インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オンライン授業での学びにくさ

先週は公私ともに忙しくて、ジムのパーソナルトレーニングに行くことができませんでした。このジムにはずっと週二のペースで通っていたので、週末に顔を出したら「どうしました?」と心配されました。「やっぱりコロナ関係で忙しいんですか?」と。

確かにコロナ禍が始まって以来、なんだかバタバタバタバタ……と仕事に追われてきたような気がします。特に秋学期が始まってからは、オンライン一辺倒だった授業のカリキュラムが対面授業とのハイブリッドになり、学年によって登校日を変えたり、午前と午後で登校するクラスを入れ替えたり、なるべく「密」にならないような体制で授業が進んでいます。

でもその分、手間は二倍……とまでは言わないけれど、かなり煩雑になりました。対面授業は学生に通勤ラッシュを避けさせるため始業時間を遅らせる一方、オンライン授業は従来どおりの時間割。さらに学生が登校してくるのを狙って次の授業のプリント類を配ったり、オンライン授業で提出された課題をLMSのサイトに行って確認したり、その合間に次の授業のビデオを撮って編集とアップロードを行ったり。

いずれも必要な業務ですから、とにかく次々にこなしていくだけなのですが、ときどき「何やってるんだろう?」と思います。私は生来かなり飽きっぽい人間なので、こうやって自省モードに入っちゃったら黄色信号。だんだん仕事をする気がなくなってくるので、こうやってブログを書いたり、お能の練習をしたり、本を読んだりして気を紛らわせています。

オンライン授業も半年をこえ、だんだん要領は良くなってきました。でもその反面、オンライン授業における「物足りなさ」に耐え難くもなってきました。このブログでももう何度も書いていますが、オンライン授業特有のあの「隔靴掻痒感」がどうにも精神的に「くる」のです。

私が担当しているのは主に語学の授業ですから、そこでは音声の扱いがとても重要です。こちらの音声を届け、学生の音声を届けてもらう。そのインタラクションがとても大きな比重を占めているのです。ところが、現状のネット環境では、全員が音声をオンにした状態で授業を行うことができません。そこで私が常時音声をオンにしている一方で、学生は基本的に音声をミュートして参加しています。

発言や質問をするときには学生がそれぞれ音声ミュートを切って声を届けてきます。でもこれ、自分が学生側になって参加してみるとわかりますけど、わざわざ音声ミュートを切って発言するのってけっこう大変なんですよね。気持ち的にも、タイミング的にも。それで往々にして、授業では教師一人が延々声を届け続けることになります。

通常の対面授業だって、静かな学生さんを積極的に発言するために常に語りかけています。だからその点に大きな違いはないのですが、オンライン授業のミュートという、あの物理的に音声が切られている状態は、人を不安な状態に追いやるような気がしています。これも何度も書いた形容ですが、まるで山奥の静かな、波一つたっていない湖畔に立って、一人小石を投げ込み続けているような気持ちになるのです。

投げ込めども投げ込めども、あまりレスポンスや手応えがない、あるいは「打てば響く」感じがないというのは、かなりつらいです。授業というのは実は教師から学生への知識や技術の一方的な伝達ではないんですよね。学校なり企業なりで何かを誰かに教える経験をされた方ならたぶん同意してくださると思いますが、教えることは教わることでもあるのです。

誰かに何かを教えることで自分も教わっている。勉強になっている。自分は「こう」教えたのに「こんな反応」や「あんな反応」が、それも時には予想もしなかった方向から返ってくる。そうした自分の想像を超えた反応が帰ってくることで、結果的に自分も学ばされているのです。しかし、オンライン授業の音声ミュート環境ではそうした営みがかなり減殺されてしまう。

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https://www.irasutoya.com/2020/04/blog-post_838.html

そんな感じなことをトレーナーさんに話したら「分かります」とおっしゃっていました。このジムではコロナ禍で最初に非常事態宣言が出た頃、ジムを数ヶ月ほど閉じていました。その間トレーナーさんたちは、自宅から動画を撮って、フェイスブックのホームページに公開されていました。自宅でもできる簡単なトレーニングを、それぞれが工夫して教えてくださっていたのです。私もそんな動画を見て自宅や職場で「自主トレ」をしていました。

先日話をしたトレーナーさんはその時の経験として、「確かに、あるトレーニングのメニューを動画で紹介して、相手から何の反応もない中で『はい、では次に行きましょう』とやっていると、なんだか虚しかったです」と言っていました。よく分かります。普段のジムでの指導なら、トレーナーさんがそうやってメニューを提示して、私たちがやってみる。当然身体の使い方や姿勢などがよくないので、その都度トレーナーさんが手を添えたり声をかけたりして細かな調整を指導する……それが一方的な動画ではなくなってしまうのです。

トレーナーさんとしても、自分はこう教えたのに私はこんな動きをした、そこで「じゃあこういう言い方で指導してみようか」「この人に分かる形で言語化するにはどうしたら?」「ちょっと余裕をカマしているみたいだから負荷を上げてみよう」などといろいろ考えますよね。それがトレーナーさん自身のコーチング技術に良きフィードバックをもたらしているのです。

こちらが100教えたら、相手から120返ってくることがある。それが「教えること=学ぶこと」のダイナミズムなのです。でも一方的な動画でのレクチャーには「それ」が発生しない。リアルタイムのZoom授業であっても、音声ミュートがデフォルトの環境ではやはり「それ」が極端に少なくなる。私はそう考えています。

「なにもない」に戻っていきたい

大学生の頃に、アルバイト先の女性スタッフ(別の大学の学生さん)とこんな会話をしたことがありました。血気盛んな私が「いつかこの世界に爪痕を残すような仕事をしたい」と言ったら、その学生は「えー? 私はできるだけ何も残さないようにしたいけど」と言ったのです。当時の私はその感覚がまったく理解できなかったのですが、それから何十年も経た今では彼女の言っていたことが何となく分かるようになりました。

昨日は趣味で続けているお能の発表会でした。目黒の喜多能楽堂で、午前中から夕方まで謡や仕舞や舞囃子など、日頃のお稽古の成果を披露するのです。新型コロナウイルスの影響で、舞台裏もいろいろと様変わりしました。みなさん基本マスクをつけて、舞台に出る直前に外す方が多かったですし、控室も飲食をする部屋と着替えをする部屋が別々に用意され、換気にも留意していました。もちろん能楽堂に出入りするときは名前と時間を記帳し、体温測定も。

お弟子さんの中にも、新型コロナウイルスの影響で公私ともに変化があり、今回は参加できなかったり、一部の参加にとどめたりした方が多くいたそうです。来年の発表会までにこの状況が収束しているとはとても思えませんので、こうやっていろいろなところと折り合いをつけていきながら、新しい形を模索していかなければならないんでしょうね。

