があるのだという点は、私たちを励ましてくれるものではないでしょうか。

関係者については厳しい処分が行われたようですが、私としてはそうした厳しい処分に「溜飲を下げてスッキリ」するのではなく、まさに他山の石として自分への戒めにしたいと思います。そして自分の周囲でも同様の無知による差別的な言辞があった際には、その場できちんと指摘して改善を促し合える(自分もする可能性あり)心構えを日頃から持ち続けておかねばと。

朝からいい文章を読みました。

f:id:QianChong:20210903092230p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_925.html

無知であることの罪について

先日いろいろと考えさせられた「米国では(授業において)議論に参加しないのは『フリーライダー(ただ乗り)』だという意識がある」というお話。そして、それに比べて日本の学校では「クラス全体への貢献度」という考え方が非常に薄く、しかもそれは子供の頃から訓練していなければなかなか身につかない「作法」なのではないかというお話。

この話については、先日ブログにもこう書きました。「なぜ日本ではそうではないのかというと、日本の私たちが引っ込み思案だからとか、恥ずかしがり屋だからとか、同調圧力のなかで自分だけ目立つことを極端に恐れるからという理由もさることながら、幅広い社会や世界の課題について語るべき相応の知識を持っていないこともその理由のひとつなのではないか」と。

この点に関して、上掲の議論を鴻巣友季子氏とTwitter上でされていた柴田優呼氏は、こんなツイートもされていました。


ああ、これは私も学校現場でよく感じます。もちろん私が接している学生さんは全体から見ればほんのほんのひとにぎりですから、それをもって外国人留学生、とりわけアジア各国からの留学生と、日本の学生との間で社会の各方面で議論されている話題に相当の差があると断じることはできないかもしれません。

でも学校現場だけでなく、もっと広く日本社会全体に目を向けてみても、特にこの国の要路にある人々の発言や行動に、諸外国の人々が取り上げている「問題群」に対しての何周もの周回遅れが生じているのを認めることがやたらに多い……そのことに日々無念さと憤りを感じています。そしてまた、自分がまだまだ「疎い」問題群は何だろうという焦りや一種の緊張感のようなものも。

そうした「問題群」というか「課題群」うちのひとつ、性的マイノリティについての理解や認識についても諸外国、とりわけ米国と私たちとの間にはきわめて遠い距離がある(もちろんあちらがはるか先を行っていて、私たちはその後塵すら拝していない状態)ことを改めて感じた一冊を読みました。ジャーナリスト、コラムニストの北丸雄二氏が最近上梓された『愛と差別と友情とLGBTQ+』です。

f:id:QianChong:20210902114348j:plain:w200
愛と差別と友情とLGBTQ+: 言葉で闘うアメリカの記録と内在する私たちの正体

帯の惹句には「世界を知り、無知を知り、人間を知る」とあるのですが、私は特に「無知」について、そして無知であることの罪について考えさせられました。

今次のオリパラをめぐる騒動でもそこここに顔を出していましたが、本邦ではジェンダーセクシャリティについて、無知による差別的な言辞があとを絶ちません。しかもそうした言辞を弄した後、それを指摘・指弾されると「誤解を与えたのであれば/不快に思った方がいるのであれば、謝りたい」という「謝罪、のようなもの」が繰り返しなされる。だがそれは謝罪ではなく、無知を恥じる姿勢でもなく、ただひたすら無知を無知のままにしておきたいという知的怠慢、あるいは逃亡でしかないことがほとんどです。それはもはや罪と言って差し支えないのではないか。この本は、そうした私たちの無知に対して大きく反省を促し、欠けている「知」を補ってくれます。

この本は大きくふたつのパートに分かれています。1980年代に始まるエイズ禍、ご自身が新聞社の特派員として赴任した1990年代初頭から今日に至るまでのゲイムーブメントをつぶさに追った前半。そして、ご自身の生き方の在りようも披露したうえで、性愛を超えたところで、あるいは性愛をも包含した個々の人間存在をまるごと引き受けようとするスタンスを示すことで、より深いエンパシーを共有できる未来を展望する後半。

私もこの年代を学生、そして社会人として見つめながら過ごしてきましたから、その時代時代で自分の周囲はどうだったか思い出し、引き比べながらこの本を読みました。そしてこの時代を通じて拡大してきた米国におけるさまざまな人権運動と、それにともなう人々の認識の変化に驚き、それに比べてこの日本の「変わらなさ」あるいは変化の遅さ、そして海外のこうした潮流の「伝わらなさ」は何なのだろうと何度も考えました。

