インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フィンランド語 103 …日文芬訳の練習・その33

ディズニーにせよ、アメコミにせよ、勧善懲悪のようにストーリーが明快なものがアメリカ大陸では受けるのかもしれません、とフィンランド語の先生はおっしゃっていました。たしかに「ムーミン」は一つ一つの物語には筋があるものの、最後にすっきりとカタルシスが訪れる、といったものではないですよね。

なるほど「ムーミン」が日本で特に受けているのは、そういう曖昧で、ある意味つかみどころのないものが好きという風土があるのかもしれません。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』じゃないですけど、はっきりさせすぎないところに魅力を感じるというのか……。

語学学校で、外国人留学生に「ムーミン」を知っていますか、絵本やアニメや映画などを見たことがありますかと聞いてみました。欧州はもちろん、アジア全域のみなさんは知っていましたが、南北アメリカ大陸の方はまったく知らないと答えました。なぜアメリカ大陸では知られていないのかよく分かりませんが、あちらには世界一有名なミッキーマウスがいますし、他にもスパイダーマンバットマン、スーパーマンなど「アメコミ」の超強力なキャラクターがいるからかもしれません。


Minä kysyin ulkomaalaisilta opiskelijoilta kielikoulussa, että tiedättekö Muumitarinoista ja oletteko nauttineet niiden kuvakirjoista tai animaatioista, elokuvista jne. Tietysti paitsi eurooppalaisia, kaikki aasialaisia myös tietävät sitä, mutta pohjois- ja etelä-amerikkalaisia eivät tienneet siitä täysin. Miksi sitä ei tunneta Amerikassa? En tiedä, mistä se johtuu, mutta olen sitä mieltä, että heillä on maailman kuuluisin hahmo Mikki Hiiri, myös on monia vahvoja amerikkalaisia sarjakuvia, kuten Hämähäkkimies, Lepakkomies, Teräsmies.


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いまから腰をいたわってあげるのです

電車のシートで、浅く座って足を「でれ〜っ」と前に出している方がいます。たいていはお若い方で、車内が混んでいる時など迷惑だなと思うのですが、それ以上に他人事ながら心配になるのが腰です、腰! その座り方は腰に超絶的に悪いのよ〜。ああもう見てらんない。

歳を取って腰痛が慢性化するとQOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)がだだ下がりになって死ぬほどつらいから、お気をつけになったほうがよいですよ……と声をかけたくなるのをいつもガマンしています。どういう座り方かという具体的な写真がないかなあと思っていたら、昨日ネットで「これ!」というのを見つけました。

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広告の内容とぜんぜん関係なくて申し訳ないんですけど、この座り方が腰にはと〜っても悪いのよ。歳を取ってから後悔しないためにも、深く腰かけ、背筋を伸ばし、骨盤を立てて座りましょう。かくいう私も、長時間座っているとこういう姿勢に近づいていくクセがありまして、そのためにいま慢性的な腰痛に悩まされて本当に苦労しています。

骨盤を立てて座るというのは、イメージとしては分かるもののやってみると意外に難しく、ましてやそれを意識しないでも常にできるようになるまでには(個人差もあるでしょうけど)かなり時間がかかります。私の場合は、職場の椅子に敷いた骨盤を立てて座ることができる専用のクッションに始まり、バランスボールを経て、いまはVarier(ヴァリエール)のVariable Balans(バリアブルバランス)という椅子に落ちつきました。この椅子は酔漢さん(id:suikan)さんのお勧めで購入したものです。

加えて、ジムのパーソナルトレーニングで腰痛予防のための体幹レーニングを三年あまり続けて、ようやくひどい腰痛からはほぼ解放されるまでになりました。それでも腰の辺りには常に違和感というか、「いつまた爆発するかもしれない感」が漂っていて、もう若いときのように腰のことなんてまったく意識にのぼらないという日はなくなってしまいました。行住坐臥のすべてにおいて、腰のことを考えながら動かざるを得ないのです。

これが加齢というものでしょうから仕方がないんですけど、もう少し若い頃から腰のことを考えていればよかったと反省しています。私は数十年デスクワークが中心の仕事をしてきましたから、若い頃から座り方をよくよく考えていれば違う展開があったかも……少なくともいまのような状態にはならなかったかもしれません。

デスクワークをされている方は特にお気をつけて。先日も『LIFESPAN』から引用しましたけど、長時間座り続ける暮らしは、とてつもなく身体に悪いという科学的な知見が次々に発表されているそうです。

父は初め生化学者になる教育を受けた。ところがコンピュータにのめり込み、ある病理検査会社でコンピュータ担当者として働いた。当然ながら、画面の前で長時間椅子に座って過ごすことになった。それは、恐ろしく体に悪いと専門家が指摘する生活習慣である。喫煙と同じくらい有害だとする研究者までいるほどだ。(247ページ)

もちろんこれは第一義的には身体を動かすことの少なさが健康に対する大きなリスクになるという意味ですが、その次に来る大きなリスクとして「座り方の悪さ」が腰に与える影響を私は挙げたいと思います。なにせ腰が悪くなると、生活全般にわたって困難がつきまとうのです。ホント、生きていくのがイヤになるくらいに。その意味では身体のみならず心にも少なからず影響を与えるのが腰痛です(腰痛に限らず痛みは何でもそうですが)。

というわけで特にお若い方、「でれ〜っ」と座るのはやめて、いまからよくよく腰をいたわってあげるのです。

もう15年ですか

昨日Twitterで、タイムラインにこんなツイートがありました。

「井上事務所」というのは作家の故・井上ひさし氏の事務所ですよね。……と、こちらのアカウントを見てみたら「井上ひさし米原万里著作権 及び公式サイトを管理している事務所です」とのプロフィールがありました。そうか、米原万里氏の妹さんが井上ひさし氏のお連れ合いですもんね。

それにしても、もう15年ですか……。時が経つのははやいなあ。米原氏が亡くなられてまだ5年くらいの感覚でいましたけど、そんなに経ったんですね。晩年、闘病記のようなものを週刊誌に連載されていて、それを読みながらとても心配していた日々を思い出しましたけど、あれから15年ですか。