私は連吟で「高砂」のワキを謡わせていただいたほか、いくつかの舞囃子地謡に入り、自らは「融」の舞囃子をつとめました。この「融」、途中に早舞(はやまい)という舞が入っていて、お師匠からは「月を愛でつつ、遊興の境地」でと言われていたのですが、お稽古ではまずは行き道を覚えたり、拍子のタイミングを間違えたりしないように気を使うのが精一杯で、とても「遊興」という感じではありませんでした。

それでも本番の二日前に行われた申し合わせ(リハーサルのようなもの)では一応間違いなく舞うことができ、その際に自撮りしたビデオを見て摺り足があまりできていないのと歩幅が大きすぎるのを反省して、本番ではなんだかあまり緊張せずに舞うことができました。「遊興」という感じではなかったものの、はじめてこの舞囃子を舞って「楽しいなあ」と思いました。終了後にお師匠からも「楽しそうに舞われていましたね」と言っていただきました。

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▲申し合わせのときの映像。

発表会ではプロの撮影師さんにDVD映像を撮ってもらうこともできるのですが、私はここ数年はお願いしないようになりました。申し合わせは自分で撮りますが、本番は、それほど明確な理由はないものの撮らなくもいいかなと思って。後学のためには撮っておいたほうがいいと思いますけど、私は昔から自分の過去の作品を残すみたいなのが、なんとなく苦手なんです。

学生時代から描いてきた絵とか、作ってきた彫刻みたいなものはすべて処分してしまいましたし、仕事の映像や音声(通訳してるところとか)も、学生さんの反面教師として供する以外のものは全く残っていません。それらはしかし、自分の体の中には記憶として残っているはず。そして、それだけでいいんじゃないかと思うのです。お能の舞も自分の身体の記憶として残っていくだけ。私が死んだら、その時点でこの世に何も残さずに終了。それでいいかなと。虚無的にすぎるでしょうか。

じゃあこうやって書いているブログはどうなんだというハナシになりますね。まあこれは過去の自分の文章を読み返して煩悶するために残してあります(過去も相当幼い文章を書いていましたけど、今に至るまであまり変わっていないなと思います)けど、これも人生を終えるときには消したいなと思っています。

お能はなにもない舞台から世界が始まって、最後はなにもない舞台に戻って終わります。こんなことを言うとお師匠からは怪訝な顔をされるかもしれないけれど、私はお能のこの「いさぎよさ」みたいなものが大好きで、そこに強く惹かれている人間です。だから自分も、この世にあるときには精一杯存在していたいけれど、最後は「なにもない」状態に戻っていきたいなと思うのです。

外語の報道から日本を見つめよう

先日、Twitterのタイムラインでこちらのツイートを拝見しました。「政治報道の劣化が政治の劣化を招いた」。本当に、その通りだと思います。

政治報道のみならず、日本の大手メディアの劣化はかなり深刻だと感じます。ここのところの数日間も、NHKを始めとするテレビの毎正時のニュースや、各局看板の報道番組はいずれも冒頭から嬉々として(?)米大統領戦の詳細な分析をやっています。ある意味、ほぼアメリカの属国みたいな日本の政治の現状を如実に反映していると思いますし、もちろん大統領選の行方が国際社会や経済などに与えるインパクトも理解できます。

それでも、まるで自分の国の国政選挙が行われたときのような「はしゃぎっぷり」。普段どれだけ国政に関する報道をしているだろうかとを少しは省みる気持ちもないんでしょうか。まずは国内の諸問題を取り上げ、自分の国の今とこれからを見据えた報道をしようという矜持すらないのだろうかと思います。

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https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_49.html

こうした大手メディアに愛想を尽かしている層は多いと思います。私もいまや、新聞やテレビの報道はほとんど話半分という態度でしか眺めていません。コメンテーターが並ぶモーニングショーみたいなのはとっくに見なくなっていますし(もとより仕事の時間的に見られないんですが、朝活のジムのサウナで見ることがあります。毎度その低俗さに呆れます)、毎正時のニュース番組にも期待しなくなりました。

紙の新聞はまだ購読していますが、これは言ってしまえばほぼ「文芸的趣味」みたいなもので、ジャーナリズムとしてはもうほとんど期待していない自分がいます。文芸的趣味ならほかの媒体でもじゅうぶんに楽しめるので、そろそろ購読をやめようかなとさえ思っています。

教師を生業としていて、かつては学生に「新聞を読みましょう、新聞読まないとバカになりますよ」的なことを吹聴し、通訳学校でも「毎朝、新聞を開いたら、日本と中国語圏に関する記事はどんなに興味がなくても目を通しておきましょう」などとエラソーに言っていた自分が、もう新聞は取らなくてもいいかなと思うようになる日が来るとは思ってもみませんでした。

まあマスメディアというものはどこの国でもそれなりに偏向なりかかっているバイアスなりがあって、何か一つに頼っていれば世の中が分かるというものではありません。だから自分としては、テレビだけでなく書籍やネットの情報を比較するとか、新聞も多少傾向の違う何紙かを読み比べるとかしては来たんですけど、日本の大手メディアをご贔屓にする気持ちがどんどん薄れていくのを感じています。

ただひとつ、ほんのわずかな存在理由があるとすれば、海外のメディアとの比較においてでしょうか。日本の大手メディアが報じない・論じない・問題視しない事柄がわかりますし、外から日本がどう見られているのか(もちろん誤解や曲解も含めて)もわかります。そのために英語や中国語を学ぶというのはアリですよね。そうだ、これからは「外語を学んで、外語の報道に接し、その視点から日本を見ましょう。じゃないとバカになりますよ」とでも吹聴しようかな。

GoToキャンペーンの「はしたなさ」

とある新聞の投書欄に、こんな趣旨の意見が載っていました。「最近のテレビのワイドショーでは『GoToキャンペーン』の話題が花盛りで、いかに特典をうまく使うかの紹介を競っているが、本当に困っている人はそれどころではない……」と。私も、景気を刺激するための何らかの政策は必要だろうなと思いながらも、お金(もとは我々の税金)を使うならもっともっと必要なところがあるのではないかと「GoTo」には違和感を持っていたので、共感することしきりでした。

「GoToキャンペーン」という税金の使われ方に違和感があるので、私はこれまでこのキャンペーンを利用してきませんでしたし、これからも利用する気はありません。一部の業界だけ優先的に儲けさせるこの政策はやはり奇妙に感じますし、百歩譲って、それが回り回って経済全体を刺激し、私たちのためになるのだとしても、なんだかそういう「今使わないと損!」みたいなのに我も我もとたかる(おっと、言葉がすぎました。乗っかる)のが、どうしても「はしたない」と思ってしまうのです。