多民族社会であり、さまざまな価値観のすりあわせを常に待ったなしで行わなければ世の中が回っていかないという米国の状況も反映しているのでしょうけど、とにかく社会運動や抗議運動がすぐに立ち上がり、それに対する賛同も反発も一斉に湧き上がり、そうした運動に対する支援や寄付も人口比で見ても日本とは比べものにならないくらい多い……。

賛否に関わらず、とにかく言葉を尽くして議論が繰り広げられるというこうした基本的なスタンスはどこからくるのでしょうか。私はこの本を読みながら、市民社会に生きる人間としての教養を尊重する風土と、それをまともに学ぼうとしない風土の違いではないかと感じていました。無知を無知のままにして恥じないこの私たちの風土とは何なのか。

そのひとつの手がかりとして、北丸氏は「クローゼットな言語」(としての日本語)という概念を提示します。「クローゼット」とは日本で言えば「押入れ」。「自分の性の在り方を『押入れ=プライヴェートな場所』に隠しておかなければならない状態(41ページ)」という意味で、本書でたびたび用いられるキーワードなのですが、北丸氏はそれを敷衍して「全部言い尽くすことは避けようとする日本語の特性(98ページ)」にその無知の一端を見いだしています。

彼らは世界で何が起きているのかをほとんど知らない。日本で流通している日本語だけの情報で満ち足りて、そこから出ることも、その外に世界が存在することも考えていない。日本の世間は日本語によって護られているつもりで、その実、その日本語によって世界から見事に疎外されているのだ(110ページ)

これはミュージカル『アルターボーイズ』の2009年初演時(北丸氏が脚本の翻訳を担当されています)に、登場人物の一人で自分がゲイであることをほのめかすような語りがある「マーク」を演じた日本人俳優が、舞台のアフタートークで「オレ、こういうオカマっぽい役、ほんとはイヤなんだよね」と口にしたことを受けて書かれた一節に出てくる考察です。

確か昨年も、鴻上尚史氏演出の舞台『ハルシオン・デイズ2020』で、出演者のひとりが「またきてしまったのか……オカマ役が」に始まるホモフォビアむき出しのコメントを出して、ネットで「炎上」した一件がありました。10年以上の時を経てもまだこうした言説が繰り返されるほど、日本では人々の意識の変化が遅いことを予想させる一件でした(それでも「炎上」するだけ進歩しているとも言えます)が、北丸氏は前掲の「マーク」役の俳優に率直な批判を送り、その言葉を受けてくだんの俳優の演技は「別人のように」変わったそうです。北丸氏はこう書きます。

そのとき思ったのは、彼らにはそうした思考回路が与えられていなかっただけなのだ、ということでした。日本語の思考回路に、ほんのちょっと別のところへ通じる回路を添えてやれば、彼らだっていろんなところに行けるのです。なのにそんな新たな何かへと通じるチャンスを、「外界」の影響を受けない日本語(だけの)環境は与えることがない、いつまでも他の可能性に気づかないで過ごしてしまう。いや、過ごせてしまう。そしてそのことを、不埒だとは考えない……。(111ページ)

私は外語を学ぶことは、それを使って仕事の幅が広がるとか就職に有利だとかそういうことよりも何よりも、このように「別のところに通じる回路」の本数を自らのなかに増やすという点にこそ最大の意義があるように思います。そしていまの私たちにはなお、そうした努力が欠けているのではないかとも。海外の事例や潮流を、翻訳で間接的に、あるいは自らの語学で直接的に学ぶことの大切さ。この本の前半で紹介されている「言葉で闘うアメリカの記録」から学べることは多いです。

後半の「内在する私たちの正体」を扱った諸章は、それが個々人の非常にプライベートな領域にまで注意深く降りていく論考であるだけに、人によって受け止め方が分かれるかもしれません。それでも私は、いわゆる性的マイノリティにおけるセクシャリティが、ただ性的な側面でばかり語られることの理不尽さについて大いに共感しました。そしてそれが、例えばあの「生産性」発言にも見られるように、ひとりの人間が生きることそのものに関わる問題としていまだに捉えられていない日本の(ここでも何周にもおよぶ)周回遅れについてももどかしさを感じました。プロローグにもこう書かれています。

カミングアウトの困難とは、たとえさりげなくであっても『ゲイです』と表明することが、『お前のセックスの話なんかいちいち聞きたくないんだよ』という反射的な反応を惹き起こしてしまうことが原因です。こちらは自分の生きる在り方を話しているつもりなのに、相手は単にセックスの話だと受け取るという、まるでバベルの塔みたいな思いの不通。(35ページ)