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私は米原氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』を読んで通訳者に憧れ、実際に通訳者になっちゃった人間ですから、氏からは本当に大きな影響を受けました。結局、氏のような立派な通訳者にはなれませんでしたけど、いまでもこの本は折に触れて読み返し、そのたびに大爆笑し、そして深く考えさせられています。

blog.issnet.co.jp

私はこの本が好きすぎて、これまでに少なくとも20冊は文庫版を購入して、人に配りまくっています。学校の授業でも最初に「必読図書」として推薦し、この春から始めた「100人の本屋さん」の棚である「Senshodo Kirjakauppa」でも常に何冊か推薦文つきのしおりを挟んで売っています。自分で新刊を買って、割引して売るから儲けはもちろんないんですけど、この「神本」を世に広めたい&絶版にしたくないのです。これまでに三冊くらい売れました。

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それにしても、15年ですか……。私も歳を取るわけですよ。そしてこれから15年先を考えたら、もう私は生きてないかもしれません。言霊ってこともあるから、そういうことを言うのはよしなさい、と周りからたしなめられるのですが、いや、現実的にそうなってもおかしくない。それくらいの時間がこんなにあっという間に経ってしまうんですね。

ますます、日々を大切に生きよう、とっとと「やりたいこと」をやろう……と思いました。

「そんな○○語はない」と言い切るのはやめたい

「こんな日本語、使わない」とおっしゃる語学講師に対して「普通に使うのでは」とおっしゃるツイートを拝見しました。


引用されている元のツイートを最大限好意的に解釈すれば、「こんな日本語、日常では使わない」ということだと思うんですけど、こうした主張に接するたび、その志の低さにいたたまれなくなります。

私も日々外国人留学生と接している中で、時々学生さんから「教科書に出てくる日本語は使えない。もっと実用的な日本語を学びたい」という声を聞くことがあります。そんな学生さんに「どうしてそう思うのか」を聞いてみると、「だって、バイトの先輩なんかはこんな(教科書に出てくるような)日本語を使ってないから……」などとおっしゃる。う〜ん、それはそのバイトの先輩の日本語「レベル」が(日本語母語話者であるにもかかわらず)低いからかもしれないですよ。

日本語や英語に限らず、中国語でも母語話者の中に時折「そんな中国語はない」とか「そんなふうには言わない」などと勇ましくおっしゃる方がいますが、大抵はその方がご存知ないだけです。外語同様、母語にも「レベル」というものがあるというのは紛れもない事実なのですが、ここにもまたその例をひとつ見つけてしまいました。まことにご愁傷様でございます。

私は現在、仕事の関係で語学学校、それも日本語教育業界の方とおつきあいすることが多いです。で、えー、ここからはまたまた小さな声で申し上げねばならないところなんですが、日本語の教育を生業とされている方の中にも、特にそれほど難解でも難渋でもない言葉について、「そんな言葉、初めて聞きました」とか「使ったことがない、読んだことがない」とおっしゃる方はままいらっしゃいます。

もちろん私にだって初めて聞く言葉や、使ったことが・読んだことがない言葉は無数にあります。日々そういった言葉に接して「まだまだだなあ」と思う毎日なので、決してエラそうなことは言えません。しかし、少なくとも「そんな○○語はない」と言い切るのだけはとりあえずしないでおいて、辞書を引いてみる、用例に当たってみるという習慣だけは怠らないようにしたいものです。さらに日々可能な限り読書に時間を割いて、母語のレベルを少しでも高めておこうとする習慣も。

きわめて単純化されたものいいですが、母語でも言えないような難解なこと、複雑なこと、抽象的なことは、外語ではもっと言えません。少なくとも言える自信はありません。ですから、母語の「レベル」を可能な限り高めておこうとすることで、外語の「伸びしろ」ができると私は考えています。母語にも「レベル」があるという厳然たる事実を、初中等段階の学校教育からもっと意識し、強調してもいいのではないでしょうか。

そんな難解な言葉、日常生活のどこで使うんだ、というご批判もあろうかと思います。しかし、日常生活で使わなくても、一度でも学んだことがある言葉は、身体のどこかに残ってその人の思想や思考方法を形作る材料になっていると私は信じたいのです。一度でも学んだことがあるのと、一度も学んだことがないのとでは、のちのち大きな違いになって現れるのではないかと。

むかし寺子屋で行われていた漢籍素読のようなものも、実はそういう「効用」が期待されていたんじゃないかなあ。言葉自体はよく分からず、日常生活でもほとんど使わないかもしれないけれど、じわっと身体にしみこんでいくような、教養の素地となるようなものがそこにはあったのではないか。

毎度ご紹介している、台湾の作家・張曼娟氏の言葉を今回も引用しておこうと思います。中国語圏の青少年にあてたメッセージ動画の、最後の部分(2:36あたりから)です。


就是當前世界有幾億人外國人,就是華人以外的人在學中文的時候,身為一個華人卻不學中文,是不是可惜? 每個人的價值觀不一樣。那有一些人可能覺得說,我就是覺得不可惜。那,但是如果我的話,我會覺得很可惜。所以如果我有孩子,我一定不會讓他放棄華文的學習。而且我會希望他的華文比跟他在同一個地區的人的華文都更好。因為我覺得現在會華文已經不是優勢。你的華文要比其他的人更好才是優勢。


いまや中国語圏以外の数億という外国人が中国語を学んでいるのに、華人として中国語を学ばないのは残念ではありませんか? 価値観は人それぞれですから「別に……」と言う人もいるでしょう。でも私は違います。私に子供がいれば、中国語の学習を怠らないようにさせるでしょう。しかもその中国語が、まわりの華人よりも優れたものであってほしい。この時代にあって、中国語を話せることは強みではありせん。自らの中国語が人より優れていることこそ強みなのです。

qianchong.hatenablog.com
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池波正太郎氏の『男の作法』

人に勧められて読みました。「鬼平犯科帳」や「剣客商売」など膨大な著作で知られる氏が、若い編集者に語り下ろす形で書かれた男性の生き方指南書、といった体の一冊です。寿司や蕎麦、天麩羅の食べ方から仕事論や人生論まで幅広く語っていて、なるほど、と思う部分も数多くありました。……が、今の時代からこの本を眺めると、やはりその考え方の「古さ」にはついて行けない部分が多々あります。

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男の作法(新潮文庫)

これが時代の差というものなのでしょう。人は誰しもその時代の価値観からかなりの程度逃れられないものだと思いますから、これはいかに池波正太郎氏であってもしかたのないことです。しかし奥付をみると現代でもこの本は売れ続けているようです(私も人に勧められて買って読んだくらいですからね)。私の買った文庫版は昨年の増刷で、なんと百刷目になっていました。ふええ。

帯の惹句には「朝日新聞紹介で大反響」とか、某作家氏の「“男ぶり”を磨き上げるための上司必読の書だ」という文字もあります。ということはたぶん、現代の日本社会でもこの本を読んで心底感動し、日々その「男の作法」を実践しようとされている方がかなりの数いらっしゃるということですね。