そう思っていた先週、勤め先の学校では毎年恒例の留学生の日帰り遠足が行われました。私も「引率」という形で参加したのですが、遠足の最後にバス会社のスタッフから大きな包みを渡されました。留学生全員プラス我々教職員もです。中身はお菓子や農産加工品などのお土産詰め合わせでした。

昨年までの同様の遠足でこんなお土産をもらったことはなかったので、ちょっと怪訝に思っていたら、案の定「GoTo」キャンペーン絡みでした。補助される金額だか、地域振興クーポンだかで予算が余ったので、お土産をつけてくれたのだと。予算ギリギリまで近づけるためか、同じお菓子がふたつ、みっつと入っていました。

留学生も教職員も喜んでいたけれど、私はとても後ろめたい気持ちになりました。バス会社だって返されても困ると思ったので、いただいたお土産はほとんど学校の教員室に置いて非常勤の先生方で分けてもらうことにしましたが、今でも後味が悪いです。私の周囲では「GoTo」を使って旅行に行ってきたとか、旅行を計画しているという人もけっこういます。でも私はその話題に無邪気に乗ることができない。こういうお金(税金)の使われ方は望むところではありませんし、感染症対策としても間違っていると思います。

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https://www.irasutoya.com/2019/07/blog-post_90.html

先日ジムのランニングマシンで走っているときにYouTubeの「一月万冊」を視聴していたら、日本の五輪組織委員会が出張経費を浮かすために「GoTo」の利用を積極的に勧めているという話題をやっていました。みなし公務員である組織委員会のメンバーが利用するのは政府通達でご法度とされているにも関わらず、です。


オリンピックの不祥事か!?独自内部文書入手!政府通達無視する五輪組織委員会の傲岸不遜。国民の税金の使われ方。元博報堂作家本間龍さんと一月万冊清水有高。

ほんとうにもう「はしたない」というか「あさましい」というか、呆れるばかりです。

丁寧に考える新型コロナ

岩田健太郎氏の『丁寧に考える新型コロナ』を読みました。「もう、『分かったつもり』はやめよう!」と帯の惹句にあるとおり、検査について、マスクについて、リスクヘッジについて……感染症専門の臨床医の立場から丁寧に説明されている本です。書名のとおり、とても丁寧に説明されており、岩田氏独特のユーモラスな筆致もあってとても読みやすいのですが、正直、内容は素人にはけっこう難しいです。

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丁寧に考える新型コロナ (光文社新書)

というか、このいま猛威を振るっている新型コロナウイルス自体が、とてもやっかいで正確に理解するのが難しいタイプのものなんですね。岩田氏は「人類史上いちばん変なキャラのウイルス」とおっしゃっています。そしてその理解しにくさは、私たちのような素人だけでなく、医療関係者であっても感染症に関する最新の専門知識に手薄な場合、簡単に誤解してしまうという類いのものであるらしい。

このウイルスの流行が始まってからこちら、私も様々な情報に接しながら自分のスタンスを変えざるを得ない状況に直面しました。ブログに書いていたことを振り返ってみても、感染のメカニズムやリスク回避の方法(例えばマスクの使い方など)について、あまりにも素人な考えを披露してきたものだなあと恥じ入っています。やはり専門家の言うことに謙虚に耳を傾けるべきだと改めて思いました。

この本でとても印象深かった点は二つ。ひとつは感染症の専門家が持っている「きれい」と「きれいじゃない」を感得し分けるその感覚の話。そしてもうひとつは日本におけるリーダーシップのあり方とその問題点です。

岩田氏は日本で新型コロナウイルス感染症の問題が急速にクローズアップされた、あのダイヤモンドプリンセス号の現場に入った際、短時間でそこを追い出されることになり、その時に感じた問題点をネットで発信して話題になりました。そのあたりの詳細も本書で語られていますが、氏はダイヤモンドプリンセス号に入った際、きちんと感染経路が遮断できるようなゾーニングができていないと感じた点について、こう述べています。

感染経路さえ遮断できていれば、感染症は予防できる。100年以上前に微生物学の巨人、パスツールが確立した(ほぼ)真理です。だから、我々感染防御のプロは、感染経路をきちんとイメージし、これをいかに遮断するかを感染対策の「キモ」とします。長くやっていると、それぞれの感染症の管制経路はビジュアルにはっきりとイメージできるようになります。(中略)ちょうど、良いサッカー選手がドリブルやパスの経路が「見える」ように。(224ページ)

だからダイヤモンドプリンセス号でも感染経路が見えてしまったと。「感染症的な『きれい』を感得するには、年季がいるのです」ともおっしゃっています。私はこの、知識と技術に熟達した人にのみ「見える」、感得できるという点が非常に重要だと思います。だからこそ専門家の意見に耳を傾けなければならず、素人が勝手な解釈で専門家を振り回してしまってもいけないのです。

そしてまたそうした専門家を振り回す素人が日本のリーダーたちの中にもいるという点が大きな問題です。「アベノマスク」や「小学校の一生休校」から現在の「GoToキャンペーン」まで、何度も首をかしげざるを得ない状況がこの国には出来し続けていますが、岩田氏はその原因のひとつとして(氏はそうハッキリおっしゃっていませんが)リーダーシップの不在を挙げています。

日本のリーダーはどちらかというと調整型なんです。要するに「俺たちの部署全員PCRしろ」と詰め寄って来る人たちに、「まあまあまあまあ」と言って、みんなをなだめて回るタイプです。それが組織のトップのメインの仕事になっている。「いや、今はそういうことではなくて、感染対策にまず邁進して、みんなの安心はその後だ」というようなことを言ってくれるリーダーは非常に希有なんです。(314ページ)

そしてまた、こうした未知の感染症に立ち向かう際の姿勢としての臨機応変さの欠如、ここにも岩田氏は日本独特の風土を感じ取ります。

感染症対策について)日本の場合は、この行きつ戻りつっていうのが、若干、苦手というふうにぼくは感じています。「みんなで決めたんだから」ってい日本でよく言われる言葉があって、決めてしまったら動けない。前に行くにしても、後ろに下がるにしても、です。つまり、ものを決めるときに空気で決めるので、その空気が醸成されてしまうと、もう引き返せないんです。(中略)だから日本では、いったん「自粛モード」になると、途端にみんなすごく極端になって、自粛モードで勝手にやってくれる。でもこれは、別に日本人が勤勉だからでも規律正しいからでもなくて、同調圧力がやたらと強いだけなんですね。みんなでオッケーモードになると、今度はみんなオッケーになっちゃうんです。それがまあ、一つ、大きい問題かなと思いますね。(333ページ)