ここでもまた「無知」が顔を出します。私たちの社会はまだ、個々人が「生きる在り方としてのセクシャリティ」についてきちんと学べていないのではないか。同性婚ひとつとっても、日本は「世界から見事に疎外されてい」ます。私たちはこうした「問題群に疎い状態が、何十年も続いているということ」について、深く恥じなければなりません。

節約の極意について

はてなブログの「増田」、つまり「はてな匿名ダイアリー」で興味深い記事を読みました。「お金が貯まる節約の極意教えるよ」という記事です。

anond.hatelabo.jp

お金を貯めるとは畢竟「お金が出ていくのを減らす」ことだと喝破した上で、具体的な方法をレクチャーしています。これ、当然すぎるくらい当然のことなので、多くの節約や倹約に関するアドバイスを読むと必ず書いてあることなのですが、さてでは実際にどうやるかという段で挫折する方は多いんじゃないでしょうか。かくいう私もそうでした。

いや「私もそうです」と書くべきですか。私もなかなかお金が貯まらない人間なのですが、最近は歳を取っていろいろな欲望が枯渇してきたのか、少しは蓄えの習慣が身についてきたような気がします。そしてその習慣を身につけた方法が、今回拝読した記事ととても似通っていたので、いたく共感した次第です。

f:id:QianChong:20210901100256p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/11/blog-post_800.html

まず記事では、「貯めたい分だけ先に抜く」のが王道と書かれています。本当にこれ、王道です。しかも最初に20万、50万、あるいは100万という少しだけまとまったお金を貯める部分が一番難しいというのも、まさにその通りだと思います。貯金は、というか投資などお金に関するすべてがそうなんですけど、お金というのはどこか重力みたいなところがあって、ある程度まとまらないとその強みを発揮しない物質なんですよね。

私は昔は職場の、給与から天引きして積み立てるような財形貯蓄に加入していたのですが、あまりの金利の低さに頭にきて、つみたてNISAに乗り換えました。まだ何年も経っていませんからたいした額にはなっていませんが、とにかく先に抜いて貯め、なおかつその存在を忘れるくらいにしておくと、いつの間にかまとまったお金になることだけは確かです。「確かです」って、ごく当たり前のことですけど。

もうひとつ、記事にあった「固定費を削る」のも王道です。光熱費などはこまめに節電して回ったりしてもそんなに減りませんが、家賃やサブスク類などはかなり大きいです。あと、自分では固定費だとは意識していないのに、実質固定費になってしまっている出費も。例えば毎日スタバでラテを買うような習慣があったとしたら、それはもう固定費です。一杯450円くらいとして、平日だけ飲むとしても、1年で10万円以上の出費になり、バカになりません。

そしてこの記事の最後に書いてある「あとは増やすだけ!」なのですが、かつてお金の学校に通った経験でいくと、「増やす」、つまり投資は、よほどの運と才覚があり、かつそこに日常的にかなりの時間と資金を傾けられる方以外はやめておいた方が無難だと私は考えています。もしくはまとまったお金を作ってある程度の「重力」を得た段階で、長期的な投資にだけ手を出すか。

最後に、これも至言だと思いました。

世の中は恐ろしいマーケティングで溢れていて、気付くと欲しくなる。射幸心や虚栄心をズンズカ刺激してくる。

そうなんですよね。儲かってる企業はそこにとてつもない人とお金をつぎ込んでるんですもん。そういうマーケティングに乗せられて無駄遣いしないのも、お金を貯めるためには大切なことだと思います。……って、やはりこれもごくごく当たり前のことですよね。でもその「ごくごく当たり前のこと」ができないと、お金は貯まらない。キビシイのです。

オンライン授業における「貢献」

Twitterとは疎遠になったといいながら、毎日タイムラインを見に行っている私。昨日はこちらのお二人によるやりとりを見て、あれこれと考えました。


なるほど、米国では、議論に参加しないのは「ただ乗り」で後ろめたいことなのだという共通認識があると。そしてなぜ日本ではそうではないのかというと、日本の私たちが引っ込み思案だからとか、恥ずかしがり屋だからとか、同調圧力のなかで自分だけ目立つことを極端に恐れるからという理由もさることながら、幅広い社会や世界の課題について語るべき相応の知識を持っていないこともその理由のひとつなのではないかと。

この「クラス全体への貢献」というのは、もちろん議論そのものを深めるためでもあるけれど、もっと表層的なところで、クラス全体の雰囲気を活気づける、インタラクティブなコミュニケーションを成立させるという意味でも大切な考え方ではないかと思いました。私も日々教師という職業についていて、その「貢献」度が異様に低い学生さんたちに心削られている(いまふうに言えば「メンタルをやられる」)からです。