私がこの本で一番違和感を覚えたのは、なんといっても女性に対する考え方です。もちろん単純な女性蔑視でもなければミソジニーでもないのですが、やはりここに書かれた女性観はいくらなんでも現代に持ち込むことはできないでしょう。でも、ちょっと小声で言いますけど、私の周囲を見回してみるに、池波氏の女性観そのまま、とまでは言わないまでも、かなり近いところにいる男性諸氏はそう珍しくはありません。きわめて残念かつ憤ろしいことではありますが。

ネットで検索してみると、池波正太郎氏は1923年のお生まれです。その時代に生まれた方の女性観がおおむねこういった価値観で染まっていたのだとしたら……とつらつら考えていて、そういえば、と気づきました。現代でも旧態依然とした女性観・人間観を開陳して非難囂々、ネットでも大炎上というジイサンたちは跡を絶ちませんが、そういったジイサンたち、例えばいまの副総理氏とか、東京五輪組織委員会の前会長氏とかが、だいたい80歳代前半ということで1930年代から40年代の生まれ。池波氏と十数年から二十年ほどしか違いません。

なるほど、それくらいの差だと、女性観や人間観、世界観にもあまり大差はないのかなと変に納得した次第です。もっともどれだけ歳を取っても自分の思想を不断にアップデートしている方はいますから、そういう時代だったから仕方がないよねと弁護する気はまったくないんですけどね。

そして、この本の「はじめに」に書かれていた「昭和五十六年」という年を見て、またまた気づきました。昭和五十六年は1981年。池波氏が1923年のお生まれだとすると、この本は58歳の時に書かれたんですね。私とほとんど同じ歳じゃん! おお、もっと年寄りのジイサンが話しているというイメージで読んでいました。というか、私も世間的には立派にジイサンの歳になっているというのが正しいのか……。池波氏とそのファンの方々には申し訳ないのですが、この本は「自分が育ってきた時代の価値観をいかに客観的に見据えて、改めるべきはすぐに改めるか」ということの大切さを教えてくれる反面教師のような本として私には読めました。

ただ、池波氏の名誉のために申し添えておきますと、氏もそうしたあるべき謙虚さ、自らを虚心坦懐に見つめることの大切さについてはこの本で繰り返し述べられています。最後に私が付箋を貼った部分を自分への戒めとして引用しておこうと思います。

(旅をすることの効用について)何の利害関係もない第三者の目に映った自分を見て、普段なかなか自分自身ではわからないことを教えられる、それが旅へ出る意味の一つですよ。(27ページ)

根本は何かというと、てめえだけの考えで生きていたんじゃ駄目だということです。多勢の人間で世の中は成り立っていて、自分も世の中から恩恵を享けているんだから、「自分も世の中に出来る限りは、むくいなくてはならない……」と。(138ページ)

(書店で商品の写真集を雑に扱うカメラマンに対して)こういうのは結局、カメラマンとしても大成しないですよ。自分本位でしょう。カメラマンだから自分本位で結構だけど、こういうのはやっぱり、神経のまわりがそれだけ鈍いわけだから、いい写真も撮れないと思うよ。(145ページ)

人間というのは自分のことがわからないんだよ、あんまり。そのかわり他人のことはわかるんですよ、第三者の眼から見ているから。だから、「君、こうしたらいいんじゃないか……」とか、「君、あれはよくないぜ……」とか、言うだろう。それは傍から見るとわかるんだよ。だけどそのときに、「何だ、お前にそんなことを言う資格があるか、お前だってこうじゃないか……」と言ったらおしまいになるんだよ。だから、言ってくれたときは、(なるほど、そうかもしれない……)というふうに思わないとね。ぼくなんかもなかなか出来ないことだけどね。(155ページ)

教養のない人ほどこういうことを言いたがる

副総理の麻生太郎氏が高校の特別授業で講演した際の発言が話題になっていました。この発言自体は昨年のものだそうですが、なぜか今になってまた物議を醸しているんですね。まあこの方の場合、問題のある発言を次から次へと繰り出してきていて、広く疑念の目を向けられるのが常のお方ですから、今になってというより、いつも物議を醸し続けていると言ったほうがいいのかもしれませんけど。

sn-jp.com

微分積分とか因数分解とか、まあ三角関数でも何でもいいんですけど、そんな社会に出てから一度も使いそうもないものを教えてどうするのかーーこういうことを言う人は本当に跡を絶たなくて、そのたびに私はTwitterなどでつぶやいているんですけど、今回も申し上げておきたいと思います。

これは数学に限りませんけど、そういった学習内容というものは、大人になって使うため「だけ」に学ぶんじゃないんですよ。それらを学ぶことで抽象的・科学的な思考方法を身につけることに意味があるんです。あるいはもっとかみ砕いて言えば(かみ砕かないと麻生氏には分からないかもしれませんから)、知的な営みの習慣をつけるため、教養を育むためと言い換えてもいいです。教養のない人ほど、こういうことを言い出すんですよね。本当に困ったものです。

以前にも橋下徹氏をはじめとする面々が「サインコサインなんてどこで使うの?」などと放言していたという番組を批判したことがありますが、こういう一見実利本位で合理的かつ斬新な意見のように見せかけて、その実できるだけ愚民化を推し進めて自分のやりたいように世の中を持っていきたいと考えている有象無象は多いので、その都度叩いておく必要があります。モグラたたきのようですけど、本当にタチが悪いです、こういう主張をする人たちというのは。

qianchong.hatenablog.com

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https://johosokuhou.com/2021/05/23/47336/

アスリートも黙ったまま同調しないでほしいのです

一週間ぶりにジムのパーソナルトレーニングに行きました。東京都に緊急事態宣言が出されてからというもの、いつも出勤前に行っていた大手鉄道会社系のジムは休業が続いていて、ウェイト系のトレーニングがまったくできないので身体がなまってしかたがありません。なので一週間ぶりにベンチプレスなどをやって、とても爽快な気分でした。

日曜日の、それもジムの営業開始とともに入って一時間ほどトレーニングをします。本当は平日の退勤後にも通いたいのですが、夕刻のこのジムはけっこうな「密」になっていて、少々たじろぎます。加えて、こちらのジムでトレーニングをしているプロやセミプロ、学生さんのアスリート(野球やサッカーなどの選手が多いです)は、なぜかそのほとんどがマスクをしていないのです。これはちょっと感染の拡大が怖い。それで、アスリートのみなさんがまだやって来ない週末の早朝のうちにトレーニングをしに行っているというわけ。