今回のこの新型コロナウイルス感染症は、日本の私たちの暮らしや仕事のあり方に大きなインパクトを与えつつあります。私たちはこの経験を、感染症予防にとどまらず、もっと広く大きな視点でとらえ、世の中のあり方を少しでも良い方向へ変えていく契機にしなければならない。岩田氏のこの本を読んでそんなことを考えました。

スーパーでケチにならなくてもいいかな

ジムの休憩時間中に、トレーナーさんと「人はなぜスーパーでケチになるのか」について話をしました。お店で飲むときなど、ひと皿800円程度の料理だったらぽんぽん注文しているくせに、スーパーでひとパック800円のお肉にはなぜ手が出ないのかと。

当たり前じゃないか、お店は食材をプロの技術で美味しく料理して出してくれるわけだし、食器の後片付けも必要ないし、そもそも場所代やお店の雰囲気代(?)だって「込み込み」の値段なんだから。それはまあそうなんですけど、同じ食べ物なのに金銭感覚があまりにも違うというの、考えてみれば不思議だなと思って。

私はもともと外食が極端に少ない人間です。たぶん一年を通して十回程度しかお店で食べることはないと思います。月に一回外食すればいいかどうかというところですね。以前はもっと外食していました。飲みに行くことも好きでしたし、お昼に大好きなラーメンを食べ歩いたりもしました。でも年をとるにしたがって、まず(主に)東京の塩辛すぎる味つけを受け付けられなくなり、飲める量が極端に落ち、食事をした後に家まで帰るのさえ億劫になるにいたって、外食がとても少なくなりました。

お昼もたいがいお弁当を作って持って行きます。味噌汁だけ保温ジャーに入れて持って行って、おにぎりはコンビニで買うということもありますが、コンビニ食もとにかく塩辛すぎて具合が悪くなるほどなので、できるだけ買わないようにしています。日本の外食や加工食品類は、どうしてあんなに塩辛いんでしょうね。もっとも、私も何十年か前を思い出してみると、外食の塩辛さはそんなに気にしていなかったように思います。やはり年のせいなんでしょう。

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https://www.irasutoya.com/2013/05/blog-post_48.html

ともあれ、スーパーでの買い物です。お店だと800円どころか、1000円、2000円くらいする料理だって注文できるのに、お酒だって500円、600円とするものを何杯もおかわりしているというのに、スーパーでは1円単位まで値段を吟味しているというのも、なんだか変な気がします。今の私にとっては、もうお店で高くて塩辛い料理を食べるより、同じ値段でスーパーのちょっとお高い食材を買って、自分で好きなように料理して食べる方がいいです。

居酒屋で一回3000円払うとして、その3000円があればステーキ肉のかなりいいのが買えます。それをシンプルに焼いて、塩とかわさびとか最小限の味付けで食べるほうが、なんだかものすごく豊かで幸せな気がするのです。

お酒も同じです。ワインの資格を取るときに学んだことですが、お店で供されるワインはだいたい原価(市価)の三倍程度の値段設定にすることが普通です。つまりレストランのメニューでボトル10000円のワインがあったら、それはデパートや酒屋さんでは3000〜4000円程度で売られているワインなんですね。もちろん雰囲気や磨かれたグラスなどお店ならではの付加価値はありますが、ちょっと私には贅沢すぎるかなと思います。

というわけで、私はスーパーであまりみみっちく買い物しないことにしました。もちろん毎日は無理だけど、週末くらいはステーキ肉とか、マグロのさくとか、もうどーんと買っちゃう。……といったって、1000円、2000円程度ですけど、お店で飲み食いすることに比べたら、それほどの出費じゃないと思うようになったのです。残りの人生ももうそんなに長く残っていないし。

フィンランド語 69 …日文芬訳の練習・その6

先日のオンライン授業で、先生が「語学学習とは?」と題してこんなことをおっしゃっていました。

1.学習した単語を暗記する(毎回最低5分)。
2.文章で使われた文法事項を理解する。
3.文章で使われた語形変化をすべて作ってみる。
4.文章を日本語に訳し、違いを学ぶ。
5.訳した日本語をフィンランド語で書いてみる。
6.訳した日本語をフィンランド語で話してみる。
7.これが終わったら以前に学習したことの復習をする。
1から7をバランスよく平日は繰り返して勉強する。

なるほど〜。3の「語形変化」はフィンランド語ならではですけど、それ以外はどんな語学にも共通することですよね。私は1は通勤電車の中でやっていますが、教科書に出てくる語彙がどんどん増えてきて、なかなか定着しません。2も特に時制による変化の理解がまだ曖昧な気がしています。あと「条件法」とか「受動態」とかの理解も。

4は外語学習の醍醐味ですよね。自分の母語との違い、つまりこの世界の切り取り方の違いを感じられる瞬間が、語学で一番エキサイティングなところじゃないかと個人的には思っています。5は毎週ほそぼそと続けていますが、6はまだ全然やっていません。そうか、せっかく先生に添削していただいたのですから、自分の書いた文章を暗記して口慣しすればいいんですね。なにせ自分の書きたいことを書いたわけですから、一番自分に馴染んでいる内容なんですし。

「平日は繰り返して勉強する」というのは、先生ならではのお考え。先生は、暮らし全部が語学に取られるなんて不健全だと考えておられるようです。私も全く同感です。語学は一定程度精力を傾けて取り組む必要はありますが、何も人生すべてをかけなくていいし、またその必要もないと思います。平日の隙間時間を利用して一生懸命学ぶのはいいけれど、休日は他のことをやって息抜きしたほうがいいかもしれません。語学に「胆」を取られないためにも。

中年になって、ずっと身体の不調が続いていました。肩こりと腰痛がひどく、毎日とても疲れて気持ちも落ち込むのです。そこでジムに通って「筋トレ」をすることにしました。通い始めて三年ほど経ち、今では調子が良くなり、筋肉もつきました。「筋トレ」と聞くと「ボディビルダー」のような体型を目指していると誤解する友人もいます。でも私はそうではありません。心と身体の健康のために、これからもジムに通おうと思います。


Keski-ikäisenä olin jatkuvasti ollut huonossa kunnossa. Minulla oli hirveästi olkapään ja alaselän kipua, tunsin itseni kauhean väsyneeksi ja masentuneeksi päivittäin. Sitten päätin mennä kuntosalille, ja aloitin painoharjoittelun. Noin kolmen vuoden jälkeen, olen tullut terveeksi ja lihaksikkaaksi. Jotkut ystävät ehkä ymmärtävät väärin, että haluan olla niin lihaksikas kuin kehonrakentaja, mutta en ole ollenkaan. Haluan käydä jatkuvasti kuntosalilla henkisen ja fyysisen terveyden vuoksi.