コロナ禍に突入してからこちら、約一年半もオンライン授業をやってきて、それでもまだ慣れなくていまだに苦手なのですが、クラスにおひとりでも「クラス全体に貢献しよう」と思ってくださる方がいると(ご本人がそう意識されているかどうかは分かりませんが)、とても救われる思いがします。

Zoomなどを使ったオンライン授業で、通信の安定性を確保するために生徒は全員音声をミュートしている中、頷いてくれたり、笑ってくれたり(笑い声は聞こえないけど)、問いかけに短くても答えてくれたり……そうやってクラス内でのコミュニケーションに積極的な方がいるのといないのとでは、授業の雰囲気がずいぶん違ってきます。教師なんだから、そんなのの有無で左右されちゃいけないんでしょうし、生徒の反応が薄いのはお前の教え方の技術が拙いからだと言われれば、返す言葉はないんですけど。

だから逆に自分が生徒として参加している語学のクラスでは、いつもスペースキーに指を置いておいて、先生の問いかけに「はい」でも「いいえ」でもとにかく何か返すようにしています(ご承知のようにZoomでは、スペースキーを押し続けることで音声ミュートを一時的に解除できるのです)。時には先生の言ったことに対して笑い声を届けることも。ほかの生徒さんには無駄と映るかもしれませんが、私は先生の気持ちを考えるといたたまれなくなるのです。自分も、一人ベタ凪の湖畔に立って、小石を延々投げ込み続けているような気持ちになるあのオンライン授業における「無反応」に、かなり疲れているものですから。

f:id:QianChong:20210831105242p:plain
https://www.irasutoya.com/2013/12/blog-post_650.html

そんなことをする人は私以外に一人もいません。だからここでも私は「空気を読まない、うざいオッサンだな」と思われていることでしょう。でも先生はよく「どなたか答えてくれますか」とおっしゃる。そして言葉の間や息遣いに、無反応への疲れを感じるのです。それが同じ教師としてよくわかる。だからなかば生徒としての「義務」のように、うなずきや笑いや声などの反応を返しているのです。

もちろん授業の種類によっては、そういう配慮が無用のものもあるでしょう。先生によってはいちいち反応が返ってきたら却って話しにくいという方もいるのかもしれません。でも少なくとも私が担当しているような語学の授業においては、インタラクションがとても大切な要素に思えます。

そういえば、以前聴講したとある通訳学校の英日通訳の授業では、先生が「反応を返すことは生徒の義務です。ましてやコミュニケーションの仲立ちをする通訳者を目指すみなさんなら、なおさらコミュニケーションに貪欲でなければいけません!」と強い口調でおっしゃっていたのが印象的でした。

私はそこまで強いことは言いませんが(実は一度マネして言ったことがあるのですが、生徒さんはみんな「ぽかん」としていました)、いまもあれこれと手を考えて活発なインタラクションをオンライン授業で実現しようと悪戦苦闘しています。でも一年半も続けてきて、しかもこれからもまだ相当の時間続けなければならないという今にいたって、いささか疲れてきました。私が担当している生徒さんたちはいずれも成人です。やはりこういうのは上掲のツイートにもあるように「中高生から身につけないと難しそう」なものなのかもしれません。

習慣化のためにアウトライナーを使う

最近はTwitterをあまり使わなくなったのですが、たまにタイムラインをのぞきに行くと「おお!」と腑に落ちるツイートがあります。だからなかなか遠ざかることができません。困ったものです。昨日は千葉雅也氏がこんなことを書かれていました。


確かにそうです。私も最近ようやくアウトライナーを使い始めましたが、この「思いつくまま書いてenterを押すだけ」というの、よく分かる感覚です。頭の中だけであれこれ考えていてもなかなかまとまらないものが、とりあえずアウトライナーに「出力」してみると、つながりだすという感じで。

それから、ToDoリストとしても使いやすいと思いました。特に何か習慣化したいこと、例えば日々の語学学習とか、いまの私だったら禁酒とか、そういうあれこれをTo Doリストとしてアウトライナーに箇条書きしておき、毎日ただ「これをやった、あれをやった」と記録していくのにも重宝します。パソコンからもスマートフォンからもすぐに書き込めて、クラウドで同期してくれるのでとても楽です。そして、習慣化のためにはそうやって記録を「見える化」することがとても助けになるんですよね。アウトライナーに箇条書き形式で並ぶ記録が積み重なってくると、そしてそれをいつでも見られるようにしておくと、「ここでやめるのはもったいない」と継続しようとする自分の背中を押してくれるのです。