どうして若いアスリートのみなさんの多くがマスクをしていないんでしょうね(もちろんしている人も少数ながらいますが)。ジム側からマスク着用を要求しないのも問題ですけど、なんですかね、アスリートの一部には「マスクなんてめんどくさい」、「マスクなんかしてたらパフォーマンスが上がらない」という考えの人がいるんでしょうか。だとしたら、あまりに今の社会状況を分かっていないというか、もっと率直に申し上げれば物事をきちんと考えることができていないと思います。

もちろん、マスク着用は法律で定められた義務でもありませんし、私自身「マスク警察」みたいになるのは望みません。だからこれは人それぞれの考えで仕方がないかなと思い、アスリートのみなさんを避けることができる時間帯を狙ってジムに行っているわけですが、この一部のアスリートに見られる社会性のなさというか常識の希薄さには、やはり少々首を傾げざるを得ません。

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https://www.irasutoya.com/2020/02/blog-post_418.html

折しも東京五輪が狂ったように強行されようとしているなか、その状況に対して声を上げないアスリートに一部で批判が起こっています。またそうした批判に対して「一生懸命頑張っているアスリートにそれを求めるのはお門違いだ」という批判も寄せられています。

私は、単なる金儲けのイベントに堕してしまって今やアスリートのためでもスポーツ文化のためでも全くなくなっている五輪は、永久に廃止されるべきと思っている人間です。……が、それでもアスリートのみなさんがそこに憧れる気持ちや、そこに向かって努力する姿勢を全く理解できないわけではありません。

特にマイナーなスポーツで食べていこうとしている方々にとって、五輪の存在が大切なことはある程度まで理解できます。「ある程度まで」というのは、そこに全人生を賭ける姿勢自体は疑問(というかお勧めしない)なのと、マイナーな分野で頑張っている方々はなにもスポーツ界だけにいるわけではなく、しかも今時のコロナ禍ではみな等しく影響を被っているわけで、アスリートだけが優遇されるのはやはりどう考えてもおかしいと思うからです。

そんななか、元ラグビー日本代表で大学の教員でもある平尾剛氏の、こんな記事を見つけました。
www.asahi.com
「アスリートである前に一人の人間であり、身の回りの現象や出来事について考えたことがあればおのずと言葉は生まれてくるはずです」。同感です。実際には、その種目の競技団体やスポンサー企業との関係やヒエラルキーの中で、発言したくても発言できない、発言したら食べていけなくなる……という苦しい状況に置かれている方も多いのではないかと思います。だからそういう状況にあるアスリートに厳しい言葉を発するのは忍びない。

でも平尾氏のおっしゃる通り、私は、アスリートも、特に五輪に出場できるほどのトップクラスのアスリートであればなおさら、現状に対して何らかの意思表示をすべきではないかと考えます。今はその言葉がほとんど聞こえてこないのが悲しい。ハンナ・アーレントは「道徳哲学のいくつかの問題」という論考でこう言っています。

こうした問題の議論において、とくにナチスの犯罪を一般的な形で道徳的に非難しようとする際に忘れてはならないのは、真の道徳的な問題が発生したのはナチス党員の行動によってではないということです。いかなる信念もなく、ただ当時の体制に「同調した」だけの人々の行動によって、真の道徳的な問題が発生したことを見逃すべきではないのです。(ちくま学芸文庫責任と判断』91ページ)

ナチス批判まで持ち出してしまってごめんなさい。もちろんこれは、ひとりアスリートだけではなく、私たちすべてが負っている責任だと思います。だから私たちがアスリートのみなさんを「妖魔化」して悪者に仕立て上げるようなことはしたくありません。でも、だからこそ、アスリートのみなさんも現状の社会情勢をきちんと見つめ、考え、発信し、行動してほしいと願っています。黙ったまま同調しないでほしいのです。私も努力してそうしたいと思います。

うん、やっぱり、次回あのジムに行ったら「この状況下でマスクをしないのはなぜでしょうか?」と聞いてみよう。できるだけ「マスク警察」っぽくならないよう、ていねいに言葉を選んで、相手を尊重する態度を失わないよう気をつけながら。

フィンランド語 102 …日文芬訳の練習・その32

いつも最初に日本語の文章を書き、それをフィンランド語に訳しています。まだまだ語彙も表現も乏しいので、あまり日本語の表現にとらわれず、なるべく文を短く切って、かつ「要するにこういうことが言いたい」という気持ちで意訳、というかなるべくシンプルな言い方にしよう(にしかできない)としています。

今回は「あまのじゃく」の部分で“Nuorenani olin kyyninen siitä, että 〜(私が若い頃、私は että 以下についてシニカルでした)”というふうにしてみました。物事をシニカルに、皮肉的に捉えるということは、要するに「あまのじゃく」ということじゃないかなと。

若い学生さんたちはどんな言語を学ぶべきか? 先週、ご自身はロシア語専攻で、お連れ合いの母語であるペルシャ語も学んだという同僚と、「やるなら日本でマイナーな言語だよね」という話で盛り上がりました。私は昔から「あまのじゃく」で、みんなと同じことをしたくないとか、大勢の中で競争するのはいやだという一念で、勉強も仕事もマイナーな分野ばかり選んできました。中国語がこんなにメジャーになってしまったのは誤算でしたが、今はそれで食べているので、人生は本当に予測不可能だと思います。


Mitä kieltä nuorten opiskelijoiden täytyy oppia? Juttelin innostuneesti tästä aiheesta työtoverini kanssa viime viikolla. Työtoverini oli lukenut venäjää, ja oppinut myös persiaa, joka on hänen miehensä äidinkieli. Suosittelisimme opittaviksi harvinaisia kieliä, joita opetetaan vähän on vähän Japanissa. Nuorenani olin kyyninen siitä, etten halunnut tehdä samoja asioita tai en halunnut kilpailla muiden ihmisten kanssa. Sitten olin yleensä valinnut epätavalliset alat pääaineinani tai työpaikoillani. Se oli ehdottomasti virhearvio, että kiina on ollut niin suosittu, mutta nyt siitä saa leipää. Elämässä voisi olla todella arvaamattomia asioita.