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「できる」のあれこれ

フィンランド語のオンライン授業で、先生がこれまでに習った「できる」系の動詞についてまとめてくださいました。「各自、整理して確認しておいてくださいね」と言われたので、私も授業でノートに書き留めたものを整理しておこうと思います。

能力的に「できる」

osata + 不定詞:Minä osaan puhua suomea.(私はフィンランド語を話すことができます。)
pystyä + mAAn:Minä pysytyn puhumaan suomea.(私はフィンランド語を話すことができます。)

可能性として「できる」

voida:Minä voin tulla huomenna.(私は明日来ることができます。)
taitaa:Hän taitaa olla suomalainen.(彼は多分フィンランド人です。)
saattaa:Tänään saattaa sataa vettä.(今日は多分雨が降ります。)
「多分」というのは日本語としては「できる」感が薄いですが、「その可能性・実現性がある」ということで「できる」系なんですね。

気力で「できる」

viitsiä:Minä viitsin nousta kello neljä aamulla.(私は朝4時に起きることができます。)
jaksaa:Minä en jaksa tehdä mitään.(私は何もできません。)

勇気があって「できる」

uskaltaa:Minä en uskalla sanoa sitä hänelle.(私はそれを彼に言えません。)

あと、個人的には“saada(もらう・してもよい)”も「できる」系かなと思います。

してもよいので「できる」

saada:Täällä ei saa polttaa.(ここでタバコは吸えません。)

それぞれの動詞のイメージと結びつけて使い分けなければならないですね。そう言えば中国語にも同じような「できる」系のバリエーションがあります。“會(会)”と“能”と“可以”です。いずれも多様な意味があってひとことでは説明しにくいですが、「できる」という意味だけにしぼれば、おおむね次のようになっています。

習い覚えた結果「できる」

會(会:huì):他會游泳。(彼は泳げます。)

能力があって「できる」

能(néng):他能有一千米。(彼は1000メートル泳げます。)

許されていて「できる」

可以(kěyǐ):這本書你可以看看。(この本を読んでも構いません。)

もちろん“能”は「許されていてできる」場合にも使えますし、“會”には「未来の蓋然性」を表すなど多様な表現がありますが、いずれにせよフィンランド語も中国語も、日本語とは違う発想で世界を切り取っていることがわかって面白いです。語学の面白さって、こういうところにもあるんですよね。

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Voinko pysäköidä autoni tähän?

言語化が難しい「身体の使い方」

ジムでトレーナーさんと一緒に筋トレをしていると、トレーナーさんがあれこれの言葉を駆使してトレーニングのポイントを教えてくれます。その説明の仕方がトレーナーさんによっていろいろと異なっている(当たり前ですが)のがとても興味深いと思いました。

例えばベンチプレス。私はいまのところ60kgのバーベルを12回✗3セット挙げられるようになるのを目標にしているのですが、なかなか達成できません。ちょっとした壁に突き当たっているところです。トレーナーさんによれば、この段階になると単に胸や腕の筋肉の力だけで挙げるのは難しく、お腹や両脚など下半身も使って挙げる、つまり全身の使い方がポイントになるとのことです。私の場合はその全身の使い方がまだまだ洗練されていないというわけですね。

あるトレーナーさんは、バーベルを下げた時の肩甲骨の動きについて注意を促します。またあるトレーナーさんはバーベルを下げきったときの反動を利用するように指導してくれます。また違うトレーナーさんは上半身の筋肉をバーベルを持ち上げる方向で力を出すよう意識すると同時に腹筋は逆にベンチ台に押し下げるような意識を持つように言います。それぞれ、私の身体の使い方に欠けている部分を補おうとしてくださっているのです。

先日は、普段は床につけている両足をベンチ台に上げて、バーベルを持ち上げる際にお腹も同時に浮き上がらせるように指示されました。つまりベンチ台に肩と両足だけがついている状態にして、お腹をぐっと持ち上げつつバーベルも挙げるのです。そんなことできるのかな、背中全体がベンチ台についていなかったら余計に挙げにくくなるんじゃないかなと思ったのですが、やってみると普段よりも力が出せることに気づきました。こうやって腹筋をぐっと締め、足で踏ん張る力をすべて胸筋に伝えて、より重いバーベルを挙げられるようにするというわけです。そうやって下半身を効果的に使う感覚を学んだ上でベンチプレスに取り組みなさいと。

私は毎回トレーニングに行くたびに、こうやってトレーナーさんが「あの手この手」の言葉を駆使して、表現することが難しい身体感覚をなんとか言語化しようとされる姿にある種の感動を覚えます。世の中には精神論ばかりぶって「バーっとやれ」とか「チャチャッと、こうだ」みたいな言語化をなかば放棄したような指導も多いですが、きちんと考えている人は言語化にこうやって腐心するものなんですね。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

そう言えばお能の世界も同じです。お師匠も毎回のお稽古で、言葉にするのはなかなか難しいのだけれど、またすべて言葉にできるものでもないのだけれどと言いつつも、いろいろな角度からこちらの身体の使い方の、いたらない点を指摘してくださいます。お能にせよ、筋トレにせよ、学ぶこちらとしてはそうやって言語化されたものの中から、できるだけその言語の奥にあるものを想像して自らのものにしていく傾聴の姿勢が必要ということになるのでしょう。

いやいや、毎回申し上げていますが、まことに奥深いものがありますな。

留学生の「インタープリターズ・ハイ」

先日、勤めている学校のひとつで留学生クラスの通訳実習を行いました。外部から様々なご専門の講師をお招きして講演を行っていただき、それを通訳するというものです。単に講演当日に通訳するだけではなく、「自分が実際にこの仕事をうけたらどんな準備をするか」というところまで含めて課題にしています。というわけで、今回も講演会の数週間前から、講師の先生に講演用のPowerPoint資料をご提供いただき、それを元にグロッサリー(用語集)を作成し、リハーサルなども入念に行って「本番」に臨みました。

今回の講師は、アフガニスタンを中心に国際援助のお仕事を長年行ってこられた日本の方です。訳出形式は逐次通訳、訳出方向は「日本語→英語・中国語」。ただし学生が多いので、順番に通訳しているとなかなか出番が回ってこず、実習になりません。というわけで、今回は12チャンネルのパナガイドを用いました。