こんなふうに使いやすいアウトライナーですが、個人的にはふたつほど課題があります。ひとつは、スマートフォンで入力するときに、指の動きが思考に追いつけないこと。なかなかお若い方のように超高速で入力ができないので、そちらに労力が割かれて、考えていることをアウトプットしきれずにもどかしい思いをすることが多いです。それで音声入力を使ったりするのですが、これも出先の雑踏で使うのは、認識率と、あと周囲への迷惑の関係で、やや難ありですね。

f:id:QianChong:20210830093218p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_99.html

もうひとつは、パソコンやスマートフォンが手元にないときに限って、いろいろな考えが頭をめぐることです。例えばトレーニングしている時とかシャワーを浴びている時なんかに、面白そうなアイデアやフレーズを思いつくことが多いのです。パソコンやスマートフォンの画面に向かっているとなかなか言葉が出てこないのに、そういう入力が難しい状況の時に限って言葉が湧いてくる。あれはどうしてなんでしょうね。やっぱりリラックスしているからでしょうか。

ソーダストリーム

この二週間近く、アルコールから遠ざかっています。これまでにも何度か飲まない期間を設けたことはあったのですが、一週間ほどしか続かない、あるいは休日にだけは飲むということがほとんどでした。平日も休日も、こんなにお酒から遠ざかったのは記憶にある限り初めてじゃないかと思います。

もとよりここ数年、お酒を飲んだあとの「気だるい」感じが心地よいというよりは不快に感じることが多くなっていたのでした。それでもビールなどで喉を潤す爽快感はやめられなくて、なかなか減酒や禁酒に踏み切れないでいたのですが、先日「ソーバーキュリアス」という言葉に出会って何となく気持ちが切り替わったような気がしました。やってることは単にお酒を飲まないというだけなのに、なにか新しい言葉で定義され直されるととたんに輝きをまして見えるというの、本当に面白いと思います。

それから、私の場合は単に炭酸の爽快感を得ることがお酒を飲む動機のかなりの部分を占めているというのが分かったので、これを気に炭酸水メーカーを買いました。いろいろ迷って、結局一番スタンダードな「ソーダストリーム」にしました。こうした炭酸水メーカーは電気を使うタイプと使わないタイプがあるのですが、電気を使うタイプは単に炭酸を吹き込む時間を制御しているだけなので、それなら電池なども消費しない手動式がいいなと思いました。

f:id:QianChong:20210829134208j:plain:w200
ソーダストリーム スピリット スターターキット (未発売ブランドロゴボトル付)

通販サイトでは本体の他に特典のミニボトルや炭酸水に混ぜるシロップ類なんかがついているパターンもありますが、プラスチックごみが増えるだけなので本体についているボトル一本で十分だと思います。ただ水は予め冷蔵庫で冷やしておく必要があるので、たくさん飲む方はボトルを二本以上用意してローテーションさせる……という使い方も考えられるでしょう。

使ってみた感想としては、手動で、つまりボタンを押す長さで炭酸の濃さを調整できるので、なかなか便利でした。強炭酸というほどにはなりませんが、本当に手軽に炭酸水を作ることができます。私はこれに氷と、様々な果汁や、あと先日ネットで見つけたこちら↓などを入れて、夕飯時に飲んでいます。いまのところ、お酒を飲みたいという欲求は頭をもたげてきていません。
soberplus.tokyo

同じ手動式ということでは、デザイン的にこちらのスウェーデン製↓も魅力的でした。レバーを操作して炭酸を注入するというのもなかなか「レトロ感」があって良いです。ただ、ボトルをねじ込む形式のようで少々面倒かなと思って、あと少々お高いので選択肢から外しました。ソーダストリームはボトルを斜めに押し込んでまっすぐに下ろすだけで固定されるとてもシンプルな操作性が魅力です。

f:id:QianChong:20210829135237j:plain:w200
NEWモデル【国内正規品】高級ステンレス製炭酸水サーバー/ソーダマシン [アールケ] AARKE Carbonator 3 /カーボネーターⅢ [ソーダストリームガスシリンダー対応] ★専用ペットボトル付き

ともあれ、炭酸水を味方につけて、もう少し禁酒を続けてみようと思っています。まだ二週間ほどですから体調に目立った変化は見られませんが、これが数ヶ月とか年単位になったらなにか実感できるような結果が得られるでしょうか。ちょっと楽しみです。