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能楽と劇団四季

先日、夕飯を作りながらテレビをつけていたら、NHKで『サンドのお風呂いただきます』という番組をやっていました。お笑いコンビのサンドイッチマンが様々な家庭のお風呂を体験に行くというこの番組、今回は「特別編」ということで、あの劇団四季の舞台裏に潜入! という企画でした。

私がこの番組をちらちら(夕飯作りながらですからね)見ていて改めて思ったのは「ああ、劇団四季って、故・浅利慶太氏が作り上げた一種の新興宗教なんだな」ということでした。劇団四季のファンのみなさま、ごめんなさい。でも私は今日のような劇団四季の公演思想、あるいは理念とでもいうべきものを聞く限り、これは教祖としての浅利氏を崇拝する宗教としか思えませんでした。

番組でも紹介されていましたが、劇団四季では「作品主義」を取っており、作品が八割を占めると教えられているそうです。個々の役者が個性を発揮することは厳に禁じられており、もちろんアドリブなども御法度。厳しい競争の中を上り詰めた高い技術を持つ俳優たちによって、毎日毎公演寸分違わぬ舞台を実現することに命をかけているのです。

そういう公演のあり方もあってよいのでしょう。というか、これだけ広範な観衆の指示を得て、記録的なロングラン公演を次々に成功させているのですから、むしろ快挙として褒め称えられるべきものなのかもしれません。でもそもそもの話、果たしてこれは演劇なのでしょうか。いやまあ演劇であることは確かですが、継続的に利益を出し続ける一種のビジネスモデルとでもいったほうが実態に即しています。そして個人的に、このビジネスモデルは「信じるものは救われる」という新興宗教に近いのではないかと思ってしまったのです。


https://www.irasutoya.com/2019/06/blog-post_75.html

芸術は魂を救うものですから、このビジネスモデルで圧倒的多数の人々が救われている限り、私がとやかく言うことはないのかもしれません。実は私はかつて、何度か劇団四季の公演を観に行っていました。そしてそのたびに「これははたして演劇なのだろうか、芸術なのだろうか」という思いがどんどん高まってきて、ついに観るのをやめてしまいました。公演によっては浅利慶太氏の言葉が白い大きな紙にまるで「お筆先」のように恭しく書かれて配られるのにも一種の違和感を覚えていました(いまはもうそんなことはされていないのかな)。

また、一番高いS席であっても舞台の一部が見えないことがあり、それを当然のことのように観客に告げていることも疑問でした。作品主義が嵩じるあまり、俳優はもちろん、観客にまでプレッシャーをかけるのは、どこか奇妙なものを感じます。でもそれも宗教であれば違う解釈が可能です。これは自らに課された試練と考えればよいのですから。

かつて私が新興宗教の価値観に染まっていた頃、それでも教団や信者の理不尽さを感じることがあり、疑問を呈したことがありました。そんなときに決まって言われたのは「周りを見ず、教祖と自らをまっすぐに結びつけなさい」というようなことでした。教祖に絶対的に帰依していれば、身辺的な理不尽などどうでもよくなるのだと。一心に信じていればすべての矛盾は消えて安楽が訪れるのだと。

作品主義と称して俳優の個性を完全に消し、たったひとつの純粋なる正解を舞台上に再現することに並々ならぬ努力を重ねる劇団四季は、まさにそういう宗教団体とそっくりだなと思いました。もしくはディズニーランドのアトラクションみたいなものかな。毎回毎回、寸分違わずまったく同じ。だけど圧倒的多数の方々が感動されている……(あ、劇団四季のレパートリーにはディズニーものが多いんでしたね)。

qianchong.hatenablog.com

でも……。

考えてみれば私が好きな能楽だって、作品主義といえばこれ以上の作品主義はありません。伝統芸能は、はるか昔から延々と継承されてきた作品をそのまま次の世代に伝え続けていくことに価値を置いています。能楽における演技も、すべては「型」によって継承され、型から外れた演技や、ましてやアドリブなどは基本的にあり得ません。歌舞伎などでは時に時事を盛り込んだアドリブみたいな演出もありますが、能楽では皆無です。

能楽は舞も謡も囃子もすべて決められたことを決められたとおりに舞台上で再現しています。もちろん流儀によって違いはありますけれども。劇団四季をそこまで「disる」のならば、じゃあお前の好きな能楽はどうなんだと問われそうです。だいたい能楽そのものがもともと神様に奉納されるという宗教行事的な色彩を持っているものですし、宗教というなら劇団四季以上に宗教的じゃないかと。

でも私は能楽劇団四季には明らかに異なっている部分があると思っています。ひとつだけ確かなことは、能楽には型があるけれど、その型を演じる能楽師によって毎回まったく違う様相が舞台に現れるということです。型があるのに千変万化する。そこに能楽の底知れない魅力があるのです。

以前このブログに書きましたが、ピーター・ブルック氏の『なにもない空間』には「退廃演劇」という項があって、そこにこんな記述があります。

わたしはまえにコメディ・フランセーズ一座の稽古を見たことがある。とても若い俳優がとても年をとった俳優のまんまえに立って、まるで鏡に映った影よろしく台詞としぐさを真似ていた。これは、たとえば、日本の能の役者が父から子へ奥義を口伝してゆくあの偉大な伝統とはまったく別のもので、それとこれとを混同してはならない。能の場合は、口伝されるのは「意味」である――そして「意味」とは決して過去のものではない。それはひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できるものだ。だが演技の外面を真似ることは、固着したスタイルを受けつぐことにすぎない。そんなスタイルは他のなにものにも関係づけることはできないだろう。(文中の括弧は、原文では傍点)

何から何まで型で縛られているように見える能楽は実は、その演者がその時限りしか舞台上に現出し得ない(そしてまた、どれだけ手練れの能楽師であっても、ふたたびその達成を再現させることが必ずしも容易ではない)という、一回性・現場性・ライブ性をその最大の特徴とする演劇です。極めて似ているように見えて、劇団四季との違いは歴然としています。それを今回たまたま見たNHKの番組で再確認しました。

ここまで啖呵を切っちゃった以上、それをもっときちんと言語化することが私には求められるでしょう。引き続き考えたいと思っています。
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教師の心学生知らず

Quizletという単語学習用のオンラインアプリがありまして、私は公私ともにお世話になっています。「私」のほうは、もっぱら趣味(≒ぼけ防止)のフィンランド語の単語を覚えるために使っています。今のところ2000個近くの単語を登録して繰り返し覚えていますが、いつも最後の10%ほどを残す段階になって、なかなか記憶が進みません。名詞や動詞はともかく、副詞や形容詞のような抽象的な言葉が特に。

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https://quizlet.com/

「公」というか仕事でも使っています。通訳クラスの課題でグロッサリー(用語集)を作って、学生さんたちとシェアしているのです。このQuizletは、入力した文字を読み上げてくれる機能があって、特に中国語の読みはほとんど完璧です。これは中国語の漢字の読み方が多くの場合一義的に決まっているからで、複数の読みがある漢字でも単語単位になればQuizletさんはほぼ正確に読み上げてくれます。