パナガイドは発信器と受信機がセットになったシンプルな通信機で、簡易的な同時通訳やウィスパリング通訳などでよく使われています。12チャンネルあるので、英語クラスと中国語クラスをそれぞれ六つの班に分け、同時並行的に訳出を行い、一定時間ごとに交代していくことにしました。こうすれば二時間半ほどの講演時間でかなりの回数「出番」が回ってきます。

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聴衆は下級生の留学生と教職員です。聴衆はパナガイドの受信機で、自由にチャンネルを変えながらそれぞれの訳出を聞き比べることができます。実習とはいえ聴衆がいるので(しかもそのほとんどの人が英語や中国語を解するので)通訳者役の留学生も気が抜けません。

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普段の授業ではお互い見知った間柄ですし、通訳訓練と言ってもやや緊張感に欠けるのですが、この実習は講師の先生もいらっしゃるし、聴衆も厳しく訳出を吟味するので、学生もより真剣になります。しかも今回は中央アジアの地名や人名が頻出し、国際政治や政府間協力に関する専門的な語彙も多いので、みなさん事前学習にかなり力を入れていました。留学生にとっては日本語の外来語(カタカナ語)がかなりの「鬼門」です。日本語特有の「母音ベタ押し」で発音されるため、仮にその単語を知っていてもとっさに反応できないことが多々あるのです。

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それでも留学生諸君はとても頑張って通訳していました。毎年思うんですけど、みなさん本番に強いというか、いや、本番にならないと本気を出さないと言うべきか、普段の授業からは想像もつかないほど達意の訳出をしている人が何人もいました。やはり訓練にはこういうリアリティも必要ですね。本当は普段の授業も毎回こうありたいものですが、予算的に毎回講師をお招きするわけにもいかず……。

講演会の最後には「質疑応答」の時間も設けました。今回の講師の先生は英語もロシア語も達者な方ですが、日本語以外一切分からないという設定でご登壇いただき、会場から英語や中国語で質問を出します(われわれ教師が担当します)。その英語や中国語を日本語に訳して講師の先生に伝え、講師の先生の日本語による答えをまた英語や中国語に訳し返すところまで行います。

私も中国語で、アフガニスタンがらみで昨年銃撃に遭って亡くなられた中村哲医師に関する質問をしました。わざと(?)フォーマルな表現を使って、ちょっと高尚で難しい質問を出します。でも留学生のみなさんは慌てず騒がずかなり上手に訳していて、講師の先生からも的確なお答えが返ってきました。

質疑応答の時間というのは、通訳業務の中で最も緊張する瞬間です。講演に関するないようとはいえ、事前に予習することが難しいからです。また(特に日本の講演会の場合)ときに「とんちんかん」な質問をするオジサンとか、質問ではなく自分の意見や感想ばかり滔々と述べ立てるオバサンとかが多くて、通訳者と後援者と主催者が大いに困惑することも多い。

でも不思議なことに、そういう一種の「修羅場」でこそ、なぜかいい訳出ができたりするんですよね。人間、追い詰められると逆にアドレナリンかなんかが大量に分泌されて普段以上のパフォーマンスが発揮されるのかもしれません。長時間の通訳をしていると、ときに「インタープリターズ・ハイ」とでも言うべき、一種の高揚状態に陥ることがあります。なんだかいくらでも訳出できるような全能感に包まれることがあるのです(長くは続きませんが)。留学生のみなさんも、そんな「ハイ」を味わってくれていたら嬉しいなと思います。みなさん、お疲れ様でした。

Zoomの授業でスマホの画面と音声を共有する

中日通訳のクラスで、学生さんと一緒に固有名詞(地名や人名など)を覚えるときにスマホのQuizletアプリを使っています。固有名詞は文脈や文の前後に関係なく登場する独立した情報であることが多いので、「脊髄反射」的に訳語が出ないと即アウト!……ということでフラッシュカードを使って覚えるわけです。

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クラスで最初にこのQuizletを導入するとき、できれば自分のスマホ画面をみなさんと共有して、こういうふうに使います〜というのをレクチャーしたい。で、教室ではスマホをプロジェクターとつないで投影していますが、Zoomによるオンライン授業でもそれができないかなと考えました。

Zoomの共有機能には「iPhone/iPad(AirPlay使用)」というのがあって、以前から気になっていたんですよね。それで試してみたら、拍子抜けするほど簡単でした。まず画面の共有をします。このとき「コンピューターの音声を共有」にもチェックを入れます。

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そうすると、Wi-Fiに接続して画面のミラーリングをするよう指示されます。なぜか中国語で指示が出てますけど、これは私のノートパソコンに中国語のインプットメソッドが入っているからかな?

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iPhoneの画面右上から下に向かってスワイプしなさいと(中国語で)書いてありますね。普通は日本語で出ると思います。そうすると、一番左の画面になって「画面ミラーリング」のボタンがあります。それを押すと共有されるZoomが表れるので(真ん中)、選ぶとボタンが白くなって共有完了(一番右)。

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これでZoom上ではこんな感じで共有されました。緑色の枠内が、Zoomの参加者と共有されています。この状態でスマホ上のQuizletを操作すると、音声も共有されました。通信の状態で音が途切れたり出なかったりすることもありますが、続けているうちに安定するみたい。

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なかなかいいですね。Quizlet以外にも授業ではシャドーイングやリプロダクションなどで使えるスマホアプリを紹介したり、『得到』みたいな教材用動画サイトを紹介したりすることが多いのですが、これからはZoomを使ったオンライン授業でも同じようなデモンストレーションができます。

パソコンの画面を共有する方がはるかに簡単ですが、きょうびの学生さんはパソコンを持たず、スマホタブレットだけという方も多いので、実際にそうした画面で使ってみせるとよりリアリティが湧くんじゃないかと思います。私はスマホで試しましたが、たぶんタブレットでも同様にできるはず。Androidスマホは……分からないけど、たぶん方法はあるはず。ネットで検索してみてください(ごめんなさい)。

喫煙者を応援しよう

私の勤務場所のひとつは東京の新宿にありまして、朝の通勤時に駅から職場に向かう途中、大通りと並行して走る裏道では毎日こんな光景が見られます。この通りは行政区分上、渋谷区に属していて、区では「屋外の公共の場所では喫煙しない」「たばこは決められた場所のみで吸うことができる」という『渋谷区喫煙ルール』を定めているんですけど、こうした裏通りでは完全に無視されています。

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表通りではさすがに「おおっぴら」には吸えないのでこうして裏通りに、それも「同好の士」が集う場所が自然発生的にできているわけですね。これは今年四月から全面施行になった改正健康増進法の影響で、公共の場所やオフィスなどあらゆる建物や施設からほぼ喫煙所が廃止されたことによるものです。