フィンランド語は、これはもうアーコセット(アルファベット)だけですから100%完璧に読み上げてくれます。単に文字だけでなく、音つきの単語帳になるわけで、しかも「単語カード」という機能ではスマホの画面をタップして左右にスワイプするだけでカードをさばくことができるため、画面を見ないでも音だけで単語帳を使った学習ができます。つまり歩きながらでもできるんですね。これは本当に便利です。

一方で日本語は漢字の音訓まで正確に読んではくれないので、学生さん向けに教材として作る際は、一つ一つ日本語の音を確認して、読みがおかしなものやイントネーションが不自然なものは私が自分で吹き込んでいます。この録音機能は有料版にしかないので、私は年会費を自腹で支払って使っています。Quizletにはこのほかにも学習モードがたくさんあって、スペルを打ち込んだり、ゲーム感覚で単語を覚えたりと語学学習にはうってつけのアプリなのです。

……なのです、が。

かんじんの学生さんは、あまりこのQuizletを活用してくれません。教師用の管理画面からは個々の学生さんの学習進捗状況を見ることができるのですが、例えばあるクラスではこんな感じです(アイコンとアカウント名はぼかしています)。泣けてきます……。

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まあ、私だってその昔は本当に不真面目な学生でしたから、あまりエラそうなことは言えず。いつの時代もこんなものなのかもしれません。本当に“可憐天下教師心*1“ですねえ。

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https://www.irasutoya.com/2018/03/blog-post_56.html

*1:「親の心子知らず」ならぬ「教師の心学生知らず」。

身体の使い方を自分で考える

「自分の身体の使い方を自分で考えてみることが大切なんですよ」。ジムのパーソナルトレーニングに行った際、トレーナーさんがそうおっしゃっていました。

東京都にみたび緊急事態宣言が出され、それが延長されるにいたって、私がふだん早朝に通っていた大手鉄道系のジムは休業状態が続いています。中小規模のジムは営業を続けているところも多いようで、上述したパーソナルトレーニングのジムも規模が小さいので、ほぼ通常営業です。でも平日に毎朝身体を動かしに行っていたジムが休業を続けているので、身体がなまって仕方がありません。といって、お高いパーソナルトレーニングに毎日行くわけにも行かないですし。

特にウェイト系のトレーニングができないのがつらいです。自重を使ってもできなくはないですが、たいした負荷はかかりません。困ったなあと思っていたところに、LINEで個人向けのトレーニングメニューを毎週送ってくれるサービスをオススメされたので、ここ数週間ほど試しています。こちらから「こんなのがしたい」という要望も出せるので、先週は「自重を使って負荷の大きいトレーニングをしたいんですけど」と頼んでみました。

トレーナーさんによれば、自重を使ったトレーニングは確かに限界があるけれど、それでも「やりよう」はあるとのことです。例えば腕立て伏せでも、身体を下ろした状態で「キープ」するとか、「ジャンプ」する反動を使ってさらに負荷をかけるとか。そんなこんなで、先週もかなり負荷の高い(自分にとっては)メニューが6〜7種類ほど送られてきて、毎朝取り組んでいました。

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https://www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_40.html

しかしLINEで送られてくるトレーナーさんの動画を見ながら自分でもやってみるのですが、どうしても細かい身体の使い方が分かりません。これで合っているのかどうか、これで効いているのかどうか……実際に対面してのパーソナルトレーニングだと細かく指示や訂正や助言が入るのですぐに修正できますが、動画は一方通行ですからね。

それで先日パーソナルトレーニングに行った際にその不安を告げてみたら、冒頭のような助言をいただいたわけです。「自分の身体の使い方を自分で考えてみることが大切なんですよ」。なるほど。筋トレをしていて常に痛感しているのは、自分は身体の使い方が「てんでなっちゃいない」ということです。トレーナーさんがいとも簡単にできる動きが、自分にはできない。それは単に筋肉がないからとか、ましてや気合いが足りないからではなくて、ひとえに身体の使い方が洗練されていないからです。それも全身の統合された使い方ができていない。

先日ブログに書いた「座り立ちテスト(SRT)」にしても、これができなくなるのは全身の統合された使い方ができなくなるからだと思われます。主に胸筋を鍛えるベンチプレスだって、実は胸筋だけでバーベルを上げているわけではなく、体幹から下半身に至るまでの全身をうまく使って効果的に胸筋を鍛えるように持っていく動きが存在します。優秀なアスリートの動きが美しく、かつパフォーマンスも優れているのは、その全身の統合された使い方がきわめて洗練されているからなんですね。

パーソナルトレーニングではその身体の使い方を逐一教えてもらえるわけですが、動画だとそうはいかない。でもその時に自分で「どう身体を使えば、ここで求められているトレーニング効果を上げることができるだろうか」とか「どう身体を使えば、腰や肩などに不要な負担をかけないでできるだろうか」などと、自分の頭で考え、身体を動かしてみることが大切なのだと。

そう言われて、改めて動画に映っているトレーナーさんの動きを子細に観察すると、「ああ、ここでは肩甲骨をまず寄せてから動いているな」とか「ああ、このときは骨盤を立てた状態で下ろすんだな」とか、そういうことが分かってきます。なるほど。ここでもまた、自ら能動的に動いていかないと、自分の身体は改善していかないということを学ばされたのでした。筋トレは本当に奥が深いです。

qianchong.hatenablog.com

「ジジイ」を再生産しないために

昨日Twitterで拝見したこちらのツイート。分かるなあ、そうだよなあ。

この一連のツイートには「結局日本社会も出版業界もジジイたちが『俺の常識/実績』を振りかざして若者や女性の意見を取り入れない/活動の場を奪うとかしてきてる」という文章もありました。そうだよなあ、本当にそうだよ。

ただし、若い方々が「いい年をしたおじさんたち」や「ジジイ」をこうして批判するのは、現代に限った話ではないんでしょうね。私は三十代のころ、出版業界の端っこに連なっていた人間でしたけど、その当時の私たちも、その当時の「おじさん」や「ジジイ」たちに同じような苛立ちを感じていました。どんなに新しいアイデアを出しても「前例がない」とか「勝手なことするな」で握りつぶされて。すでにバブルがはじけて「失われた30年」と呼ばれる時代に突入していた頃の話です。

そう考えると、少なくとも高度経済成長期の神話が失われ、バブルがはじけてからこっち、日本のあちこちの業界で同じような状況が何度も再生産されてきたということになるんでしょうね。不毛だ。実に不毛です。

こういう言い方はいささか不謹慎かもしれませんが、オレは高度経済成長を担ったんだという自負を肥大化させたままの世代がそろそろ人生を引退されようとしている今のこの時期を乗り越えたら、つまりそうした「おじさん」や「ジジイ」たちがごっそりいなくなったら、本邦でもこうした不毛な状況も少しは緩和されるのかもしれません。

いやいや、それは考えが甘いかな。そのあとの世代、つまりバブル崩壊後の低成長期に社会に出た方々だって、長く業界で働くうちにこうした「おじさん」や「ジジイ」のメンタリティという衣鉢を脈々と受け継いでいるのかもしれないのです。私はまさにそのバブル崩壊後の第一世代とでもいうべき群に属する人間ですが、還暦を数年後に控えた自分が、そうした「おじさん」or「ジジイ」的存在に再生産されちゃってはいないと言い切れるでしょうか。

ちょっと前までは「絶対にそうはならない!」という自分の意志に自分で信頼を寄せることができていました。でもここ数年、その自分への信頼がいくぶん揺らいできたことを認めざるをえません。若い方々の一挙一動に何かしらの違和感を覚え、それに対してもの申したくなる自分を発見して驚くことが徐々に増えてきたのです。私はかろうじてそれを言動や行動には移していませんが、ヤな「おじさん」や「ジジイ」とは紙一重ではないかと感じています。

こうした変化はどこから来るんでしょうか。私は今のところ、あと数年のうちに(長くとも十年以内には)この業界や職場から身を引かなければならないという切迫感や寂寥感がもたらすものなんだろうなと自分で自分を観察しています。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_426.html

私は、今の職場で雇い止めになる歳になったあとは、できる限り今の業界や仕事とは関係のないところで「セカンドキャリア」を構築したいと強く願っています。そのために今から考えられることは考え、動けるところは動こうともしています。だから今の業界には逆になんの未練もないはずなのです。ましてや「俺の経験では」と昔取った杵柄を振りかざして若い方々の意欲を削ぐなんてことは絶対にしたくないし、しているつもりもありません。

でも、どんなに強がってみせても、それなりに心血を注いできた自分の業界の自分の仕事からかなりの割合で身を引く、あるいは完全に身を引くことがどこか寂しいんでしょうね。まるで自分の核がすっぽりと抜け落ちて、なくなってしまうような気がして。だから「俺の経験では」と何か爪痕を残しておきたくなってしまうのかもしれません。冒頭に引用したツイートに書かれている、「いい歳したおじさんたち」がなにかと出張ってきたがる心性の裏には、確実にそうした寂しさがあるような気がします。

雇い止めになるまでのあと数年、だから私は、今までの自分の仕事の仕方を意図的かつ積極的に捨てようと思っています。周囲の、とくに若い方々に教えを請い、意見を聞いて、それを「ガッツリ取り入れる」のです。組織全体でそれをやるのは色々なハードルが立ちふさがっている可能性もありますけど、個人単位なら今日からでもできます。それをひとりひとりがやって行けたら、その先に少しは明るい未来が見えてくるかもしれません。社会全体にも、そして私たち「ジジイ予備軍」自身にも。

スペックを下げようと思います

華人留学生がなかなか日本語を話したがらないーーというエントリを昨年書きました。

qianchong.hatenablog.com

華人留学生、つまり中国語圏の留学生さんたちは、日本語を学ぶために日本に留学しているというのに、中国語母語話者同士ではすぐに中国語での会話に戻ってしまいます。授業やアルバイト以外の時間は、ほぼ全てを中国語で過ごしているのです。

一方で非中国語圏の留学生は、お互いの共通言語が日本語だけ(+英語)という人が多いので、授業中も休み時間も絶えず日本語で話し続けています。そのため、うちの学校で二年間を過ごす間に、日本語の音声アウトプットに関してはかなりの差が開いてしまいます。

私はそうした華人留学生に対して、「中国語母語話者同士でも日本語で話しましょう。せめて教室の中だけでも」と言い続けて十数年になります。でも、これまでにそれにチャレンジして、堅持した方はひとりもいませんでした。チャレンジする人はいますけど、一日も経たないうちに挫折するのです。水は低きに流れる。母語で会話することの「ラクさかげん」に抗えないんですね。

今年の新入生にも同じように言いました。「芝居っ気を持って、中国語母語話者同士でも日本語で話してみましょう」と。さて今年、「最初のひとり」は現れるでしょうか。

ただこれは「積極的に日本語を使い続ける環境にいない」という、いわば「構造的」な問題なので、どうしようもないのかもしれません。私はかつて中国に留学した際、日本人と話す際にも必ず中国語で話すというのを(特に教室の中では)徹底していましたけど、それを同僚に言ったら「それは、アンタが特殊だからでしょ」と言われました。はっきり言ってそうことをするのは「変人」のたぐいなのだと。

同僚からは加えて、どうやっても華人留学生同士で日本語を話させることが不可能(十数年間、数百人に試して一度も成功していないのなら、それはもう不可能と断じてもよいでしょう)なのだとしたら、教師の責任として教材や教え方を変えるべきだと忠告されました。端的に言って、アンタの教材や授業方法は難しすぎて、つまり「スペックが高すぎ」て、私たちが担当している留学生には合っていないのではないかと。いや、本当にそのとおりかもしれません。

私がメインで担当しているのは、中国語と日本語の間の通訳訓練です。通訳というものは「あらかじめ音声を聞くことができない」というのがいちばんの特徴(事前に聴ける通訳業務があったなら、ものすごくラクでしょうね)なので、これまでは先に課題の内容を提示し、背景知識を学び、そこから語彙をピックアップしてグロッサリー(用語集)を作り、通訳の練習をする……というパターンで授業を組み立てきました。通訳作業の本質である「初見(初聴?)の音を聞き、音でアウトプットする」ことを大前提にしてきたのです。

でも、私はこの大前提を変えることにしました。つまり通訳訓練という枠組みをいったん捨てて、華人留学生のみなさんにできる限り日本語の音のアウトプットを促す方向で教材を作り直そうと。具体的にはまず先に教材の音声を聞かせ、そこから語彙をピックアップしてグロッサリーを作り(ここは同じ)、そのあと通訳の訓練をする前に、教材の内容について一問一答をしたり、要約して言わせたり、他の人と語彙や訳語をシェアしたり……という活動に十分な時間をかけるようにします。