屋内での喫煙が厳しく制限されている諸外国でも同じような光景が見られます。もちろん屋内でタバコの煙に悩まされなくなったのは素晴らしいことなんですけど、単に法律で一律に禁止しても、こうして受動喫煙の害は残り続けるんですよね。私、ここを通るときには息を止めて走り抜けてますもん。

でも私は、喫煙者のみなさんにもちょっと同情します。タバコに依存している方々にとって、いきなり四月一日から喫煙所が一斉に廃止されちゃっても、はいそうですかと対応できるものではありません。タバコは一種の依存症であり中毒のようなものですから、個人の意思の力で何とかしようと思っても限界があります。

本音を言えば、私は2020年の今になってもまだタバコを吸い続けることの愚かさというか教養のなさに呆れますけど(ごめんなさい)、とはいえ人間はそんなに完璧な存在じゃありません。私だってタバコは吸わないもののいろいろと悪癖はありますから、やめることを習慣化するのが難しいのは承知しています。ましてやタバコは身体的・精神的に依存を引き起こしやすく、やめるためには一種の「治療」が必要なほどの物質ですから、個人の努力だけで事がそううまく運ぶものではありません。

こういうことこそ、国が率先して対策に取り組むべきだと思います。もちろんかつてに比べれば国は数々の対策を打ち、タバコを巡る状況は私から言わせれば夢のように改善しました。なにせ、私が若い頃は、就活をする際に「オフィスが禁煙かどうか」を最重要ポイントとして確かめなければならなかったくらい、屋内での喫煙が野放しだったのですから。公共交通機関だって、ほとんど吸い放題だった時代がつい数十年前まであったんですよ。あの時代から比べれば、それはもう格段に進歩しています。

ここからはさらに、個々人の依存症に対するケアとしての施策が必要だと思います。依存症を治療するための補助や啓蒙教育、広告のさらなる規制など、まだまだできることはたくさんあります。またタバコ農家の作物転換なども。私はそうした施策に自分の納めた税金が活用されるの、賛成です。それは回り回って社会全体の利益につながっていくと思うからです。これからは喫煙者をこそ応援しなきゃいけない。

脱タバコの趨勢は今後も続くでしょうし、私たちが他人のタバコの煙に悩まされなくなる度合いは今後も強まっていく、つまりよい方向に向かっていくと楽観していますが、地域や施設における受動喫煙防止というベースができたいま、今度は個々人のケアに力を入れていくべきだと思います。

フィンランド語 68 …日文芬訳の練習・その5

「作文をしていると、書き手の気持ちになって考えることができるようになり、書き手の気持ちが分かると読むときにも書き手の気持ちを考えられるようになる」とフィンランド教室の先生がおっしゃっていました。なるほど、読解をただ受け身でやっているだけでなく、「自分だったらどう書くだろうか」と思いながら読解をすることが文章の理解を深めることにもつながる、ということでしょうか。

今週も作文をしましたが、けっこう直されました。今回特に痛い失敗は「主格以外が主語の時、動詞は三人称単数になる」という原則を忘れていたことです。“Minulla on 〜(私は〜を持っている)”のような所有文もそうですし、“Minun täytyy 〜(私は〜しなければならない)”のような熟語的構文もそうですけど、“minä(私)”という主語が“minulla(「私」の所格)”や“minun(「私」の属格)”が主語になっているので、動詞は“on”や“täytyy”のように三人称単数になるんですね。

今回の作文では“on +形容詞+動詞の原形”で「〜することは〜だ」になるという構文を使ったのですが、この原則を忘れていました。“Substantiiveja ja verbejä *ovat suhteellisen helppo muistaa(名詞や動詞を覚えるのは容易だ)”と書いたのですが、“substantiiveja“や“verbejä”は複数分格ですから、olla動詞は三人称単数の“on”にすべきところなのに、複数だからというので三人称複数の“ovat”にしてしまったのです。

また名詞の格が動けば、それを修飾している形容詞の格も動くというのも、注意はしていながらもうっかり見落としたりします。まあ何度も試行錯誤しながら、なじんでいくしかないですね。

毎朝通勤電車の中で単語を覚えています。スマートフォンのアプリを使って繰り返し記憶します。名詞や動詞は比較的簡単に覚えられますが、形容詞や副詞、特に抽象的な言葉がなかなか覚えられません。それに、とてもよく似ているのに違った意味の言葉も多いです。たとえば“kauha”と“kauhu”、 “nuoli”と“nuori”、 “tyhmä”と“tyhjä”など。でも日本語だって「学生」・「覚醒」・「革命」など、よく似ているのにまったく違った言葉は数多くあります。これからも覚えていこうと思います。


Minä opettelen suomen kielen sanoja aamuisin junassa, jolla menen töihin. Käytän älypuhelimen sovellusta, sitten opin monta kertaa. Substantiiveja ja verbejä on suhteellisen helppo muistaa, mutta adjektiivien ja adverbien muistaminen ei ole niin helppoa, varsinkin abstraktisten sanojen muistaminen. Lisäksi muutamien sanojen ääntämisiä ovat melkein samanlaista, mutta niiden merkitykset ovat hyvin erilaisia, esimerkiksi “kauha” ja “kauhu”, “nuoli” ja “nuori”, “tyhmä” ja “tyhjä” ym. Vaikka luulen, että japanin kielessä on myös paljon samannäköisiä sanoja, kuten “gaku-sei(opiskelija)”, “kaku-sei(herätys)”, “kaku-mei(vallankumous)” ym. Olen päättänyt muistaa niitä edelleenkin.


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『生きる技法』とお金の使い方

安冨歩氏の『生きる技法』を読みました。200ページ弱の薄い本ですが、とても感銘を受けました。この本はまず冒頭で「自立とは依存することだ」という命題を掲げています。そして、依存する相手が増えるほど人はより自立し、減るほど人はより従属するというのです。私たちはふだん人に依存しないことが自立だと考えていますから、これは驚くべき命題です。

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生きる技法

昨年でしたか、金融庁の審議会が公表した報告書に端を発した「老後資金2000万円問題」が話題になりました。老いて人に依存しないためにはそれだけの資金が必要になるから、いまから「高齢社会における資産形成」を考えておかなければならないと。政府がそう言い出すまでもなく、私たちは歳を取ったら次第に頼れるところが少なくなる、そのために貯金しなければ、家を買わなければ、保険に入っておかなければ、要介護状態になったら、身体がいうことをきかなくなったら……と常に他人に依存しないことを最善とするマインドの中で生きています。今度の新しい首相も初手から「自助」を打ち出していましたよね。