それらの活動はすべて華人留学生に少しでも日本語の音のアウトプットをさせるためです。うちの学科が対外的に謳っている、卒業後の仕事の現場で求められるような通訳技術の涵養からはいったん離れる、いやそれはもうほとんど諦めようと思っています。通訳訓練に模した日本語の音のアウトプット訓練とでも言いましょうか。多少「看板に偽りあり」になってしまいますけど。

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https://www.irasutoya.com/2018/08/blog-post_574.html

うちの学校の華人留学生が日本語の音のアウトプットに非積極的なのは、端的に言ってその力がまだまだ弱いからです。だから恥ずかしい、だからますますアウトプットしなくなる。この悪循環をなんとか断ち切りたい。今になってこんな改変をやろうとしている私も相当愚かですが、とりあえずできることは何でも試してみようと思います。

そしてまた、「スペックが高すぎる」という批判に沿って申し上げるなら、これまでの私の授業は職業倫理やプロ意識を強調しすぎていました。実際、語学を駆使して食べていくのはとても大変なことなので、その厳しさを伝えることも大切だとは思います。でも正直なところ、留学生すべてが通訳者になるわけでもなければ、すべてが通訳技術の習得を求めているわけでもないんですよね。

中には「遊学」的に留学している人もいて、明らかに学習意欲が低い、あるいは知的好奇心にとぼしい人がいるのも事実です。でもそこはそれ、曲がりなりにも日本にまで留学しにきているのですから、それぞれの目的や理想や願望はもちろん、ある。それに、人は変わります。若いみなさんであればなおさら。だからまずは、こちらから変えていかなければと思った次第です。

フィンランド語 101 …日文芬訳の練習・その31

“Kuten vanha sanonta kuuluu(古い諺に曰く)”という表現はネットで見つけました。作文していて単語のつながり、つまりコロケーションに自身がない場合、Googleでそのフレーズを検索してみることにしています。たくさんヒットすれば使える。まったくヒットしなければ見当外れ。中国語の作文でもよくやっていました。

それにしても、自分の人生が終わるときには、ネット上だけでなく、自分の身の回りのリアルなモノたちもすべて処分したいです。最後はバッグ一個くらいの身軽さになって、そのバッグもろとも焼いてもらえたら最高だなと思っています。虚無的にすぎるでしょうか。

約14年前からG-mailを使い始め、今ではアーカイブしたメールが38000通近くになっています。先日、それらのメールを一挙に削除してしまえる機能があることに気づいてちょっと興奮しました。実際には過去メールが役に立つこともあるので、いまのところは消しません。でも人生の終わりには、メールはもちろん、ブログもFacebookTwitterもすべて削除したいなと思っています。「立つ鳥跡を濁さず」と言うではないですか。


Olin alkanut käyttää Gmailia noin 14 vuotta sitten, ja arkistossa on nyt lähes 38 000 sähköpostia. Äskettäin olin innoissani, koska huomasin, kuinka voin poistaa kaikki sähköpostit arkistossa. Oikeastaan en halua vielä poistaa niitä, koska mielestäni ne olisivat edelleen hyödyllisiä nyt. Mutta luulen, että haluan poistaa viestit Facebookissa, twiitit Twitterissä, blogikirjoitukset ja kaikki muut, kun elämäni päättyy. Kuten vanha japanilainen sanonta kuuluu: Linnut eivät riko pesää, jotka ne ovat lähdössä, eikö olekin?


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笑顔文化の違いがあるのかもしれない

就職活動真っ最中の中国人留学生(女性)が「一次面接に受かりました!」と教員室へ報告に来ました。素晴らしい! もともと外国人留学生の日本における就活はいろいろと厳しい状況があるところに加えて、昨今のコロナ禍でその大変さは例年以上です。ぜひ引き続き最終面接まで頑張ってほしいところです。

ところで、これはごくごく私的な印象なので一般化はできないと思うのですが、華人のみなさん、特に女性のみなさんはもう少し笑いを出し惜しみしないほうがいいのになあ、「にこにこ」すればいいのになあと思うことがときどきあります。まあ笑顔に男女の別はありませんし、そも、きょうび、女性・男性というカテゴライズで文化を語るのもあまり意味がないような気もしますが。

それに、別にみなさん仏頂面をしているというわけではありません。「○○人」というカテゴリーとは関係なく、人当たりのいい人もいればそうでない人もいる。それは当たり前のことです。ただ、私が長年(と言ってもここ二十年ほどですけど)観察してきた印象だと、時に日本人の悪い癖としてよくネットなどでも話題になる「ニヤニヤ」、つまり愛想笑いのたぐいが華人のみなさんには「なさすぎる」ために、就活の面接などでは不当なほどマイナスの評価を受けるようなことがあるのではないか……という感じがしています。

そういう華人と実際に話してみるととても気さくだったり、笑顔がこぼれたりということは当たり前ですけどよくあります。だからこれはあくまで表面的なものであり、本質的なことではないのですが、ときどきどこかに冷たいというかとっつきにくい印象を受けることがあるのです。

「クールビューティー」という言葉がありますが、ひょっとしたら華人女性のみなさんの、佇まいとしての理想はそのあたりにあるのかしら。あるいは、華人のみなさんが日本語を話すときには、母語ではないために多少緊張していて、それが顔に現れていて自然な笑みから離れてしまっているという可能性もあるかもしれません。

そんなこんなの雑駁な感想を韓国人の同僚に吐露してみたら、彼女も「何となく分かる」と言っていました。韓国人の彼女も、時に日本人から「ひょっとして……怒ってる?」と聞かれることがあったのだそうです。彼女としてはまったくもって普通にたたずんでいるところが、日本人からみると何か冷たいものを感じることがある……なにかこう「笑顔文化」みたいなものの違いが国や民族によってあるのかもしれません。今度親しい華人のみなさんの意見を聞いてみようと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_982.html

余談ですが、華人のみなさんの中には、言葉の息継ぎとして「舌打ち」をする方がままいます。これもご本人はほとんど無意識でやっていて、日本人が舌打ちに対して抱くようなネガティブな感情はまったく入っていないことがほとんどなのですが、そういう「文化」を知らない日本人にとっては誤解の小さなタネになっているんじゃないかなあと思います。

qianchong.hatenablog.com

追記

ネットで、こんなTシャツを見つけました。

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“I’m not angry. This is just my Finnish face.” わはは、フィンランド人はあまり表情を顔に出さない(出せない)シャイな方が多いと聞いたことがありますが、かの国の方々も「怒ってる?」とよく聞かれるんでしょうかね。