けれど安冨氏はそれと真逆のマインドを提唱するのです。この本には「自立とは依存することだ」という大命題に沿って「友だちについて」「愛について」「自由について」など様々な命題が示されますが、例えばいま挙げたお金の問題に関しては「貨幣について」という章でこう言っています。

お金を貯めるよりも、依存できる人間関係を構築した方が確実であり、お金を使うなら、頼れる人を増やすために使うのが、賢明な方法だ、ということは間違いないでしょう。(中略)お金を使うなら、それは、人との結びつきを強めるために使うべきなのです。

そして大いに間違った命題として「自立するとは、他人に依存しないことであり、他人に依存しないためには、お金を手に入れればよい」を提示します。う〜ん、これはこれまでの価値観を大いに揺さぶられる考え方です。でも私はこれになぜか素直に同意できるのです。私もかねてから心のどこかで世の中は金「ではない」と思い、「金は天下の回りもの」だと信じてきたからです。貯め込むのではなく、使ってこそお金は生きるんじゃないかとも。

この件に関して、安冨氏が清水有高氏のYouTubeチャンネル「一月万冊」に出演された際、清水氏がこう語っていました。

お金の使い方。これをですね、友だちを作る、こっちの方向で、人間関係を作るためにお金を使っているのか、それとも人間関係が恐いから、逃げるために金で解決してるのかで、人生だいぶ変わります、これは。で、これはね、人間関係を切る方向、感じなくする方向で金を使ったり金を稼いだりしていると、まあ何だろう、不安になりませんかと。友だち一人もいなくて……
https://youtu.be/zI4uGUAE9Ag

他人に依存しないためにお金を貯めたり使ったりするのは間違っているということですね。私など、極端に友だちの少ない人間で、職場で気の合う同僚はたくさんいますが、仕事を離れたところで結びついていて頼れる、あるいは依存できる人などほとんどいないので、これはまことに痛い指摘です。

妻は私と真逆で、いろいろな人とすぐに仲良くなれるし、仕事を離れたところでの友人もたくさんいます。本人は「食べ物の好き嫌いはないけど、人の好き嫌いは激しい」と言っていますが、それでも確実に友だちのネットワークを広げている。すごいことだなといつも思います。中高年のこの歳になってまだこういうことを考え、悩んでいるのも情けないことですが、あらためて「金は天下の回りもの」をキーワードに、お金の使い方を考えてみようと思っています。

外語学習における「いじましさ」

PV数(ページビュー数)という言葉がありまして、ウェブサイトのあるページが、どれだけブラウザで開かれたか(読み込まれたか)を示す数です。私のこのブログはふだん300PV/日くらいで微々たるものなんですけど、昨日はそれが突然10倍くらいになっていました。こういうことはひと月かふた月にいっぺんくらい起こります。たいがいはTwitterFacebookなどのSNSで、影響力のあるどなたか(インフルエンサーですか)が記事を取り上げてくださったときです。

昨日は1年くらい前に書いた、語学における「威張り系」と「昔取った杵柄系」の話を読んでくださった方が多かったようです。それもリツイートのコメントなどを見ると、ほとんどの方が「いるいる、そういう中高年男性!」という点で意見がほぼ一致しているようでした。ほかならぬその中高年男性である私としては、とても考えさせられるところです。そうか、やっぱり語学界隈では、そういう周囲との不適合を引き起こしている中高年男性がことのほか多いのか……と。

qianchong.hatenablog.com

これはやはり、ほぼモノリンガル社会である日本ならではの現象なのでしょうか。例えばアメリカだって「マンスプレイニング(mansplaining)」という言葉があるくらいですから、彼の地にも偉そうに上から目線でマウンティングをしたがる男性は多いのでしょう。でも、語学界隈においてはそんなに多くないんじゃないかと想像します。だってマルチリンガルが当たり前の社会では、母語以外に外語が話せるからって「それが何なの?」って感じじゃないですか。それにまあ英語がほぼ「リンガ・フランカ」となっている現状からすれば、アメリカの語学界隈は日本のそれとはかなり違っているのではないかと。

幸か不幸か、日本はこれだけの巨大な人口(世界でも十指に入ります)がほぼ一つの言語で暮らすことのできる珍しい国。モノリンガル社会と称するゆえんです。また母語話者が一億人を超える言語も世界には十ほどしかなく、日本語はそのひとつです。日本語はマイナーな言語どころか、世界屈指の巨大言語なんですね。ただし同規模のドイツ語やフランス語と比べて日本語が特異なのは、その巨大言語がほぼこの日本列島だけにぎゅっと圧縮されて使用されているという点です。

その日本語モノリンガルの環境こそが、この国独特の社会と文化を創り出すことに貢献してきたわけですが、反面私たちは、外語に対するいじましいまでのコンプレックスを育み続けてきており、たまさか外語が使えるようになると「なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚」を持ちやすいのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2017/12/blog-post_307.html

余談ですが、私はいま趣味でフィンランド語の教室に通っています(最近はオンライン授業)。そこでも私は、自分が「威張り系」になっていないかどうかとても気になります。威張れるほどフィンランド語が使えませんから大丈夫だとは思いますが、例えば数名でグループワークをするときなど、ついついその場を仕切っちゃってるんじゃないかとか、変な気を遣うのです。私は語学はインプット・アウトプットともに大いにやるべきという考えですけど、総じて日本の学生さんは控えめというか、あまり自分から発言しようとする方が少ない。そんな中で私は「じゃあ」とばかりに積極的に発言したり、作文を提出したりしています。

これはもちろん、自分が教師の立場になっているとき、生徒さんからあまりに反応がないのに心折れそうな毎日を過ごしているので、学生の立場になったときは積極的に行こうと思っているから。ロールプレイも作文も、別に本当のことをアウトプットしなくてもいい、ちょっとした「芝居っ気」をもって積極的に……と思って、教師の立場では学生にそう言うし、学生の立場では自らそうしようとしているのです。が、これもまわりの生徒さんからすれば「威張り系の中高年男性」にカテゴライズされてしまうのかもしれないなと思うことがあります。

考えすぎだとは思いますが、こういうある種の機微が私にはよく分からなくて、ときに気疲れするんですよね。語学に興味はあるものの、語学教室のあの雰囲気は苦手という方が存外多いんですけど、それはこんなところにも原因があるのかもしれません。日本人(日本語母語話者)がこうした語学コンプレックスから解放されないかぎり、語学をただ楽しく学び続けるというのはけっこう難しいのかしら。それとも私などとは違ってお若い方々は、そういういじましさとは無縁なところで素直に楽しく学んでらっしゃるのかしら。